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2020/02/04

ブログ1320000アクセス突破記念 ラフカディオ・ハーン 茶樹の縁起 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tradition of the Tea-Plant”)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第五話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」「?」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「沙門品」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   * 

SANG A CHINESE HEART FOURTEEN HUNDRED YEARS AGO : — 

   There is Somebody of whom I am thinking.

   Far away there is Somebody of whom I am thinking.

   A hundred leagues of mountains lie between us ; —

   Yet the same Moon shines upon us, and the passing Wind breathes upon us both. 

   *

無力乍ら、訳すと、

   * 

一千百年の昔に中国人の心を詠んだ歌――

    私が想っている誰かが、いる。

    遠くに私の想っている誰かが、いる。

    私たちの間には百もの山々が横たわっている――

    それでも、同じ月の光が私たちを照らし、同じ風の息が私たち双方を、吹き抜けてゆくのだ。 

   *

機械計算すると、本書刊行時から千百年前は四八〇年で南北朝時代の北魏と南斉に相当する。この時代より少しだけ前なら、二人の大詩人がいる。陶淵明(三六五年~四二七年)と謝霊運(れいうん 三八五年~四三三年)である。しかし、二人以外でも、今のところ、この英訳でピンとくる詩篇は浮かばない。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが百三十二万アクセスを突破した記念として公開する。【202024日 藪野直史】]

 

   茶樹の緣起

 

   『目の慾を節制するは善、

    耳の慾を節制するは善、

    鼻孔の慾を節制するは善、

    舌の慾を節制するは善、

    體の慾を節制するは善、

    言語の慾を節制するは善、

    すべての…………は善』

[やぶちゃん注:所謂「六根清浄」である。「六根」は目・耳・鼻・舌・身・意(心的作用のこと)の各感覚器官の機序によって生ずる欲望や執着、即ち「迷い」を指し、それを断ち切って、穢れのない清い心身になること。これは恐らくは「法句経(ほっくきょう)」の「沙門品(しゃもんほん)第二十五」からであろう。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と称し、仏典の一つで、様々なテクストから仏陀の真理の言葉だけを取り出し、短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典である。語義は「ダンマ」(「真理(法)」)+「パダ」(「言葉」)。編纂者は古代インドの僧であった法救(Dharmatrāta)と考えられており、パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つで、現存経典の内、最古の経典とされる。但し、かなり古いテクストであるものの、釈迦の時代からはかなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(以上の「法句経」についてはウィキの「法句経」に拠った)。以下に、ウィキソースの「國譯法句經」から第三百六十節と第三百六十一節を引いてみる(読みは一部に留めて、少し操作を加えた。以下同じ)。

   *

眼を以つて自(みづか)ら攝(せつ)するは善(よ)く、耳を以つて自ら攝するは善し、鼻によりて攝するは善く、舌の上に自ら攝するは善し。

身に於いて攝するは善く、語(ことば)に於いて攝するは善し、意を以つて攝するは善く、一切處(いつさいしよ)に攝するは善し。一切處に攝する所ある比丘は諸(もろもろ)の苦痛より脫(のが)る。

   *

なお、最後に示すハーンの解説から、彼はフェルナン・フゥー(Fernand Hû 生没年未詳)によるフランス語訳をもとにしている。英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)があり、この冒頭部がそれに相当する。]

 

 またしても誘惑の兀鷹[やぶちゃん注:「はげたか」。]は、彼の冥想の最高空まで翔け上がつてきて、彼の靈魂を下へ、下へと曳きむろし、よろめきつ〻、胸騷ぎしつ〻、迷妄幻覺の浮世へ歸つて行かせた。またしても思ひ出は、有毒な花の香りのやうに、彼の心をふらふらさせた。しかし彼は支那へ行く逍中、カシ市註十二を返る際、ただ瞬間かの巫女を見たのであつた。廣大なる支那の人々は佛法を渴望する事、恰も日に焦げた野原が慈雨を慕ふ如くであつた。彼女が彼を呼び止めて、彼の托鉢の中へ少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の布施を落としてくれた時、實際彼は扇子を彼の面前に揚げて眼を蔽つたのであつたが、したも充分敏速ではなかつた。して、其罪過の罰は千里の距離にも、彼につき纏ひつ〻、世界大敎主の言葉を傳へんとしてきた異國にまでも、彼の跡を追つかけたのであつた。呪はれたる美! たしかに正しき者を滅ぼすため、誘惑者中の最大誘惑者なる、惡魔(マラ)自身が作つたものに相違ない。賢くも薄伽婆(バガヴアツト)はその弟子を戒めてゐる。『爾曹[やぶちゃん注:「じさう(じそう)」対等或いはそれ以下の二人称複数形。汝ら。お前たち。]禁慾者註十三、女は觀るべきものに非らず。爾曹若し女に逢ふことあらば、爾曹眼を注ぐ事なく、貴き決心を把持して、語を交ふること勿れ。また須らく心中に微唱して云ふべし。「我は禁慾者なり。濁世[やぶちゃん注:「ぢよくせ(じょくせ)」。]の汚染を免る〻こと、蓮花の溝溜に開くと雖も猶ほその葉を

 

註十二 カシ市――聖都ビナーリズの古名。神々の創設に係かるものと信ぜられてゐる。また「世界の蓮華」とも呼ばれてゐる。パース氏は「古代並びに近代印度に於ける一切宗派のゼルーサレム」と稱した。今猶ほ二千の寺刹、五十萬の偶像を有する。セリングス氏著「印度の聖都」參照。

註十三 禁慾者 Çramana ――一切諸感覺を克服した人。この名目の興味ある歷史については、佛國[やぶちゃん注:フランス。]學者ブールヌーフ氏著「印度佛敎史序說」參照。

[やぶちゃん注:「カシ市」「聖都ビナーリズ」原文“Kasí”、注原文は“Kasí (or Varanasi).—Ancient name of Benares, the "Sacred City”。古代インドの王国波羅奈国(はならこく:サンスクリット語「ワーラーナシ」の漢音写。別名を「カーシー国」)。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のインド北部のワーラーナシ(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方をいう。釈尊が成道(じょうどう)後、この国の鹿野苑(サールナート) で初めて五人の比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「惡魔(マラ)」“Mara”。釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神。ヒンドゥー教の愛の神カーマと結び付けられ、別名「カーマ」又は「カーママーラ」として一体で概念されることがある。

