石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 二
[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「煙 一」はこちら。
なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「煙 一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、本「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である(計全百一首)。]
二
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしやば)の人(ひと)ごみの中(なか)に
そを聽(き)きにゆく
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聽きにゆく
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京毎日新聞』。「停車場」は言わずもがなであるが、東北本線の始発駅であった(現在は東京駅に変更された)上野駅である。]
やまひある獸(けもの)のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞(き)けばおとなし
やまひある獸のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし
ふと思(おも)ふ
ふるさとにゐて日每(ひごと)聽(き)きし雀(すずめ)の鳴(な)くを
三年(みとせ)聽(き)かざり
ふと思ふ
ふるさとにゐて日每聽きし雀の鳴くを
三年聽かざり
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四十三年八月十四日附『東京朝日新聞』初出で、作歌は同年八月三日夜から翌日の夜にかけてである。啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を出て以来、一度も帰っていない(この日を以って一家は一度離散し、啄木は妹ミツを連れて函館へ向かった。その後、札幌・小樽・釧路と転々し、明治四十一年四月二十八日、東京に着いた)。いや、実際には啄木は実は死ぬまで故郷盛岡にも渋民にも帰ってはいないのである。即ち、啄木は正真正銘の完璧に悲壮な永遠の故郷喪失者であったのである。言わずもがなであるが、東京で雀の鳴くのは聴こえるが、彼は「ふるさと」(彼の出生地は岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)の父一禎(いってい)が住職であった曹洞宗日照山常光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったが、父の万年山宝徳寺への住職転出により、翌年四月二十六日に渋民村に一家転住している)で「日每」「聽」いていたあの懐かしい田舎の長閑な感じに「雀の鳴く」のを、もう三年も聴いていないと嘆いているのである。都会生活の殺伐としたどんよりと曇ったモノクロームの景と、何か癇に障る都会の雀の鋭い声が背景に浮かんでくるではないか。]
亡(な)くなれる師(し)がその昔(むかし)
たまひたる
地理(ちり)の本(ほん)など取(と)りいでて見(み)る
亡くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で渋民尋常小学校時代の追懐とする。渋民時代を注しておくと、明治二四(一八九一)年五月二日満五歳で渋民尋常小学校(渋民村大字渋民第十三地割(愛宕下)。この中央付近か(国土地理院図))に入学、明治二十八年三月に同校を卒業している(満九歳。当時の尋常小学校は修業年限四年であった)。その後、同年四月二日に盛岡高等小学校に入学し、盛岡市仙北組町(この中心付近)にあった母方の伯父工藤常象(つねかた)の家に寄寓した(在学中は保護者を常象が引き受けている)。同校を明治三一(一八九八)年三月に四年に進級するが、四月十八日に百二十八名中十番の好成績で盛岡尋常中学校に合格(同月二十五日に一年級に編入)している。]
その昔(むかし)
小學校(せうがくかう)の柾屋根(まさやめ)に我(わ)が投(な)げし鞠(まり)
いかにかなりけむ
その昔
小學校の柾屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけむ
