石川啄木日記のスケッチに「こゝろ」の「先生」と「K」の下宿がある!!
石川啄木歌集「一握の砂」の「秋風のこころよさに」パートの冒頭の以下の一首に注をつけようとして、驚くべきことに気がついた!…………
ふるさとの空(そら)遠(とほ)みかも
高(たか)き屋(や)にひとりのぼりて
愁(うれ)ひて下(くだ)る
ふるさとの空遠みかも
高き屋にひとりのぼりて
愁ひて下る
さてもこれは、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『明星』明治四一(一九〇八)年十月号で、作歌は同年九月十一日である。筑摩版全集年譜(同じく岩城氏編)や日記と照応すると、この五日前の九月六日に啄木は金田一京助の厚意で本郷区森川町一番新坂にあった高台にある「新しい三階建」の「高等下宿」であった蓋平館(がいへいかん)に移っている。九月十一日の日記の中にも(筑摩版全集底本であるが、漢字を恣意的に正字化した)、
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四時頃からしとしと雨。音もなき秋の雨に、遠くの物の煙つて見える景色は、しめやかに故鄕を思はせた。
故鄕の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る
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と本歌を記している。着後は三階の部屋に入った。九月八日の日記の一節に、
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九番の室に移る。珍妙な間取の三疊半、稱して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳か[やぶちゃん注:「はるか」。]に小石川の高臺に相對してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、斷間なく吐く黑煙が怎やら[やぶちゃん注:「どうやら」。何となく。]勇ましい。晴れた日には富士が眞向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。
天に近いから、一碧廓寥[やぶちゃん注:「くわくれう(かくりょう)」。広々として寂しいさま。]として目に廣い。蟲の音が遙か下から聞えて來て、遮るものがないから。秋風がみだりに室に充ちてゐる。
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とある。以上が載る筑摩版全集第五巻の丁度、九月十一日の日記始まるところに、その日の午前或いは前の三日間の間に日記に描いたものであろうか、「九号室の眺」という啄木のスケッチが挿入されているので、掲げておく。
左端に砲兵工廠の煙突が描かれおり、右手の彼方に線でピラミッド型に描いてあるピークが、或いは富士なのかも知れない。ここは現在東京都文京区本郷六丁目で、まさに「旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)」の碑が立つ。
私はしかし激しく驚いたのだ! 「砲兵工廠」と出た辺りからうすうす気づいていたのだが、この啄木が描いた景色の、その向こうの高台の中央当たりにこそ、かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年発表)の「先生」と「K」が下宿することになる、あの家があることになっているからである。《あの家》については、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の私の考証を見られたいが、そこで示した「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」の地図を見て戴ければ、この蓋平館別荘が真東の向かいにあることが判然とするはずである。
しかも、啄木はこの年の本歌集刊行の前から漱石と親交を持っていた(五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年七月一日に胃腸病で入院していた漱石に社用と見舞いを兼ねて訪ね、担当していた「二葉亭全集」についての指導を受けている)。後に漱石は門弟の森田草平を通じて二度に亙って結核が進行していた啄木に見舞金を届けており、葬儀にも出席し、若き詩人の死を強く惜しんだのである。私の考証では(私の『「こゝろ」マニアックス』を参照されたい)啄木がここへ来た時から十年前の明治一〇(一八九八)年に、「先生」はこの軍人の未亡人の素人下宿に移っている設定であるから、この景色は殆んど変わっていないと考えてよいと思う。東京大学の近くであるから、別段、偶然とも言えようが、私はこの啄木のスケッチにそのロケーションが含まれることに激しく感動したのである。「こゝろ」フリークの私には奇縁としか言いようがないのである! 漱石が啄木への秘かにして迂遠なオマージュとしてここを選んだのではないとは、誰も断言は出来ぬと私は思うのである。