「薄伽婆(バガヴアツト)」“Bhagavat”。サンスクリットでヒンドゥー教の「神」の意。ヒンドゥー教聖典の一つ「バガヴァッド・ギーター」(「ギーター」は「詩」の意)がよく知られる。]

 

汚さざるが如くせざるべたらず』それから、また新たに恐ろしい意味を以て、彼の記憶に浮かんだのは、訓誡第二十三条であつた――

 『一切煩惱の中、最も强きは形姿の煩惱なり。幸にしてこの慾情は無比なり。若し他にか〻るものあらんか、正道に入ること能はざらん』

[やぶちゃん注:重訳であるために、齟齬があるが、これは恐らく後漢の頃、インド僧迦葉摩騰(かしょうまとう)と後漢の訳経僧で中国に仏教を伝えた最初の僧とされる竺法蘭(じくほうらん)が訳した仏教最初の漢訳経典とされる「四十二章経(しじゅうにしょうぎょう)」が元かと思われる。ウィキの「四十二章経」によれば、『本経の序文に、明帝が大月氏に使者を派遣して写経させたとする記述があるほか、後漢桓帝の延熹』九(一六六)年の『襄楷の上奏文中に本経との類似が見られ、後漢末から三国時代』『には成立していたものと推定させられるが、伝世の経の内容は、南朝の南斉から梁にかけて成立したとされる』。『但し、仏教伝来当初の、後世のような訳場列位に見られるような仏典漢訳システムが全く確立していなかった状況を考えると、後漢当時の漢訳仏典は、後世の首尾一貫した経典とは異なり、外来の僧徒によって説かれた内容が、中国人の奉仏者たちによって箇条書きの形式で記録され、現在見られる『四十二章経』のような形式で伝存していたものということは、十分考えられる』とあるものである。但し、以上の内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「仏説四十二章経」(梶宝順和訳明治二四(一八九一)年刊)を見るに、「第二十三条」ではなく、次の「第二十四章」の内容である

「これのみが特異点で特に強烈な煩悩である。幸いにしてこの欲情はそれに比肩する煩悩が存在しない。もし他に同等のレベルの煩悩があったとしたなら、人は正道に入ることは到底、不可能であろう」の意。]

 實際、このやうに形姿の迷ひに惱まされてゐながら、どうして彼は一夜と一日を天晴れ不斷の冥想に過ごすといふ誓願を完うし得るだらうか。既に夜は始まらんとす! 屹度、靈魂の病、精神の昂奮には祈りの外に療法はない。夕陽は迅速に消えつ〻あつた。彼は祈らうと努力した――

 『南無蓮華寶玉!

 『龜がその甲の中へ四肢を引込める如く、祝福されたる佛よ、願はくは一切私の感覺を全然冥想の中へ撤退させ玉はんことを。

 『南無蓮華寶玉!

 『長く人住まざる家の壞れ屋根に、降雨の侵入する如く、冥想の住まざる靈魂へは、情慾侵入し來たらん。

 『南無蓮華寶玉!

 『一切の粘泥は沈澱しで靜止せる水の如くに、敎主よ、わが靈を純潔ならしめ玉へ。野鳥が太陽の通路を追はんがため沼澤から立ち上がる如くに、敎主よ、われに濁世の上に立ちあがる强き力を與へ玉へ。

 『南無蓮華寶玉!

 『晝は日輝き、夜は月輝く。武士は武具を着けて輝き、禁慾者はまた冥想の中に輝く。さはれ、佛陀は晝も夜も絕え間なく世界を照らして、常住不變に燦然と輝く。

 『南無蓮華寶玉!

 『願はくはわれをして、大覺者よ、この世の森の猿となつて、愚痴の果實の追求捕捉のため永久に輾轉[やぶちゃん注:「てんてん」。巡り移ること。]上下することを止めしめ玉へ。一切を纏繞[やぶちゃん注:「てんぜう(てんじょう)」。纏(まと)いつくこと。絡まりつくこと。]する煩惱の植物は、その生長すること蛇の絡む如く速かに、林中に攀援莖[やぶちゃん注:「つたかづら」と当て訓しておく。]の伸び行く如く廣大なり。

 『南無蓮華寶玉!

 悲しいかな、彼の祈願懇禱は無効であつた、貴い經文の神祕な意味――蓮華の意味、寶玉の意味――は文句から既に發散してしまつてゐた。して、その文句の單調空疎なる吐露は、今や彼を誘惑し懊惱[やぶちゃん注:「あうなう(おうのう)」。悩み悶えること。]せしめた思ひ出を、更にますます危險にも明白ならしむるに過ぎなかた。あはれ、かの女の耳を飾つてゐた寶玉! いかなる蓮華の蕾も、肉を折り重ねた花に、滴るばかりの金剛石の火をつけたる優美にまさることは出來ない! 再び彼にはそれが見えた。またその先きには、褐色の美果の如くに甘味津々たる頰の曲線が見えた。訓誡第二百八十四節は眞理を穿つてゐる――

 『女の方へ心を曳かる〻慾情の蔓は、その量微量小根と雖も、これを心裡より拔き捨てざる限り、その心は則ち束縛の中にあるべし』

[やぶちゃん注:これも訳には一致しない部分が多いものの、恐らくはやはり「法句経」からかと思われる。ウィキソースの「國譯法句經」の二百八十四節は、『男子(なんし)の女子(によし)に對する煩惱、些しにても斷たれざる所あらば、彼(かれ)の心は尙ほ囚はる、乳(にう)を貪る犢(こうし)の母牛(ぼぎう)に於けるが如くに』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 それから、束縛に關して、同書第三百四十五節がまた彼の念頭を衝いた――

 『繩の束縛には何等の力あることなし。また木の桎梏にも、乃至鐡の桎梏にも力あることなし。これよりも更に一層强力なるは、寶玉を飾れる、女の耳環を懸想するととなり』

[やぶちゃん注:同じく「法句経」の「國譯法句經」の三百四十五節は『鐵や、木や、又は草にて作(な)れるものは、賢者(けいしや)は之れを牢(かた)き縛(ばく)と稱せず、珠環(しゆくわん)と、妻子との欲は貪著(とんぢやく)する所ところ强し』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 『全知の喬答摩(ゴータマ)!』と彼は叫んだ。「全見の敎主! 汝の敎訓の慰藉のいかに多方面に亙つてゐること! 流石に人情に對する理解の驚くべきこと! これは矢張り汝の受け玉ひし誘惑の一つであつたのか――かの大地は戰車の如く搖れ、太陽より太陽へ、世界より世界へ、宇宙より宇宙へ、永遠より永遠へと、神聖なる振動が傳つた夜、惡魔によつて汝の面前に配置された無數の迷妄の一つであつたのか』