[やぶちゃん注:「柾屋根」台形の木製の薄い杮板(こけらいた)の、厚みのある方を下に重ね重ねにして屋根を葺いたもの。瓦屋根より安価であったが、風に飛ばされたり、腐ったりして、持ちが悪い。柾葺き屋根。]
ふるさとの
かの路傍(みちばた)のすて石(いし)よ
今年(ことし)も草(くさ)に埋(うづ)もれしらむ
ふるさとの
かの路傍のすて石よ
今年も草に埋もれしらむ
わかれをれば妹(いもと)いとしも
赤(あか)き緖(を)の
下駄(げた)など欲(ほ)しとわめく子(こ)なりし
わかれをれば妹いとしも
赤き緖の
下駄など欲しとわめく子なりし
[やぶちゃん注:「妹」ミツ。二つ年下。岩城氏の前掲書によれば本作(初出は明治四三(一九一〇)年八月十六日附『東京朝日新聞』で、作歌は同年八月三日夜から翌日夜)『当時』は『彼女は日本聖公会の夫人教役者(伝道師)をめざして名古屋の聖使女学院に在学していた』とあり、『明治四十三年三月旭川で神学校入学試験に合格し』ていたとある。]
二日前(ふつかまへ)に山(やま)の繪(ゑ)見(み)しが
今朝(けさ)になりて
にはかに戀(こひ)しふるさとの山(やま)
二日前に山の繪見しが
今朝になりて
にはかに戀しふるさとの山
飴賣(あめうり)のチヤルメラ聽(き)けば
うしなひし
をさなき心(こころ)ひろへるごとし
飴賣のチヤルメラ聽けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし
[やぶちゃん注:「チヤルメラ」ポルトガル語「charamela」(シャラメーラ)。木管楽器の一つ。前面に七つ、背面に一つ指孔 (ゆびあな) があり、先端は朝顔状に開く。「唐人笛」とも呼んだ。ウィキの「チャルメラ」によれば、『明治期には水飴の行商人に主に使用されており、上田敏の詩』「ちやるめら」(詩集「牧羊神」所収。「青空文庫」のこちらで読める)に『登場するのは飴屋を想定したチャルメラである。中華そばで用いられるようになったのは大正期からとされている』とある。]
このごろは
母(はは)も時時(ときどき)ふるさとのことを言(い)ひ出(い)づ
秋(あき)に入(い)れるなり
このごろは
母も時時ふるさとのことを言ひ出づ
秋に入れるなり
[やぶちゃん注:これは啄木への書信の中で母がそう記しているというのであろう。]
それとなく
郷里(くに)のことなど語(かた)り出(い)でて
秋(あき)の夜(よ)に燒(や)く餅(もち)のにほひかな
それとなく
郷里のことなど語り出でて
秋の夜に燒く餅のにほひかな
かにかくに澁民村は戀しかり
おもひでの山
おもひでの川
かにかくに澁民村は戀しかり
おもひでの山
おもひでの川
[やぶちゃん注:渋民村(ポイントは現在の岩手県盛岡市渋民渋民)からは真西に岩手県最高峰の岩手山(標高二千三十八メートル)が、真西に独立峰でピラミッド型をした姬神山(千百二十三メートル)が、村の中央を北上川が南に貫流する。]
田(た)も畑(はた)も賣(う)りて酒(さけ)のみ
ほろびゆくふるさとの人(ひと)に
心寄(こころよ)する日(ひ)
田も畑も賣りて酒のみ
ほろびゆくふるさとの人に
心寄する日
あはれかの我(われ)の敎(をし)へし
子等(こら)もまた
やがてふるさとを棄(す)てて出(い)づるらむ
あはれかの我の敎へし
子等もまた
やがてふるさとを棄てて出づるらむ
[やぶちゃん注:啄木は満十九歳の明治三八(一九〇五)年六月四日に放浪をやめて盛岡に帰り、父母・妹光子との同居で節子との新婚生活に入った(一家の扶養は啄木が一身に背負わねばならない形となった)。翌明治三十九年四月十四日より、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務を始めたが、明治四十年三月中、北海道での新生活を決意し、四月一日に学校に辞表を提出したが、各方面から慰留を勧められた。しかし、四月十九日に高等科の生徒を先導して校長排斥ストライキを敢行、二十一日附で免職となった(校長も転任)。既に述べた通り、五月四日に一家離散となった。彼が渋民で子らを教えたのは僅か一年足らずであった。]
ふるさとを出(い)で來(き)し子等(こら)の
相會(あひあ)ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし
ふるさとを出で來し子等の
相會ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
[やぶちゃん注:実際に啄木が渋民を去らねばならなくなったのは、彼が懸命に行った父一禎の住職復職運動が無に帰したからであった。私の若い頃の飲み仲間の父親の実家は渋民で、まさに石川一家を「石をもて追」い払った側の一家であったと述懐していたのを思い出す。初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号。]
