三州奇談卷之二 八幡の金火
八幡の金火
小松より金澤迄山越(やまごえ)の道は、中古の本道(ほんだう)にして、今も「上使海道」と唱ふ。小松を一里隔てゝ、八幡(やはた)と云所あり。社は林中にあり。爰も能き竹を出す地なり。「金火(こがねび)の松」とて、道のべに古松獨立せり。數里の遠きよりよく見ゆ。形車蓋(しやがい)のごとし。木の本に立(たち)よれば、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]許(ばかり)松の中うつろにして、暗ふして知り難し。夜每に是より燐火出づ。土俗「金火」といふ。小松の町中までも來(きた)る。或人「蜘(くも)の火」なりと云ふ。實(げ)にも火に餘焰なく、只火繩の火の如し。下上一二丈ばかりの間を飛行(ひぎやう)す。
[やぶちゃん注:「八幡」小松市八幡(グーグル・マップ・データ)。
「上使海道」旧北陸道の別名。ここで「山越の道」と言い、八幡を出すということは、旧北陸道は、かなり山側を走っていたことが判る。
「社」八幡神社ととっておく。
「金火(こがねび)の松」「近世奇談全集」の読みに従った。]
又「三谷(さんだん)の火」と云ふあり。是は燐火の大いなうものにて、近づき見れば人形(ひとがた)の者三人、太鼓の如き物一つを中に取籠(とりこ)むる躰(てい)なりと云ふ。都(すべ)て此邊(このあたり)は小松の先主村上周防守迄のときは、此所斬罪場(ざんざいば)にてありけるとかや。「人の血地に入りて鬼燐(きりん)と成る」といへば、如ㇾ此(かくのごとく)の故にや。
[やぶちゃん注:「三谷の火」【2020年2月11日:改稿】読みはT氏の示された「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第二十五章 苗代村」(旧地図から「のしろむら」と読む)のルビ及び明治四二(一九〇九)年測量の小松地区の地図に拠った。現在、小松市三谷町(さんだにまち)は木場潟の北東岸にあるが、位置がやや南に離れはする。一つ気になることもある。「太鼓の如き物」の部分が「近世奇談全集」では『太郎鼓(たらうつゞみ)』となっていることではある。以下の下りの「太郎丸」という村名とするのがちょっと気になるのである。
「村上周防守」既出既注であるが、再掲しておく。後の越後村上藩初代藩主村上頼勝(?~慶長九(一六〇四)年:別名・義明)。天正一一(一五八三)年に「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に助勢した主君丹羽長秀が、戦後、越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与えられた。これに伴い、能美郡の小松城に家臣であった彼が入って城主となっている。]
是より小松迄の間に太郞丸・二郞丸と云ふ邑(むら)あり。共に野社(のやしろ)あり。何を祭ることを知らず。人は云ふ、
「古へ一忠臣ありて、二人の公達(きんだち)を供奉(ぐぶ)して此所(このところ)へ落ちけるが、敵の爲にたばかられて、二公子此間に命を落す。家臣大(おほい)に怒りて、此道のべの松の本に自殺す。心火燃えて松を燒く。是(これ)金火の松なり」
と云ふ。然共(しかれども)太郞丸・二郞丸の事跡、何れの國主の公達なることを知らず。猶古老の人に尋ねて重(かさね)て記すべし。
[やぶちゃん注:「太郞丸・二郞丸と云ふ邑あり。共に野社あり」小松市沖町にある沖太郎丸(おきたろうまる)神社である。この神社の「石川県神社庁」の解説に(地図あり。小松市街に近く、八幡の西方二・五キロメートル)、『太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後』、『厳之御魂社と称したが』、『更に今の社名に改称。昭和』四四(一九六九)年に、『沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築』とある。前の「三谷」という地名が私は怪しい気がするのである。何故なら、八幡のことを語って、その間にずっと南に離れた「三谷」の話を挟んで、これまた、この付近に戻って語るというのが、私には聊か不自然に感じられるからである。また、地図を眺めていたら、この沖太郎丸神社の南東直近に現在、三田町という発音の近い町名を見出せた。或いは前段の部分は続いていているものではないのかとも思われてくるのである。【2020年2月11日:削除・追記】T氏よりメールがあり、江戸時代に三田村は存在しないとのことで(こちらに拠る)、また、「三谷」は旧苗代村内(小松南部に及ぶ)にあったから、必ずしも地理的に離れているとは言えなかったことも判明したので上記は線で削除した。]
« 三州奇談卷之二 吉松催ㇾ雨 | トップページ | 石川啄木日記のスケッチに「こゝろ」の「先生」と「K」の下宿がある!! »