石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二
[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「忘れがたき人人 一」はこちら。
學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パート全二十二首は総て恋歌で、『いずれも啄木が教鞭をとった函館区立弥生尋常小学校の同僚の女教師橘智恵子(戸籍チエ)を詠めるものである』井上伸興氏の「啄木と三人の女性」に三回に分けて橘智恵子についての記載がある。井上氏の記載その他によれば、彼女は札幌郊外の農園主の娘として明治二二(一八八九)年に生まれ(啄木より三歳年下)で、明治三九(一九〇六)年三月二十七日に北海道庁立札幌高等女学校補修科を修了、同日附で弥生尋常小学校の訓導となった。啄木は翌明治四十年六月十一日に同校の代用教員となった。後の明治四三(一九一〇)年、智恵子は牧場主北村謹(きん)と結婚したが(このデータはサイト「asahi.com」の「愛の旅人」の「石川啄木と橘智恵子」に拠った)、大正一一(一九二二)年十一月、産褥熱で三十四歳の若さで死去したとある。井上氏は『啄木が智恵子に会って直接話したのは二度しかない。一度目は、彼が函館の大火で札幌に移転することを決めて、大竹校長に退職願を提出するため、同家を訪問した際、偶然その席に智恵子もいたのである』とされる一方で、彼女との関係は『啄木の片恋などとは断定できないのであって、この二人は相思相愛であったと見るのが正しい判断であると私は考えている』と述べておられる。同ページでは他に先に出た「芸者小奴」(三回分割)と妻「石川節子」(全二十六回)も載る。]
二
いつなりけむ
夢(ゆめ)にふと聽(き)きてうれしかりし
その聲(こゑ)もあはれ長(なが)く聽(き)かざり
いつなりけむ
夢にふと聽きてうれしかりし
その聲もあはれ長く聽かざり
頰(ほ)の寒(さむ)き
流離(りうりの旅(たび)の人(ひと)として
路問(みちと)ふほどのこと言(い)ひしのみ
頰の寒き
流離の旅の人として
路問ふほどのこと言ひしのみ
さりげなく言(い)ひし言葉(ことば)は
さりげなく君(きみ)も聽(き)きつらむ
それだけのこと
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聽きつらむ
それだけのこと
ひややかに淸(きよ)き大理石(なめいし)に
春(はる)の日(ひ)の靜(しづ)かに照(て)るは
かかる思(おも)ひならむ
ひややかに淸き大理石に
春の日の靜かに照るは
かかる思ひならむ
世(よ)の中(なか)の明(あか)るさのみを吸(す)ふごとき
黑(くろ)き瞳(ひとみ)の
今(いま)も目(め)にあり
世の中の明るさのみを吸ふごとき
黑き瞳の
今も目にあり
かの時(とき)に言(い)ひそびれたる
大切(たいせつ)の言葉(ことば)は今(いま)も
胸(むね)にのこれど
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
眞白(ましろ)なるランプの笠(かさ)の
瑕(きず)のごと
流(りうり)離の記憶(きおく)消(け)しがたきかな
眞白なるランプの笠の
瑕のごと
流離の記憶消しがたきかな
[やぶちゃん注:これは単独で読めば、啄木の「流離」の孤独な境涯を詠んだだけに見えるが、岩城氏は前掲書で、『北海道流浪時代の忘れ得ぬ女性』(無論、橘智恵子を指す)『の思い出を、「眞白なるランプの笠の瑕のごと」とたとえている』と評釈されておられる。]
凾館(はこだて)のかの燒跡(やけあと)を去(さ)りし夜(よ)の
こころ殘(のこ)りを
今(いま)も殘(のこ)しつ
凾館のかの燒跡を去りし夜の
こころ殘りを
今も殘しつ
[やぶちゃん注:この函館大火は明治四〇(一九〇七)年八月二十五日のもの。「函館市」公式サイトの「函館の大火史(説明)」によれば、午後十時二十分頃、東川(ひがしかわ)町にあった石鹸製造所から出火(洋燈の転落によるという説がある)し、『非常に強い東風と飛火により』、『各所に延焼したため,消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して』二十町に及ぶその『一部を焼失し』、翌二十六日午前九時二十五分に『ようやく鎮火した』とあり、被害は罹災面積四十万坪・焼失戸数一万二千三百九十戸・死者八名・負傷者一千『名に達した』とある。岩城氏の前掲書によれば、この時、『啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校も、また遊軍記者となって入社したばかりの函館日日新聞社も焼失、結局』、『代用教員であった彼は九月十一日』に同校『校長に辞表を提出し、家族を残したまま九月十三日の夜』、『函館を去ったのである。「こころ残り」は橘智恵子に対する未練。九月十二日の日記に「橘女史を訪ふて相語る二時間余。我が心は今いと静かにして、然も云ひ難き楽しみを覚ゆ」とある』とある。]
人(ひと)がいふ
鬢(びん)のほつれのめでたさを
物書(ものか)く時(とき)の君(きみ)に見(み)たりし
人がいふ
鬢のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲(はなさ)く頃(ころ)と
なれりけり
君(きみ)もこの花(はな)を好(す)きたまふらむ
馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
[やぶちゃん注:ジャガイモの開花期は啄木の代用教員採用時期と合致する。]
山(やま)の子(こ)の
山(やま)を思(おも)ふがごとくにも
かなしき時(とき)は君(きみ)を思(おも)へり
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
忘(わす)れをれば
ひよつとした事(こと)が思(おも)ひ出(で)の種(たね)にまたなる
忘(わす)れかねつも
忘れをれば
ひよつとした事が思ひ出の種にまたなる
忘れかねつも
病(や)むと聞(き)き
癒(い)えしと聞(き)きて
四百里(しひやくり)のこなたに我(われ)はうつつなかりし
病むと聞き
癒えしと聞きて
四百里のこなたに我はうつつなかりし