[やぶちゃん注:「喬答摩(ゴータマ)」“Gotama” 釈迦の姓名。サンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(現代のラテン文字表記:Gautama Śiddhārtha)、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ(同前:Gotama Siddhattha)、漢訳では「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」であるが、姓は漢訳ではこの「喬答摩」(けうたふみ(きょうとうみ))もある。]

 あはれ、かの女の耳の寶玉! 其幻影は去らなかつた。否、それが彼の心眼の前に徘徊する度每に、それは一層溫かい生氣を帶び、一層懷かしさうな眼眸[やぶちゃん注:「まなざし」と当て訓しておく。]を示し、一層美しい姿を呈して、彼の力が弱くなつてくるにつれて、ますます强くなるやうに見えた。彼は鹿のそれのやうな、大きな、淸く澄んだ、柔かくて黑い眼を見た。黑い頭髮の中の眞珠と、石竹色の口に含んだ眞珠、花の如き接吻に渦卷く脣を見た。それから甘美で異樣な、催眠的の薰り――若い香、女の香――が、彼の感覺に浮かんでくるやうに思はれた。立ち上がつて、斷乎たる決心を以て、再び彼は貴い呪文を唱へ、また『無常の章』の物語を誦した――

 『天を眺め地を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「天地は永久なる能はず」と。山を眺め川を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「山川は永久なる能はず」と。外物の形容とその生長を見ては、爾曹須らく言ふべし。「これ永久なる能はず」と』

[やぶちゃん注:「石竹色」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の代表的な花の色のような淡紅色。ピンクにほぼ同じ。原文も“pink”である。

「眞珠」皓歯の換喩。

「無常の章」原文“Chapter of Impermanency”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『無常品(ほん)』とある。「発句経」の「北伝」には「無常品第一」があるが、その中の「所行非常。謂興衰法。夫生輒死。此滅爲樂」(所行は非常なり。謂はく、興衰の法なり。夫れ生ずれば輒(すなは)ち死ぶ。此れ、滅するを樂と爲す。:「涅槃経」の偈「諸行無常。是生滅法。生滅滅已、寂滅爲樂」の「諸行無常偈」がよく知られる)の意訳か。「無常品」は他の経典にもあるが、ここに書かれた内容と一致するものは見出せなかった。]

 しかし、またいかに甘美なる幻影迷妄だらう! 壯大なる太陽の幻迷、影を投ずる山々の幻迷、無定形にして、したも多樣を極むる水の幻迷、それから、またかの幻迷――否、否、何といふ不敬虔なる空想! 忌まはしい女! しかし、それでも何故に彼はたの女を詛ふ[やぶちゃん注:「のろふ」、]べきだらうか。かの女は嘗て一囘たりとも禁慾者の呪詛に値することをしただらうか。それは決してなかつた。ただかの女の姿、かの女の思ひ出、かの女の美しい幻影、それが忌まはしい幻影なのだ。かの女は何でもない。迷妄が愚弄、夢と影、虛榮、懊惱など、さまざまの迷妄を生むのだ。過失と罪は彼自身に、彼の敎に對する反抗的精神に、彼の制御されざる思ひ出に存する。心は水の如く動き易く、蒸氣の如く觸れ難いけれども、しかも意志によつては馴致され、叡智の戰車に繫ぐことが出來る。また幸福を得るためには、是非ともさうせねばならぬ。そこで彼は經文の難有い語句を誦した――

 『一切の諸相はただ假相のみ』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。これは淸淨の道である。

 『一切の諸相には實在性あること莫し』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。この道こそは……

 

 

 かの女の姿もまた實在でなく、眞實でなく、ただ迷妄だらうか。ただし迷妄の中では最も美しいものだ。かの女は彼に施濟[やぶちゃん注:「ほどこし」と当て訓しておく。]を與へた! 施與者の功德もまた迷妄であつたか――その功德は施與者のたをやかな指の美の如くに迷妄であつたか。たしかに阿毘達磨註十四には透徹

 

註十四 阿毘達磨(アビダルマ)――佛敎の哲學。佛敎の哲學は三大門に分たれ、その最高のものが阿毘達磨である。スペンス・ハーデー氏「佛敎提要」によれば、これは佛陀にして始めて悟得される。――(阿毘達磨は論の四つの一に屬し、對法又は無比法と譯せらる。――譯者)

[やぶちゃん注:「阿毘達磨(アビダルマ)」原文は“Book of the Way of the Law”。サンスクリット語ラテン文字転写は「Abhidharma」、漢音写は別に「阿毘曇(あびどん)」「毘曇(びどん)」もある。仏教の教説の思想体系(広義には研究及びそれらの解説書・注釈書を含む)を指す。他に「大法」或いは単に「論」とも漢訳する。

「三大門」仏の説いた「経」・仏の定めた「律」・教義を検討した「論」。

「スペンス・ハーデー」イギリスの仏教学者ロバート・スペンス・ハーディ(Robert Spence Hardy 一八〇三年~一八六八年)「佛敎提要」(Manual of Buddhism)は一八六〇年刊。

「論の四つ」六足論・婆沙論・倶舎論・順正理論か。]

 

了解し得られぬ神祕がある!……かの女が施してくれたのは、象の形の印せる金貨であつた――實際、佛陀に捧げた諸王の贈物が迷妄でなはつたと同樣だ。胸にも金を帯びてゐたが、かの女の皮膚の金色こそ更に一層美したつた。絹の帶と、狹い胸甲[やぶちゃん注:“breast-corslet”。胸当て。]の間に露はれた彼の女の若い腰は、つやつやしく、また弓の如くしなやかであつた。彼の女の聲に含める銀音が、彼の女の踝[やぶちゃん注:「くるぶし」。]に帶ぴた月の如きパガルの銀飾よりも豐艷な音を發したし、何よりもかも女の微笑!――小さな齒は、かの女の口の芳ばしき花[やぶちゃん注:隠喩。]の中に並らべる蕊[やぶちゃん注:「しべ」。]であつた。

