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2020/03/31

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 黄金幻境

 

   黄 金 幻 境

 

生命(いのち)の源(みなもと)封じて天(あめ)の綠(みどり)

光と燃え立つ匂ひの靈の門(と)かも。──

靈の門(と)、げにそよ、ああこの若睛眸(わかまなざし)、

强き火、生火(いくひ)に威力(ちから)の倦弛(ゆるみ)織(を)りて

八千網(やちあみ)彩影(あやかげ)我をば捲(ま)きしめたる。──

立てるは愛の野、二人(ふたり)の野にしあれば、

汝(な)が瞳(め)を仰(あふ)ぎて、身は唯(たゞ)言葉もなく、

遍照(へんじやう)光裡(くわうり)の焰の夢に醉(ゑ)ひぬ。

 

見よ今、世の影慈光(じくわう)の雲を帶びて

輾(まろが)り音なく熱野(ねつや)の涯を走る。

わしりぬ、環(めぐ)りぬ、ああさて極まりなき

黃金(わうごん)幻境(げんきやう)! かくこそ生(せい)の夢の

久遠(くをん)の瞬(またゝ)き進みて、二人すでに

匂ひの天(あめ)にと昇華(しやうげ)の翼(つばさ)振(ふ)るよ。

              (甲辰五月六日)

 

   *

 

   黄 金 幻 境

 

生命(いのち)の源封じて天(あめ)の綠

光と燃え立つ匂ひの靈の門(と)かも。──

靈の門、げにそよ、ああこの若睛眸(わかまなざし)、

强き火、生火(いくひ)に威力(ちから)の倦弛(ゆるみ)織りて

八千網彩影(あやかげ)我をば捲きしめたる。──

立てるは愛の野、二人の野にしあれば、

汝(な)が瞳(め)を仰ぎて、身は唯言葉もなく、

遍照(へんじやう)光裡の焰の夢に醉ひぬ。

 

見よ今、世の影慈光の雲を帶びて

輾(まろが)り音なく熱野(ねつや)の涯を走る。

わしりぬ、環(めぐ)りぬ、ああさて極まりなき

黃金(わうごん)幻境! かくこそ生の夢の

久遠の瞬き進みて、二人すでに

匂ひの天にと昇華(しやうげ)の翼振るよ。

             (甲辰五月六日)

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年六月号『明星』で、総表題「野歌三律」で後に出る「しらべの海」「ひとりゆかむ」に最後を本篇として載せる。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちら読める。表題の「黄」の字体はママである。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の本初版本こちらの画像見られたい。]

三州奇談卷之四 大人の足跡

 

    大人の足跡

 木越(きごし)の道場は、天正の頃一向宗の動亂に三山の大坊と聞へし一ケ寺、光德寺の城跡なり。其砌は粟崎(あはがさき)の湖水を引きて要害を構へ、光林寺等の末寺を引並べて、信長の勢に敵戰せしに、追手は佐久間盛致攻(せめ)よせ、死生を知らず戰ふの間、搦手は能登より長氏の軍勢馳來り、湖水の堤を切つて落せしかば、此手(このて)一番に破れて城保ち難く、則ち九郞左衛門へ降參せしかば、光德寺は能州へ引取らるゝなり。今の所口光德寺是なり。其跡は今光德寺懸所となりて、蓮如上人の舊跡、種々の遺寶ありて、當時は金澤の一遊觀の地と成りぬ。光德寺の跡には古木の梅あり。花珍しく房の如しと云ふ。

[やぶちゃん注:表題の「大人」は「おほひと」と訓じておく。

「木越の道場」「光德寺」は現在の金沢市木越町のこの中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった(移って現存する、後注「所口光德寺」参照)。「平成27年度 金沢市埋蔵文化財調査年報」(平成28(2016)年4月。PDF)の「2.木越光徳寺跡(きごしこうとくじいあと)」に詳しい。その「遺跡の概要」に、

   《引用開始》

 木越光徳寺は、15世紀後半、北陸における真宗本願寺派の布教活動が活発化する中で中心的役割を担った。長享2 (1488)、本願寺派の坊主・門徒らが時の守護富樫政親を高尾城で自害させた、世に言う「長享の一揆」は、加賀に一向一揆の国を樹立させることとなるが、その主要構成員の中には木越光徳寺をはじめとした河北郡の坊主・門徒衆が多く含まれていた。

 木越光専寺、木越光琳寺を含め、のちに「木越三光」と呼ばれた三寺は、元亀3 (1572) に加賀の一向一揆勢力と越後の上杉謙信との合戦が開始されると、寺の周囲に堀を整備して河北潟の水を引き込み、要塞と化したといわれる。天正8 (1580) には加賀攻略を狙う織田信長軍との主戦場となり、激しい攻防を繰り広げたが、佐久間盛政、長連龍に攻め入られ、激戦の末同年3月に陥落した。現在、木越集落の西を流れる血の川の名称は、討ち死にした兵士の血で赤く染まったことに由来するとされ、往事の凄惨な光景を今に伝えている。

   《引用終了》

とある。

「粟崎の湖水」現在の金沢市粟崎町(あわがさきまち)は原型の河北潟の南西岸に当たる。この「湖」とは河北潟のことである。木越からこの粟崎の南東端の大野川(河北潟の日本海への南側の水路)との間は三キロ弱で、途中に浅野川もある。

「光林寺」思うに「光琳寺」が正しいものと思う。「加能郷土辞彙」に、『コウリンジ 光琳寺 鳳至』(ふげし)『郡劔地に在つて、眞宗東派に屬する。もと河北郡木越に草創せられ、光德寺・光專寺と共に木越三光と言はれたが、天正八年佐久間盛政に攻められて、今の地に遁れ來つたといふ』とあるからである。輪島市門前町剱地に現存

「佐久間盛致」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家を祖とする佐久間家の生まれ。織田信長の家臣の一人として活躍し、「本能寺の変」以降は叔父柴田勝家とともに三法師秀信を推し、秀吉軍と戦ったが、敗北、斬首された。

「長氏」長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)。織田家の家臣、後に前田家の家臣。主家畠山家の滅亡の後、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯四十一回もの合戦に参加して勇名を馳せた(ウィキの「長連龍」に拠った)。

「九郞左衛門」長連龍の通称。

「所口光德寺」現在の石川県七尾市馬出町に現存「加能郷土辞彙」のこちらに経緯が記されてあり(三番目の「光德寺」の項)、初め木越に創建されたが、佐久間に追われて鳳至郡黒島に移り、次いで鹿島郡七尾城下に移り、更に府中村、最後に『所口の今の位置に轉じた』とあり、現在地を『鹿島郡七尾』としている。

「光德寺懸所」東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい。ただ気になるのは、現在の光徳寺は西(本願寺)派と「加能郷土辞彙」にはあることで、確認すると確かに西である。]

 光林寺跡は今は田の中なるに、爰に大人の足跡あり。

[やぶちゃん注:光琳寺と読み換えられたい。光琳寺跡は先の「平成27年度 金沢市埋蔵文化財調査年報」を見るに、光徳寺に近い位置にあるらしい。この巨人の足跡は現存しないようである。柳田國男は『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 五 一夜富士の物語』で、これ以下の巨人の足跡とする伝承を取り上げている。是非、参照されたい。なお、「だいだらぼっち」(大太法師・大太郎坊)等の巨人伝承はそちら(全九回)でさんざん注したので、ここでは語らない。なお、『北陸大学紀要』(第四十一号)の小林忠雄氏の二〇一六年一月二十九日の『文化人類学』の『最終講義』の記録「巨人伝説と一向一揆―伝承という歴史の記憶装置―」は本篇のこれらの例を冒頭に掲げ(途中で「光林寺の跡で大太法師の足跡を見物する人々」というキャプションで「三州奇談」の私の知らないまさにぶっとんだ巨大な足跡の挿絵を挙げておられるので必見!)、天馬空を翔けるが如く、キングコング・ゴジラ・ウルトラマンまで繰り出され、誠に面白く展開をなさっていて必見である。そこで小林氏は、最後に、

   《引用開始》

 一向一揆研究の第一人者、井上鋭夫によれば、蓮如ははじめ琵琶湖や若狭から日本海を北上する舟運を利用して教線を拡大したことから、はじめから綿布や絹布を扱う商人や金属・染色関係の職人、酒造などの醸造業といった当時の先端的化学技術を駆使した人々を門徒にした。しかも彼らは一揆のオルガナイザーとしての資質をいかんなく発揮したものとみられる。(井上鋭夫『一向一揆の研究』1968 吉川弘文館、同『山の民・川の民-日本中世の生活と信仰-』1981 平凡社)

 この真宗の拠点道場は人々からなぜか「大坊主」と呼ばれた。ちなみにこの「大坊主」という言葉にはある種の修行僧に見られるような、厳しい修行の場を潜り抜けてきた宗教者としての威厳が感じられる。多くの門徒はその威厳に満ちた指導者に尊敬の念を抱いてきたのだろう。

 またこの「大坊主」の表現の背景には、加賀を中心とした北陸の白山信仰とも関わっている。すなわち神仏混淆時代の白山山頂群の一つは阿弥陀如来に比定され、同時に阿弥陀仏は八幡神として尊ばれてきたことから、なぜか加賀地方には八幡神社が多く祀られている。

 このことは前述したように八幡神の家来に大人弥五郎がおり、この巨人弥五郎のイメージが、八幡信仰によって喧伝され信州門徒に浸透した可能性もある。

 日本海をわたってきた大坊主、ダイタ法師(ダイタボッチ)とは蓮如をはじめとする本願寺の指導者たちのことであり、多くの民衆救済を求めた宗教集団ではなかったか。その集団がその後一向一揆へと結実したのである。一向一揆とは時の権力者(為政者)の無謀な政治に対する反抗勢力であり、そこには民衆擁護の御旗、正義(=南無阿弥陀仏の六字名号)が貫かれていた。

 このような宗教思想は親鸞以来の基本的性格であり、建保2年(1214)に、特に越後の流罪から放免された親鸞は、その3年後家族や弟子たちとともに関東に赴き、笠間を中心に精力的に東国布教の活動を行った。したがって関東には真宗色の濃い伝承世界が展開され、本稿の冒頭に示したように、大坊主、ダイダラボッチの数多くの巨人伝説が残されたのではなかろうか。

 そして一向一揆が滅ぼされた後も、一向宗徒はこのときの事件をいわば歴史事象の記憶装置として伝えたのがこの巨人伝説、すなわちダイダラボッチの話ではなかったか。それは文字を持たない民衆にとって書き残すことさえ許されなかった時代に、きわめて慎重に工夫された民衆の知恵であったに違いない。

   《引用終了》

と述べておられる。本篇がどうして一向一揆の事実を枕として巨人の足跡という奇談を語り出しているのかが、目から鱗で私には納得出来た。本書の諸怪談は今までの部分はかなり前に異様に実録的史実を語って、それが余りに長過ぎて怪談のパッションが萎みがちになるものがやや多い気がしているのであるが、今回は小林氏の指摘で、そうした事実と巨人譚が強靭にジョイントされてよく理解し得た。くどいが、是非、読まれたい。

 土落くぼみ、草一筋も生ぜず。足の指々迄、慥に足跡とは見ゆるなり。下は石にてやあらん、一奇怪なり。

 然るに能美郡の山入(やまいり)波佐谷(はさだに)にも、山の斜めなる所にかくのごとき足跡あり。指々の跡迄くぼみありて草出來(いでこ)ず。此傍らに長氏の兵士討死の塚あり。

 今一足は越中栗殻山(くりからやま)の打越しに足跡あり。

 皆替らずと云ふ。長さ九尺餘、幅四尺許なり。今先づ顯然たるは、此三足跡なり。何れも一股(ひとまた)七八里を隔て、いかなる大人の歩きしにや。能美郡にては、里俗「たんたん法師の足跡」と云ふ。いつの頃より云ひ傳へたるを知らず。

[やぶちゃん注:「能美郡の山入波佐谷」小松市波佐谷町(はさだにまち:グーグル・マップ・データ航空写真)。この足跡も現存しない模様である。

「栗殻山(くりからやま)」倶利伽羅峠のある倶梨伽羅山のこと。

「打越」は峠の意であろう。

「長さ九尺餘、幅四尺許」長さ約二メートル七十三センチメートル、幅一メートル二十一センチメートル。

『能美郡にては、里俗「たんたん法師の足跡」と云ふ』地図を見ていたら、波佐谷町に「タンタン生水」という古跡(グーグル・マップ・データ航空写真)を見つけた。恐らくはこの近くの斜面に足跡があったものと考えられる。こちらのページに同所の石彫りの説明版の写真があるのを見つけたので、電子化する。

   *

 いつの時代の事か一歩の巾が二百米を超えると云うとてつもない巨きな白山の修験僧がこの谷に足を踏み入れたところ足元の岩が裂けそこから水が湧き出しそれからは、どんな日照りでも又、雨続きでもその湧き出す量は、少しも変らずこの付近の人達は、この湧き水をタンタン生水と呼び、野良仕事の合い間にも又、ここを通る人達もここに来て喉をうる□□[やぶちゃん注:碑面に下から伸びた草葉の蔭になってしまっていて見えないが、恐らくは「おし」かと思われる。]そして安らぎを覚えたものでした。

ちなみにタンタン法師の次の足跡は、奥谷の峯道であり、その次は布橋境のタン谷と云う事ですが、そこには今でも草も木も生えて居ないと云う事です。

 波佐谷公民館

   *

「奥谷の峯道」不詳。次の同定が正しいなら、波佐谷の南北の外か?

「布橋境のタン谷」波佐谷町の東に接して小松市布橋町があるが、ここのどこかか?]

 木越にては田の中故、草の生ずる頃は遠きよりも明らかに見ゆ。誠に一壯觀なり。

[やぶちゃん注:以上を独立段落としたのは、次の頭の「此地」が最初の「木越」の地を指すことをはっきりさせるためである。]

 此地に續きて、八田村領に、鈴木三郎重家が塚と云ふあり。今俗に「三薄(みすすき)の宮」と云ふ。重家五代の末新九郞と云ふ者、爰に來つて百姓となり、湖邊に釣して鱸(すずき)を得たり。此鱸忽ち美女と化して、新九郎と夫婦となり、久うして[やぶちゃん注:「ひさしうして」。]龍宮より召ありて歸り消え失ぬ[やぶちゃん注:「うせぬ」。]。只一つの死鱸を殘す。新九郞、其鱸を地に埋めて塚を築く。其後新九郞富樫氏に仕へて此邊を領す。八月十六日に死す。又是を爰に埋む。是に依て「みすゝき」と云ふ。其後すゝき生ひ出(いで)たり。村の人是を一社に祭りて、「三薄の宮」と云ふ。八月十六日餅酒を備へて祭る。或時祭禮を怠りしに、村中疫(えやみ)を煩ひ惱みければ、此社に詫言(わびごと)して十一月十六日に祭禮を執り行ふ。是より皆々本復したりと云ふ。其後すゝき大(おほき)に廣がれり。是を切れば血流る。土人甚だ恐れて、今猶祭禮を缺かさず。

[やぶちゃん注:『八田村領に、鈴木三郎重家が塚と云ふあり。今俗に「三薄(みすすき)の宮」と云ふ』金沢市八田町(木越地区から東北に近い)にある須々幾(すすき)神社。まず、「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説によれば(太字下線は私が附した)、『養老2年(718)八田に魚取部がおかれ、味秬高彦根神を開墾、農業の神として祀り、「治田の宮」と称す。天安元年(857)従五位下昇叙。仁和2年(886)雷火のため社殿全焼。永延元年(987)再営。建久年間(11901199)井上荘の地頭職鈴木三郎重家が荒廃していたお宮を立派に建てなおし、これより「須々幾の宮」と呼び、後「須々幾神社」となる。天正14年(1586)造営。天正15年(1587)小浜神社境内の「多賀神社」を移築、伊弉諾・伊弉冊神を祀る。5代藩主前田綱紀、河北湖畔に新田を作り奉幣され』、『以後代々藩主の奉幣が行われる』とある。個人ブログ「ちとちのなとちのブログ」の『加賀の國「三州奇談 三薄の宮」と須々幾神社、「鬼平犯科帳 兇賊」と波自加彌神社』に本段落を現代語訳された上、この「三薄の宮」について、『鈴木三郎重家とその五代目・鈴木新九郎の塚。竜宮伝説の一つ。鈴木・鱸(スズキ)・薄(ススキ)の三題噺(ばなし)であり』、『鈴木姓の起源を語る物。この鈴木一族(鈴木党)は出自が熊野水軍で、そこから各地に移住し、熊野の分社を核として布教したのである』とある。この話、面白いのだが、あまり記載がない。何か見つけたら、追記する。「其後新九郞富樫氏に仕へて此邊を領す」というのが、龍宮伝説の変形譚なのに、中世以降(富樫氏は室町時代に加賀国守護となった)という時代の若さが妙に気になっているのである。

「鱸(すずき)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、本スズキを海水魚と思っている方が多いが、海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)。博物誌は最近の私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸(スズキ)」を見られたい。

 さて。底本はここで終わっているのであるが、国書刊行会本のみに、この後に短い真逆の「小人足跡」と表題する話が載っている。これは編者注によれば、『(金沢大学附属図書館蔵本により補う)』とあるものである。恣意的に漢字を正字化して参考に供する。

   *

     小人足跡

 同國河北郡長澤といふ所に、一奇談有(あり)。往古より小人の足跡とて有。長さ一寸五步、幅七步有て、此(この)村の草中に有。其(その)所今に草生る[やぶちゃん注:「おふる」。]事なし。「でらでら法師の足跡」と古よりいふ習(ならは)しなり。いか成(なる)人の足跡にや。不思議の奇談也(なり)。

   *

「だいだらぼっち」に酷似する発音なのに、こっちは長さ四センチ五ミリで、幅二センチという小人(こびと)の足跡だ。「河北郡長澤」は不詳。まあ、残ってないよなぁ。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 一 狸の怪

 

  Tanuki_20200331093501

 

[やぶちゃん注:上記画像は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像からトリミング・補正して示した。]

 

  

 

     一 狸  の  怪

 狸と云ふ奴は、たしかに變な奴だと、始終狸を捕つて居る男が話した事があつた。未だ五年とたたぬ新しい話である。村の池代[やぶちゃん注:「いけしろ」。]の山で穴を見付けて、仲間と二人で掘つたさうである。いよいよ奧まで掘つてしまつて、枯葉を敷きつめた寢床迄掘り詰めたが、狸の姿は薩張り見えぬ。こんな筈はない、たしかに居る筈だが、何處か拔穴でもあるのぢやないかと、掌で撫でるやうにして探したが、拔穴も無ければ狸も居らぬ。それにもう一面の岩が出てしまつて、これ以上掘つてゆく先もない。然し深い橫穴で、中が暗くて仕方がない、蠟燭でも點して見たらと、わざわざ一人が里へ出て取つて來て、中を隈なく探したが、どうしても居らなんだ。穴の口の樣子では、二疋や三疋は間違ない筈だが、それでは今日は穴の口に圍ひをして置いて、明日も一度來て見ようと圍ひの支度にかゝつた處へ、丁度見物に來た男があつた。そこで其迄の經過を話して見たところ、其男の言ふには、昔から狸は燻せば[やぶちゃん注:「いぶせば」。]出ると言ふから、試しに燻し立てゝ見たらどんな物かと言ふ。何だか當にならぬやうにも思つたが、他に好い方法も無いので、其に決めた。枯葉を搔集めて、上に杉の靑葉を載せて、煙をドンドン穴の奧へ煽り込んでやつた。一方、拔穴でもあつて、煙の出る道でもあるかと、一人が見張つて居た。すると物の二分間も經たぬのに、ヒヨツコリ煙の中から狸が飛出して來たさうである。直ぐ用意の刺股[やぶちゃん注:「さすまた」。]で押へつけて摑まえてしまつたが、只不思議でならぬのは、それ迄狸が果して何處に隱れて居たか、いくら考へても判らぬと言ふのである。

[やぶちゃん注:「池代の山」読みは改訂版に従った。サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」先行する「三州橫山話」の早川氏の手書きの「橫山略圖」PDF)を見ると、右中央に『字池代』とあり、現在も新城市横川池代(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。この域内のピークと考えてよかろう。早川氏の実家のあった位置の南東にも近く、「わざわざ一人が里へ出て取つて來」る範囲内と言える。]

 同じ男の話であるが、その前、別の山で狸を掘つた時の事ださうである。凡そ六分通りも掘つたと思ふ時分、もう一疋飛出して來た。直ぐ持つて居る鍬で撲りつけると、コロリと死んださうである。そこで肢を縛つて、傍の木の枝に吊して置いた。未だ二疋や三疋はたしかに居ると、更に穴を掘りに掛つたさうである。其時穴を掘りながら傍に吊してある狸を見ると、何だか繩が切れさうで、危なつかしくて仕方がない。そこで相手の男を顧みて繩を代へてくれと言ふと、よしと答へて直ぐ狸を下して繩を解いたさうである。その時代りの繩を取つてくれと言ふので一人が鍬の手を休めて、脇に置いてあつた繩束を投げてやつた。それを相手が手を伸べて受止める、其瞬間だつたさうである。繩を受取る爲ヒヨイと手を伸した隙に、死んで居た筈の狸がムツクリ起上るが否や、手の下を搔潜つて飛び出した。ソレツと慌てて追掛けたが、もう間に合はなんだと言ふ。狸はもう何處ともなく逃げてしまつた。何にしてもホンのちよつとの隙で諦められなんだと言ふ。隨分ひどく撲つてたしかに死んだと思つたが、やはり噓死[やぶちゃん注:「うそじに」。]にだつた。それにしても吊してある繩が氣になつたのが、そもそも恠しかつたと不思議がつて居た。

 死眞似か氣絕か、狸にはよくある事ださうである。

[やぶちゃん注:ここに出た「噓死」=「狸寝入り」を含めて狸(食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides。本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である。)の博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」を参照されたい。

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十九 鹿の大群 / 鹿パート~了

 

     十九 鹿 の 大 群

 

Sikabue



[やぶちゃん注:挿絵。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミング・補正した。キャプションは「鹿笛」。但し、本文とは絡まない。]

 今から五十年許り前、段戶山中の、菅原(すがひら)の奧の中(なか)の川原で、川狩りの人夫達が材木を運んで居ると、傍の深い萱立[やぶちゃん注:「かやだち」。]の中から、木の枝を振翳した[やぶちゃん注:「ふりがざした」。]裸形の山男が、大鹿を追いかけて來たと言ふ。その連中が段々材木を流して來て、自分の村へ宿をとつた時、その事を語つたさうである。

[やぶちゃん注:「今から五十年許り前」本書刊行は大正一五(一九二六)年十一月であるから、明治九(一八七六)年頃となる。

「段戶山」複数回既出既注。「だんどざん」と読み、前の北設楽郡設楽町田峯にある鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。

「菅原(すがひら)」不詳。

「中(なか)の川原」不詳。但し、「段戶山中」とあるので、鷹ノ巣山の渓谷ではあろう。

「裸形の山男」なかなかに伝承の山男っぽい。]

 此話は、その中の川原附近が、もう噓のやうに木を伐り盡くしてしまつた後の事で、更に三里程奧へ入つた所の事だつた。

 明治三十年の冬ださうである。何時になく寒い年で、此模樣では、もう長く山には居られぬなどゝ言ふ程だつた。某の杣の居た小屋には、仲間が八人居たさうである。前の日迄に豫定の仕事が終つたので、其朝は早く起きて、新しく持場を決めるために、山割の相談をしたさうである。みんな小屋の前に並んで、下の窪を見ながら話をして居た。山の朝は未だ暗かつた。而も其朝に限つて、窪の底一面に霧が立罩めて居る。某の男は他の連中とは一人離れた處から見て居た。昵と見て居る内、霧がモコモコ動くやうで、上へ上へと擴がつて來る。そして段々近づくに從つて、色が薄紅いやうに變つて來る。昵と見て居る内、アツと聲を揚げんばかりに驚いたさうである。今迄霧とばかり思つて居たのが、何千何百と、數限りなく續いた鹿の群だつた。次から次へ湧いてゞも來るやうに、先登[やぶちゃん注:「せんとう」。先頭。]が脇の峯へ向けて、走つて居たさうである。その時はもうみんな氣がついて居た。さうして誰一人聲を立てる者もなかつた。凝と立つたまゝ、その群が全部通り過ぎる迄、見て居たさうである。さうして誰一人聲を立てる者もなかつた。凝と立つたまゝ、その群が全部通り過ぎる迄、見て居たさうである。

 それから急に山が怖しくなつて、後一日働いて、全部小屋を引き拂つて歸つてしまつたと言うた。某はその時、二十一か二だつたさうである。

 斷片的な、とりとめのない話の續きが遂長くなつた。極めて狹い、東三河の一小部分、僅か五方里に足りない間でも、其處に棲息した鹿は自から區別があつた。北から南へ、鍵形に線を引いた寒峽川豐川の右岸地方に繁殖した鹿は、川の左岸遠江へかけて居た物より遙かに長大であつた。前に言うた本宮鹿がそれである。これに反して遠江の山地に近づくに從つて、だんだん小さくなつて、俗に遠州鹿と稱した物は、雄鹿の三ツ又でも七八貫が止りであつた。山に岩石多く食物が十分でない爲めとも言うた。鹿の生活にも又地の利が影響したのである。

[やぶちゃん注:「寒峽川豐川」既に述べた通り、豊川の宇連川合流点より上流を寒狭川(かんさがわ)と呼ぶ。「峽」は既に早川氏の用字法にあった。

「本宮鹿」「ほんぐうじか」。「八 鹿に見えた砥石」を参照。

「七八貫」二十六・二五~三十キログラム。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十八 木地屋と鹿の頭

 

    十八 木地屋と鹿の頭

 甞て長篠驛から海老(えび)へゆく街道で、道連れになつた男があつた。いろいろ世間話をする内、北設樂郡段嶺村の者と知れた。その折聞いた事であるが、段嶺の奧の段戶山御料林中の、水晶山の木地屋部落へ入込んだ時に、其處の有力者らしい家に、見事な鹿の頭が二ツ、角づきのまゝ座敷に飾つてあつたさうである。何んとかして一ツ讓つて吳れぬかと、掛合つた末に、三十圓迄出すと言うたが、遂[やぶちゃん注:「つひ」。]肯わなんだと言ふ。何でも極く新しい木地屋部落で、最初は二三戶であつたのが、忽ち二三十戶に增へたと言うた。其處へ初めて木地屋が入込んだ頃には、附近の山中に、十五六づゝも群になつて、遊んで居る鹿を見る事は珍らしくなかつたさうである。段戶山の鹿は昔から有名であつた。次の話も同じ山中の話である。

[やぶちゃん注:「木地屋」山中の木を切り、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽とも呼ばれ、轆轤(ろくろ)を用いることから轆轤師ともいう。近江国小椋谷(おぐらだに)の蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑(きみがはた)を本貫地とし、惟喬(これたか)親王(承和一一(八四四)年~寛平九(八九七)年:平安前期の文徳天皇の第一皇子)を祖神とするという伝説を持つ。良材を求めて諸国の山から山へと漂泊を続け、江戸時代にも蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮)、君ヶ畑の金竜(きんりゅう)寺高松御所(大皇(おおきみ)大明神)が発行する偽作綸旨(りんじ)の写しや武家棟梁の免状の写しを権威とし、伐採や通行の自由を主張した。しかししだいに山間に土着して村生活を営むようになり、明治維新後、伝統的な木地屋社会は消滅していった。筒井公文所・高松御所は全国に散在する木地屋をおのおの筒井八幡宮・大皇大明神の氏子として組織し、綸旨や免状を発行する代りに、「氏子狩(氏子駆)」と称し、何がしかの奉加料・初穂料その他の儀式料を集めて各地を回った。これを記載したものを「氏子狩帳」「氏子駆帳」といい、筒井八幡宮に正保四(一六四七)年から明治二六(一八九三)年に至る三十五冊、金竜寺に元禄七(一六九四)年から明治にかけての五十三冊が伝わる(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。亡き澁澤龍彦の遺稿ノートによれば、彼の次回作は彼ら木地師と惟喬親王の関係を絡めた小説となるはずであったようである。

「長篠驛」現在の長篠城駅のある附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を中心とした旧宿場町ととる(長篠城駅、則ち、旧鳳来寺鉄道の長篠古城址駅は大正一三(一九二四)年四月開業で、本書刊行は大正一五(一九二六)年十一月である)。

「海老(えび)」新城市海老

「北設樂郡段嶺」改訂版では『北設樂郡田峯(だみね)』とされてある北設楽郡設楽町田峯。但し、これは誤りではないスタンフォード大学の明治四一(一九〇八)年測図の「本郷」を見ると、東中央位置に「田峯」があるが、その左上の端に「段嶺村」と大きく書かれているからである。則ち、ここは「北設樂郡段嶺(だみね)村田峯(だみね)」であったのである。

「段戶山」複数回既出既注。「だんどざん」と読み、前の北設楽郡設楽町田峯にある鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。

「御料林」先のスタンフォード大学の明治四一(一九〇八)年測図の「本郷」を今一度見てもらうと、「段嶺村」の左上に大きく広域で「段戶山御料林」とあるのが判る。

「水晶山」ここ(国土地理院図)。愛知県豊田市小田木町。段戸山からは直線でも七キロメートル近く北西に当たる。

「三十圓」現在の六十万円相当である。]

 某の杣が山中の小屋に働いて居た時の事、一日ひどく雪が積つて、仕事が出來ぬ處からぼんやり小屋の前に立つて居ると、向ひの日陰山に鹿が二匹遊んで居た。そこで退屈凌ぎに仲間を誘ひ合つて、其鹿を遠卷きにして追立てた。すると鹿は一氣に峯を越して逃げてしまつたので、みんなして笑ひながら小屋へ引返して來ると、途中の一叢[やぶちゃん注:「ひとむら」。]伐殘した[やぶちゃん注:「きりのこした」。]茂みの中に、何やらムクムク動く物がある、よくよく見るとそれが鹿の群であつた。凡そ二十許りも居たと言ふが、尻と尻とを押合ふやうにして、木の影に塊り合つて居たさうである。直ぐ追散して[やぶちゃん注:「おひちらして」。]しまつたが、前の鹿を追つた時、どうして遁げなかつたか、不思議だと言うた。日露戰爭の濟んだ年あたりで、某は三十を少し出た年輩であつた。

[やぶちゃん注:「日露戰爭の濟んだ年」ポーツマス条約による講和は明治三八(一九〇五)年九月五日。]

 又自分の村の山口某は、山中の杣小屋へ、村から飛脚に立つた時、途中の金床平(かなとこだいら)の高原で夥しい鹿を見たと言うた。途中の田峯村から日を暮して、金床平へ掛つた時は、八月十五夜の滿月が、晝のやうに明るかつたさうである。見渡す限り廣々とした草生へ掛つて、初めて鹿の群を見た時は、びつくりしたと言ふ。丸で放牧の馬のやうに、何十と數知れぬ鹿が、月の光を浴びて一面に散らかつて居たさうである。人間の行くのも知らぬ氣に、平氣で遊んで居たのは、恐ろしくもあつたが、見物でもあつた。中には道の中央に立塞つたり、脇から後を見送つて居るのもあつた。

 夜遲く目的の山小屋へ着いたが、其處へ行くまでの間、高原を出離れてからも、五ツ六ツ位群になつたのには、數へ切れぬ程遇つたと言うた。明治二十年頃で、山口某はその頃二十五六の靑年であつた。

[やぶちゃん注:「金床平(かなとこだいら)」不詳。「田峯村から日を暮して」とあるから、この辺りのどこかの高原部となろうか。

「明治二十年」一八八七年。]

2020/03/30

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十七 大蛇と鹿

 

    十七 大 蛇 と 鹿

 大蛇が鹿を追つたと言ふ話がいろいろあつた。

 瀧川の村から小吹川(こぶきがは)に沿うて、一里ほど山奧へ入りこんだ處に、小吹(こぶき)と言ふ一ツ家があつた。そこの山には大蛇が棲むと專ら言傳へたが、曾て鳳來寺村布里から、山越しゝて來た男は、行く手に松の大木が倒れてゐると思つて近づくと、蛇の胴體だつたと謂うた。或時瀧川の狩人が、朝早く其處へ引鹿を擊ちに行くと、見上るやうな高い崖の上から鹿が轉がり落ちて來た、不思議に思つて崖の上を仰ぐと、今しも一匹の大蛇が、鎌首を差出して下を覗いて居るのに、びつくりして遁げて來たと謂うた。

[やぶちゃん注:「瀧川の村」国土地理院を見ると、出沢の北に接して寒狭川沿いに「滝川」の地名を見出せ、スタンフォードの古い地図でも「瀧川」の文字の左斜め上に「小吹」とあるのが判る。グーグル・マップ・データ航空写真で示すと、この中央の谷附近(七久保川の尾根一つ北に越えたところ)である。

「鳳來寺村布里」新城市布里。北部分の豊川(寒狭川)沿いに開けている。ここから南に布里地区の山間部を山越えしてきたということになる。

「山越しゝて來た男」この「やまごえししてきた」という動詞は意味が判らない。改訂版でも、例のPDF版でもそのままであるが、私は「ゝ」は衍記号ではないかと思っている。]

 伊那街道筋の、双瀨(ならせ)にも略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じやうな話があつたと言ふ。其處に高く切り立つたやうな崖があつて、崖の上が宙に差出たやうになつた場所ださうであるが、或時狩人が其下に休んで居ると、崖の上から何やらえらい音をさせて落ちて來たものがあつた。見るとそれが鹿で、前の話と同じやうに蛇に追はれて來たと言ふのである。同じやうな話は未だ他でも語られて居たが、たゞ八名郡石卷村にあつたと言ふ話だけは、更に不思議な物語が附いて居た。

[やぶちゃん注:「双瀨(ならせ)」ここに「双瀬の川渡り」という海老川の景勝地があり、その左岸には「大双瀬(おおならぜ)」及び「奥双瀬(おくならぜ)」の地名(現行地名は「ぜ」と濁る)を認める(新庄市内)。

「八名郡石卷村」現在の愛知県豊橋市石巻町。珍しく横川からかなり南西に離れる。]

 極く新しい事だと言うて、その者の名前迄聞いたがもう忘れてしまつた。某の狩人が朝暗い内に起きて、石卷山に鹿擊ちに出かけて、山の中腹の崖の下に行つて夜明を待つて居たと言ふ。その崖と言うふのは所謂懸崖で、高い岩が屋根のやうに差出して、崖の上は遙かに峯續きになつて居る。アギトとも言うて、更に上には登る事の出來ぬやうな地形である。その岩の頭へ姿を見せる鹿を打つためだつた。すると夜の明方に、思ひがけなく、岩の上から、一匹の大鹿が轉がり落ちて來た。驚いて崖を見上げると、高い岩の上から、二間[やぶちゃん注:約三・六三メートル。]もある鎌首を差出して、恐ろしい大蛇が下を除き込んで居た。びつくりして直ぐ鐵砲を取直して、蛇を目がけて放したと言ふ。すると恐ろしい音を立てゝ蛇は手繰るやうに落ちて來て、えらい苦しみをして死んださうである。狩人はそのままゝ鹿を引舁いで、ドンドン家へ逃げて來ると、戶口に女房が眞蒼な顏をして倒れて居たと言ふ。驚いて助け起して段々譯を聞くと、女房は夫を送り出してから一眠りする内、夢を見たのである。今しも一匹の大蛇になつて、鹿を追ひかけて行くと、その鹿が崖の下へ轉がり落ちたので、上から覗き込むと、下に狩人が居ていきなり鐵砲で自分を擊つたと迄は知つて居たさうである。それからは夢中で、床を轉がり出して門口迄來ると、其處に倒れて氣を失つたのである。段々聞いて見ると、男が蛇を擊つた時と寸分異はなんだ[やぶちゃん注:「ちがはなんだ」。]と言ふのである。

[やぶちゃん注:「石卷山」。ここ。標高三百八十五メートル。]

 何だか未だ缺けた點があるやうである。此話を聞いたのは小學校へ通つて居る頃で、學校へ行く途中だつたと思ふ。自分より四ツ五ツ上の子供が、昨夜中村(寶飯村中村)の伯父が泊つて父に話したのを、脇から聞いたと語つたものである。今では子供もその父も死んでしまつて、もう詳しい事を聞糺す宛も無い。同じ八名郡の鳥原は、昔から大きな蛇が澤山居た處と言うた。或時鹿を咥へた[やぶちゃん注:「くはへた」。]大蛇が、山の裾を、草を押分けて走つて行く處を見たと言ふ話もあつた。

[やぶちゃん注:「中村(寶飯村中村)」改訂版では「寶飯郡中村」。「寶飯」は「ほい」と読む。石巻に近いところとすると、愛知県蒲郡市形原町中村か?]

ブログアクセス1340000突破記念 梅崎春生 眼鏡の話

 

[やぶちゃん注:本作は昭和301955)年12月号『文芸春秋』に発表され、後の単行本『侵入者』(昭和321957)年4月角川書店刊)に所収された。因みに、梅崎春生はこの19552月に、前年の8月に『新潮』に発表した「ボロ家の春秋」により直木賞を受賞している。しかし彼は自身を純文学作家として自覚しており、貰うならば芥川賞と考えていたことから、辞退を考え、多くの作家仲間に相談した事実はよく知られている。それについては、『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (6)』の私の注で少しく述べたので、参照されたい。

 本篇は梅崎春生自身の海軍暗号員(正確には暗号特技兵)としての戦時経歴とかなり一致している(29歳の時、昭和191944)年6月に海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入り、終戦まで九州各地の陸上基地を転々とした)。敗戦の年の五月に即席の下士官教育を受けて二等兵曹となっていた。但し、梅崎は戦時中の詳しい経歴を語ることを嫌っており、現在でも細かな部分は判っていない。従って本篇でイニシャルで示されるK基地なども同定はしない。この「K」イニシャル自体も実際の基地名のそれではないと考えた方がよいと私は思っている。但し、本文内で吹上浜の真正面にあるとするから、この辺り(グーグル・マップ・データ。ロケーションの一部で「幻化」でも印象的な場面に出る坊津(ぼうのつ)を含めて示した)ではある。吹上浜には海軍の特攻艇「震洋」の秘密基地が複数あった)。彼のその経歴・職種及び配属された基地や、ここに出る地名等の殆どは既に、

カテゴリ「梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】」

及び

カテゴリ「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】」

で詳細に注してあるので、それらに出ない一部を除いて注はしない。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1340000アクセスを突破した記念として公開する【2020330日 藪野直史】]

 

   眼 鏡 の 話

 

 他人と喧嘩する時、もしその男が眼鏡をかけているなら、先ずそいつの眼鏡をたたき落せ。中学生の頃、私はそう先輩から教えられた。眼鏡をたたき落されたら、そいつは動作に自信を失って、実力が半分ぐらいがた落ちしてしまう。もうそうなれば闘わずして勝ったようなものだ。

 その頃私は眼鏡をかけていなかったから、そんなものかなと思っただけだが、後年眼鏡をかけるようになって、ある程度その先輩の言を首肯した。眼鏡をなくすと、動作にいくらか自信がなくなるのは事実であるし、もしたたき落されたら、たたき落された眼鏡のことの方が気になって、喧嘩どころではなくなるだろう。踏みつぶされでもしたらことだ。眼鏡なんてそう安いものではない。

 しかしこれはたたき落された場合であって、自分で外してポケットにしまい込んだ場合は別である。喧嘩の実力はそう低下するものではない。

 だから私は周囲の情勢が険悪になると、すぐに眼鏡を外してしまい込む傾向がある。動作はそれでいくらか鈍くはなるが、たたき落されてうろうろするよりはましだ。

 喧嘩ではなく、自分の不注意で眼鏡をこわしたような場合、次に新調するまでの期間が非常に憂欝なものである。なにしろ今まではっきり見えていた現実が、急にぼやけたり分裂したりしてしまうのだ。次の眼鏡にありつくまでの数時間、あるいは数日間というものは、生理的に不愉快で、仕事にもろくに手がつかない。

 私は生れつき割に用心深いたちだが、近頃よく眼鏡をこわすようになった。昔はそんなことはなかった。学生の頃なんかほとんどこわすことがなくて、ひとつ眼鏡を数年間にわたってかけていた。

 それが何故近頃そういうことになったかと言うと、どうも経済的なものが私の心理に影響を与えているらしいのだ。すなわち学生時代は眼鏡をこわすと、直ぐに乏しい学習に重大な影響を及ばす。だから眼鏡を大切にせざるを得ない。ところが今の私にとっては、眼鏡は学生時代ほど貴重品ではないので、つまり生命(いのち)から三番目や四番目のものでなく、十数番目あるいは数十番目のものであるので、つい取扱いがおろそかになるのだろう。このように物のこわし方について考えても、背後にちゃんとした経済的な裏付けがある。

 たとえば戦時中のことを考えればすぐに判る。人々は物を大切にし、めったにこわさなかった。万一こわしたとしても、工夫して修理に修理を重ねて使用した。もっともこれは修繕出来るものに限るのであって、眼鏡などというものはその性質上、ひとたび割ってしまえば、もう修理の余地はない。

 そういう貴重な眼鏡を、戦争も末期の末期、あと一箇月で終ろうという昭和二十年七月某日、私は不運にして割ってしまった。割った場所は鹿児島の片田舎で、そこらの町に出ても眼鏡屋なんかはない。あっても現物不足で開店休業の形になっている。そういう不運な状況のもとに、私はただひとつしか持たない愛用の眼鏡を割ってしまったのである。当時私は海軍の応召兵であった。

 

 海軍に召集されて初めて判ったことだが、あの水兵服というやつに、眼鏡は絶対に調和しない。

 水兵服には自からなる年齢の制限がある。水兵服が似合うのは、せいぜい二十二三どまりで、それ以上の年齢ではムリなのだ。たとえばかの勇ましい砂田長官に水兵服を着用させて見るといい。いかに勇ましいことを言っていても、似合うわけはないのである。

[やぶちゃん注:「砂田長官」自由民主党結党時の防衛庁長官砂田重政(明治171884)年~昭和321957)年)。本作が発表された年の昭和301955)年731日、第二次鳩山内閣で防衛庁長官となっていたが、実は同年1122日に予備幹部自衛官制度の必要性を訴えたが、閣議を経ていない個人としての意見という意味合いが強く、自衛隊のあり方に慎重な世論の批判によって更迭されている。長官就任時は右派で再軍備を主張していた日本民主党であったが、更迭の七日前の1115日に日本民主党と自由党の保守合同が実現し、自由民主党が結成されていた。従って、本初出時には既に防衛庁長官ではなかったので、実に皮肉な謂いとなったのであった。]

 眼鏡が水兵服と調和しないのも、そういうことと少しは関係があるらしい。

 水兵服が眼鏡をかけているということだけで、私は若い兵長などに不当にいじめられた経験がある。略服を着ている時はそうでもないのに、水兵版(第一種軍装と言う)を着用していると、いじめられ方がひどいのだ。彼等にとっては、水兵服の価値を引き下げられたように感じられたのだろう。その彼等の気持は今となっては判らないでもない。

 だから私は水兵服で外出して、街のショウウィンドゥなどにうつる自分の姿を、自己嫌悪なくしては眺められなかった。こういう水兵をつくったということだけでも、帝国海軍の末路はもう見えていたようなものだ。

 もっとも眼鏡を破損した二十年七月には、水兵服はもう着用していなかった。もうそんなものは返納して、防暑服という軽装になっていた。その防暑服姿でアルコール性飲料を痛飲し、泥酔して崖から辷(すべ)り落ち、そして眼鏡を割ったのである。

 何故そんなものを痛飲したか? 少々ヤケになったからである。何故ヤケになったか? 転勤の命令が出たからである。何故転勤の命令が出てヤケになったか? そこの配置がとても良かったからである。

 

 通信自動車という名称だったか、一応装甲された大型車で、屋根にアンテナを立てている。内部には無線機械や暗号書入れの金庫などがあり、乗員は運転手の外(ほか)、電信員が二人、暗号員が一人ということになっていた。その暗号員というのが私である。私は鹿児島近郊の谷山基地からK基地に派遣され、そのK基地で志願して通信車の暗号員となったのだ。通信車の任務は、あちこちに移動して、各基地との連絡通信にあたる。先ず私たちの通信車はK基地を出発して、山道をあえぎあえぎ数時間走り、坊津(ぼうのつ)を眼下に見おろす峠に着いた。早速電信員は電鍵をカチャカチャとたたき、K基地に只今安着の報告をした。もちろん暗号文でだ。そのために私が同乗している。電文はすぐに通じた。

 そこまでは良かったけれども、第一報を送ったとたんに無線機の調子が悪くなったらしく、いくら電信員が呼んでもK基地が出て来なくなったのだ。通信車といっても、まだ試作程度のものだったらしく、性能が全然良くないのである。通信が出来なければ、通信車の任務は果たせない。それでも電信員は、K基地を呼び出さんものと、いろいろ苦心しているようだったが、どうしても応答がないので、呼出し時間は朝夕二回ときめ、あとの時間は公然とさぼり出した。電信がそういう状態であるから、したがって私の仕事、暗号作製暗号翻訳にも力のふるいようがないので、開店休業のかたちとなる。指令がないから、(あってもキャッチ出来ないから)車は峠に居坐ったまま動かない。だから運転手も力のふるいようがない。運転手は四十年配の応召の兵長だったが、これさいわいと釣竿をつくり、毎日峠を降りて魚釣りに行ってしまう。あの坊津というのは実に美しい港で、魚も割によく釣れた。

 こうしてここが、朝から晩まで何もすることがない、何もしないでいい、という絶好の配置になったわけだ。それまで一年有余、応召以来、朝から晩まで怒鳴(どな)られ、たたかれ、追いまくられて来た果てに、こんなに静かな颱風(たいふう)の眼のような生活が、ポカッと私の前に立ちあらわれた。こんなに毎日が貴重に思われたことは、私の生涯を通じてもあまりないことだろう。

 この通信車を絶好の配置と言ったが、それは大いに暇だという理由だけではなかった。別にもあった。なにしろあの頃は米軍上陸の時期が近づいていて、その上陸地点も宮崎海岸か、薩摩(さつま)半島の吹上浜と予想されていた。もし吹上浜に上陸したらどうなるか。K基地なんかその真正面だからひとたまりもない。洞窟陣地に入ったまま全滅するにきまっている。K基地所属の私ももろともだ。

 ところが、こうして通信車の所属になれば、もし敵が上陸した場合、その機動力を利用して、いち早く安全地帯に逃げのびることが出来る。通信車というのは、戦闘に従事するのではなくて、通信が任務である。安全地帯に退避するのは、卑怯でも何でもなく、当然の処置なのだ。そういう意味でも絶好の配置であった。それは私が内心ひそかにそう考えていたのではなく、たとえば運転手の兵長なども、

「敵さんが上陸してきたら、腕によりをかけて逃げるよ。決してあんたたちに犬死にはさせないよ」

 いつもそう言っていたくらいだ。

 しかし今考えると、もし敵が上陸したら、通信車は大型だし、よたよたしていてあまり速力も出ないので、戦闘機あたりのいい餌食(えじき)になり、全員壮烈な戦死ということになっていたに違いない。

 そういう具合の日々が一週間もつづいたある夕方、電信員がカチャカチャと連絡をとっていると、ふっとK基地が出てきたのである。そして向うから直ちに暗号電報を送ってきた。晴号は「勇」である。「勇」とは人事関係に使用する暗号だ。さっそく「勇」晴号書をめくつて、翻訳にとりかかって、私はびっくりした。最初に私の名前が出て来たからだ。

「‥‥‥転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投セヨ」

 私は愕然(がくぜん)として暗号書を取り落した。絶好の配置の夢も、わずか一週間でくずれてしまったわけだ。

 これには運転手兵長以下が気の毒がって、その晩私のために送別会を開いて呉れた。場所は峠のそばの草原、サカナは兵長が釣ってきた雑魚(ざこ)、飲料はアルコールを水に割ったもの。峠の近くの松林の中に、海軍航空用一号アルコールが、ドラム罐で百本はかりごろごろころがっている。そこから持ってくるのだからアルコールは無尽蔵と言っていい。飲み方は先ず、食器に一号アルコールを入れて、マッチで火をつけるぼうぼうと燃える。いい加減なところで火を消して水を割る。火をつけるのは、毒が上澄みになっているという兵長の説で、その説を信頼して私たちはずいぶん飲んだ。一号アルコールがメチルであるかどうか、私は今もって知らないが、あまり良い酔い方をしなかったのは事実である。宴果てて、通信車に戻る途中、放尿しようとして崖の鼻に立ったまでは憶(おぼ)えているが、次に気がついた時私は崖下に横になってたおれていた。まっくらで何も判らない。眼鏡も飛んでいる。探しようもない。手さぐりで崖を這い登ると、右の瞼(まぶた)が痛かつた。切れて血が出ているらしく、ぬるぬるする。兵長以下は私を見捨てて、先に行ってしまった。これは彼等が不人情なわけではなくて、かえりみる余裕がないほど彼等も酔っていたのである。

[やぶちゃん注:「海軍航空用一号アルコール」『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (7)』では、『航空用ガソリンの不足を補うために開発された代用燃料であるが詳細は不詳。後の飲用の場面から見ると、サツマイモから作られたエチル・アルコールに飲用を防止するためにガソリンや灯油などを混ぜたものかと思われる。高校時代に戦争経験のある社会科の先生(バタン半島死の行進の話が大好きな先生であった)から聴いた記憶がある。識者の御教授を乞う』と注したが、その後もよく判らない。但し、戦時経験者の懐古録によると、正式な海軍航空機用燃料としてのアルコールは毒性の強いメチル・アルコールであったとある。]

 

 眼鏡は翌朝、崖下を探して見付かった。縁は原型をとどめていたし、左の玉もちゃんとしていたが、右の玉はめちゃくちゃにこわれて散乱していた。その破片のひとつが私の右瞼を傷つけたものらしい。

 眼鏡というものは、右左とも度が合ってこそ役に立つものであるが、片方だけが合っていてもう一方が素通しだというのは、実に具合が悪い。全然かけない方がまだしもなのである。私は絶望した。こんな時期に眼鏡をこわしては、また次のやつが手に入るかどうかも計りがたい。もし手に入らねば、私は眼鏡なしで軍務に服さねばならぬ。眼鏡をかけていても動作鈍重、へまばかりをやっている私が、眼鏡がないとなるとどういうことになるのだろう。

 しかしくやんでいても仕方がない。

 右瞼にかんたんな治療を加え、私は兵長たちに別れを告げ、そして峠を降りた。眼鏡はかけないで、ポケットにしまったままである。徒歩で枕崎に出て、汽車に乗り、途中の小さな町で降りた。その小さな町で、私は眼鏡をかけていなかったために、ついうっかりして、町角に立っている三人の海軍士官に対して敬礼をおこたった。夕方ではあるし、よく見えなかったのである。

「おい。貴様!」

 通り過ぎようとする私を、その一人が険(けわ)しい声で呼びとめた。

「貴様、生意気に、欠礼する気か!」

 私はびっくりして立ち止り、あわてて挙手の敬礼をした。見ると三人とも少尉で、一人はアゴの張ったの、一人はオデコで、もう一人はヘチマみたいに顔が長かった。私を呼びとめたのはそのヘチマである。私は敬礼の姿勢のまま、眼鏡を割ったので見えなかったのだ、という弁解をした。するとヘチマが怒鳴りつけた。

「弁解するな。こっちへ来い!」

 私は口をつぐんでヘチマの前に進み出た。その時オデコが横から口を出した。

「じゃそのこわれたという眼鏡を出して見ろ」

 私はポケットから眼鏡を出して、オデコに手渡した。へチマが言った。

「足を開け。少しばかり修正してやる!」

 私は足を開いて踏んばった。ヘチマの右の拳固(げんこ)が私の頰に飛んだ。私はよろめいた。するとも一つの拳固が左から飛んできた。

 応召以来ずいぶん殴(なぐ)られたが、街中(まちなか)で殴られるのはこれが初めてである。町の人々が立ち止って、私が殴られるのを眺めている。三人とも私より五つ六つ歳下で、もちろん学徒出陣で出てきた予備士官たちだ。皆が見ている前で殴る立場になっているのが得意らしく、ヘチマは調子をつけてたのしそうに、右から左から私を殴りつける。この野郎! と思うのだが、反抗するわけには行かない。唇の内側が切れたらしく、口腔内がべっとりとしてきた。眼界がくらくらとなる。

「おい。もういい加減にしてやれよ」

 それまで黙って見ていたアゴが発言した。ヘチマは殴りやめた。ふらつく足を踏みしめて私はふたたび不動の姿勢をとった。オデコが眼鏡を投げるようにして戻した。

「片方にはチャンと玉が入っているじゃないか!」オデコが私をにらみつけた。「片方だけでもチャンとしておれば、かけて見えんわけがない。かけろ!」

 私は情ない思いで眼鏡をかけた。見たところ三人とも眼鏡をかけていない。眼鏡を使用していない人間に、片欠け眼鏡のはなはだしい違和感を説明しても、判って呉れないにきまっている。眼鏡をかけた瞬間に、町の風景は濃淡の二重になって、ぐらぐらと歪(ゆが)んだ。オデコが言った。

「貴様、どこまで行くんだ?」

「谷山までです」

「丁度いいじゃないか」オデコが二人をかえりみた。「こいつにトラックを探させようじゃないか」

「その方が手早いな」ヘチマが応じて、そして私に向き直った。「今から十五分以内に、トラックを一台探し出して、ここに連れてこい。鹿児島方面行きのトラックだぞ。いいか。逃げると承知せんぞ。かけ足!」

 私は両手を脇腹につけ、走り出した。片欠け眼鏡のせいで、大地が波打っていて、走りづらいことおびただしい。しかしそれよりも学校出の予備士官に、しかも街中で殴られたことの方が、きりきりと口惜しかった。十七か十八の子供のような兵長や上水に殴られるよりも、この方がずっと腹が立った。妙な心理ではあるが、こちらも学校出でしかも無理矢理に海軍に引っぱられたのに、そういう気持が働いていたのだろう。

 駅通りをうろちょろと走り廻り、伊集院(いじゅういん)方面に行く軍用トラックをやっと見付け、運転手に三拝九拝して、三人の士官のいるところまで廻ってもらった。三人は相変らず同じ場所にぼそっと立っていたが、その一人のアゴが脚をくくった生きた鶏を手にさげていた。私がトラックを探しに行った間に、どこからか都合してきたものらしい。

[やぶちゃん注:「伊集院」現在の日置市伊集院地域(旧伊集院町)及び鹿児島市松元地域(旧松元町。旧伊集院地域)。この付近の広域に当たる(グーグル・マップ・データ)。この「院」は「高い垣に囲まれた大きな建造物」の意で、鎌倉から戦国にかけて薩摩国にあった古い地名であり、江戸時代は薩摩藩の外城の名称でもあった。]

 三人は別に運転手にあいさつもせず、のそのそとトラック台に這い登った。運転手は下士官である。トラックの上からオデコが私に命令した。

「おい。早く乗れ。貴様も谷山方面に行くんだろ?」

 

 トラックは古材木を積み込んでいた。三人はトラック台の前部に、運転台の屋根によりかかって坐った。私は三人から出来るだけ離れて、トラック台の最後尾に腰をおろしていた。アゴが私に命令した。

「おい。この鶏を預けるから、大切に抱いてろ。抱いてないと逃げるからな」

 私は鶏を受取った。三人の中ではアゴが一番思いやりのある性格のようだった。思いやりがあるというより、無関心という方に近い。言葉つきも変になげやりだった。鶏は脚をそろえてくくられ、恐怖でぼったりとふくらんでいた。飛んで逃げるだけの気力はなさそうだったが、命令通りに私は抱いていた。抱かれた鶏は半眼のまま、私の膝に濁った色のゆるい糞(ふん)を垂れた。裸の膝にそれはべとりとくっついた。

 トラックははげしく揺れながら、凸凹の田舎道を進みに進んだ。私の場所は最後尾だから、ことに揺れる。材木の角が尻を突き上げてくる。風が強く顔や手にあたって、その点では快適だったが、揺り上げられるのはつらかった。つらいと言えば半欠け眼鏡もそうだった。揺れる上に左右の眼がつり合っていないから、風景が二重になってぎしぎしすれ合うのだ。これではとてもやって行けない。このまま谷山に直行しても、谷山に眼鏡屋はない。鹿児島市にはあるだろうが、ずいぶん爆撃されたという話だから、残っているかどうか。それに谷山から鹿児島市へ外出する機会があるかどうかも怪しい。

 私はしだいに腹立たしく、また惨(みじ)めになってきた。私は右の眼をつむり、長期的にウィンクしたまま、飛び移る風景を眺めていた。三人にはそっぽ向いたままだ。顔を向ける気にもならない。無関心が一番ありがたいというのは何ということだろう。味方同士でそんな人間関係があっていいのか。

 やがて日が暮れてきた。あたりは薄暗くなった。私は三人の様子をうかがいながら眼鏡を外し、ポケットにしまった。もう大丈夫だろう。三人は運転台の屋根によりかかって、何か声高(こわだか)に話し合っている。ヘチマのきんきん声が一番よくひびく。三人とも戦闘部隊の関係者ではなく、主計科か何かの士官らしい。ウィスキーの廻し飲みをやっている様子だ。携帯糧食をひらき、それをサカナにして、ウィスキーのがぶ飲みをやっている。私は朝食べただけだから、その気配を感じただけで、おなかが鳴り出してくる。トラックに乗るということは、たいへんはげしい労働で、たちまちおなかがすいてしまうものだ。それをごまかすために、私は風に向ってしきりに口笛を吹いた。思いうかぶ歌を次々口笛に乗せる。しかしトラックの上で吹く口笛は、すぐに散り散りになって、何とも惨めな感じがする。

[やぶちゃん注:最後の一文中の「トラック」は底本は「トラッ」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。

「主計科」海軍内の衣糧・会計を管理する部署。兵科に対して地味である。]

 

 夜中、十二時近くになって、トラックが停車した。くらい田舎道だ。伊集院にはまだまだ遠いらしい。運転台から下士官がごそごそと這い出してきた。懐中電燈の光の輪が地面に揺れる。

「はあ。故障らしいです」

 アゴの質問に下士官が答えている。慣れていると見え、のんびりした声だ。三人はごそごそと何か相談している。ここで夜明しするかどうかというようなことだ。鶏は眠ってしまったのか、それとも気絶したのか、私の膝の上で身動きもしない。

「口笛をやめろ!」突然いらいらしたオデコの声が私に飛んできた。私は口笛を吹きやめる。

「貴様ちょっと降りて、そこらに宿屋があるかどうか、探してこい!」

 鶏を材木の上にころがせ放しにして、私はトラックから飛び降りた。下士官が私を呼びとめて、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほど行くと小さな町があると教えて呉れた。なるほどそちらの方に煙がちらちらしている。眼鏡を通してでないから、燈色はべたりと滲んでいる。

「鶏は材木の上に置いときました」私は歩き出しながら車上に報告した。「相当に弱っているようですから、逃げることはないと思います」

 慢性的なビタミンAか何かの不足で、私は人よりも夜目が利(き)かない。夜目が利かないということで、私は兵隊としてたいへん苦労した。それにその夜は眼鏡もないし、月がなく星明りだけだったから、その小さな町まで往復するのにも相当時間がかかった。時間がかかったということだけでも三人は、ことにヘチマは、極度にいらいらしたらしい。暗いトラック台の上からはげしい声が落ちてきた。それはもうこちらを人間だと思っていない、はっきりと人間以下にしか考えていない、露骨な声であつた。

「なにい。ダメだったあ?」ヘチマの金属的な声だった。

「一体どこをほっついてやがったんだ!」

一年前か二年前か知らないが、こいつがどういう顔をして、学生として学校に通っていたのか。私はむかむかしてくるのを我慢しながら、元宿屋が一軒あるが現在は廃業して、布団も何もないこと、第一に宿屋としての余分の食糧を持っていないことを、私は説明した。表戸をどんどんたたくと、出て来たのは五十前後の善良そうなお内儀(かみ)で、その言葉にウソはなさそうだった。ドサッと地べたに飛び降りた。ヘチマだ。つづいてオデコ、最後にすこし間を置いて、鶏を抱いたアゴがどさっと降りてきた。オデコの手が私の肩をがくんとこづいた。

「貴様、また眼鏡を外(はず)しとるな!」

 私はあわててポケットから取り出して眼鏡をかけた。今度はヘチマが私の背中を小突いた。

「どこの宿屋だ。案内しろ!」

 お前も来ないか、とアゴが下士官をさそった。下士官が答えている。

「いや、わしは運転台に寝ますわい」

 私は小突かれて歩き出した。昨夜眼鏡をこわしたばかりなのに、もう今日だけでもいろいろとつらい目にあつた。行く先を考えると眼の前がまっくらになるような気がする。おなかも極度にすいていることゆえ、私の足音には力がない。三人のはウィスキーが入っているから、元気があってあらあらしい。その対比がますます私の気持を滅(め)入らせた。

 ふたたび元宿屋について裏戸をどんどんたたいた。寝巻姿であたふたと出て来たお内儀に、先ずがなり立てたのはヘチマである。俺たちは国のために身を捨てて働いている。銃後のお前たちが安心して暮せるのは、俺たちのためでないか。その俺たちの宿泊を謝絶するとは何ごとか!

