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2020/02/27

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ。満二十六歳で没した)の遺構歌文集にして第二歌集である「悲しき玩具」の初版は、彼の逝去から二ヶ月後の明治四五(一九一二)年六月二十日に刊行された(発行は二年前の第一歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月一日発行)と同じ東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店)。総歌数百九十四首。定価五十銭。

 啄木は既に「一握の砂」の冒頭注で述べた通り、明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、明治四十三年四月より彼が主担当となっていた(病気のために続けられなくなり、当該事務の引継ぎは明治四十四年十二月一日に療養中の自宅で行われた)。啄木はこの明治四十四年一月十三日に同僚記者の紹介で、後に本遺稿集を纏めることとなる歌人土岐哀果(善麿 明治一八(一八八五)年~昭和五五(一九八〇)年)と逢い、意気投合、文芸詩想雑誌『樹木と果實』の創刊を企図している(同誌は同三月に土岐が編集したが、印刷所の不誠実から発行が難航、結局、契約を破棄し、創刊は実現しなかった。土岐はこの最晩年・末期の啄木をよく支えた)。しかし同月末頃に体調不調に気づき、同年二月一日、東京帝大医科大学付属医院で「慢性腹膜炎」の診断を受けて入院(この間、「余病無し」と診察されて結核病室から一般病室に移っている)、三月十五日に退院、以後、自宅療養となる。しかし、同年七月二十八日、同病院で妻節子が「肺尖加答兒(カタル)」(肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変)で伝染の危険性を指摘された。さらに明治四十五年一月二十三日には二人の医師の診断によって母カツが年来の結核と診断されて老齢(数え六十六)であることから生命の危険ありとされる(彼らの感染順序は明らかでない)。そのおよそ一ヶ月後の三月七日にセツは逝去した。四月五日には啄木重態の報知を受け、室蘭にいた父一禎が上京している。四月九日、土岐の奔走(実際には前日に見舞いに来た土岐とも親しかった若山牧水がその経緯の中に入っている)で第二詩集出版の契約を結び、窮乏を極めていた啄木の懇請で原稿料前借二十円を得、これが啄木最期の薬料となった。四月十三日早朝、危篤に陥り、午前九時三十分、父・節子・牧水に看取られて永眠。妻節子は二ヶ月後の六月十四日に次女房江を産むが、夫の死に遅れること僅か一年、翌大正二年五月五日、同じく肺結核により亡くなった(以上の事績は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でも概ねそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」同様、「悲しき玩具」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多く、底本が初版に拠るものが少ない。底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」(私が人生で最初に買った一回払いでは最も高額な叢書だった)の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。四六版判・並製雁だれ表紙・天金・アンカット装(今回この電子化のために初めてカットした)・ジャケット付。表紙は焦茶色霜降紙に本文共紙の題簽(墨・濃茶の二色刷)貼。見返しと本文はともに簀目入り洋紙。ジャケットは白色簀目入り洋紙に墨・茶の二色刷である(この装本データは同セットの解説書に拠った)。底本の一部を画像で配しておいた。但し、歌集本文では、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「悲しき玩具〔一握の砂以後〕」(日本語正字正仮名表記)を加工データとして使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは先の「一握の砂」などで幾つかの問題点(最も問題なのはルビがないこと)や誤植(冒頭二首からして三行目の一字下げが行われていないことや、読点の脱落が有意に散見される)が見出せること、更に歌の順列に錯誤もあり、初版の歌集の後に載る評論(原本目次では「(感想)」とある)「一利己主義者と友人との對話」「歌のいろいろ」(「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」)が載っていないこと等々から、私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審点は注記を加えた。また、注では「一握の砂」に引き続き、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」を参考にさせて戴く。