 

註十五 パガル――印度婦人が平常着けてゐる環である。中空で、數個の金屬片が入つてゐるから、足を動かすとき響く。

[やぶちゃん注:“pagals”。インド製品の販売サイトの「インドにおけるバングルの存在」の「バングル」というのがそれらしい。但し、現行のそれは腕輪である。しかも、幾つも着けるもののようである。]

 

 何といふ意志の薄弱! 何といふ恥辱! 『決心』の强い御者が、よくもかほどに奔放不羈[やぶちゃん注:「ふき」束縛されないこと。]なる空想の群に對して支配力を失つたこと! かくまで意志が弛緩したのは、襲ひ來たらんとする危險、睡眠に陷らんとする危險の徴候だらうか。是等の空想は不思議にも鮮かで、燦然と輝くばかり明白なので、今にも、今にもありありと具體的形態を帶び、不自然な活動を始め、夢の舞臺の上に邪惡な劇を演じさうに見えた。『願はくば汝全覺者』と彼は聲高く叫んだ。『汝の微賤なる弟子を助けて、正悟の覺醒を得しめ玉へ。彼をしてその誓願を成就する力を發見せしめ玉へ。惡魔をして彼に勝つことを得ざらしめ玉へ』かくて彼は醍覺の章の永遠的章句を誦した――

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を法に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を僧に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を佛に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は全き平和の味を知つてゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は冥想の深き平安を味つてゐる』

[やぶちゃん注:「醍覺の章の永遠的章句」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『広衍品(こうえんほん)』とある。これは「法句経」の「広衍品第二十一」であろう。ウィキソースの「國譯法句經」(対句になっている二百九十六節以下を引く)では(一部の漢字を正字化した)、

   *

瞿曇(くどん)の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は佛(ぶつ)にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は法にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は僧にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に身念に住して。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に不害(ふがい)を樂しみて。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に修習(しゆじふ)を樂しみて。

   *

とあって、そこでは「瞿曇」に注し、『瞿曇又は喬答摩は釋迦族の姓なるが故に、釋尊を時には瞿曇佛と呼びたり』とある。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 

 彼の耳に呟きの聲が聞こえた。水の騷ぐ如き、多數の聲の呟きが彼の發聲を不明ならしめた。星は彼の眺めてゐる前で、消え失せて、限りなき空は暗くなつた。一切のものが、見えなく、黑くなつた。太い呟きは深くなつて、寄せくる潮の如き騷音となつた。また地は彼の足もとから沈んで行くやうに思はれた。彼の足は最早、地には觸れないで、一種の超自然的浮力が、彼の身體のあらゆる纎維に行き渡つた。彼は暗黑裡を浮いてゐるやうに感じた。それたら、柔かに、ゆるやかに沈んで行つて、羽の如くに寺の尖塔から墜ちた。これは死といふものだらうか? 否、何故なら、全く不意に、恰も第六不思議力によつて運ばれた如くに、彼は再び光明の中に立つたからである――或る印度の都會の驚くべき街頭に溶びせられた、水蒸氣のやうで、美しい、香ばしい、眠げな光の中であつた。今は呟きの性質が彼に明白にわかつてきた。彼は大きな巡禮の群と一緖になつて動いてゐたのだ。しかしこの群集は彼と同じ信仰のものではなかつた。彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた! が、彼はその中から脫し得られなかつた。一哩[やぶちゃん注:「マイル」。千六百九メートル。]も幅のある人間の激流は、一枚の葉が恆河[やぶちゃん注:「こうが」、ガンジス川。]の水に流される如く、彼を運んで行つた。そこには行列を隨へた諸王、象に跨つた皇子達、法衣をつけた波羅門僧、それからカビツト註十六とダマーリ註十七を歌はうとして動いてゐる、逸樂的な舞妓の群がゐた。しかし彼等の行先は何處? 彼等は町を出でて、

 

註十六 カビツト――印度の崇敬讃歌の作者が好んで用ひる詩形。常に四句にて成立する。

註十七 ダマーリ――や〻淫蕩的性質を帶びたる一種特別の讃歌。普通印度の祭禮に當つて歌はれる。印度の俗謠と讃歌の簡單にして且つ面白き說明については。ガルサン・ド・タッシー氏著「印度民謠」參照。

[やぶちゃん注:「彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた」ヒンドゥー教で「ティラカ」「ティラク」(「印」の意)と呼ばれる宗教的な装飾。色や形で信仰する宗派を示す。装飾的な意味合いの強い、同教徒の、夫が存命中の女性が同じく額につける「ビンディー」(「点」の意)とは異なり、聖職者や修行者がつけることが多いが、一般人でもつけることが多い(ここはウィキの「ビンディー」に拠った)。

「カビツト」原文“kabit”。

「ダマーリ」damâri”。

「ガルサン・ド・タッシー」フランスの東洋学者ジョセフ・ヘリオドール・サジェス・ヴェルトゥ・ガルシン・デ・タッシー(Joseph Héliodore Sagesse Vertu Garcin de Tassy 一七九四年~一八七八年)。「印度民謠」(Chants populaires de l'Inde)は一八五四年刊。]

 

榕樹の並木通りを經て、棕櫚の聳立[やぶちゃん注:「しやうりつ(しょうりつ)」。]せる間を下つて、日光の照らせる野へと通つて行つた。しかし何處へ行く?

