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« 三州奇談卷之二 禪定石の辨 | トップページ | 三州奇談卷之二 水嶋の水獸 »

2020/02/15

三州奇談卷之二 淫女渡ㇾ水

 

    淫女渡ㇾ水

 鶴來(つるぎ)の里はしら山權現の麓にて、酒家尤も多し。加賀の名酒と稱する所なり。昔は「劍」と云ひしも、美酒を出す所なれば、相公綱紀公の御時より、白鶴飛來(きた)るの字を以て、「鶴來」とは改め給ふ。白根川の大流數里を流れ、荒波巖にほとばしりて、見るに肝消ゆるが如し。此邊(このあたり)には「和佐谷(わさだに)の渡し」、「燈臺笹(とだしの)の渡し」とて、岩頭より綱を引渡し、是にすがりて往來の人を渡す舟あり。然共(しかれども)在鄕通ひの小道なれば、危(あやふ)き事も多き所なり。此川末(かわすゑ)は「手取川の渡し」に至り、川幅一里に及ぶ。誠に大井・天龍といへども及ぶことなし。直に「湊の浦」に流れ出(いだ)す故に、漁梁(ぎよりやう)[やぶちゃん注:川漁の簗(やな)。]又多し。

[やぶちゃん注:標題は「淫女(いんじよ)水を渡る」。しかし私は孰れの彼女をも「淫女」とは思わない。

「鶴來(つるぎ)の里」現在の石川県白山市鶴来本町周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「相公綱紀公」加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。

「白根川」現在の鶴来の東を貫流する手取川の流域異名か。

「和佐谷(わさだに)の渡し」現在の石川県能美市和佐谷町(わさだにまち)は鶴来本町の手取川を隔てた対岸の南直近で北を手取川が流れる。ここのどこかであろう。

「燈臺笹(とだしの)の渡し」国書刊行会本の筆写原本はカタカナで『トタシノ』と振る。現在の能美市灯台笹町(とだしのまち)。鶴来本町の手取川を隔てた対岸の西直近で北をやはり手取川が流れる。ここのどこかであろう。地名については、「テレビ金沢」公式サイト内のこちらに、『山の上に、手取川の渡し船のための常夜灯があり、川原には笹の茂みがあったことから』とあった。

「手取川の渡し」現在の能美郡川北町木呂場(ころば)にあった。この付近。現在の川幅は五百メートルもないが、当時は氾濫原を合わせて非常に広かったことが判る。芭蕉が、「奥の細道」で詠んだ、

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風

と詠んだのがこの渡しであったとされ、現在、「芭蕉の渡し」と呼ばれ、その碑が手取川右岸のやや内陸側にある。「公益社団法人石川県観光連盟」公式サイト内のこちらを参照されたい。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 63 金沢 あかあかと日は難面もあきの風』もどうぞ。

「湊の浦」現在の手取川河口付近であろう。鍵括弧で括ったが、固有名詞ではないかも知れない。]

 此川そひの里に「あつき」と云ふあり。

[やぶちゃん注:「あつき」国書刊行会本は『あきつね』として編者傍注で『(秋常)』とし、「近世奇談全集」では『あつねき』とする。現在、能美市秋常町(あきつねまち)があるので、「あきつね」が現行の地名からは正しいことになろうと思う。

 善兵衞と云ふは祭角力(まつりすまふ)にも名高き强力(がうりき)の者なり。或秋くれの月なき夜に、鮭梁(さけやな)の邊りを盜み打(うち)にせんとて、網をさげて此川添を窺ひ行きしに、不思議や水の行廻(ゆきめぐ)りたる所に、