 なお、底本本文の短歌群はほぼ総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。

 本歌文集「悲しき玩具」という標題は、末尾に載る「歌のいろいろ」(明治四三(一九一〇)年十二月十日・十二日・十八日・二十日『東京朝日新聞』初出)の掉尾にある、

   *

○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

   *

に基づく。底本の「紫陽花セット」解説書の小田切進氏の解説によれば、土岐は歌稿ノートの扉にある『一握の砂以後――四十三年十一月末より』をそのまま表題としようとしたが、『東雲堂から、それでは『一握の砂』とまぎらわしいので困ると言われ』、ここから『採ってこの第二歌集の表題としたという』とある。

 「一握の砂」の冒頭注でも述べたが、或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月二十七日始動 藪野直史】]

 

Gangukaba

 

[やぶちゃん注:カバー(両端の内折りは広げていない)。背の部分の汚点は私の底本の三十七年の経年劣化による染み汚損。ガラス書棚の中に防虫・乾燥剤とともに入れてあったが、保護ケースを外していたために汚れてしまった。]

 

Ganguhyousi

 

[やぶちゃん注:本体の表紙・背・裏表紙。]

 

 

[やぶちゃん注:扉。印刷された左ページのみを示した。以下に電子化して本電子データの標題とする。]

 

悲 し き 玩 具

(一握の砂以後)

石 川 啄 木

 

――(四十三年十一月末より)――

 

 

[やぶちゃん注:扉を開くと左(右ページは白紙)中央に、以下の目次。「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」。]

 

   内  容

一握の砂以後百九十四首   (歌)

一利己主義者と友人との對話 (感想)

歌のいろいろ           (感想)

 

[やぶちゃん注:以上をめくると、左(右ページは白紙)中央に、改めて以下の中表紙。]

 

 

 悲 し き 玩 具

    ――一握 の 砂 以 後――

 

 

[やぶちゃん注:以下、歌集本文に入る(ノンブル開始。『 2 』。ここからアンカット装が始まる。版組を味わって戴くために、最初の四首の見開きページのみ画像で示す。]

 

Kanasikihonbun1

 

 

呼吸(いき)すれば、

胸(むね)の中(うち)にて鳴(な)る音(おと)あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音(おと)!

 

 呼吸すれば、

 胸の中にて鳴る音あり。

  凩よりもさびしきその音!

[やぶちゃん注:三行目の一字下げはママ(第二首目も)。以降に出版された本歌集に於いても踏襲されており、筑摩版全集でもそうなっている。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、『巻頭作品であるが』、『その表現形式と内容から、明治四十四』(一九一一)『年晩秋から晩冬にかけての作と思われる』とされ、『この一首と次の「眼閉(めと)づれど」の歌は歌集の原稿となった啄木の「一握の砂以後」という歌稿ノートにはなかったもので、友人の土岐哀果が歌集の編集をしたおり、啄木の遺品の中より発見した紙片に書かれていたものである』とある。]

 

   *

 

眼(め)閉(と)づれど、

心(こころ)にうかぶ何(なに)もなし。

 さびしくも、また、眼(め)をあけるかな。

 

 眼閉づれど、

 心にうかぶ何もなし。

  さびしくも、また、眼をあけるかな。

 

   *

 

途中(とちう)にてふと氣(き)が變(かは)り、

つとめ先(さき)を休(やす)みて、今日(けふ)も、

河岸(かし)をさまよへり。

 

 途中にてふと氣が變り、

 つとめ先を休みて、今日も、

 河岸をさまよへり。

 

   *

 

咽喉(のど)がかわき、

まだ起(お)きてゐる果物屋(くだものや)を探(さが)しに行(ゆ)きぬ。

秋(あき)の夜(よ)ふけに。

 

 咽喉がかわき、

 まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。

 秋の夜ふけに。

 

   *

 

遊(あそ)びに出(で)て子供(こども)かへらず、

取(と)り出(だ)して、

走(はし)らせて見(み)る玩具(おもちや)の機關車(きかんしや)。

 