 ヘチマは黄色い声でそういうことをがなり立てながら、内儀をつきとばすようにして、上(あが)り框(かまち)に足をかけて靴を脱いだ。内儀はもう慄え上ってまっさおになっている。ヘチマは靴を脱ぎ終って部屋に上った。七つか八つの子が二人、布団の中に眠っている。ヘチマはそれをまたぎ越えて、奥の方に入って行った。同じく上り框で靴を脱いでいたアゴが、なにか虫でも見るような眼付で私を見て、

「貴様はどうする? 泊りたけりゃ泊ってもいいんだぞ」

 気のないような声でそう言った。

 

 さいわいそれから一箇月足らずで戦争が済み、復員してやっと眼鏡の玉を入れることが出来たが、その一箇月足らずの期間も、私は視力をうばわれたことによってたくさんのヘマをしでかした。戦さがあれから一年も二年もつづいたら、どういうことになったかと思う。

 学徒兵についても、戦後いろいろの談義もあり、たいへんなギセイ者のように受取られているが、もちろんギセイ者にはちがいないが、ああいう環境に放り込まれて、人間のもっとも悪質な部分を露呈したものも、相当にいた筈だと思う。私の体験からでもそれははっきり言える。今ふり返ってみても、たとえば農村出身の兵士の持つエゴイズムよりも、インテリのエゴイズム、いや、インテリというより学校出、学校教育を受けた者のエゴイズム、権威へのよりかかり方や利用のしかた、その方がずっと厭らしく、あさましい感じがしている。私も学校出であつたから、なおのことやり切れなく感じられるのかも知れない。

 

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 塔影

 

   塔  影

 

眠りの大戶(おほど)に秋の日暫し凭(よ)りて

見かへる此方(こなた)に、淋しき夕の光、

劫風(ごふふう)千古(せんこ)の文(ふみ)をぞ草に染めて

金字(きんじ)の塔影(とふえい)丘邊(をかべ)に長う投げぬ。

紅爛(かうらん)朽ち果て、飛龍(ひりゆう)を彫(ゑ)れる壁の

金泥(こんでい)跡なき荒廢(すさみ)の中に立ちて、

仰(あふ)げば、亂雲(らんうん)白蛇(はくじや)の怒り凄(すご)く

見入れば幽影(ゆふえい)しじまのおごそかなる。

 

法鐘(はふしやう)悲音(ひおん)の敎を八十百秋(やそもゝあき)

投げ出す影にと夕每葬り來て、

亂壞(らんゑ)に驕(おご)れる古塔(こたふ)の深き胸を

照らすは銷沈(しやうちん)臨終(いまは)の『秋(あき)』の瞳(ひとみ)。

(神祕(しんぴ)よ躍(をど)れや、)ああ今、夜は下(くだ)り、

寂滅(じやくめつ)封(ふう)じて、萬有(ものみな)影と死にぬ。

           (甲辰三月十八日夜)

 

   *

 

   塔  影

 

眠りの大戶に秋の日暫し凭りて

見かへる此方(こなた)に、淋しき夕の光、

劫風千古の文(ふみ)をぞ草に染めて

金字の塔影丘邊に長う投げぬ。

紅爛朽ち果て、飛龍を彫れる壁の

金泥(こんでい)跡なき荒廢(すさみ)の中に立ちて、

仰げば、亂雲白蛇の怒り凄く

見入れば幽影しじまのおごそかなる。

 

法鐘悲音の敎を八十百秋(やそもゝあき)

投げ出す影にと夕每葬り來て、

亂壞(らんゑ)に驕れる古塔の深き胸を

照らすは銷沈臨終(いまは)の『秋』の瞳。

(神祕よ躍れや、)ああ今、夜は下(くだ)り、

寂滅封じて、萬有(ものみな)影と死にぬ。

           (甲辰三月十八日夜)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年八月号『時代思潮』。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 夜の鐘

 

   夜 の 鐘

 

鐘鳴る、鐘鳴る、たとへば灘(なだ)の潮(しほ)の

雷音(らいおん)落ちては新たに高む如く、

(莊嚴(おごそか)なるかな、『祕密』の淸き矜(ほこ)り、)

雲路(うんろ)にみなぎり、地心(ちしん)の暗にどよみ、

月影(つきかげ)朧(おぼ)ろに、霧衣(きりぎぬ)白銀(しろがね)なし、

大夢(おほゆめ)罩(こ)めたる世界に漂ひ來て、

晝(ひる)なく、夜(よる)なく、過(す)ぎても猶過ぎざる

劫遠法土(ごふをんはふど)の暗示(さとし)を宣(の)りて渡る。

 

影なき光に無終(むしう)の路をひらく

『祕密』の叫びよ、滿林(まんりん)夢にそよぐ

葉末(はずへ)の餘響(なごり)よ、ああ鐘、天の聲よ。

ともしび照らさぬ空廊(くうろう)夜半(よは)の窓に

天意(てんい)にまどひて、現世(このよ)の罪を泣けば、

たふとき汝(な)が音におのづと頭(かうべ)下(くだ)る。

           (甲辰三月十七日夜)

 

   *

 

   夜 の 鐘

 

鐘鳴る、鐘鳴る、たとへば灘の潮(しほ)の

雷音落ちては新たに高む如く、

(莊嚴(おごそか)なるかな、『祕密』の淸き矜(ほこ)り、)

雲路にみなぎり、地心(ちしん)の暗にどよみ、

月影朧ろに、霧衣(きりぎぬ)白銀(しろがね)なし、

大夢(おほゆめ)罩(こ)めたる世界に漂ひ來て、

晝なく、夜なく、過ぎても猶過ぎざる

劫遠法土(ごふをんはふど)の暗示(さとし)を宣りて渡る。

 

影なき光に無終の路をひらく

『祕密』の叫びよ、滿林夢にそよぐ

葉末の餘響(なごり)よ、ああ鐘、天の聲よ。

ともしび照らさぬ空廊夜半(よは)の窓に

天意にまどひて、現世(このよ)の罪を泣けば、

たふとき汝(な)が音におのづと頭(かうべ)下(くだ)る。

           (甲辰三月十七日夜)

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年四月号『明星』で、総表題「鐘の歌」で「曉鐘」「暮鐘」と本「夜の鐘」の三篇が載る。「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで初出形を読むことが出来る。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 暮鐘

 

    暮  鐘

 

聖徒(せいと)の名を彫(ゑ)る伽藍(がらん)の壁に泌(し)みて

『永遠(とは)なる都(みやこ)』の滅亡(ほろび)を宣(の)りし夕、

はたかの法輪(はうりん)無碍(むがい)の聲をあげて

夢呼(よ)ぶ寶樹の林園(りんえん)搖(ゆ)れる時よ、

何らの音をか天部(てんぶ)の樂(がく)に添へて、

暮鐘よ、ああ汝(なれ)、劫初(ごふしよ)の穹(そら)に鳴れる。

天風(てんぷう)二萬里地(ち)を吹き絕(た)えぬ如く、

成壞(じやうゑ)の八千年(やちとせ)今猶ひびきやまず。

 

入る日を送りて、夜の息(いき)さそひ出でて、

榮光聖智(えいくわうせいち)を無間(むげん)に葬(はふむ)り來て、

靑史(せいし)の進みと、有情(うじやう)の人の前に

永劫(えいごふ)友なる『祕密』よ、ああ今はた、

詩歌(しいか)の愁ひに素甕(すがめ)の澱(をり)と沈み

夢濃(こ)きわが魂(たま)『無生(むせい)』に乘せて走れ。

            (甲辰三月十七日)

 

   *

 

    暮  鐘

 

聖徒の名を彫る伽藍の壁に泌みて

『永遠(とは)なる都』の滅亡(ほろび)を宣りし夕、

はたかの法輪無碍の聲をあげて

夢呼ぶ寶樹の林園搖れる時よ、

何らの音をか天部の樂に添へて、

暮鐘よ、ああ汝(なれ)、劫初の穹(そら)に鳴れる。

天風二萬里地を吹き絕えぬ如く、

成壞(じやうゑ)の八千年(やちとせ)今猶ひびきやまず。

 

入る日を送りて、夜の息さそひ出でて、

榮光聖智を無間(むげん)に葬り來て、

靑史の進みと、有情の人の前に

永劫友なる『祕密』よ、ああ今はた、

詩歌の愁ひに素の澱と沈み

夢濃きわが魂(たま)『無生(むせい)』に乘せて走れ。

            (甲辰三月十七日)

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年四月号『明星』で、総表題「鐘の歌」で「曉鐘」・本篇「暮鐘」と次の「夜の鐘」の三篇が載る。「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで初出形を読むことが出来る。

「法輪(はうりん)」「法」の音の歴史的仮名遣は「ハウ」「ホウ」どちらも正しい。しかし筑摩版全集には問題があって、初出のそれは「ほふりん」のルビを振っている。しかし、上記でご覧になれば判る通り、初出も「ほふりん」とちゃんとルビしてあるのである。

「成壞(じやうゑ)」(「ゑ(え)」は「壊」の呉音) あらゆるものが、生成されたり、壊れて消滅したりすること。それを繰り返す無常の時空間のこと。

「靑史」中国で紙のない時代に青竹の札を炙って文字を記したところから「歴史」「歴史書」「記録」の意。ここは歴史の意。

「無生(むせい)」生じることがないことは消滅もないことを意味する。通常は仏教用語としては「むしやう(むしょう)」と読み、「生滅変化しないこと」或いは「見かけ上の生じたり変化したりする迷いを超越した絶対の真理を得た悟りの境地」を指す。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 曉鐘

 

          曉  鐘

 

蓮座(れんざ)の雲渦(くもうづ)光の門(かど)に靉(ひ)くや、

萬朶(ばんだ)の葩(はなびら)黎明(あさけ)の笑(ゑみ)にゆらぎ、

くれなゐ波なす櫻の瑞花蔭(みづはなかげ)、

下枝(しづえ)の夢吹く黃金の風に乘りて

ひびくよ、曉鐘(げふしやう)、──無縫(むほう)の天領綸(あまひれ)ふり

雲輦(うんれん)音なく軋(きし)らす曙(あけ)の神が

むらさき紐(ひも)ある左手(ゆんで)の愛の鈴(すゞ)の

餘韻(なごり)か、──朗(ほが)らに高薰(かうくん)亂(みだ)し走る。

 

見よ今、五音(ごいん)の整調(せいちやう)流れ流れ

光の白彩(しらあや)しづかに園に撒(ま)けば、

(淨化(じやうげ)の使命(しめい)に勇みて、春の神も

袖をや搖(ゆ)りけめ、)綾雲(あやぐも)融(と)くる如く、

淡色(あはいろ)熖(ほのほ)と枝每かぜに燃(も)えて、

散る花繚亂(りやうらん)滿地(まんち)に錦(にしき)延(の)べぬ。

            (甲辰三月十七日)

 

   *

 

            曉  鐘

 

蓮座の雲渦光の門に靉くや、

萬朶の葩黎明の笑にゆらぎ、

くれなゐ波なす櫻の瑞花蔭、

下枝の夢吹く黃金の風に乘りて

ひびくよ、曉鐘、──無縫の天領綸ふり

雲輦音なく軋らす曙の神が

むらさき紐ある左手の愛の鈴の

餘韻か、──朗らに高薰亂し走る。

 

見よ今、五音の整調流れ流れ

光の白彩しづかに園に撒けば、

(淨化の使命に勇みて、春の神も

袖をや搖りけめ、)綾雲融くる如く、

淡色熖と枝每かぜに燃えて、

散る花繚亂滿地に錦延べぬ。

            (甲辰三月十七日)

[やぶちゃん注:丸括弧の部分を際立たせるため、今回は後掲ではルビを総て除去してみた。初出は明治三七(一九〇四)年四月号『明星』で、総表題「鐘の歌」で本「曉鐘」以下、続く「暮鐘」・「夜の鐘」の三篇が載り、それらは「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る。

「天領綸(あまひれ)ふり」暁の天空に白雲が棚引くのを天女の羽衣が翻るのに隠喩したもの。

「雲輦(うんれん)」同じくそこの雲の塊りを天の神の乗り物として人が担ぐ天子の車「輦」に隠喩したもの。

「五音(ごいん)」もとは中国の音楽で使われる音階名。「五声」(ごせい)とも呼ぶ。「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」の五つ。音の高低によって並べると、五音音階が出来る。西洋音楽の階名で「宮」を「ド」とすると、「商」は「レ」、「角」は「ミ」、「徴」は「ソ」、「羽」は「ラ」に相当する。]

三州奇談卷之四 妖女奉仕

 

    妖女奉仕

 

 長町淺井多門と云ふ人は、廉直にして武備を忘ざる人なりりしが、或夜友の元に話(はなし)して、只一人深更に歸られしに、香林坊の邊より若き女、一人、先へ行く。

『斯く深更に只一人行く者は、必ず、うかれ者にこそ。』

と、詞を懸け、手をとらへんとしけるに、大きに恐れ、先へ迯げ行く。

 程なく我門(わがかど)に至りしに、此女、爰(ここ)に彳(たたず)み居(をり)たり。

 怪しみながら、門を敲きて開けさせしに、彼(かの)女、影の如く、

「つ」

と、門内(かどうち)に入りたり。

『偖(さて)は。妖怪の者にこそ。』

と身堅(みがた)めして内に入り、寢所に入りて、雨戶を明けゝるに、彼(かの)女、又、緣に入る。

「心得たり。」

と拔打(ぬきうち)に切懸けしに、手答ヘはせざりしかども、

「あつ。」

と云ふ一聲と共に、形は消(きえ)て失せぬ。

 怪しや、其聲、臺所の方(かた)に聞えし儘、先(まづ)戶をさして、暫く心を靜めて聞き居(をり)しに、臺所には、

「茶の間の女、一人、寢(いね)おびえて絕氣(ぜつき)したり。」

と騷ぎける儘に、ふしぎに思ひ、

「藥にても吞ませよ。」

と立寄り見たりしに、先(さき)の女なり。

 此女、心付きて、淺井氏の顏を見て、又、迯(にげ)んとす。先(まづ)留(とど)めて、其謂(いはれ)をとふに、

「偖(さて)は、夢にて候や。慥(たしか)に、門前迄、一人の侍と同道し、内に入候(いりさふらふ)所を、拔打に切られたりと覺えて候。」

と云ふ。

 淺井氏、怪しみながら、曾て其事を言はざりければ、

「夢ならん。」

とてすみしが、此女、何となく心元(こころもと)なく、色々に心を付けて見しかども、其外には、何も變りたることもなかりし。

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 夢中の遊魂」で電子化済みであるが、今回は底本が異なり、注も附していない。なお、表題で漢字四字のままで示すのは、本底本では特異点である。なお、ここに出る夢中の遊魂譚は枚挙に遑がない。私の本カテゴリ「怪奇談集」にもかなりある。

「長町」金沢市長町(ながまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は武家屋敷跡界隈として知られる。

「香林坊」金沢市香林坊。江戸時代より商人町として栄えた。]

 

 古き怪談にも夢の出で行きし事は載せたれども、夢每に出(いで)あるくにもあらず。若し誠に夢(ゆめ)出(いで)て步かば、億萬の人の夢、夜中は祭禮・踊り場にも似るならん。魂魄あるく者も、又、人中の妖なり。淸水淸玄(きよみづせいげん)、まなごの庄司の淸姬、是皆人妖なり。生れ付(つき)なりとぞ覺ゆ。

[やぶちゃん注:「淸水淸玄」歌舞伎の芝居に於ける怪奇談世界の一つである「清玄桜姫物」(せいげんさくらひめもの)の主役。京都清水寺の僧清玄が高貴な姫君桜姫に恋慕し、最後には殺されるが、その死霊が、なおも桜姫の前に現れるという展開を持つ話。詳しくはウィキの「清玄桜姫物」を読まれたい。

「まなごの庄司の淸姬」思いを寄せた僧安珍に裏切られた少女清姫が、激怒のあまり、大蛇に変じて、道成寺で鐘ごと、安珍を焼き殺す展開を持つ、所謂、能の「道成寺」で知られる安珍・清姫伝説の少女の名。「まなごの庄司」は「眞那古の庄司」で、本伝承の例えば、能の「道成寺」(「眞砂」で「まなご」と読ませる)や浄瑠璃「日高川入相花王(ひだかがはいりあひざくら)」或いは鳥山石燕画「今昔百鬼拾遺」の「道成寺の鐘」等で清姫の父をかく表記する。本家の「道成寺縁起」では、「眞砂(まなご)」は舞台の一つとなる牟婁(むろ)郡の地名とし、「庄司」は「莊司」とも書いて荘園を管理する者の身分呼称である。私はこの話のフリークで、サイト内に以上の電子データ等集成した「――道 成 寺 鐘 中―― Doujyou-ji Chroniclを作っている。]

 

 奇怪の女、今もなきにしもあらず、正德年中[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。享保の前。]、或武門に妾(めかけ)を求められしに、堀川越中屋五兵衞と云ふ者の娘、容顏、並びなきのみならず、糸竹(しちく)の道も疎(うと)からねば、媒(なかうど)を求めて、是を妾となしぬるに、一度(ひとたび)幸(さいはひ)して主(あるじ)甚だ悅び、藍田珠玉(らんでんしゆぎよく)・掌中珊瑚(しやうちゆうさんご)と愛せられしに、三十日許(ばかり)過ぎて心得ぬ事ありし。

[やぶちゃん注:「堀川」地名ならば、金沢市堀川町(ほりかわまち)

「糸竹(しちく)の道」「糸」は「弦楽器」を、「竹」は「管楽器」を指し、管弦。ここは琴や三味線などの楽器演奏の嗜み。

「一度(ひとたび)幸(さいはひ)して」「最初は思い通りになったと」の謂いか。

「藍田珠玉」「藍田」は山の名前で中国陝西省にあり、鉱物としての美しい玉石の産地として知られる。]

 

 此妾、深更に及べば、暫く居(をら)ず。後は、心元なく、是を試(た)めさるゝに、夜更けて、此女m主人の寢息を考へ、忍びて立出で、障子を密(ひそか)にあけ、外へ出づる程に、

『偖は。忍び男にても、ありや。』

と、主人、跡より立出で、密(ひそか)に伺はれしに、此女、緣より、

「ひらり」

と飛び、庭前の大きなる栂(つが)の木の、高さ十四、五間[やぶちゃん注:二十五・四五~二十七・二七メートル。]もあらんと覺えしに、譬へば、鼠の壁を登るが如く、

「さらさら」

と駈け上り、忽ち、梢に打ち跨(またが)つて、四方を見𢌞し居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii。別名で「トガ」とも呼ぶ。大木になり、高さ三十メートル、胸高位置の直径で一メートルにも達する。樹皮は灰色がかった赤茶色で亀甲状に剥離する。]

 

 主人、驚き、

『是、只事に非ず。正(まさ)しく妖怪にこそ。下(くだ)らば、討つて捨つべし。』

と思はれしが、吃度(きつと)、思ひ返して、床に戾り、さあらぬ躰(てい)にて寢(い)ねられける。

[やぶちゃん注:「吃度」(きっと)はこの場合は「直ちに・すぐ」の意。]

 暫くして、女も歸り、始(はじめ)の如く、息合(いきあひ)を聞きて[やぶちゃん注:寝息をさせて。]休みける。

 偖(さて)、其夜も明けゝれば、年寄女を呼びて、

「妾が事、聊(いささか)心に叶はざる事あれば、暇(いとま)を申渡すべし。」

とあるに、大(おほき)に驚き、色々、詫びたれど、不調法の所を尋けれども、

「只、何となく、暇を遣すべし。」

と云(いひ)ければ、其趣(おもむき)を妾に云ひけるに、妾

「今は、是非なし。然(しか)らば、今一度、御目見へ申上げ、願上(ねがひあ)ぐる事、あり。」

とて、主人の前へ、しづしづと來りて、畏(かしこま)り、

「私儀、御暇下され候事、定めて此間の有樣、慥に御覽ぜられたると存候(ぞんじさふらふ)。左(さ)候へば、迚(とて)も御家には勤難(つとめがた)し。但(ただし)、妾(わらは)が事、一言も御沙汰下されまじく候。萬一、此事露程(つゆほど)ももらし給はば、忽ち、其夜を去らず、御恨み申すべし。」

と云ふに、主人、

「心得たり。心安かれ。再び、云はじ。」

と、ありければ、妾、快く暇を貰ひ、同じ家中へ奉公に出(いで)けるが、爰にも、氣に入りし由(よし)なり。

[やぶちゃん注:「忽ち、其夜を去らず、御恨み申すべし」「其夜を去らず」の意味がよく判らぬ。「その日の夜が来ないうちにすぐ」で「その瞬間から、忽ちのうちに、直ちに永遠(とわ)にお恨み申します。」といった強調形か?

「爰にも氣に入りし由(よし)なり」その奉公先でも気に入られたとのことである。]

 

 先の主人、心得ず、

『慥に、人にては、なし。』

と覺へ、

「行末、如何(いかが)。」

と、毎度、彼が事を尋ね問はれけるに、他人は、今も、心ある樣(やう)にも取沙汰せしが、全く怪異の故なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「彼」かの女。

「他人は今も心ある樣(やう)にも取沙汰せし」他の人々は、彼女に暇を出したかの男が実は今も彼女に気があるから、彼女のことを聴きまわっているらしいなどと取り沙汰したが、むろんそれは大変な見当違いで、の意であろう。]

 

 然(しか)るに、此女、欝症を煩ひ、程なく死にけり。

 是に依りて、葬場(さうじやう)の樣子、取置(とりおき)の次第迄も、心を付けて聞合はされしに、

「何の替る事も、あらざりし。」

と、なり。

[やぶちゃん注:「取置(とりおき)の次第迄も、心を付けて聞合はされし」遺体を取り片付ける、埋葬の様子について、こと細かに聴き調べさせた。死に際して、正体を現わすと旧主人は踏んだのである。]

 

 傳へ聞く、三村紀伊守、銀針(ぎんしん)の如き髮の妖女を殺し、備前岡山の家中山岡權六郞は、妖女と契りて是を知りて、刺殺(さしころ)したりしに、常の女と替らず。只。足の指に、「水かき」ありけると云ひ傳ふ。野女(やまうば)・山姬抔(など)聞きしかども、外(ほか)世間に立交りて怪異の女あること、又、珍しからじとぞ、思ふ。

[やぶちゃん注:「三村紀伊守」戦国から江戸初期にかけての武将三村親成(ちかしげ ?~慶長一四(一六〇九)年)。備中国川上郡成羽郷の成羽(なりわ)城(鶴首(かくしゅ)城)主(現在の岡山県高梁市成羽町にあった)。後に備後福山藩家老三村家始祖。通称は孫兵衛、受領名は紀伊守。子孫に伝わる系図では「親重」とも。スレ纏めサイト「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」の「三村紀伊守と妖婦」に、「武将感状記」(熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳六(一七一六)年に板行された戦国から江戸初期までの武人の行状記。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でこちらから活字本原文を視認出来る)を現代語訳して示されてある。記載者の名前はないので、引用させて貰う。分割された話を繋げ、段落頭を一字下げにした。

   《引用開始》

 三村紀伊守(親成)は備中半国を保って成岩(成羽)に在城した。物事のついでに紀伊守は容色艶麗な富民の娘をひとたび見て、その姿が目の前にあるかのようで、少しも忘れられず「文を通わせる伝手でもあればなあ、この心を知らせたいものだ」と思い煩った。

 そんなところに、どのような手引きであろうか、人が静まった深夜に前述の女が初めて参り、それからの紀伊守は日暮れを待ち、夜が明けるのを恨んで、稀に逢瀬が途絶えることも無かった。

 そんな中、紀伊守の精神は気が抜けてぼんやりした状態となり、この頃気鬱しているということで城外に出て遊んだ。日暮れ過ぎになって、遥か山上を見ると、鞠の大きさの光物が飛んで来て、城中に入り、家屋の間に隠れた。

 家老は怪しんで近侍の士に詰問した。近侍の士は密通のことを告げて「あの女の来る所も、帰る所もわかりません」と言った。家老は(紀伊守のいる部屋に)入って諌めようとしたが、近侍の士は、

「この事は深く秘密になされましたが、相談のために申し上げました。まずは小臣が諌め申し上げます。それでも御承諾なされなくば、その時はよろしく御計らいください」

と言ったので、家老は「もっともだ」と同意した。

 近侍の士が紀伊守の前に出て、「昨暮、山上の光物が飛んで来て、御城に入りましたのを御覧になられましたか? この頃の御病苦は魑魅の祟りがあるのか、色々と訝しい諸事がございます。古えにもそのような例が無いわけではありません。御気をつけてくださいませ」と申し上げると、紀伊守は「心得た」と言った。

 その夜、紀伊守ははさみを使って、こっそりと女の髪を少しばかり切って懐中に入れておき、次の日、取り出して見ると、髪は銀針のようであった。紀伊守はたいへん驚いて近侍の士を呼び、その髪を示した。近侍の士は「これは猶予してはなりません。小臣が今夜、寝室の外で待ち、女を捕らえて刺し殺します」と言ったが、紀伊守は、

「それはよくない。あの女は寝床に就く前に気が緩んだりはしないだろう。万一仕損じれば、悔いてもどうにもならない。前夜に髪を切られたことについて女に覚えがあるなら、必ず疑う心があるはずだ。私がものやわらかな言葉でその感情を解き、その後でお前にも知らせようぞ。お前は早まってはならない」と、制止した。

 夜半を過ぎた頃、寝室で俄に騒動があった。近侍や宿衛の者たちは同時に起きて、戸を押し破って入り見れば、紀伊守は気絶していた。しばらくして紀伊守は目を見開き、

「私が気絶したことは無念である。しかしながら、あの女はよもや生きてはいまい。女が戸外に立って『今宵は心が普通ではないので、これから帰ります』と言ったのを、私はなだめて呼び入れた。

 いつもより懇意に語らい、女が少し眠るのを待って直ちに胸に乗り掛かり、三刀まで刺した。

 すると、あの女は私を脇に挟んで天井に飛び上がった。私は固く捉えて手を離さなかった。天井から落ちてしまったが、(どうして落ちたのかは)夢のようで記憶していない」

と、語った。天井は破れ、そこから血が流れて避ける所が無かった。夜が明けて光物の来た所の山に人を遣わし、血を印しに女を捜索させたところ、三里余りの深山に入り、血痕が巌穴の入り口に到り止まっているのを発見した。恐れて中に入る者はいなかったが、一人の壮力の士が腰に縄を付けて二、三十間這い入ると、中が暗いために何なのかはわからないが、死んだ様子のものがあった。その足に縄を付け、出てからこれを引き出した。それを見ると、身長六尺余りの老女だった。白髪の長さは一丈ほどで、面背(表側と裏側)を覆っていた。胸には大きな傷が三つあって死んでいた。その後、紀伊守の病気は癒えた。

   《引用終了》

「備前岡山の家中山岡權六郞は、妖女と契りて是を知りて、刺殺(さしころ)したりしに、常の女と替らず。只、足の指に水かきありりけると云ひ傳ふ」人物も不明で、原話を探し得なかった。識者の御教授を乞う。

「野女(やまうば)」深山に住んでいるとされた女の妖怪。山に住む鬼女。「やまんば」とも呼ぶ。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「野女(やまうば)」を読まれたい。

「山姬」「山女(やまおんな)」とも。本邦の山中に住む女の妖怪。人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えなどが全国各地に広く残る。ウィキの「山姫」にやや詳しく載る。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 山彥

 

   山  彥


花草(はなぐさ)啣(ふく)みて五月(さつき)の杜(もり)の木蔭(こかげ)

囀(てん)ずる小鳥に和(あは)せて歌ひ居れば、

伴奏(ともない)仄(ほの)かに、夕野の陽炎(かげろふ)なし、

『夢なる谷』より山彥(やまひこ)ただよひ來る。──

春日(はるび)の小車(をぐるま)沈(しづ)める轍(わだち)の音(ね)か、

はた彼(か)の幼時(えうじ)の追憶(おもひで)聲と添ふか。──

綠の柔息(やはいき)深くも胸に吸(す)ひて、

默(もだ)せば、猶且つ無聲(むせい)にひびき渡る。

 

ああ汝(なれ)、天部(てんぶ)にどよみて、再(ま)た落ち來(こ)し

愛歌(あいか)の遺韻(ゐいん)よ。 さらずば地(つち)の心(しん)の

琅玕(ろうかん)無垢(むく)なる虛洞(うつろ)のかへす聲よ。

山彥!今我れ淸らに心明(あ)けて

ただよふ光の見えざる影によれば、

我が歌却(かえ)りて汝(な)が響(ね)の名殘(なごり)傳ふ。

            (甲辰二月十七日)

 

   *

 

   山  彥


花草(はなぐさ)啣(ふく)みて五月(さつき)の杜の木蔭

囀(てん)ずる小鳥に和(あは)せて歌ひ居れば、

伴奏(ともない)仄かに、夕野の陽炎なし、

『夢なる谷』より山彥(やまひこ)ただよひ來る。──

春日(はるび)の小車(をぐるま)沈める轍の音(ね)か、

はた彼の幼時の追憶(おもひで)聲と添ふか。──

綠の柔息(やはいき)深くも胸に吸ひて、

默(もだ)せば、猶且つ無聲にひびき渡る。

 

ああ汝(なれ)、天部にどよみて、再(ま)た落ち來(こ)し

愛歌の遺韻よ。 さらずば地(つち)の心(しん)の

琅玕無垢なる虛洞(うつろ)のかへす聲よ。

山彥!今我れ淸らに心明けて

ただよふ光の見えざる影によれば、

我が歌却(かえ)りて汝(な)が響(ね)の名殘傳ふ。

            (甲辰二月十七日)

[やぶちゃん注:表題は本文に従い、「やまひこ」と清音で読んでおく。但し、初出(明治三七(一九〇四)年三月号『明星』。それは「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る)本文では「やまびこ」とルビしている。但し、この手の雑誌のルビは作者の意志と無関係に、編集者や校正係によって振られた場合がかなり多いので、それに従う必要は必ずしもないから、ここは底本通りママとする。筑摩版全集も清音である。ただ、第一連六行目の「追憶(おもひで)聲と添ふか」の「おもひで」は「追憶聲」の三字に添えられてあるが、初出と筑摩版全集により、これは明らかにルビの誤植と断じ、特異的に訂した。第二連二行目の句点の後の字空けや、四行目の「!」の後に字空けがないのは見た目を再現したものである(筑摩版全集は前者は字空けがなく、後者は字空けを施している)。

「琅玕」は透明度の高い翡翠石のこと。但し、ここは山彦の音響を響き返す空間を翡翠色の空洞として仮想して換喩したもの。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十六 鹿捕る罠

 

     十六 鹿 捕 る 罠

 

Hanewa

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「ハネワにて鹿を捕る圖」。]

 

 冬の終りから春先へかけて、鹿が人家の小便壺に附いた。鳳來寺山麓の門谷などでも、以前は夜遲く用足しに出ると、二ツ三ツぐらい揃つて、暗がりへコソコソ影を消す姿を見る事は決して珍しくなかつた。山犬などもさうであるが、鹿は殊にこの時期に鹽分の不足を感じたのである。山中などでも、人が用足した後を求めて遠くから集まつて來ると言ふ。

 狩人がハネワと言ふ罠で、鹿を捕つたのはその時期であつた。ハネワは卽ち跳輪で燒畑近くなどの、大體鹿の寄りさうな地を撰んで設けたのである。その方法は、先づ鹿を吊し上げるに充分な立木を基にして、その前にゴ(落葉)を推く[やぶちゃん注:「うづたかく」。]搔き集め、落葉の繞り[やぶちゃん注:「めぐり」、]に枯枝の類で栅を作つて圍つた。而して一方口を明けて置いて、そこに跳輪を仕掛けたのである。最初に撰んだ立木を曲げて來て、それに藤繩で輪を拵えて[やぶちゃん注:ママ。]罠の口に置いて、一方別の藤繩をバネ仕掛にして、曲木[やぶちゃん注:「まげき」。]を押へて置いたのである。仍ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]圍ひの中の落葉へ小便をして置く。鹿が來て中の落葉を舐めやうと頸を差出すと、バネに觸れて外れて、曲木が舊(もと)に跳返る勢で、藤繩の輪で頸を括り上げるのである。何だか說明がやゝこしくなつたが、要するに小便を舐めにかゝる鹿の頸を、曲木の跳ねる力で括り上げるのである。

 一人がハネワで鹿を捕ると、吾も吾もと其の傍へ仕掛けたさうである。一ヶ所に同じやうな罠が、三ツ四ツ位並ぶ事は珍しくなかつたと言ふ。然し後から眞似た物へは不思議に掛らなんだ。三ツも四ツも並んだ中で、同じ罠にばかり、三日も續けて掛つた事があつたと言うふ。不思議な事に、ハネワに掛かつたのは雌鹿ばかりで、雄鹿は曾て掛らぬと言うた。或は雄鹿だと角が邪魔になつて、旨く輪が頸に掛からぬかとも思ふが、狩人の一人はさうは言はなんだ。雌鹿の殊に子持鹿が小便を好いて掛ると言ふのである。して見れば人の尿に附いたのは、獨り傳說の雌鹿ばかりでは無かつた。

 又狩人の話では、その頃の鹿は朝、枯草に置いた霜を舐めて居ると言ふ。

 

Yatou2

 

[やぶちゃん注:同前。キャプションは「ヤトウにて鹿を捕る圖」。本文が「ヤト」でこちらは「ヤトウ」であるのはママ。「ヤトウ」「ヤト」「ヤトオ」(発音音写の違いで同一物を指す)は既に「三 猪の禍ひ」で説明されてある。]

 

 鹿を捕る方法には、ハネワの外にヤトがあつた。ヤトの事は已に猪の話に說明した通りである。それを燒畑などのワチの陰に置いて、中に飛入る鹿を捕つたのである。夏分蕎麥の種ヘ菜種を混ぜて播くと[やぶちゃん注:「ひくと」。]、蕎麥を刈取つた後に、靑々と伸びて居た。山が冬枯れるに從つて、鹿が附いたのである。高く結つたワチに前肢をかけて、中へ飛越すと其處にヤトの先が鋭く光つて居た。朝早く見廻りに行くと胸や腹を深く貫かれて、死んで居る鹿を見出す事は珍しくなかつた。

[やぶちゃん注:「ワチ」「四 猪垣の事」を参照。]

 一冬にひとつ畑で、七ツも捕つたなどゝ、名も無いヘボクタ狩人の、手柄話の種にもなつたのである。

[やぶちゃん注:「ヘボクタ」小学館「日本国語大辞典」に、「技量がつたないこと・腕前が拙劣なこと」を意味する『「へぼ」を強めていう語』とあって、『取るに足りないもの。価値のないもの。役立たずのもの。技量のつたないもの。また、そのようなものをののしっていう。ぼろくそ。へぼくそ。へぼたれ』とし、方言としては『弱い者。弱虫』(岐阜県山県郡・静岡県)、『臆病で遠慮がちな者』(和歌山県東牟婁郡)、『技術などの下手。へたくそ』(大阪。奈良県)を挙げる。]

2020/03/29

三州奇談卷之四 玄門の巨佛

 

     玄門の巨佛

 前段にいふ狛犬も主を得て後(のち)功をなす。武門の忠勇も又替りるまじ。佛神は殊に水波なり。わけて云べきにあらざる證據(しようこ)あり。

[やぶちゃん注:「前段」「傳燈の高麗狗」。]

 慶長十九年大坂の役[やぶちゃん注:一六一四年。十一月十五日に「大坂冬の陣」が始まる。]、金澤よりも利光公御出陣ありしが、此時事急にして乘馬不足なりしかば、與力一列には三騎に馬一疋宛(づつ)と配當に定む。

[やぶちゃん注:「慶長十九年大坂の役」一六一四年。十一月十五日(グレゴリオ暦十二月十五日)に「大坂冬の陣」が始まる。

「利光公」第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)の初名。彼は「関ヶ原の戦い」のあった直後の慶長五(一六〇〇)年に、跡継ぎがいなかった長兄利長の養子となり、名を利光とするとともに、徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎えた(この時、利常数え七歲、珠姫は僅か三歳であった。藩主になったのは慶長一〇(一六〇五)年六月(利長は隠居)で、諱を利光から利常と改めたのは寛永六(一六二九)年で、この時既に利常の義弟に当たる徳川家光が将軍となっており、その偏諱でもある「光」の字を下(二文字目)に置く「利光」の名を避けたものと思われる。以上はウィキの「前田利常」を参照した)。]

 爰に俣野半藏といふ人あり。

『今度の陣、治世の中(うち)亦逢ひ難し』

と思はれげれば、

『何とぞ馬を得て軍場(いくさば)に花々しき働をなしてこそ』

と、一筋に思ひ込れしが、自分に馬を得る事、此節なりがたくて、詮方なく、

「よしや此上は神佛に祈誓せんには」

と、日頃尊信せられし白山といふ長谷寺の觀音に立願(りゆうぐわん)せらしかが、或日道に於て鞍置馬(くらおきむま)一疋拾ひ得たり。其主(ぬし)尋ぬれども知れず。故に頭分(かしらぶん)へ達し、淺野川の橋上に札を立てゝ主を待ちけれども、七日に至るも終に主なし。故に公許ありて、終に俣野氏へ下されける。

[やぶちゃん注:「俣野半藏」不詳。利常に仕えた俣野六兵衛(「加能郷土辞彙」)という人物がいるが、この縁者か。

「白山といふ長谷寺の觀音」金沢市東山にある真言宗長谷山(はせざん)観音院(グーグル・マップ・データ)。本尊は十一面観世音菩薩立像。加賀藩三代藩主前田利常公の正室珠姫様が観音を篤く信仰したため、建物を寄進したとされ、代々前田家の産土神(うぶすながみ)とされた。しかし頭の「白山といふ」というのは不審。「しらやま」なら、白山比咩神社の分祀ということか? しかし「近世奇談全集」では『はくさん』とルビしている。訳が判らぬ。ネットで現在のこの寺の名と白山をフレーズで検索しても、何も掛かってこない。]

 依りて他の與力は替り替り乘けれども、半藏一人は始終馬上にて、心の儘軍場に武を輝かし、既に歸陣に及びし時、近江路の中にて此馬失せて行方知れず。

 其翌年伊勢へ代參の公用にて行かれしことありしに、神主より神馬を引いて迎へし馬、去年我(わが)乘りし馬なりしかば、大きに驚き此事を神主へ告げ尋ねしかば、

「かゝる事もあるにや。去年(こぞ)此馬ふしぎに見えず。百日許を經て歸りし」

と語られしとかや。

[やぶちゃん注:最後の部分が国書刊行会本では『と被ㇾ云(いはれ)しこそ、誠に神仏の和光利益と感嘆肝に銘じてぞ帰られしとや。』となっている。]

 されば佛場(ぶつじやう)に至りて現世の利益も又珍しからぬ事ながら、此長谷寺の麓に玄門寺と云へる淨土宗の梵院あり。此和尙、寶曆の頃[やぶちゃん注:一七五一年~一七六四年。]聊さか惱み給ひしが、病根次第に深く、諸醫匕(さじ)を捨て、今は寂滅を待たるゝ許りなるに、此寺に順生(じゆんせい)と云ふ道心者ありて、此程爰に丈六の佛像をいとなみけるが、其御前に端座して、一向(ひたすら)に和尙の病患平愈を祈ること一日一夜、翌朝見奉るに、丈六の尊像汗を流し給ふ。諸人聞傳へて見る者市のごとし。皆奇異の思ひをなしぬ。程なく和尙の病氣快復ありし。誠に彼が丹誠を感じ給へるにや。

 抑(よくよく)順生坊が事は、越中小杉の產にて、若き頃六十六部をなし、能登の國深谷の明泉寺(みやうせんじ)に古佛の缺損したる物數多(あまた)あり。何れも尊き作佛なれば、その御首を一つ乞(こひ)求めて普く國中を勸進し、丈六の大佛を建立せんと欲す。扨故鄕の師匠寺へ行きて、正しく佛像出來しなば、此御寺に建(たて)置き度(た)き旨を願ひけるにぞ。

 和尙曰く、

「昔越後の謙信と云ふ人あり。越中へ亂入せし時、軍兵ども此寺へ來つて、丈六の霊佛ありしを散々に破却す。主人是を見て、

『あな浅まし。我(われ)以來此國を手に入れなば、先(まづ)佛躰を修補すべし。若(もし)不幸短命ならば、後來(こうらい)此御佛を再立(さいりふ)するもの、我(わが)後身と知べし』

との事、伝記にあり。左(さ)あれば、汝が所願、正しく謙信の前言を續ぐ[やぶちゃん注:「つぐ」。]者なれば、後身疑ひなし」

とて領掌せられしに、此村の旦那ども聞き付けて、

「中々左樣の大佛を造立し、後々迄も修復調はず、村の厄介となりて、終には廢壞(はいくわい)の基(もと)なるべし。必ず爰に安置せんこと叶ひがたし」

と衆口一致して云ひけるに、和尙も順生も詮方なく、夫(それ)よりも金沢へ出で、此玄門寺に九間四面の副堂を立て、其内に安置し奉る。

 壯嚴ことごとしく、永代修補の祠堂(しだう)金を納め、不斷念佛の法燈をかゝげぬ。

 然るに近年此邊(このあたり)の度々の回祿にも、土蔵造りなるが故に、今に恙なくして金城の一壯觀となる。順生坊無智の道心者にして、檀越(だんおつ)の荷擔(かたん)もなく、凡(およそ)三十年の間に數千金の費用を勸進し、如此(かくのごとく)事を創業しける。誠に長尾謙信の後身にや。伝へ聞く、時正と云ふ道心者は、後身北條時政となりて、九代の權威を振ひし。越後の英雄は後身道心者と生れて佛恩を營む。幽冥の損益、具眼の者知るべし。

[やぶちゃん注:「玄門寺」石川県金沢市東山にある浄土宗狐峯山玄門寺(グーグル・マップ・データ)。長谷山観音院の北北西五百メートル弱の位置にある。虚空写真に切り替えると、この観音院を含む東側は卯辰山に連なる丘陵地となっていることが判り、「麓」という言いが腑に落ちる。玄門寺はもとは武田武士の流れを汲む甲斐の僧玄門直釣(「ちょくちょう」と読んでおく)が寛永一〇(一六三三)年に創建し、万冶三(一六六〇)年、内藤善斎が前田利常公から、現在地を拝領し、移転したとされる。本尊阿弥陀如来立像は寄木造りで一丈六尺(四・八メートル)の大仏で、宝暦八(一七五八)年にここに出る僧順生の発願(ほつがん)によって安置されたという。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の「玄門寺さんの“大仏さん”」で画像が見られる。

「順生」詳細事蹟不詳。

「越中小杉」現在の富山県富山市小杉附近(グーグル・マップ・データ)。

「六十六部」正しくは日本回国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)と称したが、江戸時代には貶められて六十六部又は六部の略称で呼ばれた回国聖のこと。現在も各地にこの回国供養碑を見ることが出来る。江戸時代には単なる回国聖又は遊行(ゆぎょう)聖になってしまったが、中世には法華経六十六部を如法(にょほう:決められた法式通りにすること)に写経し、これを日本全国の霊仏霊社に納経するために回国した。西国三十三所観音霊場の巡礼納経に倣って、六十六部納経したとも考えられるが、日本全国六十六ヵ国を巡ることによって、より大きな功徳を積もうとしたものと考えられる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「能登の國深谷の明泉寺」石川県鳳珠郡穴水町にある古刹で真言宗白雉山明泉寺(グーグル・マップ・データ)。白雉三(六五二)年の開創とされる。

「師匠寺」最初に出家して修行した寺。

「出來しなば」「できしなば」と訓じておく。

「謙信」上杉謙信。ウィキの「上杉謙信」によれば、永禄一一(一五六八)年に『新しく将軍となった足利義昭からも』自称していた『関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束し、武田氏は駿河今川領国への侵攻から三河徳川氏との対決に推移し、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切となった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍義昭・織田信長らとの関係で推移する』。永禄一一(一五六八)年三月、『越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)』、七『月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した』が、『時を同じくして』、五『月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎』(謙信の前名)『はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。その上で』十一『月に繁長の居城・本庄城に攻撃を加え、謀反を鎮圧』したとある。

「九間」十六メートル強。

「回祿」火災。

「荷擔(かたん)」助力。

「時正と云ふ道心者は、後身北條時政となりて、九代の權威を振ひし」「太平記」の「卷第五」の「時政榎島(えのしま)に參籠の事」(「榎島」は現在の藤沢市の江ノ島のこと)に、

   *

今相摸入道の一家、天下を保つ事、すでに九代に及ぶ。この事ゆゑ有り。昔、鎌倉草創のはじめ、北條四郞時政榎島に參籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(さんひちにち)[やぶちゃん注:二十一日。]に當たりける夜、赤き袴に柳裏[やぶちゃん注:表が白で裏が青の襲(かさね)の色目(いろめ)のこと。]の衣(きぬ)着たる女房の、端嚴美麗なるが、忽然として時政が前まへに來たつて、告げていはく、

「汝なんぢが前生は箱根法師(はこねぼふし)[やぶちゃん注:箱根権現に仕える社僧。]なり。六十六部の法華經を書寫して、六十六箇國の靈地に奉納したりし善根に依つて、再びこの土に生るる事を得たり。されば子孫永く日本の主と成つて、榮華に誇るべし。ただしその振舞ひ違(たが)ふ所あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所不審あらば、國々に納めし[やぶちゃん注:法華経が目的格。]所の靈地を見よ。」

と言ひ捨てて歸かへりたまふ。その姿を見ければ、さしもいつくしかりつる女房、忽ちに伏長(ふしたけ)二十丈[やぶちゃん注:二十一メートル弱。]ばかりの大蛇と成つて海中に入りにけり。その跡を見るに、大きなる鱗(いろこ)を三つ落せり。時政

「所願成就しぬ。」

と喜びて、すなはちかの鱗を取つて旗の紋にぞ押したりける。今の三鱗形(みついろこがた)の紋これなり。その後辨才天の御示現にまかせて、國々の靈地へ人を遣はして、法華經奉納の所を見せけるに、俗名(ぞうくみやう)の時政を法師の名に替へて、奉納筒(ばこ)の上に「大法師時政(じせい)」と書きたるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過ぎて、一天下を保ちけるも、榎島の辨才天の御利生(ごりしやう)、または過去の善因に感じてげるゆゑなり。今の高時禪門、すでに七代を過ぎ九代に及べり。されば亡ぶべき時刻到來して、かかる不思議の振舞ひをもせられけるか、とぞ覺えける。

   *

とあるのに基づくが、「時正」は不審。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十五 鹿の胎兒

 

    十五 鹿 の 胎 兒

  肢腰[やぶちゃん注:「あしこし」。]が未だ不完全で、山の岨[やぶちゃん注:「そは」或いは「そば」。けわしいそばだった斜面。]からすべり落ちるやうな子鹿は、親鹿一ツ捕へる囮にもろくろくならなんだが、それが未だ親の胎内にある間は、狩人にとつては別に一匹の鹿を捕るよりも利得になつたのである。

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年文一路社刊の改訂版では、標題の「胎兒」に『はらご』のルビを振っている。されば、次の段落の冒頭もそう読むべきであろう。

 鹿の胎兒をサゴと謂うて、その黑燒は婦人の血の道の妙藥として珍重したのである。また鹿の胎籠(はらごも)りとも言うて、產後の肥立の惡い者などには、此上の妙藥は無いとした。今日ではさう見かけ無くなつたが、以前は何處の村へ行つても眞蒼い[やぶちゃん注:「まつさあをい」。]血の氣のない顏をした女が、一人二人はきつとあつた程で、從つて需要も多かつたのである。

[やぶちゃん注:「サゴ」小学館「日本国語大辞典」に「さご」として『(産後、産子の変化した語か)鹿、猿の胎児。黒焼きにして服用すると、婦人科の疾患にきくといわれる。鹿子(かご)』とあり、以下、方言として『鹿の胎児』を挙げ、静岡県磐田郡・愛知県北設楽郡を採取地とする。

「血の道」月経・妊娠・出産・産後・更年期などの女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安や苛立ちなどの精神神経症状及び身体症状を包括する、江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語。詳しくは参照したウィキの「血の道症」を読まれたい。]

 明治初年[やぶちゃん注:一八六八年。]頃、普通の鹿一頭が五十錢か七十錢程度の時に、サゴ一つが七十五錢から一圓にも賣れたというから、狩人が何を捨てゝも孕み鹿に目をつけたのは無理もなかつた。その爲め一年に一ツしか增へぬ[やぶちゃん注:ママ。]鹿の命數を、縮める事など考へる餘裕はなかつたのである。

[やぶちゃん注:「明治初年」明治元年は一八六八年。

「五十錢か七十錢程度」明治初期の一円は凡そ現在の二万円相当とされるから、一万円~一万四千円相当。

「七十五錢から一圓」同前で一万五千円から二万円。

「一年に一ツしか增へぬ」鹿の妊娠期間は二百十日から二百三十日間(七ヶ月程度)で出産時期は五月下旬から七月で、六月がピークであるが、年一回で一頭しか生まない(双子の頻度は極めて低い)。♀は環境が良ければ一歳から妊娠し、ほぼ毎年産む(信森林研究所・東北支所の堀野眞一氏の「シカの生態と被害対策」PDF)のデータ等を参考にした)。]

 サゴは春三月、親鹿が肢に脛巾を穿いた時期が、もつとも效驗があると言うた。脛巾を穿くとは鹿の毛替りを形容した言葉であつた。鹿は春先き木の芽の吹き初める頃から、冬の間の黑味を帶んだ[やぶちゃん注:「おんだ」。帯びた。]毛が拔け初めて、初夏田植の盛り頃には、すつかり赤毛に替つて、眞白い斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が現はれた。この時期を、五月(さつき)の中鹿(ちうじか[やぶちゃん注:ママ。])と言うて、鹿が鹿の子[やぶちゃん注:「かのこ」。]を着たと言うたのである。毛替りは肢の蹄の附根から初まつて、段々上へ及ぼして來るので、膝迄替つた時が、卽ち脛巾を穿いた時だつた。此時期に遠くから見ると、如何にも柿色の脛巾を着けたやうに見えたさうである。月で言ふと、その時サゴは五月目であつた。鼠より心持ち大きかつたが、肌には早美しい鹿の子の斑が見えた。

[やぶちゃん注:「春三月」旧暦である。改訂版で『舊曆の春三月』と補正しておられる。そうすれば、前に注した鹿の出産期と齟齬しない。

「親鹿が肢」(あし)「に脛巾」(これで「はばき」と読む)「を穿いた時期」。♀鹿の蹄の先の方から毛が抜け替わって、それが膝に及ぶ時期を指す。以上はウィキの「鹿のさご」によったが、そこには、この『時期が薬用として最も効力がつよいという』とあった。また、他にも三~四月頃、『シカのさごは、ネズミよりもおおきく成長し、その皮膚には鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれようという時期で』、この頃に採り出し、『黒焼きなどにし、薬用とする。殊に山民のなかでは女性の血の道の妙薬として珍重された』とある。

「五月(さつき)の中鹿」当然、これも旧暦となる。]

 別に、サゴの最も効驗ある時期を、親鹿の腹を割いて取出した時、掌に載せて眺める程度が宜いとも謂うた。

 晚春花が散り盡くした頃は、サゴは早ネコほどに成長して、もう生まれるに間もなかつた。さうなると効驗が薄いと言うて高くは賣れなかつた。其處で猜い[やぶちゃん注:「ずるい」。]狩人などは、今一度皮を剝いで形を小さくした。眞赤な肉の塊のやうな物を、遉がに氣が咎めるか、遠い見知らぬ土地へ持出して賣つたさうである。

 鹿の肉も又血の道の藥だと言うたが、角も又熱浮し[やぶちゃん注:「ねつさまし」。]になると言うて、少しづゝ削つて用ひる者があつた。

 

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 落瓦の賦

 

 落 瓦 の 賦

 

(幾年の前なりけむ、猶杜陵の學舍にありし頃、
 秋のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる
 古刹を訪ひて、菩提老樹の風に嘯ぶく所、琴
 者胡弓を按じて沈思頗る興に入れるを見たる
 事あり。年進み時流れて、今寒寺寂心の身、
 一夕銅鉦の搖曳に心動き、追懷の情禁じ難く、
 乃ち筆を取りてこの一編を草しぬ。)

 

時の進みの起伏(おきふし)に

(かの音沈む磬(けい)に似て、)

反(そ)れて千年(ちとせ)をかへらざる

法(のり)の響(ひゞき)を、又更に、

灰(はい)冷(ひ)えわたる香盤(かうばん)の

前に珠數(じゆず)繰(く)る比丘尼(びくに)らが

細き頌歌(しようか)に呼ぶ如く、

今、草深き秋の庭、

夕べの鐘のただよひの

幽(かす)かなる音をともなひて、

古(ふ)りし信者(しんじや)の名を彫(ゑ)れる

苔(こけ)も彩(あや)なき朽瓦(くちがはら)、

遠き昔の夢の跡

語る姿の悵(いた)ましう

落ちて脆(もろ)くも碎けたり。

 

立つは伽藍(がらん)の壁の下(もと)、──

雨に、嵐に、うたかたの

罪の瞳を打とぢて

胸の鏡(かゞみ)に宿りたる

三世(さんぜ)の則(のり)の奇(く)しき火を

怖れ尊とみ手を合はせ

うたふて過(す)ぎし天(あめ)の子(こ)の

袖に摺(す)れたる壁の下(もと)。──

ゆうべ色なく光なく

白く濁れる戶に凭(よ)りて、

落ちし瓦(かはら)の破片(かけ)の上

旅の愁の影淡う

長き袂を曳(ひ)きつつも、

轉手(てんじゆ)やはらに古琴(ふるごと)の

古調一彈(こちやういちだん)、いにしへを

しのぶる歌を奏(かな)でては、

この世も魂(たま)ももろともに

沈むべらなる音(ね)の名殘

わづかに動く菩提樹(ぼだいじゆ)の

千古の老(おひ)のうらぶれに

咽(むせ)ぶ百葉(もゝは)を見あぐれば、

古世(ふるよ)の荒廢(すさみ)いと重く

新たに胸の痛むかな。

 

あはれ、白蘭(はくらん)谷ふかく

馨(かほ)るに似たる香(かう)焚(た)いて、

紫雲(しうん)の法衣(はふえ)搖(ゆ)れぬれば、

起る鉦皷(しやうこ)の莊嚴(おごそか)に

寂(さ)びあるひびき胸に泌(し)み、

すがた整(とゝの)ふ金龍(こんりゆう)の

燭火(ともし)の影に打ゆらぐ

寶樹の柱、さては又

ゆふべゆふべを白檀(びやくだん)の

薰(かほ)りに燻(けぶ)り、虹(にじ)を吐く

螺鈿(らでん)の壁の堂の中、

無塵(むじん)の衣(ころも)帶(おび)緩(ゆる)う

慈眼(じげん)淚にうるほへる

長老(ちやうらう)の呪(じゆ)にみちびかれ、

裳裾(もすそ)靜かにつらなりて、

老若(らうにやく)の巡禮(じゆんれい)群(むれ)あまた、

香華(かうげ)ささぐる子も交(まじ)り、

禮讃(らいさん)歌ふ夕(ゆふ)の座(ざ)の

百千(もゝち)の聲のどよみては、

法(のり)の榮光(さかえ)の花降らし、

春の常影(とかげ)の瑞(みづ)の雲

靆(なび)くとばかり、人心

融(と)けて、淨土(じやうど)の寂光(じやくくわう)を

さながら地(つち)に現(げん)じけむ

驕盛(ほこり)の跡はここ乍ら、

(信(しん)よ、荒磯(ありそ)の砂の如、

もとの深淵(ふかみ)にかくれしか、

果(は)たや、流轉(るてん)の『時』の波

法(のり)の山をも越えけむか。)

殘(のこ)んの壁のたゞ寒く、

老樹(らうじゆ)むなしく默(もく)しては、

人香(ひとが)絕(た)えたる靈跡(れいぜき)に

再び磬(けい)の音もきかず、

落つる瓦のたゞ長き

破壞(はゑ)の歷史に碎けたり

 

似たる運命(さだめ)よ、落瓦(おちがはら)。

(めぐるに速(はや)き春の輪の

いつしか霜にとけ行くを、)

ああ、ああ我も琴の如、──

暗と惑ひのほころびに

ただ一條(ひとすじ)のあこがれの

いのちを繫(つな)ぐ光なる、──

その絃(いと)もろく斷(た)へむ日は、

弓弦(ゆづる)はなれて鵠(かう)も射(ゐ)ず、

ほそき唸(うな)りをひびかせて

深野(ふけの)に朽つる矢の如く、

はてなむ里(さと)よ、そも何處。

 

琴を抱いて、目をあげて、

無垢(むく)の白蓮(しらはす)、曼陀羅華(まんだらげ)、

靄と香を吹き靈の座を

めぐると聞ける西の方、

涙のごひて眺むれば、

澄(す)みたる空に秋の雲

今か黃金(こがね)の色流し、

空廊(くうろう)百代(もゝよ)の夢深き

伽藍(がらん)一夕(いつせき)風もなく

俄(には)かに壞(くづ)れほろぶ如、

或は天授(てんじゆ)の爪(つま)ぶりに

一生(ひとよ)の望(のぞ)み奏(かな)で了(を)へし

巨人(きよじん)終焉(をはり)に入る如く、

暗の戰呼(さけび)をあとに見て、

光の幕(まく)を引き納(をさ)め、

暮輝(ゆふひ)天路(てんろ)に沈みたり。

           (甲辰二月十六日夜)

 

   *

 

 落 瓦 の 賦

 

(幾年の前なりけむ、猶杜陵の學舍にありし頃、
 秋のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる
 古刹を訪ひて、菩提老樹の風に嘯ぶく所、琴
 者胡弓を按じて沈思頗る興に入れるを見たる
 事あり。年進み時流れて、今寒寺寂心の身、
 一夕銅鉦の搖曳に心動き、追懷の情禁じ難く、
 乃ち筆を取りてこの一編を草しぬ。)

 

時の進みの起伏に

(かの音沈む磬(けい)に似て、)

反(そ)れて千年(ちとせ)をかへらざる

法(のり)の響を、又更に、

灰冷えわたる香盤の

前に珠數繰る比丘尼らが

細き頌歌(しようか)に呼ぶ如く、

今、草深き秋の庭、

夕べの鐘のただよひの

幽かなる音をともなひて、

古し信者の名を彫(ゑ)れる

苔も彩なき朽瓦(くちがはら)、

遠き昔の夢の跡

語る姿の悵(いた)ましう

落ちて脆くも碎けたり。

 

立つは伽藍の壁の下(もと)、──

雨に、嵐に、うたかたの

罪の瞳を打とぢて

胸の鏡に宿りたる

三世の則(のり)の奇しき火を

怖れ尊とみ手を合はせ

うたふて過ぎし天(あめ)の子の

袖に摺れたる壁の下(もと)。──

ゆうべ色なく光なく

白く濁れる戶に凭りて、

落ちし瓦の破片(かけ)の上

旅の愁の影淡う

長き袂を曳きつつも、

轉手(てんじゆ)やはらに古琴(ふるごと)の

古調一彈、いにしへを

しのぶる歌を奏でては、

この世も魂(たま)ももろともに

沈むべらなる音(ね)の名殘

わづかに動く菩提樹の

千古の老(おひ)のうらぶれに

咽ぶ百葉(もゝは)を見あぐれば、

古世(ふるよ)の荒廢(すさみ)いと重く

新たに胸の痛むかな。

 

あはれ、白蘭(はくらん)谷ふかく

馨るに似たる香焚いて、

紫雲の法衣搖れぬれば、

起る鉦皷(しやうこ)の莊嚴(おごそか)に

寂びあるひびき胸に泌み、

すがた整ふ金龍(こんりゆう)の

燭火(ともし)の影に打ゆらぐ

寶樹の柱、さては又

ゆふべゆふべを白檀の

薰りに燻り、虹を吐く

螺鈿の壁の堂の中、

無塵の衣(ころも)帶緩(ゆる)う

慈眼(じげん)淚にうるほへる

長老の呪(じゆ)にみちびかれ、

裳裾靜かにつらなりて、

老若の巡禮群(むれ)あまた、

香華ささぐる子も交り、

禮讃(らいさん)歌ふ夕(ゆふ)の座の

百千(もゝち)の聲のどよみては、

法(のり)の榮光(さかえ)の花降らし、

春の常影(とかげ)の瑞(みづ)の雲

靆(なび)くとばかり、人心

融けて、淨土の寂光を

さながら地(つち)に現じけむ

驕盛(ほこり)の跡はここ乍ら、

(信よ、荒磯(ありそ)の砂の如、

もとの深淵(ふかみ)にかくれしか、

果(は)たや、流轉の『時』の波

法(のり)の山をも越えけむか。)

殘(のこ)んの壁のたゞ寒く、

老樹むなしく默しては、

人香(ひとが)絕えたる靈跡(れいぜき)に

再び磬(けい)の音もきかず、

落つる瓦のたゞ長き

破壞(はゑ)の歷史に碎けたり

 

似たる運命(さだめ)よ、落瓦(おちがはら)。

(めぐるに速き春の輪の

いつしか霜にとけ行くを、)

ああ、ああ我も琴の如、──

暗と惑ひのほころびに

ただ一條(ひとすじ)のあこがれの

いのちを繫ぐ光なる、──

その絃(いと)もろく斷(た)へむ日は、

弓弦(ゆづる)はなれて鵠(かう)も射ず、

ほそき唸りをひびかせて

深野(ふけの)に朽つる矢の如く、

はてなむ里よ、そも何處。

 

琴を抱いて、目をあげて、

無垢の白蓮(しらはす)、曼陀羅華(まんだらげ)、

靄と香を吹き靈の座を

めぐると聞ける西の方、

涙のごひて眺むれば、

澄みたる空に秋の雲

今か黃金(こがね)の色流し、

空廊百代(もゝよ)の夢深き

伽藍一夕(いつせき)風もなく

俄かに壞(くづ)れほろぶ如、

或は天授の爪(つま)ぶりに

一生(ひとよ)の望み奏で了へし

巨人終焉(をはり)に入る如く、

暗の戰呼(さけび)をあとに見て、

光の幕を引き納め、

暮輝(ゆふひ)天路に沈みたり。

           (甲辰二月十六日夜)

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年三月号『明星』。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る。「賦」は本来は「詩経」の漢詩の表現・修辞の違いによる分類である「六義(りくぎ)」の一つで、の一つで、比喩に依らず、心に感じたことや事物を直叙したもので、後に「離騒」「楚辞」及びその流れを汲むものを指す語としても用いられ、漢代に盛行して四六駢儷体を生む母体となった、対句を多く含み、句末は韻を踏む形式を指すようになり、その後現在までは日本では広く詩や韻文を指す語となったものである。

「杜陵」「杜」(もり)と丘「陵」(おか)」岩手県盛岡市の古い別称。

「學舍」「城外」と出るので盛岡尋常中学校時代(二年前の十月に五年次で退学)の懐古である。

「城外北邱の古刹」岩手県盛岡市名須川町(すかわちょう)にある曹洞宗瑞鳩峰山報恩禅寺。貞治元(一三六二)年に南部守行開基、通山長徹開山により、応永元(一三九四)年に南部守行によって陸奥国三戸郡に創建されたと伝えられ、慶長六(一六〇一)年、南部家二十七代南部利直の時、盛岡に移るに当たって、同寺も現在地に移された。五百羅漢で知られる。

「寒寺」個人サイト内の「報恩寺」(写真あり)の解説によると、啄木が育った故郷渋民の渋民村の宝徳寺のことする。「寒」は「淋しい」の意であろう。但し、父一禎が住職を罷免されるのは、この年の十二月末のことであるので注意が必要。

「磬」「けい」或いは唐音で「きん」とも読む。中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を吊り下げ、動物の角製の槌(つち)で打ち鳴らす。石板が一個だけの「特磬」と、十数個の「編磬」とがある。宋代に朝鮮に伝わり、宮廷音楽に使用され、日本では奈良以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いた。

「頌歌(しようか)」(しょうか)は讃歌に同じい。

「轉手(てんじゆ)」「伝手」「点手」とも書く。琵琶や三味線の棹の頭部にあって弦を巻きつけるための横棒、糸巻きのこと。

「鵠(かう)」は狭義には「くぐひ(くぐい)」で「大形の水鳥」則ち「白鳥」を指すが、他に「白い」の意があり、ここは「白い鳥」でよかろう。

「曼陀羅華(まんだらげ)」「まんだらけ」とも。サンスクリット語の漢音写。「天妙華」「悦意華」などとも漢訳する。諸仏出現の際などに天から降り、色が美しく、芳香を放ち、見る人の心を楽しませるという花。]

2020/03/28

三州奇談卷之四 傳燈の高麗狗

 

    傳燈の高麗狗

 瑞應山傳灯寺[やぶちゃん注:「灯」はママ。]は河北郡長屋谷にあり。臨濟宗にて日本名藍の内なり。寺格甲刹(かつさつ)の位なり。開山は恭翁運良和尙。則ち後醍醐・後小松・後柏原三院の勅願所にて、綸旨數通(すつう)あり。足利義持の御敎書、色衣(しきえ)御免、筆者諏訪若狹守長貞とあり。建武二年、勅して二條大納言師基卿國司にて下向、巡見の節此寺に登り、夕日寺(ゆふひでら)の觀音に詣で給ふ。此所七堂建立の事あり。運良に紫衣を給はる。寄附の地は小坂(こさか)の庄七鄕とぞ。此時國司師基卿の御館は、今御所村と云へり。又應永二年勅願により、則ち扶桑の内一ヶ國に安國寺を一寺宛(づつ)創業仰付けられ候時にも、

「加州には傳燈護國禪寺、越中には國泰萬年禪寺、能州には惣持護國禪寺あれば、此三州に安國寺は建つるにも及ぶまじ」

との公裁なりしとかや。塔頭二十一ヶ寺、末寺五十餘ヶ寺ありき。天正・天文の頃の一亂に中斷せしなり。初は管領方として富樫に與力し、一揆に敵せられし。されば一山の簱印(はたじるし)は大擂子木(おほすりこぎ)なり。又後ろの山に岩窟あるも、皆其頃粮米(らうまい)を隱せし軍用の爲なるべし。富樫の支族悉く此寺に自害して果ぬ【彼(かの)馬を能く畫きし晴貞と云ひしも、此時に死す。加賀秋月といふ。】世俗、富樫の寺と云ふ寺も破却せられて住人(すむひと)なく、塔頭も離散せしに、利常公の時千岳和尙と云ふを呼びこし、是を住職として寺領を附け、堂塔再興ありき。初は無本寺なりしが、近年關東下知として、今は御室妙心寺の下なり。

[やぶちゃん注:「傳燈の高麗狗」「高麗狗」は「こまいぬ」。「傳燈」は普通は、ある宗派の教義真理や伝統或いはその対象(物)を師から門弟へと伝えることを言うが、ここは以下に見る通り、寺自体の名であり、寺名は現行「でんどうじ」であるから、ここでも「でんどうのこまいぬ」と読んでおく。本書は諸本では各標題は漢字四字で示されることが多く、例えばこれも「傳燈麗狗」で、「近世奇談全集」も「傳燈の麗狗」である。しかし「麗狗」はまず「こまいぬ」と読めず、判り難い。恐らくは編者日置謙氏による配慮であろう。

「瑞應山傳灯寺」現在の金沢市傳燈寺町(でんどうじまち)にある臨済宗妙心寺派瑞応山(宝亀瑞応山とも)傳燈寺(でんどうじ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイト「寺院ナビ」のこちらによれば、開山は法燈国師法嗣恭翁運良で、開基は二条家とし、『後醍醐天皇(在位131839)・後小松院(在位13821412)・後柏原天皇(在位1500263帝の勅願所として、多くの信仰を集めていた。室町時代には十刹に淮ぜられ、加賀五山派の中心的存在となるが、3度の兵火に逢い焼失。その後、江戸時代に藩主前田利常公は、由緒ある傳燈寺の荒廃を殊の外憂い、再興にかかったが』、『不幸にも普請半ばにして』死『去してしまったため』、『再建はならなかった。そして明治4年(1871)の治世の変革ならびに廃仏棄釈の難に遭遇し、寺領等全て没収、堂塔破却の悲運に寺は衰退、以後』、『荒廃の一途を辿った。現在の本堂は、明治34年(1959)同山49世無貫和尚によって再建されたものである。昭和の初め頃から無住の寺となるが、現住職宮崎元良が入寺し、法輪を広め、歴史ある同寺の再興に日々尽し、今日に至っている』とあり、寺宝として『絹本着色恭翁運良画像(市文)室町時代/後柏原天皇綸旨/勅願寺添状 3通』等があるとある。

「河北郡長屋谷」スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)の「金澤」を見ると、「傳燈寺」の一キロほど西北西に「長屋」の地名を見出せ、現在の東長江町の西端には長屋城跡を見出せる。

「名藍」この「藍」は「伽藍」(がらん)のそれ(「伽藍」は梵語の「僧が集まって住む修行する清浄閑静な場所」を指す語の漢音写「僧伽藍摩」の略)。名高い大きな寺院のこと。

「寺格甲刹の位なり」甲刹(かっさつ)は「諸山(しょざん)」とも称する。五山制度に於ける禅院の寺格の一つ。五山・十刹に次ぐもので、史料では、鎌倉最末期の元亨元(一三二一)年に北条高時が鎌倉の金剛崇寿寺(弁ヶ谷(べんがやつ)にあったが現存しない)を甲刹としたのが最初で、後次第に増加し、中世末には二百数十ヶ寺に及んだ。甲刹間には序列は設けられず、定員数も定められなかった。認定は、通常は将軍の御教書(みぎょうしょ:鎌倉・室町幕府の執権や管領が将軍の意を奉じて出した様式の文書)によった。官寺の住持の資格を得た僧は先ず甲刹に住んだ後、十刹・五山へと進むのが普通の昇進コースであった(以上は山川出版社「日本史小辞典」に拠りつつ、金剛崇寿寺や御教書の説明はオリジナルに挿入した)

「恭翁運良」(きょうおう うんりょう 文永四(一二六七)年~暦応四/興国二(一三四一)年)は南北朝時代の臨済宗の僧で出羽国出身。ウィキの「恭翁運良」によれば、『初め出羽国(後の羽前国)玉泉寺で出家した。紀伊国興国寺の心地覚心に学んで法を嗣いだ。京都万寿寺に南浦紹明に参禅し、南浦の鎌倉下向に同行したあと、加賀の大乗寺に入り、瑩山紹瑾の勧めで加賀国大乗寺の住持となり、あわせて道元自筆の「仏果碧厳破関撃節(一夜碧巌集)」(重要文化財)、棕櫚払子などを相伝した。しかし曹洞禅の寺院に臨済僧が入寺したために混乱が起き、勇退して元徳31330)年に加賀国伝燈寺(金沢市)を開いた。その後、越中国氷見湊に「石浮図」(石造の仏塔に灯台の用をなさせたものか?)を建立し、海上交通の目標物とするなど、勧進僧として活動している。次いで放生津に興化寺を開き、同寺で没した。塔所(墓所)である大光寺跡は、現在の射水市中央町にある「来光寺塚」に比定する説がある。弟子に至庵綱存(伝燈寺2世)、絶巌運奇(越中長慶寺開山)、桂巌運芳(建仁寺53世、万寿寺35世、越中薬勝寺勧請開山)、呑象運光(越中蓮華寺開山)がある。伝燈寺に伝えられた頂相』(ちんそう)『は金沢市指定文化財。「一夜碧巌集」は至庵綱存が継承し、綱存の弟子である蔵海無尽(加賀妙雲寺開山)が康永4年(1345)大乗寺へ贈ったため、現在同寺が所蔵する』とある。

「綸旨」蔵人所(くろうどどころ)が天皇の意を受けて発給する命令文書。

「足利義持」(元中三/至徳三(一三八六)年~正長元(一四二八)年)は室町幕府第四代将軍 (在職:一三九四年~一四二三年) 。義満の子。九歳で将軍職を継いだが、政務は義満が執った。応永九 (一四〇二) 年に従一位、同十六年には内大臣となった。同十五年、没した義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞したり、同二十六年には明との国交を断絶するなど、父の施政を改めた。同二十三年、関東に起った「上杉禅秀の乱」に参画した弟義嗣(よしつぐ)を二年後に殺害している。同三〇(一四二三)年には子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家したが、二年後、義量が満十七歳で病いのため夭折すると、再び政務を執っている。

「色衣御免」「色衣」は僧服(荘厳(しょうごん)服)の中の法衣の中でも緋色・紫色・松襲(まつがさね)色・萌黄(もえぎ)色の法衣を指す。本邦では天皇の綸旨を受けて紫衣や香衣(こうえ:香木の煎汁によって染めた衣。黄衣・紅衣とも書く)を着用することをかく言った。

「諏訪若狹守長貞」不詳。

「建武二年」一三三五年。

「二條大納言師基卿」二条師基(もろもと 正安三(一三〇一)年~正平二〇/貞治四(一三六五)年)は鎌倉末期から南北朝時代にかけての公卿。関白二条兼基の子。官位は従一位関白(南朝)。ウィキの「二条師基」によれば、『南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった』。「加能郷土辞彙」の彼の記載を読まれたいが、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した建武二(一三三五)年六月当時、彼はなったばかりの加賀国国守であったのである。

「夕日寺の觀音」金沢市夕日寺町(ゆうひでらまち)はあるが、寺は現存しない。「加能郷土辞彙」の「夕日寺」には、『河北郡小坂庄に屬する部落。龜尾記に、この村に觀音堂があり、その觀音は同郡觀法寺のものと同作で、長け五尺あると記する』として「興禪寺」への見よ見出しするので見ると、夕日寺は不明だが、この興禅寺(傳燈寺の隣りの民が開山である運良のために建てたとするものも所在不明)が夕日寺ではないかというわけの判らぬループになっているだけで期待外れも甚だしい。

「寄附の地は小坂の庄七鄕」先に引用した通り、夕日寺は旧河北郡小坂庄に属した部落名とあった。

「御所村」金沢市御所町(ごしょまち)。国司二条諸基が屋敷をここに構えたことに由来する名である。

「應永二年」一三九五年。

「勅願」当時は後小松天皇。

「安國寺」「安國禪寺」。延元三(一三三八)年に天下を平定して征夷大将軍となった足利尊氏が名僧夢窓国師の勧めに応じて、鎌倉幕府殲滅以来の戦乱によって死傷した人々の菩提を弔うと同時に、足利幕府の威信を示して民心を束ねる目的で京に天龍寺を建立したが、その後、興国六/康永四 (一三四五)年二月に、幕府は光厳上皇に奏請し、全国六十六ヶ国に一寺一塔を造立したのが安国禅寺である。

「國泰萬年禪寺」現在の富山県高岡市にある臨済宗摩頂山国泰寺。因みに私はこの南東の伏木で中高時代を過ごした。

「惣持護國禪寺」石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸嶽山 ( しょがくざん ) 大本山總持寺祖院

「天正・天文」元号が前後していておかしい。「天文」は一五三二年から一五五五年で先、「天正」はユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年で後である。間に弘治・永禄・元亀が挟まる。或いは「天文」は「天正」の後の「文祿」(一五九三年から一五九六年)の誤記かも知れないとも思ったが、天文から天正は戦国から安土桃山時代初期で、まさに「一亂」とあるのと一致するから、「天文・天正」と読み換えてよかろう。

「管領方」妙な使い方だが、ここは室町幕府方の意。当時は第九代将軍足利義尚。どうしても管領に拘るなら、細川政元。

「富樫」富樫政親。複数回既出既注

「一揆」一向一揆。

「されば一山の簱印は大擂子木(おほすりこぎ)なり」何故「されば」なのか私は意味不明。識者の御教授を乞う。

「粮米(らうまい)」兵粮(ひょうろう)米。

「【彼(かの)馬を能く畫きし晴貞と云ひしも、此時に死す。加賀秋月といふ。】」国書刊行会本では、この割注は

〔彼(かの)馬をよく画(かき)し加賀人と云ひしも、此時に死して富樫家滅す。加賀人は藤原重房也(なり)。世俗、富樫の馬と云(いひ)、加賀秋月といふ。〕

となっているが、「藤原重房」は不詳。

「千岳和尙」千岳宗仭(そうじん)。「加能郷土辞彙」の「千岳宗仭」を読まれたい。但し、それを読むと、ここでは第二代藩主「利常公」とあるが、実際に傳燈寺再興を命じたのは第四代藩主前田綱紀である。但し、利常の代に既に千岳はこの地に来ており、利常・利高両前藩主の尊崇が厚かったから、利常にそうした意志があったことは想像に難くない。

「無本寺」本山を持たない単立寺院のことであろう。]

 元祿の初活道和尙在住の比、狼多く出で田畠を荒し、又人を喰ふ。老若多く害せられ、近鄕愁傷限りなし。

 或日門前の老父、疵付(きづつき)たる七八歲許の子を負ひ來りて、和尙に向ひ歎きて云ふ、

「昨夜、狼壁を穿ち入りて、我が一人の孫を喰ひて去んとす。大勢出合ひ、漸々(やうやう)に追落(おひおと)しぬ。然共狼の疵付たるは、再び數狼を誘ひ來りて必ず殺すものと聞けり。他日いかゞして荒家(あばらや)の中に防ぎ申すべきや。願くば和尙助け給へ」

と云ふ。

 活道不便(ふびん)に思ひ、彼(かの)小兒を鎭守堂に隱し、和尙も同じく座具を敷き、香を焚き座禪してぞおはしける。

 暮過(くれすぐ)る頃より、狼の聲夥しく、且(かつ)犬のかみあふ聲頻りなりしに、寺へは何の事もなく夜明けしかば、和尙は小兒を出(いだ)し、老父を待給ふに、頓(やが)て老人村人を誘ひて走り來り、

「先(まづ)小兒恙なきは御影にて、ふしぎの事の候。昨夜狼殊に多く出で、村人は戶を閉ぢ守りし所、御寺より白狗(しろいぬ)ニつ走り出で、多くの狼を嚙殺し候程に、衆狼怖ぢ恐れて逃げ去り候」

