三州奇談卷之二 松任の姦女
松任の姦女
加州松任は中昔蕪木(かぶらぎ)衞門太夫の城下、近くは前田孫四郞殿の在城なりしが、今は城跡は田畑と變ずれども、町のみ金城に隣(となりす)れば、往來に增して賑ひける。
[やぶちゃん注:標題は「姦女」で「女が犯されること・事件」の意であるが、その惡因縁の真相が後で明かされる形をとっている。
「松任」現在は白山市内となった旧松任(まっとう)市。この付近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「蕪木衞門太夫」鏑木永政。「石川県石川郡誌」(昭和二(一九二七)年刊)の「第十四章 松任町」の「名蹟」の「松任城址」(松任駅の直近に松任城址公園内に城跡があるが、城跡としては殆んど原型を留めていないようである)によれば、別に「蕪城址」(「かぶらぎじょうし」と読んでおく)と称するとあり(国立国会図書館デジタルコレクション)、次のページに『天文四年鏑木右衛門太夫永政、その子右衛門尉賴信、其の子勘解由等來り代つて是れを領す』とある。嶋田良三氏のサイト「ののいち地域事典」の「富樫のふるさと」にも、天文四(一五四〇)年に『鏑木永政(かぶらきえいせい[やぶちゃん注:清音表記となっている。])の子頼信が代ってこの地を治めるようにな』ったとある。
「前田孫四郞」藩祖利家嫡男で加賀藩初代藩主となった前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)の通称。
「金城」金沢。]
其地に素園と云ふ尼、萬法一心と云ふ事を、
百生や蔓一すじの心より 千 代 尼
と聞へぬ。德はかならず隣あり。此地尙雅婦人(がふじん)多しと聞けど、之を略す。
[やぶちゃん注:「素園」「千代尼」加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)。この松任の表具屋の娘として生まれた。十一、二歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号は半睡で後に大睡と変えた。「水嶋の水獸」で既注)から俳諧を学んだ。十七の時、北陸巡遊中の各務支考に見い出され、一躍、中央の俳壇にも知られるようになった。さらに享保一二(一七二七)年には支考の門人仙石廬元坊の来訪をうけて「松任短歌行」をものしている享年七十三歳。千代女・千代尼は通称で、素園は号。
「百生や蔓一すじの心より」「すじ」はママ。「百生(ひやくなり)や蔓(つる)一(ひと)すぢの心(こころ)より」。本浄高治氏のブログ「歴史散歩とサイエンスの話題」のこちらによれば(自筆句の屏風写真あり)、この句は『天台宗の観法の一つ』で、『一念の心に三千の諸法を具す』という心を『詠み込』んだもので、彼女が二十五歳の頃、『永平寺へ参拝したとき、禅師からの「三界唯心」句作の頼み』と学んだこと『による』句とされ、『千代女が最も好きな作品と言われてい』るとある。「百生」と『いうのは、ひょうたんが一本のつるに、大小さまざまな実を付けること』で、所謂『千成瓢箪』のこと。『千代女は、百生といわれる、数多くのひょうたん一つ一つを見れば、大きさ、形はさまざまである。そのことから、つる一すじの心から、鬼も生まれ、仏も生まれる。心が何よりも大切である、と詠み込んでいる』とある。屏風の句には「三界唯心」の『前書』があり(画像が小さく読めない)、これは『欲界、色界、無色界の三界に存在するものは全て心によって認識されるもので、心を離れては何も存在しない、という』意であるとされるから、ここの「萬法一心」も同義である。また、『署名の号(ごう)が千代尼となっているのは』、宝暦四(一七五四)年に五十二歳で『剃髪して尼になっていた』ことにより、『その時から、素園(そえん)とも名乗っ』たとある。]
寶曆十二年の春、ふしぎなる姦惡の事あり。松任にては人も敬ひ町役をも勤る人、何某やとやらん、油をしめ種を商ふありし。
[やぶちゃん注:「寶曆十二年」一七六二年。
「油をしめ種を商ふ」「油を絞め、種を商ふ」で菜種等の油を搾って売ったり、その種を売る商売をするの謂いか?]
