三州奇談卷之三 高雄の隱鬼
高雄の隱鬼
高雄山は富樫次郞政親が城跡、麓は四十万(しじま)の里、後は黑壁と云ひて、皆今も魔魅の住む所として、樵夫も日傾く時は行かず。黑壁は數百丈の絕壁、不動の尊像を彫(きざ)み、人巧の致すべき物ならずと云ふ。柴を採り落葉をかきて、異人に逢ひて命を失ふ者まゝ多し。高雄山には又不思議の鬼燐(きりん)有て、里俗「坊主火(ばうずび)」といふ。獵人
「古狸の大入道となりしを得て後此火なし」
との咄(はなし)、人口にありといへども、今も猶此邊り海邊迄燐火飛ぶこと絕えず。其何(そのなん)たるを知ることなし。或人此山の咄に、
「山上に穴多し。誤ちて落つる時は、路より來(きた)る人を呼びて繩を下(おろ)して上る」
と云ふ。夫(それ)が中に人通りなき日(ひ)落入りし者ありしが、穴の中に又小さき橫穴ありし程に、是非なく是より行くに、十日許(ばかり)を過ぎて闇中をくゞりぬけ、飛驒の國の境、庄川の岸(きし)絕壁の間に脫(のが)れし者あり。金澤へ歸りしに蘇生せし者の如く、其事を尋けれども、只闇中を經廻(へめぐ)りし外(ほか)別に話もなかりし。是又怪なり。
[やぶちゃん注:「高雄山」高尾山。「鞍岳の墜棺」で既出既注。
「富樫次郞政親」同じく「鞍岳の墜棺」で既出既注。
「城跡」金沢市高尾町のここ(グーグル・マップ・データ)。
「四十万の里」現在、これらの地域の南方に金沢市四十万町(しじままち)及び山麓に四十万がある。
「黑壁」「宮塚の鰻鱺」で既出既注。伏見川上流の金沢市三小牛町(みのこうじまち)内にある黒壁山。
「數百丈」甚だしい誇張表現。この付近の最高地点でも百九十九メートルである。
「坊主火」「石川県能美郡誌」の「第十五章 鳥越村」の「傳說」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)に、
*
〇坊主火。陰火な、石川郡高尾村に油賣あり、生前其油を鬻ぐに桝底に鬢附油を練り、以て實量を減ぜしが故に、死後罪を償ふが爲に來るなりといふ、初め此火見ゆるや、鶴來方向より數百の火光列を作り、手取川の對岸なる廣瀨河合を經、出合の邊より鳥越城山に登る、此時次第に其數を減じて一直線狀を爲し、遂に一團となり上空に消ゆ、里人屢々之を見るといふ、
*
とある。
「飛驒の國の境、庄川の岸」この付近か。黒壁からは直線でも二十七キロメートルある。
「蘇生せし者の如く」冥界から蘇って帰還した者のように扱って。]
ふもとの村は四十萬なり[やぶちゃん注:「萬」はママ。]。淨土眞宗の道場ありて、善性寺(ぜんしやうじ)と云ふ。近隣の大寺にて、蓮如上人の舊跡なり。此後(うしろ)の大木とて、中のうつろなる大樹あり。凡人三十餘人を隱しつべし。近年乞食住みて火を焚しによりて樹は枯れぬ。人家は多からずと云へり。天正の頃の戰地にて甚だ名高し。
[やぶちゃん注:「善性寺」石川県金沢市四十万町のここにあり、南東の山頂(善性寺所有地)に蓮如の墓がある。但し、彼は山科本願寺で入滅し、廟所も京都市山科区西野大手先町にあるから、これは供養塔である。サイト「金沢ライオンズクラブ」のこちらに写真があるが、かなり傷んでいる。「蓮如上人の舊跡」とあるが、「加能郷土辞彙」(国立国会図書館デジタルコレクション)の同寺の記載を見ても、蓮如に関わる記載はない。
「天正」一五七三年~一五九三年。
「戰地」加賀一向一揆(長享二(一四八八)年)頃~天正八(一五八〇)年)。]
享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]の事なるに、金澤淺野川下に一人の獵師あり。彌助と云ひし者、常々朝には霧を拂ひて山野に走り、暮には日落ちて家路に歸る。いかにするわざとは云ひながら、旦暮に物の命をたち、纔(わづか)に電光朝露の身を愛し、未來永劫の罪を恐れず。徒らに白駒(はつく)[やぶちゃん注:光陰。月日。]の影隙なく過ぎて、堪げがたき暑(あつさ)もいつしか秋風に立替り、程なく文月(ふづき)[やぶちゃん注:旧暦七月。]十三日、魂祭(たままつ)るの頃にも成りしかば、今日は殊更なき人を待つ日なればとて、貴賤をわかたず戶每に灯を點(とも)し、香花を備へ、讀經なんどし追福をなすの日なるに、此彌助は夫(それ)に引きかへて、今朝も獵に出(いで)けるが、起まどひて、久保の橋に至る頃は未だ丑三つごろなり。