と云ふ。

 和尙もふしぎに思ひ、

「先(まづ)鎭守堂に拜(おがみ)あられよ」

とて、皆々詣で見廻りしに、鎭守堂の二つ狗(いぬ)、手足悉く土にまみれ、口脇に血流れければ、

「扨は夕べ出でし白狗(しろいぬ)は、此高麗狗(こまいぬ)にてありけり」

と人々奇異の思ひをなしけり。

 其中一人の老翁ありしが、語りて云ふ。

「我(わが)先祖は大場村の者なり。昔行基菩薩此鄕(さと)へ來(きたり)て、二尊の觀世音を彫刻し、其木を以て二つの狛犬を作り、越中朝日の觀世音に對し、爰に夕日寺を建立し、二尊を安置し、鎭守堂には白山宮(しらやまのみや)を勸請して此兩狗(りやうく)を据ゑ置き給ふ。我(わが)先人觀音を渴仰し、

 朝な夕な惠む光のかけまくも忝(かたじけ)なしや越の海山

と詠じ、加越朝夕の觀音堂に法樂せし事を聞けり。其後夕日寺は廢壞し、二尊は村の名に殘りて幽かなる辻堂にありき。狗もひとつに打入れてありしが、天正の頃此邊(このあたり)に猪の多く出でゝ、田畑をあらし、民俗[やぶちゃん注:民草。]歎きけるに、こま犬里人の夢に告げて云ふ、

『我が主は今傳燈寺の境内にあり。我をかしこへ連行(つれゆき)なば、神に告げて忽ち猪を退治すべし』

と正しく見たるにより、二つの狗犬(こまいぬ)を此鎭守堂へ送りしかば、其後猪一疋も出でずと聞傳へたり。今の狼を退(しぞ)けし躰(てい)、疑ひもなき此狛犬の神靈なり」

と云ふに、皆人感嘆してぞ退散しける。

[やぶちゃん注:「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「活道和尙」不詳。

「大場村」金沢市大場町(おおばまち)か。

「行基菩薩」(天智天皇七(六六八)年~天平二一(七四九)年)は法相宗の僧。彼は難民救済・民間布教・土木事業などを進めたが、朝廷から下される僧の資格を得ずに行ったために弾圧された。しかし、後に民衆の支持を背景に、東大寺大仏建立への協力を要請され、大僧正の位を受けた。

「越中朝日の觀世音」富山県氷見市朝日本町の朝日山上日寺(じょうにちじ)であろう。本尊は千手観世音菩薩である。

「白山宮(しらやまのみや)」複数回出て既注の石川県白山市三宮町にあり、現行では白山比咩(はくさんひめ)神社と表記するそれであろう。加賀国一の宮。白山(はくさん)山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る。

を勸請して此兩狗(りやうく)を据ゑ置き給ふ。我(わが)先人觀音を渴仰し、

「かけまくも」万葉以来の連語。「心にかけて思うことも」或いは「言葉に出して言うことも」で、「心に懸(か)けて思うことも言い表わしようがなく」「忝(かたじけ)なしや」(=恐れ多くありがたいことであるよ)の意。動詞「かく」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形である「ま」+接尾語「く」+係助詞「も」。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十四 親鹿の瞳

 

     十四 親 鹿 の 瞳

 開創の始めから、鹿とは因緣深い鳳來寺であつたが、明治に改まつたと思ふと、もう馬鹿々々しい鹿を弄り殺し[やぶちゃん注:「なぶりごろし」。]にした話がある。

 前にも言うた岩本院は、本堂の西方寄り、俗に大難所と呼んだ高い岩壁の下にあつて白木造りの立派な建物だつたさうである。その岩壁の上を、每朝きまつて通る、五六匹の引鹿があつた。寺男の一人が、とうからそれを知つて居たが、何分山内の事で、どうする事も出來ぬ。そこで生捕りにして山内を引出せばよいと、勝手な理窟を考へた。それで或日麓の門谷へ下りて、若者達を語らつて、靑竹を籠目に組んで、鹿が踏みこんだら動きの取れぬやうな 罠を掛けたさうである。翌朝行つて見ると、十四五貫[やぶちゃん注:五十二・五~五十六・二五キログラム。]もある雄鹿が掛つて居た。それを多勢して寄つて集つて[やぶちゃん注:「たかつて」。]頸から肢に滅茶苦茶に繩を掛けた。さうして口へは馬にするやうな轡[やぶちゃん注:「くつわ」。]を嵌めてしまつた。二人の男がその口を把つて、多勢が後から鹿の尻を打ち打ち、引出したさうである。そして何百段かの御坂を下つて、門谷の町へ出て來た。軒每にそれを見せびらかしながら、正月初駒を曳くやうな氣で、彼方此方[やぶちゃん注:「あつちこつち」。]多勢の見物の中を引張り廻したさうである。鹿は如何にも觀念したやうで、ちつとも抵抗せなんださうである。町の有力者の庄田某が、遉がに見兼ねて、その鹿は助けてやつてくれと、 幾干[やぶちゃん注:「いくばく」。]の金包を取らしたさうである。然し若者達は、其場だけ承知して軈て村端れから再び山の中へ引込んで、殺して煮て喰つてしまつたと言ふ。よくよく鳳來寺も沒落の凶兆が來たと語り合つた者もあつたと言ふ。實は鳳來寺の權威も地に墜ちて、一山が引くり返るやうな騷ぎの、明治四年の事だつたさうである。

[やぶちゃん注:「岩本院」前の「十二 鹿の玉」で示した旧境内図を見られたいが、現在のこの附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。見ると現在も北面の断崖が確認出来る。

「明治四年」一八七一年(但し未だ旧暦)。慶応四(一八六八)年三月に発せられた太政官布告、通称「神仏分離令」「神仏判然令」の後、明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などに触発されて起こった愚かな廃仏毀釈の混乱を指す。]

 まるきり弄り物では無かつたが、狩人の中には、生まれて間も無い小鹿を囮[やぶちゃん注:「おとり」。]にして、親鹿を捕る者があつた。狩人が夏山を稼げば、崖の下やナギ(山崩れ)の跡などに、滑り込んで居る子鹿を拾ふ事があつた。さうした時は、親鹿が近くに居る事は判つて居るので、直ぐ殺さずに、木に繫いで置いて、ギーギー鳴かせて親鹿を誘びき出したのである。親鹿は子鹿の姿が見える間は、幾日でも其處を去らなんだ、何處かしらから、昵と見て居たのである。若し狩人が居ればその目を注意して居るので、此方がそれと氣附いて瞳と瞳とが遇ふと、直ぐ遁げてしまつた。それで此獵法は、餘程の技巧を要するさうである。何度も失敗を重ねると、遂こちらも意地になつて、一日位其場に寢込んで待つ事もあつたが、さうなつては、決して擊てる者ではなかつたと言うた。子が捕られゝば、親が見えがくれに見守つて居たが、親鹿を擊つと、子鹿が其傍を離れなんださうである。犬でも居れば格別だが、さもない時は、親鹿を舁いで來ると、後から隨いて來たさうである。

[やぶちゃん注:とても哀れな映像ではないか。]

 餘計な事だが、子鹿の事を矢張りコボウ又はコンボウと言うた。而して二歲鹿の角に未だ枝の無い物を、ソロ又はソロツポウと言うたのである。

[やぶちゃん注:「コボウ又はコンボウ」小学館「日本国語大辞典」に「こぼう」で「小坊」(歴史的仮名遣「こばう」)とし、「小坊主」と同義としつつ、方言として広汎に子供・小牛・子馬の意とし、「こんぼう」も「小坊」として方言で小牛(静岡県・愛知北設楽郡)、子馬(神奈川足柄郡・静岡県庵原郡飯田)を挙げる。

「ソロ又はソロツポウ」小学館「日本国語大辞典」に「そろ」の②に『二歳鹿の叉(また)のない角を、中部地方でいう。候という字の草書体からの連想で、そうろうづのともいう』とする。また、「そろっぽう」には『そうろうづの(候角)』に同じ』とし、方言とし、『⦅そろっぽ⦆角が一本の鹿』として山梨県大菩薩付近・長野県飯田付近・静岡県磐田郡水窪を採取地とする。「候」の草書体はこちら(リンク先は「人文学オープンデータ共同利用センター」の「「候」(U+5019) 日本古典籍くずし字データセット」)。]

2020/03/27

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿

 

     十三 淨瑠璃御前と鹿

 鳳來寺の傳說では、光明皇后は鹿の胎内より生まれ給ふたとなつて居る。開祖利修仙人が、甞て西北方にある煙巖山の岩窟に籠つて修法中、一日山上に出でゝ四方を顧望する内、偶々尿を催して、傍の薄に放したる處、折柄一匹の雌鹿來つて其の薄を舐め、忽ち孕んだとある。月滿ちて玉の如き女子を產んだが、仙人修法中とて其處置に窮し、ひそかに其子を人に托して鄕里奈良に遣はし、一日あるやんごとなき邸の門前に捨てしむと言ふ。その女子成長して後に光明皇后となり給うたが、鹿の胎内に宿り給ひし故、生れながらにして足の指二ツに裂け、恰も鹿の爪の如くなりしと言ふ。皇后之を嘆き給ひ、宿業滅亡の爲め鳳來寺に祈願を籠め、兼て御染筆の扁額を納め給ふと言ふのである。これは鳳來寺々記の中に載せた事であつたが、別に元祿時代に書いた、同寺所藏の掃塵夜話と言ふ寫本には、その事を實際化して、利修無聊に依つて、夜々西方山麓の里に通ひ、賤[やぶちゃん注:「しづ」。]の女と契り遂に一女を設く云々などゝ、最もらしく說明してあつた。

[やぶちゃん注:本篇は前項「十二 鹿の玉」に出た「淨瑠璃姬」=「淨瑠璃御前」絡みで続きの形をとっている。

「光明皇后」(大宝元(七〇一)年~天平宝字四(七六〇)年)は聖武天皇の皇后。藤原不比等の娘。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

「煙巖山」「えんごんさん」は鳳来寺の山号でもあるが、サイト「YAMAP」のこちらを読むと、利修仙人所縁の「仙人様コース」という登山ルートがあり、『仙人様コースは鳳来寺山が煙巌山と呼ばれていた頃のピークがあり、一部の資料では別々の地名として記載されている。元々護摩所から昇る煙から名付けられたらしく、利修仙人の護摩所はまさしく行場らしい神聖さがあった。途中の険しい岩場はやはり修験道、山岳信仰の道と実感。地図にある鳥居と建物を探したが、よく分からなかった』が、『利修仙人が現在登山道としているルート、護摩所―煙巌山―瑠璃山―鏡岩―行者返し(越え)』と、『元々遡行ルートと思われる表参道のなど』、『おなじみのコースを修行場として原初開拓したのだと実感できる』とあり、現地の案内板の地図のこの写真でこの煙巌山の位置が確認出来る。国土地理院図のこの中央のピークがそれである。

「指二ツに裂け」「裂足」と呼ばれる四肢の指の先天性奇形で、例えば親指は分離するが、人差し指以下の四指の縦方向への足の趾放射が欠損するものはそのように見える。

「鳳來寺々記」不詳。或いは「国文学研究資料館」内の「日本古典籍総合目録DB」のこちらにある「三河國鳳來寺略緣起」の異名か?

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「掃塵夜話」前々注のリンク先で注で出した縁起と一緒に書名のみは確認出来る。]

 然し自分らが耳で聞いた傳說では、之とは稍趣を異にして、淨瑠璃御前の話になつて居た。矢作(やはぎ)の兼高長者が、子のない事を憂いて、藥師堂に十七日の參籠をして、子種を一ツ授け給へと祈つた處、恰も滿願の夜の夢に、藥師は大なる白鹿となつて顯れ、汝の願ひ切なるものあれ共、遂に汝に授くべき子種は無ければとて、一個の丸[やぶちゃん注:「たま」。]を授けらると見て、胎むと言ふのである。又別の話では、藥師が白髮の翁となつて現はれ、鹿の子を授くと告げて消え失せ給うたとも謂うた。軈て月滿ちて生れた子が淨瑠璃御前で、輝く如く美しかつたが、足の指が二ツに裂けて居る事を、長者が悲しんで、それを隱す爲め布を以てその足を纏うて置いたが、これが足袋の濫觴であると言ふ。

[やぶちゃん注:「矢作」愛知県岡崎市矢作町(やはぎちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「兼高長者」個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」が非常に詳しくてよいので読まれたい。それによれば(岩波書店の「浄瑠璃御前物語」(新日本古典文学大系90「古浄瑠璃説経集」をもととするとある)、『浄瑠璃姫の父は三河の国司源中納言兼高といい、母は矢矧宿の長者でいくつもの蔵を持つ海道一の遊女である』とあって以下、「浄瑠璃御前物語」のシノプシスが載るので、是非、読まれたい。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。ここの横川(よこがわ:旧横山)に伝わる伝承や信仰は先行する早川孝太郎氏の「三州横山話」の「夢枕に立った浄瑠璃姫」(PDF・サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」内)も読まれたい。そこに出る祠は「三州横山話」にある早川氏手書きの「橫山略圖」で左上方中央に「淨ルリ姫ノ祠」とあるのを確認出来る。今は整備されているようだ(PDFに写真あり)。]

 今から三四十年前迄は、淨瑠璃御前一代の譚として、その事を謠つた文句を歌つて居た者もあつたさうであるが、今日では、如何にしてもそれを聽く事は出來なかつた。又村の處々に、御前の姿を描いた小さな掛物を、藏つてある家もあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「淨瑠璃御前一代の譚」「譚」は「はなし」と読んでおく。先の個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」の「浄瑠璃御前物語」に濫觴を同じくする浄瑠璃節。]

 一方鹿の話は、それからそれと糸を引いて、妹背山の入鹿の話に迄持て[やぶちゃん注:「もつて」。]行つた。鳳來寺の東方山麓に、東門谷と言ふ山に圍まれた小さな部落があるが、村としては古かつた。そこの彌右衞門某の屋敷の背戶に、いるかが池とて形ばかりの赤錆の浮いた池があつたと謂ふ。鹿が入鹿大臣を產んだ處故に斯く言うたとは恠しかつた。その池の水を笛に濕して吹けば、如何なる鹿でも捕れるなどと言うたが、果して今も跡があるかどうか知らぬ。或は鹿が子を產んだと言ふ傳說と、いるかが子を產んだ話と、何れかを誤り傳へたかとも考へられる。

[やぶちゃん注:「妹背山」(いもせやま)「の入鹿」(いるか)「の話」人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん:近松半二他の合作。全五段。明和八(一七七一)年大坂竹本座初演)。私は何度も見ているので、ここで言っている意味が判るが、ご存じない方はウィキの「妹背山婦女庭訓」を見られたいが、ざっくり言えば、同作では悪玉蘇我入鹿は父蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたことから、尋常ならざる力を持っており、それを以って自ら本邦の支配者たらんと宣言して王権を奪おうとし、その魔力を無力化させる方法のアイテムの中に「爪黒(つまぐろ)の鹿の血」や「鹿笛」が配されてあるのである。

「東門谷」「ひがしかどや」。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、現在の新城市門谷前畑附近に、「東門谷」の地名が認められる。ここを下っている川の名は「東門谷川」である。ただ、この辺りだと、「山麓」というよりは「山腹」である。現在の国土地理院図に「東門谷」で出る

「いるかが池」現行それらしいものは見当たらない。なお、名前としての「入鹿池」なら、七十キロメートルも北西に離れた愛知県犬山市に入鹿池はある。]

 東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)は、前に言うた鹿が皇后を產んだ跡と言うて居る。

[やぶちゃん注:「東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)」国土地理院図のここに「峰」がある。「峯一ツ越えた」東に「東門谷」があるから、ここで間違いない。「產田」は流石に判らない。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十二 鹿の玉

 

     十二 鹿  の  玉

 

Sikanotama

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿の玉」。]

 

 行者越の一ツ家が潰れたのも、實は鳳來寺の衰運が大いに關係したのである。山内に藥師と東照宮を祀り、天台眞言の兩學頭が並び立つて、千三百五十石の寺封を與へられて全盛を極めた鳳來寺も、明治の改廢と數度の出火に遇つて、昔の面影はもう無かつたのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺」の沿革は注していなかったので、ここでウィキの「鳳来寺」から引く。『愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来』。『参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮』『及び仁王門は国の重要文化財に指定されている』。『また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である』。『寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという』。『鎌倉時代には源頼朝によって再興されたと伝え』、『参道の石段も頼朝寄進と』される。『当時、寺内に在った多くの僧坊の1つ、医王院において、平治の乱で落ち延びてきた頼朝が匿われたのが一因という。ただし、3年も匿われたという点で疑問も残る。なお、近世に記された地誌『三河刪補松』では、鎌倉幕府の有力御家人で三河守護でもあった安達盛長が建立した「三河七御堂」の一つとして鳳来寺弥陀堂を挙げている』。『鳳来寺境内の鏡岩下遺跡からは、灰釉陶器の碗1点、渥美窯産44点、瀬戸窯産23点、常滑窯産11点など計194点の土器が出土している。これによって、鳳来寺では12世紀後半~13世紀初頭に経塚が造営されたのち、13世紀以降は渥美窯産や古瀬戸、常滑窯産の蔵骨器を用いた納骨やそれを伴わない骨片を埋葬する中世墓となり、室町時代から岩壁に鏡の埋納が始まり、江戸時代には納鏡が最盛期を迎えたことが判明する。本堂をはじめ寺内でたびたび火災が発生して文書史料の多くが焼失している鳳来寺において、これら考古資料は中世から近世にかけて、鳳来寺がある特定の高貴な階層の人々による信仰の対象としての聖地(霊山)から本尊薬師如来を対象とする民間信仰の霊場に変容した様子を明らかにする貴重な資料である』。『戦国時代には、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けた。だが、豊臣秀吉の治世では300石のみを許されただけで、他は悉く没収された』。『江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄えた。徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、慶安4年(1651年)に完成をみたのである(東照宮などに限る)。最終的には、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となった』。『なお、家綱将軍の治世になっても諸僧坊の増築は続』き、多数の僧坊が建てられた。『東海道御油宿から延びる街道は鳳来寺道と呼ばれるなど、秋葉山本宮秋葉神社と並んで、この地方では数多くの参詣者を集めた』。「東海道名所図会」には、『煙厳山鳳来寺勝岳院(神祖宮 鎮守三社権現 六所護法神 開基利修仙人堂 常行堂三層塔 鏡堂 八幡宮 伊勢両太神宮 弁才天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 名号題目石 八王子祠 妙法滝 奥院 六本杉 煙厳山 勝岳院 瑠璃山 隠水 高座石 巫女石 尼行堂 行者帰 猿橋篠谷山伏堂 馬背 牛鼻)と、詳細な記載がある』。『明治に入るまで、東照宮の祭事を社僧や別当が行っていたため、新たに祠官が派遣された。ここに寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、東照宮が命脈を保つ一方で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかった』。『困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)112日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。他にも賢成住職の奔走による旧寺領の復権活動が実り、有償ながら国有林の譲渡が実現された』。『窮乏に喘いでいながらも譲渡資金は何とか捻出され、余剰金を残すことができた。この時、傷みの激しい堂宇の改築費用に充てることも考えられたが、賢成住職は地域住民に還元することを決断。鳳来寺鉄道、田口鉄道の敷設資金、鳳来寺女子学園の設立資金に使われた』。『大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建された。なお、明治初期まで存在した諸僧坊も度重なる火災と明治以降の窮乏で廃絶となり、今では松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。廃絶の諸僧坊跡地には石碑が立てられている』とある。なお、神仏分離されたる鳳来山東照宮の方については「十六 手負猪に追はれて」の「鳳來寺山三禰宜」の私の注を参照されたい。]

 明治維新前、鳳來寺が未だ全盛の頃の事である。山内十二坊中の岩本院で正月十四日の田樂祭りに、七種(なゝいろ)の開帳と言ふのがあつた。開祖利修仙人が百濟から將來した瑠璃の壺、龍の玉、熊の角、鹿の玉、一寸八分の籾、淨瑠璃姬姿見の鏡、東照公佩用の鎧兜の七種で、一人十二文づゝの料金を取つて拜觀させたと謂ふ。

[やぶちゃん注:「岩本院」「新編鎌倉志卷之一」で非常にお世話になった s_minaga氏のサイトの三河鳳来寺三重塔」のページの絵図その他で旧鳳来寺の全僧坊の位置が判る。同氏は著作権主張をされていないので、その中の追記のある一図「鳳来寺境内及寺有林図」を添えて参考に供し、これを以って旧鳳来寺寺域内の解説に代える。

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「田樂祭り」「田樂」は、初め、民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。田植えの際に、「田の神」を祭って歌い舞ったのが原形で、鎌倉時代から室町時代に流行し、専業の田楽法師も出た。能楽のもとである猿楽との関係が深い。鼓・腰鼓・笛・銅鈸子(どびょうし)・ささらなどを奏しながら舞う田楽踊りと、高足などの散楽系の曲芸のほか、物真似芸や能なども演じた。現在では民俗芸能として各地に残る(ここまでは小学館「大辞泉」に拠る)。ここはそれを集合した修験道・仏教・神道が取り入れた祭事である。

「利修仙人」ブログ「法螺貝の会 白山龍鳴会」のこちらによれば、利修は飛鳥時代の欽明天皇三一(五七〇)年に『山城の国(京都と奈良の間)に生まれたと』伝えられ、一説に『修験道の開祖である役行者の血縁だったという伝説もあ』るという。斉明天皇元(六五五)年、八十五歳の老齢で、『百済へ渡り、学問や仏教を修め、徳高い修験者として、広く知られて』いた。『利修仙人は、鳳来寺山の木の祠の中に住み、仙術を使って鳳凰に乗り、空を自由に駆け巡り、竜と仲良くしながら修行を続け』、『さらに』は三匹の『鬼を自在に使っ』たという。『仙人は、この山にあった霊木、七本杉の一本を切って、薬師如来を始め、幾つかの尊い像を彫刻し』たが、『これを岩上に祭ったのが鳳来寺の始まりで』、現在、『利修仙人の護摩場』と呼ばれるものは『鳳来寺の境内地より離れた岩場にあるため、鳳来寺開山の前に修行していたと思われ、日本でも最古級の護摩場であると推察でき』るとある。

「瑠璃の壺」古代のガラス製であろう。但し、鳳来寺の本尊は利修作と伝える薬師如来で、その像は普通、左手に瑠璃製の薬を入れる壺を持っているから、それを模したものである可能性が高い。

「龍の玉」お定まりのそれなら水晶の玉か。

「熊の角」無論、熊に角はないので、大型のツキノワグマの牙か爪であろう。或いは、熊に生じた硬質の角状の奇形腫瘍かも知れない。

「鹿の玉」後述される。

「一寸八分の籾」巨大な五・四五センチメートルもある籾(もみ)。

「淨瑠璃姬」次の「十三 淨瑠璃御前と鹿」に語られるが、この地の長者の娘で、後に義経の愛人となり、奥州へ去った彼の跡を慕って、ここに庵を結んで亡くなったという伝説上の女性である。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」が詳しく、そこに彼女の「鏡」も出る。

「東照公」徳川家康。]

 名前を聞くと何れも珍寶揃いであつた。その後如何になつたか消息を知らぬが、その中の鹿の玉だけは、岩本院沒落の後、不思議な譯で取殘されて、附近の家に祕藏して居る。ふとした動機から一度見た事があつた。鷄卵大の稍淡紅色を帶んだ玉で、肌の如何にも滑らかな紛れも無い鹿の玉であつた。此類のものは、未だ他にも竊かに藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家があつて、昵は前にも見た事があつたのである。祕藏者は前から岩本院に緣故のある者であつた。いよいよ沒落の折、方丈がその者を前に呼んで、これだけは此土地に殘して置くとあつて、讓られたものと言ふ。其一方には、ドサクサ紛れに盜み出したなどゝ、惡口を言ふ者もあつた。何れにしても傳へ殘して居たのは目出度かつた。

 かゝる物が、如何にして鹿の肉體中に生じたかは別問題として、土地の言傳へに依ると、澤山の鹿が群れ集つて、その玉を角に戴き、角から角に渡しかけて興ずるので、これを鹿の玉遊びと謂うて、鹿が無上の法樂であると謂ふ。あんな玉を角から角へ渡すのは、容易であるまいなどの事は一切言はぬ事にして、扨て[やぶちゃん注:「さて」。]其玉を家に祕藏すれば、金銀財寶が自づから集り來ると謂ふ。自分などが聞いた話でも、舊家で物持だなどゝ言えば、彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]には鹿の玉があるげなゝどと言うた。

 狩りを渡世にした者でも、滅多には手に入らぬ、よくよくの老鹿でない獲られ無いと言うた。それで一度び[やぶちゃん注:「ひとたび」。]手に入れゝば、物持などに隨分高く賣れたさうである。前に言うた行者越の狩人なども、曾て手に入れた事があると聞いた。

 或はそれに生玉(いきだま)死玉(しにだま)の區別があつて、如何に見事でも、鹿を殺して獲た物では何の効きめも無いと謂ふ。群鹿が玉遊びに興じて居る、それでなくば駄目だと言うのである。鳳來寺の岩本院にあつたのがそれだと、祕藏して居た老人は改めて掌に取つて見せた。そしてかう握りつめて居ると、自づと溫り[やぶちゃん注:「ぬくもり」。]があつて、幽かに脉[やぶちゃん注:「みやく」。脈。]が打つて來るなどゝ言うて昵と[やぶちゃん注:「じつと」。]目を瞑り[やぶちゃん注:「つむり」。]ながら、不思議なる脉を聞かうとするやうな風であつた。最後に叮嚀に紫の袱紗に包んで、元の箱に納めると、奧まつた部屋へ藏ひに立つて行つた。

 通例玉を祕藏して居る者は、金かなどのやうに[やぶちゃん注:金(かね)か何か等のように。]、祕密にして、玉があるなどとは、更におくびにも出さなんだのである。さうしてコツソリ祕藏して居る者が、案外其方此方[やぶちゃん注:「そちこち」。]の村にあるらしいのである。

[やぶちゃん注:「鹿の玉」は所謂、「鮓荅(サトウ/へいさらばさら)」のことである。これは真正のものは所謂、「結石」であって、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと推測される体内異物である。漢方では現在でも高価な薬用とされているらしい。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。他に「犬の玉」(「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」)や「牛の玉」(私の「耳囊 卷之四 牛の玉の事」を参照)などもある。但し、ただの石や人造物などの偽物も非常に多く出回っていたものと思う。

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十一 一ツ家の末路

 

     十一 一家 の 末 路

 丸山某の養家であつた行者越の一ツ家は、 旅籠[やぶちゃん注:「はたご」。]渡世もしたが、實は代々の狩人であつた。養父といふ人は、狩人こそして居たが、一方、えらい劍術使ひで、由ある者の成れの果だらうとも言うた。それで家には鎗長卷の類が幾振も飾つてあつた。體は四尺幾寸しかなくて、一眼のちつとも引立たぬ構へであつたが、劍を把つては並ぶ者は無かつた。行者の又藏と言へば、遠國迄響いて居たと言ふ。

[やぶちゃん注:「十 十二歲の初狩」の続き。次の「十二 鹿の玉」にさえも枕として続いており、本書ではかくも内容が連続するのは珍しい。それだけ早川氏には魅力的な忘れ難い人物であったのであろう。

「長卷」(ながまき)は刀剣の一種で、大太刀から発展した武具。ウィキの「長巻」によれば、『研究者や資料によっては「薙刀(長刀)」と同一、もしくは同様のものとされていることもあるが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」であるのに比べ、長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」であり、刀剣のカテゴリーに分類される武器である』。『鎌倉時代になり武士が社会の主導権を握るようになると、武人として剛漢であることを誇るために、三尺(約90cm)を超える長大な刀身をもった太刀が造られるようになり、これらは「大太刀」「野太刀」と称される』『ようになった。こうした長大な太刀は腕力のある者にこぞって使われたが、たとえ腕力と体力に溢れた者であっても、長大な分非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくい』『ものであった。そのため、「野太刀」として使われるに従って柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めた』『ものが作られるようになった。このように改装した野太刀は「中巻野太刀(なかまきのだち)」と呼ばれ、単に「中巻(なかまき)」とも呼ばれた。これら「中巻」は、小柄であったり非力であったりと大太刀を存分に振ることの難しい者でも用いることが出来、通常の刀よりも威力が大きく、振る、薙ぐ、突くと幅広く使える為に広く普及した』。『やがて野太刀をわざわざ改装するのではなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じもしくは多少長い柄を付けたものが造られるようになり、長い柄に刀と同じように柄巻を施したことから「長巻拵えの野太刀」、「長巻野太刀」となり、単に「長巻」の名で呼ばれるようになった。室町時代に登場し、戦国時代に大いに使われた武器である』とある。リンク先にある画像を見られたい。]

 どうした譯で代々こんな處に住んで狩人をして居たかは聞かなんだが、家は草葺の大きな構へであつた。明治維新の折、此邊にも長州兵が幕府方の者の後を追つて入込んだ事があつた。拔身を提げた荒くれ武士が十六人、袴の股立をとつて鳳來寺道をやつて來た時は、街道筋の者は全部戶を締め切つて、隱れて居たと言ふ。その連中が行者越の家へかゝつた時、軒に吊してある草鞋を拔身で指して、幾何か[やぶちゃん注:「いくらか」。]と訊いた事から、店に坐つて居た又藏老人と喧嘩になつて、あはや十六人が飛びかゝるかと思はれた時、老人が落ちつき拂つて名を名乘ると、びつくり這ひつくばつて無禮を侘びたと言ふ。別れ際に老人が、誰やらにも行者の又藏から宜しくと言ふと、ヘヽツと丁寧に挨拶して去つたなどゝ言うた。狩人としての逸話はあまり聞かなんだが、劍術使ひとしての話は未だあつた。

[やぶちゃん注:「袴の股立をとつて」サイト「目で見て解かる時代小説用語」の「袴の股立を取る(ももだちをとる)」の画像を見られたい。そこには『「股立ち」(ももだち)とは袴の側面の下向きに切れ込んでいる所(左の写真の赤丸部分)のことで、動きやすくするために股立ちの所をつまみ上げて帯に挟み込むことを「股立ちを取る」と言う』とある。]

 或時旅の劍客と術比べをやつたが、その武士が座敷に突立つて居て、やつと言ふと天井を一回蹴つて居た。これに反して又藏の方はやつと言ふ間に、二回宛蹴つて勝つたと言ふ。又近くの者が多勢集つた席で、誰でも宜いから俺を押へて見よと言うて、疊の下を潜つて步いたが、それが速くてどうしても押へる事が出來なんだと言ふ。然しそれ程の又藏でも、たつた一度失敗した事があつたさうである。橫山の某の物持とは懇意にしてよく遊びに行つた。そして其處の下男に、隙があつたら何時でも俺を打てと約束したさうである。然しどうしてもその隙が無かつたが、或日のこと又藏が主人と畑で立話をして居た、下男は知らぬ顏で傍で麥に肥料を掛けて居た。そして肥料を掛けながら畝を步いて行つて、又藏の足元へ柄杓の先が行つた時、肥料のは入つたま儘パツと脚を打つと、遉がに避ける間がなくて着物の裾を肥料だらけにしたと言ふ。其時許りは俺に油斷があつたと云うて、閉口したさうである。

 此男の娘が、前言うた養子を迎へたのであるが、女に似氣ない[やぶちゃん注:「にげない」。]氣丈夫であつた。或時一人で留守をして居ると、深夜に門を叩く者があつて、大野から來たが一宿賴み度いと言ふ。その言葉に恠しい[やぶちゃん注:「あやしい」。]節があつたので、そつと二階に上つて外をの覗くと、黑裝束の男が九人、手に手に拔身を持つて立つて居た。女房は鐵砲を片手に握つて、只今開けますと言ひながら、開けると同時にドンと二ツ丸を放したさうである。恠しい男達はそれに驚いて、慌てゝ前の坂を駈降りて行つた。中に一人腰を拔かした奴があつた。後から又仲間が引返して來て、其奴を引摺つて行つたさうである。

[やぶちゃん注:「大野」新城市大野。「八名郡大野町」も同じ。]

 その女房は、もうとくに死んださうである。たつた一人血統を繼いだ男の子があつた。もう久しい前であるが雜誌少年世界の記者が、健氣な少年として誌上に紹介した事があつた。小學校を卒業すると間もなく八名郡大野町へ奉公に出て、その翌年かに、主人の子供が川に溺れたのを助けに飛込んで、共に溺れて死んでしまつた。昔を知る老人達の中には、ひどく惜しんで居る者もあると聞いた。然しもう何とも仕樣はなかつた。數年前その一ツ家も、引拂つてしまつたさうである。

[やぶちゃん注:「少年世界」巌谷小波を主筆として明治二八(一八九五)年一月に創刊し、昭和八(一九三三)年頃まで博文館が発行した少年向け総合雑誌。記事を確認出来ないが、これは「健氣な少年として誌上に紹介した」という謂いから見て、この亡き少年のその犠牲的な死を悼んだ記事ではなく、山中の一つ家で猟師の血統を継ぐことを義務としている「健氣」(けなげ)「な少年」の紹介記事ということであろうと私は思う。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十 十二歲の初狩

 

     十 十 二 歲 の 初 狩

 鳳來寺山行者越(ぎやうじやごえ)の一ツ家に、五十幾年の狩人生活を送つて、名代のがむしやら者などと言はれた丸山某は現に生きて居る。行者越は鳳來寺の裏道で、以前は鳳來寺から遠江の秋葉山への道者路に當つて居た。昔、役の小角が開いたと言ふ傳說の地で、或は小角が此處より登る事能はず、引返した跡とも言うて、別に行者返りの名もあつた。鳳來寺へ一里、麓の湯谷(ゆや)へ一里、文字通りの一ツ家であつた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村行者越」この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「秋葉山」(静岡県浜松市天竜区春野町宮川の秋葉山(あきはさん)(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。標高八百六十六メートル)。中世以降の修験道の霊場で天狗信仰の山でもある。山頂近くに火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉大権現の後身である秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称でもある。秋葉大権現は両部神道で秋葉社と秋葉寺の両方があったが、廃仏毀釈によって分離され、秋葉神社上社は秋葉山山頂に、曹洞宗秋葉寺は秋葉山中腹の杉平にある。鳳来寺の東約二十六キロ。

「役の小角」「えんのおづぬ」(「おづの」とも)は奈良時代の山岳呪術者。「役の優婆塞」(えんのうばそく)とも称される。ずっと下って江戸時代の寛政一一(一七九九) 年になって修験道開祖と仰がれるようになり、「神変大菩薩」の勅諡号を受けた。大和国南葛城郡茅原に生まれ、三十二歳の時、葛城山に登って孔雀明王の像を岩窟に安置して草衣木食(もくじき)し、持呪観法して不思議の験術を得たと伝える。また、諸山岳を踏破し、大和の金峯山・大峰山などを開いて修行したが、彼の呪術は世人を惑わすものであるとされ、伊豆に流された。後に許されて京に帰ったが、以後の消息は不明である。山岳信仰と密教とが合流するようになって修験者の理想像とされ、平安時代以降あった一般の信仰を受け、その足跡を伝える説話が全国の霊山幽谷の地に形成されたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「湯谷」現在の新城市能登瀬上谷平(かみやだいら)の湯谷温泉附近。]

 會つて話して居る間にも、昔の狩人はかうもあらうかと思はれる程、一本氣の氣儘さがあつた。而して何物の力をも信じない冷酷さが、言葉の端々に迄感じられた。話の中でも、てんで此方の言ふ事など耳に入れて居ない樣子で、言ひ度い放題を甲高い聲で喋舌つて[やぶちゃん注:「しやべつて」。]居た。生れたのは更に山奧の、北設樂郡黑川在で、今の家へは養子ださうである。

[やぶちゃん注:「北設樂郡黑川」北設楽郡豊根村上黒川・下黒川附近であろう。]

 生家も代々狩人だつたさうである。當人が狩の最初は、十二の年の秋、燒畑の傍で擊つた鹿だつた。初めの丸は尻に中つて惜しくも急所を外れたが、續いて逃げる鹿を追つてゆくと、遙かのタワで犬が止めて居た。そこで泡吹きの大木に身を凭せて、第二發を送ると、鹿は谷に向けて轉がり落ちたさうである。直ぐ後を搜し求めて、藤蔓を取つて橫に背負ひ上げたが、重いのと谷が嶮しくて、上る事が出來ない。仕方が無いので、鹿には上衣を脫いで掛け、自身は谷を上つて歸つて來た。そして遙かに我家を望む處迄來て、立木に上つて枝を叩いて合圖をしたと言ふ。其折家で下男同樣に使つて居た、乞食とも何ともつかぬ男があつて、それが迎ひに來てくれて運んだ。十六貫七百目[やぶちゃん注:六十二キロ六百二十五グラム。]あつたさうである。その鹿を、更に五里隔つた津具(つぐ)村の鹿買ひの處へ、一人で負つて出かけたが、折よく途中で鹿買ひに遇つて取引をした、二兩二分二朱に賣れたと言うて居た。

[やぶちゃん注:「タワ」既出既注。方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。向後は注さないので覚えて頂きたい。

「泡吹きの大木」落葉高木のヤマモガシ目アワブキ科アワブキ属アワブキ Meliosma myriantha。和名は枝を焚き木にすると切り口から泡を吹くからとか、白い花が泡を吹いているように見えることからという説もある。樹高は十~二十メートル。

「津具(つぐ)村」愛知県北設楽郡設楽町津具

「二兩二分二朱」本書刊行は大正一五(一九二六)年で、「五十幾年」を切り上げて六十として「十二」を足して引くと、この猟師丸山某の生まれは嘉永七(一八五四)年以降で、数え十二当時は元治二・慶応元(一八六五)年以降になるので、金単位は腑に落ちる。但し、幕末は激しいインフレが起きているから、一両は現在の約四千円から一万円ほどにまで価値が下落していた。一両=四分、一両=十六朱であるから、高く見積もっても、二万六千五百二十円ほどにしかならない。]

 未だいたいけな十二の年に、十六貫餘の鹿を負つて步く程の者だけに、子供の頃から不敵者で、十七の時には、早家を飛出した。そして山から山を渡り步く内、今の家へ見込まれて養子になつたさうである。若い頃から獲物を追つて、何處とも知らぬ山中に、夜を明した事は、幾度であつたか知れぬ、それで居て更に疲れる事は知らなんだと言ふ。鳳來寺山麓の門谷の人々は、此男が山中で、百貫に餘る巨大な朽木を負うて步くのを、時折見たと言うた。會つて見た感じでは、瘦形のもう六十幾つといふ年配で、異常な體力を備へて居るなどとは思へなかつた。

[やぶちゃん注:「門谷」新城市門谷は鳳来寺を含む広域であるが、「鳳來寺山麓の」とあるので、鳳来寺参道のこの付近(同航空写真)であろう。

「百貫」三百七十五キログラム。]

 一代の間に捕つた獲物は、鹿だけでも幾百を數へて、一冬に六十二の鹿を捕つた年もあつたと言ふ。もう三十年も前の事で、その頃は獵犬のよいのが居たさうである。タカにテジにフジだと、幾度か犬の名を繰り返して聽かせた。中でもテジと謂ふ犬は、一冬に九貫目[やぶちゃん注:三十三・七五キログラム。]以下ではあつたが七ツの鹿を捕つた事があると謂ふ。そして一度手負にすれば、後はそれ等の犬が追かけて肢を噛切つたさうである。熊も七ツ捕つたと語つた、或時大木の高い洞[やぶちゃん注:「ほら」。]に居るのを、一人で登つて行つて、山刀で前肢を叩き切つて斃したと言うた。その折の光景を旅の繪師に描かせたと言うて、粗末な掛軸を出して來て見せてくれた。惡いから默つて何も言はなんだが、功名談とは似もつかぬ、氣の毒な程貧弱な熊と狩人が描いてあつた。

 

2020/03/26

三州奇談卷之四 家狗の靈妙

 

     家狗の靈妙

 犬に三品有り。長喙(ちやうかい)にして能く獵するを「走狗(さうく)」と云ひ、短喙にして能く守るを「吠狗(はいく)」と云ひ、肥大にして膳に供するを「食狗」と云ふ。犬は孕みて三月(みつき)に生ず。上(じやう)婁宿(ろうしゆく)に應じ、下(げ)巽木(そんぼく)に屬す。良犬は神に通じ龍と化すと。其故もあるにや。

[やぶちゃん注:「家狗」「いへいぬ」と訓じておく。

「長喙」口先(上顎と下顎)が長いこと。

「食狗」ウィキの「犬食文化」によれば、「日本」の項より引く。『日本列島では、縄文時代早期から家畜化されたイヌが出現し、縄文犬と呼ばれる。縄文犬の主な用途は猟犬とされており、集落遺跡などの土坑底部から犬の全身骨格が出土する例があり、これを埋葬と解釈し』、『縄文犬は、猟犬として飼育され、死後は丁重に埋葬されたとする説が一般的になっていた』。『しかし、1990年代になって、縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚からは、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土し、特に1点の犬の上腕骨には、解体痕の可能性が高い切痕が確認された』。『岩手県の蛸ノ浦貝塚など全国各地の遺跡から、狸だけでなく犬・狼・狐なども食べられていた事が判明している』。『弥生時代は、稲作農耕の開始に伴い』、『大陸からブタやイノシシなど新たな家畜が伝来し、犬に関しても縄文犬と形質の異なる弥生犬がもたらされる。弥生時代は犬の解体遺棄された骨格の出土例の報告が多くなる。このため、日本に犬食文化が伝播したのは、縄文文化と別の特徴を持つ弥生時代からと見る意見もある。弥生時代に大陸からの渡来人(ここでは弥生人を指す)が日本に伝来し、これに伴い』、『大陸由来の犬食文化と食用の犬が伝来した可能性も考えられている』。『古代には『日本書紀』天武天皇5年(675年)417日のいわゆる肉食禁止令で、41日から930日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食が禁止されたことから、犬を食べる習慣があったことはあきらかである。また、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子供を産んだ母犬の餌に米を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸跡では、貴重な米をイヌの餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米はイヌを太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表した。以後たびたび禁止令がだされ、表面上は犬食の風習を含め、仏教の影響とともに肉食全般が「穢れ」ることと考えられるようになった』。『15世紀に記された相国寺の『蔭涼軒日録』によると、犬追物の後、犬を「調斎」し、蔭涼軒に集まって喫したとある。武士の鍛錬法(場合によっては見せ物にもなった)である犬追物は、広場で放たれた犬を標的として鏑矢で射つものであるが、その後の処理についての記述である。また、犬追物のための犬は、専用に飼育されていたとは限らず、多くは町内や市内といった人間の生活空間の中にいた犬を捕獲することでまかなっていたらしく、それを生業とする専門集団や独自の道具まで存在していた』。『また『建内記』(大日本古記録)には「播磨・美作など山名氏領国で山名一党は狩猟を好んで田畑を踏み荒らし、犬を捕らえ終日犬追い物を射、あるいは犬を殺してその肉を食す」という記述もあり、犬を撃ち殺して食べる習慣があったことをうかがい知ることができる』。『宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』で「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」とあり、また 「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」という記述がある』。『江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、庶民や武家の奉公人には食されていた。17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、「江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。」としている』。『明石城武家屋敷跡内のゴミの穴からは刃物による傷のある犬の骨が発見されている。また岡山城の発掘時には食肉獣の骨の中に混じって犬の骨も出土しており、体の一部分のみ多数出土したことから、埋葬ではなく食用であった可能性がある』。『鹿児島にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた』。『「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり、納置きたる米よくむして飯となり、其色黄赤なり、それをそは切料理にて、汁をかけて食す、甚美味なりとぞ。是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり」』と大田南畝の「一話一言補遺」の「薩摩にて狗を食する事」にある。『アイヌ社会ではイヌの飼育は農業の一部であり、明治政府による同化政策以前は食糧、被服の材料、労働力として利用されていた』とある。

「三月」実際には犬の妊娠期間はもっと短く、六十二日前後である。

「婁宿」インドの占星術を元にした本邦の占星術である宿曜(すくよう)占星術の星宿名。月の周期(白道)を二十七の星宿(本来は二十八宿あるが、牛宿を除いて占うという)と宿道十二宮(西洋占星術の黄道十二宮に似る)に分け、月の状態によって人の性質・吉凶及び吉凶となる日を占うもの。「婁宿」は「たたらぼし」で、西方白虎七宿の第二宿。距星(宿の西端の星)は「おひつじ座β星」に当たる。

「巽木」は陰陽五行説の概念。「巽」は八卦の一つで「☴」であり、「木」は五行のそれ。前とこれにつく「上」「下」は八卦の組み合わせである三本セットで上下に配する上卦・下卦と似たような謂いか。占いには全く興味がなく知りたいとは思わないので、ここまでとする。悪しからず。]

 淺野川茶臼山の麓に、田原善兵衞と云ひて成瀨公の家士あり。此戶外に白狗(しろいぬ)子を產みしを愛(めで)し育しことあり。然るに或夜、白衣の人來りて云ふ、

「此後ろの山裂けて、此邊(このあたり)必ず泥水となるべき應(しるし)近日にあり。早く立退かるべし。吾は恩を蒙れる者故に告げ申す」

と、妻が夢に正しく見えたり。夙(つと)起きて怪(あやし)む所へ、夫喜兵衞屋敷より急ぎ歸りて先(まづ)犬をを尋ねける故、其故を問へば、

「此犬屋敷へ來る事はなかりしが、夜前(やぜん)來りて頻りに吠え、出向へば裾を引きて『外に移れ』と云ふが如し。それ故急に歸れり」

と云ふ。

 妻驚き爾々(しかじか)の夢物語して、夫婦共に立退しは、元祿十二年臘月(らうげつ)二十二日なり。翌廿三日申の刻、茶臼山崩れて淺野川を埋(うづ)め、隣家塚本左内を初め八十五軒打潰し、厭死の男女三拾餘人也。此水材木町迄泥水と成りしを、茨木左太夫・生駒萬兵衞に仰せて是を修させ給ひて、日每に千人を催して、翌年春元のごとし。

[やぶちゃん注:「淺野川茶臼山」卯辰山(うたつやま:標高百四十一メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の別称。南と西の麓を浅野川が北流し、この川畔は金沢の武家屋敷や町人町の繁華なところであったが、近世の浅野川はしばしば氾濫した上、以下に記されるように卯辰山が脆弱な地質であったことから、たびたび山崩れが発生している。

「田原善兵衞」不詳。以下の人名は一部を除いて必要を感じないので注さない。

「成瀨公」恐らくは人持組の成瀬掃部家八千石であろう。徳川家家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)が十七歳で徳川家を出奔し、浅野幸長・小早川秀秋の家臣を経て、前田利常に仕えたのを始祖とする。

「元祿十二年臘月(らうげつ)二十二日」「臘月」は旧暦十二月。グレゴリオ暦一九七〇年二月八日。

「申の刻」午後四時前後。

「材木町」金沢市材木町(まち)。卯辰山と浅野川を隔てた左岸。]

 又享保の末、近江町に長兵衞と云ふ京通ひの者、夜中粟生川原を通るに、白狗一つ來(きたり)てすれまつはる。長兵衞振放し行くに猶支(ささ)へ隔てぬ。

『必ず是(これ)咽(のど)に物の立ちたるなるべし』

と思ひ、頭をひざにのせて、口に手を入れ、大きなる骨を拔きとらせ、懷中の「兼康(かねやす)みがき砂」をぬり付けて去りけるに、狗悅べる躰(てい)にて、寺井迄送

りて別るゝ。其後此長兵衞、晝夜共栗生さへ通れば、此狗でゝ川の間を送りける。

「幾年か斯(かく)の如くなりし」

と語る。

[やぶちゃん注:「享保の末」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。

「近江町」この中央一帯。近江町市場があり、金沢の台所として知られる。

「粟生川原」石川県能美(のみ)市粟生町(あおまち)であろう。手取川右岸の少しと左岸に当たる。「京通ひの」商人と思しいのだから、ここでも何ら問題ない。

「猶支(ささ)へ隔てぬ」なおも、咥えて離さず、去ろうとしない。

「兼康みがき砂」「日本審美歯科協会」公式サイト内のこちらに、「江戸時代の歯磨き」の2として、『文化・文政(18041829)の頃は江戸時代の全盛期であって、歯磨きはおしゃれで粋な「江戸っ子」の間に広く普及し、その数も100種に近かったと言うから驚きである。そのなかで知名度の高かった歯磨きは文化年代』(18041817)『には「おもだか屋歯磨」、伊勢屋兼康』製『「梅見散」、兼康』『製「松葉しほ」、式亭三馬製「箱入御はみがき、梅紅散、井口の歯磨」尾上菊五郎製「匂ひ薬歯磨」など、文政年代(18181829)には、為永春水製「丁字屋歯磨」美濃屋製「一生歯のぬけざる薬」小野玄入製「固歯丹」、萬屋製「含薬江戸香」、式亭小三馬製「助六歯磨」長井兵助製「清涼歯磨粉」百眼米吉「梅勢散」などがある』とある。「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されているから、ここに出る伊勢屋兼康製の歯磨き粉「梅見散」は五十~七十年も前から売られていたらしい。同じページには、『わが国の文献に歯磨という名称が現れたのは寛永20年(1643)に江戸の商人丁字屋喜左衛門が大陸から渡来してきた外人(韓国人)の伝を受けて製したという「丁字屋歯磨」あるいは「大明香薬砂」の商品名で売り出されたのが始まりとされていて、この袋には『歯を白くする、口中のあしきにほひをさる』とその効能が記されている』とあり、「享保の末」が引っ掛かっていたものの、さらに調べた結果、「江戸東京博物館」公式サイト内のQ&Aに(太字下線は私が附した)、『「かねやす」は地名と店名として知られる。地名としては本郷三丁目の兼康横町。『御府内備考』によると、兼康祐悦という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという』。『現在、店は移転し、洋品店となった店舗(文京区本郷2-40-11)脇に説明プレートがある』があるで一件落着した。洋品店「かねやす」(ストリートビュー)!

「寺井」能美市寺井町。粟生の少し南。]

 亦寶永の頃田町に中村長太郞と云ふ人、一疋の黑狗を飼置きたり。力量勝れて、狐狸の類(たぐひ)を多く得て樂(たのし)みとす。且(かつ)朋友の所をよく覺えて、狀箱を首にゆはひつくるに、必ず返書を取來(とりきた)る事、彼(かの)陸郞が蒼狗の如し。或時狼來りて小兒を過(あやま)ち、家じりを掘り、家々大いに恐る。此田町へも町迄入りし事ありしに、此黑狗躍り出で大(おほき)に嚙合しが、終夜人の來り助くるものなかりし故にや、終に嚙殺されてありき。然共狼も頭と手足を喰折(くひを)られ、道に死し居たり。誠に能く戰ひしものと見えぬ。彼畑六郞右衞門が犬獅子と云ふとも能く及ばじ。【此間原本脫寫あるに似たり。】盜賊の折は密(ひそか)に主人を起して出でしが、狼には力の及ぶべしと思ひしや、町はづれに欺かれ出で、數十(すじう)の山犬に取卷かれて、終に死しける。主人憐みて骸(むくろ)を寺へ送り葬れりとぞ。

[やぶちゃん注:「寶永」一七〇四年~一七一一年。

「田町」金沢市天神町(まち)の内と思われる。

「狐狸の類(たぐひ)を多く得て」猟犬として優れていたのである。

「陸郞が蒼狗」中国の故事らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。

「畑六郞右衞門が犬獅子」南北朝時代に新田義貞に仕えた畑六郎左衛門時能(ときよし 正安元(一二九九)年~興国二/暦応四(一三四一)年)。ウィキの「畑時能」によれば、『武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し』、延元三・建武五(一三三八)年、『義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党』十六『騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ』三『千の軍勢を差し向け』、『斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという』とある。引用元には歌川国芳の描いた「武勇見立十二支・畑六良左エ門」の愛犬を連れた絵があり、そのキャプションに、「太平記」には『時能が犬「犬獅子」と「所大夫房快舜」、「悪八郎」の二人の従者とともに足利氏の砦を陥とす物語がある』とある。

「【此間原本脫寫あるに似たり。】」というのは堀麦水の割注であろうから、この話は麦雀の原本にあるものなのであろう。さすればこそ先の時制が妙に古いのも合点が行く。]

 又寬文の頃利常公遊獵の爲飼置きたまひける唐犬異常の剛力(こうりよく)あり。百獸皆恐れて避く。犬引(いぬひき)といへども、良(やや)もすれば手に餘り、人も過(あやま)ちせし事も多かりしに、或日大豆田川原にて、此犬綱を引切り驅出(かけいで)せしに、人々驚き近邊の男女迯迷(にげまど)ひしに、犬は血眼になり、物狂ひの如く猛つて、一文字に增泉の里へ逃げ込しに、二才許の小兒草の上に臥居たりしが、打笑ひ起立(おきたて)り、此唐犬に向ひしに、犬は尾を振りて繋ぐが如く此小兒に隨ひ居たり。犬引共大勢驅來り、悅んで捕へ歸りけり。小兒の父母は死したる者の蘇りたる心地なりき。

 或人曰く、

「百日内の孩子(がいし)には、盜賊も家に入ること能はずと聞きしが、實(げ)に然り」

とて、此趣を大乘寺月舟和尙に尋ねけるに、

「有難き事なり。是(これ)禪機の第一義、盡有佛性如來心なり」

と敎化(きやうげ)ありけるとぞ。

[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年だが、これはおかしい(諸本総て寛文だが)。「利常」=加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年:慶長一〇(一六〇五)年藩主となる)の死後になるからである。恐らく寛永(一六二四年~一六四五年)の誤りであろう。

「唐犬」中国産或いは以前にオランダやポルトガルなどから齎された舶来犬。

「犬引」犬を飼育・調教・捕縛・屠殺するのを生業とする者のことであろう。

「人も過ちせし事」人が襲われること、咬まれることであろう。「も」は「を」がよい。国書刊行会本は『を』である。

「大豆田川原」「まめたがはら」と読んでおく。但し、現在、金沢市大豆田本町があり、それは「まめだほんまち」と濁音である。

「增泉の里」金沢市増泉。大豆田本町の南東一キロほどのところ。

「孩子」広義には「子供」であるが、ここは「幼児」の意。

「大乘寺月舟和尙」現在の金沢市長坂町にある曹洞宗東香山(或いは椙樹林。古くは金獅峯)大乗寺で寛文一一(一六七一)年に住持となった月舟宗胡(中興の祖とされる)。

「盡有佛性如來心」一般には「悉有佛性」で、そのまま「しつゆうぶっしょう」と音読みして訓読しないのが一般的。「涅槃経」の「師子吼菩薩品」に説く「悉有佛性 如來常住 無有變易」(悉(ことごと)く佛性(ぶつしやう)有り 如來は常住にして 變易(へんにやく)有ること無し)でよく知られる。私は道元の解釈を支持しており、彼は「総ての衆生の存在と彼らがいる存在世総てが、これ、仏性なのである。如来は永久に存在して、変化することは永遠にない」とする。]

毛利梅園「梅園介譜」 蝤蛑(ガザミ)

 


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陳懋學事言要玄

  蝤 蛑【カサミ】一名黃甲

 蟹最巨ナル者、殻黃ニ乄而無ㇾ斑、螯(ハサミ)圓而無ㇾ毛

 殻有両尖

 洪容齊四筆、引呂亢臨海蟹圖曰、蝤蛑、

 両螯大而、有細毛如ㇾ苔八足亦皆有ㇾ毛

 福州府志曰、蝤蛑、其螯最健、大ナル者能殺ㇾ人

  蝤 蛑(ユウホウ) 【カサメ ウミガニ

              カサミ

              カミナリガニ 兵庫】

園曰

 嶺表錄異曰蝦魁、漳州府志曰龍蝦、順

 和名抄、及文撰呉都賦曰、擁劔、ホ皆カサミトス、
[やぶちゃん注:「ホ」のような字は「等」の略字。]

 擁劍、俗ニ片爪ガニ、一螯ハ大キク、一螯ハ小シ、テンボウ

 ガニト云、龍蝦、八閩書ニ出ス、伊セヱビ也、蝦魁、八

 虎(大カニ)[やぶちゃん注:左ルビ。]

 蟳(シン)、ノ屬也、蟹種類甚多ク乄、大和本草ニ

 蝤蛑、其形狀甚大也、手ノ長サ一、二尺、有ㇾ節、螯

 ノ長サ、四寸、北国ニアリ、嶋カニト云、松𫝍氏ノ蟹

 譜ニ曰、嶋蟹、則虎蟳也、蝤蛑ハ、カサミ也、虎

 蟳、則シマカニ、蝤蛑ニ非ラズ、猶後人ノ説ヲ、

 待ノミ

 

              癸巳七月廿日

              眞寫

 

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:一部の字空けや、余計な読点を無視、或いは別記号とし、記号を加え、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で施した。約物は正字化した。]

陳懋學(ちんぼうがく)が「事言要玄」に曰くは、

『蝤蛑(ユウホウ)【ガサミ。】一名「黃甲」。

蟹の最も巨(おほ)きなる者、殻、黃にして、斑(まだら)無く、螯(はさみ)、圓(まどか)にして、毛、無く、殻、両の尖(とが)り有り。』と。

「洪容齊四筆」、呂亢(りよこう)が「臨海蟹圖」を引きて曰はく、『蝤蛑、両の螯、大にして、細き毛、有り、苔(こけ)のごとし。八足も亦、皆、毛、有り。』と。

「福州府志」に曰く、『蝤蛑、其の螯、最も健(たけ)くして、大なる者、能く、人を殺す。』と。

  蝤蛑(ユウホウ)【ガザメ・ウミガニ・ガザミ・カミナリガニ(兵庫)】

園、曰く、

「嶺表錄異」に曰く、『蝦魁(カクワイ)』、「漳州府志」に曰はく、『龍蝦』、順が「和名抄」、及び、「文撰」[やぶちゃん注:「文選(もんぜん)」のこと。]の「呉都賦」に曰く、『擁劔(ヨウケン)』、等、皆、「ガサミ」とす。『擁劍』は、俗に『片爪(かたつめ)ガニ』、一(いつ)の螯は大きく、一(いつ)の螯は小(ちい)さし。『テンボウガニ』と云ふ。『龍蝦』、「八閩書(はちびんしよ)」に出だす。『伊セヱビ』なり。『蝦魁』、『八虎蟳(はちこじん/大(おほ)かに)』の屬なり。蟹、種類、甚だ多くして、「大和本草」に『蝤蛑、其の形狀、甚だ大なり。手の長さ一、二尺、節、有り、螯の長さ四寸。北国にあり、「嶋ガニ」と云ふ。』と。松𫝍氏の「蟹譜」に曰はく、『嶋蟹、則ち、「虎蟳」なり。』と。「蝤蛑」は「ガサミ」なり。「虎蟳」、則ち、「シマガニ」、「蝤蛑」に非らず。猶ほ、後人の説を待つのみ。

癸巳(みづのとみ)七月廿日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの毛利梅園自筆の「介譜」のこの画像をそのまま示した。本叙述は梅園自身がやや戸惑って叙述しているように(異様に本文に読点染みたものが矢鱈に打たれているのは、特異点で、そこに梅園の困惑が逆に見える)、明らかに多数の別種のカニ類が混在して叙述されてしまっていると私には読める。但し、図された個体そのものは鉗脚長節(Merus。体部から出る鉗脚の根元(体部と繋がっている座節と自切線のある基座節の上部)から鉗脚の真中の関節までの左右鉗脚の近位部分)に四基の棘があること(同属タイワンガザミ Portunus pelagicus は三基しかない。後の引用を参照)、甲羅の左右が充分に尖っていることと、甲羅の紋様から、明確に、

甲殻上綱軟甲(エビ)綱真軟綱(エビ)亜綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目ワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus

に比定してよい。ガサミの鋏は強靱で強く、挟まれるとなかなか外れず、大型個体では大きな怪我をする(「能く人を殺す」は中文らしく大袈裟であるが、中学時代、友人と釣りに行き、私が釣り上げた二十センチほどのガザミを外そうとして友が親指をガッシと挟まれた。なかなか離さず、どうなることかと思って頭が真白になった。その時の映像を今でもよく覚えている)。そのため、カニながら、挟まれると思いがけない深手を負うことから特に「カニハサミ」と呼び、それが縮約されて「ガザミ」となったとされる。ウィキの「ガザミ」によれば、『甲幅は15cmを超える大型のカニで、オスがメスより大きい』性的二形で、『甲羅の背面は黄褐色だが、甲羅の後半部分や』鉗脚、步『脚などは青みがかっており、白い水玉模様がある。これらは敵や獲物の目をあざむく保護色となっている。腹側はほとんど白色で、毛や模様はない』。『甲羅は横長の六角形を』成し、『前縁にギザギザのとげが並び、左右に大きなとげが突き出している』。鉗脚は『頑丈で、たくさんのとげがあり、はさむ力も強いので、生体の扱いには注意を要する。第』二『脚から第』四『脚までは普通のカニと同じ脚をしているが、第』五『脚は脚の先が平たく変形した「遊泳脚」となっており、これを使って海中をすばやく泳ぐことができる』。『なお、ガザミの』鉗脚『長節(ハサミのつけ根から真ん中の関節までの部分)にはとげが』四『本あるので、よく似たタイワンガザミ』は三本なので、容易に『見分けられる。同じワタリガニ科』(ワタリガニ科 Portunidae)『のイシガニ類』(イシガニ属 Charybdis 或いはイシガニ Charybdis japonica)『やベニツケガニ類』(ベニツケガニ属Thalamita或いはベニツケガニ Thalamita pelsarti『は、甲羅の左右に大きなとげが突き出しておらず、ガザミよりも小型で丸っこい体格をしている』。『北海道から台湾まで分布し、波が穏やかな内湾の、水深』三十メートル『ほどまでの砂泥底に生息する。宮城県では』二〇一一『年まで漁獲量は』十『トン以下で』、『養殖にも失敗していたが、東日本大震災の影響で仙台湾南部に広く泥が堆積したたことで』、二〇一二『年から生息数が急増し』、二〇一五年には五百『トンを記録し』、『全国』一『位となった』。『大きな敵が来ると』、『泳ぎ去るが、普段は砂にもぐって目だけを砂の上に出してじっとしていることが多い。海藻なども食べるが、食性は肉食性が強く、小魚、ゴカイ、貝類など、いろいろな小動物を捕食する』。一方、『敵は沿岸性のサメやエイ、タコなどである』。『大型で美味なカニなので、古来より食用として多く漁獲されてきた。現在では有名な産地が各地にあり、これらの地域では種苗放流も盛んである。ただしガザミはカレイやヒラメ、タイなどの稚魚をよく捕食するので、これらの種苗放流も並行して行われる地域では、お互いに子どもを食い合って競合することとなる』。『ガザミの産卵期は春から夏だが、交尾期は夏から秋にかけてである。交尾期になるとオスメスとも脱皮後に交尾を行い、メスは体内に精子を蓄えたまま深場に移って冬眠する。冬眠から覚めたメスは晩春に産卵し、1mmたらずの小さな卵を腹脚にたくさん抱え、孵化するまで保護する。孵化までには』二~三『週間ほどかかる』。『ガザミ類は年』二『回産卵することが知られ、晩春に生まれた卵は通称「一番子」と呼ばれる。一番子が発生して幼生を放出した後、メスは夏にもう一度「二番子」を産卵するが、これは一番子より産卵数が少ない』。『孵化したゾエア幼生は』一ヶ月ほど、『海中をただようプランクトン生活を送るが、この間に魚などに捕食されるので、生き残るのはごくわずかである。ゾエア幼生は数回の脱皮でメガロパ幼生を経て、稚ガニとなる。稚ガニは海岸のごく浅い所にもやって来るので、甲幅が』三センチメートル『ほどの個体なら砂浜や干潟の水たまりで姿を見ることができる』。『一番子は急速に成長し、秋までに成体となって繁殖に加わるが、二番子がそうなるのは翌年である。寿命は』二~三『年ほどとみられる』。『かつては海産カニといえばガザミのことを指していたほど、一般に知られた食用ガニだった』。『タラバガニなどの種類に比べればやや安価に出回るが、味は美味であり、殻も比較的薄くて食べやすい』但し、『国内産の活きガニは、産地を問わず高値で取引され、特に』三十センチメートル『ほどの体を持つ大型のものは高級品である』。『漁期は晩春から初冬までだが、温暖な西日本では真冬でも漁獲される』。『旬は秋から冬。蟹肉や中腸腺(カニミソ)はもちろん、メスの卵巣(内子)も食用にする。特に、秋から冬にかけての卵巣を持ったメスは格段に美味とされる』。『料理法も多彩で、塩ゆで、蒸しガニ、味噌汁などで食べられる。ただし生きた個体を熱湯に入れると、苦しさのあまり自切して脚がバラバラにもげてしまう。そのため』、普通は『内側腹部にある急所を刺したのちに茹でる、または水のうちから入れるか、輪ゴムや紐などで脚を固定してから料理する。現在は水揚げ直後から、すでに輪ゴムを取り付けている所もある』。『他にも、韓国料理のチゲやケジャン、またパスタ料理の具材といった使い方も知られる』。『主な産地は内湾を抱える地域、たとえば有明海・瀬戸内海・大阪湾・伊勢湾・三河湾などがある(かつては東京湾でもガザミは多く)』獲れ、また、『広く食されていた)』。『こうした沿岸地域ではガザミを観光用食材として売り出している事も多』く、『例えば、有明海西部に属する佐賀県太良町周辺では「竹崎がに」として、九州北東部の豊前海を有する北九州市、行橋市、豊前市等では「豊前本ガニ」』『としてブランド化を図っている。大阪府岸和田市では、だんじり祭の際にガザミ(当地では通常ワタリガニと呼ばれ、ガザミと呼ばれることはまずない)を食べる風習が残る』。『近年、乱獲により』、『日本での漁獲高が減ったことから国産品は高級食材となりつつある。そのため、中国や韓国・東南アジア等からも輸入されている』とある。

『陳懋學「事言要玄」』明の陳懋學(ちんぼうがく:一六一二年に挙人となる)撰の類書(百科事典)。諸書から抜粋し、内容を天集三巻・地八巻・人集十四巻・事集四巻・物集三巻の五部に類纂したもの。万暦四六(一六四八)年序の刊本を山形県「市立米沢図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」のこちらで視認出来る。本引用は最後の「鱗介」にある。ここの下の右のウィンドウから「33冊目」を選び、ページ・ナンバーのウィンドウに「33」を入れると当該ページに行ける。右から4行目下方である。

「蝤蛑(ユウホウ)」この原本の読みは誤りで、「シウバウ」(現代仮名遣「シュウボウ」)でなくてはならない。「蝤」を「ユウ」(歴史的仮名遣は「イウ」が正しい)と読む場合はあるものの、それは「蜉蝤(フイウ(フユウ))」で、これは「昆虫の蜉蝣(カゲロウ)類」を指す語だからである。「蝤」は「蝤蠐(シュウセイ)」で「キクイムシ」・「カミキリムシ「蛑」はガザミの使用以外の単漢字では「根切り虫」や「カマキリ」を指す。なお、現在、日中ともにガザミにこの漢字を当てるが、中国では「梭子蟹」の方が一般的である。「梭子」は梭(ひ)で機織りのシャトルの形(菱形)に似ているからである。

「螯(はさみ)、圓(まどか)にして」先端部が尖らずに丸みを帯びていることを指すか。

「洪容齊四筆」不詳。但し、「中國哲學書電子化計劃」清の陳逢衡撰「竹書紀年集證」の「九」にこの書名が見える。

「呂亢臨海蟹圖」「呂亢」は北宋の進士で、著書に「蟹譜」一巻がある。

『蝤蛑、両の螯、大にして、細き毛、有り、苔(こけ)のごとし。八足も亦、皆、毛、有り』「苔」は「苦」の字に近いが、かく当てた(後祐で私の判断が正しいことが判る)。但し、私はこれはガザミだとは思えない。鉗脚には毛はないからで(後の四脚には下部に櫛状の毛が並びはする)、思うに、少なくとも、ここの叙述によく一致するのは短尾下目イワガニ科モクズガニ属シャンハイモクズガニ Eriocheir sinensis であろう(シャンハイガニは中国の長江及び遼寧省・広東省の湖沼・河川・沿岸域と、朝鮮半島の湖沼・河川・汽水域に棲息する)。

「福州府志」明代の「福州府志萬歷本」の方で、著者不明。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の通り、確認出来た(手を加えた)。

   *

蟳。「埤雅」云、『蝤蛑、其螯最健大者、能殺人。』。

   *

「蝤蛑、其の螯、最も健(たけ)くして、大なる者、能く人を殺す」この叙述では、これをガザミに限定比定することは出来ない。

「カミナリガニ」種子島出身の方の記事に甲女川(こうめがわ)を『下ってすぐの浜ではガザミやカミナリガニ(これも名前は?)が良く採れ』たとあったので、この方はガザミと違う別種を「カミナリガニ」と呼んでおられることが判る。しかし、写真もなく、また他に現在、「カミナリガニ」の名を他の地域に認めないため、正体は不明である。

「嶺表錄異」「嶺表錄」とも。唐の劉恂(りゅうじゅん)撰になる中国南方の風土産物を図入りで説いた風土・物産誌。

「蝦魁(カクワイ)」文字はエビの大きな物の意。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「龍蝦」十脚目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Palinuridae のイセエビ類。

『順が「和名抄」』源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に、

擁劔 本草云擁劔【和名加散女】似蟹色黃其一螯偏長三寸者也。

(擁劔(カサメ) 「本草」に云く、『擁劔は【和名「加散女」。】蟹に似て、色、黃。其の一は、螯、偏に長きこと三寸ばかりなる者なり。)

   *

とあり、これはまずは正しく現在のガザミのようであり、平安期に既にこの和名が一般に広く知られていたことが判る。但し、「其の一は、螯、偏に長きこと三寸ばかりなる者なり」の「偏(いとへ)に」が「扁(ひらた)い」の意ではなく、「偏頗」の意で「一方が通常なのに、対の一方だけがやたらに」長く、の意で読むと、後に私が掲げる別種の可能性を孕んだ表現とも読めてしまう。

「文撰」「文選」は梁を建国した武帝の長子昭明太子が編纂した全三十巻の詩文集。歴代の名文・詩歌八百余りを集めた。中国では文人の必読書で、日本でも飛鳥・奈良時代以降、盛んに読まれた。

「呉都賦」晋の左思が魏・呉・蜀の三国の首都を題材にした十年の歳月をかけて作った作品「蜀都賦」「呉都賦」「魏都賦」の一つ。人気を博し、人々が争って伝写したために洛陽の紙価を高からしめたことで知られる名文である。当該部は、

   *

於是乎長鯨吞航、修鯢吐浪。躍龍騰蛇,鮫鯔琵琶。王鮪偉鯸鮐、鮣印龜鱕䱜。烏賊擁劍、𪓟古侯鼊辟鯖鰐。涵泳乎其中。

   *

で、知られた初唐の李善注本に(「中國哲學書電子化計劃」)、

   *

擁劍、蟹屬也。從廣二尺許、有爪、其螯偏大、大者如人大指、長二寸餘。色不與體同、特正黃而生光明、常忌護之如珍寶矣。利如劍、故曰擁劍。其一螯尤細、主取食、出南海、交趾。

   *

とあって、前に「和名類聚抄」で出したと同じく「偏大」への疑義を除けば、サイズ(唐代の一尺は三十一・一センチメートル)も形状もガザミらしくはある。但し、「其一螯尤細、主取食」というのは、私が次注で示す別種である可能性が頗る高い。李善は広義にともかく鉗脚の目立つカニ類を「擁劍」にひっくるめており、「和名類聚抄」もそれを踏襲しているのではなかろうか?