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『橘智恵子は、明治四十二年の春、急性肋膜炎のため二か月ほど入院、そのため』当時の『勤務先の札幌女子高等学校小学校を明治四十二年二月十五日付で退職している』(啄木はこの当時は既に東京にあった)。『啄木は二月二十日』、『智恵子の母より彼女が急性肋膜炎で入院した旨』の『通知を受け、二十二日付で長文の見舞いを出している。また智恵子より三月二十六日に退院したという葉書を四月七日に受け取っている』とある。井上伸興氏の「啄木と三人の女性」の「橘智恵子 ⑵」も参照されたい。]
君(きみ)に似(に)し姿(すがた)を街(まち)に見(み)る時(とき)の
こころ躍(をど)りを
あはれと思(おも)へ
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
[やぶちゃん注:後の芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「徴候」の二条目、
*
又戀愛の徴候の一つは彼女に似た顏を發見することに極度に鋭敏になることである。
*
を想起させる。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 徴候(二章)』を参照されたい。]
かの聲(こゑ)を最一度(もいちど)聽(き)かば
すつきりと
胸(むね)や霽(は)れむと今朝(けさ)も思(おも)へる
かの聲を最一度聽かば
すつきりと
胸や霽れむと今朝も思へる
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書の評釈に、明治四二(一九〇九)年『四月九日のローマ字日記にも、「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時、一度は谷地頭の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で――そうだ、予が『あこがれ』を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。/ああ! 別れてからもう二十ヵ月になる!」とある』とある。]
いそがしき生活(くらし)のなかの
時折(ときをり)のこの物(もの)おもひ
誰(たれ)のためぞも
いそがしき生活のなかの
時折のこの物おもひ
誰のためぞも
しみじみと
物(もの)うち語(かた)る友(とも)もあれ
君(きみ)のことなど語(かた)り出(い)でなむ
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月十七日附『東京毎日新聞』で、『「君のことなど」五首中の一首。この歌がうたわれた五月、橘智恵子は良縁を得て北海道岩見沢市郊外の空知(そらち)郡北村第二区の北村牧場に嫁いだ。新郎は兄橘儀七の友人で北村謹という若き牧場主であった』とある。]
死(し)ぬまでに一度(いちど)會(あ)はむと
言(い)ひやらば
君(きみ)もかすかにうなづくらむか
死ぬまでに一度會はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『この一首の解答として明治四十二年四月二十四日の啄木のローマ字日記にある智恵子の手紙が参考になろう。それには「札幌の橘智恵子さんから……『函館にてお目にかかりしは僅かの間に候いしがお忘れもなくお手紙……お嬉しく』――と書いてある。『この頃は外を散歩する位に相成り候』と書いてある。『昔偲ばれ候』と書いてある。そして『お暇あらば葉書なりとも――』と書いてある。」とある』とある。]
時(とき)として
君(きみ)を思(おも)へば
安(やす)かりし心(こころ)にはかに騷(さわ)ぐかなしさ
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騷ぐかなしさ
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『四十二年四月九日のローマ字日記にも「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」と書いている』とある。]
わかれ來(き)て年(とし)を重(かさ)ねて
年(とし)ごとに戀(こひ)しくなれる
君(きみ)にしあるかな
わかれ來て年を重ねて
年ごとに戀しくなれる
君にしあるかな
石狩(いしかり)の都(みやこ)の外(そと)の
君(きみ)が家(いへ)
林檎(りんご)の花(はな)の散(ち)りてやあらむ
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は『文章世界』明治四三(一九一〇)年十一月号とあり、以下、『橘智恵子の実家は北海道札幌郡札幌村十四番地にあった。父橘仁は越中富山の射水郡長慶寺村の庄屋の次男で、津田梅子の父仙の経営する学農社の出身』で、『明治十六』(一八八三)年に『北海道に渡り』、『札幌村で林檎園を営んでいた。母のイツは尾州刈谷藩の家老矢野貞胤の三女で東京府師範学校の出身、渡道後も札幌師範学校付属小学校等に教鞭をとった。父の仁は果樹園芸に生涯をかけ、明治三十八年十一月北海道果樹協会主催の大規模な果実品評会で、彼が出品した林檎「柳玉」が最高賞をとった』とある。なお、ここのみ、岩城氏の「鑑賞」の総てを引用させて戴いた。]
長(なが)き文(ふみ)
三年(みとせ)のうちに三度(みたび)來(き)ぬ
我(われ)の書(か)きしは四度(よたび)にかあらむ
長き文
三年のうちに三度來ぬ
我の書きしは四度にかあらむ
[やぶちゃん注:本歌を以って「忘れがたき人人 二」は終わり、「忘れがたき人人」も終わっている。岩城氏は前掲書で、本「忘れがたき人人 二」について、『これらの作品が作られた期間』、『啄木と智恵子の音信はとぎれ、彼女の結婚さえ知らなかった。したがってこれらの作品は』、『実在の智恵子の動静とは無縁に成立していることがわかる。そこに清新な抒情が形成され、ひたすら思慕の情を抒情する美しい二十二首の作品群が生まれたのである』と記しておられる。]
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