三州奇談卷之二 禪定石の辨
禪定石の辨
右に云ふ古寺、爰のみにもあらず。此末(このすゑ)吉野と云所は、古への蕭寺(せうじ)も多く廢頽して、其跡纔(わづか)に殘れり。土俗「九十九谷」と云ひ、雲龍山と云ふ是なり。古老の發句にも、「加賀の吉野には」とあり。櫻の名所なり。
[やぶちゃん注:「右にいふ古寺」前条の「吉松催ㇾ雨」の古寺群或いは廃寺となって地名に「~寺」という名が残った場所の謂い。
「吉野」石川県白山市吉野附近を含む広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。前条の地域の山を越えた手取川沿いにあり、中宮温泉や手取峡谷で知られる。ここは旧吉野村を含み、「石川県石川郡誌」(石川県石川郡自治協会著・昭和二(一九五七)年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「題三十九章 吉野村」の「名蹟」の冒頭の「吉野十勝」の命数に『雲龍山(九十九溪)』(「九十九」は読み不詳だが、「つくも」と読みたい)とあり、そこにはこの「三州奇談」の本篇も引かれてある。
「蕭寺」寺の異称。仏教を信奉した南朝の梁の武帝(本名・蕭衍)が寺を建てた際に自分の姓を寺につけたことに由来する。
『古老の發句にも、「加賀の吉野には」とは』国書刊行会本は「古老」は『古翁』で、本篇では芭蕉のことを指すケース(「那谷の秋風」)があるが、芭蕉の句にこのような句は私は知らないから、単なる土地の古老の発句にの謂いととる。]
近く原村と云ふは、古へ佛御前(ほとけごぜん)の生れし所、今も佛尼の木像を殘す。靈寶皆百姓の手にあり。此里子を產むことを佛御前の嫌ひ給ふとて、【俗に佛御前孕めりと浮名す。尼大に怒りて一室に籠りて死と云ふ。】[やぶちゃん注:二行割注。]此村に孕む者あれば、由緣由緣に他の村へ引越し、子を產みて後歸る。若し佛が原村より產をすれば、必ず大風吹きて作毛を損ふ。是を「原風」と云ふ。
[やぶちゃん注:「原村」やや北西になるが、以下の仏御前の話(次注参照)からは、加賀国原村、現在の小松市原町でなくてはならない。
「佛御前」ウィキの「仏御前」によれば、仏御前(永暦元(一一六〇)年~治承四(一一八〇)年)は平安末期の白拍子で、『加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔の、京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し』、『建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる』。承安四(一一七四)年に『京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で』、
君を初めて見る折は
千代も經ぬべし姫小松
御前の池なる龜岡に
鶴こそ群れ居て遊ぶめれ
『と即興で今様を詠み、それを歌って舞を見せ』、『一気に寵愛を集めた。この物語は』「平家物語」第一巻の祇王」に『登場する』。安元三・治承元(一一七七)年に『清盛の元を離れ』、『出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王とその母・妹の妓女がおり、同じく仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り』、『故郷の加賀国へ向かう。その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産』で、治承二(一一七八)年)には『帰郷し』、二年後に『死去した。その最期については、彼女に魅入られた男の妻たちの嫉妬による殺害説や自殺説など諸説あ』り、『墓所は小松市原町にある』とある。最期の不穏な説から、この山深い地に隠棲した可能性は腑に落ちぬでもない。気になるのは、「石川県石川郡誌」の本篇の引用で、この部分を丸ごとカットしていることであるが、理由は判らない。【同日追記】T氏より、『単純な理由です。「現在の小松市原町」は「石川県能美郡中海村大字原」で石川郡でないからです。「石川県能美郡誌」の「第二十七章 中海村」に「名跡 ○成佛寺跡」の項に(国立国会図書館デジタルコレクション)『「三州奇談」近く原村と云ふは』として当該段落が引用されています』とお教え戴いた。]
且つ「高門橋(かうもんばし)」と云ふあり。千尺[やぶちゃん注:三百三メートル。]の岸、黃葉(もみぢ)𤲿(ゑが)くが如し。萬丈(ばんぢやう)の刎橋(はねばし)あり。水上白山より出でゝ、手取川へ下る。此川中に禪定石と云ふあり。水の上、二丈許[やぶちゃん注:六メートル強。]出(いづ)る大石なり。
昔白山禪定を望む僧あり。幾度も登り得ずして、怒りて此川に身を投じて死し、此石に變ず。故に年に米一粒だけ川上へ登ると云ふ。實(げ)にも三十年來目角(めかど)を付けて見るに[やぶちゃん注:注意して観察して見ても。]、最早五十間許[やぶちゃん注:約九十一メートル。]も水上(みなかみ)へ登りけると云ふ。
甚(はなはだ)奇特(きどく)の事に思ひ、其邊りの里人に尋ねけるに、其中に公用に依りて此河渫方普請(かはざらひがたふしん)にたづさはる人ありて、
「都(すべ)ての大石は大川の中にありては必ず上へ上(のぼ)ること定理(じやうり)なり。水勢大石の前の砂をほり流すが爲に、石低き方へずり落ちて、下の方は砂走り出す故、上の方へのみ行くものなり。我れ見ても石二三十間許[やぶちゃん注:約三十七メートルから七十二・メートル半強。]も上りし」