「一(いつ)の螯は大きく、一つの螯は小(ちい)さし」これは明らかにその形状から、ガザミではなく、熱帯・亜熱帯・温帯地域の河口付近の海岸に巣穴を掘って棲息する短尾下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca のシオマネキ類である。同属は成体のの片方の鉗脚が甲羅と同程度或いはそれ以上に大きくなるのを特徴とする(は両方とも小さい極端な性的二形で雌雄判別は簡単である)。前の「其一螯尤細、主取食」というのは、本邦の有明海で盛んに作られた私の好きな「ガンヅケ」と同じである。本来の「がん漬け」は、主にシオマネキのの大きな鉗脚を塩漬けにしたものであった。現在、有明海産シマネキ(有明海沿岸地方では「タウッチョガネ」(「田打ち蟹」の訛りであろう)「ガネツケガニ」「マガニ」と呼ばれる)は絶滅危惧II類(VU)となっしまい、本邦で売られている「ガンヅケ」のそれは中国産の複数種のカニを丸ごと搗き潰して塩蔵したそれである。さらに以下に出る「デンボウガニ」はシオマネキののことである。これは広い地域で嘗て使われた差別用語「手棒」「てぼう」「てんぼう」で、「指や手首のない人」を指した。いや、我々の世代以上なら、野口英世(本名は清作)一歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い掌が開けなかったのを、皆から「てんぼう」と揶揄された話は誰でも知っていることである。一方のみ巨大化したシオマネキのを片手と換喩した差別異名である。

「『龍蝦』は「閩書」に出す。『伊セヱビ』なり」十脚目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Palinuridae は現在でも中国語で「龍蝦科」とする。「閩書」は明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。但し、イセエビ科イセエビ属イセエビ Panulirus japonicus は本邦固有種で、中国産イセエビ類とは同属或いは近縁属ではあるが、同一種ではない。因みに、インド洋・太平洋沿岸域で稀に捕獲される「龍馬海老」(イセエビ科 Nupalirus 属リョウマエビ Nupalirus japonicus)がいるが、この和名は中国由来ではなく、坂本龍馬に由来する(最初の個体が土佐湾の深海で採取されたためであって、土佐特産でも日本固有種でもない。また、イセエビとは違った形態を持っている別種である)。

「虎蟳(コジン)」中文サイトのこちらの「蟳虎魚贊」という絵を見ると、ガザミ属 Portunus らしい個体が描かれてあり、中文サイトを見ると同属の複数種にこの漢字を当てているから、ワタリガニ・ガザミ類を指す語である。梅園の結論は誤り

「大(おほ)かに」大蟹。

「大和本草」本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が編纂した本草書。宝永七(一七〇九)年刊。明治になって西洋のそれらが本格的に輸入される以前、日本の博物学史に於ける最高峰と言える生物学書・農学書。但し、生物種の同定には誤りが多く、小野蘭山に激しく批判されている。私はブログ・カテゴリ『「貝原益軒「大和本草」より水族の部」』で電子化注を進行中であるが、以下の記載は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蝤蛑(タカアシガニ)」で電子化した通り、異名と足の長大さから、ガザミではなく、短尾下目クモガニ科タカアシガニ(高足蟹)属タカアシガニ Macrocheira kaempferi である。この部分だけは梅園の疑義は正しい

『松𫝍氏の「蟹譜」』思うにこれは、本草学者松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記した「怡顏齋介品」の「上」の「蟹類」であるる。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらと、こちらに「蝤蛑」の記載がある(松岡の死後の宝暦八(一七五八)年の板行本)。訓読して電子化してみる。〔 〕や諸記号・句点は私が附したもの。一字空け部分で改行した。

   *

「本綱」蟹下[やぶちゃん注:頭書。]

蝤蛑【一名「蟳」。】 陳懋學が「事言要玄」に曰く、『蝤蛑、一名黃甲、蟹の最巨なる者、殻、黄にして班無く、螯、圓にして、毛、無く、殻、両尖有り、横出す。「紫蟹」と相類〔あひたぐ〕ふ』〔と〕。

「洪容齊四筆」、呂亢が「臨海蟹圖」を引〔きて〕曰く、『蝤蛑、両螯大にして、細毛有り苔のごとく、八足亦た皆毛有り』〔と〕。

「福州府志」に曰く、『蝤蛑、其の螯最も健、大なる者能く人を殺す』〔と〕。

〇達按ずるに蝤蛑俗に「ガサミ」と呼ぶ。肉多く味美なり。脚を折れは[やぶちゃん注:「ば」。]白(しろ)き硬(かた)き筋あり。是を食へは虚弱を補ひ筋骨を強くす。其の殼(から)を戸上に掛けて疫(ゑき)を避くと。「事言要玄」に『蝤蛑毛無し』と云へり。

   *

これを見ると、「梅園先生、孫引きされましたね?」と言いたくなる。「其の殼(から)を戸上に掛けて疫(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])を避く」というのは、鬼面邪を驚かす式で、民俗社会に於いて腑に落ちる風習ではないか。

「癸巳(みづのとみ)七月廿日」天保四年癸巳。グレゴリオ暦一八三三年九月三日。]

2020/03/25

三州奇談卷之四 異類守ㇾ信

 

     異類守ㇾ信

 長(ちやう)氏長谷部家は、信連(のぶつら)より連綿として、連龍の武名北國に高く、今、加州公の家臣として三萬三千石所領也なり。此家の事、別書に委しければ略す。但此家、別家に變りし事多し。第一放鷹を禁ず。是又故ありとぞ。其上(そのかみ)信連戰場(いくさば)にて途(みち)に迷ひ粮(らう)盡たりし時、野狐來て路を敎へ、終に食を求めて功を立られし謂れとて、今も長の家には狐を養ひ、五口の扶持を當て日每に喰はしむ。故に是を勤(つとむ)る奴僕もあり。

[やぶちゃん注:「長氏長谷部家」「信連」既出既注。能登の地頭であった長谷部信連(?~建保六(一二一八)年)。ウィキの「長谷部信連」によれば、右馬允長谷部為連の子で長氏の祖。『人となりは胆勇あり、滝口』の武士として『常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年に『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」に拠る)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』。間違ってはいけないのは長谷部氏が本来の姓で、長氏はその後裔が名乗ったものであることである。

「連龍」長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった。ウィキの「長連龍」によれば、『主家・畠山家の滅亡の後に、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯』四十一『回の合戦に参加して勇名を馳せた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 延享[やぶちゃん注:一七四四年~一七四八年。徳川吉宗・家重の治世。]の頃、祕藏の鶉(うづら)を喰殺せし事あり。

「定めて狐の所爲ならん」

と、殊更に主人腹立して、五口の食を取揚げられしに、翌日狐の老(おい)たる者一疋出て、一つの若狐を嚙殺して是を捧げ、庭にうづくまりで罪を待つ者の如し。

 主人此躰(てい)を見て、

「今は赦すべし」

とありしに、首をさげながら退き去(さり)しとかや。狐は靈獸なり。和漢に其ためしを聞くことも多し。さもあるべきことなり。

[やぶちゃん注:「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウィキの「ウズラ」によれば、『家禽化は日本発祥のもので家禽ウズラの飼養は』六百『年前にまでさかのぼ』り、古くは食用(焼き鳥や卵の利用)としたが、『日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされ』、「言継卿記」に『記述があ』り、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されたとされる』。『その吉兆の声で士気を高めるため、籠に入れた飼育状態のまま、戦場に持ち込まれたこともあった』。また、『中世には武士階級の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が盛んにおこなわれた』。『おおむね桃山時代にはじまり』、『特に江戸時代には都市部では飼育がブームとなり』、『大正時代まで行われた』。最盛期は慶長から寛永年間(一五九六年~一六四五年)或いは明和から安永年間(一七六四年~一七八一年)とされる。『江戸時代には財産のある武士や商人は』、『良き鶉を高値で売買し、飼育の籠に金銀螺鈿の蒔絵細工を施し、高価な木材と高度な技術を追求したような贅沢な逸品を競い求めた。鶉合わせには多数の庶民も見物に集まり、関脇・大関などいわゆる『番付表』によるランキングも発表された。これにより飼育ブームはますます過熱し贅沢も追及され、幕府による取締りも行われた』。『明治時代にも各地で鳴き声を競う催しが頻繁に開かれたが、この起源となったナキウズラ』(学名不詳)『は絶滅してしまった』とある。]

 彥三町(ひこそまち)に大野仁兵衞と云ふ人あり。寶曆巳六月半(なかば)炎暑を苦しみて、宵の程は端居して冷風を待ちけるが、深更になりければ、寢所に入りて休みけるに、若黨あはただしく次の間へ參り、

「伺ふべき事あり」

といふ。呼入れて子細を尋ぬれば、

「私只今怪しき夢を見侍る。今日の暮私部屋の梱(かうり)[やぶちゃん注:「行李」に同じい。]の上に蜈蚣(むかで)あり。大(おほい)さ尺にも過ぎぬべし。是を捕へてかたく紙に包み、庭に捨たり。然るに只今夢中に衣冠の人來り告(つげ)て曰く、

『我は多聞天の眷屬也。今日天王の勅を蒙り、諸方に使(つかひ)する所、ふと君が爲に縛られたり。若(もし)爰(ここ)にせずとも、數刻延引に及ばゝ、公命罪遁るべからず。されば使命を速にするを以て譽れとす。何卒今日のとらはれを解いて放ち給へ。明日は必(かならず)爰に來(きたつ)て罪を請(こひ)けん』

と云ふと見て夢覺めたり。餘り怪しく存じ告げ申すなり」

といへば、大野氏もをかしく思ひながら、

「左樣の覺もあらば、急ぎ其蜈蚣を尋ねて放ち遣すべし」

と云ひて、又休みける。

[やぶちゃん注:「彥三町」金沢市彦三町(ひこそまち。グーグル・マップ・データ)。

「大野仁兵衞」不詳。加賀藩士に大野姓は複数いる。

「寶曆巳六月半(なかば)」宝暦十一年辛巳(かのとみ)は一七六一年。この年の旧暦六月中旬はグレゴリオ暦の七月中旬に一致する。

「多聞天」天部の武神毘沙門天。持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数える際には多聞天として表わされる。毘沙門天の使者としては虎が知られるが、本来は百足ともされる。サイト「神使像めぐり」の福田博通氏の「毘沙門天の百足(むかで)」を見られたい。多数のムカデを描いたケースが画像で見られる。]

 翌日、主從共に事に取紛るゝにより思ひも出(いだ)さず過ぎぬ。夕暮方彼(かの)若黨、又あはたゞしく來り、

「放ちしむかで又來(きた)れり。急ぎ見給へ」

と云ふに、誠しからざれども[やぶちゃん注:本当のこととは信じようもなかったが。]、立出で是を見るに、何樣(いかさま)普通に越えたる蜈蚣の、棚の上に蟠(わだかま)り居て、實(げ)にも刑を待つけしきにて、少しも動かず。

 主人初めて驚嘆し、

「纔(わづか)に小蟲といへども、能く信を守り再び來るこそ怪しけれ。誠に靈妙なり。放と遣すべし」

と捨てさせしとなり。

 又香林坊(かうりんばう)の下に矢田(やた)養安と云ふ醫師ありしに、此庭に見事なる楓の大木ありて、春は所々より寄接(よせつ)ぎとて、鉢植などを賴來(たのみきた)り、樹上にゆはへて接木(つぎき)にして遣はしけり。此所(このところ)は惣構(さうかまへ)の藪の邊(ほと)りにして、蝙蝠の殊の外多き所なり。

[やぶちゃん注:「香林坊」金沢市香林坊(グーグル・マップ・データ)。江戸時代より商人町として栄えた。

「矢田養安」「加賀藩史料」の「泰雲公年譜」に名が載る。また、「加能郷土辞彙」に矢田(やた)良桂という加賀藩外科医(百五十石)が載り(享保元(一七一六)年没)、『子孫周傳・養安・周伯』・『恒之等相繼いだ』とある。]

 或日大名方より接木を賴まれし程に、殊更に念を入れ、枝の上六尺許高(たかき)に接(つぎ)置きしに、一二日の内に大きなる蝙蝠飛來りて、此枝に

「ぶらり」

と下りしに、枝痛みて接目ゆるみ見えければ、大きに驚き、几(つくえ)を立て、夕暮の闇紛(やみまぎ)れながら、竹箒(たけばうき)を以て

「はた」

と打ちければ、蝙蝠は庭に落ちけるを、重(かさね)て打殺さんと振上げしが、

『思へば是のみにも限らず』

[やぶちゃん注:『緩んだのは、この蝙蝠だけのせいとは限るまい』。]

と思ひ、落したる蝙蝠の羽を持ちて引提げ、

「汝よく聞べし。接木は大名家より預りたれば、我(われ)命にかへて守る所なり。汝他の枝に下(さが)る時は、何の害かあらん。此鉢木の枝は接目甚だ危し。汝が徒(と)是に下る時は、幾度にても命を取り、遂には殘らず網して取り盡すべし。かまへて能く辨(わきま)へよ」

と宣命して放ち返しける。

 我ながら一笑して臥しけるに、其翌日より多くの蝙蝠來(きた)るとも、接木に留(と)まる事なし。初の程は

『何條(なんでふ)さはあるまじ』

[やぶちゃん注:『いくら何でも先の命令を守っているわけはあるまい』。]

と思ひしに、後々數萬の蝙蝠來(きた)る時も、他の枝に下りて終に寄接(よせつぎ)の枝に下(さがる)ことはなかりしと。

 自ら放されし螻蟻(ろうぎ)が、牢の土を掘りて恩を報ぜしことも諸書に見えたり。然らば微物(びぶつ)といへども、信有ること疑ひなし。今の人心是にしも恥ざるべけんや。

[やぶちゃん注:「螻蟻」ケラとアリ。彼らが「牢の土を掘りて恩を報ぜしことも諸書に見えたり」とはあり得そうな話ではあるが、私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 九 鹿擊つ狩人

 

     九 鹿 擊 つ 狩 人

 もう五十年も前に死んだが、東鄕村出澤の鈴木小助と言ふ男は、名代の鐵砲上手であつたと謂ふ。屋敷の前の柿の木には、いつも鹿の二ツ三ツは吊してある程だつた。或時家の緣先に居て、二ツの鹿を一度に擊ちとめた事があつた。朝未だ床の中にうとうとして居ると、前に起きた女房が、早向ふの道を引鹿が通ると呼ぶ聲に、ムツクリ起上るか否や、枕元の鐵砲を取つて緣先へ出ると、如何にも見事な雄鹿が二ツ後になり先になりして、谷向ふを、谷下村へ越す道を登つて行つた。その鹿が二つ重なり合つた時を待つて、打放した彈が見事に手前から後ろの鹿を筒拔けに斃したと言ふのである。

[やぶちゃん注:「五十年も前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治九(一八七六)年頃。

「東鄕村出澤」複数回既出既注であるが、「出澤」は「いざは」と読み、現在の新城市出沢(いざわ)(グーグル・マップ・データ)。

「引鹿」「ひきじか」は夜間に山から里方へ下りて餌を漁った鹿が明け方に山へ戻ることを言う。

「谷下村」「やげむら」。スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、「出澤」の南に「谷下」の地名が見える。現在の出沢地区にも「根岸谷下」(グーグル・マップ・データ航空写真)の地名が残るが、山中であるから、恐らくは現在の新城市浅谷(あさや)「谷下新田」(グーグル・マップ・データ航空写真)の出沢以南の周辺広域であろう。スタンフォード版では「谷下」地区の南に「淺谷」の地名がある。]

 小助は名の如く體は至つて小さかつたが、鐵砲は名人であつたと言うて、今に噂が殘つて居る。猪鹿買ひが獲物拂底の折は、必ず小助の家へやつて來て、上り端へ寢込んださうである。すると澁々支度をして出かけたが、出かけ端に、若し鐵砲が鳴つたら、その方へ迎ひにお出でと言ふのが癖だつた。曾て一度も其言葉に誤りは無かつたさうである。小助も鐵砲上手に違ひなかつたが、獲物も又餘計に居た事も事實だつた。

[やぶちゃん注:「上り端」「あがりは(ば)な」。家に上がってすぐの所。

「出かけ端」「でかけばな」。出かける時。]

 小助が鐵砲上手の話は未だあつた。その頃村の梅の窪と言ふ所に、性惡る狐が棲んで居て、時々村の者を惱ましたさうである。その狐が、小助の鐵砲ならチツトモ恐しくないと嘲つたさうである。そして小助の老母に取憑いて、どうしても離れなんだ。これには遉がの小助も弱つてしまつた。そこで或時鐵砲に紙丸[やぶちゃん注:「かみだま」。]を詰めて、一發天井に向けて放して置いて、今度は眞丸[やぶちゃん注:「ほんだま」。]で擊つと嚇したさうである。それには狐が閉口して、明日の朝は間違ひなく出て行くからと、誓ひを立てたさうである。そんなら確かな證しを見せよと掛合つて、行掛けに屋敷向ふの谷下村へ越す途中で、片肢上げて相圖をする約束をさせた。その代り擊つてくれるなと狐が念を押したさうである。承知して朝になるのを待つて居た。翌朝早く起きて屋敷から見て居ると、如何にも谷下村へ越す坂を、狐が一匹ブラリブラリ登つて行つた、その内恰度屋敷の正面邊りへ來た處で、如何にも片肢上げて相圖をした。其處をドンと一發欺し擊ちに擊つてしまつたと言ふ。

 此小助の兄弟であつたか、或は親類であるか判然記憶せぬが、長篠村淺畑(あさばた)に、某音五郞という狩人があつた。鹿狩には矢張り名代の剛の者であつたと言ふ。格別逸話としては聞かなんだが、或朝起きて戶を明けると、表の眞中に巨きな山犬が坐つて、口を開いて何やら嘆願する樣子であつた、傍へ寄つて口中を檢めて[やぶちゃん注:「あらためて」。]見ると太い骨が咽喉に立つて居る、それを除いてやると、嬉しさうに尾を振つて立ち去つた、そして翌朝になると見事な大鹿が、門口に持つて來てあつた。猪の話の中にも言うた山犬の報恩話の一ツである。

[やぶちゃん注:「梅の窪」不詳。前にも述べたが、出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名がある(航空写真)。

「長篠村淺畑(あさばた)」スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、旧「鳳來寺口驛」、現在の本長篠駅から少し東北へ行った宇連川右岸に「淺畑」の地名が見える。現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)である。

「猪の話の中にも言うた山犬の報恩話」「四 猪垣の事」参照。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 八 鹿に見えた砥石

 

     八 鹿に見えた砥石

 姬女郞の仕業かどうかは知らなんだが、丸山某の狩人が明治二十年[やぶちゃん注:一八八七年。]頃の事、鳳來寺山續きの、長篠村柿平(かきだひら)の山で、仲間二人と追出して擊つた鹿は、確かに右の後肢を傷つけたと言ふ。後肢を引摺りながら、山から谷へ、雪の眞白に降積つた上を、村の卵塔場を拔けて走り去る姿を明らかに見屆けた。それにも拘らず後には肢跡こそあれ一滴のノリ(血)も零れては居なかつた。脂肪の多い猪には間々ある事だつたが、鹿には甞て無い不思議であつた。遉がに仲間の一人は 怖氣づいて、再び追ふ事を肯かぬ[やぶちゃん注:「きかぬ」。]ので、そのまゝ遂に見遁したと言うた。然しどうしても諦められず、翌日更に狩出して、見事胴中を擊つて仕止めたと言うた。前日擊つた丸を調べると膝の骨を打碎いて居たが、如何にも血の流れた樣子は無かつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「長篠村柿平」スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、現在の柿平駅附近に「柿平」があり、「鳳來寺山續き」とあるから、その北の山(グーグル・マップ・データ航空写真)である。

「卵塔場」「卵塔」は本来は僧侶の丸みを帯びた無縫塔を指すが、ここは単に墓地の意である。]

 同じ男が或年の十二月、八名郡七鄕村名號(みやうご)の山で擊つた鹿は、僅か七貫目[やぶちゃん注:二十六・二五キログラム。]に足らぬ雄鹿であつた。それが時ならぬに雪よりも白い斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が肌に現はれて居たと言うた。これも山の不思議であつたが、實は何でも無い病ひ鹿で、夏毛のまゝ毛替りのせなんだ迄であると言ふ。丸山某は、名代のがむしやら者だつたのである。

[やぶちゃん注:「八名郡七鄕村名號」「七鄕村」は既出で「ななさと」と読む。先のスタンフォード大学の「三河大野」の柿平の東の、宇連川左岸に地名が打たれてあり、現行も新城市名号として旧柿平対岸の広域地名である(グーグル・マップ・データ航空写真)ことが判る。

「名代の」「なだいの」。評判の。]

 敢て不思議でも何でも無かつたが、某の男が鳳來寺村の淸澤の谷で擊つた鹿は、二匹捕つてそれが揃つて、見事な四ツ又の角を戴いて居たと言うた。鹿の角は三ツ又を限りとしてあつた。形こそ變つた物はあつても、完全に四ツ又に岐れた物は、珍しかつたのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村の淸澤の谷」不詳。]

 話は丸で違つて居たが、山の不思議を一段と具體化した話が、本宮山(ほんぐうさん)の口碑にあつた。本宮山は鳳來寺の西南方に當つて、豐川の西岸に聳えて居た高山である。頂上に國幣小社砥鹿[やぶちゃん注:「とが」。]神社の奧宮があつた。祭神は大己貴命であるが、別に天狗だとも謂うた。或時麓に住む狩人の一人が、鹿を追うて山中にわけ入つて、最初の鹿は遂に見失つたが、別に谷を隔てゝ一頭の大鹿の眠れるを見出した。直に矢を番へて放したが更に手應へは無かつた。幾度やつても同じなので、不審に思つて近づいて見ると、實は鹿と見たのは大なる砥石であつた。その時忽ち神意を感じて、その砥石を神として祀つたと言ふ。或は鹿に化けて居た天狗の話(拙著「三州橫山話」參照)などと、關係ある話かとも思はれる。

 本宮山には、以前は澤山の鹿が居つたもので、而も此處に產した鹿は、他に比べて遙かに大きかつた。俗に本宮鹿と言うて、特種だつたのである。三又の鹿なら普通十七八貫はあつた。一番と言へば先づ二十貫處が標準であつた。食物の關係で斯く大きかつたと言ふ。角振と言ひ姿と言ひ、申分の無い鹿だつたさうである。

[やぶちゃん注:「本宮山」「鳳來寺の西南方に當つて、豐川の西岸に聳えて居た高山」愛知県豊川市上長山町にある本宮山(ほんぐうさん:グーグル・マップ・データ地形図)。七百八十九メートル。早川氏の実家のあった横山(鳳来寺の南西の山麓)からは西南西に十二キロほど離れる。

「砥鹿神社の奧宮」本宮山山頂の少し南の長山町本宮下にある三河國一之宮砥鹿(とが)神社奧宮(グーグル・マップ・データ航空写真)。里宮は豊川市一宮町西垣内にある(グーグル・マップ・データ)。但し、公式サイトの里宮の歴史には、『「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある』「とが」は現在の社名の「砥鹿」と同音である)。『そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河 国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正二年)は次の様に伝えている』。『文武天皇の大宝年間[やぶちゃん注:七〇一年~七〇四年。]に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣[やぶちゃん注:「くさかどきんのぶ」。この使者の名も社名の由来とするものである。]卿が勅使として「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を取り上げて、七重の棚を作り』、『七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥三年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観十八年には従四位上に至った。こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである』。『その後江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、文政十年に正一位が授けられ、また明治四年には国幣小社筆頭に列せられた』とあって、社名とここに語られる里俗の伝承は交わるところが全くない。鹿の形をした砥石説は民俗社会で独自に形成されたものと思われる。

「大己貴命」「おほなむちのみこと」。大国主命の別称。底本では「大已貴命」(改訂版も同じ)であるが、誤植と断じて特異的に訂した。

「番へて」「つがへて」。

「鹿に化けて居た天狗の話(拙著「三州橫山話」參照)」「三州橫山話」は早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川)を中心とした民譚集。これは、既に掲げた早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページの、「三州橫山話」の中の「天狗の話」四話の中の第二話「鹿に化けていた天狗」であろう。リンク先のそれはPDFであるので以下に転写しておく(新字新仮名)。

   *

 某という猟師が、朝早く本宮山へ鹿を撃ちに行くと、行く手の大きな岩の上に、一頭の大鹿が眠っているので、早速丸ごめをして、狙いを定めて撃ったところが、さらに感じないで、鹿は相変わらず眠っているので、次から次と、六発撃っても何の手応えもないので、不審に思って、黄金の丸を出して撃とうとすると、そのときまで眠っていた鹿が、むくむくと起き上がったと思うとたちまち鼻の高い老人になって、さっきからの丸はみんなここへおくから、どうか命は助けてくれと言って、掌に持っていた丸をみんな岩の上において逃げていったという話を、出沢村の鈴木戸作という男から聞きました。

   *

「十七八貫」六十三・七五~六十七・五キログラム。

「二十貫」七十五キログラム。]

2020/03/24

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 鶴飼橋に立ちて

 

 鶴 飼 橋 に 立 ち て

 

 (橋はわがふる里澁民の村、北上の流に
 架したる吊橋なり。岩手山の眺望を以て
 鄕人賞し措かず。 春曉夏暮いつをいつ
 とも別ち難き趣あれど、我は殊更に月あ
 る夜を好み、友を訪ふてのかへるさなど、
 幾度かこゝに低回微吟の興を擅にしけむ。)

 

比丘尼(びくに)の黑裳(くろも)に襞(ひだ)そよそよ

薰(くん)ずる煙の絡(から)む如く、

川瀨(かはせ)をながるる暗の色に

淡夢心(あはゆめごゝろ)の面帕(おもぎぬ)して、

しづかに射(さ)しくる月の影の

愁ひにさゆらぐ夜の調(しらべ)、

息(いき)なし深くも胸に吸(す)へば、

古代(ふるよ)の奇琴(くしごと)音をそへて

蜻火(かぎろひ)湧く如、瑠璃(るり)の靄(もや)の

遠宮(とほみや)まぼろし鮮(さや)に透(す)くよ。

 

八千歲(やちとせ)天(あめ)裂(さ)く高山(たかやま)をも、

夜(よ)の帳(ちやう)とぢたる地(つち)に眠る

わが兒(こ)のひとりと瞰下(みおろ)しつゝ、

大鳳(おほとり)生羽(いくは)の翼あげて

はてなき想像(おもひ)の空を行くや、

流れてつきざる『時』の川に

相嚙(あひか)みせめぎてわしる水の

大波浸(をか)さず、怨嗟(うらみ)きかず、

光と暗とを作る宮に

詩人ぞ聖なる靈の主(あるじ)

 

見よ、かの路なき天(あめ)の路を

雲車(うんしや)のまろがりいと靜かに

(使命(しめい)や何なる)曙(あけ)の神の

跡追ひ驅(か)けらし、白葩(しらはなびら)

桂の香降(ふ)らす月の少女(をとめ)、

(わが詩の驕(おご)りのまのあたりに

象徵(かたど)り成りぬる榮(はえ)のさまか。)

きよまり凝りては瞳の底

生火(いくひ)の胸なし、愛の苑(その)に

石神(せきじん)立つごと、光添ひつ。

 

尊ときやはらぎ破らじとか

夜の水遠くも音沈みぬ。

そよぐは無限の生(せい)の吐息、

心臟(こゝろ)のひびきを欄(らん)につたへ、

月とし語れば、ここよ永久(とは)の

詩の領(りやう)朽(く)ちざる鶴飼橋(つるがひばし)。

よし身は下ゆく波の泡と

かへらぬ暗黑(くらみ)の淵(ふち)に入るも

わが魂(たま)封(ふう)じて詩の門(と)守る

いのちは月なる花に咲かむ。

           (甲辰一月二十七日)

 

   *

 

 鶴 飼 橋 に 立 ち て

 

 (橋はわがふる里澁民の村、北上の流に
 架したる吊橋なり。岩手山の眺望を以て
 鄕人賞し措かず。 春曉夏暮いつをいつ
 とも別ち難き趣あれど、我は殊更に月あ
 る夜を好み、友を訪ふてのかへるさなど、
 幾度かこゝに低回微吟の興を擅にしけむ。)

 

比丘尼の黑裳(くろも)に襞そよそよ

薰る煙の絡む如く、

川瀨をながるる暗の色に

淡夢心(あはゆめごゝろ)の面帕(おもぎぬ)して、

しづかに射しくる月の影の

愁ひにさゆらぐ夜の調、

息なし深くも胸に吸へば、

古代(ふるよ)の奇琴(くしごと)音をそへて

蜻火(かぎろひ)湧く如、瑠璃の靄の

遠宮(とほみや)まぼろし鮮(さや)に透くよ。

 

八千歲(やちとせ)天(あめ)裂く高山(たかやま)をも、

夜(よ)の帳とぢたる地(つち)に眠る

わが兒のひとりと瞰下(みおろ)しつゝ、

大鳳(おほとり)生羽(いくは)の翼あげて

はてなき想像(おもひ)の空を行くや、

流れてつきざる『時』の川に

相嚙みせめぎてわしる水の

大波浸さず、怨嗟(うらみ)きかず、

光と暗とを作る宮に

詩人ぞ聖なる靈の主

 

見よ、かの路なき天(あめ)の路を

雲車のまろがりいと靜かに

(使命や何なる)曙(あけ)の神の

跡追ひ驅けらし、白葩(しらはなびら)

桂の香降(ふ)らす月の少女(をとめ)、

(わが詩の驕(おご)りのまのあたりに

象徵(かたど)り成りぬる榮(はえ)のさまか。)

きよまり凝りては瞳の底

生火(いくひ)の胸なし、愛の苑に

石神(せきじん)立つごと、光添ひつ。

 

尊ときやはらぎ破らじとか

夜の水遠くも音沈みぬ。

そよぐは無限の生(せい)の吐息、

心臟(こゝろ)のひびきを欄につたへ、

月とし語れば、ここよ永久(とは)の

詩の領(りやう)朽ちざる鶴飼橋(つるがひばし)。

よし身は下ゆく波の泡と

かへらぬ暗黑(くらみ)の淵に入るも

わが魂封じて詩の門(と)守る

いのちは月なる花に咲かむ。

           (甲辰一月二十七日)

[やぶちゃん注:初出は『時代思潮』明治三七(一九〇四)年三月号の総標題「深淵」の第一篇。「浸(をか)さず」の「を」はママ。前書の一部の句点の後の字空けは見た目の再現である。

「鶴飼橋」ここにある北上川に架橋する三本の橋が現在は総て「鶴飼橋」である(グーグル・マップ・データ)。当時は木橋。一般には渋民運動公園と渋民公園を結ぶ東側の鋼鉄製の吊り橋(ストリート・ビューのポイント写真)が啄木所縁のそれとする。スタンフォード大学の大正元(一九一二)年測図昭和一四(一九三九)年修正版參謀本部「沼宮内」の地図で見ても、確かにこの吊り橋附近に架かっていることが判る。但し、この吊り橋の西八十メートルほど下流の自動車優先橋(ストリート・ビューの北詰橋名プレート画像)と歩行者専用の細い橋の二本も「鶴飼橋」である。明治四一(一九〇八)年十一月一日から十二月三十日に『東京毎日新聞』に連載(全六十回)された啄木の初めての新聞小説「鳥影」(リンク先は「青空文庫」の正字正仮名版)の舞台でもある。]

三州奇談卷之四 妙慶の諍論

 

    妙慶の諍論

 寺町妙慶寺は淨土宗の内にて、博識の住侶おはせしが、江州在原の正法院より爰へ入院ありし愍譽(みんによ)和尙は、わけて道學名高き人なりしが、元文五年の春の頃より疾病次第に重り、終に四月四日圓寂ありし。後住の事は遺言に任せて、先住の弟子喬純長老關東に在しを迎へんとて、兩塔頭養壽院、寶珠院、此義を檀那中へふれ廻し、頓て關東へも申遣しける。

[やぶちゃん注:「諍論」(じやうろん(じょうろん))は論争。

「寺町妙慶寺」現在の金沢市野町にある安養山妙慶寺。サイト「日本伝承大鑑」の「妙慶寺」に詳しいので参照されたい。地図もある。

「江州在原の正法院」現在の滋賀県高島市マキノ町在原(ありはら)にある歌学山正法院。地図を見ると判る通り、近くに伝在原業平の墓があり、地名は彼由来である。

「愍譽和尙」この名の浄土僧には福岡の浄土宗大圓寺の大仏を発願した人物がいる。大圓寺公式サイトのこちらに、『江戸時代の中期、大圓寺に第9代愍誉(ミンニョ)上人という方が在住して居られました。まだ子供のころによく遊んだ藤崎にある千眼寺の大きな仏像に感銘を受けて、そのころから大仏様造立の志を立てられたと伝えられています。第8代清誉上人によって得度された愍誉上人は、僧侶の道を歩かれるようになりました。地元での修行、江戸での遊学修行中も各地を巡しゃくして、大きな仏像がまつってあると聞けば必ず参詣されたと伝えられています』。『愍誉上人は、各地の寺院の住職を経て、やがて大圓寺の住職になられました』(リンク先ではそれを宝暦一四(一七六四)年と記す)。『住職になられてからは、いよいよ大仏様造立の志が固まっていったようです』とあって、以下、詳しい経緯が語られてあるのだが、残念ながらこの僧ではない。何故なら、本文では「元文五年」一七四〇年に「圓寂」したと明記するからである。当初、同じ浄土宗内で同じ上人号を持つ別人がいるというのは不審なので、何か錯誤か、名前の表記に誤りがあるのかも知れないとも思ったが、「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教」の「第十節 佛教」に「妙慶寺後住問題」があり(「ADAEAC」のこちらより引用)、

   *

元文五年淨土宗妙慶寺の後住問題に關して爭議あり。妙慶寺は常に宏徳の住する所なりしが、特に江州正法院より入りたる愍譽は、道學の聲名頗る高かりき。然るにこの年四月愍譽圓寂せしを以て、塔頭養壽院と寶珠院とはその遺言に從ひ、愍譽の門下にして現に關東に在りし喬純長老を迎へて後住たらしめんとせしが、檀頭松平外記彼等の意に從はず、先々住の徒弟にして江戸の傳通院に在りし卓印長老に書を與へて之を招けり。既にして卓印金澤に至りしに、豈計らんや後住の喬純に決したる後に在りき。卓印因りて養壽・寶珠二院を恨み、曾て外記より得たる書を添へて之を觸頭たる如來寺に出訴せり。是より兩黨相軋轢せしが、翌年に及び國老の裁斷により、喬純を佳職[やぶちゃん注:「住職」の誤字であろう。]とし、兩塔頭の主僧を退隱せしめ、檀那中の一二に轉寺を命じたりき。因りて寶珠院は去りて洛に赴き、養壽院は白山比咩神社に近き手取川の安久濤淵に投じて死せり。

   *

と記すので同名異人である。以上は本篇の内容をフライングしてしまうが、事実として確認するために敢えて載せた

「喬純長老」「きょうじゅん」(現代仮名遣)と読んでおく。前の引用に出るが、詳細事蹟不詳。

「養壽院」「寶珠院」個人ブログ『植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」』の「◇寺町寺院群巡り―17(完)浄安寺、妙慶寺、成学寺、常徳寺」妙慶寺の項に、『宗良親王(佛眼上人明心法親王)が、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に一の字の草庵を結び、仏門に入り安養山極楽寺と号したことに始まる。開山は、寂蓮社城誉円阿であり、もと越中射水郡牧野村安養山極楽寺の僧であった。天正十三年(1585)前田利家が越中国(富山県)の佐々成政と戦った時、松平康定は牧野村極楽寺を本陣にした。当時前田利家の家臣であった康定は佐々の敗北後は後の二代藩主利長の家臣となり、極楽寺を康定の菩提所としていた。康定が越中から金沢に移ったのに伴って、金沢へと寺を移した。当初、極楽寺は康定の屋敷内にあったが、康定の母・妙慶尼の菩提寺に取り立てられ、寺号も妙慶寺と改めて、元和元年(1615)、三代藩主・利常から現在地に寺領を拝領し、移った。その当時、末寺として成学寺、三光寺、弘願院と搭司として養寿院、宝珠院、慈願院があったが、搭司の各院は廃滅し、残りの寺院は現在は独立し、現存している』と説明版にあるとあり、両塔頭は現存しない。先の「石川県史」の引用も参照。そこでは塔頭住職を指している。]

 爰に又、松平外記は、先祖伯耆守以來此寺の檀頭(だんがしら)にて、殊に懇意なれば、其頃東部の傳通院(でんづうゐん)に卓印長老とて、先々住の弟子一人あり。事の序に書簡を送りて、

「和尙の病氣甚だ重く、殊に後住も貴僧なるべきに、御登りありて看病も候へかし」

と云遣はされけるにより、急ぎ走り歸りけれども、はや愍譽上人遷化ありて、

「後任は喬純」

と兩塔頭及び旦那中も評定あるよしを聞き、案に相違の色を顯はし、又關東へ越されしが、頭寺(かしらでら)如來寺・役僧攝取院などに此事を語り、

「我今度後住を望には非ず。唯末弟に越されん事の殘念なり。偏(ひとへ)に是は兩塔頭の仕業とこそは覺ゆれ」

とて、先に松平氏よりの書狀などみせて、以て外是ふくみ歸りける。

[やぶちゃん注:「松平外記」不詳。

「先祖伯耆守」戦国武将で後に加賀藩前田家家臣。松平大弐家の祖で三河国伊保城主松平康元の次男松平康定(?~元和六(一六二〇)年)。事蹟は「加能郷土辞彙」のこちらを見られたい。

「傳通院」東京都文京区小石川にある浄土宗無量山傳通院寿経寺

「卓印長老」事蹟不詳。

「如來寺」石川県金沢市小立野にある浄土宗竜宝山如来寺。加越能三国の触頭(ふれがしら)として栄えた。

「攝取院」如来寺の塔頭であったが、今は廃絶した。

「以て外是ふくみ歸りける」「以て外」と「是」れを「ふくみ」(=憤(ふつく)み)て「歸りける」。「憤む」は「恚む」とも書き、上代以来の古語で「腹を立てる・怒る」の意。]

 其後妙慶寺の住職彌々(いよいよ)

「喬純を願ふべし」

と一決しに、總錄如来寺より卓印長老の事以てさへぎられしかば、旦那中にも又夫(それ)に加担して事決せず。先住遺言にも、兩塔頭の私意交りたる由、風聞し、私欲の事に云ひなせし人もありし。終には公場(こうじやう)の詮議となり、奉行中(うち)評定決せず。翌年に至りて國老の捌(さばき)として、終に喬純に後住は定まるといへども、兩塔頭は退院仰渡され、旦那中にも野々市屋五右衞門初め誰彼寺替して事落着に及びけり。喬純は其頃關東に於いて博識の名あり。殊に戒行をこらし、聊(いささか)も世務を知らぬ道心とて、別して今度の入院心うく、再三辭退に及びぬれども、公評決定(こうひやうけつじやう)の上なれば、今更外(ほか)へは讓り難く、終に五月十七日住職の式を執行ひける。二人の塔頭はいつしか住馴し寺を出て、寶珠院は花洛へ赴き、養壽院は此程の風說、取捌きける人々にも無念の詞に逢けるを欝忿(うつふん)にや思ひけん、白山の神社へ詣でゝ法施奉り、神主に近附き、

「我願望あれば、當社に一七日(ひとなぬか)參籠致し度し」

と云ひけるに、

「此社は在俗の參詣は格別、僧尼の類(たぐひ)は古來より制禁なり」

とすげなく云けるにより、養壽院いかが思ひけん、終日社邊を立廻りしが、一念の忿怒を起して、終に麓なる「あくたが淵」と荒に身を投じ死しける。是元文五年五月二十五日なり。

[やぶちゃん注:「總錄」先の「頭寺」と同じであろう。触頭。

「あくたが淵」「加能郷土辞彙」に「アヲトノフチ 安久濤淵」とあり、『石川郡白山比咩神社はもと手取州安久濤の淵の上なる安久濤の森に鎭座した。その所を今古宮(フルミヤ)といふ。蓋し白山比咩神社は、創立の初からこゝに在つたので、神主家の傳說に、舟岡山から安久濤淵の上に遷り給うた如く言ふものは、何等の據がない。文明十二年十月社殿燒亡の後、三宮に遷座し、遂にそのまゝとなつた。元祿十三年[やぶちゃん注:一七〇〇年。]版行の草庵集に『神主や鱒わきばさむ岩の上 枝束』とあるは、安久濤淵あたりのことであらう』とある。ここ。]

 ふしぎや其夜川上[やぶちゃん注:国書刊行会本は『山川』とあり、その方がいい。]震動し、電光暴雨夥しかりしが、人皆云ふ、

「深淵より猛火の丸(まろ)かせなるものをどり上り、東方を指して飛行きし」

とぞ。此邊の取沙汰なり。

 卓印長老は東武傳通院にありて、妙慶寺の公事(くじ)相濟に付けても、二人の塔頭追院の事を聞き、

「我入院叶はず殘念ながら、塔頭兩人追院こそは、日頃の所爲顯れて斯(かく)こそありしものなれ」と、少しの念をはらしぬ」

と獨言してゐらるゝ所に、或夕暮方養壽院月代一寸許りも延して來りける。

「扨は行方なくて賴み來りぬならん」

と哀れに覺へければ、

「長途能こそ入來あれ、急ぎ是へ」

と招き、

「さてさてぬれたる姿かな」

と云ひしに、物をも云はず、

「きつ」

と卓印を白眼(にら)むかと見えしが、かき消すやうに失せにけり。

 夫より長老忽ち煩ひ付きて、七日の内に果られける。

 此旨同寮衆よりこまごまと書越(かきこ)されければ、金澤にも

「扨は養壽院が怨靈の業にこそ」

と、人々恐れける。

 其頃ふしぎなるは、寺社奉行伊藤氏急病にて死せしなり。斯くて此一事に懸れる人は、大かた同病の急死なりき。

[やぶちゃん注:この箇所、国書刊行会本では、『寺社奉行伊藤氏・山崎氏、又は如末寺和尙、程なく病死有(あり)し。又役僧摂取院も急病にて死せし也(なり)。都而(すべて)此一事にかゝれる人は、大方同病の急死成(なり)し』と詳述する。]

 伊藤氏などは、病中多く祈禱ありしに、檀上に異僧顯れ、供物・獨鈷(とつこ)の類(たぐひ)みぢんに投散らせりと聞ゆ。其外、妙慶寺の寺中にも此異僧あらはれ、障碍(しやうがい)度々なりし。門前珠數(じゆず)屋與兵衞など、

「度々此異僧に逢ひし」

と聞へたり。一朝寺へ見廻けるに、本堂と眠藏(めんざう)の間、一面に火起りて、一足も進み難し。然共、障子などへ燃え付くことなく、只炭火のごとし。二時(ふたとき)[やぶちゃん注:四時間。]許にて消えて本の如しとにや。されば喬純和尙は四五年にして隱居して、善導寺より後住招待ありしが、是又四五年にして隱居ありぬ。今宮腰海禪寺に居られぬ。或人海禪寺に詣で、因みに問ふ、

「妙慶寺在住の内、折々方丈より長(たけ)高き法師顯れ障(さはり)なすのよし家々に風聞せり。誠に候や」

と尋しに、和尙笑ひて、

「曾て其事なし」

と答へられし。されど事實に依りてにや、皆々早く隱居はありし。殊に此怪異は憚ること多くて書もらしぬ。

[やぶちゃん注:「寺社奉行伊藤氏」伊藤姓の寺社奉行は複数いるが、時代が合わないので、不詳。人持組に伊藤主馬家二千八百石がありはする。国書刊行会本の「山崎氏」も同じく不詳。寺社奉行就任のまま亡くなった山崎姓の人物は見当たらなかった。人持組に山崎庄兵衛家五千五百石がありはする。

「眠藏」「みんざう」と読んでもよい。本来は禅宗の用語で、 寺の中で寝所としたり、家具をしまっておいたりする部屋。寝室・納戸の類。眠堂(めんどう)とも呼ぶ。

「善導寺」加賀ならば、現在の石川県金沢市山の上町に浄土宗妙音山善導寺がある。

「宮腰海禪寺」金沢市金石北(かないわきた)にある浄土宗海禅寺

「殊に此怪異は憚ること多くて書もらしぬ」仏僧は怪異を本質的には実体としては認めないし、興味本位は勿論、寺院絡みの怪異譚を忌避する傾向が実は強い。そもそもが霊現象を好む仏者というのは真の僧とは言えないと私は思う。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 七 山の不思議

 

     七 山 の 不 思 議

 山の神の手心から、獲物を匿される事は、前の猪の話にも言うた。それとは異つて、現在捕つて其處に置いてある獲物を、ちよつとの間、水を呑みに谷へ下つたりした隙に、影も無くなる事があつた。四邊に人影も無い深山の中であつて見れば、不思議と言ふより外なかつた。狩人はさうした時の用意に、獲物の傍を離れる時は、鐵砲と山刀を上に十字に組んで置いた。或は半纏などを掛けて置く事もあつた。鳳來寺山中などで、時折さうした目に遇つた。山犬の所爲とも言うたが、或は山男のなす業とも信じられた。

[やぶちゃん注:「山の神の手心から、獲物を匿される事は、前の猪の話にも言うた」「猪 十三 山の神と狩人」参照。

「山男」妖怪・異人・ヒト(サル)型異獣としてのそれ。山人(やまびと)・大人(おおひと)などとも呼称する。私のカテゴリ「怪奇談集」にも枚挙に暇がないほど出現する。例えば「谷の響 二の卷 十五 山靈」「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖(やまをとこ)が事」(私の注で「北越雪譜」の「異獸」も電子化してある)・「北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)」と同書の「北越奇談 巻之四 怪談 其十一(山男その二)」「北越奇談 巻之四 怪談 其十二(山の巨魁)」などを見られたい。ウィキの「山男」がよく纏まっているので参照されたいが、その概要によれば、『外観は、多くは毛深い半裸の大男とされる。言葉は、土地によって話す』ケースや、『まったく話さないなど』、変化がある。『人を襲ったり』、『これに出遭った人は病気になるなど』といった『人間に有害な伝承も』ないことはないが、『基本的には』妖怪・異人の中では特異的に『友好的で、人間に対して煙草や食べ物など少量の報酬で、荷物を運んだり』、『木の皮を剥いだりといった大仕事を手伝ってくれる』ケースが有意に見られる。『柳田國男によれば、山男との遭遇談は、日本の概ね定まった』十『数ヶ所の山地のみに伝えられており、小さな島には居ないと』するとある。]

 鳳來寺山は、全山九十九谷と言傳へて、地續きの牧原御料林を合せて、殆ど四里四方に亘る一大密林であつた。山中の地獄谷と稱する所などは、密林中に高く瀧が落ちかゝつて、風景絕佳であると言うたが、一度び奧へ入込めば、出る事は叶はぬとさへ言うた。その爲め一部の狩人の外消息を知る者も無かつた。偶々鰻釣りに入つた者の話では、思ひの外に谿川[やぶちゃん注:「たにがは」。]の樣が綺麗で、甞て釣を試みた者もあるらしいと語つた。隨分久しい前の話らしいが、八名郡能登瀨村の某家では、牧原御料林から、不思議な裸體の靑年を二人捕へて來て、農事を手傳はせたと言ふ。力が强くて主人の言付をよく守つたが、言葉が更に通じなくて困つたと言ふ。或は山男でないかとも言うたが、それ以上詳しい事は聞かなかつた。

[やぶちゃん注:「牧原御料林」個人ブログの「鳳来寺鉄道三河槙原駅加周組専用線(?)」の「鳳来寺有林」の記事によれば、『鳳来寺は愛知県でも有数の山岳寺院で江戸期には徳川将軍家から鳳来寺山などの寺領を安堵され』、『財政的にも豊かだったのが』、『明治期に寺有林を国有林として召し上げられた上に境内で火災が相次ぐなどすっかり疲弊していました』。『元寺有林だった国有林はさらに宮内省御料局(後の帝室林野局)の手に渡り』、『御料林となっていましたが』、『大正初期に鳳来寺再興のため服部賢成住職を中心として御料林払下げを嘆願、1919(大正8)年に3,112町歩、実測見込面積1,551haの寺有林を6677,130円で払い下げを受けることに成功します』。『帝室林野局としては近隣で面積が広く林相も良い段戸山の施業に集中したかったようで、鳳来寺山の御料林は飛び地となるため』、『所有することに左程意味が無かったのかも知れません』とあるので、現在の三河槙原駅の北方、鳳来寺の東北部の「愛知県立安城農林高校第二演習林」や「愛知県民の森」附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の旧称或いは俗称であろうと思われる。

「八名郡能登瀨村」現在の新城市能登瀬(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。前記地区の南直近である。]

 鳳來寺山から東に當つて、三輪川を隔てた八名郡大野町の奧の、山吉田村阿寺(あてら)は、ひどい山間の部落であるが、部落内に七瀧(なゝたき)と言ふ瀧があつた。その水源である栃の窪からハダナシの山へかけての山中は、昔から狩人が獲物を奪られる[やぶちゃん注:「とられる」。]と言傳へた場所だつた。現に經驗した者はもう聞かなんだが、その山に住むヒメン女郞(姬女郞)の仕業と謂うた。而も一方には、山の主が美しい片脚の上﨟と言ふ傳說もあつた。附近へ入込む者が、紙緖[やぶちゃん注:「かみを」。和紙で作った鼻緒。]の草履を穿いて居ると、必ず片つ方を奪られたと謂ふのである。

[やぶちゃん注:「三輪川」宇連川の別称。

「八名郡大野町」新城市大野

「山吉田村阿寺(あてら)」「部落内に七瀧(なゝたき)と言ふ瀧があつた」新城市下吉田ハダナシに現存する(サイド・パネルに写真あり)。

「栃の窪」不詳。

「ハダナシの山」前注の通り、小字地名としては残るが、山は不詳。

「ヒメン女郞(姬女郞)」ウィキの「片脚上臈」によれば、『片脚上臈(かたあしじょうろう)は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)に伝わる妖怪』で、『栃の窪という地からハダナシ山という山にかけて現れるという、美しい上臈姿の片脚の妖怪。紙製の鼻緒の草履を履いた者がいると、その片方を奪うという。山吉田村の阿寺には栃の窪を水源とする阿寺の七滝という滝があり、そこには不妊の女性に子宝の霊験のある子抱き石という石があったが、そこへ行くには紙緒の草履を履いていかなければならないとされ、そのような女性が片方の草履を奪われたという』。『また山中で、猟師が獲物を一時的に置いて水を飲みに行ったときなど、その隙に獲物を奪い取るともいい、獲物から離れなければならないときなどに、猟銃と山刀を十字に組んでおくか、袢纏をかけておくと、片脚上臈の怪異を避けるまじないになるという』。『獲物を奪うのは山男の仕業ともいわれるが、実際には山犬の仕業との説もある』とあり、これは総て(次段参照)本篇を元にして書かれてある。何故、片脚なのか(片目にされた一夜神主との通底が窺われ、或いはこの原型には山の神への生贄として捧げられた処女のイメージが隠されているのかも知れない)、また、紙緒(切れ易いので山入りの者の草履に紙緒は向かない。次段冒頭参照)が狙われるのかは定かでないが、紙緒は神事を行う者が用いることと関係があるのかも知れない。]

 山中で紙緖草履を穿く者も無かつたと思はれるが、實は別の話が絡んで居たのである。狩とはなんの關係も持たぬ餘計な事だつたが、話の次手[やぶちゃん注:「ついで」。]に、ヒメン女郞の傳說の結末をつけておく。

 前言うた七瀧の上に、子抱き石の出る個所があつた。子抱き石とは、石の中に更に別の小石を孕んだものである。子種の無い婦人が、其處へ行つて、一ツを拾つて懷にして返れば、懷姙すると言ふ言傳へがあつた。女連れなどで出かける者も少なくなかつた。その折紙緖草履を穿いていれば、必ずヒメン女郞に奪られたと言うたのである。現に草履を奪られて、いつか裸足になつて居たという女もあつた。

2020/03/23

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 六 鹿の毛祀り

 

     六 鹿 の 毛 祀 り

 狩人が鹿を擊つた時は、其場で襟毛を拔いて山の神を祀つた事は、猪狩の毛祀りと何等變はつた事は無かつた。只鹿に限つての慣習として、其場で臟腑を割いて、胃袋の傍にある何やら名も知らぬ、直徑一寸長さ五六寸の眞黑い色をした物を、山の神への供へ物として、毛祀りと一緖に、串に挿し或は木の枝に掛けて祀つた。これをヤトオ祀りと言うた。ヤトオは前にも言うたが、矢張り串であつた。その眞黑い物は何であつたか、狩人の悉くが名を知らぬのも、不思議だつた。腎臟だらうと言うた人もあつたから、或はさうかも知れぬ。ずつと以前は、兩耳を切つて、ヤトオ祀りをしたと言ふが、近世では耳の毛だけを串に挾んで祀る者もあつた。然し後には臟腑を割く事をも略して、只毛祀りだけで濟ましたものもあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「ヤトウは前にも言うた」「三 猪の禍ひ」を参照されたい。またここでの祭祀法は「十三 山の神と狩人」も参照のこと。]

 狩人としては、一度び傷を負はした獲物は、たとへ二日が三日を費しても、後をとめて倦む事をしらぬのが嗜であると言うた。某の狩人は、或時朝早く、出澤の村のコヤン窪で一頭の鹿を追出した時、鹿は驀地に峯へ向けて逃げ去つた。それを何處迄もと追縋つて、或時は山續きの谷下(やげ)の村を追い通し、更に引返して出澤の村の東に當るフジウの峯に追ひ込み、峯を越してその日の午過ぎには、瀧川の村に出た。又もや山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の、赤目立の林に追込み、又もや峯一ツ越えて作手(つくて)の荒原(あはら)村の手前の舟の窪で、やつと仕止たと言うた。十六の年から狩りをしたが、此の時ほどの骨折は先づ無かつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「後をとめて」「とめて」は「とむ」=「尋む・求む・覓む」で、後を追い求めて、の意。

「嗜」「たしなみ」。猟師の常に守るべき心得。絶対的な心構え。殺生を敢えてする以上、そうする以上はなるべく苦しめずに往生させるべきことへの自戒としての意識である。

「驀地に」「まつしぐら(まっしぐら)に」と読む。「驀地」の音は「バクチ」。「地」は地面の上の意ではなく、中国語で副詞を作る接尾語である。

「出澤の村」前にも注したが、「出澤」は「すざは」と読む。新城市出沢(すざわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「コヤン窪」不詳。次の「谷下」を「山續きの」と言っているところからは、この付近(航空写真)の山中の幾つかある窪地の一つであろう。

「谷下(やげ)」現在の新城市出沢根岸谷下(ねぎしやげ)であろう。

「出澤の村の東に當るフジウの峯」改訂本では『藤生(ふじふ)』とあるが、この地名は現認出来ず、古い地図でも見当たらない。しかし、「出澤」は寒狭川(豊川)の右岸部分で東は終わる(対岸が早川孝太郎氏に故郷である横川(旧横山))から、この附近の出沢地区の東北に走る複数の尾根の孰れか(航空写真)と考えてよい。

「瀧川の村」国土地理院を見ると、出沢の北に接して寒狭川沿いに「滝川」の地名を見出せ、スタンフォードの古い地図でも「瀧川」とある。

「赤目立」「あかめだち」か。地名は不詳だが、「瀧川の村」から「山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の」とあるから、スタンフォードの古い地図で、「瀧川」の西の「272」ピークと、その先の「532」ピーク辺りまで追い込んだと読める。距離から見て、その先の出沢の北直近の現在の新城市布里(ふり)地区にこの「赤目立の林」はあったと考えられる。そこから南西に沢を下れば(と言ってもなかなかの深山である)、現在の新城市作手荒原(つくであわら)で、ここが「作手(つくて)の荒原(あわら)村」であるからである。

「舟の窪」不詳。ただ「窪」と言い、「荒原(あはら)村の手前」と言うところからは、国土地理院の「669」ピークに南麓、航空写真の現在の作手荒原の人家のある「寺木野」のこの辺りではないかとも思われる(但し、その北西の山中にも人家はある)。ともかくも、ここまで実働十二時間ぐらいは経過している計算になる。]

 同じ男が舟著連山の七村で、大鹿を追出した時は、その鹿が峯から谷、谷から村と、終日目まぐるしい程逃げ回るので、何處迄もと追つて行く内、行く先々で、その鹿を目がけて鐵砲を放す者があつた。大方他の狩人達も、目がけて居るとは豫期して居たが、最後に大平の奧に追詰めて斃した時、其處へ集まつて來た狩人を數へると、總勢三十六人あつた。而もその狩人連が、放した彈は全部で十三發で、その十三發が一ツ殘らず中つて居たには、呆れ返つたと言ふ。三十幾人の狩人が何の連絡も無しに、一ツの鹿を一日追通したのである。こんな馬鹿々々しい事は、昔も聞いた事が無いと、みんなして大笑ひに笑つたさうである。

[やぶちゃん注:「舟著連山の七村」改訂版では『舟着山麓に七村(なゝむら)』とある。旧「八名村」なら舟着山の南西麓に見出せるが、「七村」は見当たらない。サイト「歴史的行政区域データセット」の「愛知県八名郡七郷村(ななさとむら)」(明治三九(一九〇六)年に合併して出来た旧村)の地図を見ると、「舟着山」連山の東北の尾根の間の辺りが七郷村の下方の飛地に当たることが判る。ここか?]

