三州奇談卷之二 幽冥有ㇾ道
幽冥有ㇾ道
享保の末年、金澤竪町(たてまち)に金子玄庵と云ふ醫師あり。年老(ねんらう)と云ひ、醫術も委しく、町醫師ながら甚だ流行(はやり)よく、頓(やが)て高祿にも召出さるべき風說ありき。
[やぶちゃん注:標題は「幽冥にも道有り」と読んでおく。陰気に満ちた幽冥界にも正しい道の論理があるということである。
「享保の末年」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日に元文に改元している。
「金澤竪町」現在の石川県金沢市竪町(グーグル・マップ・データ)。兼六園の南西直近。
「金子玄庵」実在した人物である。「加賀藩史料」第七編五百六十三ページの「前田直躬覚書」中にあると「石川県立図書館」公式サイト内の「石川県関係人物文献検索」の検索に載る。
「年老」信頼出来そうな相応の年嵩(としかさ)であること。]
其子、玄俊と云ふ十七歲、生質(うまれつき)魯鈍なり。其頃、伊藤齋宮(さいき)と云ふ儒者ありき。莘野(しんや)先生と云ふ。是も此邊(このあたり)にて多く書生を集められけるにより、此玄俊も朝々(あさなあさな)四書を懷にして、此齋宮の宅に通はれし[やぶちゃん注:敬語はママ。]。道に菓子或は桃・柹などを密に買ひて食ふ。或は狗の狂ふ鷄の鬪ふなどを見て、終日(ひねもす)立盡す。行逢ふ知音(しるべ)、只眉をひそめて、
「此人にして此子あり」
といさめて家に返す。
[やぶちゃん注:「生質(うまれつき)」以下、「齋宮(さいき)」「莘野(しんや)」「知音(しるべ)」の読みは「近世奇談全集」に拠った。但し、「さいき」は確定ではない。「いつき」の可能性もある。
「伊藤齋宮」将軍吉宗と家重二代の侍講を務めた大儒室鳩巣の随筆「可観小説」のこことここに出る(石川県立図書館によるPDF)。その内容からかなりの学識を持った儒者であったことが窺える。]
五月雨(さみだれ)の晴し日、五月廿日かと覺ゆ。新竪町九里氏の邊り四辻に、此玄俊
「うつとり」
と立つこと半時許(ばかり)。是より行方しれず。
[やぶちゃん注:「新竪町」金沢市新竪町。竪町の南東端に続く。
「九里氏」「金沢古蹟志」巻十四のこちら(石川県立図書館によるPDF)に「○九里覺右衞門舊邸」の条があり、『元祿六』(一六九三)『年の士帳に、九里甚左衞門新竪町末と見え、享保九』(一七二四)『年の士帳に、千五百石甚左衞門新竪町とありて、明治維新廢藩の際まで、新竪町の廣見に代々居住せしかど、家屋を賣却して退去せり』とある屋敷であろう。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『昔のまんまの町名②「水溜町」「新竪町」「杉浦町」』で幸いにも、旧絵図や現在の地図で、この九里家の位置が示されてあるのを見つけた。現在の新竪町の南端部分で、そうなると、彼が神隠しにあった四辻の候補は新竪町三丁目が挙げられよう。因みに、単に位置を示すだけのことで、どうでもいいことなのだが、個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」のこちらによれば、『この先祖の九里夕庵は前田綱紀の近臣で、二千石を賜っていたと云』い、『幕末の九里正長は「越登賀三州誌」等を著した「富田景州」の同僚だったと云う。九里氏の祖先の「九里甚左衛門」は当初、織田信長に仕え、前田利家が越前府中(福井県武生市)の城主の時に前田利家に仕官した加賀藩の古老で在ったと云う』。『この一族は、歴代、小姓頭、馬廻り役、定番頭、金沢町奉行、算用場奉行等の要職を歴任したと云』い、『加賀藩の学者の「富田景州」や「森田柿園」は特にこの氏族を「加賀藩成立以来の古老、知識人」として特に紹介している』。また、『前田利家が焼き討ちにして全山が殺害された富山県と石川県境の「石動山」は後に加賀藩によって一部が再興された』が、『この復興した「石動山」の別当には「九里一族」で、「高岡城の地鎮祭」を執行した「金沢波着寺住職の空照」が就任している』とあるなかなかの名門の家柄であったことが判った。]
家内一統驚き、所々に尋人(たづねびと)を出(いだ)し、且つ鉦鼓をたゝき、名を呼ばはりて、野田邊若くは松山など尋廻れども得ず。
[やぶちゃん注:「野田」石川県金沢市野田町。新竪町南端から二キロ以上南東。
「松山」不詳。しかしここ、国書刊行会本では『若松山』とあり、これだと、新竪町東方の金沢区若松町(奥卯辰山の南西麓)で同前から四キロ圏内となるから、ここであろう。]
とかくして一日過ぎて二日目の朝、犀川橋(さいかはばし)端(はし)魚屋市郞右衞門が店の前に寢て居(を)る。早速に連歸り試みる[やぶちゃん注:様子を調べてみると。]に、よく步行(ありきゆき)しものとみへて、こぶら張り、手足は茨(いばら)などにかゝり、痛める所又多し。衣服甚だよごれたり。