 遊びに出て子供かへらず、

 取り出して、

 走らせて見る玩具の機關車。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、「子供」は当時『五歳の長女京子』である。京子は戸籍は「京」で、明治三九(一九〇六)年の年末十二月二十九日に盛岡の妻の実家で生まれた(出生当時の啄木は渋民尋常高等小学校の代用教員であった)。]

 

   *

 

本(ほん)を買ひたし、本を買ひたしと、

あてつけのつもりではなけれど、

妻に言ひてみる。

 

 本を買ひたし、本を買ひたしと、

 あてつけのつもりではなけれど、

 妻に言ひてみる。

 

   *

 

旅(たび)を思(おも)ふ夫(をつと)の心(こころ)!

叱(しか)り、泣(な)く、妻子(つまこ)の心(こころ)!

朝(あさ)の食卓(しよくたく)!

 

 旅を思ふ夫の心!

 叱り、泣く、妻子の心!

 朝の食卓!

 

   *

 

家(いへ)を出(で)て五町(ちやう)ばかりは、

用(よう)のある人(ひと)のごとくに

步いてみたれど――

 

 家を出て五町ばかりは、

 用のある人のごとくに

 步いてみたれど――

[やぶちゃん注:「五町」約五百四十五メートル半。「五」にルビはない。]

 

   *

 

痛(いた)む齒(は)をおさへつつ、

日(ひ)が赤赤(あかあか)と

冬(ふゆ)の靄(もや)の中(なか)にのぼるを見(み)たり。

 

 痛む齒をおさへつつ、

 日が赤赤と、

 冬の靄の中にのぼるを見たり。

 

   *

 

 

いつまでも步(ある)いてゐねばならぬごとき

思(おも)ひ湧(わ)き來(き)ぬ、

深夜(しんや)の町町(まちまち)。

 

 いつまでも步いてゐねばならぬごとき

 思ひ湧き來ぬ、

 深夜の町町。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『秀才文壇』明治四四(一九一一)年一月号で、初出形は、

 

 いつまでも步いてゐねばならぬ如き

 思ひ湧き來ぬ

 深夜の都

 

『とあるとことから、「深夜の町町」は東京であることがわかる』とある。]

 

   *

 

なつかしき冬(ふゆ)の朝(あさ)かな。

湯(ゆ)をのめば、

湯氣(ゆげ)がやはらかに、顏に(かほ)かかれり。

 

 なつかしき冬の朝かな。

 湯をのめば、

 湯氣がやはらかに、顏にかかれり。

 

   *

 

何(なん)となく、

今朝(けさ)は少(すこ)しくわが心(こころ)明(あか)るきごとし。

手(て)の爪(つめ)を切(き)る。

 

 何となく、

 今朝は少しくわが心明るきごとし。

 手の爪を切る。

 

   *

 

うつとりと

本(ほん)の插繪(さしゑ)に眺(なが)め入(い)り、

煙草(たばこ)の煙(けむり)吹(ふ)きかけてみる。

 

 うつとりと

 本の插繪に眺め入り、

 煙草の煙吹きかけてみる。

 

   *

 

途中(とちう)にて乘換(のりかへ)の電車(でんしや)なくなりしに、

泣(な)かうかと思(おも)ひき。

雨(あめ)も降(ふ)りてゐき。

 

 途中にて乘換の電車なくなりしに、

 泣かうかと思ひき。

 雨も降りてゐき。

 

   *

 

二晚(ふたばん)おきに

夜(よ)の一時頃(じごろ)に切通(きりどほし)の坂(さか)を上(のぼ)りしも――

勤(つと)めなればかな。

 