 さうかと思ふと、狩人は一人で、獲物ばかりが多くて、弱つた事もあつた。或時出澤の茨窪(ばらくぼ)の人家の背戶へ一匹の鹿を追込んだ狩人は、思ひがけなく行手の木立から、雄鹿ばかり七つ、モヤモヤと角を揃へて走り出したのに、狙ひつける的に迷つて、悉く逸してしまつた事があつた。その狩人の話だつた、狩りの運は別として、雄鹿が七ツ角を揃へて駈け出した處は賑やかなもので、見た目だけでも豐樂であつたと言ふ。

 前の話もさうであるが、かうした出來事を總て山の神の手心と言うたのである。

[やぶちゃん注:「出澤の茨窪(ばらくぼ)」出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名があるが(航空写真)、多量の鹿の出現はこの辺りなら相応しい気はする。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 五 鹿皮のタツヽケ

 

     五 鹿皮のタツヽケ

 

Tattuke

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿皮のタツヽケ」。]

 

 鹿の角が忽ち家々から消えて了つたのも、實は角買が盛に入込んで、買つて行つたのが、最も大きな原因だつた。

[やぶちゃん注:「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。]

 或家では、以前狩人だつたにも依るが、主人が昔風を改め得ない性分も手傳つて、もう何處の家にも無くなつてから、軒や土間の隅に幾本も吊してあつた。事實さうしてあれば、何彼[やぶちゃん注:「なにか」。]につけて都合もよかつたさうである。

 それが近頃になつて、角買が目をつけ出した。賣れ賣れと執こく[やぶちゃん注:「しつこく」、]責めるのに、遂に斷り切れなくなつて、若主人が全部引外して、纏めて賣つてしまつた。家中を探し集めたら、十七八本もあつたさうである。その金で先祖代々の位牌を拵へたと言うた。鹿の角が無くなつても、格別不自由はせなんだが、只簔などの置場が無くなつて、埒もなく其處[やぶちゃん注:「そこいら」。]へ丸めたり載せて置いたりして、始末が惡くなつたさうである。

 角と共に、鹿が村へ殘して行つたとも言へる物に、鹿の皮のタツヽケがあつた。秋から冬にかけて村々を步けば、白い皮のタツヽケを穿いた男を時折見た。麥畑に耕作して居たり、山から薪を負つて出て來たりした。多くはタツヽケと同じやうな、老人であつた。畑などに穿いて出ると、忽ち皮の色が汚れてしまつたが、一日山を步いて來れば、木の枝や茨で洗濯されて、眞白になつたさうである。

 家々を尋ねて廻つたら、どの家も同じやうに、以前はあつたがもう無いと言ふ。老人が死んでから、久しく物置に投げ込んで奥内、いつか蟲が附いて居たのに、慌てゝ谷へ捨てたのもあつた。ボロと一緖に棒手振などに賣つたのもあつた。女達が少しづゝ剪つて、針止めや針山を作り作りする内、紐ばかりになつたのもあつた。よくよく丹念な心掛の善い家か、老人でもある家の外は、無くなつて居たのである。律義者で通つた或老人は、親類への年始廻りに、必ず著けて來たと言ふ。

[やぶちゃん注:「棒手振」「ぼてぶり」。商品を天秤棒で担いだりして売り歩いた商人。近距離で小規模の行商であるが、山村では何でも屋的な仲介者として民の売買に係わった。]

 以前はタツヽケ屋と言ふ專門の職人が、時折回つ來たさうであるが、多くは大鹿を獲つた每に狩人自身が拵へたものである。何でも以前のタツヽケは、鹿が二頭なくては、作れぬとも言うた。前に言うた、鳳來寺三禰宜の一人だつた平澤某は、作るに妙を得て居て、方々から賴まれたものと言うた。そのタツヽケを、未だ大切に藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家もあつた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺三禰宜猪」「十六 手負猪に追はれて」を参照。]

 いろいろの話を總合すると、鹿皮のタツヽケを狩人が着けたのは、餘り古くは無かつた。以前は物持などでない限り、滅多に着けなんだ。狩人が、山で雨に遇つた時など、慌てゝ脫脫いで丸めたと言ふからは、よくよく大切な狩衣であつたのである。

 

大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)

 

鰛 順和名鰯本文未詳トイヘリ今俗モ鰯ノ

 字ヲ用ユ閩書曰鰛似馬鮫魚而小有鱗太者數

 寸〇其苗小ナルヲ.メダツクリト云又シラスト云腥

 氣ナク味佳ヤヽ大ナルヲタツクリト云田肥トスル故田

 作ト云或曰五月農夫ノ苗ヲ挾ム時最多ク是ヲ美

 饌トス故田作ト名クト云ソレヨリ小ナルニ塩ヲ不淹

 ホシタル淡鯗ヲゴマメト云又ヒシコト云最大ナルヲ塩ニ

 ツケテ苞ニ入遠ニヨス賤民朝夕ノ饌ニ用ユ又醢トシ

 糟藏飯藏トス味ヨシ又ホシタルヲホシカト云田圃ノ

 糞トス木綿ノ糞トシテ尤佳シ凡此魚甚民用ニ利ア

 リ又カタ口イハシアリ口ヒロクシテ鰷ノ口ノ如シウルメイ

 ハシアリ鰩魚ニ似テ小ナリ皆可食又イハシニ似テウロコ

 大ナル魚あり不可食〇今案凡脾胃ハ芳潔ヲ好ミ

 臭穢ヲ惡ムイハシハ油膩臭穢之物性不好痰ヲアツ

 メ瘡疥ヲ發シ食氣ヲ滯ラシム生ナル者最性アシヽ病

 人及服薬人不可食且能發瘡疥

 

○やぶちゃんの書き下し文

鰛(いはし) 順「和名」、『鰯』本文『未だ詳かならず』と、いへり。今、俗も「鰯」の字を用ゆ。「閩書〔(びんしよ)〕」に曰く、『鰛は馬鮫魚(さはら)に似て小なり。鱗、有り。太〔(だい)〕なる者、數寸。

〇其の苗〔(こ)〕、小なるを、「めだつくり」と云ひ、又、「しらす」と云ふ。腥〔(なまぐさ)き〕氣〔(かざ)〕なく、味、佳(よ)し。やゝ大なるを「たつくり」と云ふ。田の肥〔(こえ)〕とする故、「田作」と云ふ。或いは曰く、五月、農夫の苗〔(なへ)〕を挾〔(さしはさ)〕む時、最も多く、是れを美饌〔(びせん)〕とす。故に「田作」と名づくと云ふ。それより小なるに塩を淹(つ)けず、ほしたる「淡鯗(ほしうを/しらほし)」を「ごまめ」と云ひ、又、「ひしこ」と云ふ。最大なるを塩につけて、苞〔(つと)〕に入れ、遠〔(とほく〕〕によす。賤民、朝夕の饌に用ゆ。又、醢〔(しほから)〕とし、糟藏(〔かす〕づけ)・飯藏(〔めし〕づけ)とす。味、よし。又、ほしたるを「ほしか」と云ひ、田圃の糞(こえ)とす。木綿の糞として尤も佳〔(よ)〕し。凡そ此の魚、甚だ民用に利あり。

又、「かた口いはし」あり、口、ひろくして鰷〔(はや)〕の口のごとし。

「うるめいはし」あり。鰩魚(とび〔うを〕)に似て小なり。皆、食ふべし。

又「いはし」に似てうろこ大なる魚あり。食ふべからず。

〇今、案ずるに凡そ脾胃は芳潔を好み、臭穢〔(しうえ)〕を惡〔(にく)〕む。「いはし」は油-膩(あぶら)・臭穢の物性〔にして〕好〔(よ)から〕ず、痰をあつめ、瘡疥〔(さうかい)〕を發し、食氣を滯らしむ。生〔(なま)〕なる者、最も性、あしゝ。病人及び薬を服する人、食ふべからず。且つ、能く瘡疥〔(さうかい)〕を發す。

[やぶちゃん注:本邦で「鰮」「鰯」「いわし」と呼んだ場合は、

ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus(成魚の全長は三十センチメートルに達するものの、二十センチメートル程度までの個体が多い。体は上面が青緑色、側面から腹にかけては銀白色を呈する。体側に黒い斑点が一列に並ぶ。但し、個体によってはそれが二列あるもの、二列の下に更に不明瞭な三列目があるもの、逆に斑点が全く無い個体もある。別名の「ナナツボシ」(七つ星)はこの斑点列に由来する。体は前後に細長く、腹部が側扁し、断面は逆三角形に近い紡錘形を成す。下顎が上顎より僅かに前に突き出る。鱗は薄い円鱗で剥がれ易い。縦列の鱗の数は四十五枚前後で体の割りには大きい。側線はない。以下のカタクチイワシ・ウルメイワシとは、体側に黒点列があること、体の断面が比較的左右に扁平であることなどで区別出来るウィキの「マイワシ」に拠る)

ニシン亜目ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres(成魚は全長三十センチメートルに達し、マイワシより大きくなる。目が大きく、さらに脂瞼に覆われているために「潤んでいる」ように見え、和名「潤目鰯」はこれに由来する。下顎が上顎よりも僅かに前に突き出る。体色は背中側が藍色、腹側が銀白色を呈し、他に目立つ模様はない。体は前後に細長く、断面は背中側がやや膨らんだ卵型を成す。一縦列の鱗数は五十三から五十六枚で、カタクチイワシやマイワシよりも鱗が細かく、腹鰭が背鰭よりも明らかに後ろにある点で両者とは区別出来るウィキの「ウルメイワシ」に拠る)

ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus目が頭部の前方に寄っていて、口が頭部の下面にあり、目の後ろまで大きく開くことが特徴である。和名「片口鰯」も「上顎は下顎に比べて大きく、片方の顎が著しく発達している」ことに由来する。また、他の二種よりも体が前後に細長いウィキの「カタクチイワシ」に拠る)

の三種を指す

「鰛」=「鰮」は如何に見る通り、漢語として存在するが、これをイワシに当てるのは国字である。

『順「和名」、『鰯』本文『未だ詳かならず』と、いへり』源順「和名類聚抄」の巻十九「鱗介部第三十」の「竜魚類第二百三十六」に、

   *

鰯 「漢語抄」云、『鰯』【以和之(いわし)。今案、本文未ㇾ詳。】。

   *

とある。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。

「鰯」国字。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「馬鮫魚(さはら)」スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius前項参照。益軒はこれを鵜呑みにして「馬鮫魚(さはら)」の後にこれを配しているようだが、私は似ているとは思わないので、本来に漢語としての「鰮」がイワシ類を指すかどうかはやや疑問である。但し、現代中国語では「鳁」をイワシに当ててはいる。

「太〔(だい)〕なる」「太」はママ。側扁するので太いの意味ではあり得ないので、かく訓じておいた。

「苗〔(こ)〕」稚魚。現在、漁業でも魚の種苗放流と言ったりする。

「めだつくり」小学館「日本国語大辞典」に「めたづくり」があり、『イワシなどの稚の総称。しらす』とあるが、例文は。小山田与清の「松屋筆記」と本書の本章で、この呼称は江戸中期末より前には遡らない。「め」はよく判らぬが、「芽」で生まれて間もないの謂いか。

「しらす」本種に限らず、イカナゴ・ウナギ・カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・アユ・ニシンなど、体に色素がなく白い稚魚を総称して「シラス」(白子)と呼ぶ。

「苗〔(なへ)〕を挾〔(さしはさ)〕む時」田植えの時期のこと。現在も初夏はイワシ漁の始まる時期である。以下の「田作」の命名は農事と生鮮なイワシの漁獲期とのリンクを指すとするものである。

「美饌」美味い調理した食物。

「鯗」は「鱶」と同字であるが、この字はサメ類の「フカ」の意味の他に、「干物」の意がある。

「ごまめ」語源は「細群」(こまむれ)。調理したそれが祝い肴(ざかな)であることから「五万米」「五真米」の文字が当てられたことによるとする説、目がゴマのように黒いことに由来するという説、別に「五万米」で豊穣を祈ったものが転訛したとする説などがある。

「ひしこ」「ひこいわし」とともに、これは本来はカタクチイワシの古名であるが、それがイワシ全体に汎用化された。しかも面倒なことに、方言で「ひしこ」は「海鼠(なまこ)」や「乾し海鼠」或いは「小さなイワシ類を干したもの」、また「イワシの塩辛」の意にも用いられる。

「苞〔(つと)〕」藁で出来た包。

「よす」「寄す」。送る。

「飯藏(〔めし〕づけ)」所謂、「熟(な)れ鮓(ずし)」である。但し、イワシは腐敗が速いので相当に塩を加えないと上手くは行かない。

「ほしか」「乾鰯」「干鰯」などの漢字を当てる。小学館「日本国語大辞典」によれば、脂を充分に絞った(腐敗防止のため)イワシやニシンを『乾燥させた肥料。江戸時代から明治時代にかけ、油粕』(あぶらかす)『とともに一般的に用いられた』もので、『速効性があり、化学肥料普及以前の農業生産力の上昇に大きな影響を与えた』とある。ウィキの「干鰯によれば、これは『一説には戦国時代にまで遡ると言われて』おり、『干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった。上方の中心都市・大坂や堺においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した』。正徳四(一七一四)年の『統計では日本各地から大坂に集められた干鰯の量は銀に換算して』一万七千貫目『相当に達したとされている』。『当初は、上方の干鰯は多くは紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域の産品が多かった。ところが』、十八『世紀に入り』、『江戸を中心とした関東を始め』、『各地で干鰯が用いられるようになると、需要に生産が追い付かなくなっていった。更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴に発展する事態も生じた。そのため、干鰯問屋は紀州など各地の網元と連携して新たなる漁場開拓に乗り出すことになった。その中でも房総を中心とする「東国物」や蝦夷地を中心とする「松前物」が干鰯市場における代表的な存在として浮上することとなった』。『房総(千葉県)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ広大な農地を持つ関東平野に近かったことから、紀州などの上方漁民が旅網や移住などの形で房総半島や九十九里浜沿岸に進出してきた。鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られてきた(地引網などの漁法も上方から伝えられたと言われている)』。『一方、蝦夷地では鰯のみではなく鰊(かずのこを含む)や鮭が肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが高級肥料の鰊粕として流通するようになった』とある。

「木綿の糞として尤も佳〔(よ)〕し」前注の引用を参照されたい。

「鰷〔(はや)〕」複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」とも書く)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。]

「鰩魚(とび〔うを〕)」棘鰭上目ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類。本邦で一般的なのはハマトビウオ属トビウオ(ホントビウオ)Cypselurus agoo agoo など。なお、「鰩」には軟骨魚類のエイ類を指す語でもある。

『「いはし」に似てうろこ大なる魚あり。食ふべからず』食用を禁じている以上、有毒であるということだろうが、そんな魚は知らない。或いは、現在、流通せず、釣り人もリリースする場合が多い「藤五郎鰯」、トウゴロウイワシ目トウゴロウイワシ科ギンイソイワシ属トウゴロウイワシ Hypoatherina valenciennei かも知れない。本邦では琉球諸島を除いた相模湾以西に広く分布する。沿岸性の魚で、河川河口部の汽水域にも進入し、海面近くを大群をなして泳ぐ姿が見られる。体長は十センチメートル前後のものが多く、最大でも十五センチメートル程度までで、カタクチイワシに似ていることからイワシの名を持つものの、分類上はボラやダツなどの近縁種で、二つの背鰭を持っている。本種は鱗が硬い上に剥がれ難いため、一般に食用とされない。食べられないわけではないのだが、鱗の処理が面倒である。益軒は鱗が大きいとするが、見た目、本種は実際、硬い鱗がイワシ類に比して、はっきり目立って見えるのでそう言うのは腑に落ちるのである。

「脾胃」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語。

「芳潔」新鮮で匂いのよいこと。清潔なこと。

「物性」(ぶつせい)「〔にして〕好〔(よ)から〕ず」こうでも読まないと意味が続かない。もし、別な訓読があるとせば、御教授願いたい。

「瘡疥」「疥瘡」だと「はたけがさ」で所謂、皮膚病の「はたけ」を指す。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。原因としてウィルス感染が疑われているが、感染力はない。但し、ここは寧ろ、青魚にありがちなアレルギー反応で、広義の蕁麻疹ととってよかろう。

「食氣」ここはそのまま「くひけ」でよかろう。]

2020/03/22

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 錦木塚 にしき木の卷 のろひ矢の捲(長の子の歌) 梭の音の卷(政子の歌)

 

[やぶちゃん注:本篇は「錦木塚」と題した全文が丸括弧に入った、錦木伝承を扱った前書風文語散文詩のものと、それに続く「にしき木の卷」「のろひ矢の捲(長の子の歌)」「梭の音の卷(政子の歌)」(後の二篇は仮想相聞歌)の三篇、即ち四篇全体が組詩篇となっているので、特異的に四篇総てを纏めて電子化した(筑摩版全集もそのように編集されてある)。底本初版本(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML版33から)を見られたい。

 前者「錦木塚」は底本では通常位置よりも全体を三字下げ(初行のみ二字下げで丸括弧が突き出る)で有意なポイント落ちで示されているが、これはブラウザの不具合を考え、行頭から始めて二行目以降も字下げを施さなかった。ポイントも読み難くなるだけなので同ポイントで示し、それに後者「にしき木の卷」以下を続けて示した。前者の句点の後の字空けは底本の印象(句点の後が総て有意に空いて見える活字の組み方となっている)を再現するために敢えて入れてある。後者の詩篇中にもあるので、それも再現した。また、読み除去版は、「錦木塚」にはルビがないことと、「にしき木の卷」以下三篇は変わった読みが多いことから、ここでは作らないこととした。]

 

錦 木 塚

(昔みちのくの鹿角の郡に女ありけり。 よしある家の流れなればか、かかる邊つ國はもとより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。 日每に細布織る梭の音にもまさりて政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。 隣の村長が子いつしかみそめていといたう戀しにけるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人のいましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。 長の子ところの習はしのままに、女の門に錦木を立つる事千束に及びぬ。 ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いなかる女もさからひえずとなり。 やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ樣も見えず。 男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。 政子も今は思ひえたえずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。 村人共二人のむくろを引き上げて、つま戀ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのことのみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りて、にしき木塚となむ呼び傳へける。 花輪の里より毛馬内への路すがら、今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の栅など結ひたるを見るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりけり。 傳へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奧の細布と云ふもの、政子が織り出しけるを初めなりとかや。)

  に し き 木 の 卷

槇原(まきばら)に夕草床(ゆふぐさどこ)布(し)きまろびて

淡日影(あはひかげ)旅の額(ぬか)にさしくる丘、

千秋古(ちあきふ)る吐息なしてい湧く風に

ましら雲遠(とほ)つ昔(かみ)の夢とうかび、

彩もなき細布(ほそぬの)ひく天(あめ)の極み、

ああ今か、浩蕩(おほはて)なる蒼扉(あをど)つぶれ

愁知る神立たすや、日もかくろひ、

その命令(よざ)の音なき聲ひびきわたり、

枯枝のむせび深く胸をゆれば

窈冥霧(かぐろぎり)わがひとみをうち塞(ふさ)ぎて、

身をめぐる幻(まぼろし)、──そは百代(もゝよ)遠き

邊(へ)つ國(くに)の古事(ふるごと)なれ。 ここ錦木塚。

 

立ちかこみ、秋にさぶる靑垣山(あをがきやま)、

生(い)くる世は朽葉なして沈みぬらし。……

吹鳴(ふきなら)せる小角(くだ)の音も今流れつ、

狩馬(かりうま)の蹄(ひづめ)も、はた弓弦(ゆづる)さわぐ

をたけびもいと新たに丘(をか)をすぎぬ。

天(あま)さかる鹿角(かづの)の國、遠(とほ)いにしへ、

茅葺(かやぶき)の軒並(な)めけむ深草路(ふかくさぢ)を、

ああその日麻絹(あさぎぬ)織るうまし姬の

柴の門行きはばかる長(をさ)の若子(わくご)、

とぢし目は胸戶(むなど)ふかき夢にか凝(こ)る、

うなたれて、千里(ちさと)走る勇みも消え、

影の如(ごと)たどる步みうき近づき來(く)る

 

和胸(やはむね)も愛の細緖(ほそを)繰(く)りつむぐか、

はた秋(あき)の小車(をぐるま)行く地(ち)のひびきか。

梭(をさ)の音せせらぎなす蔀(しとみ)の中

愁ひ曳(ひ)く歌しづかに漂ひくれ。

え堪(た)へでや、小笛とりて戶の外より

たどたどに節(ふし)あはせば、歌はやみぬ。

くろがねの柱(はしら)ぬかむ力(ちから)あるに

何しかもこの袖垣(そでがき)くぢきえざる。

戀ひつつも忍ぶ胸のしるしにとて

今日もまた錦木(にしきぎ)立て、夕暗路(ゆふやみぢ)を、

花草(はなぐさ)にうかがひよる霜(しも)の如く、

いと重き步みなして今かへり去るよ。

 

八千束(やちづか)のにしき木をばただ一夜(ひとよ)に

神しろす愛の門(かど)に立て果(は)つとも、

束縛(いましめ)の荒繩(あらなは)もて千捲(ちまき)まける

女(め)の胸は珠(たま)かくせる磐垣淵(いはがきぶち)、

永(なが)き世(よ)を沈み果てて、浮き來ぬらし。

眞黑木(まくろぎ)に小垣(をがき)結(ゆ)へる哭澤邊(なきさはべ)の

神社(もり)にして、三輪(みわ)据(す)え、祈(の)る奈良(なら)の子(こ)らが

なげきにも似(に)つらむ我がいたみはもと、

長(をさ)の子のうちかなしむ歌知らでか、

梭の音胸刻みて猶流るる。

男(を)のなげく怨(うら)みさはに目にうつれば、

涙なす夕草露(ゆふくさづゆ)身もはらひかねつ。

   の ろ ひ 矢 の 卷 (長の子の歌)

わが戀は、波路(なみぢ)遠く丹曾保船(にそぼふね)の

みやこ路(ぢ)にかへり行くを送る旅人(たび)が

袖かみて荒磯浦(ありそうら)に泣(なげ)きまろぶ

夕ざれの深息(ふかいき)にしたぐへむかも。

夢の如(ごと)影消(かげき)えては胸しなえて、

あこがるゝ力(ちから)の、はた泡と失(う)せぬ。

 

遠々(とほどほ)き春の野邊(ぬべ)を、奇琴(くしごと)なる

やは風にさまされては、猶夢路(ゆめぢ)と

玉蜻(かぎろひ)と白う搖(ゆ)るゝおもかげをば

追(お)ふなべに、いづくよりか狹霧(さぎり)落ちて、

砂漠(すなはら)のみちことごと閉(と)ぢし如く、

小石(こいし)なす涙そでに包み難し。

 

しるしの木妹(いも)が門(かど)に立てなむとて

千代(ちよ)あまり聞きなれたる梭の音の

ああそれよ、生命(いのち)刻(きざ)む鋭(と)き氷斧(ひをの)か。

はなたれて行方(ゆくへ)知らぬ獵矢(さつや)のごと、

前後(まへしりへ)暗こめたる夜(よ)の虛(うつろ)に

あてもなく滅(ほろ)び去(い)なん我にかある。

 

新衣(にひごろも)映(はゆ)く被(かづ)き花束(はなたば)ふる

をとめらに立ちまじりて歌はむ身も、

かたくなと知らず、君が玉の腕(かひな)

この胸にまかせむとて、心たぎり、

いく百夜(もゝよ)ひとり來(き)ぬる長き路の

さてはただ終焉(をはり)に導(ひ)く綱(つな)なりしか。

 

呪(のろ)ひ矢(や)を暗(やみ)の鳥(とり)の黑羽(くろば)に矧(は)ぎ、

手(て)にとれど、瑠璃(るり)のひとみ我を射(ゐ)れば、

腕(うで)枯れて、强弓弦(つよゆづる)をひく手はなし。

三年(みとせ)凝(こ)るうらみの毒、羽(は)にぬれるも

かひなしや、己(おの)が魂(たま)に泌(し)みわたりて

時じくに膸(ずゐ)の水の涸(か)れうつろふ。

 

愛ならで、罪うかがふ女(め)の心を

きよむべき玉淸水の世にはなきを、

なにしかも、曉(あけ)の庭面(にはも)水錆(みさび)ふかき

古眞井(ふるまゐ)に身を淨(きよ)めて布(ぬの)を織(を)るか。

梭(をさ)の手をしばし代(か)へて、その白苧(しらを)に

丹雲(にぐき)なしもゆる胸の絲(いと)添へずや。

 

ああ願ひ、あだなりしか、錦木をば

早や千束立てつくしぬ。 あだなりしか。

朝霜の蓬(よもぎ)が葉に消え行く如、

野の水の茨(うばら)が根にかくるゝ如、

色あせし我が幻、いつの日まで

沈淪(ほろび)わく胸に住むにたへうべきぞ。

 

わが息(いき)は早や迫(せま)りぬ。 黑波(くろなみ)もて

魂(たま)誘(さそ)ふ大淵(おほふち)こそ、靈(れい)の海(うみ)に

みち通ふ常世(とこよ)の死(し)の平和(やはらぎ)なれ。

うらみなく、わづらひなく、今心は

さながらに大天(おほあめ)なる光と透(す)く。

さらば姬、君を待たむ天(あめ)の花路(はなぢ)。

   梭の音の卷 (政子の歌)

さにずらひ機(はた)ながせる雲(くも)の影も

夕暗にかくれ行きぬ。 わがのぞみも

深黑(ふかくろ)み波しづまる淵(ふち)の底に

泥(ひぢ)の如また浮きこずほろび行きぬ。

 

涙川つきざる水澄(す)みわしれど、

往きにしは世のとこしへ手にかへらず。

人は云ふ、女(め)のうらみを重き石と

胸にして水底(みぞこ)踏(ふ)める男(を)の子(こ)ありと。

 

枯蘆(かれあし)のそよぐ歌に、葉のことごと、

我(あ)をうらみ、たえだえなす聲ぞこもれ。

見をろせば、暗這(は)ふ波ほのに透(す)きて

我(あ)をさそふ不知界(みしらぬよ)のさまも見ゆる。

 

眞袖(まそで)たち、身を淨めて長年月(ながとしつき)、

祈りぬる我(あ)が涙の猶足らでか、

狂ほしや、好(よ)きに導(ひ)けと賴(たの)みかけし

一條(ひとすぢ)の運命(さだめ)の糸(いと)、いま斷(た)たれつ。

 

來(こ)ずあれと待(ま)ちつる日ぞ早や來(きた)りぬ。

かねてより捧げし身、天(あめ)のみちに

美靈(うまだま)のあと追はむはやすかれども、

いと痛き世のおもひ出また泣かるる。

 

石戶(いはど)なす絆累(ほだし)かたき牢舍(ひとや)にして

とらはれの女(め)のいのち、そよ、古井(ふるゐ)に

あたたかき光知らず沈む黃金(こがね)、

かがやきも榮(さか)えも、とく錆(さび)の喰(は)みき。

 

鹿(しか)聞(き)くと人に供(ぐ)せし湯(ゆ)の澤路(さはみち)

秋摺(あきず)りの錦もゆるひと枝(えだ)をば

うち手折(たを)り我(あ)がかざしにさし添へつつ、

笑(ゑ)ませしも昨日(きのふ)ならず、ああ古事(ふるごと)。

 

半蔀(はじとみ)の明(あか)りひける狹庭(さには)の窓、

糸の目を行き交(か)ひする梭の音にも、

いひ知らず、幻湧き、胸せまりて、

うとき手は愁ひの影添ふに瘦(や)せぬ。

 

ほだし、(ああ魔が業(わざ)なれ。) 眼(め)を鋭(するど)く

みはり居て、我(あ)が小胸(をむね)は萎(しな)え果てき。

その響き、心を裂(さ)く梭をとりて

あてもなく泣き祈れる我(あ)は愚かや

 

心の目(め)内面(うちも)にのみひらける身は、

靈鳥(たまどり)の隱れ家(が)なる夢の國に

安き夜を眠りもせず、醒めつづけて、

氣の阻(はゞ)む重羽搏(おもはうち)に血(ち)は氷(こほ)りぬ。

 

錦木を戶にたたすと千夜(ちよ)運(はこ)びし

我(あ)が君の步(あゆ)ます音夜々(よゝ)にききつ。

その日數(ひかず)かさみ行くを此いのちの

極(きは)み知る曆(こよみ)ぞとは知らざりけれ。

 

戀ひつつも人のうらみ生矢(いくや)なして

雨とふる運命(さだめ)の路など崢(こゞ)しき。

なげかじとすれど、あはれ宿世(すぐせ)せまく

み年(とせ)をか辿(たど)り來しに早や涯(はて)なる。

 

瑞風(みづかぜ)の香り吹ける木蔭(こかげ)の夢、

黑霧(くろぎり)の夢と變(かは)り、そも滅びぬ。

絕えせざる思出にぞ解(と)き知るなる

終(つひ)の世の光、今か我(あ)がいのちよ。

 

玉鬘(たまかづら)かざりもせし綠(みどり)の髮

切(き)りほどき、祈(いの)り、淵(ふち)に投げ入るれば、

ひろごりて、黑綾(くろあや)なす波のおもて、

聲もなく、夜の大空風もきえぬ。

 

枯藻(かれも)なす我が髮いま沈み入りぬ。──

さては女(め)のうらみ生(い)きて、とはの床に

夫(せ)が胸をい捲(ま)かむとや、罪深くも。──

靑火する死の吐息ぞここに通ふ。

 

ひとつ星(ぼし)目もうるみて淡(あは)く照るは、

我(あ)を待つと浩蕩(おほはて)の旅さぶしむ夫(せ)か。

愛の宮天(あめ)の花の香りたえぬ

苑(その)ならで奇緣(くしゑにし)を祝(ほ)ぐ世(よ)はなし。

 

いざ行かむ、(君しなくば、何のいのち。)

悵(いた)み充(み)つ世の殼(から)をば高く脫(ぬ)けて、

安息(やすらぎ)に、天臺(あまうてな)に、さらばさらば、

我(あ)が夫(せ)在(ま)す花の床にしたひ行かむ。 

 

   (甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。
   この詩もと前後六章、二人の死後政子の
   父の述懷と、葬りの日の歌と、天上のめ
   ぐり合ひの歌とを添ふべかりしが、筆を
   措きしよりこゝ一歲、興會再び捉へ難き
   がまゝに、乍遺憾前記三章のみをこの集
   に輯む。)

[やぶちゃん注:「にしき木の卷」の第二連二行目の「生(い)くる世は朽葉なして沈みぬらし。……」の最後のリーダは薄いが明らかに打たれてあると視認出来るので入れた。但し、筑摩版全集では存在しない。「見をろせば」はママ。最後の後書は底本では全体が本文三字下げで下まで目一杯行って次行に続くが、ブラウザの不具合を考えて、早く行変えをしてある。

 本詩篇群は現在の秋田県鹿角(かづの)市十和田錦木稲生田(いなおいだ)にある「錦木塚」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の「深草少将百夜(ももよ)通い」的な伝承(コンパクトにはウィキの「錦木塚」を見られたい。ただ小野小町の「百世通い」伝説は世阿弥などの能作家たちが創作したに過ぎない。本伝承も世阿弥の能「錦木」(同作については『宝生流謡曲 「錦木」』を参照されたい)によって全国区になったものであるが、先立つ能因法師の「錦木はたてなからこそ朽にけれけふの細布むねあはしとや」(「後拾遺和歌集」六五一番。前書「題不知(しらず)」)などの歌が先行しているから、元となった当該地方の民俗社会の求愛儀礼自体は遙かに古いと考えられる)に基づくものである。お勧めなのは、サイト「鹿角物語(秋田県鹿角市・小坂町)」「錦木塚」(「けふのせばのゝ」より)、及び「錦木塚伝説」「錦木塚物語」である。個人的にはこの置かれる錦木は男根のシンボライズであり陽物崇拝の名残のような気がする。「大館市立図書館」公式サイト内のこちらの紀行家として知られた江戸後期の博物学者にして旅行家であった菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)が記した「錦木」PDF:解説に『全五十九丁のうち、冒頭四分の一は、盛岡藩領鹿角郡毛馬内付近をめぐった文化四年夏の日記の断片、錦木塚に関する他人の詩歌六編、錦木塚周辺の図絵からなっている。また、後部四分の三は、主に津軽地方を描いた図絵からなっている』とある)原本が視認出来るが、その絵の中に明白な陽物崇拝のそれが見える。また、個人サイトらしい「菅江真澄と歩く旅のきろく」の「錦木塚の由来(鹿角)」には現代語訳で現地の当時の伝承が記されてあるので、是非、参照されたい。

 諸記載によれば、啄木は、この伝承を友人金田一京助(当時は盛岡尋常中学校の三年先輩)から聞き、母カツ(南部藩士の娘であった)の祖先が、その北直近の鹿角市毛馬内(けまない)であった啄木が興味を持ち、ここを訪れたとする。全集年譜には記載がないが、個人ブログ「啄木の息」の「秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <7>」によれば、盛岡尋常中学校四年次の明治三四(一九〇一)年七月下旬に友人らと秋田県鹿角地方へ旅行し、その際に錦木塚を訪れたとある。リンク先にも書かれてあるが、啄木はこの伝承に激しく心打たれ、翌年明治三十五年三月二十四日発行の『盛岡中學校校友會雜誌』三月号(第三号)に、

   にしき木

夕雲に丹摺(いずり)ははせぬ湖(うみ)ちかき草舍(くさや)くさはら人しづかなり

甍(いらか)射る春のひかりの立ちかへり市(いち)のみ寺(てら)に小鳩むれとぶ

を、『明星』明治三七(一九〇四)年二月号に本篇の「にしき木の卷」以降三篇の初出である詩「錦木塚」(「㈠」・「㈡ 長の子の歌」・「㈢ 政子の歌」)を発表している。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらからを読むことが出来る。その末尾には『⦅未完⦆』と記した上で後書きがあり、

   *

(秋田縣鹿角郡、花輪より小坂に至る途上、毛馬内の南十町許にして路傍に錦木塚あり。悲愁銷魂の傳說今に傳はりて、心ある旅人の幾世かこゝに淚を濺ぎけん。我十六才の年友とこの古跡を探りて、故老の情けに古記を抄錄し歸りける者、今猶藏して筐底にあり。この吟をなしえたる、それ或は多少の緣あるか。

此詩、五六六を一句とする新調の試作なり。識者の高誨を待つ。)

   *

とある。また、本詩集刊行後の翌年の明治三九(一九〇六)年一月号『明星』にも、詩「鹿角の國を憶ふ歌」(これは明治四〇(一九〇七)年二月号『紅苜蓿(べにまごやし)』にも再録されている)を発表している(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「啄木詩集」(大正一四(一九二五)年弘文社書店刊。但し、「憶ふ」は「懷ふ」となっている。筑摩版全集で「憶」とした)に載る当該詩篇の頭のページ)。これらに見られる本悲恋伝承への尋常ならざる啄木の偏愛的執着は特異である。しかも節子との婚約という至福の折りにこうした悲恋を詩篇として詠もうする啄木というのは、内面に、現実をも浸食するようなある激しいアンビバレントな対感情を宿命的に有していたと私には考えられる。そうして、それは私にはよく判る。何故なら、私もそうだからである。

 前書風の第一篇「錦木塚」は原伝承を恐らくは「伊勢物語」の文体を意識した擬古文表現で非常に上手く簡潔に纏めたものである。

「涙川」「涙川の橋」叙述に従うなら、根市(ねいち)川のこの附近に架橋していた橋と思われる。

「梭」詩篇で判る通り「をさ」と読んでいる。織機のシャトルである。

「花輪の里」錦木塚の南方の旧鹿角郡鶴田村の内。鹿角市花輪鶴田辺りから現在の鹿角花輪附近か。

「大きなる石三つ計り重ねて」現在は大きな石一つのようである。というより、先に示した菅江真澄の「錦木」でも一個の大岩であり、真澄自身が犬の伏せたような石と述べている。或いは、啄木が訪ねた折りには、誰かの手で石が重ねられていたものかも知れないが、ちょっと不審である。

「陸奧の細布」後で「細布(ほそぬの)」と普通に読んでいるが、本来は「細布」で「せばぬの」と読むべきであるようである。Takeo Wakatsuki 氏のサイト「蝦夷 陸奥 歌枕」のこちらに「希布の細布(けふのせばぬの)」として解説され、例歌も多数載る。それによれば、「狭布(せばぬの)」の『由来は陸奥の辺土の土人の庸調におこる物』で、『鹿角毛馬内の特産品』で、『けふの細布とは陸奥に出る幅狭き布也 せばければ狭布と書きてやがて声に「けふ」とよみて訓には「せばぬの」と読む也 其の声訓合わせて『けふの細(せば)布』と呼ぶ也(袖中抄)』とか、『此けふの細布と云は陸奥に鳥の毛にて織りける布也 多からぬ物にて織る布なればはたはりも狭くひろも短かければ上に着る事はなく小袖などのように下に着る也 されば背ばかり隠して胸まではかからぬ由を詠むなり(無名抄)』とあるように、『ここの布は高級品なので機織の規格より幅も狭く丈も短かめ』で、『都での人気商品だったのだろう』とされ、『平泉の藤原基衡が仏師雲慶に送った珍品のなかに』は「希婦細布二千反」とあるそうである。『希婦は狭布のことで鹿角一帯を意味して』おり、『特に毛馬内地方はその産地だったと言う』。『昔から此の辺りは横幅の狭い布を織り出して名産としていた』のであり、『鳥の羽とも兎の毛とも云われる物を織り込んでいて都で重宝された』が、『幅が短いので着物にしても両幅が胸まで届かない事から『男女の恋が成就し難い事を胸あわじとや』と詠んだので』あるとある。]

「槇原(まきばら)」杉檜の生えた草地。雨はしのげる。

「ましら雲」不詳。「ましら」は猿の異名であるから、孫悟空の觔斗雲のような孤雲のことか?

「浩蕩(おほはて)」音は「カウタウ(コウトウ)」で「広広として大きなさま」を言う。

「蒼扉(あをど)」蒼穹の換喩。

「命令(よざ)」読み不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。

「さぶる」「荒ぶ・寂ぶ」で「色が褪せる」の意。

「小角(くだ)」「おもひ出」で既出既注。

「うまし」「美(うま)し」。

「影の如(ごと)たどる步みうき近づき來(く)る」この一行は「影の如(ごと)」く――「たどる」・「步み」・「うき」・「近づき」・「來(く)る」という五つの動作の並列と読まないとおかしい。「うき」だけを形容詞「憂し」とするのは表現のリズムを壊すからである。となると、この「うき」は「浮き」で「落ち着かず」の謂いのように私は思う。大方の御叱正を俟つ。

「和胸(やはむね)」「愛の細緖(ほそを)」「繰(く)りつむぐ」「はた」「小車(をぐるま)」「陸奧の細布」の縁語や掛詞を並べて小気味よい。

「三輪(みわ)据(す)え」奈良県北部の奈良盆地南東部桜井市にある三輪山。本邦最古の神社とされる大神神社はこの三輪山を神体とするが、そうした荒ぶるあてにならぬ自然を神として崇め、祈る素朴な原始信仰形態の換喩。

「丹曾保船(にそぼふね)」万葉語を用いたが、であれば「にそほふね」と清音で読むべきであると私は思う。「そほ」は「丹(に)の土」の意で、船体を強い赤い色で塗った舟のことである。啄木は色彩の鮮やかさを狙っているだけで意識していないようだが、古代日本では丹塗りの小さな「赤ら小舟」は、しかし、死者の世界へ行く舟を意味するのである。

「野邊(ぬべ)」上代東国方言では「野」を「ぬ」と読む。

「奇琴(くしごと)なる」「やは風」で変わった琴の音のような柔らかな「風」の隠喩。

「玉蜻(かぎろひ)」陽炎(かげろう)に同じい。

「狹霧(さぎり)」霧の美称。

「時じくに」連語。時節にかかわらず。いつでも。

「膸(ずゐ)」表現上は、羽に塗ったはずの毒が沁みて潤っているはずの羽茎の膸がすっかり「涸(か)れうつろふ」てしまったの意であるが、同時に彼の「魂」にその毒が逆に沁みてしまい、魂の潤いがその毒によって変容し「涸れ」てしまったの意も重層させている。

「白苧(しらを)」「苧(からむし)」の別名。イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaウィキの「カラムシ」によれば、本種の『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく非常に丈夫である。績(う)ん取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで』、『網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』、六千年も前から『ヒトの手により栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部(はとりべ、はとり、服部)を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木』を列挙しているが、その『一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧』(あおそ)『座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』とある。

「丹雲(にぐき)なし」「朝日の反映する赤い東の雲を生み」の謂いであろうが、「くき」という読みは小学館「日本国語大辞典」にもない。山の洞穴を「岫(くき)」と呼び、古来、中国以来、高山のそこから雲が涌くと考えられたから、その読みを当てたか。

「沈淪(ほろび)わく」「沈淪」は「沈」も「淪」も「しずむ」の意で、「深く沈むこと」或いは「ひどく落魄(おちぶ)れること・零落」の意。そうした状態が心に充ちてしまうことを「わく」(涌く)と表現しているか。

「さにずらひ」連語で「赤く照り輝いて美しい」の意。「万葉集」に九例あり、「色」「君」「我が大君」「妹」「紐」「紅葉(もみじ)」を形容する言葉として用いられている。「つらふ」は、一説に、「移らふ」の意とする。しかし、そこでは総てが連体修飾語として用いられており、枕詞とする説もある。中古・中世には用例が殆んど見られない。しかし、近世に至って国学者達によって再び用いられるようになった。「機」られた錦のように流れている「雲」は「紐」「紅葉」の形容使用と類似はする。

「澄(す)みわしれど」「わしれど」意味不明。「走(わし)る」で、「素早く澄んだままに走り流れてはゆくけれども」の意か。

「眞袖(まそで)」左右の袖。両袖。

「たち」は「截ち」か。禊(みそぎ)のために穢れの付着しやすい袖を切ったものか。

「石戶(いはど)なす」厳重に封鎖されていることの形容。

「絆累(ほだし)」「綱」・「手枷(かせ)足枷・身動き出来ないようにするもの」・「妨げ・束縛するもの」の意。政子が機織り小屋を出られぬ呪縛を指す。

「うとき手」「愁ひ」のために利かなくなって動きが緩慢になってしまったのである。

「崢(こゞ)しき」岩がごつごつと重なって険しく。自由の身となれない政子の置かれた状況の比喩。

「い捲(ま)かむ」「い」上代の強意の接頭語。

「さぶしむ」「寂しむ」心が楽しまず物足りずいる男の霊の状態を指す。

「興會」詩篇を続いて詠ずる興趣。

「乍遺憾」「遺憾乍(なが)ら」。

「輯む」「あつむ」或いは「あむ」。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 四 鹿の角の話

 

     四 鹿 の 角 の 話

 自分の家に、鹿の角の附根を輪切りにして、それに笹に鯛かなんぞを彫刻した印籠の根附があつた。忘れたやうな時分に、家の何處かしらに轉がつて居たものである。何でも祖父が若い頃にやつた事だと言うた。仕事からフイと歸つて來たと思つたのに、何處にも姿が見えなんだ。方々探すと、土間の向座敷を締切つて、その中でコツコツ何かやつて居たさうである。何でも二日か三日、ろくに飯も喰はないで、えらい骨を折つたと言うた。今一ツ、これは何でも無い、只の三又の角があつた。何時からあつたと無しに背戶の庇に吊してあつた。時折笊が引掛けてあつたりしたが、吊つた紐が切てからは、押入の隅などに放つてあるのを時折見かけた。家の誰やらが、山から拾つて來たのだと言うた。自分の家には、その他に鹿の角のあつた事を記憶せぬが、隣家へ行くと、カマヤ(納屋)の軒に、五ツ六ツも吊して、それに簑が掛けてあつた。

[やぶちゃん注:「根附」「ねつけ・ねづけ」。江戸時代に使われた携帯物の留め具の一種。煙草入れ・印籠・巾着(財布)・小型の革製鞄(お金・食べ物・筆記用具・薬・煙草など小間物を入れた)・矢立などを紐で帯から吊るして持ち歩く際に用いた。

「カマヤ(納屋)」これは本来は「竃屋(かまや)」で、火を用いる竃(かま・へっつい)のある炊事場の意であるが、それが家屋の端にあり、本来の居住空間からは独立したものと見なされ(実際に母屋から独立している場合もあった)、それが実際に後の改築の中で位置関係から納屋に転用されるようになっても、この名が残ったものであろう。佐藤甚次郎氏の論文「炊事用空間のカマヤとミズヤの呼称の分布――日本の住家系統とその分布・地域的変容に関する一つのアプローチ――」PDF)の「Ⅲ 火どころ系呼称とその分布 1) 呼称の種類と分布地域」の「A カマヤ・ナベヤ・ヒタキヤ」に(コンマを読点に代えた)、

   《引用開始》

 カマヤは、炊事のためのカマドを設置した家屋の意で、この略称は九州中・北部、四国一帯から近畿にかけて、濃尾・東海地方、関東の南部から東北部、さらに福島県東部から宮城県にかけて、かなり広い範囲にわたって分布している。[やぶちゃん注:中略。]さらに、この呼称が別の機能空間に転移し、残存している場合も見られる。愛知県北設楽郡の山村では、現在は納屋として使用している空間をカマヤと呼び、静岡県駿東郡でも物置小屋をオカマヤといい、独立の炊事屋に対するカマヤ呼称の名残りを思わせる。宇都宮市近郊の農家(明治6年[やぶちゃん注:一八七三年。]建築)で、土問の一隅の穀物貯蔵場所をオカマヤと称している例が見られる。そこはカマドの場所に接したところであって、炊事用空間の一部が変化したもので、かつての炊事場呼称が残存したものと考えられる。なお、福井県坂井郡では、屋根の両端に破風がある入母屋を両カマヤ、一方だけの片入母屋を片カマヤといっている。これもカマヤの煙出しが意識されての名称で、カマヤ呼称がその根底を成したものと見られる。

   《引用終了》

とある。

「簑」蓑(みの)に同じい。]

 以前は何處の家でも、軒に鹿の角を吊して、簑掛けにしてあつた。さうかと思ふと土間の厩の脇の小暗い處に吊るして、作り立の藁草履が引掛けてあるのもあつた。大黑柱の眞黑に 煤けたのに吊して、枝の一つ一つに、種袋が結びつけたのもあつた。同じやうなのを兩方に下げて、土間の掛け竿の吊りにして、手拭や足袋を引つ掛けたものもあつた。

 かうした角は、何時から吊してあつたか、忘れてしまつた程だつた。家が以前狩人だつたためにも持つて居たり、狩人から手に入れたのもあつた。或は又、山仕事にいつて、拾つて來た物もあつたのである。

 或女は、正月にモヤ(薪)を刈りに行つて、其處で拾つた事があると言うた。最初薪木の枝に引かゝつてゐ居るのを見附けた時は、びつくりしたさうである。その日に限つて、體中が溶けるやうに懶るかつた[やぶちゃん注:「だるかつた」。]などゝ言うた。又或男は、夏の頃山へフシ(五倍子)の實を取りに入つて拾つたと言うた。山の峯へ出て、一休みして、煙草に火をつけると、足元に、今しがた誰かゞ置いてでも行つたやうに、三ツ又の角が落ちて居たさうである。

[やぶちゃん注:「その日に限つて、體中が溶けるやうに懶るかつた」「懶るかつた」は「だるかつた」。鹿は山の神その他の使いとして認識されていたことによるものであろう。最後のエピソードは採取を神が赦し、しかも加えて下し物として鹿角をも呉れたと考えたものであろう。

「フシ(五倍子)の實」ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉にヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた。主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。ここの「實」は前者の虫癭でとってよかろうが、後者の実際の実も採っていたであろう。]

 某の男は、秋カワ茸を採りに行つて、寒い日陰山の雜木の下で、落葉を引搔き廻す内、何年か雨に洒らされて、骨のやうになつた、二又角を拾つた事があると言うた。

[やぶちゃん注:「カワ茸」正式和名の種は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ベニタケ目カワタケ科カワタケ属カワタケ Peniophora quercina であるが、これは張り付き型の革質で食用にならないので違う(サイト「oso的キノコ写真図鑑」のこちらを見られたい)。これは恐らく食用として珍重される本邦固有種である担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱イボタケ目イボタケ科コウタケ属コウタケ Sarcodon aspratus の異名である。コウタケは「香茸」と漢字表記し、その歴史的仮名遣「カウタケ」が「コウタケ」と訛ったものである。コウタケは本邦では「鹿茸(ししたけ)」とも呼ばれ、コウタケ=シシタケとする記載がネット上には多く見られるが、実際の種としての「シシタケ」は欧米知られる同属シシタケ Sarcodon imbricatus の和名に当てられているので、正しくない。コウタケは高級茸で干すと非常に良い香りがするが、生食すると中毒することがあるので注意が必要である。

「洒らされて」「さらされて」。通常「晒」であるが、誤字ではない。「洒」には「水にさらす」の意があるからである。]

 かうして拾つて來た角は、何本でも軒に吊して簑掛けにしたのである。一度吊せば吊繩の腐らぬ限り、幾年經つても其處に下つて居た。雨の日など、グツシヨリ濡れた簑を、その枝に掛けて入口の敷居を跨いだのである。

 それ等の角が、今はもう何處の家にも無かつた。角買男に賣つたのもあつた。春秋の大掃除に外したまゝ、子供が玩具にする内、何時か見えなくなつたのもあつた。未だ角に枝の咲かない、若鹿の角の一方に繩を通して、莚織りの仕上に使つた物などは、つい昨日迄土間の壁に下げてあつたやうに思つたが、それもゝう見えなかつた。

[やぶちゃん注:「莚織りの仕上」これは装飾品ではなく、莚がほつけないように端にそれを固定材として用いたものであろう。]

 時偶鹿の角が座敷に吊してあれば、熱さましになると言うて、一方の端をひどく削つてしまつたやうな物だつた。こんな物でない限り、もう無くなつてしまつたのである。鹿が亡びると一緖に、その角も又、忽ち消えてしまつたのである。

 

2020/03/21

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 孤境

 

[やぶちゃん注:本篇は底本初版本(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML版3233)に従い、通常位置よりも全体を二字下げで示した。]

 

    孤  境

 

  老樫(おいかし)の枯樹(かれき)によりて

  墓(はかいし)の丘邊(をかべ)に立てば、

  人の聲遠くはなれて、

  夕暗に我が世は浮ぶ。

  想ひの羽(は)いとすこやかに

  おほ天(あめ)の光を追へば、

  新たなる生花被衣(いくはなかづき)

  おのづから胸をつつみぬ。

 

  苔(こけ)の下(した)やすけくねむる

  故人(ふるびと)のやはらぎの如、

  わが世こそ靈(たま)の聖(せい)なる

  白靄(しらもや)の花のあけぼの。

 

  いたみなき香りを吸(す)へば、

  つぶら胸光と透(す)きぬ。

  花びらに袖のふるれば、

  愛の歌かすかに鳴りぬ。

 

  ああ地(つち)に夜(よる)の荒(すさ)みて

  黑霧(くろぎり)の世を這ふ時し、

  わが息(いき)は天(あめ)に通(かよ)ひて、

  幻の影に醉ふかな。

           (甲辰一月十二日夜)

 

   *

 

    孤  境

 

  老樫の枯樹によりて

  墓(はかいし)の丘邊に立てば、

  人の聲遠くはなれて、

  夕暗に我が世は浮ぶ。

  想ひの羽(は)いとすこやかに

  おほ天(あめ)の光を追へば、

  新たなる生花被衣(いくはなかづき)

  おのづから胸をつつみぬ。

 

  苔の下やすけくねむる

  故人(ふるびと)のやはらぎの如、

  わが世こそ靈(たま)の聖なる

  白靄(しらもや)の花のあけぼの。

 

  いたみなき香りを吸へば、

  つぶら胸光と透きぬ。

  花びらに袖のふるれば、

  愛の歌かすかに鳴りぬ。

 

  ああ地(つち)に夜(よる)の荒(すさ)みて

  黑霧(くろぎり)の世を這ふ時し、

  わが息は天に通ひて、

  幻の影に醉ふかな。

           (甲辰一月十二日夜)

[やぶちゃん注:初出は『明星』明治三七(一九〇四)年二月号で、初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから画像で見ることが出来るポジティヴな現実(節子との婚約)の中で強いてネガティヴな荒みや死の影を匂わせつつも、前の一篇同様、そこに真の孤影や死のそれは、ない。寧ろ、後に啄木を襲う凄惨の遠い予告のように今は読めてしまうにしても、詩篇の極上な甘美はそういう作家論的解釈を根本的には拒否しており、そうした生死の形而上学からは全く無縁なところに酔うている桂冠詩人然とした両性さえも超越したアンドロギュヌス啄木の姿が髣髴すると言える。これは一種のそうした不完全な両性の合体幻想としての「孤」=一「箇」の存在、男女の結合の「境」=錬金術的な転換とも言えるように私には感じられる。

「生花被衣(いくはなかづき)」「かつぎ」とも読む。女性が外出時に顔を隠すために頭から被った衣で、この風習が起こった中世初期には、多く単(ひとえ)の衣(きぬ)が便宜的に用いられたことから、この姿を「衣被」(きぬかずき)と呼んだ。ここは幻想の生きた美花で出来た被衣のイメージの勝った想像である。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) いのちの舟

 

[やぶちゃん注:本篇は底本初版本(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML版3132)に従い、通常位置よりも全体を二字下げで示した。]

 

    い の ち の 舟

 

  大海中(おほわだなか)の詩(し)の眞珠(しんじゆ)

  浮藻(うきも)の底にさぐらむと、

  風信草(ふうしんさう)の花かほる

  我家(わぎへ)の岸をとめて漕ぐ

  海幸舟(うみさちぶね)の眞帆の如、

  いのちの小舟(をぶね)かろやかに、

  愛の帆章(ほじるし)額(ぬか)に彫(ゑ)り、

  鳴る靑潮(あをじほ)に乘り出でぬ。

 

  遠海面(とほうなづら)に陽炎(かげろう)の

  夕彩(ゆふあや)はゆる夢の宮、

  夏花雲(なつばなぐも)と立つを見て、

  そこに、秘(ひ)めたる天(あめ)の路(みち)

  ひらきもやする門(かど)あると、

  貢(みつぎ)する珠(たま)、歌(うた)の珠(たま)、

  のせつつ行けば、波の穗と

  よろこび深く胸を撼(ゆ)る。

 

  悲哀(かなしみ)の世の黑潮(くろじほ)に

  はてなく浮ぶ椰子(やし)の實(み)の

  むなしき殼(から)と人云(い)へど、

  岸こそ知らね、死(し)の疾風(はやち)

  い捲(ま)き起らぬうたの海、

  光の窓に凭(よ)る神の

  瑪瑙(めのう)の盞(さら)の覆(かへ)らざる

  うまし小舟を我は漕ぐかな。

           (甲辰一月十二日夜)

 

   *

 

    い の ち の 舟

 

  大海中(おほわだなか)の詩の眞珠

  浮藻の底にさぐらむと、

  風信草の花かほる

  我家(わぎへ)の岸をとめて漕ぐ

  海幸舟(うみさちぶね)の眞帆の如、

  いのちの小舟(をぶね)かろやかに、

  愛の帆章額(ぬか)に彫り、

  鳴る靑潮(あをじほ)に乘り出でぬ。

 

  遠海面(とほうなづら)に陽炎の

  夕彩(ゆふあや)はゆる夢の宮、

  夏花雲(なつばなぐも)と立つを見て、

  そこに、秘めたる天(あめ)の路(みち)

  ひらきもやする門(かど)あると、

  貢する珠、歌の珠、

  のせつつ行けば、波の穗と

  よろこび深く胸を撼(ゆ)る。

 

  悲哀(かなしみ)の世の黑潮(くろじほ)に

  はてなく浮ぶ椰子の實の

  むなしき殼と人云へど、

  岸こそ知らね、死の疾風(はやち)

  い捲き起らぬうたの海、

  光の窓に凭(よ)る神の

  瑪瑙の盞(さら)の覆(かへ)らざる

  うまし小舟を我は漕ぐかな。

           (甲辰一月十二日夜)

[やぶちゃん注:初出は『明星』明治三七(一九〇四)年二月号で、初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから画像で見ることが出来る

「風信草(ふうしんさう)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科ツルボ亜科ヒアシンス連 Hyacinthinae 亜連ヒアシンス属ヒアシンス Hyacinthus orientalis の本邦での異名。「風信子」「夜行蘭」「風見草」などとも呼ぶ。地中海沿岸・北アフリカ原産。日本には幕末の文久三(一八六三)年に、既に品種改良が盛んに行われていたオランダから入ってきた。オランダ語「hyacinth」(カタカナ音写:ヒアスィント)に日本人が漢字を当てたものである。「風信」というのは音の類似転写だけでなく、香りが非常に強いことをも意味に添えたものであろう。

「夏花雲(なつばなぐも)」夏の夕日に映える豊かな雲の言い換えであろう。

「撼(ゆ)る」震撼の熟語で判る通り、「撼」は「動かす・揺るがす・揺らぐ・揺れ動く」の意がある。

「い捲(ま)き」の「い」は強意の接頭語。

「甲辰一月十二日夜」「甲辰」(きのえたつ)は明治三七(一九〇四)年。まさにこの直近の一月八日、堀合節子と語り合い、将来を約束しており、この二日後の一月十四日に堀合家からの婚約同意を受けている。たまさかの至福の愛の思いの詩篇ととれる。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 三 引鹿の群

 

    三 引 鹿 の 群

 

Oiwakenomukahi

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「追分の向ひの山」。]

 

 前に言うた追分は、二十年前迄は鹿の鳴音が聞かれた。もうその頃は、何處にも聞かれなくなつたあとであつた。街道筋でこそあつたが、どちらを向いても山の陰で家數も五六しか無かつた。前を寒峽川が流れて、流れに臨んで山が押被さるやうに聳えて居た。秋の日の暮々[やぶちゃん注:「くれぐれ」。毎夕。]には、その山の峯で盛に鳴いたのである。闇を透して[やぶちゃん注:「すかして」。]キヨーと鋭く響いた時は、馴れぬ客などは、飛上る程びつくりしたさうである。曾て段戶山の山小屋に居た杣が、付近で鳴いた鹿の聲を、山犬が吠えたと感違ひして、一晚慄へ通した話があつた。最もそれは鹿が遊牝の時に限つて、稀れに唸るやうな聲をあげる、それであつたと言ふから、無理もない話であつた。鹿の聲は普通に鳴くのでも、相當の距離を置かないと、カンヨーと、妙な音には聞こえなんださうである。

[やぶちゃん注:「前に言うた追分」「一 淵に逃げこんだ鹿」に既出。現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「二十年前」本書刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治三九(一九〇六)年以前。

「鳴音」「なきね」。

「寒峽川」豊川の上流部の呼称「寒狹川」(かんさがは)の別字か。改訂本でも『寒峽川』のママである。以下も同じ。同流域の一部を「寒狭峡」と呼ぶので(寒狭峡大橋が横川の旧早川氏の実家の真ん前に架かる)、誤字とも言い難い。

「暮々」「くれぐれ」。毎夕。

「透して」「すかして」。

「段戶山」「だんどざん」。既出既注。北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。

「遊牝」前に徴すると「うかれめす」と訓じていよう。さかりのついた雌鹿。車山高原のペンション「レア・メモリー」の「ニホンジカの生態(車山高原にて)」(信州)によれば、『交尾期は911月で、オスジカは7.8歳で壮年期になると男盛りを誇示する雄叫びをあげ、メスシカ達に自分の存在を誇示し縄張りを主張します。「ナワバリ・オス」の登場です。この年齢期以降、体格も最大級になります。枝角も長さ・質量ともに他の非ナワバリ・オスを圧倒します』。『メスの発情は2週間ほどの周期でめぐってきます。秋は交尾の季節です。発情したメスは外陰が膨潤し粘液を分泌します。嗅覚が発達しているシカは、それで確実に発情を知ることになります』とある。私はワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問をしていたので、丹沢で何度も夜の鹿の鳴き声を聴いたが、ここに出る「遊牝の時に限つて、稀れに唸るやうな聲」というのは判らない。]

 今でこそ追分の向ひの山は、杉檜が植林されて、雜木なども從つて伸び放題であるが、以前は見渡す限りの山が、悉く近鄕の草刈場で、峯に處々形の面白い松があつた外、木と言うては殆ど無かつた。冬の夜はそこで盛に山犬が吠えたものと言ふ。

 入梅が明けて山の色が一段と濃くなつた頃には、朝早く其處を幾組かの引鹿(ひきじか)が通つたさうである。引鹿とは、夜の間麓近く出て餌を漁つたのが、夜明と共に山奧へ引揚げるそれを謂うたのである。恰もその頃は鹿が毛替りして、赤毛の美しい盛りであつた。それが朝露の置いた綠の草生を行つたゞけに、殊に目を惹いたのである。五ツ六ツ或は十五六も一列になつて、山の彼方此方を引いて行つた光景は、例へやうもない見事だつたと言うた。中には子鹿を連れて居るのもあつた。其等の步き振りを見て居ると、丸でビツコ(子馬)を曳くやうだつたさうである。或時など、全體どれだけ居るかと言うて、目に入るだけを數へ立てると、四十幾ツ居たと言うた。每朝の事だつたが、門に立つて全部が引揚げる迄、眺め暮したもので、中には朝日が赤く峯に映つてから、悠々引いて行くものもあつた。それが未だ昨日の事のやうだと、老人の一人は語つて居た。

[やぶちゃん注:「ビツコ(子馬)」「跛(びっこ)」ではなく、「子馬(びっこ)」の方言である。小学館「日本国語大辞典」に子馬の方言として北設楽郡振草が採集地の一つに挙げられてある。]

 寒中風のヒユーヒユー吹捲る日に、峯から三ツの獵犬に追はれて、崩れるやうにタワを降つて來て、川の中へ飛込んで、犬と鹿と四ツが眞黑になつて、互に縺れ合つて居るのに、後を追つて來た狩人達も、鐵砲を向けたまゝ放す事が出來なくて、ぼんやり立つて居た事もあつた。さうかと思ふと、まだ日のある内に、山犬に追はれて岩の上を走る鹿を、畑に耕作しながら、見た事もあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「タワ」既出既注。方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。]

 もう五十年も前になるが、中根某が或日前の寒峽川の川原から、山犬が喰餘して砂原に埋めて置いた鹿を拾つてきた。近所隣へも振舞つて、自分も煮て喰つた處が、その晚遲くなつてから、門口ヘ山犬が來て、恐ろしく吠立てたさうである。某はそれに驚いて、家の中から散々佗びたさうであるが、その聲が軒を隔てた隣家迄聞えたと言ふ。翌朝起きる早々に鹽を 桝に入れて、 昨夜(ゆんべ)は辛い目に遇つたと言ひ言ひ、前の河原へ置きに行つたと言うた。山犬の獲物を取つて來る時は、引換に鹽を置くものとは、一般に言はれて居た事である。

 その家は、街道筋の牛方相手の宿だつた。今でも牛宿と呼んで殘つてゐる。

[やぶちゃん注:「鹽」内陸の大型獣類が不足する塩を好むことは生態学的にも正しい。

「牛方」「うしかた」。牛を使って物を運ぶのを生業とする運送業者。

「牛宿」不詳。屋号であろうか。]

2020/03/20

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 二 鹿の跡を尋ねて

 

     二 鹿の跡を尋ねて

 

Yokoyamanite

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「橫山にて」。]

 

 猪と違つて鹿の方は、界隈ではもう何處にも居なくなつた。數年前迄は、鳳來寺山にたつた一ツ居たと聞いたが、それも捕つてしまつて、よくよく居なくなつたと、狩人も言うて居た。

 その鹿がこゝ三四十年前迄は、今から思ふと噓のやうに居たのである。狩人に追はれて、人家の軒や畑を走る姿を見る事は珍しくなかつた。未だほんの子供の時分であつた。軒端に莚を敷いて、ボトウ(日向ぼつこ)をして居る處へ、狩人に追はれた鹿が、前の畑から屋敷へ上る坂路を驅けて來て、座つて居た莚の端を蹴散らして、背戶の山へ驅け拔けた事があつた。その時、傍に祖母が座つて居た。アツと言うて、自分を抱へる暇さへなかつたと、後で笑つた事を覺えて居る。

[やぶちゃん注:「こゝ三四十年前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年で、著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年生まれである。前記から三十年前で明治三〇(一八九七)年で、早川氏は八歳頃であるから、後半の映像からは氏は満三、四歳で明治二十五年前後のエピソードと思われる。

「ボトウ(日向ぼつこ)」小学館「日本国語大辞典」に「ぼとう」があって、『日当たりのよい暖かい所』の方言として愛知県宝飯(ほい)郡の採集とする。旧宝飯郡は三河湾の東湾奥で、現在の新城市は東北直近である。]

 家の緣側から見ると、南の方遙かに舟著(ふなつけ)の連山が立塞がつて、雨上がりの後などは紫色に澄んだ山の腰に、白く水の落ちるのが見えた。彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]が舟著の百俵窪(ひやくたはらくぼ)で、一窪で米が百俵とれるげなゝどと言うた。その手前の、わずかばかりの盆地に、大海(あうみ)有海(あるみ)の二ツの部落が展けて[やぶちゃん注:「ひらけて」。]居た。西に低い山を負つて、晴れた日には人家の瓦屋根から陽炎が上るのが見えた。

[やぶちゃん注:「舟著(ふなつけ)の連山」早川氏の生家は現在の新城市横川字入リ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、それを引いてもらうと、直線で南西四キロほどのところに、豊川べりに新城市川路舟附(ふなつき)があり、対岸にも「舟着」を冠した施設が複数見える小学校のそれを見ると「ふなつけ」と読んでいる)。その豊川左岸の平地の南に山塊があるので、ここ(同航空写真)がそれであろう。国土地理院のこちらでは「舟着山」(標高四百二十七メートル)が確認でき、この山は早川氏に実家のまさに真南に位置している。筆者の挿絵もそちらを向いて描いたものと読める。

「百俵窪(ひやくたはらくぼ)」不詳。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ても、有海・大海の南には田地が見えない。と言うより、その辺りの豊川左岸は即、山間になっている。

「大海(あうみ)」読みはママ。新城市大海(おおみ)。横川の南部では寒狹川の対岸に当たる。

「有海(あるみ)」新城市有海(航空写真に切り替えると、前の大海とともに盆地であることが判る。]

 鐵道が通じて、大海の村へ長篠驛が出來てからもう三十年そこそこになる。それより數年前までは驛から數町離れた墓場續きの原に、未だ鹿の居た話がある。うつかり入つた狩人の目の前へ、三又の角を揃へた雄鹿ばかりが四ツ、驅けて來た時は、うつかりして居ただけに遂ひ泡食つて、遁して[やぶちゃん注:「にがして」。]しまつたと言うた。

[やぶちゃん注:「長篠驛」現在の新城市大海字南田にあるJR東海飯田線の大海駅の旧称。明治三三(一九〇〇)年開業。本書刊行時もまだ私鉄で、南へ向かう「豊川鉄道」と北へ向かう「鳳来寺鉄道」の境界駅であった。昭和一八(一九四三)年に国有化されるまで、この二つの私鉄時代には一部期間を除いて「長篠駅」と称した。参照したウィキの「大海駅」によれば、『豊川鉄道は』明治三〇(一八九七)年から『順次路線を豊橋駅から北へと延伸させていったが』、明治三三(一九〇〇)年九月、『新城からの最後の延伸区間が開通し、この大海駅へと到達した。開業当初は現在と同じく「大海駅」を駅名としていたが』、三年後の明治三六(一九〇三)年に、『駅東側を流れる豊川(寒狭川)の対岸にある地名をとって「長篠駅」と改称した。豊橋から伸びる路線の終着駅であったがゆえに、この頃の大海地区は奥三河や北遠、南信への玄関口となり、乗換客が利用する旅館・飲食店が立ち並び、運輸業者も多く集まって、人や物資の集積地として栄えた』。大正一二(一九二三)年二月には『豊川鉄道の傍系会社であった鳳来寺鉄道が、長篠駅を起点として』、『さらに奥地の三河川合駅まで路線を建設する。これにより長篠駅は』二『つの鉄道の境界駅となるが、両鉄道は直通運転を行っていたので』、『実質的には中間駅となっていた。また、北遠・南信の玄関口としての機能は新たな終着駅である』三河川合駅に『移っていった』とある。]

 大海の南隣、有海の篠原(しのんばら)は、今でこそ見渡す限り桑園になつて、長篠戰記に勇名を殘した鳥居勝商が憤死の跡なども、その中に埋もれてしまつた程であるが、以前は西隣の川路(かはぢ)の原と共に、又とない鹿の狩場であつた。どんな不獵の時でも、そこへ行けば必ず一ツ二ツは獲物があつたと言うた。山は何れを見ても低い赤禿山の續きで、何處[やぶちゃん注:「どこ」。]に鹿が居たと思ふやうであるが、又一方の話では、そこの大窪の谷で、山犬が子を產んだ事があつたと言うた。而もその折赤飯を焚いて、近所の女房達と一緖に見舞に行つたと言ふ女が、九十幾つではあつたが、未だ達者で居た事を考へると、村の姿は吾々が想像も及ばぬ程、早く變化したのである。

[やぶちゃん注:「有海の篠原(しのんばら)」有海篠原(しのはら)。寒狭川と宇連川の合流地点のカーブした右岸部分。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」でも桑畑が確認できる。

「長篠戰記」「三州長篠戰記」江戸前期の幕臣で歴史家であった根岸直利編。天正三(一五七五)年の「三河長篠の合戦」の戦記物。漢字カナ交じり。長篠城を死守した奥平信昌(のぶまさ)や鳶巣山(とびがすやま)の砦を攻め落した酒井忠次の活躍、鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき:次注参照)の勇猛譚を臨場感をもって描写したもの。

「鳥居勝商」(?~天正三(一五七五)年)。三河の徳川家康方の部将奥平信昌の家臣で、信昌が長篠城に入ったのに従い、天正三(一五七五)年二月、長篠城に入った。長篠城は同年五月一日から武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになったが、その時、城中での軍評定で徳川家康のもとに援軍を要請する使者を送ることを提案し、自ら武田軍の包囲網を突破して家康のもとに赴くことになった。十四日、強右衛門は長篠城を脱出することに成功、岡崎城の家康に長篠城の窮状を訴え、それを聞いた家康は信長ともども、出陣する決意を固めた。強右衛門は、その返事をすぐ城中の兵たちに伝えたいとして長篠城に戻ろうとしたが、包囲の目をかいくぐって潜入することはむずかしく、結局、武田軍の兵に捕えられた。このとき武田方では捕らえた鳥居強右衛門を城近くに連行し、「『援軍はこない。降参した方がよい』と言えば、命を助ける」という約束で、強右衛門にその口上を言わせようとしたが、強右衛門は「援軍がすぐ到着する」と叫んだ。そのため、強右衛門は篠場野に於いて磔にかけられ殺された。しかし、結果的には、この行為が長篠城籠城を継続させ、それが長篠設楽ケ原の織田・徳川連合軍大勝の大きな要因となったとされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。JR東海飯田線鳥居駅は、この強右衛門の最期の地に因んだ命名であり、駅の東北の近い位置に「鳥居強右衛門墓碑」が今も建つ。

「川路(かはぢ)の原」新城市川路。有海と川路は航空写真を見ると、丘陵がある。豊川を渡っても鹿はやって来たであろう。

「大窪の谷」不詳。]

 有海から東へ川を渡ると、舟著山の麓で、麓に沿うて展けた部落を七村(なゝむら)と言うた。大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)、市川(いちかは)、日吉(ひよし)、吉川(よしかは)、久間(ひさま)、乘本(のりもと)と、何れも小さな部落で、山と山との間に散らかつて居た。界隈の村から、何時も惡口の的にされた程の僻村だつただけに、鹿は至る處出た。中にも最も山奧の、大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)では、狩人が鐵砲舁いで通る度に、村の衆が出て來て、お狩人樣どうか鹿の奴を擊つて下されと、賴むげななどゝ言うた。勿論惡口ではあつたが、賴まれたのも事實だつた。狩人が鹿一ツ捕つて、お賴う申しますと舁ぎ込んで行けば、酒一升を出すのが普通であつたと言うた。何れもひどい山田を耕して居たが、畑の少ない米處で、しかも植え付けたばかりの稻を、鹿が出る度片つ端から拔取つて喰つてしまつたのだから、或はこんな不文の慣習があつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)、市川(いちかは)、日吉(ひよし)、吉川(よしかは)、久間(ひさま)、乘本(のりもと)」国土地理院図のこちらで、中央附近に「大平」・「栗衣」・「乗本」を、左中央やや下方に「市川」の現地名を見出せ、同じくそこから少し南西に動いた位置で左上中央に「日吉」、中央下左に「吉川」を見出せる。「久間」は不明。スタンフォード版も見たが、見当たらない。

「惡口」前も含めて「あくこう(あっこう)」と読んでおくが、後者は殺生をする狩人に対するものとしてかく言ったものであろう。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) おもひ出

 

[やぶちゃん注:本篇は底本初版本(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の当該ページHTML版のここと、ここと、ここに従い、通常位置よりも全体を二字下げで示した。]

 

    お も ひ 出

 

  翼酢色(はねずいろ)水面(みのも)に褪(あ)する

  夕雲と沈みもはてし

  よろこびぞ、春の靑海、

  眞白帆(ましらほ)に大日(おほひ)射(さ)す如、

  あざやかに、つばらつばらに、

  涙なすおもひにつれて

  うかびくる胸のぞめきや。

 

  ひとたびは、夏の林に

  吹鳴(ふきな)らす小角(くだ)の響きの

  うすどよむけはひ裝(よそ)ひて、

  みかりくら狩服人(かりぎぬびと)の

  駒並(こまな)めて襲ひくる如、

  戀鳥(こひどり)の鳥笛(とぶえ)たのしく

  よろこびぞ胸にもえにし。

 

  燃えにしをいのちの野火(のび)と

  おのづから煙に醉(ゑ)ひて、

  花雲(はなぐも)の天領(あまひれ)がくり

  あこがるる魂(たま)をはなてば、

  小(ち)さき胸ちいさき乍(なが)ら

  照りわたる魂の常宮(とこみや)、

  欄玕(らうかん)の宮柱(みやばしら)立て、

  瓔珞(えうらく)の透簾(すゐだれ)かけて、

  ゆゆしともかしこく守る

  夢の門(かど)。──門や朽ちけむ、

  いつしかに碎けあれたる

  宮の跡、霜のすさみや、

  礎(いしずへ)のたゞに冷たく。──

  息(いき)吹けば君を包みし

  紫の靄もほろびぬ。

  ふたりしてほほゑみくみし

  井(ゐ)をめぐる朝顏垣(あさがほがき)の

  繩(なは)さへも、秋の小霧(さぎり)の

  はれやらぬ深き濕(しめ)りに

  我に似て早や朽ちはてぬ。

 

  ああされど、サイケが燭(ともし)、

  かげ搖(ゆ)れて、戀の小胸に

  蠟涙(ろうるい)のこぼれて燒(や)ける

  いにしへの痛(いた)みは云はじ。

  とことはに心きざめる

  新創(にひきづ)を、空想(おもひ)の羽(はね)の

  彩羽(あやば)もてつくろひかざり、

  白絹(しらぎぬ)のひひなの君に

  少女子(をとめご)のぬかづく如く、

  うち秘(ひ)めて齋(いつ)き行かなむ

  もえし血の名殘(なごり)の胸に。

             (癸卯十二月末)

 

   *

 

    お も ひ 出

 

  翼酢色(はねずいろ)水面(みのも)に褪(あ)する

  夕雲と沈みもはてし

  よろこびぞ、春の靑海、

  眞白帆に大日(おほひ)射す如、

  あざやかに、つばらつばらに、

  涙なすおもひにつれて

  うかびくる胸のぞめきや。

 

  ひとたびは、夏の林に

  吹鳴らす小角(くだ)の響きの

  うすどよむけはひ裝(よそ)ひて、

  みかりくら狩服人(かりぎぬびと)の

  駒並(こまな)めて襲ひくる如、

  戀鳥の鳥笛(とぶえ)たのしく

  よろこびぞ胸にもえにし。

 

  燃えにしをいのちの野火と

  おのづから煙に醉ひて、

  花雲の天領(あまひれ)がくり

  あこがるる魂(たま)をはなてば、

  小(ち)さき胸ちいさき乍ら

  照りわたる魂の常宮(とこみや)、

  欄玕の宮柱立て、

  瓔珞の透簾(すゐだれ)かけて、

  ゆゆしともかしこく守る

  夢の門(かど)。──門や朽ちけむ、

  いつしかに碎けあれたる

  宮の跡、霜のすさみや、

  礎のたゞに冷たく。──

  息吹けば君を包みし

  紫の靄もほろびぬ。

  ふたりしてほほゑみくみし

  井をめぐる朝顏垣の

  繩さへも、秋の小霧(さぎり)の

  はれやらぬ深き濕りに

  我に似て早や朽ちはてぬ。

 

  ああされど、サイケが燭(ともし)、

  かげ搖れて、戀の小胸に

  蠟涙のこぼれて燒(や)ける

  いにしへの痛(いた)みは云はじ。

  とことはに心きざめる

  新創(にひきづ)を、空想(おもひ)の羽の

  彩羽(あやば)もてつくろひかざり、

  白絹(しらぎぬ)のひひなの君に

  少女子(をとめご)のぬかづく如く、

  うち秘めて齋き行かなむ

  もえし血の名殘の胸に。

             (癸卯十二月末)

[やぶちゃん注:初出は『時代思潮』明治三七(一九〇四)年三月号の総標題「深淵」の第二篇。本詩集の標題詩篇。「瓔珞(えうらく)」はママ。歴史的仮名遣は「やうらく」。「透簾(すゐだれ)」もママ。「透き垂れ」の音変化であるから「すいだれ」でよい。「礎(いしずへ)」もママ。歴史的仮名遣は「いしずゑ」。「蠟涙(ろうるい)」もママ。歴史的仮名遣は「らふるい」。「新創(にひきづ)」もママ。「にひきず」でよい。

「翼酢色(はねずいろ)」「朱華色(はねずいろ)」。黄色がかった薄い赤色。「日本書紀」や「万葉集」にもその名が見られる由緒ある伝統色。他に「波泥孺」「唐棣花」「棠棣」などの字を当てる。古代から禁色(きんじき)の一つであった。参照したサイト「伝統色のいろは」のこちらで色を確認出来る。

「つばらつばらに」副詞で「つくづく・しみじみ・よくよく」の意の万葉以来の語。

「ぞめき」「騷(ぞめ)き」。

「小角(くだ)」「管の笛」(くだのふえ)のこと。古くは戦場で用いたという獣の角で出来たの小笛。既に「和名類聚抄」巻十三の「調度部上第二十二」の「征戰具第百七十五」に、

   *

角 「兼名苑」注云、『角、本、出胡中』。或云、出吳越以象龍吟也。「楊氏漢語鈔」云、『大角【波良乃布江】、小角【久太能布江】

   *

と載る。

「鳥笛(とぶえ)」鳥の鳴き声を真似るように作った笛。当初は鳥刺しの狩猟具。

「天領(あまひれ)がくり」「天領巾隱り」天人が身につける美しい布。彩雲が空を遮るさまの換喩。

「欄玕(らうかん)」玉に似た美しい石。

「瓔珞(えうらく)」サンスクリット語「ムクターハーラ」又は「ケーユーラ」の漢訳語。もとはインドで身分の高い男女が珠玉や貴金属を編んで首・胸・腕などにつけた装身具。仏教に取り入れられて寺院内外の飾りや仏像の首・胸。衣服の飾りに用いる。

「透簾(すゐだれ)」向こうが透けて見える簾(すだれ)。

「サイケ」英語の “Psyche”(カタカナ音写は「サィキィ」が近い)であろう。ギリシア神話に登場する人間の娘プシューケー(ラテン文字転写:Psȳchē:古代ギリシア語では「気息・心・魂・蝶」を意味する)。愛の神エロス(キューピッド)の妻。女神アフロディテによってさまざまの苦難に遇わされたが、ゼウスの力で幸福を得た。後世、画題として好まれた美女である。英語の「psychology」(心理学)などはこれに由来する。]

