三州奇談卷之二 空家の妖猫
空家の妖猫
金澤家中御祐筆大村何某(なにがし)と云ふ人語られけるは、十七歲の時の事なり、勇氣も武藝も今よりはよくや侍らん。同苗何某が家、小立野(こだつの)にありけるが、久敷(ひさしき)遠所へ引越しける。其屋敷を門番のみ守りける。奥座敷は隣家へ近く、却て門へは遠かりしに、いつの程よりか奧座敷の家に人の住む躰(てい)なり。前の程は近所よりも、一類衆にても泊り居らるゝやと思ひけるが、門番に尋ね、一類衆に聞えてこそふしぎは立ちそめける。いかさま夜陰或は雨中の晝などは、四五人も物語りする躰(てい)なり。取分けて乳母の子をすかす聲は、慥に聞えける。
[やぶちゃん注:「祐筆」「右筆」とも書く。武家の職名で貴人に侍して文書を書く役目の人。「右筆」の文字は鎌倉時代から見え、鎌倉幕府では引付衆の下役に、室町幕府でも「右筆方」があり、「右筆」は「奉行人」などとも呼ばれている。戦国時代にも大名の身辺に右筆をおいた。江戸幕府も大老・老中・若年寄の下に奥右筆・表右筆が置かれ、また、このように諸藩の大名も身辺に右筆を置くことが多かった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「大村何某」加賀藩右筆に大村氏が確かにいる。
「小立野」石川県金沢市小立野(グーグル・マップ・データ)。
「一類衆に聞えてこそふしぎは立ちそめける」やや省略があるようで、「大村」氏の一族で彼の旧宅近くに住む親族の一類の者らに直接確かめたところ、そのような事実はなかった、ということであろう。]
此事、隣家幷に向ひなどにも聞付けて、化物屋敷の樣に沙汰する程に、止むことを得ず若黨一人連れて、其家へ泊りに行しことあり。
其頃は五月雨(さみだれ)のふりみふらずみ雲覆ひ、ねぶの花など落亂れ、殊に疊さへ上りて久敷人住まざりし家なれば、壁も落ち、屋ねも漏り、只四面𤲿(ゑがき)ける樣にかび渡り、居るべき樣(やう)もなかりけれども、明かさでは見屆け難く、我は座敷に座し、若黨は臺所に寢ころびて明かしける。
我も鉢卷しめ、刀の目釘喰(くは)しめし、
「すはやといはば」
と待ち居ぬ。若黨は少し袖岡流の棒を覺へ居(をり)ければ、樫の棒を持ちて居(を)る。
[やぶちゃん注:「刀の目釘喰(くは)しめ」刀の柄の部分の刀身の茎(なかご)をとめる目釘を一度外して、改めて緩みがないように差し固めたことを指すように私には思われる。
「袖岡流の棒」明確なルーツを探し得なかったが、鈍体である棒を用いた護身術として広く知られたもののようで、後の芸能・大道芸にも伝えられた棒術のようである。]
其夜は何の事なく、短夜の明易く明果(はて)しに、
「物の目にかゝらぬは口惜し」
とて、又明日の夜も同じ樣に行きて宿りけるに、其夜九つよりは早くや侍らん、臺所に居たる若黨、大音にて、
「推參なり」
とて、棒にて板の間を
「はた」
と打つに、寂として手ごたへの物もなかりけれども、我も其音に座を立ちけるに、座敷の壁へ
「くわつ」
と黃色なる明りの
「きらり」
とうつると見えし。其外何も目に懸かる物はなし。
若黨に樣子を聞けば、
「前夜・今宵もはしりの本(もと)に物の見ゆる樣に侍りしが、今夜は正しく手本迄近寄ると思ふ頃に、『はた』と打ちけれども、何も手ごたへはなし」
と云ふ。
[やぶちゃん注:「はしりの本」「走りの本」。台所の流しの外へ出る開口している部分。]
彼(かの)黃に光りたる時は、家の内角々(すみずみ)迄も物見えけるが、何の音もなかりける。
されども、是より怪みも止みて、人語もなくなりける。
其後(そののち)同苗も歸り、家を修理して住みけるに、何のふしぎもなし。何となく其頃は「猫の妖」と云ふらしける。
[やぶちゃん注:本話は最後に突然根拠なく「猫の妖」とし、その根拠や証左・前振りの匂わせ等を殆んど示していない点(子を宥める乳母の声(母猫の子猫をあやす声と思しいか)、猫の毛色に似た黄色い妖光、台所の人の通れない猫なら通れそうな走り本ぐらい)、怪異が起こるのが実際の原住地でない同姓の一族の知り合いの旧宅というくだくだしい設定に(それは逆に事実譚らしいとも思わせる効果はあるが)、怪談としてのプレの要素に何かやや欠けている感じがあり、怪異自体も朦朧として映像的でなく、怪談作品としては下の部類に属するという感じが私にはする。]
« 三州奇談卷之二 幽冥有ㇾ道 | トップページ | 石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 手套を脱ぐ時 (その1) »