[やぶちゃん注:「犀川橋」現在の同名の橋は犀川河口近くのここにある。犀川のどこかの橋畔(新竪町直近にもあったろう)でもいいわけだが、神隠しにあって相応に優位に離れた場所で見つからなければお話にならない。試みに現在の地図で新竪町南端から犀川をこの橋を下ってみると、八キロメートルはある。ここをロケーションとしたい。]
「是必ず魔魅(まみ)野狐(やこ)わざにこそ」
とて、湯あみさせ、食をすゝめなどして、寢させ置きたり。
一二夜は譯もなく寢たりしが、其後(そののち)起出で物を書き書を讀むこと別人の如し。眼中明らかに、日頃の顏色に非ず。人々
「何國(いづく)へ行たるか」
と問ふに、少しも答へず、只書を取りて講じ、筆を取りて書寫す。日頃の玄俊に非ず。
親類皆魔狐の業(わざ)として、祈禱或は御符などを日々與へけれども、少しも受けず。
此間三日妙論[やぶちゃん注:奇体な論説。]を云ひて聞かせけり。其中の詞に、
「天狗の姿山伏をなすものは、大峯葛城(かつらぎ)の見る所也。天狗は山陰の氣にこりて、隂中に形をなす。子の親の貌(かほ)に似る如く、或は昔『產婦うぶやのうちに「御ふくの面」を弄(もてあそ)ぶ者あり。其(その)產める所の子の貌、彼(かの)「おふく面」に類(るゐ)せり』と。是皆氣中に躰(たい)を請け、或は感ずる所に形をなす。加州等の山にある天狗は、多く姿は日傭人足(ひやとひにんそく)の者の如し。業(げふ)も或は石を引き、大木を荷ふの躰(てい)を移す。是又天然なり。然共(しかれども)山中觸るゝ所一應にあらず。感ずる所別なれば、小異ある事自然の理(ことわり)なり。却て幽冥の間、暫く五行の變氣に感じ、濕中濕氣(しつき)に生を享(うく)る者五行の正しき物を恐る。或は佛說の文字を恐る。譬へば「覺」の字あらんに、狐狸是を恐れ、毒蛇密(ひそか)に避くる物は、「本覺眞如」等の音(おん)通ふが故なり。或は金銀請取手形にある「覺」の字の如き、ひとつも幽物に驗(しる)しなし」
など云へり。
[やぶちゃん注:「大峯」修験道の根本道場一つである大峯山の山上ヶ岳山頂(奈良県吉野郡天川村)に建つ大峯山寺(おおみねさんじ)。
「葛城」修験道の根本道場として最も知られる、現在の奈良県と大阪府東部との境にある葛城山(かつらぎさん)。「かづらき」とも読む。一言主神(ひとことぬしのかみ)と役(えん)の行者との伝説の地であり、その役の行者以来、修験道の霊場とされてきた。]
平日は甚だ無口にて、四書猶よみ得ざる人なれば、人々大きに驚きぬ。別して親(おや)玄庵、是を
「鬼怪」
として甚だ憎み、打殺さんと用意す。
第四日に至り、此者曰く、
「翁我を怪しむこと甚(はなはだ)し。惜(をしい)かな久しく爰(ここ)に留り難し」
と云ひ、
「よし去りて別人に行(ゆか)ん」
と云ふ。
其聲、胸中に二人ありて云ふが如し。
彌々(いよいよ)加持祈禱をなし、修驗者を撰(えら)み祈り立てしかば、彼(かの)者大(おほき)に笑ひて、
「我をして魔魅野狐の類とするや。なんぞ敬し拜して、六經(りくけい)・醫術・神道・佛書の深意を問ざるや。惜むべし惜しむべし。汝等正理(しやうり)幽冥にくらし。故に却(かへつ)て我を妖とす。甚だ文雅の害をなす。幽冥邪物(じやぶつ)のみにして正物(せいぶつ)なからんか。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『恐らくは、汝□[やぶちゃん注:編者の判読不能字。]人をあやまるべし。見よ見よ、』が入る。]冥護の助(たすけ)なくして豈(あに)功をなすものあらんや」
[やぶちゃん注:「六經」儒教で尊崇する六種の経典。元は「易経」・「書経」・「詩経」「春秋」・「礼記(らいき)」・「楽経(がくけい)」であったが、後に「楽経」が散逸して伝わらなくなったため、代わりに「周礼(しゅらい)」を加えて「六経」とした。「六籍」「六芸」も同義。
「文雅の害をなす」生半可で不完全なお主(ぬし)らの自分勝手で御都合主義の利己的な文芸が却って害を成して正しい理りを曇らせている、の意でとる。]
と云ひ終り、自ら井の本(もと)へ出で、水を汲み、杓を取りてひたひを洗ひ、襟本(えりもと)を洗ふこと數度、其儘氣を絕す。
人々助け起し打臥せけるに、二三日寢て本心になれり。然共顏色彌々もぬけたる如く、終に愚鈍の人になりたり。
程あらずして伊藤齋宮煩はれけるに、此金子玄庵、藥を違(たが)へ、忽ちに齋宮は死去せられける。
夫より玄庵醫者の評よからず、一二年困窮して新竪町と云ふに借宅して居(を)られしが、是も程なく身まかられける。子息は如此(かくのごとく)なれば、家内散(ちりぢり)になりぬ。いかなる事にてかありけん。
[やぶちゃん注:国書刊行会本では末尾に『驗(しるし)は間もなくあらはれけり。』とあるが、これは寧ろ「終に愚鈍の人になりたり。」の段落の後にあるべきか。]