三州奇談卷之二 水嶋の水獸
水嶋の水獸
本吉(もとよし)世尊院は眞言の靈場、此奥には若椎(じやくすゐ)と云ひ、俳門に執心し、此地に鼻祖はせを翁の發句を埋めて塚を築き、「雨の萩」と云ふ。此因みにより、其寺へは折には行通ひける。
[やぶちゃん注:「水嶋の水獸」この「水嶋」は地名のように見えるが、「水島」という地名は出るが、この得体の知れない「水獸」が出現するのは、少なくともこのシークエンスの中では「水島」でさえない。以下、読み進めると判るが、その出現の様態が「水」の中の塊り、「嶋」のような存在であるから、ここはそうした意味で標題を設けたと私は理解している。【2020年2月19日:削除・追記】T氏より本篇への修正情報を多量に頂戴した。この「水嶋」は、「ADEAC」の「石川県立図書館/大型絵図・石川県史」の「加賀国四郡絵図」(正保国絵図)で見ると(ほぼ図の中央で拡大すると、赤く塗られた「田子島村」の、手取川の北(図では左側)の分流の沿って「水嶋村」が存在し、『江戸時代中期では内陸というより、川沿いの村の認識で』あると、ご指摘戴いた。T氏曰く、『「石川県石川郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第二十章 比樂島村」(前者)のこちら(後者)によれば、「水嶋村=水島村」は、後者に、
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○區劃。本村は水島、源兵衛島、福永、上安田、出合島、番田の六區より成る。
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とあり、前者のリンク部分には、
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○灌漑。耕地は總て手取川七ケ用水の一なる中島用水の區域に屬し、出合島區に於て同新砂川用水區域に屬する土地二町歩餘あるに過ぎず。[やぶちゃん注:以下略。]
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とあります。現在の石川県白山市水島町はここですが、旧「水嶋村」は旧分流「手取川」=「中島渠」(これは後の注で氏の追加考証を追記した)を越えて「山田先出村」、もう一つ「手取川」を越えると、「山田村」があることになります』とのことであった。
「本吉世尊院」いろいろ調べてみると、この寺(真言宗)は、もとは現在の石川県白山市美川南町(みかわみなみまち)にある藤塚神社の境内にあったが、明治の廃仏毀釈により、そこから東の現在の白山市長屋町に移転していることが判り、しかもこの付近(少なくとも藤塚神社の辺りまで)が本吉という広域地名であったろうことは、両者の中間点に北直近に白山市美川本吉町があることから推察出来る。【2020年2月19日:改稿・追記】T氏より世尊院の変遷と、塚が現存することを教えられたので削除・追記する。「本吉世尊院」は「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十七章 美川町」の寺院の項に(太字は下線は私が附した)、
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○賢聖坊。眞言宗にして子安山と號す。[やぶちゃん注:中略。]寬文二年[やぶちゃん注:一六六二年]四月僧眞海高野山を出で〻買い廻國し、元吉寺を世尊寺と改め、又山王權現の別當を兼ねたりき。然るに維新の際世尊院を廢せられ、[やぶちゃん注:以下略。]
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とあること、また、同書の「本吉」という地名については、「第十七章 美川町」の「行政」の項に(同前)、