其家の内儀、娘二人、下女一人、下男一人を具して、人の招(まねき)によりて、金城の城下へ行れける。纔(わづ)か三里の道ながら、女出立(いでたち)の何くれと夜をこめては拵へながら、漸(やうや)く晝少し前ならんに步行(ありき)よりぞ出られける。道にて、馬方ども五六人立並び咄しけるに行逢ふは、皆近き邊りの者、此家へ出入する者、又は其家よりも出たる者も有し程に、何かと打物語りせしうちに、一人の馬士(まご)下女と戲れけるを、内儀・娘ことなう打腹立(うちはらだち)て、はづかしめ叱られけるを、却つて互に詞(ことば)論(ろん)のやうになり行きし[やぶちゃん注:激しい言い争いとなってしまった。]。元來馬士共其日は夥しく酒を吞み、醉居たりし故にや、心太くいかめしく詈(ののし)り合ひしが、
「さらば斯せんにいかゞしつべき」
とて、下女を打かづきてかたへの山道へ走り行く。
人々あはてとゞめんとするを、馬士六人して内儀・娘二人共に引かゝへ引かゝへ、山道の方へ走り込む。
一僕の怒りけるをとらへて、田の中へ見へぬ許りに押こみ、彼の四人の女抱きたはふれ、山の傍(かたはら)にて白晝に姦婬する狼籍、古今に聞えず。
下女は漸く振切りて逃げのがれたりしとかや。
内儀・娘はいかなる惡緣にや、終に巫山雲雨(ふざんうんう)の情懷を遂げ、鬼と一車に乘れる心地なりし。
[やぶちゃん注:「巫山雲雨」本来は「男女が夢の中で結ばれること・「男女が情を交わすこと」で宋玉の「高唐賦」にある楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事による成句。しかしここは強姦されたことを指す。]
其内に一僕起いでけれども、一人の力さゝへ難ければ、大にさけびて松任へ走り觸れ呼はりけるにぞ、此家の親類など走り來たりけれども、此間路遠ければ、馬士共心足りぬと、いづくともなく逃れける。
其跡へ大勢寄來りて、土まぶれなる内儀・娘など起し、漸く駕籠にのせて、人目防ぎて歸られぬ。
往還といひ、白晝といひ、隱すべきにあらざれば、金澤の奉行所へ訴へけるに、馬士共皆見知りたる上なれば、遁(のが)るべきやうなく、六人共召捕(めしとら)れ、「溢(あぶ)れ者晝强盜」と名付けて禁牢仰付られぬ。
扨も松任の商家の内儀も娘も死なざりしを悔めども、今更詮方なし。近隣一族より見舞悔みの挨拶も詞なきものなりし。近隣皆
「笑止笑止」
と歎きしに、其筋向ひなる家の老翁一人、曾て悔みも云はず。人來り尋れば、
「因緣なり。遁(のが)るべからず」
とのみ云し。其故を尋ぬれども云はず。
今年は寶曆十三年もはや事納り、浮名も例の七十五日に流れて、娘共も夫々(それぞれ)緣付たれば、彼(かの)老翁に
「折を得て咄し給へ」
と云に、老翁曰く、
「我はあの家へは古へより通ひて、悉く其事を知れり。今の内儀は家の娘にして、亭主は外より貰ひたる聟なり。此娘二三歲の頃より、其家の乳母なる者娘を抱きて小便をやるに、必ず馬屋の中、馬草の上ヘさせける。戲れに云けるは、
『馬よ、よくねぶるべし。此御子の小便ぞや、頓(やが)て嫁にやるぞ』
と云ひし。口癖よからざることに思ひしも、何事なくて年を經けるに、度々の事故(ことゆゑ)、我(われ)だに耳に障りて、折々馬の躰(てい)を見るに、頭(かしら)をうなだれ、目をすゑて、先(まづ)小便の懸りし草より喰ひける。
『昔桑蠶(くはご)のはじまりし故事も聞置(ききお)しものを』