2020/03/19

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 森の追懷

 

  森 の 追 懷

 

落ち行く夏の日綠の葉かげ洩(も)れて

森路(もりぢ)に布(し)きたる村濃(むらご)の染分衣(そめわけぎぬ)、

凉風(すゞかぜ)わたれば夢ともゆらぐ波を

胸這(は)うおもひの影かと眺め入りて、

靜夜(しづかよ)光明(ひかり)を戀ふ子が淸歡(よろこび)をぞ、

身は今、木下(こした)の百合花(ゆりばな)あまき息(いき)に

醉(ゑ)ひつつ、古事(ふるごと)繪卷(ゑまき)に慰みたる

一日(ひとひ)のやはらぎ深きに思ひ知るよ。

 

遠音(とほね)の柴笛(しばぶえ)ひびきは低(ひく)かるとも

鋤(すき)負ふまめ人(ひと)又なき快樂(けらく)と云ふ。

似たりな、追懷(おもひで)、小(ちい)さき姿ながら、

沈める心に白羽の光うかべ、

葉隱れひそみてささなく杜鵑の

春花(はるばな)羅綾(うすもの)褪(あ)せたる袖を卷(ま)ける

胸毛(むなげ)のぬくみをあこがれ歌ふ如く、

よろこび幽かに無間(むげん)の調(しら)べ誘ふ。

 

野梅(やばい)の葩(はなびら)溶(と)きたる淸き彩(あや)の

罪なき望みに雀躍(こおど)り、木の間縫(ぬ)ひて

摘(つ)む花多きを各自(かたみ)に誇(ほこ)りあひし

昔を思へば、十年(とゝせ)の今新たに

失敗(やぶれ)の跡(あと)なく、痛恨(いたみ)の深創(ふかきず)なく、

黑金諸輪(くろがねもろわ)の運命路(さだめぢ)遠くはなれ、

乳(ち)よりも甘かる幻透き浮き來て、

この森綠(みどり)の搖籃(ゆりご)に甦(よみが)へりぬ。

 

胸なる小甕(をがめ)は『いのち』を盛(も)るにたえで、

つめたき悲哀の塚邊(ついべ)に缺(か)くるとても、

底なる滴(しづく)に尊とき香り殘す

不滅の追懷(おもひで)まばゆく輝やきなば、

何の日靈魂(たましひ)終焉(をはり)の朽(くち)あらむや。

鳴け杜鵑よ、この世に春と靈の

きえざる心を君我れ歌ひ行かば、

歎きにかへりて人をぞ淨(きよ)めうべし。

  (癸卯十二月十四日稿。森は鄕校のうしろ。
  この年の春まだ淺き頃、漂浪の子病を負ふ
  て故山にかへり、藥餌漸く怠たれる夏の日、
  ひとり幾度か杖を曳きてその森にさまよひ、
  往時の追懷に寂寥の胸を慰めけむ。極月炬
  燵の樂寢、思ひ起しては惆帳に堪へず、乃
  ちこの歌あり。)

 

   *

 

  森 の 追 懷

 

落ち行く夏の日綠の葉かげ洩れて

森路に布きたる村濃(むらご)の染分衣(そめわけぎぬ)、

凉風(すゞかぜ)わたれば夢ともゆらぐ波を

胸這うおもひの影かと眺め入りて、

靜夜(しづかよ)光明(ひかり)を戀ふ子が淸歡(よろこび)をぞ、

身は今、木下(こした)の百合花(ゆりばな)あまき息に

醉ひつつ、古事(ふるごと)繪卷に慰みたる

一日(ひとひ)のやはらぎ深きに思ひ知るよ。

 

遠音の柴笛ひびきは低かるとも

鋤負ふまめ人(ひと)又なき快樂(けらく)と云ふ。

似たりな、追懷(おもひで)、小さき姿ながら、

沈める心に白羽の光うかべ、

葉隱れひそみてささなく杜鵑の

春花(はるばな)羅綾(うすもの)褪せたる袖を卷ける

胸毛のぬくみをあこがれ歌ふ如く、

よろこび幽かに無間(むげん)の調べ誘ふ。

 

野梅(やばい)の葩(はなびら)溶きたる淸き彩の

罪なき望みに雀躍(こおど)り、木の間縫ひて

摘む花多きを各自(かたみ)に誇りあひし

昔を思へば、十年(とゝせ)の今新たに

失敗(やぶれ)の跡なく、痛恨(いたみ)の深創(ふかきず)なく、

黑金諸輪(くろがねもろわ)の運命路(さだめぢ)遠くはなれ、

乳(ち)よりも甘かる幻透き浮き來て、

この森綠の搖籃(ゆりご)に甦へりぬ。

 

胸なる小甕(をがめ)は『いのち』を盛るにたえで、

つめたき悲哀の塚邊(ついべ)に缺くるとても、

底なる滴に尊とき香り殘す

不滅の追懷(おもひで)まばゆく輝やきなば、

何の日靈魂(たましひ)終焉(をはり)の朽(くち)あらむや。

鳴け杜鵑よ、この世に春と靈の

きえざる心を君我れ歌ひ行かば、

歎きにかへりて人をぞ淨めうべし。

  (癸卯十二月十四日稿。森は鄕校のうしろ。
  この年の春まだ淺き頃、漂浪の子病を負ふ
  て故山にかへり、藥餌漸く怠たれる夏の日、
  ひとり幾度か杖を曳きてその森にさまよひ、
  往時の追懷に寂寥の胸を慰めけむ。極月炬
  燵の樂寢、思ひ起しては惆帳に堪へず、乃
  ちこの歌あり。)

[やぶちゃん注:第二連最終行は「この森」(もり)「綠(みどり)の搖籃(ゆりご)に甦(よみが)へりぬ。」であって「みどり」は「綠」のみのルビである。後書はブラウザの不具合を考えて、早めに改行した。

「村濃(むらご)」染め方の一つで、わざと斑(むら)をつけて染めたもの。同色でところどころに濃淡をつけて染め、用いる色によって「紺斑濃」・「紫斑濃」などと称する。

「柴笛(しばぶえ)」樫・椎・椿など厚手の葉の若葉を口に当てて吹きならすこと。

「まめ人(ひと)」懸命に働く人。

「杜鵑」「ほととぎす」。

「塚邊(ついべ)」特異な読みである。筑摩版全集もママ。しかし、初出(『明星』三七(一九〇四)年一月号)は「つかべ」である。さすれば、誤植の可能性が大きいか。但し、「築(つ)く」という四段動詞の「築(つ)き(たる)辺(へ)」(墓を築いたその辺り)の音変化の可能性も絶対にないとは言えぬかも知れぬ。なお、初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読める。

「尊とき」私は「たつとき」と読みたくなる人間である。

「鄕校」「きやうこう」。村里の学校。初出では前書で、『(森は鄕校の後にあり。これ我幼うしてこゝに物學びしける頃、夏每に友を集へて杜鵑の歌流るゝ木かげに遊戲したる所。)』と述べていることから、渋民尋常小学校を指していると考えてよかろう。

「この年の春まだ淺き頃、漂浪の子病を負ふて故山にかへり」「この年」とは「癸卯」(みづのえう)の明治三六(一九〇三)年。前年十月に盛岡中学校を退学した後、同月十月三十一日に文学で身を立てんとして上京するも、窮乏の中、身体を悪くし、明治三十六年一月二十六日、父一禎が迎えに来て、生まれ育った渋民の宝徳寺に帰郷し、年内は養生の日々であった(翌年三月まで。但し、「藥餌漸く怠たれる夏の日」とあるように明治三十六年の夏には恢復に向かっていたことが判る)。

「極月」十二月。読みは「ごくげつ」か「ごくづき」であろう。

「惆帳」「ちうちやう(ちゅうちょう)」は恨み嘆くこと。

「乃ち」「すなはち」。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 夕の海

 

   夕 の 海

 

汝(な)が胸ふかくもこもれる秘密ありて、

常劫(じやうごふ)夜をなす底なる泥岩影(ひぢいはかげ)、

黑蛇(くろへみ)ねむれる鱗(うろこ)の薄靑透(ほのあをす)き、

無限の寂寞(じやくまく)墓原(はかはら)領(りやう)ずと云ふ。

さはこの夕和(ゆふなぎ)、何の意(い)、ああ海原。

遠波(とほなみ)ましら帆(ほ)入日の光うけて

華やかにもまたしづまる平和(やはらぎ)、げに

百合花(ゆりはな)添へ眠(ぬ)る少女(をとめ)の夢に似るよ。

 

白塗(しらぬり)かざれる墓(はか)には汚穢(けがれ)充(み)つと

神の子叫びし。外裝(よそひ)ぞはかないかな。

花夢(はなゆめ)きえては女(め)の胸罪の宿(やど)り、

夕和(ゆうなぎ)落ちては、見よ、海黑波(くろなみ)わく。

醉(よ)はむや、再び。平和(やはらぎ)、──妖(えう)の酒に

咲き浮く泡なる。沈默(しじま)の白墓(しらはか)なる。

           (癸卯十二月五日夜)

 

   *

 

   夕 の 海

 

汝(な)が胸ふかくもこもれる秘密ありて、

常劫夜をなす底なる泥岩影(ひぢいはかげ)、

黑蛇(くろへみ)ねむれる鱗の薄靑透(ほのあをす)き、

無限の寂寞墓原領ずと云ふ。

さはこの夕和(ゆふなぎ)、何の意、ああ海原。

遠波ましら帆入日の光うけて

華やかにもまたしづまる平和(やはらぎ)、げに

百合花(ゆりはな)添へ眠(ぬ)る少女(をとめ)の夢に似るよ。

 

白塗(しらぬり)かざれる墓には汚穢(けがれ)充つと

神の子叫びし。外裝(よそひ)ぞはかないかな。

花夢(はなゆめ)きえては女(め)の胸罪の宿り、

夕和(ゆうなぎ)落ちては、見よ、海黑波わく。

醉はむや、再び。平和(やはらぎ)、──妖の酒に

咲き浮く泡なる。沈默(しじま)の白墓(しらはか)なる。

           (癸卯十二月五日夜)

[やぶちゃん注:表題は「ゆふのうみ」と読んでおく。初出は『帝國文學』明治三七(一九〇四)年三月号の総標題「無弦」の第三篇。

「夕和(ゆうなぎ)」の「う」はママ。筑摩版全集は『ゆふなぎ』と訂している。前の「夕和(ゆふなぎ)」に徴して考えれば、植字工の誤りであろうが、取り立てて違和感はないのでママとした。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 荒磯

 

[やぶちゃん注:本篇は底本初版本の「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の当該ページHTML版のここ及びここに従い、通常位置よりも全体を二字下げで示した。

 

     荒  磯

  行きかへり砂這(は)ふ波の

  ほの白きけはひ追ひつゝ、

  日は落ちて、暗湧き寄する

  あら磯の枯藻(かれも)を踏めば、

  (あめつちの愁(うれ)ひか、あらぬ、)

  雲の裾ながうなびきて、

  老松(おいまつ)の古葉(ふるば)音(ね)もなく、

  仰(あふ)ぎ見る幹(みき)からびたり。

  海原を鶻(みさご)かすめて

  その羽音波の碎けぬ。

  うちまろび、大地(おほぢ)に呼べば、

  小石なし、涙は凝(こ)りぬ。

  大水(おほみづ)に足を浸(ひた)して、

  黝(くろ)ずめる空を望みて、

  ささがにの小さき瞳(ひとみ)と

  魂(たま)更に胸にすくむよ。

  秋路(あきぢ)行く雲の疾影(とかげ)の

  日を掩(おほ)ひて地(ち)を射(ゐ)る如く、

  ああ運命(さだめ)、下(を)りて鋭斧(とをの)と

  胸の門(かど)割(わ)りし身なれば、

  月負(お)ふに瘦(や)せたるむくろ、

  姿こそ濱芦(はまあし)に似て、

  うちそよぐ愁ひを砂の

  冷たきに印(しる)し行くかな。

           (癸卯十二月三日夜)

 

   *

 

     荒  磯

 

  行きかへり砂這ふ波の

  ほの白きけはひ追ひつゝ、

  日は落ちて、暗湧き寄する

  あら磯の枯藻を踏めば、

  (あめつちの愁ひか、あらぬ、)

  雲の裾ながうなびきて、

  老松の古葉音(ね)もなく、

  仰ぎ見る幹からびたり。

  海原を鶻(みさご)かすめて

  その羽音波の碎けぬ。

  うちまろび、大地(おほぢ)に呼べば、

  小石なし、涙は凝りぬ。

  大水に足を浸して、

  黝(くろ)ずめる空を望みて、

  ささがにの小さき瞳と

  魂更に胸にすくむよ。

  秋路行く雲の疾影(とかげ)の

  日を掩ひて地を射る如く、

  ああ運命(さだめ)、下(を)りて鋭斧(とをの)と

  胸の門(かど)割りし身なれば、

  月負ふに瘦せたるむくろ、

  姿こそ濱芦に似て、

  うちそよぐ愁ひを砂の

  冷たきに印し行くかな。

           (癸卯十二月三日夜)

[やぶちゃん注:本篇は本詩集が初出である。

「暗湧き寄する」「やみわきよする」と読みたい。

「鶻(みさご)」タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetus。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご)(ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を見られたい。

「小石なし、涙は凝(こ)りぬ」「淚は」「凝(こ)り」て「小石」成(な)し、の意。

「ささがに」蜘蛛。

「濱芦(はまあし)」普通の単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis のことであろう。ヨシは塩分に対して耐性があり、河川の下流域から汽水域上部或いは干潟の陸側に広大なヨシ原を形成する。また、参照したウィキの「ヨシ」によれば、『「難波の葦(アシ)は伊勢の浜荻(ハマオギ)」は、物の名前が地方によって様々に異なることをいう』諺であるが、『平安末期の住吉杜歌合』でも、『藤原俊成の』詞として『「難波の方ではあしとだけいい、東(あづま)の方では、よしともいう」とあり、また「伊勢志摩では、はまをぎ(ハマオギ)と名づけられている」と書き残されている』とある。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 海の怒り

 

  海 の 怒 り

 

一日(ひとひ)のつかれを眠りに葬(はふ)らむとて、

日の神天(あめ)より降(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、

照り映(は)ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、

さてこそ落ち來し黑影(くろかげ)、海を山を

領(りやう)ずる沈默(しゞま)に、こはまた、恐怖(おそれ)吹きて、

眞暗(まやみ)にさめたる海神(わだつみ)いかる如く、

巖鳴り碎けて、地を嚙(か)む叫號(さけび)の聲、

矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾(きやうらん)陸(くが)を呪ふ。

 

寄するは夜の胞盾(たて)どる秘密の敵(てき)。──

墮落(おち)てはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の

信(まこと)のおとづれ囁(さゝ)やく波もあらで、

ああ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪の

記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮狂ふに、

月なき荒磯邊(ありそべ)、身ひとり怖れ惑ふ。

            (癸卯十二月一日)

 

   *

 

 

  海 の 怒 り

 

一日(ひとひ)のつかれを眠りに葬らむとて、

日の神天(あめ)より降(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、

照り映ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、

さてこそ落ち來し黑影、海を山を

領ずる沈默(しゞま)に、こはまた、恐怖(おそれ)吹きて、

眞暗(まやみ)にさめたる海神(わだつみ)いかる如く、

巖鳴り碎けて、地を嚙む叫號(さけび)の聲、

矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾陸(くが)を呪ふ。

 

寄するは夜の胞盾(たて)どる秘密の敵。──

墮落(おち)てはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の

信(まこと)のおとづれ囁やく波もあらで、

ああ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪の

記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮狂ふに、

月なき荒磯邊(ありそべ)、身ひとり怖れ惑ふ。

            (癸卯十二月一日)

[やぶちゃん注:「夜の胞」は「よのえな」か。但し、本篇には初出があり(『帝國文學』明治三七(一九〇七)年三月号。総標題「無弦」の第二篇)ではこれを『夜の胸』とする。現在流布している「あこがれ」の「海の怒り」のテクストの幾つかは「胸」となっているのである(例えば国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一九二五)年弘文社書店刊「啄木詩集」のここ)。初版本「あこがれ」の誤植か改稿かは定かではないが、誤植の可能性は濃厚ではある。何故なら、当然、啄木が「えな」のつもりならば、「胞衣」とするか、「胞(えな)」とルビを振るであろうからである。但し、筑摩版全集は『胞』である。これには事情があって、岩城之徳氏の筑摩版全集解題によれば、現在の「あこがれ」には、もと二種の啄木自筆の書き入れ本があり、新潮社版「啄木全集」(大正八(一九一九)年から翌年刊)はその一本に従った校訂版である(但し、その新潮社が拠った書き入れ本の方は全集刊行後に紛失、今から実に百年も前に行方不明となっている)。ところが、現存するもう一冊の書き入れ本と新潮社版を校合すると、『著しい異同が目立ち、問題があることがわかる』ことから、筑摩版は敢えて初版本に拠っているからである。ともかくも、初出形を以下に示して読者の参考に供することとする。筑摩版を参考に漢字を恣意的に正字化した。

   *

 

   海の怒り

 

つかれし一日(ひとひ)のを『眠』にわかたむとて、

日の神天(あめ)より下(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、

照り映(は)ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、

さてこそ落ち來し黑影(くろかげ)、海を山を

領(りやう)ずる沈默(しゞま)に、こはまた恐怖(おそれ)吹きて、

眞暗(まやみ)に醒(さ)めたる海神(わだつみ)いかる如く、

巖(いは)鳴り碎けて、地(ち)を嚙(か)む叫號(さけび)の聲、

矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾(きやうらん)陸(くが)を呪ふ。

 

寄するは夜の胸盾(たて)どる祕密の敵(てき)、

墮(お)ちてはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の

信(まこと)の福音(おとづれ)囁く波もあらで、

あゝ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪惡(つみ)の

記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮(しほ)狂ふに、

月なき荒磯邊(ありそべ)、身一人(ひとり)怖れ惑(まど)ふ。

 

   *

「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年。向後は年が変わるまで、この注は略す。]

2020/03/18

三州奇談卷之四 怪石生ㇾ雲

 

    怪石生ㇾ雲

 富田(とだ)越後入道日源は、實は山崎氏にして、江州佐々木承禎(じやうてい)の支族なり。故ありて當國の祖君利家公に仕へ、山崎六左衞門と名乘りて、「末森後卷(すゑもりごまき)」の時分も手柄を顯はし、夫より每度戰功ありて、其後富田治部左衞門の聟になり、姓名を改め次第に登用せられて越後守となり、一萬三千五百石を領し、七手の旗頭(はたがしら)の内なり。殊に中條流の奧儀を極め、其名世に轟き、術(じゆつ)萬人の上に出で、天下無双と呼ばれて、公方家光公の台覽(たいらん)に入りしとかや。

[やぶちゃん注:「富田越後入道日源」これは冨田重政(とだしげまさ 永禄七(一五六四)年~寛永二(一六二五)年)のこと。ウィキの「冨田重政」によれば(下線太字は私が附した)、『戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦富田景政の婿養子。子は冨田重家、冨田重康、冨田宗高。官位は越後守』。『通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊』(おおい)。『前田利家の家臣として仕え』、天正一一(一五八三)年の『能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから』、『利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした』。『小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から』、一万三千六百七十石の『所領を与えられた。その後』、『老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居している。しかし利常に従って』、慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」にも『参戦し』、十九人の『敵兵の首級を挙げるという武功を立てた』。『戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた』とある。ただ、「日源」は不審「加能郷土辞彙」のこちらの彼の記載によれば、法号は「日惠である。姻族に当たる戦国時代の中条流の剣豪冨田勢源(とだせいげん 生没年不詳)との混同しているものかも知れない。冨田勢源は後に出るが、ウィキの「富田勢源」によれば、戦国時代の剣豪で、名は五郎左衛門。剃髪してから「勢源」と号し、冨田五郎左衛門入道勢源とも呼ばれる。『大橋勘解由左衛門高能より中条流を学んだ、越前朝倉氏の家臣、冨田九郎左衛門長家(生没年不詳)の子、冨田治部左衛門景家の長子』で、『中条流(後に冨田流とも呼ばれる)の遣い手』。『義理の甥に「名人越後」と称された富田重政、弟子に一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師である鐘捲自斎(富田景政の弟子との説もある)、東軍流の流祖・川崎鑰之助等がいる』。『朝倉氏に仕えたが、眼病を患ったため剃髪し、家督を弟の冨田治部左衛門景政に譲った』。『美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓していたおり、神道流の達人、梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃で倒した話は有名である』とある。以下、ここに出る剣士連中は、皆、ただものではない。というわけで、最後にちょびっと出る剣豪らと何の関係もない、如何にも痩せたしょぼい怪異箇条のために、この長大な枕の剣豪を注するという労多くして益少なきことを、今日丸一日かけることとなってしまった。最後までお読みになれば、愚かな私のボヤきの意味がお判り戴けるものとは存ずる。

「佐々木承禎」戦国から安土桃山時代にかけての武将で守護大名(近江国守護)にして六角氏第十五代当主六角義賢(大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)のことであろう。六角氏は宇多源氏の佐々木氏流で、剃髪後は承禎(じょうてい)と号しているからである。また、六角氏の有力な家臣の一人に山崎賢家(かたいえ)がいるが、近江山崎氏は宇多源氏佐々木氏の支族の一つであり、源頼朝が佐々木憲家を近江国犬上郡山崎の地頭に任じたのが山崎を称した始まりとされ、彼は六角義賢より偏諱を受けて賢家を称しているので、この流れであると考えてよかろう。

「末森後卷」「末森の戦い」の異名。天正一二(一五八四)年九月、越中の佐々成政が軍勢を率いて能登の末森城を攻め、末森城は守勢となり、一報を受けた前田利家が金沢を急発、海岸線を進んで末森城に入り、成政軍を撃退した戦い。利家が援軍として、末森城を攻める佐々軍の背後から参戦して勝利した戦いで「末森後詰」(ごづめ)とも称される。この戦いは、翌天正十三年にまで続く二年に亙った利家と成政との争いの一部であった。詳しくは参照した玉川図書館近世史料館のパンフ「末森の戦いと加賀の山城」PDF)を読まれたい。

「富田治部左衞門」富田景政(とだかげまさ 大永四(一五二四)年~文禄二(一五九三)年)は戦国武将。治部左衛門は通称。ウィキの「富田景政」によれば、『富田景家の三男で、眼病を患っ』て『剃髪した兄・富田勢源より家督を譲られた。はじめ越前朝倉氏に仕えていたが、その没落後は前田利家に仕え、後に七尾城の守将となる。賤ヶ岳の戦いで子の景勝が戦死すると、同じく朝倉氏に仕えていた山崎景邦より養子を迎えた。この養子が後に「名人越後」と称される富田重政である』。『弟子には一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師となる鐘捲自斎(富田勢源の弟子との説もある)がいる。また豊臣秀吉の甥である秀次に剣術を指南した』とある。

「中條流」「關氏の心魔」で既出既注。

「台覽」皇族や高貴な人が対面すること。]

 又、其門人に山崎左近・長谷川宗喜(むねのぶ)・印牧月齋(いんまきぐわつさい)とて、世に勝れたる妙手あり。是を「富田の三家」と云ふ。關白秀次公の時、宗喜と疋田文五郞と兵法の勝負ありて、世に名高き人なり。

[やぶちゃん注:「山崎左近」(生没年未詳)は織豊時代の剣術家。富田重政の兄(弟とも)。父山崎景邦に中条流を学び、富田流三家の一つ山崎流(中条山崎流)の祖となった。朝倉氏、後に前田利家に仕えた。名は景成。通称は五郎右衛門。

「長谷川宗喜」(生没年未詳)織豊時代の剣術家。富田九郎左衛門に学び、富田流を究める。後に長谷川流を起こし、関白豊臣秀次に指南した。一説に富田景政の門下とする。通称は宗右衛門。

「印牧月齋」「月齋」は「自齋」の誤り(筆写者による判読の誤りと思われる)。織豊時代の剣術家鐘捲自斎(かねまきじざい 生没年未詳)。ウィキの「鐘捲自斎」によれば、『鐘捲流剣術の開祖』で、『一刀流剣術の伊東一刀斎の師とされる。出身地は不明だが、越前(福井県)の名家』であった印牧氏の出ではないかとされている。『鐘捲自斎通家は外他(とだ)姓を持ち、越前朝倉氏の剣術指南で、富田流の名人富田治部左衛門(富田景政)の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。この頃、外田(戸田)一刀斎と名乗ったこともあるという』。『自斎の弟子には、前原弥五郎がおり』、『「一刀斎」の名跡を譲り受け、以後、伊東一刀斎と名乗』って『「一刀流剣術」を興したとされる。自斎は伊東一刀斎に奥義「高上極意五点」を伝えた。また伊東は、外田一刀斎を名乗っており、両者は同一人とする説もある。これは、伊東一刀斎の高弟といわれる古藤田』(ことうだ)『勘解由左衛門(古藤田俊直)が、自流を外他一刀流と名乗っていることと、自斎も一時自流を鐘捲外他流と名乗ったことが根拠とされる。他の弟子に、佐々木小次郎がいるとされる』。『道統は米沢の中村氏家が継承し、仙台藩の藩主護衛の役を負った』とある。

「疋田文五郞」兵法家疋田景兼(ひきたかげとも 天文六(一五三七)年?~慶長一〇(一六〇五)年?)。姓は「侏田」「引田」「挽田」とも表記。ウィキの「疋田景兼」によれば、『上泉信綱(上泉伊勢守)の直弟子で新陰流の兵法家。後世、疋田陰流剣術や新陰疋田流槍術の祖とされた。信綱の甥とも伝えられる。通称は豊五郎(ぶんごろう、文五郎、分五郎とも書く)。号は小伯(虎伯とも書く)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)と号した』。『加賀国石川郡に、上泉信綱の姉を母に生まれたと伝えられている。信綱に剣術を学ぶ傍ら、赤城山で剣術の修行に打ち込む信綱の生活の世話をしたと伝えられる。信綱に従って長野氏に属し、武田氏や北条氏との戦で活躍する。長野業盛が自害して長野氏が滅亡すると、武者修行に出た信綱に同行し』、永禄六(一五六三)年には、当時、『畿内随一との評判が高かった柳生宗厳』(むねとし/むねよし)『と信綱の代わりに立ち会い』、三『度とも全て勝ったと伝えられているが、これが記されているのは江戸時代の文献であり、尾張柳生家の伝承では信綱自身が立ち会ったとされ、また、鈴木意伯(神後伊豆守)が立ち会ったと記す文献もある』。『いずれにせよ、この敗北で宗厳は己の未熟さを悟り』、『即座に信綱に弟子入りしたという』。『柳生の里で信綱と別れ、単身』、『諸国を巡り』、『修行を続け、その間、織田信忠、豊臣秀次、黒田長政などに兵法を指南した。景兼は立会いの際「その構えは悪しうござる」と声をかけてから打ち込んでいた逸話を遺す。また』、『徳川家康の前でも演武したが、家康はその剣技を「匹夫の剣」と評して入門せず、柳生宗厳に入門したという逸話もあるが、これは柳生家を持ち上げるために後世創作されたものとも言われている。なぜならば』、『徳川家康は奥山休賀斎(奥平久賀斎とも)に新陰流の流れをくむ神影流を師事していたことがあるため、新陰四天王に数えられる景兼を酷評する必要はなく、景兼が織田信忠や豊臣秀次へ指南していたことから遠ざけられたことを含めて』、『柳生流を持ち上げたものとおもわれる』とする。また、『上泉信綱以外の兵法家にも師事したことが知られ、新当流雲林院松軒宛ての起請文が残っているほか、景兼が発行したと伝わる伝書によると、念流を学んでいたことがわかる』。『のち、丹後の細川氏に仕えたが』、文禄四(一五九五)年に『禄を返上し』、『剃髪、栖雲斎と号して再び』六『年間の廻国修行を行った。その際、柳生家を訪れ、柳生宗厳の嫡男、新次郎厳勝あてに口伝を遺していることから、晩年に至るも柳生家との関係は深いものであったことが伺える』。『廻国の後は小倉で細川氏に再び仕え、その後は肥前国唐津藩に一時仕官したとも言われ、最期は大坂城で客死したとも伝えられるが、史実は不明である』とある。]

 此山崎左近に三子あり。小右衞門・内匠(たくみ)・次郞兵衞と云ふ。次郞兵衞は慶長五年大聖寺陣の節に、一騎當千の勇を顯しけり。

[やぶちゃん注:「慶長五年大聖寺陣」慶長五(一六〇〇)年八月三日、「北陸の関ヶ原」と言われた「大聖寺城の戦い」。「砥藏の靈風」の私の注を参照。]

 抑(そもそも)中條流の濫觴は、昔相州山田地福寺に僧慈恩と云ふ者、摩利支天に通夜せるを、檀越(だんをつ)中條兵庫之助受傳へて、甲斐豐前守に傳へ、大橋勘解由左太夫より、富田九郞右衞門・治部左衞門に至る。是に二子あり。兄五郞右衞門は眼病に依りて、江州一乘寺村に閑居し、薙髮(ちはつ)して勢源と云、諸國武者修行し、世に名高き人なり。其弟治郞左衞門、家督を繼いで、甚だ妙手なり。秀吉公の師範となる。是に女子二人ありて男子なし。依りて門弟山崎六左衞門を以て嫡女に嫁し、家を繼がしむ。是則(これすなはち)越後守なり。此人加州に仕へて、大守の寵恩淺からず。本城大手の城戶際に居所を下されたり。今云ふ「越後屋敷」は是なり。

[やぶちゃん注:「相州山田地福寺」不詳。或いは神奈川県足柄上郡大井町篠窪の臨済宗地福寺(グーグル・マップ・データ)か。ここの南方部は嘗ては相州小田原山田村であった。但し、次注も参照。

「慈恩」中条流開祖とされる中条長秀の師である、南北朝から室町にかけての禅僧にして剣客であった念阿弥慈恩(ねんあみ/ねんなみ 正平五/観応元(一三五〇)年~?)のことであろう。ウィキの「念阿弥慈恩」によれば、『剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。俗名、相馬四郎、諱は義元。法名、奥山慈恩または念阿上人』。『奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉忠重の子。弟に赤松三首座がいる。父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が』五『歳の時に殺され、乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した』。七『歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積み』、十『歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったとい』。十六『歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。さらに』正平二三/応安元(一三六八)年五月、『筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得した。このとき』十八『歳。京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう』。『念阿弥は還俗して相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと』、『再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。この』後、『諸国を巡って剣法を教え、晩年の』応永一五(一四〇八)年、『信州波合村(後の浪合村、現阿智村浪合)に長福寺を建立、念大和尚と称した』。『長福寺のあった麻利支天山(現念流山)の中腹には、江戸時代に樋口定雄』(馬庭念流十六世。十郎右衛門)『が建てた念大和尚の石碑が残る』とある。前の「相州山田地福寺」と、奥州馬の生まれで俗名も馬であること、相州藤沢の遊行寺で修行したこと、相州鎌倉の寿寺の僧から「秘伝を授かった」とすること、信州であるが、そこの長寺や「麻利支天山」の悉く一致は偶然ではないわけであって、どうも前の「相州山田地福寺」というのが正確なのかどうか、甚だ疑問な気がしてきた。そこで調べてみると、太田尚充氏の「津軽弘前藩の武芸(5)――資料紹介――」PDFでダウン・ロード可能)に載る「富田(とだ)流劔術濫觴拾書」(写本)の冒頭に(原文のまま引用。漢字の誤りは写本原本自身の誤りである)、

   *

富田流擊劔濫觴

 夫レ本朝撃銅ノ術ハ、京八流関七流ノ餘派諸家ノ京師各一銅劔ヲ称ス中ニ於テ、中條ノ一流アリ。後世當田[やぶちゃん注:富田(とだ)の誤り。]流ト称ス。

 其ノ始源ヲ尋ヌルニ、文亀年間、相州鎌倉地福寺ノ住僧玆音ナルモノアリ。身浮屠[やぶちゃん注:「ふと」。僧侶。]タリトイへドモ、其ノ性擊劔ヲ好ミ、日向州鵜戸[やぶちゃん注:「うど」。]ノ神社ニ詣り、左側ノ洞中ニ在リテ百日ヲ限リ剣術ノ精妙ヲ得ン事ヲ祈ル。限日ノ夜、其ノ神夢中ニ托シテ妙術ノ口決[やぶちゃん注:「くけつ」。]ヲ得ルコトヲ感得ス。是レヨリ万術ノ士ト数々其ノ伎ヲ試ミルニ、靡然トシテ下風ニ立ツ。然レドモ身浮屠タルヲ以テ謾リニ[やぶちゃん注:「みだりに」。]説カズ、其ノ器ヲ得テ授ケント欲スル事多年ナリ。

 玆ニ同府ノ士、中條兵庫ノ助ト云ヒル[やぶちゃん注:ママ。]アリ。即チ同寺ノ檀越タリ。一時玆音和尚、中條ニ謂テ曰ク、小僧浮屠タリト雖モ、性甚ダ剣鎗ノ術ヲ好ミ、前年ノ神に祈リテ靈感ヲ得テヨリ、竊カニ武人ノ此ノ術長ゼル者ト鬪試ヲナス事数回、未ダ曽テ一次モ敗ヲ取ラズ。実ニ神妙ノ奇術ナリ。小僧此ノ伎ヲ以テ武人ニ授ケント欲スル事多年、未ダ其ノ器ヲ得ズ。徒ラニ是レヲ秘スルノミ。今君ヲ見ルニ、篤実ノ君子ニシテ真ニ英雄ノ器タリ。願ワクハ吾ガ術ヲ授ケント欲ス。何如(イカ)ント云。

 中條此ノ事ヲ聞キ深ク喜ンデ拝謝シ、弟子ノ礼ヲ取リテ学ビ、遂ニ其ノ奥旨ヲ得テ精妙ニ至ル。玆音命ジテ武伎場ヲ建造シ、生徒ヲ集メテ其ノ術ヲ授ケシメ、中保流ト号ス。

 門生ノ中、甲斐豊後守直則、傑出シテ其ノ精妙ヲ得タリ。

 直則ガ門下、大橋勘解由左衛門某、端的ヲ得テ四世トナル。

 時ニ越前浅倉侯ノ部下、同國宇坂ノ荘一乗浄寺邑[やぶちゃん注:「むら」。]ノ人民富田九郎左詠衛門某、大橋ニ随テ学ブコト多年、其ノ術ノ妙ヲ尽シテ神ニ入リ、竟ニ其ノ宗ヲ得テ中條五世ノ師タリ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

以上の内、僧の名を「玆音」(「しおん」或いは「じおん」であろう)とするが、太田氏は以上の本文に続く後注⑷で、『本書の最後の伝系では「慈音和尚」とある、『武藝小傳』にも慈音とある。前記『増補武芸小傳』で「念仏阿弥慈恩の疑問」という項で、この人物について検討している』とあり、本篇の表記「慈恩」も出る。さても以上を見る限りでは、本篇の「相州山田地福寺」というのは「相州鎌倉寿福寺」の誤りである可能性が高いことが判った。なお、以上の「拾書」は、ここに記された以下の伝授者とも、よく一致する。

「摩利支天」「關氏の心魔」で既出既注。

「檀越(だんをつ)」檀家。もとはサンスクリット語「ダナ・パティ」(施主)の漢音写で「寺や僧に布施をする信者」の意。

「中條兵庫之助」南北朝時代の兵法家で三河挙母(ころも)城主中条長秀(?~至徳元(一三八四)年?)。ウィキの「中条長秀」によれば、中条流平法(誤字ではない)の『創始者であり、室町幕府で伊賀守護職、恩賞方、寺社造営奉行、評定衆などを歴任した』。『足利義満の剣術指南役を務めた剣豪としても知られる』。『足利尊氏に従って鎌倉幕府を滅ぼし、武功を立てた中条景長の次男』。建武元(一三三四)年に『兄の時長が奥州に所領を得て移住したため』、文和三(一三五四)年、『父の跡を継いで挙母城主となった』。『念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人とな』り、『後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている』。『中条流では』、

   *

「平法とは平の字たひらか又はひとしと讀んで夢想劍に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以つて第一とする也。戰を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此手(このて)にほこらば命を捨(すつ)る本(もと)たるべし。」(「中条流平法口決」より)

   *

として、「兵法」と言わず、「平法」と呼ぶのだそうである。『歌人、頓阿の高弟としても知られており、長秀の歌は新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集などの勅撰和歌集に撰ばれている』。『中条流流祖として知られているが、武芸者らしい逸話は伝わっていない。室町幕府の評定衆などをつとめ、また、歌人として生涯を過ごした』とある。

「甲斐豐前守」越前守護で斯波氏の老臣筆頭であった甲斐豊前守直則。詳細事蹟不詳。

「大橋勘解由左太夫」大橋勘解由左衛門高能(惟房)。詳細事蹟不詳。

「富田九郞右衞門」先の太田尚充氏の「津軽弘前藩の武芸(5)――資料紹介――」の前文電子化の後注⒂で、

   《引用開始》

⒂ 富田九郎左衛門。『本朝武芸小傳』『新撰武術流祖録』『日本中興武術系譜略』『撃剣叢談』(何れも『新編武街叢書』所収。既出)では富田九郎右詣門としている。しかし『増補武藝小伝』では「『中条流流系図』の九郎左衛門長家とあるのが正しい」としている。

  本書では富田九郎左衛門を「中条五世ノ師」としているが、『新撰武術流祖録』では富田家祖、『撃剣叢談』では「初めて富田流を唱ふ」としている。

   《引用終了》

とある。

「江州一乘寺村」前と同じく、の太田氏の注⒁に、『越前国宇坂ノ荘一乗教寺。福井県足羽郡足羽町一乗谷字浄教寺』と訂正注をされておられる。則ち、本篇の「江州」は誤りなのである。そして、ここは現在、福井県福井市浄教寺町(グーグル・マップ・データ)である。

「越後屋敷」現在の新丸広場g(グーグル・マップ・データ)にあった。後、藩主が江戸に出向いている際にはここで加賀八家などの重臣たちが寄り集って政務を進めた場所でもあったという。]

 庭中に怪しき石あり、其形三尺許なり。色黑くして、いかなる炎夏の晴天にも、人ありて此石に觸るゝ時は、晴天須臾(しゆゆ)に曇るといへり。何故といふ事を知らず。今は此石城内に續きたれば、試る事能はず。誠に雲根(うんこん)なるものか。漢宮(かんぐう)の石鯨(せきげい)、風雨に鱗甲(りんかう)を動かしけん。皆石の妙にこそ。

[やぶちゃん注:「雲根」古代中国より雲は高山の岩石の吐く息であると考えた。

「漢宮の石鯨」唐の長安城西数キロメートルのこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に前漢の武帝が紀元前百二十年に雲南昆明の滇池(てんち)を模して造成させた約十平方キロメートルに及ぶ人工池昆明池があった。水軍の西南諸国討伐の際の訓練用とされるが、実際には皇帝の贅沢な園遊用のものだったようだ。牽牛と織女の石像が特に知られ、鯨を模した石像もあった。杜甫の詩などにも詠まれてあるが、唐末期になると廃池となり、田圃化が進んで、現存はしない。]

 越中の川普請の時、神通川の間に夜な夜な鳴きし石あり。

[やぶちゃん注:「神通川」ここ。後に公害病イタイイタイ病で知られるようになったあの川である。]

 又石立(いしだて)村の石は、此根(このね)能州の寺口ヘ出て猪の牙の如くわだかまれりと云ふ。

[やぶちゃん注:加賀石川郡石立村は現在の石川県白山市石立町で、「石の木塚」として石柱が残る。奇体な人工物であり、鎌倉時代には既にそこにあったとされる(リンクのサイド・パネルの説明板の画像を読まれたい)。藤島秀隆氏の論文「浦島伝説異聞――近世加賀の石の木由来の伝承をめぐって――」(PDFでダウン・ロード可能)が非常に面白い本伝承を伝えている。そこには加賀藩第二代藩主前田利常が人夫に命じて掘らせたてみたが、石の根を掘り起こすことが出来ず、伝承ではその石の根は遠く能登半島の南部の鹿島郡の石動山(いするぎやま)或いは竜宮城にまで続いていると伝えるのである。そこでも引かれている「石川県石川郡誌」の「第二十四章 笠間村」の「名蹟」の「石の木」を読まれたいが、ここの竜宮伝承では、驚くべきことに、ここの太郎に相当する男は乙姫との間に五人の子までもうけたというのだ! その後この世に戻って亡くなったが、その父を慕った五人の子が太郎を弔うために建てたのがこの五本の石の柱だというのだ! ああっ! なんだか無性に行って見たくなってしまった!!!!! なお、この「石の木塚」は本「三州奇談」の後編巻二の「藤塚の獺祭」にもより詳しく登場するので、これくらいにしておく。

「寺口」現在の石動山附近(石川県七尾市)を探ってみたが、見当たらない。]

 下相野領の内に笠石あり。

[やぶちゃん注:「下相野領」加賀藩の飛び地も調べたが、不明。]

 宮腰道(みやこしだう)に龜石あり。世人「大石」と云ふ。年々米一粒だけ海へよると云ふ。今は碎けたり。

[やぶちゃん注:「宮腰道」の「宮腰」は現在の金沢市金石(かないわ)地区(グーグル・マップ・データで示したのは現在金石本町であるが、旧宮腰(金石)地区は図上の特に北部分をも広汎に広く含んでいることが地名で判る)。金沢市北西部に位置しており、犀川河口右岸一帯に当たり、日本海に面した加賀藩の外港として非常に重要な地位を占めていたから、ここと金沢城を結ぶルートを指す。]

 五ケ山根の尾村領の内に立石あり。廻り十四五丈にして、高さ二三十丈、人上る事能はず。雪溪を突くが如し。奇石の天下第一とせる物なり。

[やぶちゃん注:「五ケ山根の尾村領」五箇山(現在の富山県の南西端の南砺市の旧の平村・上平村・利賀村を合わせた地域)は元禄三(一六九〇)年から加賀藩の正式な流刑地となっているが、この村名は不詳。但し、これはその石の特徴から現在の南砺市上松尾にある天柱石のことと推定出来る。風景写真家高橋智裕氏のブログ「H i Bi no A T O」の「富山県五箇山エリアの不思議な巨石」の写真がよい。現在の信頼出来そうなデータによれば、高さは三十二メートル、周囲七十五メートルとされる。

「十四五丈」四十二~四十五・四四メートル。

「二三十丈」六十・五~九十一メートル弱。高さは誇張も甚だしい。]

 一日、金澤の古金店に石臺(いしだい)に載せたる石、雲氣立(たち)し事あり。好事(かうず)の者高價に買得(かひえ)たりしに、石の下に守宮(やもり)一疋出でたり。石再び雲氣なし。雲氣是によりたるか。

[やぶちゃん注:「古金店」古物商であろうが、読み不詳。

「守宮(やもり)」中国の本草学ではヤモリ(爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科Gekkonidaeのヤモリ類)は龍蛇類として捉えられ、さすれば、雲や雨を自在に操る能力があると考えられていた節があるから、これは腑に落ちる。でもね、そのヤモリはもともと古金店のヤモリだと思うけどね。私の家にだって二十年以上、何世代にも亙ってイモリ一族が反映しているもの。]

早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿 一 淵に逃げこんだ鹿

  

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[やぶちゃん注:上記画像は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像からトリミング・補正して示した。【2020年3月19日追記】T氏よりサイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページを紹介された。非常に驚くべき強力なページで、本「猪・鹿・狸」も全電子化(但し、新字新仮名で総てPDF)されてあり、他の早川氏の著作もPDFで読める。また、一部に簡単な注や現在の現地の写真が添えられてある。例えば本「一 淵に逃げこんだ鹿」はこちらである。向後、注に活用させて戴こう思う。T氏に深く感謝申し上げるものである。

     一 淵に逃げこんだ鹿

 

 鹿を擊つた狩人はみなさう言うた。鹿はいかに驀進(まつしぐら)に逃げてゆく時でも、矢頃[やぶちゃん注:「やごろ」。ここは鉄砲の撃ち時。]を測つて、ホーツと一聲矢聲をかけると、フツと肢を緩めて、聲の方を振返ると、そこの呼吸で引金を引いたさうである。矢聲はなる可く短く齒切れのよいのを上乘とした。ポポツと、投げつけるやうに掛ける程、効力があつたと言ふ。習性とすれば哀れにもいぢらしかつたが、狩人の狙ひ處にされたのは情けなかつた。

 も一ツ、これも鹿に限つての事で、狩人には都合の好い事だつた。一旦手負ひになると、だんだん山を出て、里近い明るみへ姿を現はして來る事である。えらい深山なら知らぬ事、自分等が聞く話は悉くさうだつた。もう三十年も前になるが、舊正月二日の事ださうである。伊那街道筋の追分で、或家で朝早く起きて蔀(しとみ)を明けると、其處へ上(かみ)の方からバタバタと街道を駈けて來た物があつた。女房がハツと思つて見返した時はもう五六間[やぶちゃん注:約九~十一メートル。]先へ驅拔けて居たが、それが鹿で後肢[やぶちゃん注:「うしろあし」。]を折て引摺つて居たさうである。直ぐ後から犬や狩人が追掛けて行つた、後には前夜降つたらしい薄霰[やぶちゃん注:「うすあられ」。]がほんのり置いた街道に、紅い血の滴が長く續いて居たと言ふ。

[やぶちゃん注:この語りの映像のリアリズムは紅の瘢痕鮮やかに何か非常に哀れにしみじみしていて、一読、忘れ難い。芥川龍之介が心打たれたのもこうした表現でもあったのではなかろうか?

「伊那街道筋の追分」「猪 十七 代々の猪擊」で考証した愛知県新城市玖老勢(くろぜ)この附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。【2020年3月19日削除・追記】T氏よりメールを頂き、この「追分」は現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると御指摘を戴いた。確かに「歴史的行政区域データセット」を見ると、この豊川添いの南北が迂遠な「伊那街道」で、この「追分」から北東に音為川(T氏によれば別名を「分垂川」で、事実、追分地区の東には「下分垂」地区がある)沿いを遡る分岐ルートは鳳来寺へ向かっているのでここである(但し、現在の「Yahoo!地図」(34.9711662,137.566130)を拡大して見ると、この豊川添いの道を「鳳来寺道」、鳳来寺の前を通って北西に走る道を「伊那街道」と呼称している。しかも実際にはこの二つの道は北へ進んでも直に交差はしておらず、ここ(35.0448773,137.527978)で国道257号によって繋がっている)。

 その鹿はそこから二丁程[やぶちゃん注:二百十八メートル。]下つた、村端れ[やぶちゃん注:「むらはづれ」。]のめくら淵に飛込んで殺されたさうである。その淵は街道から覗くと、すぐ目の下に蒼く澄んで見えた。淵の主は大きな牛だとも謂うて、晴れた日には日光の具合で、時折背中が見えると聞いた。めくら、かいくら、せとが淵などゝ言うた中の一ツで、界隈でも名高い傳說の淵だつた。龍宮へ續いて居るとも言うた。そして昔からよく鹿の追込まれる所だつたさうである。

[やぶちゃん注:「めくら淵」不詳。叙述からは海老川の左岸が東へカーブする淵の出来やすいこの辺りか(グーグル・マップ・データ航空写真)。【2020年3月19日削除・追記】先の追分の分岐からだと、現在の追分地区の豊川の川幅が下流で狭まるこの附近となる。T氏曰く、「村端れ」も、早川氏の生まれ育った南設楽郡長篠村の内、「歴史的行政区域データセット」 を見ると、新城市横川追分は正しく村の北端ということになっているとのことで、謂いも自然であることが判った。

「かいくら淵」【2020年3月19日改稿】サイト「東三河を歩こう」のこちらに「海倉淵」とあり、場所も判る(T氏の御教授に拠る)。ここでの早川氏の解説は旧長篠村の広域を意味していることが判る。

「せとが淵」【2020年3月19日改稿】 「瀨戶が淵」か。位置は不明であるが、早川氏が謂わば大きな淵の代表のように述べておられることから、サイト「東三河を歩こう」のこちらにある新城市の淵リストの中の長篠村近辺の孰れかの別称と考えられる。

 その鹿は、間もなくもと來た道を舁がれて行つた。何でも朝未だ暗い内、鳳來寺道を五六町登つた所の、分垂(ぶんだれ)のヰノアテで肢を擊たれて、一氣に街道を走つて來たのださうである。その時の狩人の話では、三歲の雄鹿だつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「鳳來寺道を五六町登つた所の、分垂(ぶんだれ)のヰノアテ」「五六町」は五百四十六から六百五十五メートル。「鳳來寺道」はここだが、後に出る「分垂(ぶんだれ)のヰノアテ」というのは猟師らの山中での地区呼称とも思われる(「アテ」は中部地方で日当たりのよい「山頂・ピーク」を意味する。「ヰ」は「猪」か)。この中央付近ではなかろうか? ここから先の玖老勢の追分までは、鹿が北に尾根を経て、西の尾根伝いに逃げたとするならば(直線では尾根・谷が障害となる)、凡そ二キロほどになる。【2020年3月19日削除・改稿・追記】先のT氏の御教授に従えば、この「鳳來寺道」は追分の分岐から鳳来寺に行くルートを指すことになり、先に言った「下分垂」地区のこの附近がそこになろうか。

 子供の頃、村の入りの山から追出された鹿が、畑を橫ぎつて街道へ出て、フナト(船着場)へ續く坂を降つて、最後に飛込んだ場所も矢張り淵だつた。 宮淵(みやぶち)と言うて、 大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た。高い岩に圍まれて、川幅五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]もある物凄い場所だつた。もう二十七八年も前で、その頃は、そこから川下の豐橋迄七里の間船が通つて居た。

[やぶちゃん注:「大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」神社不詳。但し、横山の南の豊川の対岸(右岸)の新城市大海(おおみ)宮ノ前瀧神社が存在するNAVITIME)。ここと考えてよかろう。【2020年3月19日削除・追記】T氏より次のような比定考証を戴いた。まず、最初に掲げた「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページの大正一〇(一九二一)年六月刊の早川孝太郎氏の「三州横山話」の「橫山略圖」をご覧頂きたい。T氏は本段落冒頭の「村の入りの山」というのは、横川の「入リの山」と捉えられ、この「橫山略圖」の中央折線の右に見える「字」(あざ)「入リ」がその山であるとされ、鹿はそこから追い出されて、横川の「畑を橫ぎつて街道へ出て、フナト(船着場)へ續く坂を降つて」寒狭川(かんさがわ:豊川の宇連川合流地点より上流部の別称である)沿いに下流に走って行ったとされる。確かに、「橫山略圖」の右下方の寒狭川に「舟着川岸」の文字が見え、その少し下流の横川対岸に「大海村鎮守」がマークされ、そのさらに右の寒狭川対岸には「生砂神社」が認められる。上記サイトの「片目の生砂神」(思うに「生砂」は「うぶすな」(産土)と読むのであろう)には、「白鳥六社大名神」とあって(柳田國男が「一目小僧その他」で問題にした〈片目の神霊〉である)グーグル・マップでこれを探すと、「片目の生砂神」に記載された白鳥神社と同じ画像が出てくるとされ、この白鳥神社がこの「お宮」であるとされる。ここまでのT氏の推理はまことに理にかなっていてなるほどと思わせるのであるが、一つだけ、「大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」という早川氏の謂いが喉に引っ掛かってしまうのである。しかし、この付近を国土地理院図で見ても、早川氏のポイントした辺りには「大海村鎮守」はなく、対岸の大海を見ても現在は「お宮」は見当たらないのである。また私が前に推定比定した瀧神社では少し上流になって、T氏の示された展開とはやや齟齬をきたすようにも思える(実はもっとずっと上流に横川宮ノ前の飛地があり、そこにも白鳥神社があるのだが、これは遙かに上流過ぎ、後背地も大海ではないから、もうお話はならない)。グーグル・マップの航空写真画像でここを再度見ると、白鳥神社の対岸部には有意な森は認められる。或いは、大海地区の人々も、この「生砂神」=「白鳥神社」を産土神として共有して信仰していたととれば(平地の「川向う」の民俗社会ではこうした信仰共有は難しいが、ここは谷間(たにあい)の山村であるから問題はないかも知れない)、この対岸の大海側の森も白鳥神社の鎮守の森として早川氏が認識してという可能性はある。また、同じ個所の「橫山略圖」を見ると、横川側の岸辺にかなり川に沿った箇所に「鎮守址」とあるのも何かありそうではある。或いは白鳥神社はかつてはこの場所にあったのではないか? 「片目の生砂神」にも移された感じでそうした記載もある。とすれば、川の両岸に白鳥神社の原鎮守の森があっても少しもおかしくはないと私は思うのである。【2020年3月19日夜・追記】只今、T氏より以上の私の追記に対して即急の以下のメールを戴いた。
   《引用開始》
 藪野様。

 「大海のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」は実は昭和一七(一九四二)年文一路社刊の「猪・鹿・狸」で修正がかかっていました。[やぶちゃん注:これは以下でT氏が述べておられる通り、本底本の後の改訂本である。]「郷土研究社」版の、
   *
『宮淵と言うて、大海のお宮の森が向ふ岸に茂って居た。』
   *
の部分が、その「文一路社」版では、
   *
『宮淵(みやぶち)と言うて、大海(おおみ)村の鎭守の森が向ふ岸に繁つて居た。』
   *
と書き変えられてあります。[やぶちゃん注:この改訂本は国立国会図書館デジタルコレクションで読めることが判明した。ここが改訂本の本篇の当該部である。「おおみ」は原著のママ。]又 、「 文一路社」版の凡例では、早川氏は、
   *
一 この本は舊版本に對して、新に序を加へ挿繪を更めたばかりでなく、一部の字句や文章を改めた點も尠くない。しかし内容はそのままで、要するに理解を易からしめる爲に、表現に注意したに過ぎない。
   *
とあるので、 表現は総て早川氏の手になるものとなります。
 と云うことで、確実に「大海村」に在る鎮守様が当該お宮で、現在の新城市横川字宮ノ前46の白鳥神社は外れになります。「大海村」に在る鎮守様は、やはり薮野様の言われる新城市大海字宮ノ前1の瀧神社が正解になります。瀧神社については、サイト「東三河を歩こう」のここに記載があり、このサイト内の愛知県伝説集「ちんばの氏神」に、この瀧神社が大海の里では氏神に祀られたとする経緯が記されてあります。
 あちこち、振り回してしまいましたが、「大海のお宮」=「大海村の鎭守」=瀧神社です。
 申し訳ありません。
   《引用終了》 
とのことであった。T氏にはいろいろ御検討頂き、こちらこそ御迷惑をお掛けしたと思っている。しかし、
これで以上も腑に落ちた。T氏に心より御礼申し上げるものである。

「川幅五十間」約九十一メートル。現在は最も広い場所でも四十五メートルほどである。

「二十七八年も前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治三一(一八九八)年前後となる。]

 手負鹿が、淵に飛込んだ話は他にも聞いた事がある。出澤の村のフジウの峯から追出した時には、鹿が岩の上を走つて下の鵜(う)の頸(くび)の淵へ飛込んだと言うた。某の狩人が、八名(やな)郡舟著(ふなつけ)村小川(をがは)の、シユツケツの峯で肢を擊つた鹿は、峯續きのカマヅルを、ソンデ(ツル嶺を後ろに反つた[やぶちゃん注:「かへつた」。]處)に行くと思はれたのが、前の斫り[やぶちゃん注:「きり」。]立つたやうなタワを轉がるやうに降つて、一氣に黃楊(つげ)川の淵に飛込んだと言うた。

[やぶちゃん注:「出澤」「すざわ」と読む。新城市出沢。横川の豊川対岸の山間部。

「フジウの峯」不詳。似た地名では愛知県新城市出沢の字地名に藤ケタワ(ふじけたわ)がある(ヤフー地図)。

「鵜(う)の頸(くび)の淵」【2020年3月19日改稿】T氏より。新城市出沢橋詰。サイト「東三河を歩こう」の「大淵」を参照されたい(地図あり)。その淵の説明の各個写真の⑾に「うの首」がある。

「八名(やな)郡舟著(ふなつけ)村小川(をがは)」サイト「歴史的行政区域データセット」のこちらで旧村域が確認出来、その地図を拡大すると、現在の本長篠駅の南西、宇連川対岸(左岸)に「小川」の地名を確認出来る

「シユツケツの峯」不詳。孰れにせよ、前の小川の後背地の山間のピークと読んでよかろう。

「カマヅル」同前。

「ソンデ(ツル嶺を後ろに反つた[やぶちゃん注:「かへつた」。]處)」同前。

「タワ」方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。

「黃楊(つげ)川」前のサイト「歴史的行政区域データセット」のこちらの地図で小川の東方にある。]

 手負鹿が最後に飛込んだのは、川沿ひの淵ばかりでは無かつた。山の中にある用水池を目がけた話もあつた。自分の家の近くにあつた、方(ほう)が窪の小さな池にも追込んだ事があつたと言うた。大海(おうみ)の奧の二ツ池は、山の窪に同じやうな池が二ツ並んで、遠くからその蒼い水が望まれた。矢張りその池へも追込んで殺した事があつたと聞いた。

[やぶちゃん注:「自分の家」早川孝太郎氏の生家はサイト「東三河を歩こう」のこちらで位置が確認出来る。この附近。北西に「早川工業」とあるのは縁者か?

「方(ほう)が窪」不詳。早川氏の謂からみて現存しないのかも知れない。

「大海(おうみ)の奧の二ツ池」現在の大海の奥(西端)に池が一つ見える。この池の東部分は工場になっているので、或いは一つは埋め立てたものかも知れない。しかし、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)測図大正六年修正の大日本帝国陸地測量部の地図でも一つであるが、南北に瓢簞型をしており、現在のそれとは形が異なる。これを見るに、或いは古くは二つあったものを繋げたもので、古名が残ったものかも知れない。]

 よく耳にした事だつたが、鹿は手負になると、きまつて池や川へ入ると言うた。密林から里近い疎木立(むらこだち)へ出て、畑や街道を走つたのは未だしも、あの蒼く澄んだ池や淵を目がけたのは、單に偶然ばかりでは無いやうに思ふ。

[やぶちゃん注:何か文学的なコーダでしみじみする。なお、この「未だしも」は明らかに「まだしも」と訓じている。されば、今までの「未だ」も「いまだ」ではなく、「まだ」と訓じている可能性は高くはなる。

 なお、鹿(本邦ではシカ属ニホンジカ Cervus nippon(亜種分類ではホンシュウジカ Cervus nippon aplodontus・キュウシュウジカCervus nippon(四国・九州など)・ケラマジカCervus nippon keramae(慶良間列島。江戸時代に九州から移入されたもの)マゲシカCervus nippon mageshimae(馬毛島。二個体を基に記載されたものの、種子島の個体群を含んだり、分類上の位置は明確ではない)・ツシマジカCervus nippon pulchellus(対馬)・ヤクシカCervus nippon yakushimae(屋久島)・エゾシカCervus nippon yesoensis(北海道)の七亜種となる。但し、ニホンジカは日本固有種ではなく、中華人民共和国・ロシアにも棲息する。朝鮮民主主義人民共和国・ベトナムでは絶滅したと考えられており、大韓民国では絶滅した)の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿(しか)(シカ・ニホンジカ他)」を見られたい。]

2020/03/17

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十九 巨猪の話 / 「猪」パート~了

 

     十九 巨 猪 の 話

 

Sisinokosigawa

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「猪の腰皮」。これは臀部の下に汚損防止や冷気・湿気遮断のために敷く猪の毛附きの皮革からなる敷き革である。図の上部のそれは思うに腰紐の通して、逆Uの字型の部分にそのボタン状の部分を通して掛け、山中を歩く際に落とさないようにするものではないかと私は思った。但し、この挿絵は本文との関連性はない。]

 

 巨猪を獲た[やぶちゃん注:「とつた」。]話は、どんな狩人でも定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]一ツ位は持つて居た。それが申し合せたやうに四十貫[やぶちゃん注:百五十キロ。]と言うたのも偶然であつた。猪としては、四十貫どころが或は限度であつたらしい。而もその程度の猪は珍しいとは言ひ條、未だ未だ居たらしいのである。某の狩人がさういうて居た。或時出澤(すざは)村の入りのアテで、仲間と二人で發見した肢跡[やぶちゃん注:「あしあと」。]は、曾て見ぬ程の巨大さで、こんな肢をした猪だつたら、牛程もあらうと想像して、山の神を祀るやら、應援を賴みに行くやら、えらい騷ぎをやつて、軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]擊ち止めて見たら、成程大きいには違ひないが、四十貫そこそこだつたと謂ふ。只肢の蹄が骸に似合はず巨きかつたさうである。そんな猪を萬一取遁したら、それこそ七十貫や八十貫の猪に忽ち成つたかも知れぬ。捕つた猪の方は、一々舁いだ代物だけに、馬鹿馬鹿しい誇張は無かつたのである。

[やぶちゃん注:表題の通し番号の二桁目を「一」とするのはここのみで、他は「十」である。

「七十貫や八十貫」二百六十二~三百キロ。ニホンイノシシは標準では体重は80から190キロであるが、最新の情報では農林情報メディア「INOHOI」のこちらに、『2009年に滋賀県湖南市夏見の山中で、同市三雲の廣田仲雄さん(59)によって捕獲された体長約1.8メートル、体重約240キロの個体』が最大値と思われる。そこに『日本のイノシシは、体重200kgくらいが成長の限界とされ、200キロ超えのイノシシ捕獲は、10年に12度しか確認されないほど稀で』あるとある。さても、また、私の好きなサイト「カラパイア」の2015年12月7日の記事にロシアで捕らえた重さ五百三十五キロという超巨大猪の画像がある。恐るべし!]