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○町名。[やぶちゃん注:前略。]元吉寺も荒廢せり。降りて明應八年[やぶちゃん注:一四九九年。]藤塚、羽左場の二邑を合して一邑となし、舊寺號を取りて元吉(モトヨシ)と稱し、加賀四港の一となりしが、河口變遷につれ、舟楫の便を得、次第に繁榮して承應元年[やぶちゃん注:一六五二年。]佳字を取りて本吉町と稱するに至る。[やぶちゃん注:中略。]明治二年[やぶちゃん注:一八六九年。]能美郡湊村を合し、兩郡の各々一字を取り美川町と命名し、舊本吉町を北郷、湊村を南郷と唱へ來りしも、同四年復び分離し本吉町のみを美川町と稱せり。[やぶちゃん注:以下略。]
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とあった。
また、塚に就いては、同じく「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」のこちらから、
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○雨の萩塚。元祿二年[やぶちゃん注:一六八九年。]芭蕉翁、曾良、北枝二人を率ゐて、世尊院に杖を曳きし時、「ぬれて行く人もをかしや雨の萩」の句あり、是を以て寛保三年霜月[やぶちゃん注:一七四三年であるが、中旬以降は翌年。]當町の俳人大睡の子若樵その門前に碑を立て〻之を刻し、又「撫てし子の風雅の肌やかへり花」の自句を記せり。その碑、後に淨願寺の境内に移し、今尙存せり。
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とあって、しかも白山市美川南町に浄願寺(浄土真宗)は現存し、碑も残っていることが確認出来た。詳しくはこちらのページで確認されたいが(碑画像あり)、ここで気になったのは、「石川県石川郡誌」の方の表記や人物関係で、まず、「若樵」は卯尾若推(うおじゃくすい ?~寛延二(一七四九)年)が正しい。例えばサイト「千代女の里俳句館」のこちらに、『加賀國本吉の人。支考門』。『半睡(のち大睡)と千代女は長く親交』とあること、その後に岸大睡(きしだいすい 貞享元(一六八四)年~安永五 (一七七五) 年:享年九十二歳)が掲げられてあって、『加賀本吉の人。幼年期の千代女の師として知られる。本吉藤塚社東田圃に三葉庵を結』んだとあるから、大睡は若推の父ではないと思われる。また、碑に添えた若推の句は、
撫てしる風雅の肌やかへり花
となっている。悩ましいことに、こちらの北陸の句碑一覧では、
推てしる風雅の肌やかへり花
となっている。私の印象では「撫(なで)て知る」であろうという気はするものの、現地の識者の方に確認をお願いしたい気が強くする。
「若椎」サイト「長良川画廊アーカイブズ」の「Web書画ミュージアム」の加賀千代女のページの解説中に、享保一二(一七二七)年に各務支考の門人であった美濃の廬元坊里紅が千代女を訪ねた際、千代女の「晝顔の行儀に夜は瘦(やせ)にけり」を『立句に千代女、里紅、大睡、若椎による四吟歌仙が成り、「松任短歌行」と題し』、『里紅の紀行集『桃の首途』に収められ』たとあることから、俳人として確認出来た。
「雨の萩」芭蕉の「奥の細道」に載る句、
ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩
に因む名。元禄二年七月二十六日(グレゴリオ暦一六八九年九月九日)、小松滞在中の芭蕉が堤八郎右衛門歓水(「觀水」は連歌の雅号で、俳号は享子)の屋敷に招かれて連句五十韻を興行した。その発句。詳しくは私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 68 ぬれて行くや人もおかしき雨の萩』を参照されたい。調べてみると、先の美川本吉町の南に接して手取川を隔てた左岸に広くある現在の白山市湊町の中に、現在、この句の句碑があるという。]
此院の人、ある時に語られけるは、