[やぶちゃん注:「淺野川」ここ。伏見川と犀川を挟んで流れる。
「久保の橋」不詳。但し、次の段で「向ふの方を見れば、左は高雄山の麓」とあるから、伏見川に架かる橋と思われる。この附近か。]
月明々として西の空に懸り、雲慘々として哀猿遙かに叫び、風のみ松に吟じて橋上の人聲絕えたりしに、向ふの方を見れば、左は高雄山の麓、右は小松群立ちてほのくらきに、年の程四十許の女、今一人は十八九と見えて白き衣にだけなる髮を亂し、往來の傍に座して
「さめざめ」
となき居たり。
彌助怪しく思ひしかども、歸るべき道にしもあらざれば、おづおづ立ちより、
「何者ぞ」
と問ひけれども、さらに答へず。
彌々(いよいよ)足早に打通り、跡を返り見るに、間近く追來りければ、詮方なく額谷(ぬかだに)をも逃過(にげす)ぎて、所緣あるに依りて四十萬の里の道場に漸々(やうやう)と逃込しに、
『慥に爰元迄來りし』
と覺えしが見失ひぬ。
[やぶちゃん注:「額谷」金沢市額谷。四十万の北。]
夜明けて里人に、右のことども語りければ、
「其事侍り、每年七月十三日には必ず如此(かくのごとく)の人出で、行逢ひし者少なからず。古老の物語りしは、昔鏑木(かぶらぎ)六左衞門と云ふ者、松任(まつとう)の城に有し時、一揆の爲に一門盡く亡さる。此道場善性寺の先祖は法敎坊と云ひて、一揆方にして此事に預れり。故に彼(かの)鏑木が妻室の怨念、今も此寺へ來(きた)ると云ふ。是等の類(るゐ)にや」
と云ふ。
[やぶちゃん注:「鏑木六左衞門」初期の松任城主であった鏑木氏の誰かであろうが、どうもこの話に一致する「六左衞門」なる人物は見いだせない。加賀一向一揆の頃なら、鏑木繁常(応永三一(一四二四)年?~永正元(一五〇四)年?)であるが、彼は一揆方に組した、蓮如に帰依した人物であるし、後代の鏑木頼信(?~天正八(一五八〇)年:一揆側の中心的存在として活躍し、一向一揆の滅亡と運命をともにした)の時に鏑木氏の松任城は落城するが、それは長尾景虎(上杉謙信)に攻められてである。何か伝承に錯雑があるか?
「松任の城」「松任の姦女」で既出既注。
「法敎坊」不詳。]
是も又享保の頃、加州の醫師奧田宗傳と云ふ人、或夜松任へ病用ありて、駕籠を走らしめしに、其戾りははや夜半過にもやあらん、道の邊りに七八人並び居て、駕籠をつらせ、かの宗傳の駕籠をとゞめて申して曰く、
「我らは四十萬村何某と申(まうす)者に候。老父急病取出(とりいだ)し、今夕も知らざる躰(てい)に候。貴宅迄御迎に參り候へば、松任へ御越のよしにて、直に御迎に參り申すべきの旨にて、是迄參り申候。哀れ[やぶちゃん注:感動詞。呼びかけ。]是より直に此駕に召され候(さふらふ)て、御見廻被ㇾ下(おみまはりくだされ)かし」
とひたぶる願ひければ、見知る人にはあらざれども、仁を本とする醫師なれば、聞捨(ききすて)にも成り難くて、彼(かの)駕に乘りかへて、松任の人は是より戾して、四十萬村へ見廻れし。今思へば心得ぬ事も多かりしなり。
扨四十萬村にて日頃覺へざる大家、いか樣(さま)庄屋と覺しき所に入れり。男女立さわぎ、幾間の奧々に灯火かゞやき、病人の床に通りしに、其臭氣堪へ難し。病夫は六十許にして、肥(こえ)ふくれたる親父なり。顏は絹の切(きれ)にて包みで見へず。
脈を伺ふに、はやうして金瘡(きんさう)の類(たぐひ)。
『扨は自殺を仕そこなへる者にこそ』
と思ひしかば、
「是は外醫(げい)こそ詮なるべけれ」
と、纔に藥一貼(いつてふ)を與へて戾られしが、金澤の宅へ歸られし時は未だ夜の中なり。駕の者付添ひし者、懇に禮謝して戾りしが、衣服の臭氣は久敷(ひさしく)失せざりしが、奧田氏も、其翌日人來らざりし程に、不審はれやらず。人して問はしむるに、
「四十萬にはかゝる病人もなし。又左(さ)あるべき家居(いへゐ)もなし」
と云來りしなりと、奧田宗傳一つ咄(ばなし)なり。
[やぶちゃん注:「奧田宗傳」不詳。ずっと後の宝暦一一(一七六一)年に召し出された法橋となった医師奥田宗安なる医師がいるが、その先祖か。
「臭氣堪へ難し」これは獣の臭いで、「肥(こえ)ふくれたる親父」とあればこそ、妖狸ではあるまいか?
「一つ咄」いつも得意になってする同じ話。]