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。亜熱帯から熱帯地方に分布する常緑高木。]

 遠い靑靄[やぶちゃん注:「せいあい」。]の如く、彼等の前方に、山のやうな、堂々たる切石の建築が見えた――それは尖塔林立、高く沖天へ裝飾の金波を、散らせる寺院であつた。近づくに從つて形は大きくなり、靑の色合は灰色に変はり、輪郭は日光の中にくつきりと浮かんできた。それから細部が一つ一つ――岩の龜に載つた柱脚の象、柱頭の大きな獰猛なる顏、彫刻帶の中に絡まつてゐる龍蛇の怪物、格子細工を施せる壁龕相列つて𢌞廊をなせる處に、層又層をなす多頭の玄武岩神像、汚らはしき、忌まはしき肉慾の神々の畫などが明かになつた。それから彫刻された神々と牧羊婦註十八が、狂氣じみ群をなし、四肢や胴體が抱き合つたり重なり合つたりして角錐狀の塊團となつて突出せる下に、彫刻の懸崖面に口を開ける寺門――恰も大自在天(シバ)[やぶちゃん注:四文字へのルビ。]の口の如く暗い洞穴のやうな――は、生ける行列の群集を呑み込んだ。

 

註十八 牧羊歸――牧夫の娛や妻。詑哩史那(クリシユナ)は、毘瑟摯(徧照天)[やぶちゃん注:丸括弧のそれは本文。]の第八番目の權化として現はれた後は、牧羊婦達の間で育てられた。詑哩史那が是等の牧羊婦(ゴトビア)との情事が、諸種の宥名なる神祕的著作の主題となつてゐる。イーストック氏其他の人々によつて譯せられた『愛の海(プレム・サガール)』、イツポリト・フオーシユ氏が佛國[やぶちゃん注:ここはフランス語の意。]の散文に譯したベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ作の肉感的な「ギータ・ゴピンダ」(エドウヰン・アーノルド氏は、その「印度歌集」に、これを純潔なる英詩に譯してゐる)などがそれだ。ブールターフ氏の未完譯「パガヴァタ・アルナ」、並びにテオドール・パヴイー氏の「詑哩史那とその敎理」參照。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この題材は、印度藝術中、數個の最も珍異なる作品に影響を與へてゐる。例へばムーア氏著「印度萬神廟』(一八六一年版)第六十五圖及び第六十六圖參照。詑哩史那と牧羊歸の崇拜に關聯する變愛的神祕については、バート氏著「印度の宗敎」に擧げられてる諸書、ド・タツシー氏著「印度民謠」、及びラメーラス氏著「南方印度俗謠」參照。

[やぶちゃん注:「大自在天(シバ)」原文“Siva”。シヴァ(サンスクリット語の現在のラテン文字転写:Śiva:「吉祥者」の意)はヒンドゥー教の神で、破壊と再生を司る。現代のヒンドゥー教ではブラフマー(宇宙の創造神。仏教に取り入れられて「梵天」となった)・ヴィシュヌ(ベーダ神話では太陽神であるが、後の叙事詩では破壊神シヴァと並んで最高神とされ、慈愛・恩寵を垂れ、生類救済のため十種の形をとって世に現れるとされる。仏陀さえもその化身の一つとする)とともに最も影響力を持つ三柱の主神の中の一柱。ヒンドゥー教の原型であるバラモン教では世界を創造し支配する最高神を「イーシュヴァラ」(Īśvara)と言ったが、これが「シヴァ」の別名となり、仏教で後にバラモンやヒンドゥーの神々が取り入れられた際、「イーシュヴァラ」や異名の「マヘーシュヴァラ」がそれぞれ「自在天」「大自在天」と漢訳され、異名は千以上あるとも言われる。仏教では、シヴァ神と同じく、三目八臂で白牛に乗り、外道(仏教以外)と同様の神像で表現されるが、一方、密教の曼荼羅などにあっては、諸尊の一神としても重要な位置を占め、曼荼羅では男女一対で表され、妃を烏摩妃(うまひ)という。また仏や菩薩の化身という解釈もなされている(以上はウィキの「シヴァ」「大自在天」を参考にした)。

「牧羊歸」原文“Gopia”。英語辞書等の「gopi」に、もとサンスクリット語でヒンドゥー教に於けるヴィシュヌ神学で言う「ゴーピ」で、プラーナ文献(Purana:プラーナム・アーキヤーナム。「古き物語」の意)に登場する、クリシュナ神(ヒンドゥー教神話の神。後にヴィシュヌ神と同一視され、その十大化身の一つともされた。多くの悪鬼を滅ぼし、世を救うための偉業を行ったとされ、多くの彫刻や絵画の題材となっている。原注の「詑哩史那(クリシユナ)」)に仕える牛飼いの乙女。クリシャナ神との関係により、友・召使い・使者の三種類に分類されるといったことが記されてある。

「毘瑟摯(徧照天)」原文“Vishnu”のみ。ヴィシュヌ神。前の前の注の太字部を参照。丸括弧は落合氏が附したものだが、これは「遍照天」であって仏教の天部の神ではなく、三界の内で色界十八天の下位から数えて第九番目、色界第三禅の第三番目の天を指す語であるから、かえってない方がよかろうと私は思う。

「イーストック」イギリスの東洋学者で外交官・保守党議員であったエドワード・バックハウス・イーストウィック(Edward Backhouse Eastwick 一八一四年~一八八三年)。「愛の海(プレム・サガール)」(原題は“The Prema-sâgara; or, Ocean of Love”。「Prema」はサンスクリット語で「神聖なる愛」、「sâgara」は数字の「4」)は一八二三年以前に刊行されており、イギリスの東洋学者にしてヒンドゥー語のスペシャリストであったフレデリック・ピンコット(Frederic Pincott  一八三六年~一八九六年)との共訳である。

「イツポリト・フオーシユ」フランスのインド学者で翻訳家であったイポリット・フォーシュ(Hippolyte Fauche 一七九七年~一八六九年)。

「ベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ」名の原文は“Jayadeva”。十二世紀のインドの詩人ジャヤデーヴァ。

「ギータ・ゴピンダ」ジャヤデーヴァが詠じたクリシュナと恋人の女性ラーダーとの愛を書いた叙事詩「ギータ・ゴーヴィンダ」。ヒンドゥー教のバクティ(「最高神への絶対的帰依」)を示す重要な文書とされる。正確な原題は“Le Gita-govinda et le Ritou-Sanhara”(「ギータ・ゴーヴィンダとリトゥ・サンハーラ」。後者は古代インドの詩人(五世紀か)カーリダーサの真作と見做されている六つの季節の変化を描いた抒情詩集)で、フォーシュが一八五〇年に刊行したフランス語初訳本である。

「エドウヰン・アーノルド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者で作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる人物。『小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次訳)』で詳しく注をしておいた。後に彼と小泉八雲が逢ったかどうかは微妙である。

「印度歌集」 “Indian Song of Songs”はアーノルドが一八七五年に刊行した「ギータ・ゴーヴィンダ」の翻訳。

「ブールターフ」フランスの東洋学者(インド学者・イラン学者)として、仏教とゾロアスター教を研究したウジェーヌ・ビュルヌフ(Eugène Burnouf  一八〇一年~一八五二年)。