寶曆六七八年の三とせ許(ばかり)は、手取川の水溢れ、宮竹新村・山田先出(せんだん)・三反田(さんたんだ)・一ツ屋村・土室(つちむろ)・田子島(たごじま)・與九郞島(よくらうじま)・出合島(であひじま)・舟場島(ふなばじま)・水島(みづしま)、皆川堤を押流し、水切れ込みて、人家夥敷(おびただしく)流沒して、川ぞひの村々は地をかへ、居をうつしたる所も多し。本吉は地高きにより、曾て水難には預らざれども、川中に當るが故に、水盛んの頃見渡し侍れば、只海中の一島の如くぞ覺え侍る。此川は白山より出で、年每に洪水のありといへども、海へ落(おつ)る所速(すみや)かなれば、水の滯るべき所なし。水害をなす事はある間敷(まじき)所なり。しかるに此三年の洪水不審と云ふべし。
[やぶちゃん注:後が面倒になるので段落頭の鍵括弧は外した。私は基本、本文の総て終わりまでが、この院の人の語り本文ととるものである。
「寶曆六七八年」一七五六~一七五八年。
「宮竹新村」これ以下の地名は、現在の石川県能美郡宮竹町に含まれる手取川沿い(概ね右岸)の地名とその後背部(北側)の白山市の一部、或いは手取川左岸の能美市の一部も含まれるものと私は考える(以下参照。但し、以下の地名は現在の行政区画地名であり、必ずしも本書の筆者が認識する場所とは完全に合致するとは言えない)。因みに、この「宮竹新村」は石川県能美郡宮竹町の東部にあった村で、ここに書かれた地名の内、最も上流に当たるものかと思われ、また、実は対岸にも能美市宮竹町の名を見出せる。また、以下に見る通り、現在は河川流路からかなり離れた内陸側も挙げられていることから、手取川の氾濫原(少なくとも北の右岸川)は恐ろしく広かったものと考えられる。【2020年2月19日:削除・追記】T氏より情報をいただいた。手取川右岸の「宮竹新村」の明治以降の變遷は、ウィキの「中島村(石川県能美郡)」に、
明治二二(一八八九)年四月一日 町村制の施行により、三反田村・宮竹新村及び灯台笹村の一部(藤蔵島)の区域をもって発足。
明治四〇(一九〇七)年八月五日 草深村・砂川村と合併して川北村が発足。同日中島村廃止。
とあった。
「山田先出(せんだん)」読みは国書刊行会本の筆写されたカタカナに拠った。「禁制奇談全集」では『山田・先田』とする(ルビなし)。現在、能美郡川北町字(あざ)山田先出(やまだせんでん)を見出せるので、漢字と地名は底本の通りでよい。以下、本文で振った読みは現地名を採用し、歴史的仮名遣で示したものである。【2020年2月19日:追記】T氏より。ここは手取川右岸で、明治以降の變遷は、
明治二二(一八八九)年四月一日 町村制の施行により、土室村・山田先出村・一ツ屋村の区域をもって発足。草深村 (石川県)になる。
明治四〇(一九〇七)年八月五日 中島村・砂川村と合併して川北村が発足。同日、草深村廃止。
(ウィキの「草深村 (石川県)」に拠る)とのことである。
「三反田」前記の上流に接して川北町字三反田(さんたんだ)が現存する。
「一ツ屋村」先出の内陸側に川北町字壱ツ屋(ひとつや)がある。
「土室」概ね以上の地区のさらに内陸側に川北町字土室(つちむろ)がある。
「田子島」川北町字田子島。
「與九郞島」川北町字与九郎島。
「出合島」やや内陸側に現在の白山市出合島町がある。
「舟場島」能美郡川北町字舟場島。
「水島」やや内陸側に白山市水島町がある。]
是に就て、我少々思ひ當る事あり。此川上中島の間は、皆、川渫普請(かはざらひふしん)の所にて、蛇籠(じやかご)を以て川堤を築き、鳥足(とりあし)といふ物を入れ、水を一所へ落し、田作を廣げることなり。
[やぶちゃん注:「中島」現在、能美郡内の手取川上流に能美郡川北町字中島がある。【2020年2月19日:追記】T氏より以下の情報を戴いた。
《引用開始》
地名由来は、ここが川北町字三反田、川北町字藤蔵に挟まれた地域であることによりますが、悩ましいところがあり、まず、能美郡川北町字中島は明治以降の地名(村落名)で江戸時代に遡れません。しかし、「三州地理志稿」巻之四の「加賀之國 第四 石川郡」の「山川」には「中島渠」が記載されています。
*
中島渠[T氏注:以下割註。])【在石川能美分界、大慶寺渠下出手取川、至土室村北割爲岐、歷出合島水島、至本吉新村復入手取川、北岐歷福留源兵衞島西米光村至蓮池村入海、】
*