やはらかに柳(やなぎ)あをめる
北上(きたかみ)の岸邊(きしべ)目(め)に見(み)ゆ
泣(な)けとごとくに
やはらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けとごとくに
[やぶちゃん注:啄木絶唱の一首である。これ以上の悲痛にして美しい望郷詩は私は、ない、と思う。本歌集初出。]
ふるさとの
村醫(そんい)の妻(ちゅま)のつつましき櫛卷(くしまき)なども
なつかしきかな
ふるさとの
村醫の妻のつつましき櫛卷なども
なつかしきかな
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村の村医瀬川章太郎の妻で美人の評判の高かった瀬川アイ』(明治一六(一八八三)年~大正一三(一九二四)年:啄木より三つ上)『で、この歌の作られたとき』(『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号)『二十八歳であった』とある。追懐だから逆算すると、啄木が見た時は二十五歳以前となる。]
かの村(むら)の登記所(とうきしよ)に來(き)て
肺病(はいや)みて
間(ま)もなく死(し)にし男(をとこ)もありき
かの村の登記所に來て
肺病みて
間もなく死にし男もありき
[やぶちゃん注:「登記所」個人・法人・動産・不動産・物権・債権などの権利や義務を届け出て保護する担当部門。現在の法務局の出張所に相当する。]
小學(せうがく)の首席(しゆせき)を我(われ)と爭(あらそ)ひし
友(とも)のいとなむ
木賃宿(きちんやど)かな
小學の首席を我と爭ひし
友のいとなむ
木賃宿かな
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村小学校の同級生工藤千代治で』、同級生ではあったが、年齢は『啄木より四歳上。渋民村役場の書記として勤務するかたわら』、『小さい宿屋を経営していた』。彼は『二十二歳で結婚』し、『のちに』村役場の『収入役。助役を』経て、『渋民村村長となった』とある。次の歌も参照。]
千代治(ちよぢ)等(ら)も長(ちやう)じて戀(こひ)し
子(こ)を擧(あ)げぬ
わが旅(たび)にしてなせしごとくに
千代治等も長じて戀し
子を擧げぬ
わが旅にしてなせしごとくに
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『啄木が小学校の旧友の中で特に工藤千代治』のこと『を思い出したのは』、前の歌の「小學の首席を我と爭ひし」ことの思い出の他に、『啄木が小学校二年生の秋まで』は『母親の戸籍に入れられ、「工藤一(くどうはじめ)」と名乗っていたので、特にこの工藤姓の友が懐かしく思い出されたのであろう』と述べておられる。これは全集年譜(これも岩城氏の編)によれば、『曹洞宗の僧籍にある者の』当時の『習慣から』、父『一禎表が表』向き、『妻帯を遠慮して妻の入籍をし』てい『なかった』ことによるものである。これは別段、おかしなことではない。明治中頃までは、浄土真宗以外の僧は世間的には妻帯することへの仏教教学上では、批判がかなり強かった。このことはあまり知られていないと思われるので言い添えておく。]
ある年(とし)の盆(ぼん)の祭(まつり)に
衣(きぬ)貸(か)さむ踊(をど)れと言(い)ひし
女(をんな)を思(おも)ふ
ある年の盆の祭に
衣貸さむ踊れと言ひし
女を思ふ
[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年満二十歳の時の、「渋民日記」に(全集に拠ったが、恣意的に漢字を正字化した)、
*
〇九月二日三日四日は陰曆七月の十四十五十六日、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]田舍で一年中の最樂時たる盂蘭盆會であつた。盆踊例年の如し。
予は十四日の晩から十八日の晩まで、五夜つゞけて踊つた。
踊りが濟んで、曉近い霧の寄せて來る頃、月下の焚火にあたつて、「あゝ疲れた」といふ心地!
*
と記しているが、或いはこの時のエピソードか。前掲書で岩城氏も評釈でこの部分を引いておられる。或いは手元不如意で晴れ(盆踊りは神聖な「はれ」の時空間である)の綺麗な浴衣がないから踊りに行けぬと、「ある女」の前で啄木は呟いて、その女がかく慫慂したのだったかも知れない。既に妻帯者である啄木(前年五月婚姻)を考えると、アブナい歌ともとれる。日記はバレるから、その辺りを書かなかったのではなかったか? ということは毎夜、外でこっそり着替えていたとすると、ますます怪しくないか?]
