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2020/02/01

三州奇談卷之二 切通の茯苓


    切通の茯苓

 加州能美郡(のみのごほり)今江村は、大聖寺領江沼郡に境して、湖畔に松四五本ありて限(かぎり)とす。此方(こなた)の古城の封疆(どて)を切拔きて通る大道あり。則(すなはち)上口三郡への往還にして、頓(やが)て串と云ふ里ありて、娼婦紫羅の裾をひるがへし、駒下駄の音を揃へて爰迄じゃ送り迎ふる堺なれば、人の行通ひ深夜といへども絕(たえ)ず。

[やぶちゃん注:「茯苓」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホドによれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から見当をつけて先の尖った鉄棒を突き刺して地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃よりおがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるためほとんど見ることはできない』。『日本はほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーのツムラ(夕張ツムラ)との協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ている。歴史的仮名遣は「ぶくりやう」。

「今江村」現在の石川県小松市今江町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。木場潟と旧今江潟(既に述べた通り、完全に干拓されて存在しない)の間に当たる。

「古城」木場潟の東方に蓮台寺城跡があるが、位置的に凡そ当時、大道があったとは考えられない。或いは南北朝から安土桃山時代にかけて砦の跡が、この二つの潟の間、能美郡と江沼郡の間にあったものかと考えられる。先の「三湖の秋月」に出た「浅井畷古戦場」の南直近でもあるのである。202023日:改稿・追記】T氏より情報を戴いた。これは現在の小松市今江町にある今江城跡とのことで、「石川県能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊で石川県能美郡編とあるが、「緒言」を見ると、本書底本と同じ日置謙氏が書かれており、編集に参加されておられる)に(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「第十六章 御幸村の名跡」の「御幸塚城址」(みゆきづかじょうし)に、

   *

〇御幸塚城址。字今江に在り、南は粟津往来に面し、東方に木場潟あり、北今江潟に臨み、湖山の間僅に數百武[やぶちゃん注:「步」の誤りか。]、北陸街道その間を通じ、壘塹の址内外尙辨ずべし、二道の隘吭に當り、一部の要衝に据り、小松城未だ備はらざる以前は、その諸將必要の地たりしこと知るべし。城中に御幸塚あるを以て名く、淺井繩手合戰由來書の如きは、花山天皇の皇子富岡大聖親王が藤原定實と名のり、初めて此城を建てたりとの說を載すれども信じ難し、然るに四百年後の今日に至りては、終に其の俤を存するのみにして、本丸址は之を區有として史蹟の保存に便じ、十株の櫻樹を移植せり、唯南面の塹壕は尙舊形を有し、以て疇昔の形成を窺ふに足る、而して、藩政の時は米廩を置けり、其餘或は崩壞し、桑綠茶靑農人の栽植に忙しきを見るのみ、

   *

とあって、ここには「御幸塚城址圖」も載る。以上とこの図を見るに、本文の「古城の封疆(どて)を切拔きて通る大道あり」というのが、現在の国道十一号に相当するのではないかとも思われ、すこぶる腑に落ちた。T氏が示して下さったのであるが、凡そ当時大道は金沢―小松―大聖寺の越前国の北國街道で、「加賀国四郡絵図」(サイト「ADEAC」の画像。木場潟・今江潟・柴山潟付近を拡大すると街道が判る)を見るに、まさにその辺りにあることが判るのである。また、調べたところ、サイト「古城盛衰記」の「今江城(いまえじょう) (御幸塚城)」に、『市立今江小学校一帯にあった平山城で、周囲に堀があったというが市街化で消滅し、櫓台など雰囲気はあるものの遺構はほとんど見られない』。建武二(一三三五)年に『富樫高家が加賀国の守護職につき、その後』、『築城した。富樫氏が野々市に居館を移すと、一向一揆勢の拠点となった』。天正四(一五七六)年には『織田信長の武将柴田勝家の家臣佐久間盛政に攻略され、盛政が城主とな』り、天正八(一五八〇)年には盛政が『尾山御坊を攻め落し』、『金沢城と称した』。天正一〇(一五八二)年、「本能寺の変」で』『六織田信長が討たれると、再び一向一揆が占領』、天正一三(一五八五)年、『豊臣秀吉に攻められ、落城した。慶長五(一六〇〇)年には、『前田家の一部隊がここに布陣し』、『西軍の丹羽長重と浅井畷で戦った』とあった。