と記載があります。加賀藩の国絵図がこちらで公開されており、「加賀国四郡絵図(正保国絵図)」と「加賀国高都合并郡色分目録(元禄国絵図)」がありますが、特に「正保国絵図」では手取川の北(図の左)に、もう一つ「手取川」と書かれた分流が記載され、能美郡湊村と石川郡本吉村の少し上流で再度一本の手取川になっています。「元禄国絵図」でも、手取川の名称記載はありませんが、本来の手取川の北に分流が描かれています。されば、「中島渠」は「加賀国四郡絵図」及び「加賀国高都合并郡色分目録」の手取川の北(図の左)の分流を指しいているようです。
《引用終了》
このT氏の情報は後に出る「中島の中川堤」を解読する一つの鍵ともなっているように思われる。
「蛇籠」竹で粗く円筒形に編んだ籠に石を詰めたもの。河川の水流制御や護岸などに用いる。
「鳥足」不詳。鳥の足のように先端が三つに割れている竹筒様のものを、分かれた方を流れに入れ、一本になっている反対側を灌漑しようとする場所に固定して流水を制御するものか? 識者の御教授を乞う。【2020年2月19日:削除・追記】T氏より以下の情報を戴いた。「砺波正倉 砺波市の文化をデジタルで楽しむウエブサイト」の「7-2庄川改修工事」に「川倉(鳥足)(『庄川町史 上』)」として、
《引用開始》
三本の丸太を三角錐形に組み合わせて作ったもの。中に石を入れて重しとし、上流に向けて川の中に設置する。急を要するときや流れのゆるいところに利用された。個数を丸太でつなぎ、その間にムシロを張り水を止める。
《引用終了》
図もある。]
然るに、中島の中川堤のもとに、死牛と覺えて水中に脊をさらせるもの久しくありけり。或は「大木の朽ちたるなり」と云ひ、又は「苔むしたる石なり」抔(など)云ひて、人々沙汰しける。水練の者近寄て、撫廻し見るといへども、荒波の中なれば久敷(ひさしく)も見がたし]。只黑き皮のみ手に障(さ)はりて、頭もなく目もなし。兩方へ枝の如き物二三本の出居(いでゐ)る躰(てい)なり。大かたは「枯木の根ならん」と云ふ。其邊り山田村も近ければ、「牛にてやあらん」とさがしけれども、牛とも見えがたければ、其後は或は鍬にてたゝき、竹にて突くなどすれども、只
「ばんばん」
と云ひて鍬も入らず、又木石の如くにもあらず、何樣(いかさま)生類の皮とは見えける。
[やぶちゃん注:「中島の中川堤」「中川堤」とは固有名詞ではなく、川の中洲のことを言っているのではないか? 現在の同地区でも手取川の中に有意な長さの中洲がある。【2020年2月19日:削除・追記】前の「中島」の追記注を参照されたい。
「久敷(ひさしく)も見がたし」落ち着いて観察も出来ない。
「障はりて」「觸(さは)りて」かとも思うが、有意な手応えを奇妙な「障(さは)る」ような感じ(抵抗があること)と言ったとしてもおかしくはない。
「山田村」先の「山田先出」ととっておく。他には周辺に独立した山田の地名を見いだせない。「牛」でかく言うということは、或いはこの「山田村」が洪水に襲われても、村として有意に常に存続し続けることが出来た集落であったことを示唆するものであろう。【2020年2月19日:削除・改稿・追記】T氏より、『先の「山田先出」の本村である「石川県能美市山田町」ではないでしょうか。字山田先出の手取川を挟んで向かいです』とあった。ここ(手取川左岸)。
「ばんばん」は叩いた時の物理的な音のオノマトペイアであって、鳴き声ではない。]
其後、其里の若者、能く水の少なき日にあたり、例の黑皮の如きもの邊りに寄りつどひ、一鍬づゝ打ちこみ見けれども、何れも刄もたゝず。
「とても生(しやう)はなきものと見へたり」
と云つつ、皆々岸に休らひ、たばこ吞みけるうち、折しも此川へは椰子の實とて、一かゝへ許なる木の實流れ下ることあり。是は白山の谷間に生ふると云へり。上は毛生へたる皮也。其中に興瞎のごとき實あり。是に白き油滿ちて、是を吸ふに甘し。故に土人折には拾ひ取るなり。此椰子の實黑きものの前六尺ばかりに流れ來(きた)る時、枝の如くなる手を差(さし)のべて、椰子の實を引きかゝへ、目口もなき所へ中の實を押あてしが、忽ち白き油を吸盡(すひつく)して、又手を放してからを流しやりける。
是を見たる百姓共あきれ果て、
「扨は生ある物なり。打殺して見ばや」