「ひたひた」

と物の音する。

『何樣(なにさま)川獺の魚を追ひて來るにや。何にもせよ得物なれ』

と、彼(か)のアハウチと云ふ重き網を

「ざぶ」

と打込みしに、何やらん重きもの

「ひた」

と取付きたり。

[やぶちゃん注:「梁」河川の両岸又は片岸から、列状に杭や石などを敷設し、水流を堰き止め、それで誘導されてきた魚類の流路を塞いで捕獲する漁具・仕掛けのこと。

「アハウチ」如何なる網かは不詳。この名では現存しない模様である。錘のついた放ち網のこととは思われる。]

 引上げて見るに、眞白に見へけるまゝ、怪しみてよく見れば、女の白きひとへを着たるが、髮は亂れて藻くづの如く流れながら、彼(かの)網を力(ちから)に這上(はひあが)る。よの常の者ならんには、肝を失ひ逃げもはつ[やぶちゃん注:「果つ」。]べきなれども、聞ゆる强氣(がうき)の善兵衞なれば、ちつともさはがず、

「何者ぞ、名乘れ」

と云ひけるに、女は水を多く吹返し、暫く胸を押下(おしさ)げ、

「嬉しや、御蔭にて岸に上り侍りぬ、かまへて沙汰し給ふな」

と行過んとす。

[やぶちゃん注:「かまへて」は呼応の副詞で「決して私に対して何もなさいますな」の意。]

「あやしや、何ものなれば闇夜といひ、女の身にて、かゝる大河を越えて何國(いづく)へか行く。やわか人間にはあらじ。我が力の程をこゝろみん爲か」

[やぶちゃん注:「やわか」副詞「やわ」+係助詞「か」。よもや。まさか。ここは呼応の副詞の用法で、強い反語の意を含んだ打消推量。]

とて、

「とかく引(ひき)くゝりて、夜の明る迄置(おく)べし」

と云ふに驚き、

「曾て別の者にも非ず、只ゆるして通し給へ。」

[やぶちゃん注:「曾て」副詞で、下に打消の語を伴って「今まで一度も~ない」の意。ここは「決して」の意の強調形。]

 善兵衞は

「なのらずば通さじ」

と云ふ。

女今は詮方なく、

「我は鶴來の何某(なにがし)の家に遺はるゝ婢女(はしため)なり。川向(かはむかひ)の里に馴染(なじみ)の男ありて、よなよな通ひ侍る。人の見咎めん事を恐れ、渡し舟にも乘侯はず。ぬば玉の闇を悅び、あやしの業(わざ)も只一筋のわすれ難き戀路に心亂れて、渡し場に人なき折を考へ、「とだしのわたし」[やぶちゃん注:前に出た「燈臺笹(とたしの)の渡し」であろう。]綱に取つき、さゝがにの糸あやぶく[やぶちゃん注:ママ。]も手ぐり手ぐり每夜行通ひ侍る。今宵はことに篠の露の深く、手すべりて繩を取はづし、水に落ちて是(ここ)迄流れて侍る。もはや夜も更行き候へば、ゆるしておはせ」

とて、末は男の名も名乘(なのり)たるに、思ひ合(あひ)ぬる事もあり。

「扨は其人か」

と、則ち放しやりぬ。

「女の一念の扨も」

と、又がたりに聞えけるを、[やぶちゃん注:ここでこの話を聴いている筆者の現在時制のシチュエーションに転換している。]傍の人の引取て咄しけるは、

「是は享保十五六年[やぶちゃん注:一七三〇年~一七三一年。]の頃にやと覺ゆ。我(われ)京へ月每に通ひける時聞し事なり。是も同日の[やぶちゃん注:同様の。]談ならん。

 江州草津[やぶちゃん注:滋賀県草津市附近。大津の琵琶湖南端の東対岸。]の宿の留(と)め女[やぶちゃん注:宿場の宿屋の客引き女。]、大津に馴染たる男ありて、夜ごと夜ごとに通ひける。初めの程は怪しまざりしが、每夜の事なれば男もふしぎ立(たつ)て、草津にて彼女の仕る家のもとへ行通ふ者に、此婢女が事を密(ひそか)に聞せけるに、