「封疆(どて)」国書刊行会本のカタカナのルビに従った。音は「ホウキヤウ(ホウキョウ)」で「封境」とも書き、文字通り、領土の境の謂いである。

「上口三郡」読みも意味も判らない。「上」を「かみ」と読んでその昔(から)の意ととろうかと思うと「口」が浮く。「上口」で北の出入り口ととると、「三」が浮く。「近世奇談全集」では『上江三郡』で「江」は「江」沼郡としても「三郡」が判らぬ。国書刊行会本では『三都』であるが、これはさすがに校訂者が郡の誤りではないかとする。お手上げ。

「串と云ふ里」現在の石川県小松市串茶屋町202023日:追記】T氏よりご指摘があった。先に示した「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名蹟」の「串遊郭」に、

   *

〇串遊廓。此地藩政の時遊女茶屋ありしをもって著れき[やぶちゃん注:「しれき。]、初め前田利常が之を公許せしより、漸く盛大となる、當時藩内他に遊郭なかりしを以て、大聖寺及び金澤等の遠地より來りて遊興するもの多く、天保以前に於ては殷賑を極めたり、然るに水野忠邦が幕府の執政となりて、節儉の令を布きしに及び、や〻衰運に傾きしが如く、次で明治五年解放令出で、各地に貸座敷の許可せらる〻に至りて漸く衰へ、同二十八九年に至りて全く廢絕せり、或は曰く利常の小松に在るや、每年一次那谷寺の觀音に參詣し、その途必ず串茶屋の木下氏に小憩す。因りてその主人に命じて酌婦を置かしむ、これのち遊女屋の起原にして、その盛時には木下、木屋、松屋、小枝屋、高瀨、大新、山屋、駒屋、中屋、分枝屋、東木屋等十數戶の大厦ありきといふ。

   *

とあって、すこぶる腑に落ちた。]

 然れども、此切通しの間には怪異に逢ふ人多し。いつにても夜陰に爰を通れば、遙に人の呼聲聞ゆ。知らぬ人は振返りて見合す事多し。よく知れる人は、

「例の聲ぞ」

と行通る。曾て怪異もなく[やぶちゃん注:この場合は、「それ以外には一度として有意な驚くような怪異を伴う事例はなく、の意。]、又呼ぶ所も知れず。其上、此所(このところ)提灯の火を取ること[やぶちゃん注:火がこれといった理由もなく急に消えてしまうこと。]幾度と云ふことなし。多く雨夜には、此所にて提灯の火消えて、暫く過(すぎ)て又燈(とも)ること元の如し。是は里人

「茯苓(ぶくりやう)の精なり」

と云ふ。

「心を付けて見るに、松の香甚しうして、其後(そののち)提灯の火消ゆる。いかにも茯苓の氣(かざ)あり。茯苓何(いづ)れの所にかあるべき、求め得難し。得ばよき價にも成べき物を」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「氣(かざ)」読みは私のこの漢字の読みの好みに従った。如何にもそのような強い臭いがすることである。本草書ではよく見かける読みなのである。]

 所がら[やぶちゃん注:底本は「所から」。国書刊行会本の表記を採用した。]松を掘ること國の制禁なり。俗に茯苓は松の露下りて千年にして生ずと聞く。然共(しかれども)松にしもかぎらぬことにや。

[やぶちゃん注:「松を掘ること國の制禁」掘れば、松は弱る。松は常緑樹で冬でも葉を落とさず、言わずと知れた不老長寿・相思相愛・繁栄・金運などに関わる縁起の良い木とされ、またその寿命の永いことから、神仏の「依り代(しろ)」ともなる古代からの樹木信仰の対象でもあったから、腑には落ちる。]