と皆々立騷ぎけれども、鍬の刄も立ざりければ、急度(きつと)心付き[やぶちゃん注:素早く思いついて。]、藁に火を付けて黑き皮の上に置きけるに、人々煙草を投懸(なげかけ)投懸して、火を發しけるに、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここにさらに『久敷(ひさしく)してじらじらとあぶらくさき臭しけるに、』と続いてある。この方がリアリズムがある。]
「爰ぞや」
とて鍬をふり上げてしたゝかに打ちけるに、焼けたゞれたる跡ある故に、一寸許ばかりも切(きれ)こみ、黑き血少し流出づると見えしが、忽ち大地も覆るが如く、
「どうどう」
と響きけるが、今迄水渇してありし川へ、俄に水かさ一丈許もや、大波立ちて洪水出來(いできた)る。
遙に水上に見へけるまゝ、百姓ども大に驚き、逸足(いちあし)出(いだ)して逃(にげ)けるに、彼(かの)黑き死牛(しぎう)のごとき者に水懸るとひとしく、
「ころころ」
とまろぶやうに見えけるが、幾重の堤皆一同に崩れ立ちて、水はこの方(かた)へ流れける。
百姓どもは逃げのびてふり返り見るに、洪水は百姓を追懸(おひかく)る如く、道もなき方へ流れ來る樣に覺えけるとぞ。
夫(それ)よりして水方々にあふれ、久敷(ひさしく)此邊(このあたり)、洪水の難にかゝれり。
いか樣此者のまろび行くと見えたる所は、忽ち淵とぞ成りにける。
土堤を損ひしことなれば、隨分隱しけれども、密かに此咄を聞て、其後(そののち)夜每に水面を窺ふに、何やらん黑き脊の者行くと見ゆる方(かた)は、每日淵と成り水難止まず。
いにしへに聞し「天吳」とやいふ者ならん。目鼻もなくして、よく川堤を破るなど聞きし。とかく人力の支ふべきに非ず。佛智力(ぶつちりき)にこそ百姓の苦海(くがい)は助かれ。「或漂二流巨海一龍魚諸鬼類波浪不ㇾ能ㇾ沒」の誓(ちかひ)なれば、とかく觀音の大悲にこそ、人民の水難は遁(のが)れ得べけれと、家每朝川に向ひて百ヶ日が間(あひだ)「普門品」を誦しけるに、其の故にもありけん、又時節にや侍らん、或夜(あるよ)闇の中にうす赤きやうなる夜(よ)のありしに、其黑き者水上(みなかみ)へ水中を行くやうに見えけるが、其後水落ちて、路は今の往還とぞなりし。
俗說に「水熊(みづぐま)の出たる」と云ふは、是なり。いかさま白山の谷の深淵に住むものなるべし。此者去つて後、終に水難はなかりしと聞へぬ。
[やぶちゃん注:【2020年2月19日:追記】T氏より感想を頂戴した。『「然るに、中島の中川堤……」以下の段落で最も恐怖するのは、「幾重の堤皆一同に崩れ立ちて、水はこの方(かた)へ流れける。」の部分ではないでしょうか? 「中川堤」(場所不明)ですが、あくまで「堤」で中州のような、耕作地でも宅地でもないところでは無い様に思います(「壊れたね!!」としか言いようのない場所)。ネット上の『手取川の「霞堤」が土木学会の平成24年度「選奨土木遺産」に認定されました』に「3.“島”集落と村囲堤」の項目があり、
《引用開始》
“島”集落とは手取川扇状地内に見られる集落の形態で、その名のとおり広がる水田の中に島が一列状に浮かび上がる集落群を呼称します。これは、扇状地内の微地形を活用したもので、氾濫に被害を受けないよう、僅かながらも存在する高台に集まり住まいを築いたことに由来します。現在でも、川沿いには「田子島」「舟場島」「出会島」「与九郎島」などの“島”を冠した地名が残っています。
村囲堤とは、氾濫による被害をさらに回避するため、集落周辺に盛土を築き、強い流れにも耐えられるよう手取川から、あるいは開墾によって出てきた石によって補強された一種の堤防です。堤防とはいえ当時の図をみると、河川堤防のように洪水を溢れさせないようにするというより、「集落に向かわないよう受け流す」よう配置されているのが特徴です。
《引用終了》
この「村囲堤」が崩れて、「夫(それ)よりして水方々にあふれ、久敷(ひさしく)此邊(このあたり)、洪水の難にかゝれり。」最悪の結果を述べているようです』。同感で、しかもここに至って「島」「堤」の実態が明確になった。 本篇の最初の追加注のT氏のそれも参照されたい。T氏に深く感謝します!!!