「パガヴァタ・アルナ」原文は“Bhagavata Parana”。バーガヴァタ・プラーナ。書名は正確には“Le Bhâgavata purâa”(「クリシュナ神の物語」の意)ブルヌゥフが第一巻を一八四〇年に、第二巻を一八四四年に、第三巻は一八四七年に翻訳刊行した。未完に終わったが、残る第四巻と第五巻は没後にフランスのインド学者ウジェーヌ・ルイ・オーヴェット・ベノー(Eugène-Louis Hauvette-Besnault 一八二〇年~一八八八年)らによって翻訳されて完結した(因みに本ハーンの作品集は一八八七年年刊である)。

「テオドール・パヴイー」フランスの旅行家で作家・東洋学者であったテオドール・パヴィ(Théodore Pavie 一八一一年~一八九六年)。「詑哩史那とその敎理」"Krichna et sa doctrine"は一八五二年刊。

「ムーア」イギリス人で元東インド会社所属の軍人でインド学者のエドワード・ムーア(Edward Moor  一七七一年~一八四八年)

「印度萬神廟」"The Hindoo Pantheon"「一八六一年版」とあるのは初版は一八一〇年であるから。その「一八六一版」の「第六十五圖及び第六十六圖」が“Internet Archive”のこちらと、こちら見られる。

「バート」フランスの東洋学者オーギュスト・バース(Auguste Barth  一八三四年~一九一六年)。「印度の宗敎」(Les Religions de l'Inde)は一八七九年刊。

De Tassy's "Chants populaires de l'Inde"; and Lamairesse's "Poésies populaires du Sud de l'Inde."

「ド・タツシー氏著印度民謠」本篇で既出既注。

「ラメーラス」エンジニア(橋・道路・灌漑事業などについてインドで従事した)で翻訳家のピエール=ウージューヌ・ラメーラス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年)。「南方印度俗謠」 (Poésies populaires du Sud de l'Inde)は一八六七年刊。]

 

 群集の渦卷は彼を内部の廣い處へぐるぐる伴つて行つた。誰も彼の黃色の服を眼に留めるものはなかつた。また彼の存在を注意するものさへゐないやうであつた。高い大きな通廊が交錯して、奇異な彫刻を施せる無數の巨柱は、炬火[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。篝火。松明(たいまつ)。]の黃色な光の背後へ、見分け難い遠方までつづいた。凄いほど肉感的な畸形怪像が、香州靄裡にぬつと現はれた。遠くからは象や、鳥頭鳥翼人體人肢の鳥の形に見えた巨像が、近寄つてみると、趣が變はつて、其意匠の奥妙は、婦人の身體を組み合はせた處にあることが現はれてゐた。或る同一の神がすべての奇怪な譬喩を支配し、絕えず同一の神體又は魔像が彫刻家の手によつて繰返され、恰も獨りで增殖して行くやうに見えた。大きな柱はそのものが象徴、人物、淫蕩の狀を示し、それから、この崇拜の亂痴氣騷ぎの精神は、燭燈の拗れた[やぶちゃん注:「ねじれた」と読んでおく。]眞鍮に、酒杯の歪んだ黃金に、水槽の彫刻せる大理石に、あらゆる器物に活躍橫溢してゐた。

 どれほどの距離を進んできたのか、彼にはわからなかつた。その數限りなき柱の間を經て、その化石せる神々の群を越え、閃めく燈光の列に沿つて下つて行つた旅路こそ、隊商の旅行や、支那への巡禮よりも更に長いやうに思はれた。しかし不意に何と譯がわからなく、墓地のやうな靜寂が襲つてきた。生氣躍如たる大海の潮は、彼の周圍から引き退いて、地下の建物の深淵裡に呑噬[やぶちゃん注:「どんぜい」。「噬」は「かむ」の意。噛んで飲み込むこと。]されてしまつたやうに思はれた。彼は獨り或る見知らぬ土窖[やぶちゃん注:二字で「あなぐら」と当て訓しておく。]の中で、貝殼狀の淺い盤の前にゐるのを發見した。盤の中央には人間の高さよりも低い圓柱があつて、その滑かな球形の絕頂には、花環がまきつけてあつた。上には悉く同形で且つ棕櫚の油を注いだ澤山の燈臺が懸たつてゐた。其他には彫像もなく、祀つた神體も見えなかつた。數知れぬ種類の花が鋪床[やぶちゃん注:二字で「ゆか」と当て訓しておく。]の上に堆積されて、厚い柔かな絨氈の如く滿面を蔽つて、彼が踏む足の下から、その馥郁たる芳精香粹を吐いた。その感覺的で、醉はせるやうな、不淨な匂ひは、彼の腦膸へ透徹滲染した。抵抗し難き倦怠が彼の意志を征服し、彼の身體はがつくり花の上に崩折れた。

 囁きの如く輕やかな跫音が、鈍い踝環[やぶちゃん注:「かくわん(かかん)」と音読みするしかあるまい。]の鳴る音と共に、重げな靜けさの中を通じて[やぶちゃん注:ママ。「通つて」の方がいい。]近づいてきた。突然彼は頸のまはりに、女の腕の微溫な滑らかさが辷る[やぶちゃん注:「すべる」。]のを感じた。あの女、あの女だ! 彼の迷妄、彼の誘惑なのだ。しかし何といふ變形變貌だらう! 超自然的の美、不可思議の魅惑! 彼の頰に接觸した女の頰は、素馨の花瓣の如く纎柔で、彼を見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]双眸は、夜の如く深く、夏の如く美はしかつた。女の花脣[やぶちゃん注:「くわしん(かしん)」と音読みしておく。]はさ〻やいた――

 『あなたは心の盜人です。どんなにあなたを探がしたことでせう! どんなに骨折つて發見したこと! うまい味のものを私は持つてきました――脣と胸、果物と花。渴きをお感じなさる? 私の眼の泉からお飮みなさい。犧牲をお捧げになりたい? 私はあなたの祭壇です。御祈をしたい? 私はあなたの神です!』

 彼等の脣は觸れた。彼女の接吻は、彼の血液の細胞を炎に變化させたやうに思はれた。暫らくは迷妄が凱歌を奏した。惡魔が勝利を占めた!……激した決心の衝動と共に、夢みる人は夜中に目醒めた――支那の空の星の下に。

 

 