うすのろの兄(あに)と
不具(かたわ)の父(ちち)もてる三太(さんた)はかなし
夜(よる)も書讀(ふみよ)む
うすのろの兄と
不具の父もてる三太はかなし
夜も書讀む
我(われ)と共(とも)に
栗毛(くりげ)の仔馬(こうま)走(はし)らせし
母(はは)の無(な)き子(こ)の盜癖(ぬすみぐせ)かな
我と共に
栗毛の仔馬走らせし
母の無き子の盜癖かな
大形(おほがた)の被布(ひふ)の模樣(もやう)の赤(あか)き花(はな)
今(いま)も目(め)に見(み)ゆ
六歲(むつ)の日(ひ)の戀(こひ)
大形の被布の模樣の赤き花
今も目に見ゆ
六歲の日の戀
[やぶちゃん注:「被布」は着物の上に羽織る上着の一種で、江戸末期に茶人や俳人などの風流好みの男性が好んで着用したが、後に女性も着用するようになり、現在の着物用コートの原型であるが、ここは特に少女の晴れ着としてのそれであろう。少女用の「袖なし被布」は七五三にお出かけ用の着物として上着に多く用いられている。参照したウィキの「被布」によれば、『大抵は緋色の綸子が使われており、大人用の被布と違って袖が無く、絹紐で作った菊結びの飾りが打ち合わせ部分の両肩に縫い付けられていることが多い。汚れを防ぐためのものだろうが、十歳未満の少女が着用する場合がほとんどであり、少年や年長の少女が着用する機会は少ない』とある。グーグル画像検索「被布」をリンクさせておく。私も四歳の頃の遠い思い出に、これと全く同じものがあるのだ。]
その名(な)さへ忘(わす)られし頃(ころ)
飄然(へうぜん)とふるさとに來(き)て
咳(せき)せし男(をとこ)
その名さへ忘られし頃
飄然とふるさとに來て
咳せし男
[やぶちゃん注:自己の仮想写像ではなく、そうした人物が渋民村にぶらり帰ってきた過去の実体験と読む。さればこそ、啄木自身とそれがダブって見えて痙攣的な衝撃を与えるのである。]
意地惡(いぢわる)の大工(だいく)の子(こ)などもかなしかり
戰(いくさ)に出(い)でしが
生(いき)きてかへらず
意地惡の大工の子などもかなしかり
戰に出でしが
生きてかへらず
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『日露戦争で戦死した故郷の大工の子の薄幸不遇の生涯に深い同情を寄せた一首。モデルは渋民村の立花宗太郎で、彼は明治九年[やぶちゃん注:一八七六年。]四月一日同村立花茂助の長男として生まれたが、母死亡のため渋民の大工立花喜兵衛の妻の乳で育てられ、やがて喜兵衛の養子となった。しかしその後養家に実子が生まれたため継子いじめを受けて不幸な日々を送った。やがて彼は日露戦争[やぶちゃん注:明治三七(一九〇四)年二月八日から明治三八(一九〇五)年九月五日。]に応召、戦地に向かったが、養父の喜兵衛は村の習慣を破って歓送の催しをせず』、『さびしく宗太郎を出征させ』、『村人を憤らせた。この歌の「意地悪の大工」はこの養父の大工喜兵衛を歌ったものである。宗太郎は明治三十八年一月一日』、『清国盛京省蘇麻保で戦死』し、『再び故郷に帰ることがなかった』とある。岩城氏も指示しておられる通り、「意地惡の養父であった人でなしの「大工」喜兵衛にのみ掛かっていることに注意されたい。恐らくそうではなく読んでいた方も多いのではないか? 私も今日の今日までそう誤読していた。啄木より十歳も年上であるが、啄木は渋民尋常小学校時代に触れ合った記憶があったのであろう。]
肺(はい)を病(や)む
極道地主(ごくだうぢぬし)の總領(そうりやう)の
よめとりの日(ひ)の春(はる)の雷(らい)かな
肺を病む
極道地主の總領の
よめとりの日の春の雷かな
宗次郎(そじろ)に
おかねが泣(な)きて口說(くど)き居(を)り
大根(だいこん)の花(はな)白(しろ)きゆふぐれ
宗次郎に
おかねが泣きて口說き居り
大根の花白きゆふぐれ
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『ある日の故郷の夕暮れ時の光景を』回想して『歌った作品で、第四句に詩的な初夏の情緒が感じられる。モデルは渋民の農業沼田惣次郎夫婦で、通称おかねさんと呼ばれた女房のイチが酒飲みの夫をつかまえて泣きながら処世の苦しみを訴えていたある日の光景を歌ったもの』とある。「宗次郎」「おかね」「口説き」と並べられると、浄瑠璃の一節か一場面かと見紛う。それも啄木は計算済みだったのであろう。]