『夜は四つ[やぶちゃん注:午後十時頃。]迄仕舞ひて部屋に入り、明は七つ[やぶちゃん注:午前四時頃。]に起て飯をたき、いつの夜も暇(いとま)乞ふて出る姿は見ず』

と聞えける儘、男あやしみて、又の夜も女の來りけるに、

『かほど迄深切にかたらふ中ぞ、今迄の事打明(うちあか)し給へ。夜每に六里の道を通ふことふしんなり』

[やぶちゃん注:「六里の道」実測で考えると、大津と言っても唐崎辺りから、現在の草津の北辺の唐崎辺りからでないと、陸路は六里にはならない。位置的も泳ぎ渡るとなれば、その辺りではある。現行で直線で以下の大津市二本松が草津市八橋附近までの当該距離となる。]

といぶかりければ、女

『いたう恥かし』

と云ひ兼けれども、せちに責問(せめと)ひければ、

『何をか今は隱し侍らん。「矢ばせの渡し」は五十町に侍れば、これをおよぎ越し通ひ侍る。くらき夜はいとゞ越よく候。此鬢鏡(びんかがみ)[やぶちゃん注:女性が鬢を映して見るのに使う柄附きの小さな手鏡。]を我が額に結はへて水に臨めば、高觀寺(こうくわんじ)の常夜燈此鏡に寫り水に浮び、三四尺は明らかに侍るを、其光に隨ひておよぎ越し候へば、苦もなく此家(このや)のうしろへ着き侍る』

と語りて歸りぬ。

[やぶちゃん注:「矢ばせの渡し」滋賀県草津市矢橋町の矢橋港の石積突堤址辺りか。]

 男聞きて誠しからず[やぶちゃん注:「本当のことのようには全く思えぬ」の意。]おもひ、且(かつ)女のおそろしき事を思ひ廻らせばうるさくて、あけの日彼(かの)高觀寺へ詣で、幸に寺中の灯ともし僧に年頃なるがありければ、是に云ひ語らひて、其夜一夜湖へ向ふ方の常夜燈に板なる物を當て、明りさゝざる樣にしつらへて歸りぬ。

[やぶちゃん注:「高觀寺」読み不詳。国書刊行会本では『高観音』とする。これは恐らく「こうくわんのん」である。佐賀県唐津市西寺町にある天台宗長等山近松寺(きんしょうじ)。本尊は千手観音である。同寺のウィキによれば(ウィキでは「ごんしょうじ」と読んでいるが、公式サイトではルビを振らないから、「きんしょうじ」でよいのではないかと私は思う)。『近松寺は別名に高観音ともいうが、これは園城寺の観音菩薩の中で一番高いところに所在しているからだという』とあるから、本底本は「こうくわんじ」「こうくわんでら」と読んでいるのであろう。]

 さて試みけるに、いかにや其夜は女も來らず、空しく明(あけ)にける。

 夫(それ)より打捨て置きけれども終に女來らざりければ、草津の知れる人に女の事を尋けるに、草津には『女の行方知れぬ』よしにて、尋求めける最中なれば、大津の男も今は隱し難くて、ありの儘に主人に語りけるにぞ、皆々驚き、水練の者を水に入れて見せけるに、三日目に瀨田の橋[やぶちゃん注:ここ。]のもとへ女の死骸流れ出たり。

『定めて闇夜に水を渡り、灯の光を失ひて溺死せしならん』

と、男もあはれみ恐れて、あたまを丸め、廻國修行に出けるとぞ聞へし。

 女の死骸を引揚げけるに、脇の下に鱗の如き物三枚宛(づつ)有りけるを、其骸(むくろ)見し人の物語りなり。」

 何(いづ)れも人妖(じんえう)と云ふべきにや。

[やぶちゃん注:「脇の下に鱗の如き三枚」が最後の最後の怪談のキモである。]

 

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