とかたり聞けり。
實(げ)にも此咄(はなし)理(ことわ)りにこそと思へば、彼(かの)「つれづれ草」に書きける、駒狗(こまいぬ)に上人の感淚いたづらになりし心地して、
「よしなき根問(ねどひ)はしてけり」
と、つぶやきながら、此奇談には留めける。
[やぶちゃん注:『「高門橋(かうもんばし)」と云ふあり』国書刊行会本では橋の名を「かふもり橋」とした後、「あり」の後に割注で『黃門橋、蝙蝠橋とも』と入ることから、かく読んでおいた。「千尺の岸」とあるから、ロケーションを前の吉野谷に戻しているわけである。現在、「黄門橋」があるが、それの後身であろう。「石川県土木部道路建設課」公式サイト内の「黄門橋」で現在の「手取渓谷」の黄門橋からの上流下流の眺望が見られる。
「萬丈の」高い位置にあることの誇張表現。
「刎橋」ウィキの「刎橋」によれば、江戸時代の本邦に存在した架橋形式で、岸の岩盤に穴を開け、刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させ、『その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね』出『していく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる』ものであるが、『木造で現存する刎橋はない』とある。【同日追記】「玉川図書館近世史料館」に「平成21年度白山紀行」と題するパンフレットがあり、その中に「吉野邨領十景記行」の絵がコピーされています。「古ル橋」の名で「刎橋」が描かれています」とお教え戴いた。五枚目のページの右に当該の絵があり、『古ル橋ト云長サ十三間[やぶちゃん注:約二十三メートル。]ハカリハ子橋ノ上ヨリ水キハマテ十五間[やぶちゃん注:二十七メートル強。]ハカリアル由』『古ル岩ソヒテ諸木茂リ山川荒シ流レ早シ色藍ノ如ク深シ』『吉谷村白山禅定道ヨリ小坂アリ夫ヨリ古ル橋得江至ル』とある、これだ! 因みに禅定道とは白山信仰の修験道の修行のための定格の登山道のことで複数(私の確認出来た主道は三つ)存在する。
「禪定石」石川県白山市白峰に「百万貫の岩」という巨石が手取川にあるが、黄門橋からは有に三十キロメートル以上も上流であるから違う(話に乗って川を遡ってここまで来たとは流石に思われない。閑話休題。この大岩はサイト「日本の奇岩百景+」のこちらによれば(写真・データあり)、昭和九(一九三四)年七月に起きた手取川大洪水の際に上流の宮谷川より土石流として流出したと考えられているとある新しいものである)。翻って叙述からはこの石は黄門橋のそばになくてはならないが、見当たらない。【同日追記】T氏より、『前記「玉川図書館近世史料館」に「平成21年度白山紀行」のパンフに、吉野十景巡見記」に「飛龍巌」と「白布の滝」が描かれています。今の白山市吉野で滝は「錦ケ滝」があります(多分これが白布瀧です)。google mapで航空写真にすると、手取峡谷の中にそれらしい岩が見えます。(今は名無しです)』としてこれを比定候補としてお教え下さった。サイド・パネルで開くと、岩の高さからも遜色ないが、瀧の下にあるなら、そう筆者は言いそうではある。しかし一つの有力な候補としてここに掲げておく。
「米一粒だけ」米一粒分だけの意。
『「つれづ草」に書きける、駒狗(こまいぬ)に上人の感淚いたづらになりし』「徒然草」第二百三十六段の以下。
*
丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。志田の某(なにがし)とかや領(し)る所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)[やぶちゃん注:伝不詳。]、その外も人數多(あまた)誘さそひて、
「いざ給へ、出雲拜みに。かいもちひ召させん。」
[やぶちゃん注:「かいもちひ」「搔い餅」「もちい」は「もちいひ(餅飯)」の音変化で、餅米粉・小麦粉などを捏ねて煮たもの。一説には「そばがき」のこととも。]
とて、具しもて行きたるに、各々拜み、信、起こしたり。
御前(おまへ)なる獅子・狛犬、背(そむ)きて、うしろ樣(さま)に立ちたりければ、上人、いみじく感じて、
「あな、めでたや。この獅子の立ち樣(やう)、いと珍し。古き故あらん。」
と淚ぐみて、
「いかに殿ばら、殊勝のことは御覽じ咎(とが)めずや。無下(むげ)なり。」
[やぶちゃん注:「さても皆さま、この奇特なる姿勢が目に留まりは致さぬか? 何もお感じにならぬとは、駄目で御座るのう!」の意。]
と言へば、おのおの怪しみて、
「まことに他(た)に異なりけり。」
「都のつとに語らん。」
など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顏したる神官(しんくわん)を呼びて、
「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ樣、定めて習ひ[やぶちゃん注:古い口伝。]あることに侍らん。ちと承らばや。」
と言はれければ、
「そのことに候ふ。さがなき童部(わらはべ)どもの仕りける、奇怪に候ふことなり。」
とて、さし寄りて、据ゑ直してければ、上人の感淚、いたづらになりにけり。
*
「根問(ねどひ)」突っ込んだ問いかけ。]
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