小心(せうしん)の役場(やくば)の書記(しよき)の
氣(き)の狂(ふ)れし噂(うわさ)に立(た)てる
ふるさとの秋(あき)
小心の役場の書記の
氣の狂れし噂に立てる
ふるさとの秋
わが從兄(いとこ)
野山(のやま)の獵(かり)に飽(あ)きし後(のち)
酒(さけ)のみ家賣(いへう)り病(や)みて死(し)にしかな
わが從兄
野山の獵に飽きし後
酒のみ家賣り病みて死にしかな
[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは啄木が「我が従兄弟」と呼んだ』(ということは実際の従兄弟ではないか)『渋民の秋浜善右衛門』で、『啄木の日記にも「資産ゆたかなる家に生れ、愚かな男でもなかつたが、放漫な若旦那育ちの無意義なる生活と家庭の平和のため、所謂『生命の倦怠疲労』を感じて、酒を呑む、醉ふては乱暴する、脳髄が散漫になる、心臓が狂ふ、かくて彼は三十一の男盛り、人からは笑ひ物にされて、日夜酒びたり。借財がかさむ、」』とあるとする。但し、その日記のクレジットを明三九(一九〇六)年三月十九日とされているものの、当該条を探し得なかったのでそのまま引いた。]
我(われ)ゆきて手(て)をとれば
泣(な)きてしづまりき
醉(ゑ)ひて荒(あば)れしそのかみの友(とも)
我ゆきて手をとれば
泣きてしづまりき
醉ひて荒れしそのかみの友
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この人物は前の歌の『秋浜善右衛門であろうか』とされる。]
酒(さけ)のめば
刀(かたな)をぬきて妻(つま)を逐(お)ふ敎師(けうし)もありき
村(むら)を逐(お)はれき
酒のめば
刀をぬきて妻を逐ふ敎師もありき
村を逐はれき
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは渋民小学校校長相馬徳次郎。酒を飲んで刀を抜いて妻を追いまわすなど教育者にふさわしくない奇行があったため』、『啄木たちの排斥を受け、明治三十七』(一九〇四)『年三月三十一日付で隣村の滝沢村立篠木尋常高等小学校長に耘出したが、翌年の三月八日死亡した。自殺であるといわれる』とある。全集年譜では、同年三月十七日に啄木が岩手県視学平野喜平宛で彼の排斥に就いての親書を送付している。]
年(とし)ごとに肺病(はいびやう)やみの殖(ふ)えてゆく
村(むら)に迎(むか)へし
若(わか)き醫者(いしや)かな
年ごとに肺病やみの殖えてゆく
村に迎へし
若き醫者かな
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは明治三十五年』(一九〇二年)に『渋民に移住』して、『瀬川医院を開業した瀬川彦太郎』(明治七(一八七四)年~昭和二(一九二七)年)で、渋民に来た『当時』は『二十九歳である』とある。]
ほたる狩(がり)
川(かは)にゆかむといふ我(われ)を
山路(やまぢ)にさそふ人(ひと)にてありき
ほたる狩
川にゆかむといふ我を
山路にさそふ人にてありき
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『故郷の忘れがたい女性の一人を歌ったもの。モデルは渋民生まれの佐々木もと』(明治二三(一八九〇)年~昭和五五(一九八〇)年)で、『啄木の明治四十二』(一九〇九)『年ローマ字日記にも「――我が『螢の女』いそ子も今は医者の弟の妻になって弘前(ひろさき)にいるという。」とある。彼女は』日記『当時二十歳』で、前の歌に詠まれた『医師瀬川彦太郎の弟貞治と結婚して好摩』(現在の岩手県盛岡市好摩(こうま)。グーグル・マップ・データ。渋民から少し北方)『にいた。いそ子はいたこ(巫女)からつけてもらった通称』とある。]
馬鈴薯(ばれいしよ)のうす紫(むらさき)の花(はな)に降(ふ)る
雨(あめ)を思(おも)へり
都(みやこ)の雨(あめ)に
馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号であるが、『降り続く都会の』秋『雨に憂鬱になった作者が、ふと故郷の梅雨を思い出し、馬鈴薯のうす紫の花に降る雨にその郷愁を託したもの』と評釈しておられる。ジャガイモの花は白・紫・薄紫などさまざまな色がある。収穫まで百日が目安で、春と秋の年に二回の栽培が可能であるが、東北地方では春に植え付けたものは梅雨少し前に咲くようである。]