 鳳來寺村行者越の、丸山某は五十幾年の狩人生活の間に、只一人で擊ちとつた猪の數は、七百頭に餘るほどの剛の者だつたが、四十貫を越すほどの獲物は、たゞの一ツしか無かつたと言ふ。然しながらその一ツが、六十貫[やぶちゃん注:二百二十五キロ。]に餘る巨大な物だつたと言ふから、先づ未聞の事として恥ずかしく無かつた。もう四十年も前の事で、細かい點は深い記憶も無かつた。只何としても珍らしかつた事と、その猪を擊つ前日に、偶然遠くから望み見た印象だけは、今もありあり目に殘ると言うて居た。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村行者越」この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 恰度秋の末で、北設樂郡駒立の奧の山へ、 遊(うかれ)牝猪[やぶちゃん注:「めじし」と読んでおく。]を擊ちに入込んだ時だつたさうである。山の峯に立つて、遙かに前方の谷を望むと、枯草が何處までも續いた中を、凡そ四五十頭もあるかと思はれる猪の大群が、一際勝れた巨猪を先頭にして、一齊に谷に向かつて走りつゝあつた。その内先頭の猪が如何にも巨きくて、他の猪が子猪のやうに見えたさうである。餘りの見事さに遂見惚れてしまつた程で、その時程の壯觀は、後にも前にも見なかつたと言ふ。翌日あつけ無く擊止めた猪が實は前日群れ猪の先頭にあつた物らしく、比類ない巨猪だつた。一人で黑川の村まで背負ひ出して、美濃の猪買ひに賣つたが、臟腑拔き五十五貫[やぶちゃん注:二百六・二五キロ。]あつたから、六十幾貫は間違ひなかつたと言ふ。丸山某は異常な臂力の持主で、百貫[やぶちゃん注:三百七十五キロ。]の荷を負うて如何なる險阻にも堪えへたと言ふ。

[やぶちゃん注:「北設樂郡駒立」「こまだて」か。不詳だが、以下の「黑川の村」と合わせて地図を調べてみたところ、愛知県北設楽郡豊根村古真立(こまだて)があり(グーグル・マップ・データ航空写真)、その西方に同郡下黒川と上黒川を見出した。ここであろう。]

 六十幾貫は、類ひ無い巨猪の筈であつたが、同じ男の語る處は、同じ北設樂郡古戶(ふつと)の山では、七十五貫[やぶちゃん注:二百八十一・二五キロ。]或は九十貫[やぶちゃん注:三百三十七・五キロ。]の猪を擊つた事を、話には聞いたさうである。然し實際見た譯ではないから、眞僞の程は判らないと言うて居た。

[やぶちゃん注:「北設樂郡古戶(ふつと)の山」愛知県北設楽郡東栄町(とうえいちょう)大字振草(ふるくさ)の古戸山(ふっとさん。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高七百五十九・九メートル。]

 果してそんな巨猪が、居たかどうか何とも判らぬが、北設樂郡内でも、段戶山(だんどざん)や彥坊の山の杉の植林地には、丈餘に伸びた萱の葉陰に、多數の猪が群れ狂うて居るのを、山仕夢に入込だ[やぶちゃん注:「はいりこんだ」。]杣や木挽がよく見ると謂うた。御料林の事で、彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]ばかりは猪も放し飼だなどゝ、語るのを聞居た事があつた。果してさうであるか、聞かう聞かうと思ひながら、遂に其折もない。

 巨猪ではないが、猪の一屬に、シラミ猪と言ふのがあつて、體一面虱のたかつた物があるといふ。肉は臭くて食べられぬと謂うた。果してそんな猪が居るか、これも未だ確かめる機會がない。

[やぶちゃん注:「段戶山(だんどざん)」北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。

「彥坊の山」新城市作手(つくで)大和田(旧南設楽郡)の彦坊山(ひこぼうやま)

 本話を以って早川孝太郎「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは終わっている。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十八 不思議な狩人

 

     十八 不 思 議 な 狩 人

 山で狩などして居た者の中には、平地の人々の想像も及ばぬやうな、不思議な官能や經驗を有つた人物があつた。遂近頃聞いた話などもその一ツである。實は不獵續きに弱り込んだ狩人達が、何處からか聞き出して賴みこんで來たのが最初で、評判になつたと言うた。未だ四十臺の體の小締りに締まつたと言ふ外、格別見た處變つても居なかつた。只不思議な事は、山へは入つたと思ふと、猪の居る居ないがすぐ判つたさうである。

 鼻で嗅ぎ出すのだらうとも言うたが、話の樣子ではそれ許りでも無いやうだ。それに就いて、自分の知つて居る狩人の一人が言うた事があつた。猪の後を求めて齒朶を分けて行く時など、いまの先き猪が通つたと言ふやうな事が、フツと胸に浮ぶが殆ど間違ひなかつたと言ふ。さうした官能の働きか、所在を知る事は驚く程的確だつたさうである。而も山を跋涉する事の自由自在で、少しも倦む事を知らぬには、一緖に狩をした者が何れも舌を捲いたと言ふ。心持上半身を前屈みにした中腰の構へで、頭を前に出して小股に步いて行く樣子が誠に尋常でなかつた。何な[やぶちゃん注:「いかな」。]茨の下ボローの中でも、忽ちくゞり拔けるには、とても眞似など出來なんだと言ふ。犬千代と渾名があると言ふから、千代何とかの名前らしいが、遇つた譯でないから詳しい事は判らない。北設樂郡カハテとかの者とだけは聞いた。獸のことや獵の方法など、何から何まで氣持のよい程知つて居たさうである。狩を濟ますと同時に、三日程居ただけで、何處かへ去つてしまつたと言ふ。お蔭で賴んだ狩人達は、思ひの外獲物があつた。何なら每年賴み度いと言うたとも聞いた。餘り珍しいから、いろいろ噂を聞いて見た。

[やぶちゃん注:「北設樂郡カハテ」北設楽(きたしたら)郡旧川手村。現在の愛知県北設楽郡豊根村坂宇場(さかうば)(グーグル・マップ・データ)の中にあった。]

 生家は村でも可成りな家柄ださうである。相當敎育もあつて、村長位は出來るなどゝ言うた。只持つて生まれた病と言ふか、狩をしたり、魚を捕る事が好きな爲めに、家にも居附かれないで、方々を渡り步いて居ると云ふ。至つて仕事が嫌ひで、宿屋を泊り步いて居ても、一間に閉ぢ籠つて朝から酒ばかり飮んで居た。宿錢が溜まつた時分に、釣の道具を持つて、フイと出て行つたと思ふと、晚方にはビツクリする程、鰻を捕つて來たさうである。それで拂[やぶちゃん注:「はらひ」。]を濟ますと、又暫くは遊んで居たと言ふ。魚に不自由な、山の中の宿屋などでは重寶がつた。只長く居つかぬので困ると言ふ。鰻など一日に三貫目[やぶちゃん注:十一・二五キログラム。]も提げて來た事があつたさうだ。鯉なども、何處から提げて來るかと思ふ程、速く捕つて來たと言ふが、どうして捕るかなどゝ質問すると、フツと無口になつて、話さうとしなかつたさうである。鰻にしても鯉でも、餌で釣つて居た事は確かであつたと言ふ。何だか悉く信じられぬやうな點もある。

[やぶちゃん注:私はある山間部で鰻を食べない地域があることを知っている。或いはそういう禁忌を持つ地域を彼は知っていたのではなかろうか? 因みに通常のニホンウナギの場合は、現行で二百グラムで特大サイズであるから、この不思議な男の魚籠(びく)には実に四十四匹ぐらいはいた勘定になる。]

 時とすると未だこんな人が居たのである。猪とは緣がないが、以前狂言の振付をして、村から村を廻つてゐた相模屋某と名乘る男なども、變はつた男だつた。地狂言が無くなつてからは、浄瑠璃を語つて、村々を回つて居た。勿論それだけでは生活が出來なんだので、冬は小鳥を捕り夏分は鰻を釣つて渡世にして居た。鰻など捕る事は實に巧妙だつたと言ふ。今日は何百目欲しいと註文すると、晚方にはきつとそれだけの魚を提げて來たさうである。

[やぶちゃん注:「地狂言」地方の人々によって行なわれる歌舞伎芝居のこと。地芝居・草芝居・村芝居・田舎芝居と同じ。農閑期や祭礼などの際、その土地の若者を中心に演じられてきた。古くからあったが、文化・文政期 (一八〇四年~一八三一年) に普及し、江戸末期から明治にかけて最も盛んであった。神社の境内などに恒久的な舞台を作って演じたものが多いが、臨時の掛け小屋でも行なわれた。第二次世界大戦後、新しい大衆芸能の進出によって急激に衰えた。山形県酒田市黒森・愛知県設楽町田峰 (だみね)・香川県土庄町肥土山 (ひとやま) などのものが知られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十七 代々の猪擊

 

     十七 代々の猪擊

 人品骨柄は或はどうだつたか知らないが、伊那街道と鳳來寺道の追分に、代々旅人宿を營んで居た某の家の主人なども、猪狩にかけては、平澤禰宜に勝るとも劣らぬほどの剛の者であつた。シデの大木を七廻りしたなどの、華やかな逸話こそ無かつたが、代々引續いた猪狩の名うてであつた。力は飽く迄强く、剛情一點張のがむしやらで、鐵砲は敢て上手と言ふ程でなかつたが、狩場へ行つても好んで難場に當つた。何でも人並以上の事を爲ないでは物足りぬ性分だつたと謂ふ。時折思ひ出して耕作の手傳ひなどをしても、力が餘つて、鍬を叩き毀す[やぶちゃん注:「こはす」。]方が多かつたさうである。

[やぶちゃん注:「伊那街道と鳳來寺道の追分」かなりてこずったが、ある地誌研究会の講演のレジュメとネット上の諸記載を見るに、愛知県新城市玖老勢(くろぜ)この附近(グーグル・マップ・データ)と推定される。まず、海老川右岸の三差路の部分に「追分下」の地名があり、中央の玖老勢三叉路の内、富栄設楽線を南東に下ると、すぐに鳳来寺参道前に至るからこれは明らかに鳳来寺道である。さてまた玖老勢三叉路に戻って、そこを東北へちょっと行くと、Y字型の三差路にぶつかるが、この真っすぐに進む道が旧伊那街道の北に支線した一部であったらしい(延々と北上すると伊那街道本道には確かに接続はするが、現代の我々の感覚ではこれを「伊那街道」と呼ばれては嘘だと叫びたくはなる)ことが判明した。2020319日削除・追記】T氏よりメールを頂き、この「追分」は現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると御指摘を戴いた。確かに「歴史的行政区域データセット」を見ると、この豊川添いの南北が迂遠な「伊那街道」で、この「追分」から北東に音為川(T氏によれば別名を「分垂川」で、事実、追分地区の東には「下分垂」地区がある)沿いを遡る分岐ルートは鳳来寺へ向かっているのでここである(但し、現在の「Yahoo!地図」(34.9711662,137.566130)を拡大して見ると、この豊川添いの道を「鳳来寺道」、鳳来寺の前を通って北西に走る道を「伊那街道」と呼称している。しかも実際にはこの二つの道は北へ進んでも直に交差はしておらず、ここ(35.0448773,137.527978)で国道257号によって繋がっている)。

「平澤禰宜」「十六 手負猪に追はれて」に登場している。]

 先代は、更に輪を掛けたがむしやらだつたさうである。冬の夜など屋敷近くで山犬が吠えたりすると、如何な深夜でもムツクリ起きて、マセン棒を把つて[やぶちゃん注:「とつて」。]、暗がりを追ひかけた程の無法者であつた。その血を享けた男だけに、物に恐れる等の心持は微塵も無かつたと謂ふ。手負猪を谷底へ突飛ばして、殺した話がある程だから、大抵は想像された。いまでも當時を知つて居る者は悉くさう言うた。村の宮淵の橋普請の折、二丈幾尺の巨大な橋桁が崖に落ちかゝつて、危ない危ないと大混亂の最中、上から鳶口を一ツ打込んで、俺一人で押へて居るから全部下へ廻つて足場を組めと頑張つた。其時ばかりは、馬鹿とも無法者とも言ひやうは無かつたという。然しながら近鄕の狩人達が、手剛い[やぶちゃん注:「てごわい」。]猪に出遇つた度、酒を買つて山の神を祀る一方、必ず此男の許へ應援を賴みに行つたと言ふから、見掛倒しの剛勇ではなかつたのである。

  亡なくなつたのは未だ昔でもない明治初年で、働き盛りの年だつたと言うた。山が生んだ最後の人とでも言ふやうな、特異な性格が煩ひして、晚年の家庭は實を言ふと悲慘であつた。ふとした氣紛れから、子供迄あつた女房を去らせてしまつた。そしてどこやらの町から馴染の女を身請して連れて來たが、それが又無類の惡女だつたさうである。每日酒を煽つて寢て居る事と、子どもを折檻する外には能がなかつた。而も後になつて、明日の命も知れぬ夫を、空屋同然になつた家に殘して、跡を昏ましたさうである。其時ばかりは遉が剛情我慢な男も、口惜し淚を流して過ちを悔いたと言ふ。

[やぶちゃん注:「明治初年」明治元年は一八六八年十月二十三日から。

「煩ひして」そうは訓じないが「わざはひして」と読んでいるのであろう。

「氣紛れ」「きまぐれ」。

「昏ました」「くらました」。

「遉が」「さすが」。複数回既出既注。もう注は附さないので覚えて頂きたい。

「我慢」ここは「わがまま」の意。]

 二人の男の子があつて、何れも父の血を繼いで、臂力は恐ろしく强かつた。只幼い頃からひどい艱難の中に育つた所爲か、背は少しも伸びなんだ。兄の方は先祖の後を繼いで、以前の屋敷跡に、名ばかりの家を構へて居たのも悲しかつた。弟は物心つく頃から、村の寺へ弟子に遣られたさうである。その間に何かの事から生みの親の居所を耳にして、僅か數へ年の十二だつたと言ふに、沙彌の着る衣一枚着たまゝ寺を拔け出して、何處をどう聞いて行つたか、三河から甲斐の鰍澤へ、母を慕つて行つたさうである。それからえらい艱難に遇つた話も聞いた。

[やぶちゃん注:「臂力」は「ひりよく」で腕力のこと。

「鰍澤」山梨県南巨摩郡の旧鰍沢町(かじかざわちょう)。現在は南巨摩郡富士川町鰍沢。玖老勢からでは実測徒歩で百五十キロ以上はある。]

 これが猪狩りの名うての家の末路と思ふと情けなかつた。今ではもう夢のやうな昔語りになつてしまつた。當年のいたいけな兄の方も、早頭に霜を戴く程になつた。さうして自分の知る限りでは、いまに昔ながらの山刀を、持傳へて居る。

[やぶちゃん注:「當年」本書は大正一五(一九二六)年刊。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 樂聲

 

  樂  聲

日暮(ひく)れて、樂堂(がくだう)萎(しほ)れし瓶の花の

香りに醉(ゑ)ひては集(つど)へる人の前に、

こは何(なに)、波渦(なみうづ)沈(しづ)める蒼(あを)き海(うみ)の

遠音(とほね)と浮き來て音色(ねいろ)ぞ流れわたる。──

靈の羽ゆたかに白鳩舞(ま)ひくだると

仰(あふ)げば、一弦(いちげん)、忽ちふかき淵(ふち)の

底(そこ)なる嘆(なげ)きをかすかに誘(さそ)ひ出でゝ、

虛空(こくう)を遙(はる)かに哀調(あいてふ)あこがれ行く。

 

光と暗とを黃金(こがね)の鎖(くさり)にして、

いためる心を捲(ま)きては、遠(とほ)く遠く

見しらぬ他界(かのよ)の夢幻(むげん)の繫(つな)ぎよする

力(ちから)よ自由(まゝ)なる樂聲(がくせい)、あゝ汝(なれ)こそ

天(あめ)なる快樂(けらく)の名殘(なごり)を地(つち)につたへ、

魂(たま)をしきよめて、世に充(み)つ痛恨(いたみ)訴(うた)ふ。

            (癸卯十一月卅日)

 

   *

 

  樂  聲

日暮(ひく)れて、樂堂萎(しほ)れし瓶の花の

香りに醉ひては集へる人の前に、

こは何、波渦(なみうづ)沈める蒼き海の

遠音と浮き來て音色ぞ流れわたる。──

靈の羽ゆたかに白鳩舞ひくだると

仰げば、一弦、忽ちふかき淵の

底なる嘆きをかすかに誘ひ出でゝ、

虛空を遙かに哀調あこがれ行く。

 

光と暗とを黃金(こがね)の鎖にして、

いためる心を捲きては、遠く遠く

見しらぬ他界(かのよ)の夢幻の繫ぎよする

力よ自由(まゝ)なる樂聲、あゝ汝(なれ)こそ

天(あめ)なる快樂(けらく)の名殘を地(つち)につたへ、

魂(たま)をしきよめて、世に充つ痛恨(いたみ)訴(うた)ふ。

            (癸卯十一月卅日)

[やぶちゃん注:表題「樂聲」(「がくせい」と読んでおく)の「聲」の字は「耳」が「声」の下部に入って(へん)を成し、「殳」が(つくり)として独立している特殊な字体である。ここ(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。初出は『帝國文學』明治三七(一九〇四)年三月号の総標題「無弦」の第一篇。

 最終行「魂(たま)をしきよめて、世に充(み)つ痛恨(いたみ)訴(うた)ふ。」は「魂を」「し」「淨(きよ)めて」で、「し」は強意の副助詞であろう。啄木は偉大なる音楽、楽の音(ね)は、まさに「天」上「なる快樂(けらく)の名殘を」この大「地」「につたへ」(に傳へ)つつ、しかもあらゆる人々の「魂」(たましい)「を」も浄めて、それでいて同時に「世に充(み)」ち充ちている人々の「痛恨(いたみ)」をも「訴(うた)ふ」(「歌ふ」と「訴ふ」を掛けた確信犯の読みであろう)というのであろう。

「癸卯十一月卅日」「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年。既に述べた通り、これよりも前の五篇が、この翌日十二月一日発行の『明星』に載り、注目された。まさに新進気鋭の詩人石川啄木登場の文字通り「前夜」であったのである。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 人に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:本篇については前の「杜に立ちて」の注を参照されたい。]

 

  人 に 捧 ぐ

君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の

ねむれる曇りを射(ゐ)しより、醒(さ)め出でたる、

瑠璃羽(るりば)や、我が魂(たま)、日を夜を羽搏(はう)ちやまで、

雲渦(くもうづ)ながるる天路(てんろ)の光をこそ

導(ひ)きたる幻(まぼろし)眩(まばゆ)き愛の宮居(みやゐ)。

あこがれ淨(きよ)きを花靄(はなもや)匂(にほ)ふと見て、

二人(ふたり)し抱(いだ)けば、地(ち)の事(こと)破壞(はゑ)のあとも

追(お)ひ來(こ)し理想の影ぞとほゝゑまるる。

 

こし方、運命(さだめ)の氷雨(ひさめ)を凌(しの)ぎかねて、

詩歌(しいか)の小笠(をがさ)に紅(あけ)の緖(を)むすびあへず、

愁(うれ)ひの谷(たに)をしたどりて足(あ)惱(なゆ)みつれ、

峻(こゞ)しき生命(いのち)の坂路(さかぢ)も、君が愛の

炬火(たいまつ)心にたよれば、暗(くら)き空に

雲間(くもま)も星行く如くぞ安らかなる。

           (癸卯十一月十八日)

 

   *

 

  人 に 捧 ぐ

君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の

ねむれる曇りを射しより、醒め出でたる、

瑠璃羽(るりば)や、我が魂(たま)、日を夜を羽搏(はう)ちやまで、

雲渦ながるる天路の光をこそ

導(ひ)きたる幻眩き愛の宮居。

あこがれ淨きを花靄匂ふと見て、

二人し抱(いだ)けば、地の事壞(はゑ)のあとも

追ひ來(こ)し理想の影ぞとほゝゑまるる。

 

こし方、運命(さだめ)の氷雨を凌ぎかねて、

詩歌の小笠(をがさ)に紅(あけ)の緖むすびあへず、

愁ひの谷をしたどりて足(あ)惱(なゆ)みつれ、

峻(こゞ)しき生命(いのち)の坂路も、君が愛の

炬火心にたよれば、暗き空に

雲間も星行く如くぞ安らかなる。

           (癸卯十一月十八日)

[やぶちゃん注:本篇のみ「癸卯十一月十八日」と創作日時(「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年)がしっかりと書かれてあり、原初出形は五篇中で最後に書かれたものと推定してよい。

  本篇本文は初出形(『明星』明治三七(一九〇四)年一月号(辰歳第一号))とは表題を含め、一部に大きく有意な異同がある(特に第二連は大きく書き変えられてある)ので、最後に初出形を示す。底本は筑摩版全集を参考に、初版の表記を参照して漢字を恣意的に正字化した。

   *

    五――人に送る

君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の

眠れる曇りを射しより覺(さ)め出でたる

瑠璃羽(るりば)の靈鳥(れいてう)、日を夜を羽搏ち止まで、

雲渦(くもうづ)流るゝ天路(てんろ)の光をこそ

導(ひ)きたる幻(まぼろし)映(まばゆ)き愛の宮居、

憧憬(あこがれ)淨(きよ)きを花靄(はなもや)匂ふと見て、

二人(ふたり)し抱けば、地の事(こと)破壞(はゑ)の跡(あと)も、

追ひ來し理想の影ぞとほほゑまるゝ。

 

詩の笠(かさ)小さく生命(いのち)の嶮(けは)しき坂、

たどすに運命(さだめ)の氷雨(ひさめ)を凌ぎかねて、

ふと我れ冷たき病の谷に落ちし。――

さはあれ、現世(このよ)の行方(ゆくかた)せまき路も

愛の火もえたる胸には、黯(くら)みし空

雲間を星行く如くに安らかなる。

   *]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 隱沼

 

[やぶちゃん注:本篇については前の「杜に立ちて」の注を参照されたい。表題の「隱沼」は詩篇内で「こもりぬ」と訓じているのでそれに従う。]

 

  隱  沼

夕影(ゆふかげ)しづかに番(つがひ)の白鷺(しらさぎ)下(お)り、

槇(まき)の葉枯れたる樹下(こした)の隱沼(こもりぬ)にて、

あこがれ歌ふよ。──『その昔(かみ)、よろこび、そは

朝明(あさあけ)、光の搖籃(ゆりご)に星と眠り、

悲しみ、汝(なれ)こそとこしへ此處(こゝ)に朽(く)ちて、

我が喰(は)み啣(ふく)める泥土(ひづち)と融(と)け沈みぬ』──

愛の羽(は)寄(よ)り添(そ)ひ、靑瞳(せいどう)うるむ見れば、

築地(ついぢ)の草床(くさどこ)、涙を我も垂(た)れつ。

 

仰(あふ)げば、夕空さびしき星めざめて、

偲(しの)びの光の、彩(あや)なき夢の如く、

ほそ糸(いと)ほのかに水底(みぞこ)の鎖(くさり)ひける。

哀歡(あいくわん)かたみの輪廻(めぐり)は猶も堪えめ、

泥土(ひづち)に似(に)る身ぞ。 ああさは我が隱沼(こもりぬ)、

かなしみ喰(は)み去る鳥(とり)さへえこそ來(こ)めや。

            (癸卯十一月上旬)

 

   *

 

  隱  沼

夕影しづかに番(つがひ)の白鷺下(お)り、

槇の葉枯れたる樹下(こした)の隱沼(こもりぬ)にて、

あこがれ歌ふよ。──『その昔(かみ)、よろこび、そは

朝明、光の搖籃(ゆりご)に星と眠り、

悲しみ、汝(なれ)こそとこしへ此處に朽ちて、

我が喰(は)み啣(ふく)める泥土(ひづち)と融け沈みぬ』──

愛の羽(は)寄り添ひ、靑瞳(せいどう)うるむ見れば、

築地(ついぢ)の草床、涙を我も垂れつ。

 

仰げば、夕空さびしき星めざめて、

偲びの光の、彩なき夢の如く、

ほそ糸ほのかに水底(みぞこ)の鎖ひける。

哀歡かたみの輪廻(めぐり)は猶も堪えめ、

泥土に似る身ぞ。 ああさは我が隱沼、

かなしみ喰み去る鳥さへえこそ來(こ)めや。

            (癸卯十一月上旬)

 

[やぶちゃん注:「泥土に似る身ぞ。 ああさは我が隱沼、」の字空けはママ。全集は詰める。

「癸卯十一月上旬」「杜に立ちて」の後注を参照。

 本篇本文は初出形(『明星』明治三七(一九〇四)年一月号(辰歳第一号))とは、かなり有意な異同があり、詩想上でも大きな変異があるので、最後に初出形を示す。底本は筑摩版全集を参考に、初版の表記を参照して漢字を恣意的に正字化した。

   *

    四――隱 沼

夕空靜かに番(つがひ)の白鷺下(お)り、

槇(まき)の葉枯れたる樹影の隱沼(こもりぬ)にて、

何をか憧(こが)れうたふや、うら悲しく

靑瞳(せいどう)うるみて寄り添ふ、愛の姿。

あゝまた鳴けるよ。――『その昔(かみ)、よろこび、そは

朝明(あさあけ)光の搖籃(ゆりご)に星と眠り、

悲哀(かなしみ)、汝(なれ)こそとこしへこゝに朽ちて、

我が喰(は)み啣(ふく)める泥土(ひづち)と融(と)け沈みぬ。』

 

自然が彫(ゑ)りたる無言の默示(さとし)の鏨(のみ)、

げにこれ貴きこの世の律(おきて)なれや。

見よかの蒼穹(おほぞら)、寂しき星目ざめて、

追懷(しの)びの光ぞ水底(みぞこ)の鎖(くさり)ひける。

哀歡(あいくわん)かたみの輪廻(めぐり)に人たどるを、

誰かは世の事極みの日ありと云ふ。

   *

初出形は第二連が論述的で、景観が添え物として薄っぺらく、その代わりに、妙に新訳聖書の「ヨハネの黙示録」を意識した如何ともし難い変な臭さがある。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 啄木鳥

 

[やぶちゃん注:本篇については前の「杜に立ちて」の注を参照されたい。表題の「啄木鳥」は詩篇内で「きつつきどり」と訓じているのでそれに従う。]

 

  啄 木 鳥

いにしへ聖者(せいじや)が雅典(アデン)の森に撞(つ)きし、

光ぞ絕えせぬ天生(てんせい)『愛』の火もて

鑄(ゐ)にたる巨鐘(おほがね)、無窮のその聲をぞ

染めなす『綠(みどり)』よ、げにこそ靈の住家(すみか)。

聞け、今、巷(ちまた)に喘(あへ)げる塵(ちり)の疾風(はやち)

よせ來て、若(わか)やぐ生命(いのち)の森の精(せい)の

聖(きよ)きを攻(せ)むやと、終日(ひねもす)、啄木鳥(きつゝきどり)、

巡(めぐ)りて警告(いましめ)夏樹(なつぎ)の髓(ずゐ)にきざむ。

 

徃(ゆ)きしは三千年(みちとせ)、永劫(えいごう)猶すすみて

つきざる『時』の箭(や)、無象(むしやう)の白羽(しらは)の跡(あと)

追(お)ひ行く不滅の敎(をしへ)よ。──プラトー、汝(な)が

淨(きよ)きを高きを天路(てんろ)の榮(はえ)と云ひし

靈をぞ守りて、この森不斷(ふだん)の糧(かて)、

奇(くし)かるつとめを小(ちい)さき鳥のすなる。

            (癸卯十一月上旬)

 

   *

 

  啄 木 鳥

いにしへ聖者が雅典(アデン)の森に撞きし、

光ぞ絕えせぬ天生『愛』の火もて

鑄(ゐ)にたる巨鐘(おほがね)、無窮のその聲をぞ

染めなす『綠』よ、げにこそ靈の住家。

聞け、今、巷に喘げる塵の疾風(はやち)

よせ來て、若やぐ生命(いのち)の森の精の

聖きを攻むやと、終日(ひねもす)、啄木鳥(きつゝきどり)、

巡りて警告(いましめ)夏樹(なつぎ)の髓にきざむ。

 

徃きしは三千年(みちとせ)、永劫猶すすみて

つきざる『時』の箭(や)、無象(むしやう)の白羽の跡

追ひ行く不滅の敎よ。──プラトー、汝(な)が

淨きを高きを天路の榮(はえ)と云ひし

靈をぞ守りて、この森不斷の糧、

奇(くし)かるつとめを小さき鳥のすなる。

            (癸卯十一月上旬)

[やぶちゃん注:「雅典(アデン)」古代ギリシャのアテネ。同地は「アテーネー」(単数形)・「アテーナイ」(複数形)・「アゼンス」・「アテエン」の他「アデン」とも音写する。

「光ぞ絕えせぬ天生『愛』の火」以下のプラトンが説くに至る「善のイデア」への至上にしして不滅の愛を永遠に消えぬ「火」に喩えたものであろう。そもそも哲学とは愛智学の意であり、プラトンにとってのそれは肉体から解脱した魂が純粋な存在として生きることを理想とした。

「プラトー」古代ギリシャの哲学者で、ソクラテスの弟子にしてアリストテレスの師であるプラトン(紀元前四二七年~紀元前三四七年)。

「癸卯十一月上旬」「杜に立ちて」の後注を参照。

 果たして啄木が如何なる鳥としてキツツキを措定しているかは、今一つ判然としないが、人間の中の悪しきものへの警告を発するものとして詠んでいるようには読める。しかし、古代ギリシャでは母性神の象徴であるオークを嘴で啄くことから、性的欲望の象徴とされたが、一方でまた、古代ローマの博物学者プリニウスの「博物誌」の第十巻の二十で「軍神マルス神のキツツキ」を取り上げ、前兆を判ずる鳥占いをするのに重要な生き物であると記している。後者は本篇を読み解くには力になりそうではある。

 本篇本文は初出形(『明星』明治三七(一九〇四)年一月号(辰歳第一号))と微妙な点でかなりの異同がある(五行目の改変は有意に大きく、最後に原注が附くのも特異点である)。主にそれは表記上の違いで(記号を含む)、詩篇自体の詩想には違いはないが、ここでは最後に初出形を示すこととする。底本は筑摩版全集を参考に、初版の表記を参照して漢字を恣意的に正字化した。

   *

    三――啄 木 鳥

徃昔(いにしへ)聖者(せいじや)が雅典(アデン)の森に撞(つ)きし

光ぞたえせぬ天生(てんせい)愛の火もて

鑄にたる巨鐘(おほがね)、無窮のその音(おと)をぞ

染めつる『綠』よ、げにこそ靈の住家(すみか)、

そを今溷(にご)れる叫喚(さけび)の巷の風

寄せ來て、若やぐ生命(いのち)の森の精(せい)の

聖(きよ)きを攻むやと、終日(ひねもす)、啄木鳥(きつゝきどり)、

巡(めぐ)りて警告(いましめ)夏樹(なつき)の髓(ずゐ)に刻む。

 

徃(ゆ)きしは三千年(みちとせ)、永劫(えいごふ)なほ進みて

盡きざる『時』の箭(や)、無象の白羽(しらは)のあと、

追ひゆく不滅の敎よ。プラトオ、汝(な)が

淨(きよ)きを、高きを、天路の榮(はえ)と云ひし

靈をぞ守りてこの森不斷の糧(かて)、

奇かる務めを小(ちひ)さき鳥のすなる。

 (プラトー四十にして長き船よりアテエネにかへり、

 其アカデミイを郊外の林園に造りぬ。)

    *

「えいごふ」「ちひ」はママ。「プラトオ」と「プラトー」の表記違いもママ。後注は一行ベタ書きで全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、改行して示した。ウィキの「プラトン」によれば、紀元前三八七年、四十歳頃、『プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス』『の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた』。『場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた』とある。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 白羽の鵠舩

 

[やぶちゃん注:本篇については前の「杜に立ちて」の注を参照されたい。表題の「鵠舩」は詩篇内で「とりぶね」と訓じている。「鵠」は狭義には「くぐひ(くぐい)」で「大形の水鳥」則ち「白鳥」を指すが、他に「白い」の意があり、ここは「白い鳥」でよかろう。幻想の鳥の白羽(しらは)の白帆の小舟の形象と読む。東西の神話の中に出現するものでもある。本文では「船」であるのに表題では「舩」なのはママ。全集は表題も「船」とする。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読めるが、 本篇本文は初出形と校合しても、表記上の違いがあるだけで、有意な改変は行われていないので、初出形は示さない。

 

  白 羽 の 鵠 舩

かの空みなぎる光の淵(ふち)を、魂(たま)の

白羽(しらは)の鵠船(とりぶね)しづかに、その靑渦(あをうづ)

夢なる櫂(かひ)にて深うも漕(こ)ぎ入らばや。──

と見れば、どよもす高潮(たかじほ)音匂ひて、

樂聲(がくせい)さまよふうてなの靄(もや)の帕(きぬ)を

透(す)きてぞ浮きくる面影、(百合姬(ゆりひめ)なれ)

天華(てんげ)の生襞(いくひだ)瑲々(さやさや)あけぼの染(ぞめ)、

常樂(じやうげふ)ここにと和(やは)らぐ愛の瞳(ひとみ)。

 

運命(さだめ)や、寂寥兒(さびしご)遺(のこ)れる、されど夜々の

ゆめ路(ぢ)のくしびに、今知る、哀愁世(かなしきよ)の

終焉(をはり)は靈光(れいくわう)無限の生(せい)の門出(かどで)。

瑠璃水(るりすゐ)たたえよ、不滅の信(しん)の小壺(こつぼ)。

さばこの地に照る日光(ひかり)は氷(こほ)るとても

高歡(かうくわん)久遠(くをん)の座(ざ)にこそ導(みちび)かるれ。

            (癸卯十一月上旬)

 

   *

 

  白 羽 の 鵠 舩

かの空みなぎる光の淵を、魂(たま)の

白羽(しらは)の鵠船しづかに、その靑渦

夢なる櫂にて深うも漕ぎ入らばや。──

と見れば、どよもす高潮(たかじほ)音匂ひて、

樂聲さまよふうてなの靄の帕(きぬ)を

透きてぞ浮きくる面影、(百合姬なれ)

天華(てんげ)の生襞(いくひだ)瑲々(さやさや)あけぼの染(ぞめ)、

常樂(じやうげふ)ここにと和らぐ愛の瞳。

 

運命(さだめ)や、寂寥兒(さびしご)遺れる、されど夜々の

ゆめ路のくしびに、今知る、哀愁世(かなしきよ)の

終焉(をはり)は靈光無限の生の門出。

瑠璃水(るりすゐ)たたえよ、不滅の信の小壺。

さばこの地に照る日光(ひかり)は氷るとても

高歡(かうくわん)久遠の座にこそ導かるれ。

            (癸卯十一月上旬)

[やぶちゃん注:「櫂(かひ)」はママ。歴史的仮名遣は「かき」のイ音便であるから「かい」でよい。

「日光(ひかり)」の「ひかり」は二字へのルビ。

「帕(きぬ)」鉢巻やハンカチーフのようなものを指す語であるが、ここはそれの薄く大きな絹のベールの謂いであろう。

「天華(てんげ)の生襞(いくひだ)」曙から東雲にかけての天空の雲の輝くさまを隠喩・換喩して謂ったものであろう。

「瑲々(さやさや)」「瑲」は玉や金属などが触れ合って静かに鳴るさまや、楽の音(ね)の調和すること、或いは鈴の音。ここは自然界の静かな美しい様態を聴覚的に換喩したもの。

「常樂(じやうげふ)」「げふ」はママ。「樂」は呉音では歴史的仮名遣で「ゲウ」、現代仮名遣いで「ギョウ」になるので啄木の誤記である(初出も同じであることから)。本来は涅槃世界の絶対不変の安穏の様態を指す語。「常」は「恒常であること」を、「樂」は「静謐な楽しみ」の意。

「くしび」「靈び」「奇び」で、「霊妙なこと」「不思議なこと」の意。動詞「くしぶ」の連用形の名詞化。

「さば」平安時代からある接続詞。先行する事態の結果として後にことが起こることを示す。「それならば」「それでは」「さらば」。

「癸卯十一月上旬」「杜に立ちて」の後注を参照。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 杜に立ちて

 

  杜に立ちて

秋去り、秋來る時劫(じごふ)の刻(きざ)みうけて

五百秋(いほあき)朽(く)ちたる老杉(おいすぎ)、その眞洞(まほら)に

黃金(こがね)の皷(つゝみ)のたばしる音傳へて、

今日(けふ)また木の間を過ぐるか、こがらし姬。

運命(うんめい)せまくも惱みの黑霧(くろぎり)落ち

陰靈(ゐんりやう)いのちの痛みに唸(うめ)く如く、

梢(こずゑ)を搖(ゆ)りては遠(とほ)のき、また寄せくる

無間(むげん)の潮(うしほ)に漂ふ落葉の聲。

 

ああ今、來りて抱けよ、戀知る人。

流轉(るてん)の大浪(おほなみ)すぎ行く虛(うつろ)の路、

そよげる木(こ)の葉(は)ぞ幽(かす)かに落ちてむせぶ。──

驕樂(けふらく)かくこそ沈まめ。──見よ、綠(みどり)の

薰風(くんぷう)いづこへ吹きしか。 胸燃えたる

束(つか)の間(ま)、げにこれたふとき愛の榮光(さかえ)。

           (癸卯十一月上旬) 

 

   *

 

  杜に立ちて

秋去り、秋來る時劫(じごふ)の刻みうけて

五百秋(いほあき)朽ちたる老杉(おいすぎ)、その眞洞(まほら)に

黃金(こがね)の皷(つゝみ)のたばしる音傳へて、

今日また木の間を過ぐるか、こがらし姬。

運命せまくも惱みの黑霧落ち

陰靈(ゐんりやう)いのちの痛みに唸く如く、

梢を搖(ゆ)りては遠のき、また寄せくる

無間(むげん)の潮(うしほ)に漂ふ落葉の聲。

 

ああ今、來りて抱けよ、戀知る人。

流轉の大浪すぎ行く虛(うつろ)の路、

そよげる木の葉ぞ幽かに落ちてむせぶ。──

驕樂かくこそ沈まめ。──見よ、綠の

薰風いづこへ吹きしか。 胸燃えたる

束の間、げにこれたふとき愛の榮光(さかえ)。

           (癸卯十一月上旬)

[やぶちゃん注:「皷(つゝみ)」ママ。筑摩版全集もママ。後述する『明星』初出形では正しく「つゞみ」となっている。

「陰靈(ゐんりやう)」ママ。同前。歴史的仮名遣は「ゐん」ではなく、「いん」である。後述する『明星』初出形では正しく「いん」となっている。

「薰風(くんぷう)いづこへ吹きしか。 胸燃えたる」の句点後の字空けはママ。全集は詰める。後述する『明星』初出形でも詰まっている。

「癸卯十一月上旬」「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年。全集年譜(岩城之徳編)によれば、前年の上京で知遇を得ていた與謝野鉄幹の厚意で石川白蘋(はくひん)のペン・ネームで『明星』に短歌を発表していたが(明治三十五年十月号初回)、この明治三十六年十一月一日『発行の「明星」卯歳第十一号に石川白蘋を新詩社同人とする旨が発表され』、『啄木はこの月初旬より詩作に没頭、「愁調」と題する五篇の長詩を得て、これを啄木の書名で鉄幹の許に送』り、十二月一日発行の『明星』にこの『五篇が載り』、『新詩社内外の注目を集める』とある。而してその「愁調」五篇とは「一――杜に立ちて」・「二――白羽の鵠船」・「三――啄木鳥」・「四――隱居」・「五――人に送れる」であって、改稿されたものが、本詩集に本篇から順に五篇とも収録されてある(「五――人に送れる」は「人に捧ぐ」改題されている)。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読めるが、校合しても、表記上の違いがあるだけで、有意な改変は行われていないので、初出形は示さない。

2020/03/16

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 始動 / 序(上田敏)・沈める鐘⦅序詩⦆

[やぶちゃん注:石川啄木の処女詩集「あこがれ」は明治三八(一九〇五)年五月三日に東京の小田島(おだじま)書房から刊行された。収録詩篇七十七篇(學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の今井泰子氏の「石川啄木作品事典」によれば、『明治三十六年十一月から明治二十八年三月十八日までの間に作られた文語定型詩』で、『特に冒頭の五篇は、詩として最初の作品にして、かつ初めて啄木の号を使用したものとして記念される』ものという)。定価五十銭。序詩を上田敏が、跋を与謝野鉄幹がものしている。装幀は啄木の同郷の友人石掛(いしがかり)友造。

 当時、啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日)は満十九歳。刊行前後は、前年明治三十七十月三十一日に本詩集発行を目的として上京しており、発行日にも在京であったが、刊行直前の五月十二日に父一禎が啄木と堀合節子との婚姻届を盛岡市役所に提出している。しかし、この間の明治三十七年末の十二月二十六日、父一禎は宗費百三十円余の滞納のために曹洞宗宗務院より渋民村の宝徳寺の住職罷免処分を受けており、啄木はこれを知って六月四日に盛岡に帰り、父母と新妻と啄木の妹光子の五人の生活を渋民村の新居(宝徳寺からの退去は啄木のいなかった三月一日であった)で開始している。

 底本は早稲田大学図書館公式サイト内の「早稲田大学図書館古典籍総合データベースの本初版本の画像を視認した。なお、同サイトは画像のリンクは許可しているが、画像自体の使用は認めていないので、必要とした部分ではHTML版の当該パートのリンクを施して、初版をヴァーチャルに味わえるように配慮した。但し、加工用データとして、「あどけない詩」氏のブログ「あどけない詩〜詩と詩人の紹介〜」の三分割((1)(2)(3))の詩集「あこがれ」(新字旧仮名。底本は(ブログ主は『親本』と呼称しておられる)「石川啄木全集」昭和五四(一九七九)年筑摩書房刊と考えられる)を使用させて頂いた(但し、既に今回の私の電子化のこのページ内だけで残念ながら幾つかの誤字を発見した)。不審な箇所は所持する昭和五四(一九七九)年筑摩書房刊「石川啄木全集 第二巻 詩集」と校合した。傍点「ヽ」は太字に代え、踊り字「〱」「〲」は正字化した。各篇の本文は中央位置でかなり下げた位置に記されるが、それは再現せず、行頭まで引き上げてある。また、最後のクレジットはずっと下方にあるが、これも有意に引き上げた。

 なお、ルビが五月蠅いので、底本通りの読みを最初に振ったものを示した上で、煩を厭わず、後に「*」を挟んで大方の読みを排除したもの(一部の難訓を残した)を示した。

 ストイックに主に若い読者を想定して私のオリジナル注を附した。【2020316日始動:藪野直史】]

 

 

 文學士上田敏君序

          石川啄木著

  與謝野銕幹君跋

 

新體

   あ こ が れ

詩集

 

[やぶちゃん注:カバーと思われるものの表(表紙側。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。字はブルー。「あこかれ」の清音はママ。石掛友造(「友」の書名が左下にある)の若い婦人像(ブルーの地に白の版画)が右に縦に入っている。

 そのカバーの裏の側(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。中央に小さく丸いやはり若い婦人の像(同じくブルーの地に白の版画。一見、猫か犬のようにも見えるが、私は婦人ととる)。サインは見えない(印刷時に潰れてしまった可能性が大きい。次を参照)。カバー全体はこちら(同前)。

 

 

     石川啄木著

      あ こ か れ

 

[やぶちゃん注:本体表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。「あこかれ」はママ。石掛友造のデフォルマシオンされた図が配されてある。桔梗(ききょう)の図案化か。清音はママ。地はもとは暗い深い藍色か暗緑色か。]

 

 あ こ が れ  東京 小田島書房發行

 

[やぶちゃん注:(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。

 本体裏表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。カバー裏と同じ図案であるが(地色は前の本体表紙と同じ)、こちらは地の左手に「友」のサインがはっきり認められる。

 

 

 あ こ が れ   石川啄木著

 

[やぶちゃん注:扉表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。]

 

此   書   を

尾 崎 行 雄 氏

に献じ併て遙に

故 鄕 の 山 河

に   捧   ぐ

 

[やぶちゃん注:献辞。字配は初版の当該ページの画像(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)通りにした。

「尾崎行雄」(安政五(一八五八)年~昭和二九(一九五四)年)は政党政治家。号は学堂、後に咢堂。 相模生まれ。明治九(一八七六)年、慶應義塾中退後、福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆とある。後、大隈重信に招かれ、統計院権少書記官となったが、所謂、「明治十四年の政変」により下野、明治一六(一八八二)年、大隈系の『郵便報知新聞』に入社した。同年には大隈の立憲改進党に入党、明十七年には『報知新聞』特派員として中国に渡った。翌明治十八年、東京府議会議員となり、明治二三(一八九〇)年の第一回衆議院議員総選挙に三重県から立候補して当選した。明治二九(一八九六)年には外務省参事官、明治三十一年には隈板内閣(わいはんないかく:与党となった憲政党の内、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織した、日本史上初の政党内閣)の文部大臣となったが、帝国教育会での所謂「共和演説」(尾崎の舌禍事件。金権万能の現状を批判し、日本が共和制になったら、三井・三菱が大統領候補になるだろうという演説を行い、それが不敬とされて批判された事件)により、同年辞職。三次三三(一九〇〇)年、伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加した。明治三六(一九〇三)年東京市長となり、明治四四(一九一一)年、外債により私営電車を買収して東京市電の経営を始めた。翌大正元(一九一二)年に桜の苗木三千本をワシントンD.C.に贈呈したことはよく知られている。また、大正三(一九一四)年大隈内閣の司法大臣に就任、進歩党総務・憲政会筆頭総務をも務めた。衆議院議員当選回数二十五回。日本の軍国主義時代にあって軍と妥協せず、そのため太平洋戦争中,東条内閣により翼賛選挙で不敬罪として起訴されたが、無罪となった。第二次世界大戦後は平和運動家として世界連邦制の確立のために努力した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。実は啄木は尾崎と面識があったわけではないようである。尾崎は與謝野鉄幹(本書跋を執筆)・鳳晶子らと交際があり、文筆家としても知られ、当時は東京市長であったことから、詩集刊行の援助や売れ行きを考えて、突如、彼をこの献辞原稿を携えて尾崎を訪問したものらしい。その時にどういなされたか等はいろいろなネット記事に見出せるのでそちらを読まれたいが、啄木の無謀ぶりには呆れるものがある。

「併て」「あはせて」。

 以下、上田敏による序詩。開始は左ページから(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。当時(明治三八(一九〇五)年)の上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)は東京帝国大学講師在職中か。彼は本書刊行から五ヶ月後の同明治三八年十月、かの名訳詩集「海潮音」を刊行している。以下の序詩は上田敏が本詩集のために書き下ろしたもので、大正九(一九二〇)年刊の訳詩集「牧羊神」に、特異的に挿入された上田の数少ない創作詩篇五篇の内の一つとして入れられてある。

 

 

  啄 木

         上 田  敏

婆羅門(ばらもん)の作(つく)れる小田(をだ)を食(は)む鴉(からす)、

なく音(ね)の、耳(みゝ)に慣(な)れたるか、

おほをそ鳥(どり)の名(な)にし負(を)ふ

いつはり聲(ごゑ)のだみ聲(ごゑ)を

又(また)なき歌とほめそやす

木兎(づく)、梟(ふくろふ)や、椋鳥(むくどり)の

ともばやしこそ笑止(せうし)なれ。

聞(き)かずや、春(はる)の山行(やまぶみ)に

林(はやし)の奧(おく)ゆ、伐木(ばつぼく)の

丁々(たうたう)として、山(やま)更(さら)に

なほも幽(いう)なる山彥(やまびこ)を。

こはそも仙家(せんか)の斧(をの)の音(ね)か、

よし足引(あしびき)の山姥(やまうば)が

めぐりめぐれる山めぐり、

輪廻(りんゑ)の業(ごふ)の音(おと)づれか、

 

いなとよ、ただの鳥(とり)なれど、

赤染(あかぞめ)いろのはねばうし、

黑斑(くろふ)、白斑(しらふ)のあや模樣(もやう)、

紅梅(こうばい)、朽葉(くちば)の色(いろ)許(ゆ)りて、

なに思(おも)ふらむ、きつつきの

つくづくわたる歌(うた)の枝(えだ)。

 

げに虛(うつろ)なる朽木(きうぼく)の

幹(みき)にひそめるけら虫(むし)は

風雅(ふうが)の森(もり)のそこなひぞ、

鉤(か)けて食(くら)ひね、てらつつき。

また人(ひと)の世(よ)の道(みち)なかば

闇路(やみぢ)の林(はやし)ゆきまよふ

誠(まこと)の人(ひと)を導(みちび)きて

歡樂山(くわんらくざん)にしるべせよ。

噫(あゝ)、あこがれの其歌(そのうた)よ、

そぞろぎわたり、胸(むね)に泌(し)み、

さもこそ似(に)たれ、陸奧(みちのく)の

卒都(そと)の濱邊(はまべ)の呼子(よぶこ)どり

なくなる聲(こゑ)は、善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)。

 

   *

 

  啄 木

         上 田  敏

婆羅門の作れる小田を食む鴉、

なく音の、耳に慣れたるか、

おほをそ鳥の名にし負ふ

いつはり聲のだみ聲を

又なき歌とほめそやす

木兎(づく)、梟や、椋鳥の

ともばやしこそ笑止なれ。

聞かずや、春の山行(やまぶみ)に

林の奧ゆ、伐木の

丁々として、山更に

なほも幽なる山彥を。

こはそも仙家の斧の音か、

よし足引の山姥が

めぐりめぐれる山めぐり、

輪廻の業の音づれか、

 

いなとよ、ただの鳥なれど、

赤染いろのはねばうし、

黑斑(くろふ)、白斑(しらふ)のあや模樣、

紅梅、朽葉(くちば)の色許(ゆ)りて、

なに思ふらむ、きつつきの

つくづくわたる歌の枝。

 

げに虛(うつろ)なる朽木(きうぼく)の

幹にひそめるけら虫は

風雅の森のそこなひぞ、

鉤(か)けて食(くら)ひね、てらつつき。

また人の世の道なかば

闇路の林ゆきまよふ

誠の人を導きて

歡樂山(くわんらくざん)にしるべせよ。

噫、あこがれの其よ、

そぞろぎわたり、胸に泌み、

さもこそ似たれ、陸奧の

卒都(そと)の濱邊の呼子どり

なくなる聲は、善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)。

 

   *

[やぶちゃん注:「輪廻(りんゑ)」はママ。

「色許(ゆ)りて」そうした多様な、ある意味、ゴテゴテした色を許してまで、の謂いであろう。

「卒都(そと)の濱邊」青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の、陸奥湾沿岸を指す古来の広域地名で、北辺の絶境の地としての広義の認識であり、上田がこの漢字「卒都」を選んでいるのもそれを意識してのことと考えられる。

「善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)」「外ヶ浜」の陸奥湾最深部に位置する、青森市安方善知鳥(やすかたうとう)神社(グーグル・マップ・データ)のウィキの記載によれば、ここの縁起は『允恭天皇の時代、善知鳥中納言安方という者が勅勘を受けて外ヶ浜に蟄居していた時、高倉明神の霊夢に感じて干潟に小さな祠を建設し、宗像三神を祀ったのが神社の起こりと伝わ』り、『安方が亡くなると、見慣れない一番の鳥が小祠のほとりに飛んできて雄はウトウと鳴き、雌はヤスカタと鳴くので、人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬ったが、ある日』、『猟師が誤ってこの雄鳥を狙撃してしまい、以後』、『雄鳥によって田畑が荒らされた。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた同郷の人々は雄鳥を丁重に弔った』とあり、またウィキの謡曲「善知鳥」も本意を解釈する縁(よすが)となる。同曲は『ウトウという鳥を殺して生計を立てていた猟師が死後亡霊となり、生前の殺生を悔い、そうしなくては生きていけなかったわが身の悲しさを嘆く話』で、『人生の悲哀と地獄の苦しみを描き出す哀しく激しい作品となっている』。『旅の僧侶が立山にさしかかったとき、猟師の亡霊が現れ、現世に残した妻と子のところに蓑笠を届けて、仏壇にあげるように頼む。僧侶は承諾するが、この話を妻子に信用させるために何か証拠の品を渡すように言い、猟師は生前着ていた着物の片袖を渡す。僧侶が陸奥国の外の浜にある猟師の家を訪ね、妻子に片袖を見せると二人はただ泣くばかり。僧侶が蓑笠を仏壇にあげて経を唱えると、猟師の亡霊が現れ、地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆く。ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用して声真似をして雛鳥を捕獲していたため、地獄で鬼と化したウトウに苦しめられ続けていると話し、僧侶に助けを求める』という展開で、『また、ウトウという海鳥は、親鳥が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子の鳥が「やすかた」と鳴いて居場所を知らせると言われ、それを利用して猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわるという言い伝えがあり、そのために捕獲の際には蓑笠が必要とされた』とある。啄木鳥の声の虚ろな響きに、海鵜の伝承の持つ多層的な哀感を利かせてコーダとしたものである。

 以下、目次が続くが、必要を感じないので省略する。]

 

 

 

あ こ が れ

        詩 石川啄木

  沈める鐘⦅序詩⦆

 

   

 

渾沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、

光を天(あめ)にも劃(わか)ちしその曙、

五天の大御座(おおみざ)高うもかへらすとて、

七寶(しちほう)花咲く紫雲の『時』の輦(くるま)

瓔珞(えうらく)さゆらぐ軒より、生(せい)と法(のり)の

進みを宣(の)りたる無間(むげん)の巨鐘(おほがね)をぞ、

永遠(とは)なる生命(いのち)の證(あかし)と、海に投げて、

蒼穹(あをぞら)はるかに大神(おほかみ)知ろし立ちぬ。

 

時世(ときよ)は流れて、八百千(やほち)の春はめぐり、

榮光いく度さかえつ、また滅びつ、

さて猶老(おい)なく、理想の極まりなき

日と夜の大地(おほぢ)に不斷(ふだん)の聲をあげて、

(何等の靈異ぞ)劫初(ごふしよ)の海底(うなぞこ)より

『祕密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。

 

    

 

朝(あした)に、夕(ゆふべ)に、はた夜の深き息(いき)に、

白晝(まひる)の嵐に、擣(つ)く手もなきに鳴りて、

絕えざる巨鐘、──自然の胸の聲か、

永遠(とは)なる『眠(ねむり)』か、無窮(むきう)の生(せい)の『覺醒(さめ)』か、──

幽(かす)かに、朗(ほが)らに、或は雲にどよむ

高潮(たかじほ)みなぎり、悲戀(ひれん)の咽び誘ひ、

小貝(をがひ)の色にも、枯葉のさゝやきにも

ゆたかにこもれる無聲の愛の響。

 

悵(いた)める心に、渴(かは)ける靈の唇(くち)に、

滴(したゞ)り玉なす光の淸水(しみづ)めぐみ、

香りの雲吹く聖土(せいど)の靑き花を

あこがれ戀ふ子(こ)に天(あめ)なる樂(がく)を傳ふ

救濟(すくひ)の主(あるじ)よ、沈める鐘の聲よ。

ああ汝(なれ)、尊とき『祕密』の旨(むね)と鳴るか。

 

    

 

ひとたび汝(な)が聲心の弦(いと)に添ふや、

地の人百(もゝ)たり人爲(じんゐ)の埒(らち)を超(こ)えて、

天馬(てんば)のたかぶり、血を吐く愛の叫び、

自由の精氣を、耀(かゞや)く靈の影を

あつめし瞳(ひとみ)に涯(はて)なき涯を望み、

黃金(こがね)の光を歷史に染めて行ける。

彫(ゑ)る名はさびたれ、かしこに、ここの丘(をか)に、

墓碑(はかいし)、──をしへのかたみを我は仰(あふ)ぐ。

 

暗這(は)ふ大野(おほの)に裂(さ)けたる裾(すそ)を曳(ひ)きて、

ああ今聞くかな、天與(てんよ)の命(めい)を告ぐる

劫初の深淵(ふかみ)ゆたゞよふ光の聲。──

光に溢れて我はた神に似るか。

大空(おほぞら)地と斷(た)て、さらずば天(あめ)よ降(お)りて

この世に蓮(はし)滿(み)つ詩人の王座作れ。

            (甲辰三月十九日)

 

   *

 

  沈める鐘⦅序詩⦆

 

   

 

渾沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、

光を天(あめ)にも劃(わか)ちしその曙、

五天の大御座(おおみざ)高うもかへらすとて、

七寶花咲く紫雲の『時』の輦(くるま)

瓔珞さゆらぐ軒より、生と法(のり)の

進みを宣りたる無間(むげん)の巨鐘(おほがね)をぞ、

永遠(とは)なる生命(いのち)の證(あかし)と、海に投げて、

蒼穹(あをぞら)はるかに大神(おほかみ)知ろし立ちぬ。

 

時世(ときよ)は流れて、八百千(やほち)の春はめぐり、

榮光いく度さかえつ、また滅びつ、

さて猶老なく、理想の極まりなき

日と夜の大地(おほぢ)に不斷の聲をあげて、

(何等の靈異ぞ)劫初の海底(うなぞこ)より

『祕密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。

 

    

 

朝(あした)に、夕(ゆふべ)に、はた夜の深き息に、

白晝(まひる)の嵐に、擣(つ)く手もなきに鳴りて、

絕えざる巨鐘、──自然の胸の聲か、

永遠なる『眠(ねむり)』か、無窮の生の『覺醒(さめ)』か、──

幽かに、朗(ほが)らに、或は雲にどよむ

高潮(たかじほ)みなぎり、悲戀の咽び誘ひ、

小貝(をがひ)の色にも、枯葉のさゝやきにも

ゆたかにこもれる無聲の愛の響。

 

悵(いた)める心に、渴ける靈の唇(くち)に、

滴(したゞ)り玉なす光の淸水めぐみ、

香りの雲吹く聖土の靑き花を

あこがれ戀ふ子に天(あめ)なる樂を傳ふ

救濟(すくひ)の主(あるじ)よ、沈める鐘の聲よ。

ああ汝(なれ)、尊とき『祕密』の旨(むね)と鳴るか。

 

    

 

ひとたび汝(な)が聲心の弦(いと)に添ふや、

地の人百(もゝ)たり人爲の埒(らち)を超えて、

天馬(てんば)のたかぶり、血を吐く愛の叫び、

自由の精氣を、耀く靈の影を

あつめし瞳に涯なき涯を望み、

黃金(こがね)の光を歷史に染めて行ける。

彫る名はさびたれ、かしこに、ここの丘に、

墓碑(はかいし)、──をしへのかたみを我は仰ぐ。

 

暗這ふ大野に裂けたる裾を曳きて、

ああ今聞くかな、天與の命(めい)を告ぐる

劫初の深淵(ふかみ)ゆたゞよふ光の聲。──

光に溢れて我はた神に似るか。

大空地と斷て、さらずば天(あめ)よ降(お)りて

この世に蓮(はし)滿つ詩人の王座作れ。

            (甲辰三月十九日)

[やぶちゃん注:底本の各詩篇の表題の文字は独特の丸みを帯びた特徴的なフォントである。例えば本「沈める鐘」を見られたい(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。個人的には非常に心地よい柔らかさを与えるいい字体である。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の今井泰子氏の「石川啄木作品事典」によれば、この詩集の『書名は最初』まさに本篇の表題と同じ「沈める鐘」と『称される予定で』、この『序詩に使用された同題の詩も早くから用意されていた。海底の鐘の音を心中に聞くというその着想は、ヴィネータ伝説を歌う英詩から得られたらしいが、十世紀頃のその都市伝説を開闢時の物語に作り変え、自らを創造主の意を体した詩人にみたてるほど、当時の』文学面に於ける『啄木は疑いを知らぬ至福の状態にいた。文学史的に見れば、泣菫。有明調の驥尾』(きび:駿馬の尾。「驥尾に付く」で「先達を見習って行動する」ことを遜って言う)『つく詩集に過ぎないとしても、啄木個人にとっては、まずは内的必然性を充分に伴い、詩壇の嘱望も受けた幸福な出発であった』。『しかし書名が『沈める鐘』から『あこがれ』に改められる頃には、すでに熱狂は薄れ始め、その立場も地上からする天上への憧憬に移行しつつあり、ついで詩集刊行時に起こ』った『環境の激変が、やがて、この出発時の世界に対する疑惑を促していくことにな』ったと評されておられる。「ヴィネータ」は十世紀より以前にポーランド西部のバルト海沿岸にあったとされる港湾都市であったが、不道徳と放埓の限りを尽くした結果、ソドムとゴモラのように神によって罰せられて沈んだとされるものである。なお、本篇には初出があり、『時代思潮』明治三七(一九〇四)年四月号である。以下の詩篇も多殆んどは初出があり(全七十七篇中、七十四篇)、詩集収録に際してかなりの推敲による変化があるが、特に私が詩想上で大きな異同と認めないものは、それを示さない。

「渾沌(こんどん)」濁音はママ。

「無間(むげん)」絶え間がないこと。

「尊とき」「たつとき(たっとき)」と訓じておく。

「蓮(はし)滿(み)つ」不審。「蓮」に「はし」という読みや「ハス」の異名はない。或いは東方弁の訛りだろうか? 識者の御教授を乞う。

「甲辰三月十九日」「甲辰」(きのえたつ)は明治三十七年で、一九〇四年。]

三州奇談卷之四 瀨領得ㇾ甕

 

     瀨領得ㇾ甕

 瀨領(せりやう)は金澤の東西の山入の小村なり。此里より出でたる人に、金澤折違橋(すぢかひばし)の地の邊りに八右衞門と云ふ男あり。今金澤中に月頭を配りて錢を取るは此人なり。

[やぶちゃん注:表題は「甕(かめ)を得(う)」と読んでおく。

「瀨領」現在の金沢市瀬領町(せりょうまち。グーグル・マップ・データ航空写真)。湯涌温泉の南西に尾根を隔てた山間部である。

「折違橋」旧折違町は現在の金沢駅南西直近の昭和町及び折違町であるが、橋は現認出来ない。但し、筆者も「地」と言っているので、問題はない。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『三構橋から木揚場まで≪鞍月用水⑦≫』に、『旧絵図や現在藩政期には、今の六枚町交差点辺りに「折違橋(すじかいばし)」があり、道路が曲がっていたので橋を”すじかい(斜め)“に架かっていたので折違橋と呼ばれ、その辺りの町の名前も、始め折違橋町といい後に折違町としました。現在ある折違橋は、場所も違い昭和53年(1983)に大隅橋の上流の橋として架けられたもので、昔の折違橋町に由緒する橋とは別のものです』(写真あり)とあったので現存しないことが判明した。

「月頭」「げつとう」或いは「つきがしら」。金沢で配布された一年の旧暦の暦(こよみ)である「月頭暦(げっとうれき/つきがしらごよみ)」のこと。サイト「日本の暦」のこちらに、『金沢で発行された半紙1枚摺りの略暦で、創始の年代は不明ですが、明和年間(1764-72)の月頭暦が残されています。通常の暦の暦首(暦の始め)部分と毎月の大小、朔日(さくじつ 月の始め)の干支をまとめ主要な暦注を加えたもので、月の始めをまとめた形から、月頭(つきがしら)と呼ばれています。月頭暦は売暦(販売する暦)で、版元は毎年不定ですが、津幡屋、川後(尻)屋、松浦の名が多く見られます』。『特に幕末のものには、右上にその年の十二支の絵が入るのが特色の一つです。ただし、大経師と院御経師の名があるものには、絵はありませんでした』とあり、弘化五・嘉永元(一八四八)年板行(版元は津幡屋仁左衛門・川後屋信太郎とある)の月頭暦の画像が載る。]

 元祿の頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]、勢領の里に一つの甕を掘出(いだ)す。水をたゝへて愛翫すべき物故に、金澤へ賣りに出す。則(すなはち)此八右衞門は勢領に緣あれば、彼方(かれがかた)へ先づ來りて、其後方々望(のぞむ)人を聞合せけるに、藥だに悉くはたりしかば、望む人少かりしが、菊池秋涯公御求め有て庭に居ゑ水をたゝへられしに、其持主右八右衞門成(なる)事を聞えしかば、

「渠(かれ)は月がしらを配る非田地の類(たぐひ)にこそ。左(さ)あれば此甕も汚(けがら)はし」

とて、捨られし事あり。

[やぶちゃん注:「菊池秋涯公」加賀藩人持組の名家に菊池十六郎家(三千二百石)があり、これ佐々成政の家臣で阿尾城主であった菊池武勝が初代で、利家の調略で前田家の家臣となったもので、サイト「茶道宗和流」のこちらに、加賀藩の門人として菊池十六郎を挙げ、『号秋(涯の右側) 三千二百石 弥八郎』とあるのが、当該人物かと思われる。「加能郷土辞彙」のここに出る、菊池氏の内、没年から見て、菊池武康で間違いないと思われる。そこには『幼名彌八郞、後十六郞。實は淺井源右衞門一政の二子で』、菊池『武直の養子となつたもの。初め實父の配地三百石を得て』、第五代藩主『前田綱紀に仕へ、萬治元年大小將組に列し、寬文・延寶の間大小將番頭・先筒頭に累遷し、用人を兼ねた。延寶八年武直の二千五百石を襲ぎ、自分知を併せて二千八百石(内五百石與力知)を領し、人持組に列し、天和二円年武直の致仕料五百石を受け、元祿余年四百石を增し、次いで御算用場奉行、公事場奉行。・江戶御留守居を經て、十二年世子の傅となり、十六年之を免ぜられ、正德三年十二月退老して秋厓または秋涯と號し、隱居料五百石を受けた。享保三年』(一七一八年)『五月十七日歿、享年八十二』とあるからである。

「非田地」百姓のように耕作地を持たず、しかも工業者や商人のように日々の決まった商いをしていないことを指すようである。則ち、士農工商から外れた当時の被差別者として八右衛門を認識しているのである。これについては、decencies氏のサイト「異形の郷土史」の「陰暦に舞う者」でまず本篇を電子化され(但し、新字新仮名)た上で、実に七回に亙って何故に彼が被差別者とされたかが解析されている。是非、読まれたいが、結論だけを言うと、八右衛門は農民ではあるものの、耕作をせず、加賀藩中にあって暦を売り歩いては唄を歌い、舞いを踊ったりして金銭を得ていた「舞々三太夫」という差別された芸能者の一人であったと推定されるのである。明治の郷土史家森田柿園(しえん)の「金沢古蹟誌」のこちらこちら(「第十編」の卷二十六の「池小路舞々大夫傳」)によれば、『年頭・五節句等の佳節には、金澤市中武士・町方共に每戶へ來り、祝儀を貰ひ行きけり。大身の武士にては舞も舞ひたる由。其の体』(てい:新字はママ)『實に乞食の如し。藤江村の人別なれども、田地も持たず。所詮頭振の百姓にて、僅に祝儀を貰ひ渡世するのみなりし故、今に至り藤江村に居住すれど、貧窮にせまれりとぞ』とある。ここに出た「頭振」は「あたまふり」と読み、加賀藩領で無高 (むだか) の農民のことを指した語で、同藩では高持百姓の分割相続が限定されていたため、その子弟は小作その他の雑業で生計を立てなければならなかった。従って租税負担も軽く、社会的地位も低かったのでこう呼ばれた(また、行政上、農村とされた宿場や在郷町の無高町人も同じように頭振と呼ばれた)と「ブリタニカ国際大百科事典」にある。

 是に依りて、此八右衞門の謂(いは)れを悉く尋ねけるに、曾て人々の沙汰するとは大に變れり。

 にも云ふ如く、昔佐久間盛政尾山の城を攻めしに、城中よく防ぎ手强く戰ひしに、其頃瀨領村の者ども、小立野(こだつの)より術計をなして手痛く責め立てしほどに、城忽ち落ぬ。

[やぶちゃん注:「前段」「三州奇談卷之四 大乘垂ㇾ戒」。以下の「佐久間盛政」や「尾山の城」についてもそちらの私の注を参照されたい。ここでは改めては附さない。

「其頃領村の者ども、」国書刊行会本では、ここに『陣中へ胼山のいもなど売(うり)に出てゐたりしが、此者ども小立野口より術計をなして……』と続けてある。「胼山」は「たこやま」か。不詳。

「小立野」現在の金沢市小立野。]

 盛政則(すなはち)此村の者に

「褒美を望め」

と云しに、

「以來、尾山の城下へ物を賣る頭(かしら)にせさせ給へ」

と云けるに、盛政相違あらざる一筆を渡せし。今も此書物(このかきもの)瀨領村何某が持傳へると云ふ。

 其故を以て、今後に月頭を配る事を免(ゆる)せしも、其遺風なりと云ふ。

 又、年每の萬歲も、越前雛が嶽の麓より來(きた)る。是も筋あしき樣(やう)に云ふ。越前にても村々緣組もせざる樣に聞きし。

[やぶちゃん注:「越前雛が嶽」福井県越前市萱谷町にある日野山(ひのさん。グーグル・マップ・データ)。標高七百九十四・八メートル。養老二(七一八)年に泰澄によって開山され、古くからの山岳信仰の霊山。]

 或る老翁の云けるは、

「是も只常の百姓なり。元和(げんな)元年[やぶちゃん注:一六一五年。三月十五日に「大坂夏の陣」、七月には「武家諸法度」及び「禁中並公家諸法度」が制定された。]世靜謐になる時、三河の者共

「家康公の御下(ぎよか)の百姓なり」

とて、江戸へ出て賀儀を申上げ、田舍謠ひ・幸若を云ひて御引出を貰ひ來(きた)る。是三河萬歲の初めなり。是を聞きて、越前府中にも、雛が嶽の下の者共、

「加賀利家公の御下の百姓なり」

とて、金澤へ行きて賀儀を申上、御酒飯など下さる上にて、里踊(さとをどり)・小舞(こまひ)せしより事始まり、終に當世別筋の者の樣になれり。狂言に『丹波國の御百姓の名を何と申すぞ』といふ類(たぐひ)、是なり。諸本には色々の說あれども、皆附會の說なり」と云ふ。

[やぶちゃん注:「幸若」室町時代に流行した曲舞(くせまい)系統の簡単な舞を伴う語り物。南北朝時代の武将桃井直常の孫幸若丸直詮が始めたと伝える。題材は軍記物が多く、戦国武将が愛好した。実は先に出た「舞々」もこれを指す。

「終に當世別筋の者の樣になれり」国書刊行会本では、この後に割注で『〔此(この)城一向宗のやしき猶(なほ)有(あり)て六条万歳第一也(なり)〕。』とある。「六條万歳」(ろくじょうまんざい)は「尾張万歳」の型の一つで、親鸞の生涯や同宗の本願寺の荘厳さを歌ったもので、名は本願寺のある京の通りが六条であったことに拠る。浄土真宗の家で門付として行われるものである。

末尾には国書刊行会本では『万歳皆常の百姓なり』という一文が附く。この一文を見ても判る通り、この一篇はかなり特異である。まず、怪奇談ではない点で特異点であること、しかもここでは、当時、明らかに不当に差別されていた「ほかいびと」としての芸能者の存在を、決して穢れた存在でないということを示唆するような内容となっている点ですこぶる興味深いのである。

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十六 手負猪に追はれて

 

     十六 手負猪に追はれて

 何というても猪の話では、猪狩の逸話が華やかであつた。舊幕時代から鳳來寺山三禰宜の一人で、山麓門谷(かどや)の舊家であつた平澤利右衞門と言ふ男は、六十年も前に故人であつたが、いまに噂に殘る狩好で兼て猪狩の名人であつた。體格も勝れて居て人柄も備はつて、若い頃は二十四孝の勝賴を見るやうであつたと謂ふから其武者振も想像された。而も剛膽此上もなかつたと言ふから、狩人には申分ない男であつた。いつも下男を供に伴れて狩に出掛けたさうである。そして少しも猪を怖れなんだ。如何な猛猪に遇つても必ず擊止めて、曾て後ろを見せた事は無かつた。これに反して伴の下男はお定りの腰拔男であつた。何時も狩りの供と云ふと、又今日もかと言うては泣いたさうである。か程の剛膽者が生涯にたつた一度手負猪に追かけられて遁げた事があつた。而も田圃へ續く柴山を轉がるやうにして遁げたと言うた。門谷の高德の山で、巨猪を擊損じた時であつた。下男は逸早く逃げてしまつて無事だつたが、一方主は柴山から田の脇の路を走つて遁げた。それを猪は何處迄もと追かゝつて來た、はや背中へ掛りさうに迫つた時、折柄目の前に、馬頭觀音を祀つたシデの大木が立つて居た。それに身を交して、やつと根元を廻つて遁げた。さうして人と猪と、その根元をクルクル獨樂のやうに七廻り迄廻つたとは、隨分激しい働[やぶちゃん注:「はたらき」。]であつた。その内どこでどう火繩の手捌[やぶちゃん注:「てさばき」。]をやつたか、物の見事に後から一發、遉がの巨猪を斃したと言ふ。後[やぶちゃん注:「うしろ」。]から一發はちと可怪が[やぶちゃん注:「をかしいが」。]、實は劇しく廻る内、猪を追かけるやうな形勢になつたと言ふのである。どうやら壯快の域を通り越して、話になつてしまつたのは惜しかつた。實はその激しい働きを、下男が遠くから見物して居たのださうである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺山三禰宜」日光・久能山と並ぶ三大東照宮の一社を称する鳳来山東照宮(グーグル・マップ・データ航空写真(以下同じ)。正式名称は単に「東照宮」)を司った三人の祢宜か。同神社はウィキの「鳳来山東照宮」によれば、『徳川家康(東照大権現)を主祭神に、「鎮守三社」と称される山王権現、熊野権現、白山権現を合祀している』。慶安元(一六四八)年四月、『日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受けた江戸幕府』三『代将軍家光が、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、阿部忠秋や太田資宗に命じて造営事業を進めたが、志半ばで薨じたため、跡を継いだ』四『代将軍家綱が太田資宗や本多利長、小笠原忠知等に命じて』、三年後の慶安四年に社殿が竣工し、同年九月十七日には『江戸城内の紅葉山御殿に祭られていた「御宮殿」(厨子)と神体である「御神像」(神像)を遷祀したのが創まりである。遷祀に際しては盛大な遷座祭が斎行され、将軍家綱から、家康が』「関ヶ原の戦い」で『帯刀したという太刀が神刀として奉納されたほか、諸大名からも太刀や灯篭などの奉納があったという。以後、鳳来寺を別当寺と定め』、明暦二(一六五六)年には『幕府から社領』四百七十『石の寄進があり、江戸時代を通して』十『回に及ぶ修理が幕府により行われている』とある。神仏習合期ではあるが、祢宜は仏教の殺生戒を受けなかったのであろう。

「門谷(かどや)」前の鳳来寺東照宮は愛知県新城市門谷鳳来寺である。現在の門谷地区は上記リンク先を見られたい。

「六十年も前」本書は大正一五(一九二六)年刊であるから、その五十年前は明治九(一八七六)年となるから、シチュエーションの時制は江戸末期ととるのが妥当である。

「二十四孝の勝賴」「二十四孝」は浄瑠璃・歌舞伎の外題で全五段の時代物「本朝廿四孝」のこと。ウィキの「本朝廿四孝」によれば、明和三(一七六六)年一月に大坂竹本座にて初演。近松半二・三好松洛らの合作。角書(つのがき)は「武田信玄長尾謙信」。通称「廿四孝」。『「甲陽軍鑑」の長尾家・武田家の争いに取材し、長尾家の八重垣姫と武田家の勝頼』(天文一五(一五四六)年~天正一〇(一五八二)年:武田氏最後の士。信玄の次男。天正元年家督を相続、西進を計ったが、同三年「長篠の戦い」で織田・徳川軍に敗れ、宿将多数を失い衰退、天正十年に天目山で三十六才で討死した)『を許嫁にし、斎藤道三の陰謀や山本勘助の活躍をからめ、諏訪湖を渡る霊狐伝説や中国の二十四孝故事なども織り交ぜた複雑な筋書を』持つ。先行する近松門左衛門の「信州川中島合戦」(享保六(一七二一)年八月竹本座初演)『などを参考にしている』。三段「勘助住家」や四段「謙信館 (十種香・奥庭) 」が知られる。『勝頼の恋人として創作された八重垣姫は、「祇園祭礼信仰記」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫と並んで「三姫」としてつとに知られ』、『八重垣姫が勝頼に危険を知らせようと祈りを捧げる「法性の兜」は現存しており、諏訪湖博物館に複製品が展示されている』とある。全段のシノプシスは「ふじちょうのヨモ」氏のブログ「TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹」の「文楽 『本朝廿四孝』全段のあらすじと整理」をお勧めする。

「門谷の高德の山」新城市門谷高徳地区の尾根か。

「シデ」マンサク亜綱ブナ目カバノキ科クマシデ属 Carpinus の類。ウィキの「シデ」によれば、『広葉樹で何れも落葉性』で『比較的小型の物が多く、10m未満の種もしばしば見られ樹高は最大でも20m程度。樹形は比較的低い位置から幹を分岐させ、しばしば株立ち状になる。樹皮は比較的滑らかで色は灰色系のものが多い』とあり、『日本にはサワシバ、クマシデ、アカシデ、イヌシデ、イワシデの5種が分布する』とある。五種の学名はリンク先を参照されたい。

「話になつてしまつたのは惜しかつた」如何にも作り話のような信じ難い滑稽な展開となってしまったことを言う。]

 家がらもよく身分も禰宜であつたが、生來の殺生好きで、夏分は每晚のやうに、下男を伴れて川へ網打ちに行くのが仕事だつたと言ふ。吾村には網を入れる程廣い川が無かつた、それで山路一里半を越えて、寒峽川(かんさがは)へ出かけたのである。或晚橫山の寄木の瀨にかゝつた時、岩の間に川流れ(土左衞門)が引掛かつて居るのを知らずに踏付けたが、格別驚いた樣子なかつた。何だ川流れかと言ひながら、二度胴中を踏んで見て、更に川を降つて網を入れた剛膽さには、遉に下男も呆れはてたと謂ふ。