 二晚おきに

 夜の一時頃に切通の坂を上りしも――

 勤めなればかな。

[やぶちゃん注:「一」にルビはない。岩城氏前掲書によれば、『この歌は歌集初出であるが、記事順からみて歌稿ノート開始時期の作と考えられる』とされつつ、『今井泰子氏は歌稿ノートの開始を明治四十四』(一九一一)『年一月十八日以後二十九日以前と推定』されておられることから、それが正しいとすれば、『この一首は啄木が夜勤した時期ではなく、「その夜勤をやめた後の作で、終電車の過ぎたあと湯島の坂をのぼり本郷の家に辿りついた夜々を回想しているのである。」(本林勝夫氏)ということになろう』とされ、『月額十円になる夜勤を中止しなければならぬほど当時の啄木の健康は蝕まれていたのである』と評しておられる。されば、彼が東京朝日新聞社の夜勤勤務をやめた時期が判らないが、この回想内時制は入院した(冒頭注参照)明治四十四年二月四日よりも有意に前であって(彼が同新聞社に入社したのは明治四十二年三月一日で既に本郷に住んでいたが、歌の順列とロケーションからみて、家族を呼び寄せて新居を本郷区本郷弓町二丁目(現在の文京区本郷二丁目のここ「文京区」公式サイトのこちらで確認した。グーグル・マップ・データ)に構えた同年六月十六日より後のことであることは確実と思われる)、明治四十三年中の可能性が高いように思われる。]

 

   *

 

しつとりと

酒(さけ)のかをりにひたりたる

腦(のう)の重(おも)みを感(かん)じて歸(かへ)る。

 

 しつとりと

 酒のかをりにひたりたる

 腦の重みを感じて歸る。

 

   *

 

今日(けふ)もまた酒(さけ)のめるかな!

酒(さけ)のめば

胸(むね)のむかつく癖(くせ)を知(し)りつつ。

 

 今日もまた酒のめるかな!

 酒のめば

 胸のむかつく癖を知りつつ。

 

   *

 

何事(なにごと)か今(いま)我(われ)つぶやけり。

かく思(おも)ひ、

目(め)をうちつぶり、醉(ゑ)ひを味(あぢは)ふ。

 

 何事か今我つぶやけり。

 かく思ひ、

 目をうちつぶり、醉ひを味ふ。

 

   *

 

すつきりと醉(ゑ)ひのさめたる心地(ここち)よさよ!

夜中(よなか)に起(お)きて、

墨(すみ)を磨(す)るかな。

 

 すつきりと醉ひのさめたる心地よさよ!

 夜中に起きて、

 墨を磨るかな。

 

   *

 

眞夜中(まよなか)の出窓(でまど)に出(い)でて、

欄干(らんかん)の霜(しも)に

手先(てさき)を冷(ひ)やしけるかな。

 

 眞夜中の出窓に出でて、

 欄干の霜に

 手先を冷やしけるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『早稲田文学』明治四四(一九一一)年一月号で、『啄木が住んでいた喜之床』(きのとこ:新井理髪店)『の二階は三尺幅のバルコニーを隔てて弓町二丁目の通りに面していたが、この歌の「出窓」と「欄干」はこのバルコニーをさす』とある。俳諧で非常にお世話なっている個人サイト内の「啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡」を見られたい。現在、当時の「喜之床」の建物が明治村に復元されてあり、その写真もある。]

 

   *

 

どうなりと勝手(かつて)になれといふごとき

わがこのごろを

ひとり恐(おそ)るる。

 

 どうなりと勝手になれといふごとき

 わがこのごろを

 ひとり恐るる。

 

   *

 

手(て)も足(あし)もはなればなれにあるごとき

ものうき寐覺(ねざめ)!

かなしき寐覺(ねざめ)!

 

 手も足もはなればなれにあるごとき

 ものうき寐覺!

 かなしき寐覺!