あはれ我(わ)がノスタルジヤは
金(きん)のごと
心(こころ)に照(て)れり淸(きよ)くしみらに
あはれ我がノスタルジヤは
金のごと
心に照れり淸くしみらに
[やぶちゃん注:「ノスタルジヤ」(英語「nostalgia」はギリシャ語由来で、ラテン文字転写では「nostos」(return home:故郷へ帰る)と「algos」(pain:痛み)の合成語で、古くは「懐郷病」、即ち、「故郷を想うことによる死に至る重い郷愁感情」のニュアンスがあった。私の偏愛する映像詩人アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Тарковский 一九三二年~一九八六年)は、その「ノスタルジア」(Nostalghia:一九八三年にイタリアで製作したイタリア・ソ連合作映画)について(配給元「フランス映画社」のチラシ解説より引用・訳者不詳)、
*
詩とはなんでしょうか? それは世界について思考し、説明しようとする深く独特の方法です。ある人間が他の人間の近くを通りすぎる。他人をながめながら、実は見ていない人がいるが、反対に、ながめて、通りすぎて、そして突然微笑む人もいる。他人が自分なかにある共通する強い感覚をもたらしたからです。
今日、詩で生きることはできません。詩集が出版されるまで数ヶ月も数年もかかるのに、社会は詩人の必要性を感じなくなった。芸術とて同様です。こうした「狂人」がいなくなれば、次は自分が消失する番だということを忘れたがっているようです。
ノスタルギアはロシア語では、死に至る病の感覚を含んでいます。別な人間が抱く苦悩に強烈に自己同一する感覚です。
*
と述べている(私の「Андрей Тарковский 断章」より)。
「しみらに」「繁(しみ)みらに」。副詞でひまなく連続して。一日中。「しめらに」とも言い、万葉以来の古語。「学研全訳古語辞典」によれば、「夜はすがらに」に対して、常に「昼はしみらに」の形で使う、とある。]
友(とも)として遊(あそ)ぶものなき
性惡(しやうわる)の巡査(じゆんさ)の子等(こら)も
あはれなりけり
友として遊ぶものなき
性惡の巡査の子等も
あはれなりけり
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『モデルは渋民村巡査高橋隼之助の長男精一と次男等』(ひとし)『であろう。高橋等はのちに友松家へ養子に行き医師となった。父親の隼之前は福島県田村郡三春町の出身で』、『渋民には明治二十一年』(一八八八年)『より二十六年まで勤務した。侍気質の剛腹な人物であったが、酒好きで』、『福島県人特有の頑固な性格であったので』、『村人に恐れられたといわれる。この歌の「性悪」は「巡査の子」ではなく「巡査」にかかる修飾語であろう』とされる。私もそう思う。]
閑古鳥(かんこどり)
鳴(な)く日(ひ)となれば起(おこ)るてふ
友(とも)のやまひのいかになりけむ
閑古鳥
鳴く日となれば起るてふ
友のやまひのいかになりけむ
[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus の別名。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照されたい。岩城氏は前掲書で、『雑木林に囲まれた万年山宝徳寺で育った啄木にとって、閑古鳥の声は故郷の象徴である。故郷を回想するにあたって彼はまず春より夏にかけて鳴く閑古鳥のことを思い出し、同時に季節の変わり目に出る友の持病のことを思ってこのように歌ったのである』と評釈しておられる。]
わが思(おも)ふこと
おほかたは正(ただ)しかり
ふるさとのたより着(つ)ける朝(あした)は
わが思ふこと
おほかたは正しかり
ふるさとのたより着ける朝は
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『今井泰子氏は「おほかたは正しかり」を大方は正しかったと訳し、朝故郷からの手紙を読んで、「平常自分が故郷に関して思う悲しい推測が『おほかたは正し』いことを確かめ心を暗くする。」と解釈しているが、私はこの一首を故郷からの懐かしい便りが着いた朝は、とかく都会生活に疲れて正常を欠くわが心もなごみ、ほぼ正しい思考となるの意に解釈したい』と述べておられ、私も岩城氏に解釈を支持する。]
今日(けふ)聞(き)けば