「椰子の實」叙述から正真正銘の椰子の実を言っていることが判る。日本海に対馬海流に乗って椰子の実が流れてくることは事実ある。しかし、この手取川のこの位置に、上流から流れてくるというのは、ちょっと説明がつかない。さればこそ怪奇談とも言えるのではあろう。
「天吳」中国古代の幻想的地誌書「山海経」(全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹 (う) が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛り)などに出る幻獣。サイト「プロメテウス」の「天呉:水伯とも言われる人面虎体の水神」に異様に詳しい。それによれば、『天呉は古代中国神話伝説中の水神で』、『その見た目は人面で虎の体をして』おり、『この見た目は呉人に狩猟生活と密接に関係があると言われており、呉人は虎を百腕の王としてい』『た。また』、『秦の時代前後まで』、『虎に似た虞と言う動物が生きており』、『この動物が天呉のモデルとなったと考えられてい』るとし、『天呉あるいは天虞は先秦時代と秦漢時代の文献によくみられており、騶虞』(すうぐ)『とも言われ』『た。虞と言う漢字に代表されている神で』、「山海経」の「海内北経」には、「『林氏国に珍奇な野獣がおり、大きさは虎位で体には五彩の模様があり、尾は身体ほどの長さであった。名を騶吾と言い、乗ると一日千里を駆けた』」とあり、同じ「山海経」の「大荒東経」には、『「神人があり、八つの頭部がありすべて人面で、虎の体に十条の尾があり、名を天呉と言った」』『という記述もあ』る。『古代の呉人は虞もしくは騶虞という名の動物をトーテム崇拝しており、次第に神格化されて行き天呉となったと考えられ』るとある。また、『天呉は開明獣であるとも考えられて』いるとされ、『開明獣は崑崙山を守る神獣であり肩吾(陸吾)の事であるとも言われて』おり、『天呉と開明獣や肩吾は』「山海経」に『記載が見られる神であるとともに』、『人面で虎の体と言う見た目が共通して』おり、特に『開明獣は人の頭が九つあり』、『天呉は八つですので非常によく似てい』と述べておられる。
「或漂二流巨海一龍魚諸鬼類波浪不ㇾ能ㇾ沒」「法華経」の「觀世音菩薩普門品」の初めの方にある部分を一節のように繋げたもの。正しくは、
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能沒
(わくひょうるこうかい りゅうぎょしょきなん ねんぴかんのんりき はろうふのうもつ:現代仮名遣)
と通常は音読みするのが当たり前であって訓読などはしないが、返り点に従って無理矢理読もうなら、
「或いは巨海に漂流し 龍・魚・諸鬼が類(るゐ)にあふとも 波浪に沒する能はず。」
であろうか。訳そうなら、
「或いは巨海(苦海・苦界)に漂ひ流されて、龍や異魚やもろもろの鬼神からの恐るべき災難に遇っても、かの観音菩薩の広大無辺な大慈大悲の力を念ずれば、波浪に沈むことは決してない。」
というところか。]
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