 ただ束の間の睡眠の眞似のやうなものであつたが、しかも誓ひを破り、神聖な目的に違背したのであつた! 屈辱と悔恨を感じながらも、斷乎たる決心を以て、禁慾者は彼の帶から鋭利なる小刀を拔き、潔くも兩方の眼瞼を斬り捨てた。彼は祈つた。『全覺の主よ! 汝の弟子はただ肉體が無力薄弱であつたために打負かされました。今や彼はその誓ひを新たにいたしました。食はず飮まずに、こ〻に誓願成就の時まで留まつてゐます』して、僧侶の姿勢――兩足を組んで坐つて、兩手の掌を上に向け、右掌は掌左の上に、左掌は仰向けた足の裏の上にのせて――を取つてから、彼は再び冥想を始めた。

 

 

 東雲紅色を呈し、日が明かるくなつた。太陽は地上のあらゆる影を短くして、またそれを長くし、それから遂に深紅に燃ゆる雲の彼の[やぶちゃん注:「かの」]火葬壇に沒した[やぶちゃん注:西の夕焼けと日没の隠喩。]。夜がきて、きらきらして、また去つた。しかし惡魔は彼に誘惑を演じても無効に了つた。今度は誓願成就、神聖なる目的は遂げられた。

 して、再び太陽は昇つて、光りの笑ひを以て世界を充たした。一切の花はその心を太陽に開いた。鳥は朝拜の火の讃歌を歌つた。深い森は愉悅に震へた。して、平野の上遠く、幾層階の寺院の軒頭と、市の塔の尖頂は、燦々たる輝きに浴し始めた。聖願滿足の念に勇んで、印度の巡禮者は朝暉の中に起き上がつた。彼は兩手を眼にもたげた時に愕然喫驚した[やぶちゃん注:「びつくりした」。]。何事ぞ! 一切は夢であつた? そんな事はない筈だ! が、彼の眼は今は少しの痛みをも感じない。また眼瞼も失つてもゐない。一本の睫毛さへも缺けてゐない。何といふ奇蹟! 彼は斬り捨てて地上に投げた眼瞼を搜索して見たが、駄目であつた。それは不思議にも無くなつてゐた。しかし見よ! 彼が投げ捨てた場所に、二株の驚くべき灌木が生えてゐた。その纎細な葉は、眼瞼の形狀を呈し、雪のやうな蕾は、今しも東方に向つて開かうとしてゐた。

 すると、その偉大なる冥想に於て獲たる[やぶちゃん注:「えたる」。]不可思議力の功德によつて、尊き傳道の僧は、其新たに創られた植物の祕密――その葉の奇特なる功能を知ることができた、しで、彼が法華經を齎した處の國の言葉で、彼はそれを茶と命名し、且つそれに向つて述べた――

 『正しい決心によつて作られ、惠み深く、生命を賦與する、汝うるはしき木よ、汝に祝福あれ! 見よ、汝の盛名は爾來地球の果てまでも擴がるに相違ない。それから、汝の生命の香りは、四方の風によつて、極めて遠い地方へも運ばれるにきまつてゐる。たしかに、今後いつまでも、汝の液汁を飮むものは、疲勞も彼に勝つことができないし、倦怠も襲はないやうな爽快を見出すだらう。また彼は眠氣[やぶちゃん注:「ねむけ」。]の混亂をも、勤行の祈禱の際、假睡[やぶちゃん注:「うたたね」と当て訓しておく。]を欲する念をも感じないだらう。祝福汝にあれ!』

 

 

 して、今猶ほ抹香の霞の如く、世界中から犧牲を捧げる煙のやうに、神聖なる誓の力、敬虔なる敬虔なる贖罪の功德によつて、人間の心氣を爽快にするために作られた茶の心地よき蒸氣が、地上のあらゆる國々から、絕え間なく天へ立ち騰つてゐる。

 

沙門品

 

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[やぶちゃん注:「沙門品」既注の「法句経」の「沙門品第二十五」のこと。 ] 



【ハーンによる「解說」】

 『茶樹の緣起』――私の昔噺は、一八七一年發行『支那事誌』に見えたブレツトシユナイダー氏の簡單なる記事に據つたものである――

 『日本の傳說によると、西曆五百十九年頃に、一人の佛僧が支那へ渡つた。彼の全靈全心を神に獻げん[やぶちゃん注:「ささげん」。]がために、彼は晝も夜も常住不斷、冥想をつづける誓を立てた。精進多年、非常に疲れた擧句、彼は睡眠に陷つた。翌朝目が醒めてから、彼は誓を破つたことを大いに殘念がつて、兩方の眼瞼を切つて、地に投げ捨てた。翌日その處へ歸つて見ると、彼は眼瞼が各〻一本の灌木となつてゐるのを發見した。これがその當時まで未だ知られなかつた茶樹であつた』

 ブレツトシユナイダー氏は、この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる。しかしもともと佛敎とその一切驚くべき傳說は、支那から日本へ傳つたのであるから、この傳說もまだ[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]支那に[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]淵源を有し、後になつて日本の年代で作り變へられたものと思はれる。私の佛敎經句はフエルナン・ユー氏の譯及びレオン・フヰーア氏の西藏語[やぶちゃん注:「チベットご」。]よりの譯から採つたのである。若し閑暇の際、拙著に一瞥を賜はる東洋學者があれば、彼は私がまた梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサからも、一つ二つの思想を藉りてゐることを見出すであらう。

[やぶちゃん注:「沙門品」「沙門果経」(しゃもんかきょう:パーリ語カタカナ音写:サーマンニャパラ・スッタ)か。出家修行者の修行の果報を釈迦が説いた形の経典。戒律(具足戒)を守ることによる果報・止行による果報・観行による果報(六神通)が順を追って説かれた初期仏教の代表的な貴重経典である。

「支那事誌」“Chinese Recorder”。正式には“Chinese Recorder and Missionary Journal” は一八六七年に上海で発行された、英語圏宣教師向けの雑誌。一九四一年に日本当局(この年、上海共同租界が日本軍によって接収されている)によって廃刊させられている。