 

   *

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

撫(な)でてかなしむ、

下(した)にして寢(ね)た方(はう)の腿(もも)のかろきしびれを。

 

 朝な朝な

 撫でてかなしむ、

 下にして寢た方の腿のかろきしびれを。

 

   *

 

曠野(あらの)ゆく汽車(きしや)のごとくに、

このなやみ、

ときどき我(われ)の心(こころ)を通(とほ)る。

 

 曠野ゆく汽車のごとくに、

 このなやみ、

 ときどき我の心を通る。

 

   *

 

みすぼらしき鄕里(くに)の新聞(しんぶん)ひろげつつ、

誤植(ごしよく)ひろへり。

今朝(けさ)のかなしみ。

 

 みすぼらしき鄕里の新聞ひろげつつ、

 誤植ひろへり。

 今朝のかなしみ。

[やぶちゃん注:仕事柄の哀しい因果である。当時、啄木は東京朝日新聞社の校正係であった。岩城氏前掲書によれば、『「郷里の新聞」は盛岡の「岩手新報」であろう。当時』、『岩手新報の主筆は啄木の盛岡高等小学校時代の恩師新渡戸仙岳であったので、東京時代の啄木は毎日』、『同紙の寄贈を受けていた』とある。]

 

   *

 

誰(たれ)か我(われ)を

思(おも)ふ存分(ぞんぶん)叱(しか)りつくる人(ひと)あれと思(おも)ふ。

何(なん)の心(こころ)ぞ。

 

 誰か我を

 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。

 何の心ぞ。

 

   *

 

何(なに)がなく

初戀人(はつこひびと)のおくつきに詣(まう)づるごとし。

郊外(こうぐわい)に來(き)ぬ。

 

 何がなく

 初戀人のおくつきに詣づるごとし。

 郊外に來ぬ。

[やぶちゃん注:「初戀人」を同定する評論も盛んにあるようだが、私は寧ろ、「初戀人のおくつきに詣づるごと」き、誰にも普遍化され得る回想郷愁の感懐を大切にして鑑賞するのがよいと感ずる。]

 

   *

 

なつかしき

故鄕にかへる思ひあり、

久し振りにて汽車に乘りしに。

 

 なつかしき

 故鄕にかへる思ひあり、

 久し振りにて汽車に乘りしに。

 

   *

 

新(あたら)しき明日(あす)の來(きた)るを信(しん)ずといふ

自分(じぶん)の言葉(ことば)に

噓(うそ)はなけれど――

 

 新しき明日の來るを信ずといふ

 自分の言葉に

 噓はなけれど――

 

   *

 

考(かんが)へれば、

ほんとに欲(ほ)しと思(おも)ふこと有(あ)るやうで無(な)し。

煙管(きせる)をみがく。

 

 考へれば、

 ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。

 煙管をみがく。

 

   *

 

今日(けふ)ひよいと山(やま)が戀(こ)ひしくて

山(やま)に來(き)ぬ。

去年(きよねん)腰掛(こしか)けし石(いし)をさがすかな。

 

 今日ひよいと山が戀ひしくて

 山に來ぬ。

 去年腰掛けし石をさがすかな。

 

   *

 

朝寢(あさね)して新聞(しんぶん)讀(よ)む間(ま)なかりしを

負債(ふさい)のごとく

今日(けふ)も感(かん)ずる。

 

 朝寢して新聞讀む間なかりしを

 負債のごとく

 今日も感ずる。

[やぶちゃん注:この一首、彼が朝日新聞社社員であることをまず念頭に置かずに漫然と読んではいけない。]

 

   *

 

よごれたる手(て)をみる――

ちやうど

この頃(ごろ)の自分(じぶん)の心(こころ)に對(むか)ふがごとし。

 

 よごれたる手をみる――

 ちやうど

 この頃の自分の心に對ふがごとし。

 

   *

 

よごれたる手(て)を洗(あら)ひし時(とき)の

かすかなる滿足(まんぞく)が

今日(けふ)の滿足(まんぞく)なりき。

 

 よごれたる手を洗ひし時の

 かすかなる滿足が

 今日の滿足なりき。

 

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