と、折折は心を付けて叱りける。
[やぶちゃん注:「桑蠶(くはご)のはじまりし故事」中国でも日本でも馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとされる蚕馬(さんば)伝説がある。蚕(カイコガの幼虫)は四度脱皮するが、頭部の形状(とくに後期齢)と斑紋が実際にシミュラクラで馬に似て見える。私の「柳田國男 うつぼ舟の話 三」の私の注で日中の伝承(多くは中国伝来とするが、私は一種の平行神話であると考えている)をみっちりと解説しているので参照されたい。]
然共(しかれども)何の障りもなく、彼娘も内儀となり、又娘を二人姊妹設けられし。其詞は猶殘りて、今の乳母迄も云ひける。
此馬、年老(としおい)て此馬屋のうちに死にける。
其夜、今の狼籍せし馬士は、其頃未だ前髮[やぶちゃん注:元服前。町方でも概ね数え十五で元服した。]にて、此家に遣はれ居けるが、其夜は臺所に休み居しが、一聲
『あつ』
と云けるに、人々驚き搖起(ゆりおこ)すに、
『何も覺えず』
と云ふ。
『夢にても見たるならん』
など云ひしに、其あけの日、馬屋を見れば、彼老馬は落ちて[やぶちゃん注:倒れて。]死ゐける。
我れ是を聞しより、密(ひそか)に心に記す。
然るに此馬士の姦惡をなせし。其上に委(くはし)く心を付けて聞くに、内儀・娘共に引抱きて行くさま、甚だ怪し。此道は末に幅一丈許の用水をとる川あり。是を越ゆるとて、襟もとを脇に挾みて一足に躍り越えける。今思ひ合(あは)すに、只馬の所行の如し。
[やぶちゃん注:「甚だ怪し」国書刊行会本では『其』(それ)『はやし』とある。この方が後との繋がりからだと甚だ腑に落ちる。
「襟もとを脇に挾みて一足に躍り越えける」ここも国書刊行会本では
『襟もとを口にくはへ脇にはさみて一足におどり越(こへ)ける』
(「おどり」「こへ」の仮名遣はママ)とあり、やはりこちらの方が馬の仕草に似て見えて、らしい。]
其後に若き者共、
『馬士が人を抱きてさへ飛し川なり』
とて、飛んでみんと走り懸れども、一丈許も深き切岸なれば飛ぶ人なし。此馬追共は、日頃足筋こわく、中々飛得る者にあらず。
[やぶちゃん注:「こわく」「強健ではあるが、筋が固く、柔軟でないので」の謂いととっておく。]
扨は彌々(いよいよ)物の付きてかく不道の心は發(おこ)りし或るべし。是に付けても善業(ぜんげふ)を得る人も、まゝ聞けること多し。目のあたり惡因にちなみて、鬼畜の業を得る人もまゝ聞ける事多し。
[やぶちゃん注:「善業」反対に、よい因果によって幸運を授かること。]
「隔ㇾ生則忘(せいをへだつればすなはちわすれず)」とは云ひながら、又一念五百生(しやう)、誓念(せいねん)無量劫(むりやうこう)なれば、只々忘れまじきは、後世(ごぜ)の一大事のみ」
と咳(しはぶ)きがちにぞ聞えける。
[やぶちゃん注:「隔ㇾ生則忘」音で「キヤクシヤウソクマウ(キャクショウソクモウ)」。人がこの世に生まれ変わる際に前世のことはその一切を忘れ去るということ。
「一念五百生、誓念無量劫」一瞬、心か正法を念ずれば、それは五百年に相当し、ゆるぎない誓約に基づく正念とならば、それは無限に力を持ち続けるの意であろう。]
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