「ブレツトシユナイダー」恐らくドイツ人の中国学者エミール・ブレットシュナイダー(Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)であろう。ウィキの「エミール・ブレットシュナイダー」によれば、現在のラトビア生まれで、『ロシア帝国の外交団の医師として北京などで働き、中国の歴史に関する著作を行った』。『エストニアのドルパート大学で医学を学んだ』後、一八六二年から一八六五年の『間、テヘランのロシア公使館の医師として働いた後、北京のロシア公使館の医師として働いた』。一八六六年に『出版されたヘンリー・ユールの著書『中国および中国への道』("Cathay and the Way Thither")を読んで中国学に興味を持った。北京にいる間にロシアの初期の中国研究者でロシア正教の修道院長、パルラディ・カファロフと知り合い、ロシアの教会伝道組織が集めた中国の歴史や地理や本草学の膨大な書籍のコレクションを閲覧することができた。それまでのヨーロッパにおける中国研究が直接、中国の原著を研究することが少なかったのに対して、ブレットシュナイダーは特に本草書や地理学の中国の書籍を一次資料とする研究を始めた』。一八七〇年に『最初の中国に関する著作、"Fusang- Who discovered America ?"を出版し、 "On the Knowledge Possessed by the Chinese of the Arabs and Arabian Colonies Mentioned in Chinese Books"をロンドンで出版した』。一八七五年に『上海で"Notes on Chinese medieval travellers to the West"を出版し』、一八八一年に『"Early European researches into the flora of China"を出版した。植物学史における先駆的な書籍である』。一八八八年の著書、"Mediaeval researches from Eastern Asiatic Sources : fragments towards the knowledge of the geography and history of Central and Western Asia from the 13th to the 17th century"を出版し、その中で』十二『世紀の耶律楚材や丘長春の旅行記の英訳を行った』。『植物学の分野でも』一八八〇『年から北京に近い山麓に栽培園をつくり、乾燥標本をイギリスのキューガーデンに送った。植物学に関する著書には"On the Study and Value of Chinese Botanical Works" (1870) "Early European Researches into the Flora of China" (1881) "Botanicum Sinicum" (1882)などがあり、全』二『巻の『中国におけるヨーロッパ人の植物発見史』("History of European Botanical Studies in China")もある』とあって、その事蹟(中国の伝承に詳しく、しかも植物学に精通している)から彼の書いたものが本篇の種元であると考えて如何にもしっくりくるからである。

「西曆五百十九年頃」継体天皇十三年で、古墳時代である。

「一人の佛僧が支那へ渡つた」という謂い方は、「日本の傳說によると」という前振りからは、あたかも日本の僧がという誤解を引き起こす恐れがある。日本への公的な伝来は宣化三 (五三八) 年に百済の聖明王が釈迦仏像と経典その他を本邦の朝廷に献上した時が公伝とされる。ただ、六世紀初めから一部の渡来人やその子孫によって仏教は信仰されていたと考えられてはいるから、まんざらおかしくはない。しかし、ハーンの本文を読むと、主人公の僧は日本ではなく、インドの僧で布教のためにインドから中国に入ったという形で設定されており、日本人の僧では各シチュエーションが全く説明不能となってしまうから問題外である(ブレットシュナイダーの原記事でも読めればと思うのだが)。しかも、以上の設定でも、展開に腑に落ちない変な部分が多過ぎる。明らかに既に中国国内にありながら、キー・マンである「女」の姿や僧が徘徊する景色が中国のそれではなく、インドへ逆戻りしているというのが、読んでいて何となっく喉に刺さった魚の骨のようなイラついた違和感を引き起こすのである(私は最終的にそれを降魔が引き起こした幻想世界であるとして読み下して納得はしているが)。これ以上はこの問題を私は特に掘り下げない。さらに言っておくと、本篇は「茶樹の緣起」なわけだが、茶(ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis)は現在、熱帯及び亜熱帯・温帯域で植生する常緑樹であるものの、ウィキの「茶」によれば、『茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある』。『中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる』。『しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」「茗(めい)」「荈(せん)」「檟(か)」といった文字が当てられていた』。『書籍に現れるものとしては、紀元前』二『世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある』[やぶちゃん注:漢字を恣意的に正字に直したので、引用符を外す。]。

苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五藏邪氣。厭穀。胃痹。久服安心益氣。聡察少臥。輕身耐老。

『陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は』、「茶に疾病を治癒する薬効は認められない」として『これを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではない』、『と陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある』。『「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から』百『キロメートルほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる』。『この「僮約」には神爵』三年(紀元前五九年)という『日付が付されており、紀元前』一『世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる』。『後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している』。『南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代』(五〇二~五五七年)『に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている』とある。以上の茶の歴史の推定を馬鹿正直に受け止めて、改めて本篇内の時制を敢えて考えるならば――中国で茶の木が、この主人公の僧の両眼の瞼(まぶた)の肉片から誕生したのは、少なくとも紀元前五世紀前後(釈迦存命を上限とするからである)に遡って下限は紀元前一世紀後半以前でなくてはならない――ということとなろう。因みに、日本への茶の伝来は遙かに遅く、明確な伝来時期は不明ながら、一般的には延暦二四(八〇五)年に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことに始まると言われているし、空海も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を嵯峨天皇に献じた際の奉納表の中に記されてあるという。一説には既に奈良時代に伝来していたとする見解もあるらしい。しかし、その後、遣唐使が廃止されるとともに唐風の習俗が衰え、茶も盛んにはならなかったようである。茶を薬として再興させたのは、栄西が建久二(一一九一)年に南宋から茶の種子や苗木を持ち帰って、その薬効や作法を記した「喫茶養生記」を書いた本邦における臨済宗の開祖とされる栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)であった。

「この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる」私も伝奇・志怪小説のフリークであるが、聴いたことがない。中国の文献でこの話の類話を御存じの方は是非御教授願いたい。

「フエルナン・ユー」原文“Fernand Hû”。フェルナン・ユゥーは生没年未詳であるが、恐らくはフランス人(姓の表記から中国人との混血か?)。既に注で何度も述べたが、英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)がある。

「レオン・フヰーア」フランスの言語学者・東洋学者であったヘンリ=レオン・フィアー(Henri-Léon Feer 一八三〇 年~一九〇二年)。

「梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサ」原文“Bhâminî-Vilâsa”。不詳。この名で検索で掛かることは掛かるけれども、古いインドの詩人らしいことは判るものの、我、愚鈍にしてここに注を加えるレベルの内容を取得し得ない。識者の御教授を乞う。

「一つ二つの思想」同前により全く不詳。]

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