かの幸(さち)うすきやもめ人(びと)
きたなき戀(こひ)に身(み)を入(い)るるてふ
今日聞けば
かの幸うすきやもめ人
きたなき戀に身を入るるてふ
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『初出は歌集「一握の砂」。「今日」は明治四十二』(一九〇八)『年五月二日』とされ、『「幸うすきやもめ人」は啄木の妻節子の女学校時代の親友金谷信子』であるとされる。『彼女はある男と婚約、数か月同棲したが』、『その後』、『婚約を解消して渋民小学校に勤務し、独身の和久井校長と恋愛した。その後』、『退職して和久井と結婚、生涯幸福に暮らした。しかし村人の中にはこの恋愛を「きたなき恋」としてあしざまに噂する者が多かった。上京してきた村の助役の息子の岩本実からこの噂を聞いた啄木は、妻の友人の身の上を案じ』、『村人の噂を信じこのように歌ったのである』と述べておられる。]
わがために
なやめる魂(たま)をしづめよと
讚美歌(さんびか)うたふ人(ひと)ありしかな
わがために
なやめる魂をしづめよと
讚美歌うたふ人ありしかな
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『以下四首』は『渋民小学校の上野さめ子訓導』(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より三つ年上)『を歌えるもの。上野女教師は敬虔なクリスチャンであった』とされる。]
あはれかの男(をとこ)のごときたましひよ
今(いま)は何處(いづこ)に
何(なに)を思(おも)ふや
あはれかの男のごときたましひよ
今は何處に
何を思ふや
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木はこの上野さめ子を渋民時代の日記に、「渋民の小天地に於て、『新婦人』の典型を示してくれた人である。真に立派な、男優りな、見識の高い、信仰の厚い人であつた。」と書いている。「今は何処に何を思ふや」と歌ったとき、さめ子は京都大学文学部哲学科出身のクリスチャン滝浦文弥と結婚して、夫の勤務先和歌山市内に幸福な新生活を送っていた』とされる。よかった。]
わが庭(には)の白(しろ)き躑躅(つつじ)を
薄月(うすづき)の夜(よ)に
折(を)りゆきしことな忘(わす)れそ
わが庭の白き躑躅を
薄月の夜に
折りゆきしことな忘れそ
わが村(むら)に
初(はじ)めてイエス・クリストの道(みち)を說(と)きたる
若(わか)き女(をんな)かな
わが村に
初めてイエス・クリストの道を說きたる
若き女かな
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『上野さめ子』『は明治三十七年』(一九〇四年)『の春岩手師範学校女子部を卒業、訓導として渋民尋常高等小学校に赴任、村人に信仰の道を説いた』と記しておられる。]
霧(きり)ふかき好摩(かうま)の原(はら)の
停車場(ていしやば)の
朝(あさ)の蟲(むし)こそすずろなりけれ
霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の蟲こそすずろなりけれ
[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『現在』、『東北本線には渋民駅ができているが、啄木の時代は盛岡に出るにも東京に行くにも好摩の駅から乗らなければならなかった。したがって「好摩の原の停車場」は故郷への関門としてなによりもまず心に浮かぶ忘れがたい思い出の場所であったのである』と記しておられる。好摩の位置は既注。]
汽車(きしや)の窓(まど)
はるかに北(きた)にふるさとの山(やま)見(み)え來(く)れば
襟(えり)を正(ただ)すも
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え來れば
襟を正すも
ふるさとの土(つち)をわが踏(ふ)めば
何(なに)がなしに足(あし)輕(かる)くなり
心(こころ)重(おも)れり
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足輕くなり
心重れり