 寶曆の中(うち)加州の太守、弓にすべき桑を尋給ふことありて、御領の村々[やぶちゃん注:国書刊行会本では『御領の十村』とあってその下に『大庄屋の事也』と割注がある。]方々尋求むれども、本(もと)一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]に及ぶ大樹に非ざれば造り難く、色々求めけるに、越前本保(ほんぼ)と云ふ下(しも)の村に老桑三株ありけるを、小松八日市町鍋屋何某と云ふ者便りを得て、此桑を買得て献じける。其根を掘ける時、茯苓七八十枚を得たり。其内二つを取りて歸り、四つは越前本保に殘せり。其一本吉浦の某(なにがし)盃(さかづき)に作りて愛翫せり。其色黃にして桑の香あり。眞に希有の器なり。

[やぶちゃん注:「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「加州の太守」加賀大聖寺藩第五代藩主前田利道。【2020年2月3日削除・追記】T氏より加賀藩藩主では? とご指摘あり。とすると、第七代藩主前田重煕(しげひろ)か(彼は宝暦三(一七五三)年に二十五歳の若さで死去している)、彼の異母弟で第八代藩重靖(しげのぶ)か(しかし彼は宝暦三年五月十八日、重煕の末期養子として家督を継いだものの、数ヶ月後の同年九月二十九日に麻疹の予後悪く十九で病死している)、或いは第九代藩主重教(しげみち:藩主就任時十四歳で四十六まで生きた)である。これらを並べてみると、この「加州の太守」とは最後の重教の可能性が確率的にはすこぶる高いように思われる。

「本一丈に及ぶ大樹」クワの実を食べたことがあっても、『「本」を幹ととっても、バラ目クワ科クワ属 Morus がそんなに高くなるのか?』と訝しむ方もあるかも知れぬが、世界的には大きいものは十五メートルにも達するものもあり、群馬県沼田市に日本最大の桑の巨木「薄根の大クワ」があるが(サイト「LINEトラベルjp」の『日本最大の桑の巨木「薄根の大クワ」群馬県の里山に立つ養蚕の御神木』を見られたい)、幹の周りは五・六メートル、樹高十三・六メートル、推定樹齢は千五百年である。この円周から換算すると、直径は一メートル七八センチにもなる。【2020年2月3日追記】T氏より疑問。『弓にすべき桑とありますが、これ、何故に桑製の弓を欲したのでしょう? 男子誕生で「桑弧蓬矢」を行うこと考えたのでしょう?』とあった。私も疑問であった。「桑弧蓬矢(そうこほうし)」とは、男子が生まれた際に、桑の木で作った弓と蓬(よもぎ)の矢で天地四方を射て、将来の雄飛を祝ったという「礼記」射義にある中国古代の風習に基づくもので、転じて「男子が志を立てること」の意に用いる。ただ、これは前注の藩主を見ると、すこぶる都合が悪い。養子で次期藩主が決まっている通り、前の重煕・重靖には嫡男としての将来を託す男子がいなかった。しかも、重教の長男で第九代藩主となる斉敬(なりたか)は安永七(一七七八)年生まれで、宝暦末から十四後の出生である。寧ろ、男児の出来ぬのを慮って事前に将来生まれるであろう男児のために作り置いて、出生を祈願したものかも知れぬ。

「越前本保」旧越前国丹生(にゅう)郡にあった本保村。現在の福井県越前市本保町附近。「下(しも)の村」不詳。広域村で下村があったか。

「小松八日市町」石川県小松市八日市町

「其一本」「鍋屋何某」が小松に持ち帰った「二つ」の内の一つ。

「盃に作りて愛翫せり」ブクリョウの塊りは直径が約十~三十センチメートル、重さ百グラムから大きいものでは二キログラムにも達するから、作れてもおかしくはない。と騙されそうになるんだが……これ、クワの根っこから出たんでしょ? それってブクリョウじゃないただの根っこなんじゃあ、ねえかぇ?

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