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『初出は歌集「一握の砂」。作歌明治四十三』(一九一〇)『年八月二十八日』で、『盛岡での生活に行き詰まった啄木一家は、明治三十九』(一九〇六)『年の春』、『再び居を渋民村に移した。しかし父親が宝徳寺の住職を罷免されて退去した村に帰ることは』、『白眼と嘲笑と憐惘の中に生活をすることを意味し、住みなれた故郷の禅房を前に、古びた農家の一室に寄寓する啄木の心は重かった。この一首は懐かしい故郷に帰った喜びと、そうした復雑な心境を示すものである』と評しておられる。]
ふるさとに入(い)りて先(ま)づ心傷(こころいた)むかな
道(みち)廣(ひろ)くなり
橋(はし)もあたらし
ふるさとに入りて先づ心傷むかな
道廣くなり
橋もあたらし
見もしらぬ女敎師(をんなけうし)が
そのかみの
わが學舍(がくしや)の窓(まど)に立(た)てるかな
見もしらぬ女敎師が
そのかみの
わが學舍の窓に立てるかな
かの家(いへ)のかの窓(まど)にこそ
春(はる)の夜(よ)を
秀子(ひでこ)とともに蛙(かはづ)聽(き)きけれ
かの家のかの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに蛙聽きけれ
[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば『故郷における若い女教師との別離の思い出を歌ったもの。「秀子」は啄木が渋民小学校代用教員時代、上野さめ子の後任として赴任してきた堀田秀子訓導』(明治一八(一八八五)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より一つ年上)『である。啄木と彼女との関係は同僚の教師としての交際にとどまり、その期間も秀子が着任した明治三十九年九月二十九日から、啄木が北海道へ去った五月四日までの約半年間にすぎないが、啄木日記に書かれた彼女についての記事は、思慕にも似た感情がほのかに感じられる。この一首は啄木が故郷を去るにあたって』、『別れのため』、『秀子の家を訪れた夜の光景を歌ったもので、その背景は明治四十年五月三日の啄木日記に詳しい』とある。全集の「明治四十丁未歳日誌」より当該部分を例の仕儀で電子化する。踊り字「〱」は正字化した。
*
夜ひとり堀田女史を訪ふ。雨時々落し來ぬ。程近き田に蛙の聲いと繁し。あはれ、この室にしてこの人と相對し、恁く[やぶちゃん注:「かく」]相語ること、恐らくはこれ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがりて、所思多く、豫は多く語るを得ざりき。友も亦多く語らざりき。誠に、逢ふは別るゝの初めならむ。しかれども、別るゝは必ずしも逢ふの初めならざらむ。予は切に運命を思へり。
胸を拱ぎて[やぶちゃん注:「こまねぎて」。]蛙の聲をきく。この聲は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたきを想ひ𢌞さしめき。さながらこれ一種生命の音樂也。
人、心のそよげる時、樂しき事を思ひ、心の動かず鎭まれる時、必ず哀しき事を思ふ。喜びを思ふて心嚴かなるはなく、哀しきを思ふて心浮き立つことなし。悲哀は常に嚴肅也。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、淚は決して安價なるものにあらざりき。
思出長かるべき夜、家にかへりてよりも予は尚さまざまの思に驅られたり。
*]
そのかみの神童(しんどう)の名(な)の
かなしさよ
ふるさとに來(き)て泣(な)くはそのこと
そのかみの神童の名の
かなしさよ
ふるさとに來て泣くはそのこと
ふるさとの停車場路(ていしやばみち)の
川(かは)ばたの
胡桃(くるみ)の下(した)に小石(こいし)拾(ひろ)へり
ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり
[やぶちゃん注:「停車場路」の「停車場」は先に注した好摩であろう。]
ふるさとの山(やま)に向(むか)ひて
言(い)ふことなし
ふるさとの山(やま)はありがたきかな
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
[やぶちゃん注:前に徴して「山」の主体は岩手山と姫神山であろう。]
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