[やぶちゃん注:「吾村」「平澤利右衞門」の住んでいた門谷地区。筆者早川氏の郷里は愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城市横川ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、長篠村には門谷(横川の南西)は含まれていないのでそうとっておく。]

 今に生殘つて居る老人達の話に據ると、年をとるに從つて、餘りに狩に對する自信が强すぎて困つたと言ふ。他人が折角擊つた物迄、獲物を見れば何でも俺が擊つたなどゝ、頑張つて仕樣がなかつたさうである。時とすると筒音を聞いてからヨチヨチ出かけて來て、俺が擊つて置いたが、よく運んでくれたなどと、とぼけるのか、さう思ひ込んで居るのか、無態な事を言出して弱つたと言ふ。對手が對手だけに、泣き出しさうになつた狩人もあつた。そしてもうその頃は、髯も髮も眞白い凄いやうな老人だつたさうである。

 剛勇比類ない狩人のあつた一方には、又笑話の種になる程の弱い狩人の話もあつたのである。

 鳳來寺村玖老勢(くろぜ)の、遠山某と言ふ代官上りの男は、大達(おほだて)の山で手負猪に掛かつて、臀[やぶちゃん注:「しり」。]の肉をひどく喰はれて、半死半生になつて、それが因で[やぶちゃん注:「もとで」。]遂に命まで縮めたと言うた。猪が人間を喰つた話は信じられぬから、畢竟嚙まれたとか、牙にかけられた類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]の話を誤り傳へた事とも思はれる。明治初年の事で、平素から餘り好感を持たれない、代官上りの武士だつたゞけに、殊更興味深く笑話にされたのは氣の毒でもあつた。

[やぶちゃん注:「玖老勢(くろぜ)」新城市玖老勢。門谷の西に接する地域。

「大達(おほだて)の山」不詳。但し、現在、殆どが山林の新城市玖老勢大立(おおだて)があり、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の可能性がある。

「臀の肉をひどく喰はれて」猪を家畜化した豚でさえも狂暴な一面がある。私は二十年ほど前に養豚場の老婦人が大型の豚に臀部に噛みつかれてショック死した実話を知っている。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十五 猪の膽

 

     十五 猪 の 膽

 遂近頃の事である。水力發電所の用水路へ、開設初めの年に、猪が幾ツも陷ちた事があつた。朝になつて水門口に掛つて居るのを拾つた。その度に所員達が肉を取つて喰つたり人に遣つたりしてしまつた。中に一人土地から出た者が居た。勿論肉の分前も取つたが、そつと膽を取つて、これだけは一人占めにした。舍宅の緣側の庇に吊るして置いて、子供が腹が痛むなどゝ言ふと、少しづゝ刻んで呑ませたと言ふ。その爲めその一軒だけは、他の連中が揃つて下痢をやつた際にも、醫者にも掛らずにしまつたさうである。或時所員の一人が其處へ遊びに來て、座敷に寢轉んで世間話をしてゐた。仰向いて居る内、庇に吊るした黑い乾干びたものを發見した。これは全體何だと言うやうな事から、段々譯を話すと、ひどく口惜しがつたさうである。

[やぶちゃん注:「猪の膽」「ししのい」と読んでおく。「熊の胆(い)」と同じく胆嚢である。]

 萬病の靈藥と言ひ條、實際效驗のあつたのは、腹痛位であるとも謂うた。今から考へると、明治三十六七年頃[やぶちゃん注:一九〇三、四年。]は、猪の膽に對する一般の信望が、近在の醫者殿より遙かに上であつた。急病人の話などでも、第一に聞くのは、猪の膽を呑ましたかなどゝ言ふ、急き込んだ[やぶちゃん注:「せきこんだ」。]言葉であつた。

 或時茸の毒に中てられた[やぶちゃん注:「あてられた」。]男が、座敷中を轉がつて苦しんだ末、やうやう靜かになつたと思つたら、今度は堅く齒を喰締めて、はや應答もな無いやうになつた。それを釘拔の柄で齒をこじ開けて、水に浮かせた蒼黑い塊を注ぎ込んでやると、忽ち正氣づゐたと謂うた。或は又二日二晚苦しみ通した上、えらい熱で、どうやら危ないやうだと、急に夜中になつて身寄りへ飛脚を出した。それと恰度一足違ひに、猪の膽を持つて馳付けた者があつた。急いでそれを呑ませると、飛脚の者が村端れ[やぶちゃん注:「むらはづれ」。]の峠へ、差掛つたかどうかと思ふ時分に、早おそろしい下痢が來て、其儘ケロリと樂になつたと謂ふ。この樣子では飛脚も入るまいと、慌てゝ飛脚を喚返す二度目の飛脚を出した。さうして夜の白々明[やぶちゃん注:「しらじらあけ」。]には、その飛脚衆が揃つて笑ひながら還つて來たなどと謂うた。

 山國の事で、猪の膽など如何程でも手に入りさうに思へるが、以前の村の生活では、在つても手に入れる事は容易でなかつた。况して[やぶちゃん注:「まして」。]平常から貯へて置くなどは、物持と唄はれる者かなんぞでない限り、叶はぬ事としてあつた。容易に手に入らぬだけ、それだけ靈能も高いとしたのである。

 自分の知つて居る或女は、深夜に狩人の家を叩き起して、僅かばかり紙に拈つて[やぶちゃん注:「ひねつて」。]渡されたのを、しつかり掌の内に握り締めて、山路二十町[やぶちゃん注:二キロメートル強。]を一飛びに飛んで還つた事があつたさうだ。恰度五月田植の眞最中で、明日は植代[やぶちゃん注:「うへしろ」。]を搔くといふその晚方に、遽かに[やぶちゃん注:「にはかに」。]亭主が腹を病み出した。さんざん呻き苦しむのを介抱しながら、いろいろ仕事の手順を考へて身た。明日植代が搔けぬとなると、後の順が狂つてしまふ、こりやどうしても、朝迄には快く[やぶちゃん注:「よく」。]せにやならぬと、覺悟を決めた。病人の少し靜まるのを待つて、隣村の狩人の家へ飛んで行つた。さうして猪の膽を手に入れて來て、病人の枕元に座つて、手鹽に浮かせた黑い小さな塊を、うやうやしく押戴いた時の心持は、忘れては勿體ない程、あり難かつたと言ふ。

 然し後になつて、其代を拂ふには、他人に話されもせぬ程、えらい難儀をしたと言うた。わずか七十五錢の金だつたさうである。それを支拂ふのに隣村の大海迄背負つて行つて、一把二錢何厘に賣つた薪(もや)の代を積んだ金で濟せた。他人の未だ寢て居る内に、荷慥へ[やぶちゃん注:「にごしらへ」。]しては背負つたと言ふ。夏中かゝつてやつと纏めたが、男はよもやそんな事は知るまいと口惜しがつて居た。

[やぶちゃん注:「薪(もや)」小学館「日本国語大辞典」に、『たきぎにする小枝や木の葉。粗朶(そだ)。ぼや』として滑稽本「続膝栗毛」の使用例を出し、後に方言として『細い枝のたきぎ。そだ』として、北は栃木・群馬・茨城から、中部地方の長野県伊那郡・静岡県・愛知県など、南は和歌山・出雲・高知県高岡郡など非常に広汎に分布することが記されてあり、語源説しては「大言海」などから『モヤス(燃)意か』とする。]

2020/03/15

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十四 猪買と狩人

 

     十四 猪 買 と 狩 人

 擊つた猪はその場で臟腑を拔く事も無いではなかつたが、一旦池や澤のほとりへ舁ぎ出したのである。今でもはつきり目に殘つて居るが、日の暮れがたにガヤガヤ話聲を前觸にして、泥まみれになつた狩人達が、屋敷の奧の窪から出て來た事がある。中には體の前半分が泥になつて、ビツコを引いた者もあつた。その中に肢[やぶちゃん注:「あし」と当て訓しておく。]をしつかり棒に結へ着けられて、逆さに吊るされた猪が、二人の狩人に舁がれて行つた。その傍を犬が元氣よく走つて居た。一ツの赤犬は、橫腹が破れて腸がすこしはみ出して居た。そら猪が通るなどゝ言うて、吾勝に驅出して見たものである。

 猪の臟腑を拔いて、猪買ひの來る迄水に浸けておく場所をシヽフテと謂うた。村の籔下と言ふ家が、代々狩人で、谷底の日も碌々射さぬやうな屋敷であつた。表の端に太い柿の木が幾株もあつて、その下が澤になつてシヽフテがあつた。自分が子供の頃は、もう名稱だけだつたが、二方石垣で圍んだチヨツとした淵で、蒼く澄んだ水の底に、鰭の紅くなつたハヤが、幾つか泳いで居た。以前は日が暮れてから、 松明を點して狩人がガヤガヤやつてゐた物だと言ふ。もう五十年も前であるが、大勢の狩人がいつものやうに臟腑を拔いて居ると、犬が向ふ岸に居て、頻りに鼻を鳴らして居た。それを見た狩人の一人が、ホラと言うて、臟腑の一片を投げてやると、何時の間に來て居たのか傍の柿の枝に鷹がいて、アツという間にその一片を宙にさらつて行つた事があつた。

[やぶちゃん注:「シヽフテ」改訂本では『猪漬(ししふ)て』とある。元は「臥て・伏て」か。冷水による保存と蠅がたかって蛆が発生するのを避けるためであろう。

「鰭の紅くなつたハヤ」「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたいが、ここで早川氏は特に「鰭の紅くなつた」と言っている点を考えると、春(三月上旬から五月中旬)になると、雌雄ともに鮮やかな三本の朱色の条線を持つ独特の婚姻色を発し、婚姻色の朱色の条線から「アカウオ」「サクラウグイ」と呼ばれることもあるウグイを最有力候補に挙げたい(私は「サクラウグイ」の塩焼きが大好きだ)。実際には鰭だけではなく、側体部であるが、胸鰭・腹鰭・尻鰭も広く部分発色する部位に当たっているから問題ない。また、関東地方を始めとして、本種を指す特定地方呼称として「ハヤ」の異名が非常に広く普及しており、標準和名を凌ぐ地域さえもあるからである。

「犬」ここに出るのは山犬(オオカミ)ではなく猟師仲間の犬か野犬(のいぬ)であろう。]

 その頃は冬になると、何時行つても猪の二ツ三ツは浸けてあつた。或時村の某の狩人が、珍しい巨猪を擊つて、臟腑拔き三十五貫[やぶちゃん注:百三十一・二五キログラム。]もあるのを其處に浸けて置いた。それを新城(しんしろ)の町から來た猪買ひが、えらい事をやつたのうと言ひながら、岸に踞んで、指頭で突ついて居たさうである。その内後肢を摑んだと思つたら、片手でズルズルと譯も無く提出した[やぶちゃん注:「さげだした」。]には、見て居た狩人達が孰れも魂消た[やぶちゃん注:「たまげた」。]と言うた。金槌と言ふ力士上りの男で、江戶の本場所で三段目迄取上げた、力持で評判者であつたさうだ。

 その頃は、捕つた猪は其まゝ賣つてしまつて、肉を食つたり、狩人が切賣[やぶちゃん注:「きりうり」。]するやうな事は無かつた。而して獲物のあつた晚は、日待をやつて、臟腑だけ煮て食つたのである。食ふ時には、矢張諏訪明神から迎へて來た箸を使つた。前言うたシヽフテの傍の屋敷は、狩人達がよく集まる場所だつた。そこで日待ちをやつて、臟腑を煮たのである。そんな譯かして、何彼と[やぶちゃん注:「なにかと」。]人出入[やぶちゃん注:「ひとでいり」。]が多くて、何時行つても、一人や二人は屹度遊んで居たと言ふ。

[やぶちゃん注:「日待」(ひまち)は一夜を眠らずに籠り明かし、日の出を待って太陽を拝むことを指す。猪や鹿はそれ自体が種々の神の使者でもあり、その生命を自身に取り込み、その上で朝日を礼拝することで殺生した行為の血の穢れの潔斎ともなるのである。]

 狩人が猪の臟腑を拔く時、第一に目ざしたのは、その膽[やぶちゃん注:「きも」。獣類の胆嚢を指す。]であつた。シヽノヰと言うて、萬病に靈能あると謂うたのである。村でも物持と言はれる程の家では、必ず購つて[やぶちゃん注:「あがなつて」或いは「かつて」。]貯へてあつた。狩人自身も持つて居た。糸で結わえて陰乾しにして置いて、小刻みに刻んで賣つたのである。然し多くは肉と一緖に、猪買ひの手に購はれて行つた。何處に需要があつたか知らぬが、時とすると肉全部よりも一個の膽の方が高く賣れたさうである。明治になつて後でも、膽が一ツ七十五錢で、肝心の猪の骸[やぶちゃん注:「むくろ」と訓じておく。]は二十五錢位にしかならぬ事もあつたと言ふ。

 これは珍らしいと言はれるやうな大猪の膽であれば、物持へでも持込んで、米の三俵や五俵に代へるのは譯は無かつたと、狩人の一人は言うてゐた。今考へると、噓のやうな話である。

 

三州奇談卷之四 大乘垂ㇾ戒

 

三 州 奇 談 卷 

 

    大乘垂ㇾ戒

 東光山椙林舍(しやうじゆしや)大乘寺は、曹洞の法窟にて本朝第一の舊跡なり。代々の名師道德奇特あり。况や一夜の寫卷、白山の靈水、奇談一々かぞへ難し。此寺は眞言宗なりしを、富樫家の興立(こうりふ)にて禪寺となると云ふ。されば世々富樫一類の歸依渴仰にて大檀那なりしが、天正の一亂に終に跡絕(あとたえ)しと。今は本多家を此寺の檀那とす。されば中頃本多房州公家中何某の家に、或時ふと茶碗一つ飛廻りて步きしを、何れも不審して嚴しく箱に納めけるに、次の日より或は煙草盆忽ち空中を行き、茶釜煮えながら二尺許躍り上り、或は摺子木・摺鉢又は大根・冬瓜(とうがん)の類(たぐひ)迄踊り狂ひし程に、家内も興をさまし、一門あきれ果て、加持祈禱・陰陽・山伏を請じて、色々とすれども曾て止まず。

[やぶちゃん注:「大乘垂ㇾ戒」「大乘(だいじやう)、戒を垂(た)る」。「大乘」は通常は「大乗仏教」以外には大乗の経典、特に「法華経」を指すが、ここは大乗寺の高僧の謂いで用いているようである。

「東光山椙林舍大乘寺」現在の金沢市長坂町にある曹洞宗東香山(或いは椙樹林。古くは金獅峯)大乗寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。僧堂があり、江戸時代にはここで清規(僧侶の修行規則)が再構築され、「規矩大乗」と称された。ウィキの「大乗寺」によれば、『寺伝によれば』、弘長三(一二六三)年に『冨樫家尚』(いえひさ。こちらの富樫家系図で確認出来る。知られた政親の七代前の支系である)『が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。後、禅寺に転じ』、弘安六(一二八三)年、『曹洞宗の徹通義介を招聘して開山とした』という(開山年は別に二説がある)。乾元元(一三〇二)年、『瑩山紹瑾が』二『世住持となる』。応長元(一三一一)年、『臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継いだ。臨済僧が住持となったのは、十方住持制度(禅寺において、自派に限らず他派からも住持を選ぶ)に基づくものと考えられている』。『しかし、恭翁運良と大乗寺の間にはその後確執があったようで、彼の名は世代から除かれており』、暦応元(一三三八)年に『住持した明峰素哲が大乗寺第』三『世とされている』。『寺は』暦応三(一三四〇)年、『足利尊氏の祈願所となるが、室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり、現在の金沢市本多町に移転している』。寛文一一(一六七一)年には『中興の祖とされる月舟宗胡が住持となり、次代の』卍山道白(まんざんどうはく 寛永一三(一六三六)年~正徳五(一七一五)年)は延宝八(一六八〇)年に本大乗寺住持となっている)『とともに寺の復興に努めた。寺が現在地に移転したのは』元禄一〇(一六九七)年の『ことであり、当時の住持は、その前年に就任した明州珠心であった』とあるので、本篇執筆時は既に現在地にあった。]

 此家に尼ありしが、此大乘寺へ詣で此事を願ひ、其頃の山主卍山和尙取敢えず[やぶちゃん注:ママ。]一偈(いちげ)を書きて與へらる。

  爛冬瓜與破砂盆 一念動時跳且奔

  畢竟幻緣何足窺 但須囘頭照心源

是を壁に押けるに、此怪異長く止けるとぞ。

[やぶちゃん注:「偈」は底本では一行一字空けでベタだが、二段組とした。自然勝手流で訓読すると、

   *

 爛冬瓜(らんとうがん)と 破砂盆と

 一念 動く時 跳び且つ奔(はし)る

 畢竟 幻緣にして 何ぞ窺ふに足(た)るや

 但(ただ)須らく頭を囘らし心を照らして源(みなもと)をもとむべし

   *

か。起句は禅の公案集に認められる。]

 又、越後上杉謙信在世の頃、濃州[やぶちゃん注:国書刊行会本では『摂州』とする。]の浪人平野甚右衞門と云士、何れの時にか軍(いくさ)に出(いづ)る前日、妻に向ひて、

「我明日討死と極めたる間、汝には暇(いとま)遣はすべし」

と云ひければ、妻曰く、

「妻子に心置かれておくれもあるべきや」

と、

「武を磨き給ふは理(ことわり)ながら、今子を二人持ちて主に別れ、此世に何國(いづく)にか立忍(たちしの)ばるべきや。必定討死を思ひ給ふならば、先づ我を殺して出陣し給ふべし」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「上杉謙信在世の頃」享禄三(一五三〇)年生まれで天正六(一五七八)年没。但し、これは彼の晩年、永禄一一(一五六八)年、新将軍足利義昭から関東管領に任命され、次第に越中国へ出兵することが多くなった頃のことであろう。

 夫(をつと)嬉しく、

「さあらば二人の幼子は、越中勝興寺に師檀の由緣あれば、賴み遣すべし」

と、終に妻を刺殺(さしころ)し、偖(さて)翌日戰場へ出でけるに、其軍(いくさ)和談になりしかば、討死もならず空しく歸りけるが、其夜より妻の幽靈夢に來り、恨み云ひけるに、甚右衞門迷惑して越後を退(しりぞ)き、越中勝興寺の家中に居けるが、妻の幽靈猶來りて止まず。加州尾山の城主を賴みて居けるが、幽魂來りて惱ましける。誰彼(たれかれ)に咄しけれども、いかんともすること事なし。

[やぶちゃん注:「勝興寺」富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派雲龍山勝興寺ウィキの「勝興寺」によれば、『本尊は阿弥陀如来』。『勝興寺の起こりは』文明三(一四七一)年、『蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。その後』、明応三(一四九四)年に『蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転。火災による焼失後』、永正一四(一五一七)年、『佐渡にあった順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興、寺号を相続して「勝興寺」と称した』。永正一六(一五一九)年には『安養寺村(小矢部市末友)に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた』。『勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが』、天正九(一五八一)年、『第五代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされ』てしまった。天正一二(一五八四)年、『佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移ったこの地が現在の勝興寺である』。『佐々成政が富山の役で敗退した後も、加賀藩前田氏の庇護を受けて境内が整備された。第』十『代加賀藩主の前田治脩』(はるなが)『は、藩主を継ぐ以前の若年期に一時出家しており、ここで得度している』。『かつては報恩講の際に御示談(僧侶と門徒が教義や信心について議論・質疑応答を行うこと)が熱心に行われていたが、布教使の質の低下に伴い廃止されると、参詣者も減少の一途を辿った』とある。私は中学時代、この近くに住み、また、親友の家がここの門前にあったので、中高時代、よく遊んだ懐かしい寺である。

「尾山の城」金沢城の別称。古くは尾山御坊(金沢御堂)と言う浄土真宗の寺院があった場所であることに因む。]

 其頃、大乘寺の隱居にて大智禪師は道心の人なりし。是を賴み參じて、件(くだん)の事ども語りしに、和尙一偈を示して曰く、

  昨夜茄子踏飜去  無數蝦蟇來乞命

此語を念頃に訓戒ありしかば、甚右衞門得解して、其夜より妻の亡魂曾て出(いづ)る事なかりしとなり。

[やぶちゃん注:「大智禪師」(正応三(一二九〇)年~正平二一/貞治五(一三六七)年)は鎌倉後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧で肥後国の出身。大智祖継とも称せられるが、一般には「大智禅師」と呼ばれる。ウィキの「大智」によれば、『肥後国宇土郡長崎(現・熊本県宇城市不知火町)生まれ』で、七『歳の時』、『大慈寺の寒巌義尹に師事し、義尹の没後は鎌倉建長寺・京都法観寺・』加賀大乗寺などを『訪れている』。正和三(一三一四)年、に元に『渡り、古林清茂、雲外雲岫(うんがいうんしゅう)らに学び』、正中元(一三二四)年、『日本に帰国した後は、瑩山紹瑾の指示により明峰素哲のもとで参禅した。その後加賀国に祇陀寺を開創し、さらに肥後国に聖護寺を開創、また肥後菊池氏の帰依を受けて廣福寺を創建し、菊地氏一族に大きな精神的影響を与えた』。正平八/文和二(一三五三)年には『有馬澄世』(「すみよ」か)『の招きにより肥前国加津佐(現長崎県南島原市加津佐町)に赴き、水月山円通寺を創建』し、『同地で没した』。『大智という法名に関して、以下のような伝説が伝わっている。齢七つの萬仲』(大智の幼名)『は、肥後大慈寺の寒巌義尹に弟子に入ることとなった。相見の時に寒巌が年齢を問うた「名前はなんと申す」「萬仲と申します」「幾つになる」「齢七つになります」そこで寒巌は手元の饅頭を勧めた。饅頭を食す姿を見て寒巌は問うた。「萬仲が饅頭を食べるとは、いかなる心地か」すると萬仲は澄まして答える。「大蛇が小蛇を食らうようなものです」その答えに甚く感心した寒巌は、川(大慈寺の傍を流れる緑川)を指差して言った。「この川は川舟の往来が激しく騒がしい、この場で舟の往来をとめて見せよ」萬仲』、『座を立ち川を望む側の障子を閉』じ『て座に戻ると言った。「これで舟はとまりました」「ならば、その場を動かずにとめて見せよ」萬仲は黙って目を閉じた。七歳の智慧に甚く感心した寒巌は「なかなか知恵の回る小僧だ、出家したら小智と名乗るがよかろう」「いやでございます」「何故じゃ」「小智は菩提の障りとなります」寒巌は笑い、大智と名付けたという』とある。但し、問題がある。本話柄の時制(謙信生前)と全く合わないからである。さすれば、この話自体が後世に作られた怪談であることを自ずから確信犯でバラしているものと言える。

「昨夜茄子踏飜去  無數蝦蟇來乞命」同じく自然流で訓読すると、

   *

 昨夜の茄子(なす) 踏めば 飜へつて去り

 無數の蝦蟇(ひき) 來たつて 命を乞ふ

   *

か。禅の公案にありそうな文句ではある。

「得解」「とくかい」。「解得」に同じい。理解すると同時に体得すること。]

 其後、佐久間玄蕃(げんば)盛政此尾山城を攻めし時、廣濟寺・本源寺に下知して防ぎ戰ひしに、此平野甚右衞門殊更に勇武を振ひ、盛政が先手を三度迄追下し、花々しく戰ひて討死せしとなり。今金澤西の手御城の下り坂を甚右衞門坂と云ふは、此者戰死の場所なる故とぞ。

[やぶちゃん注:「佐久間玄蕃盛政」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は織田信長及びその嫡孫秀信の家臣。官途及び通称は玄蕃允。勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。ウィキの「佐久間盛政」によれば、『尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれ』、『「身長六尺」』(約一メートル八十二センチメートル)『とあり(『佐久間軍記』)、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える』。永禄一一(一五六八)年の「観音寺城の戦い」『(対六角承禎)で初陣』し、いろいろな戦闘に参加して『戦功を挙げた』。天正三(一五七五)年、『叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた』。『以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った』。天正四年には『加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功』し、翌五年に『越後の上杉謙信が南下してきた際には』、『信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した』。天正八(一五八〇)年、『加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた』とあり、ここに記されているのはその時のことである。

「廣濟寺」石川県金沢市扇町にある武佐山広済寺公式サイトの記載によれば、長享二(一四八八)年、』『加賀の一向一揆で冨樫政親が自刃して後、加賀門徒は本願寺に善知識(門主)下向を願い出ました』。『 これを受け、八代蓮如上人の命により、九代実如上人の弟子、祐乗坊(江州武佐廣濟寺十一代厳誓坊祐念の次男)が、文亀元』(一五〇一)年三月に『両上人の名代として加賀に派遣されたのが本寺の始めです』。『 加賀下向にあたり、祐乗坊は実如上人御真筆の「従親鸞聖人至実如上人の銘」「十七箇条制禁の御書」「御俗姓御文」と、実如上人裏書の「方便法身尊影」を授けられました』。『 加賀の本願寺門徒は、延徳』三(一四九一)年、『仏徳讃嘆のため山崎山(今の金沢城二の丸跡地)に草庵を建立し、これを「御山の御坊」と尊称しました』。『御坊には下向した祐乗が看坊(御坊を統轄する役職)として滞在し、次第に寺としての体裁が整っていきます。 金沢廣濟寺はこの祐乗を初代とします』。『それから御山御坊は相次ぐ争乱により廃絶の危機に追い込まれましたが』、天文一五(一五四六)年に『加賀における本願寺の中枢統制機関として再建されます。その際、十代証如上人より木仏本尊等を下付されました』。『祐乗坊は、法宝物を護持しつつ』、『日常の仏事と教化を取り仕切りました。そしてその法灯は、二世祐念、三世祐盛へと受け継がれました』。『「石山合戦」の最中、織田信長は柴田勝家に加賀を攻めさせました。勝家は越前から軍を進め、先陣は佐久間玄播盛政でありました』。『その時、御山の城代本多正信らと門徒数万の仲間が、身命を惜しまずに戦いました。如来より賜りたる行、南無阿弥陀仏の喚び声に順っていく心一つをたのみとし、鉄の結束を示したのです。しかし』天正八(一五八〇)年三月、『ついに御坊は陥落しました』。『御山御坊を退去した三代看坊祐盛、四代祐玄は内川郷の山中に小庵を営み、山川・別所・小原・平栗・新保等の門徒と共に本願寺の法灯を守りました』。『御坊陥落後、御坊跡には佐久間盛政が入城して「金沢城」とこれを名付けますが、わずか三年で城主が前田利家にかわります。信長亡きあと、後継問題で柴田勝家と羽柴秀吉とが激しく対立し、賤ヶ岳で両軍が激突しました。結果、柴田勝家側が敗れ、その際に甥である佐久間盛政は捕らえられ、その後』、『処刑されました。そして秀吉から加賀二郡が与えられた前田利家は金沢城へ入城し、これを「尾山城」と改名します』とある。

「本源寺」現在の、金沢市笠市町にある「本願寺金沢別院」の旧称。「金沢市」公式サイト内の同寺の山門の解説に、『本願寺金沢別院の創立には諸説ありますが、「金沢別院沿革史」によれば』、延元四(一三三九)年に第三代『覚如が加賀の国に巡錫の際、現在の金沢城本丸の位置に草庵を建立して本源寺と号し、第』二『代如信の』十三『回忌を勤めたことに始まるとされます。本源寺は加能越三州の浄土真宗根本道場として、別名「御山」と尊称され、後に本願寺の別坊(御山御坊)とされ、浄土真宗の拠点となりました』。天正八年、『佐久間盛政に攻め滅ぼされましたが、前田利家の金沢入城後の』天正一一(一五八三)年、『寺地を袋町』(現在の尾張町二丁目及び安江町)『に賜り』、『再建しました』。慶長一六(一六一一)年、第三代『藩主利常から現在の寺領を拝領して伽藍再建に着手』し、元和元(一六一五)年、本堂が完成しました』とある。

「今金澤西の手御城の下り坂を甚右衞門坂と云ふ」個人サイト「金沢の坂道」のこちらで画像と地図が見られるが、そこにも坂の標示板よりとして、『天正八年』、『佐久間盛政の攻撃をうけたとき、本願寺方の浪士、平野甚右衛門が奮戦、討死した坂なのでこの名がついた』とある。「加能郷土辞彙」の「平野甚右衞門」及び「甚右衞門坂」(ここには由来異説が並置されてある)も見られたい。]

三州奇談卷之三 程乘の古宅 / 三州奇談卷之三~了

 

    程乘の古宅

 金澤御城内に後藤程乘屋敷とてあり。利常卿の御代、後藤程乘每年京都より下りて、御用御好みを相勤めし故、爰に此屋敷跡有と云ふ。

[やぶちゃん注:「加能郷土辞彙」のこちらに、『ゴトウテイジヨウ 後藤程乘 京都の』下後藤(しもごとう)『顯乘の子で、通稱を理兵衞、諱を光昌と稱し、白銀師を業として、前田綱紀[やぶちゃん注:加賀藩第四代藩主。先代の父光高が正保二(一六四五)年に三十一歳で死去したため、綱紀が僅か三歳で家督・遺領を相続、藩政は先々代の祖父利常(寛永一六(一六三九)年に家督を光高に譲って小松に隠居していた)が後見した。利常は万治元(一六五八)年に没したが、綱紀は長生きで享保八(一七二三)年に家督を四男の吉徳に譲って隠居し、翌年に八十二歳で死去した。江戸前期の名君の一人に数えられる人物であった。]の時寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]前後』上後藤家(後注参照)『と隔年金澤に來り、彫金に從ひ、又公の譚伴』(「たんばん」か。話し相手)『程乘の來る時は蓮池苑内の貸座敷に居り、その遺址を後世程乘屋敷というた』とある。リンク先のページとその前にも彼の一門の人物が載る。

「後藤程乘屋敷」前注の記載から、これは現在の兼六園の前身・原型であると考えられる。ウィキの「兼六園」によれば、延宝四(一六七六)年に藩主綱紀が、『金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建てて』、『その周りを庭園化したのが兼六園の始まりで』、『庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、宝暦九(一七五九)年四月に『発生した宝暦の大火で焼失した』とあるからである。位置的には現在の名だけが残る「蓮池門」口附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったことは間違いないだろう。]

 抑(そもそも)此後藤が先祖は、京都將軍義晴公に出仕して、彫物の細工に名譽ありしが、其後衰微しける。既に覺乘が代に當りて、屋敷の内に白狐一ツ死して居たり。其夜敷百の狐集り、其屍(しかばね)を棺に入れ葬送を取行ふ。其躰(そのてい)希代の壯觀なり。覺乘深く感じて、其跡に祠(ほこら)を立て、稻荷の社司を賴み、祭禮を營み每年祭りけるが、東照宮御治世の折節再び登用せられ、殊に放鷹(はうよう)の術に委(くは)しとて御祕藏あり。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『国々駅馬御免あり。』とある。]乘輿して供も三百餘人にて步行しける。平常鷹師二十許を連れて、諸大名へ放鷹の指南をなしける。其の屋敷は京都一條にて、管領細川家代々の住所の舊地を拜領し、小松黃門利常公より、書院御建て遣はされし。露地は小堀遠州公の差圖にて、御靈の前の中川といへる流を泉水に取入れ、甚だ絕景なりし故、或時東照宮にも御入來のことありし。是に依りて以來名高き亭となりける。加賀にては三萬石の代官を仰付けられし故、次第に富裕の身となりける。大谷刑部は狐の葬を憎みて凶を得、是は畜類を崇めて富を得し。

[やぶちゃん注:「京都將軍義晴公」(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年)は室町幕府第十二代将軍。義澄の次男。永正一八(一五二一)年三月に管領細川高国と対立した養父で第十将軍であった義稙が京都を出奔したことで高国に擁立されて将軍となった。高国は義晴を厚遇したものの、既に当時の将軍には殆んど実権がなかった。高国が細川晴元軍に敗れると、義晴は近江に亡命、各所を流寓することとなり、高国の敗死後は晴元と和睦して将軍の権限を回復しようとしたが、その後も入京と逃亡を繰り返す羽目に陥ることとなった。天文一五(一五四六)年、嗣子義藤(義輝)に将軍職を譲ったが、三年後の同十八年には三好長慶に京を追われ、近江穴太(あのう)で客死、遂に京を回復することは出来なかった。

「覺乘」後藤覚乗(天正一七(一五八九)年~明暦二(一六五六)年)は江戸前期の金工家。ウィキの「後藤覚乗」によれば、金工の後藤勘兵衛家(上後藤家)初代。後藤宗家五代後藤徳乗の甥。後藤長乗(光栄)の次男で『後藤立乗の弟。諱は光信、通称は勘兵衛』。『後藤家は室町幕府に御用達金工(彫金)師として仕え、その作品は「御家彫」といわれた。織田信長・豊臣秀吉の刀剣装身具、大判鋳造の御用達も務め、また』、『大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った。江戸期の後藤宗家(四郎兵衛家)の家業は、彫金・大判座・分銅座であり、俗に「後藤家の三家業」といわれ、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に「京都の三長者」に数えられた。ちなみに、小判鋳造を手がけたのは江戸の金座(小判座)・庄三郎家である』『覚乗の伯父で後藤宗家の徳乗は関ヶ原の戦いで石田三成に属したが、父長乗が徳川家康についたため、後藤家は改易を免れた。長乗は家康より寵愛を受け、「禁裏御所御宝剣彫物所」の看板を掲げ、公儀の役以外に外国との往復文書作成にも関わった。また、放鷹術に長け、鷹師』二十『人を引き連れ』、『諸大名の放鷹の指南をした。そして、旧細川満元邸の広大な庭を拝領し、それは後に擁翠園といわれ、仙洞御所と東本願寺の渉成園とともに「林泉広大洛中ノ三庭」(洛中の三庭)の一つに数えられる庭となった。長乗は絵画・詩歌も嗜んだ文化人でもあり』、『本阿弥光悦とも親しかった。なお、覚乗の甥に狩野探幽の養子で江戸幕府の御用絵師となった狩野益信(洞雲)がいる』。父長乗が元和二(一六一六)年に『死去すると、土地は立乗、覚乗、乗円、昌乗の四人の兄弟に分配された。覚乗は分家であったが』、『一家をなすほど金工の技に優れ、主に鍔(つば)・目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)などの刀装具を制作した。寛永年間より、工芸を奨励した加賀金沢藩主前田利常に招かれ、現米』百五十『石をもって仕え、前田家の装剣用具の製作ほか金沢藩風聞報告役、また金銀財政面の用達を行った。従兄の後藤顕乗(理兵衛家、下後藤家)と交替で隔年に金沢に滞在して京都と金沢を往復し、「加賀後藤」とよばれる流派の基礎を築いた。利常は覚乗の彫金技術の高さを認め、いつも敬意を払っていたという』。『覚乗は大力の持ち主で相撲を好み、弓馬・兵法・砲術の達人であった』。また、『日蓮宗を信仰し、妙覚寺の日奥聖人に帰依した。また、俳諧・茶の湯にも優れた。前田利常に資金援助をしてもらい、小堀遠州』(小堀政一 天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年:大名・茶人・建築家・作庭家。備中松山城主・近江国小室藩初代藩主)『の設計で、父長乗が造営した庭園を補作したほか、上段を設けた書院や「十三窓席」といわれた』十三『の窓を持つ小間茶室「擁翠亭」を作った』。『蓮台寺石蔵坊に葬られた』とある。

「稻荷の社司」近くの稲荷神社の神主。

「其の屋敷は京都一條にて、管領細川家代々の住所の舊地を拜領し」「御靈の前の中川といへる流を泉水に取入れ」これらの条件に合う場所は、まず細川邸跡は一条の北の現在の京都市上京区挽木町(ひきぎちょう)にあったこと、「御靈」というのはその東北方の上京区上御霊竪町(かみごりょうたてまち)にある御靈神社(上御霊神社)のことではないかと考えられること(中川という河川名は現在は確認出来ない)から私は、この附近(中央に挽木町を配した)ではないかと推理した。

「大谷刑部」豊臣秀吉の家臣で越前敦賀城主であった大谷吉継(永禄八(一五六五)年或いは永禄二(一五五九)年?~慶長五(一六〇〇)年)。官は刑部少輔で大谷刑部の通称でも知られる。業病(ハンセン病とも末期梅毒とも)を患い、眼疾のために失明し、「関ヶ原の戦い」では輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗北、家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。彼と狐のエピソードは私は知らない。発見したら、追記する。]

 思ふに此類の事、世に又多き事なり。

 近き頃聞きし一件は、越中滑川[やぶちゃん注:富山県滑川市。]に八兵衞といへる百姓の、作り倒れて所を立退き、二人の男子を携へ、乞食となり、江戶の方へ赳く道筋、越後路にしてとある古社の軒下に寢たりし夜、同じ緣の下に狐の子をうむ躰(てい)なり。是を哀れに思ひて、晝の中(うち)貰ひためし[やぶちゃん注:「もらひ貯めし」。]燒飯抔(など)澤山に與へて、夜明け其所を立去る。

 終に江戶に近き鴻の巢[やぶちゃん注:武蔵国鴻巣(こうのす)宿。現在の埼玉県鴻巣市。]の茶店に立より、水など貰ひて休らひける所へ、老(おい)たる道心者一人來りて、八兵衞が子共に餅を買ひてとらせ、

「いくらもくらへ」

とて過ぎ行きける。茶店の亭主、八兵衞に問ひけるは、

「あの道心者は知る人なりや」

と云ふに、

「知らず」

と答ふ。亭主云ひけるは、

「今の道心者は此邊(このあたり)に在りて數年[やぶちゃん注:国書刊行会本では『数百年』。]を經ると云へり。住所も知らず、往來に物を乞ひて世を過ぐるなり。所の者共昔より『狐の變化なり』と云ひて、渠(かれ)に物を貰へば其身殊の外仕合(しあはせ)よしと云ひ傳へたり。汝今渠が恩志に預ること、福裕(ふくいう)のきざしなり。何方(いづかた)の者ぞ」

と問ひける故、越中の產にて、乞食しに江戶へ出(いづ)るよし答へければ、亭主鳥目をとらせ、

「我も故にあやかるべきなれば、少くは取持ちとらせん」

とて、知者の方へ狀を添へて、日雇の仲間へいれ、稼ぎをなさしめ、二人の子は相應に奉公を勤(つとめ)させにける。此茶屋は肝煎(きもいり)にて、よき所にありつき、次第に仕合せ能(よ)く、二人の子供成人の後、終に屋敷を買求めて、よき商人になりけり。夫より次第に家富み榮えて、正德年中[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]故鄕滑川へ來りて、昔の旦那寺の專長寺といへる御堂を再興し、尙更住持の位階迄昇進させ、過分の金子を捧げて東武へ歸りける。頃年大名方の取替銀をして暮しけるが、先祖の故鄕とて、今度加賀屋敷の御用を承りて、段々首尾能く、今般二十人扶特下されける。越中屋太郞兵衞といふは、則(すなはち)此八兵衞が孫なりとぞ。

[やぶちゃん注:「專長寺」富山県滑川市寺家町に現存する。浄土真宗。以上を以って「三州奇談卷之三」は終わっている。]

2020/03/14

三州奇談卷之三 諫死現ㇾ神

 

     諫死現ㇾ神

 橄攬(かんらん)、一名を忠果とも云ひ、其味ひ始は苦くして、久(ひさし)うして甘し。唐の王維も之を「忠言耳に逆(さから)ふ」に比す。「世亂(せいらん)久うして之を思ふが故に」と云ふ。

[やぶちゃん注:「諫死現ㇾ神」「諫死(かんし)、神(しん)を現はす」で「神」は生きた人間の知恵では測り知れない不思議な力を意味する。

「橄欖」ムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album はカンラン科の常緑高木。東南アジア原産。果実は食用にされ、種子からは油が採れるため、東南アジアや華南で栽培される。見かけや利用方法がオリーブに似ているため、オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea)の訳語として専ら「橄欖」が用いられるが、これは語訳のレベルで、分類上は関係が全くない。但し、当時の日本にはオリーブは勿論のこと、この真正のカンランも存在しなかった(孰れも本邦に渡来したのは明治以降である。平賀源内がオリーブ栽培に挑戦しているが、実際には彼が「オリーブ」だと思ったのはカタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus で、誤認であった上、しかも失敗している)。

「忠果」中国語で橄欖の別名である。「忠義果敢」の短縮形があるが、これは本来は橄欖とは関係ないと思われ、「後漢書」巻八十の「文苑傳上」の「夏恭傳」に基づくものである。

「王維」不審。彼の詩句にはないのではないかと思われ、「忠言耳に逆ふ」は「孔子家語」の「六本」が出典。「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。」(孔子曰く、「良藥口に苦けれども、病ひに利あり。忠言耳に逆へども、行ふに利あり。」と。)であり、「世亂久うして之を思ふが故に」は出所が判らない。因みに、国書刊行会本では「王維」ではなく、「王元」とするが、唐代の知られた「王元」は知らない。]

 本藩金岩(かないは)平助善房は、其元祖荒子譜代の家にして、廉直他を羨まず。忠義且溫和にして、家僕といへども是を守るに、一人の僕久八とて、久しく召仕はれて、是又家風に馴れし者なり。

[やぶちゃん注:「荒子譜代の家」藩祖前田利家が尾張国荒子城を領有していた頃(永禄一二(一五六九)年~天正三(一五七五)年)の直参譜代の従臣たちを「荒子衆」(あらこしゅう)と呼び、山森吉兵衛・奥村次右衛門・吉田長蔵・姉崎勘右衛門・三輪作蔵・山森久次・金岩与次之助の七臣が中心であったという。この最後の金岩与次之助が先祖ということであろう(詳細事蹟は不詳)。]

 元文[やぶちゃん注:一七三六年~一七四一年。]の初、平助老死して子息三郞左衞門良善家相續して、久八も舊恩を忘れず、薪水(しんすい)の勞を助け、晝夜心を盡す。然るに三郞左衞門若氣の至り、夜遊びに耽りて、每(つね)も家に在らず。剩(あまつさ)へ惡しき友ありて風聞よからざれば、久八傳へ聞き、

「親御の遺言といひ、此家内に我ならで諫(いさめ)を申す者もなければ」

とて、折每(をりごと)につよく諫けれども、主人曾て用ひざれば、旦暮に是を歎き、或日又强く諫めけるに、主人此程は酒狂(しゆきやう)も交(まぢ)りければ、殊の外腹立ち、其後よりは詞も懸けず、只生(しやう)を隔(へだて)たる者の如し。され共聊(いささか)是を恨みず、主人行跡(ぎやうせき)の直らん事をのみ思ひけるが、詮方やなかりけん、或日、我(わが)部屋へ入り、自殺してぞ死しける。

[やぶちゃん注:「三郞左衞門良善」名前の読み不詳。「よしよし」或いは「あきよし」か。

「薪水の勞薪」薪(たきぎ)を採ったり、水を汲んだりする毎日の炊事の苦労を指すが、本邦では概ね「骨身を惜しまず人のために尽くす」の意で使われる。出典は「南史」の「陶潛傳」。

「生(しやう)を隔(へだて)たる者の如し」主人が現世と冥界とのように全く関係がないように久八を完全に無視したことを指す。]

 家内驚き、主人も立寄りて見るに書置あり。

「我れ主人の不行跡を諫むれども御用(おんもち)ひなし。されば幼少より手しほに懸けて育て參らせ、御親父樣御遺言にも我ら御意見申候はでは叶はぬ儀なれども[やぶちゃん注:底本は「叶はね」であるが、国書刊行会本で特異的に訂した。]、下郞の身を悔みて自殺仕候(つかまつりさふらふ)。只々御身持御直し、惡しき交りの無き樣に」

と吳々(くれぐれ)書納めける。

 検使には是を隱し、亂心の躰(てい)にして、終に葬りとらせ、夫より三郞左衞門も少しは戶外も止めけるが、又いつしか例の友に交(まぢは)りける。

[やぶちゃん注:「検使には是を隱し、亂心の躰にして」諌死ということになると、藩から主人良善は詮議を受けることになり、下手をすると、知行取り上げなどの処罰を受けるから、乱心と偽ったのである。]

 又村上源右衞門義鄕は三郞左衞門舅(しうと)成りしが、或夜獨り燈下に書を披(ひら)き居たりしに、次の間の襖を開きて、金岩が僕久八、ありし姿に替らず、靜(しづか)に來りて手をつかへて、一封の物を指置き、頭を疊に付くると思ひしが、消えて見えざりける。

 村上驚き爰(ここ)かしこ尋(たづぬ)る。家内の者にも尋(たづね)て後、彼(かの)一封の書を披き見られしに、其文久八が手跡と覺しくて、

「私儀、故金岩平助樣の高恩を受居申候。然る所、當三郞左衞門樣御身持宜しからず、每度御異見申上候へども、御用ひ是なく、責(せめ)て相果候はゞ不便(ふびん)と思召し御諫にもなるべくと存じ、自殺仕候へども、今以て御不行跡相止み申さず候。其上御友達惡しく、近き内には御家にも祟(たたり)申(まうす)程の惡事も必ず之れあるべく候。依りて貴公樣ならで御意見なさるべき御親類無御座候間(ござなくさふらふあひだ)、御意見可ㇾ下候(くだされさふら)へ」

との儀、あと先くどくどと書き認(したた)めありしかば、村上驚き、

「希代のふしぎなり」

と、先(まづ)金岩三郞左衞門を呼び寄せ、悉く語りければ、是も希有の思ひをなし、渠(かれ)が書置の事どもを語り出し、兩人共に感淚して

「かゝる奇特を聞きながら若(も)し改めずんば、我ながら獸心なり」

と、誓ひて心を改め誓狀を村上に書き與へて、惡(あし)き友の交りを斷ちけり。

 彼(かの)僕、淨土宗にてありけれども、常々一向宗を信じけるにより、京都本願寺へも永代香奠を上げ、其跡を弔ひし。法名は鐵果道敬居士、元文三年[やぶちゃん注:一七八三年。]三月七日、四十五歲なり。石碑は野町大蓮寺にあり。彼(かの)久八が捧げし狀は、今猶村上氏の珍奇とせり。

 其後金岩氏は深く先非を悔み、忠勤を勵みけるが、其頃水魚の交りありし友に多羅尾八平治舍弟淸太夫といふ者、不行跡の事にて改易にぞ仰付けられける。此久八幽靈が諫なかりせば、危き事も多かりしとにや。

「諫死して神(しん)を現はすは、獨り近代根津宇右衞門と聞きしに、かゝる奴僕にも至忠の者はありける」

とて、金岩氏自分(みづから)此事を語られしなり。

[やぶちゃん注:お気づきになられたと思うが、村上の読むそれは、実際に自死直前に認めたそれとは異なっており、死後の久八の霊が書き換えた内容となっている点で摩訶不思議なのである。これは確かに江戸の怪奇談集の中でも出色の特異点と思うのである。

「野町大蓮寺」金沢市野町にある浄土真宗宝池山大蓮寺(グーグル・マップ・データ)。前田利家四女で宇喜多秀家の正室である豪姫の位牌所・菩提寺として知られる。

「根津宇右衞門」第三代将軍家光の第三子で甲府藩主となった徳川綱重(正保元年(一六四四)年~延宝六(一六七八)年)の家臣根津宇右衛門。文京区本郷にあるかの根津権現は彼の霊を祀るともされるらしい。個人ブログ「Sanction サカナクション」の「忠臣根津宇右衛門」によれば、『俗書の説であるが、『護国女太平記』に』は、『綱重』が『宇右衛門を御手討』に『ならせられ、其後』、彼の『霊魂』が『度々』、『御諫言申上げるゆへ御心あらため、堅く御禁酒遊ばされける』『とある。家宣』『の父、将軍職につけない綱重は』『部屋住みの不満を酒色にまぎらわせていた。そしてそれを諫』『める忠臣根津宇右衛門を手討ちにしたため、宇右衛門は幽霊になってまで何度となく諫言』『した。ついに綱重が心を入替え』、『禁酒すると』、『宇右衛門の霊がまた現れてそれを祝し、子孫長久の守護を誓って消えた。そこで綱重は前非を悔い、子孫でもあれば過分に取り立てるべきところ』、『宇右衛門は独身だったので』、『邸内に社を築き』、『宇右衛門を祀った。それを根津権現の起こりであるとする』という。但し、「文京区史」では、『相模から武蔵にかけて作神をネと称し、収穫も終わった旧九月の子』(ね)『の日頃を祭日として』おり、『根津の宮も駒込あたりの農民に信仰されたネの神ではないかとする』とあり、この人物であろう。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十三 山の神と狩人

 

     十三 山 の 神 と 狩 人

 

Kematurinokusi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプション「毛祀りの串」で「けまつりのくし」。]

 

 狩人が猪を擊つた時は、その場で首のイカリ毛を拔いて山の神に捧げるのが、古くからの作法であつた。その方法は先づ手頃の木を切つて皮を剝ぎ、尖[やぶちゃん注:「さき」。]を割いて[やぶちゃん注:「さいて」。]串を作り、それに毛を挿んで立てるのである。別に其場で臟腑を拔いて祀る事もあつたが、猪の場合は極く稀であつた(詳しくは鹿の項に讓る)。その折の唱へ言などはもう無かつた。只實直な狩人には、人に物言ふ如くに、よう猪をお授け下されたと、唱へる者もあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「イカリ毛」「怒り毛」。獣などが怒って逆立てた毛。特にイノシシの頭頂から背にかけて生じている剛毛を指すと、小学館「日本国語大辞典」にあった。平凡社「世界大百科事典」の「毛」の文化史の部分には(コンマを読点に代えた)、『獣や家畜の毛についてもさまざまな風習や俗信が行われている。たとえば、東日本では狩りの後に〈毛祭〉といって、捕った獣のひざ、つま先。耳などの毛を抜いて串(くし)にはさみ、山の神に供える風習がある。マタギの間には〈毛ボカイ〉といって、カモシカやクマを捕らえると、はいだ毛皮を獲物の上に反対にかけ』、『唱言をして引導をわたす風習もある。また〈毛替(けがえ)〉といって、主人が死ぬと、その家で飼っているウマ、イヌ、ネコなどの家畜を他へ売ったり、毛色の異なるものと替える』風習『もある』とあった。

「山の神」ウィキの「山の神」より引く。『実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』、『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する』。『農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち』、一つの神に「山の神」と「田の神」という二つの『霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある』。『猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に』十二人の『子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日』(一般に十二月十二日、一月十二日など十二にまつわる日)『は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』。『また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている』とある。この山の神がオコゼを好むという伝承についての考証は私の古い電子テクスト、南方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」を参照されたい。

「鹿の項」後の「鹿」パートの「六 鹿の毛祀り」の冒頭の一段を指す。フライングして示すと、

   *

 狩人が鹿を擊つた時は、其場で襟毛を拔いて山の神を祀つた事は、猪狩の毛祀りと何等變はつた事は無かつた。只鹿に限つての慣習として、其場で臟腑を割いて、胃袋の傍にある何やら名も知らぬ、直徑一寸長さ五六寸の眞黑い色をした物を、山の神への供へ物として、毛祀りと一緖に、串に挿し或は木の枝に掛けて祀つた。これをヤトオ祀りと言うた。ヤトオは前にも言うたが、矢張り串であつた。その眞黑い物は何であつたか、狩人の悉くが名を知らぬのも、不思議だつた。腎臟だらうと言うた人もあつたから、或はさうかも知れぬ。ずつと以前は、兩耳を切つて、ヤトオ祀りをしたと言ふが、近世では耳の毛だけを串に挾んで祀る者もあつた。然し後には臟腑を割く事をも略して、只毛祀りだけで濟ましたものもあつたと言ふ。

   *

とあるのを指す。「ヤトオ」は「三 猪の禍ひ」の本文及び私の注を参照されたい。]

 山の神を祀る事は、狩りの前にも行つた。幾日山を步いても、更に獲物に遭遇せぬ時は、一旦家に還つて、更に出直したのである。而して山口に地を撰んで、手近の常綠木の小枝を二三折敷いて[やぶちゃん注:「をりしいて」。]、其上に酒を灌ぎかけて祀つた。山の神猪をシナシて下されと祈つたと言ふが、猪狩に限つた事では無かつた。シナシて下されは狩人の言葉で、獲物に巡り合わせ給への意であつた。或は又獲物を前にして祀る事もあつた。多くは巨大な古猪などの場合で、狩の懸念される折であつた。方法も前と變りなく、殘りの酒を汲交して[やぶちゃん注:「くみかはして」。]出掛けたのである。

[やぶちゃん注:「シナシて下され」とは「仕爲して下され」で「豊穣の狩りが危険や事故などなく目出度く成就出来ますようになさって下さい」という呪言(じゅごん)であろう。]

 山の神は女性であるとは、專ら言うた事で、山の木の葉一枚も惜まれると謂うたが、或は一眼一本脚の大漢[やぶちゃん注:「おほおとこ」と読んでおく。]であるとも謂うた。現に鳳來寺山中で、遭遇した者もあつたと聞いたが、久しい前で、而も詳しい事は傳はらない。さうかと思ふと、同じ山中で永年狩を渡世にして居た丸山某は、數里四方に亘ると言ふ森林中を殆ど至らぬ隈なく跋涉して、人跡稀な山中に夜を明した事も、幾度かはかり知れぬが、たゞの一度も遭遇せぬからは、昔の人の噓だと斷言した。而も獲物を取匿される事だけはあつたと言ふ。何物の所爲か判らぬが、確かに斃したに拘らず、谷を渡つて近づいて見るともう影も形もなかつた。中には程經てから山犬などに荒らされて居るのを、見出す事もある。さうかと思ふと幾度も搜索して、確かに無かつた筈の處に、早半分腐つて居るのを、後に發見する事もあつた。何れにしても目の迷ひなどゝ信じられぬ、山の不思議はたしかにあつた。それで結局は山の神に匿されたとして置いたと言うた。同じ山の西麓、玖老勢村の某の狩人は、斃した猪の行衞を索め[やぶちゃん注:「もとめ」。]あぐんで、諦めて還りかけると、誰やら後[やぶちゃん注:「うしろ」。]で呼んださうである。振返つて見ると、全身毛だらけの大男が立つてゐた。最早遁げるに遁げられず其に立竦んで居ると、大男は傍へ寄て[やぶちゃん注:「よつて」。]何やら問ひかける。よく聽いて見ると、頻りに何處の者だと尋ねるのださうである。さうして段々話す内、實は三十年前に家出した、同じ村の豆腐屋某の忰であると語つたという。その狩人には勿論其事は思ひ出せなんだと言ふ。どうして暮して居ると訊いて見ると、初めは木の實を拾つたり、木のアマ皮を剝いで飢を凌いだが、今では何でも捕つて食ふと言う。さうして居る内、何時か體中に毛が生へてしまつたと、語つたさうである。最後に別れる時、俺に遇つた事は、決して喋つて吳れるなと言うたが、其狩人が臨終の折に、傍の者に語つたと言ふ。其時見失なつた猪の行衞はどうだつたか、その男と關係あるやうに思はれるのに、其事に就いては聽かれなんだ。

 自分に語つたのは、今年七十幾つになる老媼だつた。子供の頃母から聽いたさうであるが、恐ろしいと思つて、以來誰にも話さなんだと言うた。

[やぶちゃん注:ここに記された真怪・妖怪・妖獣としての鬼神・山人・山男や、はたまた非社会的人間がアジールとして山中を選び、そこで単独の暮らしをしていた実在する人物らしき実話は枚挙に暇がないほどあり、私のカテゴリ「怪奇談集」にも数多く見られる。

「一眼一本脚の大漢」「一本踏鞴(いっぽんだたら)」であるが、これは山中での鉱脈の発見と、それに伴う金属精錬の歴史の中で生じた金属神で、本来は「山の神」とは全く異なる神であったものが集合したものであると私は考える。一つ目一本足であるのは、踏鞴(たたら/ふいご)を踏むには片足を常に連続的に酷使しし続けるために、その片足が不自由になることが多く、また、爐を極めて高温にせねばならぬが、金属融解の温度は当時、その火の色を見る以外にはそれを究められなかったために、常に爐に開けた小さな穴から中の火を凝視し続けねばならず、それによって似たように片目が不自由になるものがやはり多かったと思われることに由来する。されば、山中の鉱脈を秘かに探し出し、そこで鍛冶に秘かに従事した(或いは従事させられた)民を隻眼隻脚の鬼神としてシンボライズすることは自然であったと私は考えている。『一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 自序及び「一目小僧」(一)~(三)』以下も参照されたい。

「玖老勢村」「くろぜむら」。愛知県新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ)。鳳来寺(少し拡大すると判る)の西直近。

「今年七十幾つになる老媼」本書の刊行は大正一五(一九二六)年である。例えば、十歳の時に母から聴いたとしても、満七十として、一八五三年で嘉永六年相当の時であり、しかもその話は更にそこから十何年か何十年か遡る可能性が大であるから、江戸時代の後・末期の話柄であることになる。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十二 昔の狩人

 

     十二 昔 の 狩 人

 猪の話に直接關係は無かつたが、狩人の話の次手に、珍しくもない昔話を一ツ附加へる。

 或時、或所で一人者の狩人が、夜業に爐邊で翌日使う鐵砲丸[やぶちゃん注:「てつぱうだま」。]を、茶釜の蓋でせつせと丸めて居た。すると向ひの爐緣に飼猫がチヤンと座つて、昵と[やぶちゃん注:「ぢつと」。]手附を見て居る。丸(たま)が一ツ出來上がつて脇に置く度、前肢を上げて耳の後から前へ一回越させた。翌朝は早く起きて、狩に行かうとして爐の茶釜の下を焚きつけたが、不思議な事に前夜使つた筈の茶釜の蓋がどうしても見付からない。しかもその朝にかぎつて飼猫の姿が見え中つた。狩人はそのまゝ支度して未だ暗い内に家を出た。段々山へは入つて行くと、行手の岩の上にある松の大木から、何やら怪しい光がする。早速丸(たま)込めして一發狙つて放したが、一向手應へが無い。次から次へいくら擊つても手應へがなくて、たうとう有りつたけの丸を使つて、最後の一發を放してしまふと、其時、初めて何やらチヤリンと金物の落ちた音がした。怪しい光物は未だあるので、今度は別に取つて置の丸を取出して擊つと、初めて手應があつた。そこで岩の下へ行つて見ると、猫が頭を擊拔かれて斃れてゐた。よくよく見ると朝方見えなかつた飼猫であつた。而も傍には茶釜の蓋が轉がつて居た。猫が茶釜の蓋を持出したのである。そして前夜作つた丸だけは防いで、もう用はないと、蓋を捨てた處を一方狩人は別の彈で擊つたのである。別に黃金の丸で擊つた話もある。實は何でもない化猫の話であるが、只自分が此話に興味があるのは、話にもある通り、自分等の記憶にある頃にも、狩人の中には、茶釜の蓋で、鐵砲丸を慥へて[やぶちゃん注:「こしらへて」。]ゐた者が未だあつた。型に流しこんだ鉛を短く切つて、それを木の根株などで慥へた頑固な臺の上で、茶釜の蓋で壓へながら、ゴロゴロ丸藥でも造るやうにやつて居た。遂ひ[やぶちゃん注:「つひ」。]近所の家の主人が、それをよくやつて居た。元込の舊式な火繩銃を持つて居た。先代からの狩人で、若い頃には背戶の山で猪を擊つた事もあつたと言うた。滅多に狩りに出かけるやうな事は無かつたが、只鑑札だけは每年受けて置くとも言うた。平素は農業熱心で、遊ぶ事が何より嫌ひだと言うた程の男であつた。それがどうかすると、ブラリと鐵砲を舁いで山へ出掛けたのである。さうして一日山を步いて來れば氣が濟んださうである。

[やぶちゃん注:「背戶の山」「せどのやま」。一般名詞。家の裏手の山。]

 此男などのやつて居た服裝が、矢張昔の狩人そのまゝであつた。鹿皮のタツヽケ[やぶちゃん注:既出既注。]を穿き、背に木綿のイヂコ袋を負つて、腰に昔風の山刀を帶んで居た。遉がにもう藁の舟底などは被らなんだが、火繩は持つて居た。他の專門の狩人は服裝なども段々新しくなつて行つたが、年に一度か二度しか出ぬ爲めに、昔のまゝの物が、そつくり無事で居たのである。その爲めに、そんな大時代の風をして狩りにも出たのである。實は狩りとは言ひ條氣晴らしに行つたのだから、道具など何でも構はなかつた點もある。

 自分の家などにも、火繩銃が一挺あつて、別に粗末な鞘に納めた山刀も一振あつた。矢張祖父の代迄は、時として氣晴しに山へ行く事もあつたさうである。

[やぶちゃん注:「タツヽケ」複数回既出既注。「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。これを以って注さないので覚えて頂きたい。

「イヂコ袋」狩人の狩の用具や割子(わりご:弁当箱)などを入れて背に負う袋の三河地方での呼称。古くは藤布製であったが、後に木綿で製するものが多くなったと、「参遠山村手記」PDF)の「ニンダラ」にあった。小学館「日本国語大辞典」の「いちこ」を方言として『物を入れて背負うかごの一種』とあり、採集地を長野県松本とする一方、「いじこ」を見ると方言で『わらで編んだもっこ』として採集地を静岡県阿部郡・愛知県東加茂郡・滋賀県神崎郡とする。また語源説として『イヅメ(飯詰)の転イヂメに籠の意のコが付いて「イヂメコとなり、略されてイヂコとなった』(楳垣実「嫁が君 語源随筆」一九六一年東京堂刊)とするものを載せる。

「山刀」「やまがたな」。

「帶んで」「はさんで」或いは「たばさんで」と読んでおく。

「遉がに」「さすがに」。複数回既出既注。これもこれを以って注さないので覚えて頂きたい。

「藁の舟底」先の尖った藁製の帽子というか顔面を除く頭部を覆うもの。実際、外したものを逆にして横から見ると舟形をしている。現在は「マタギ帽子」の名でオークション・サイトで見掛ける。

「言ひ條」(いひでふ)は「言いながらも」の意。この場合の「条」は名詞の逆接の接続詞的な用法で「~であるものの、……。~であっても、……」の意となる。この言い方は通常は「~とは言い条(じょう)……」の形で使用される。]

2020/03/13

三州奇談卷之三 儒生逢ㇾ妖

 

    儒生逢ㇾ妖

 彥三郞高崎氏の妾(めかけ)は、柳町日住屋(ひすみや)五右衞門と云ふ魚を商ふ者の娘なり。賤しきも色によりて用ひられ、女子一人を生(しやう)ず。兼ては内室の約も有しかども、世は增花(ますはな)の咲かぬにも非ず。詞咎めを云立て、離別して出入も留められぬ。

[やぶちゃん注:「柳町」金沢市柳町(やなぎまち)か(グーグル・マップ・データ)。現在の金沢駅の南直近部分。

「增花の咲かぬにも非ず」不詳。「今にも咲こうとしている花が咲かぬということはない」、正室の妻の嫉妬心が生じないわけがない、の謂いか?

「詞咎めを云立て」妾の女のちょっとした言葉尻りを取り立てて批難して。]

 此女(をんな)主(あるじ)を恨む心甚しく、一室に取籠り、外の奉公も求めざりしが、寶曆三年[やぶちゃん注:一七五三年。]五月十八日頃よりして白山の神社へ參詣せしが、けふは人の多く詣で來るなれば、彼女も拜殿にぬかづき、何やらん祈誓久しくして、既に日もたけ各(おのおの)下向すれども、彼女は起(おき)も上らず打臥したり。

[やぶちゃん注:「白山の神社」国書刊行会本では『五月十六日、歩(かち)よりして』とあり、後で鶴来の地名が出ることから、石川県白山市三宮町にある加賀国一宮にして全国に二千社以上ある白山神社の総本社である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)(グーグル・マップ・データ)ではないかと推測する。公式サイトを見ると、現在の四月六日に鎮花祭(はなしずめのまつり)があり、『古くから花が咲く春先に疫病が流行すると信じられていたことに由来しています。神前に神饌(しんせん)と共に桜の花を供え、疫病の神を鎮めて無病息災を祈願します。「ちんかさい」ともいわれます』とあり、現在の五月六日には、一年の中で一番大きな例大祭があり、氏子・崇敬者の安寧を祈るという。これは『古くは国司も参列した由緒ある祭事で、菅原道真ゆかりの神饌(しんせん)「梅枝餅(うめがえもち)」が供えられ、舞女による「浦安の舞」が奉奏されます』とある。本篇は旧暦の記載で、日付もズレているので孰れとも限定し難い。]

 禰宜ども來りて、呼起せど答へず。

 氣絕の體(てい)なれば、皆々驚き抱き起すに、懷中より紙にきざめる人形と、三寸許りの針と鐡槌と

「ばらり」

と落ちたり。

 神主共、甚だ怒りて、

「此女、神木を穢さんとの惡心故、神罰疑ひなし」

と云ひて、拜殿より蹴落しけるが、忽(たちまち)正氣付きて

「すつく」

と立つに、其形容醜色うはなりの面に似たり。誠に神罰愚人をこらしめ給ふと聞きしもむべなり。

[やぶちゃん注:「うはなりの面」歌舞伎十八番の一つである「嫐」(うわなり)の鬼女の面のことであろう。本外題は「後妻打(うはなりう)ち」(本妻が後妻 (うわなり) を嫉妬して打ちたたくこと)を素材としたものである。内容はウィキの「嫐」を見られたい。但し、同外題の具体的展開と本篇は一致するものではない。]

 參詣の人々來り集り、是を指さし笑ふ。

 其中に安江町縫屋(ぬひや)五右衞門と云ふ者は、聊(いささか)見知りたる故不便(ふびん)に思ひ、先づ鶴來迄伴ひ來り、駕籠を雇ひ、女を乘せ連歸りけるに、家に歸り爾々(しかじか)の由云ひて駕籠より出(いだ)すに、女は早や駕の中にて舌を喰ひ切り死して居たりし。

[やぶちゃん注:「安江町」金沢市安江町(やすえちょう)(グーグル・マップ・データ)。]

 然共(しかれども)、此事沙汰なしにて、手次の御坊門徒宗光敎寺なれば、遺骸を送りて土中に埋む。

[やぶちゃん注:「此事沙汰なしにて」自死は変死であるから、本来は届け出て、藩の検分を受けるところだが、恐らくは肝煎などが相談の上、病死扱いにして旦那寺へ送ったのであろう。

「手次の御坊」「手次」は「手次ぎ寺(でら)」で、浄土真宗(=「門徒宗」)で信徒が檀家として所属している寺院をいう語。本山と檀家との中間にあって信仰に関する取り次ぎをする寺の謂い。

「光敎寺」石川県金沢市笠市町にある浄土真宗の寺(グーグル・マップ・データ)。]

 此光敎寺の後(うしろ)は佐々木何某の宅地なるが、光敎寺へ云ひ來りしは、

「此頃、貴寺の卵塔より、暮るれば狐火出で、我宅をよぎり、乾(いぬゐ)をさして飛行くこと每夜なり。試み給へ」

と告げ來(きた)る。

[やぶちゃん注:「卵塔」この場合は卵塔場で墓地のこと。

「乾」北西。彼女実家の柳町がまさにその方向に当たるが、ここは「彥三郞高崎氏」の家の方向でなくては話がおかしい。それを冒頭で出さなかったのは、筆者の不覚であった。取り敢えず、柳町近くであると仮定して問題はない。]

 光敎寺にも下々のひそひそと云ふに、兼て心得ず、

『今宵は試し見ん』

と思はれしに、其頃儒學に名ある浪人の林孫太郞と云ふ人來り、光敎寺に向ひて云けるは、

「我昨日内藤氏へ招かれて、講席終りて夜半の頃宅へ歸る道の傍なる明屋敷に[やぶちゃん注:国書刊行会本は『やなぎに』。]、白き物を着したる女彳(たたず)み居たり。深夜にいぶかしく、

『何者ぞ』

と頻りに問ひければ、やゝ幽(かすか)に答へて、

『我は此邊りに恨みある武家ありて、每夜來りて窺へども、我愛する所の小兒ありて其懷にいねたり。是をいかんともすることなくて、斯くは彳み侍るなり。赦し給へ』

と云ふ。怪しく思ふて跡をつきしたへば、彼者呻吟の聲して、

『我を弔ふ者なし』

と云ふが如し。終に貴寺の門に入りて失せぬ。必(かならず)幽魂と云ふべきものなり。我儒門に遊びて浮圖(ふと)[やぶちゃん注:仏教。]を信ぜず。然かもまのあたりかゝる事あり。我、頻りに追福の志あり」

とて、金一封を出(いだ)し布施とす。

 住持も佐々木氏の告(つげ)を語り、

「今宵試みん」

とてためさるゝに、新しき塚より丸(まろ)き火の光り物出で、乾に飛急ぎ、其塚を改むるに、木新保(しんぼ)五右衞門が塚なり。則ち呼寄せて、先頃葬りし死人(しびと)の事を尋ねらるゝに、靈火のふしぎ抔(など)を聞きて、五右衞門は淚を流し、此娘が始終を語り、懺悔(さんげ)せしに、林孫太郞大に驚嘆し、住寺に向ひて、

「我學ぶ所の儒門は、人死して大虛[やぶちゃん注:虚空。宇宙。]に歸すといへども、目前迷魂にあふこと、かの釋氏[やぶちゃん注:釈迦。]の說所謂(いはれ)あるに似たり。抑(そもそも)幽靈とはいかなる物ぞ。」

僧曰く、

「其歸すべき物の理(ことわり)を名付けて、阿賴耶(あらや)の識(しき)と云ふ。然共、身躰具足の上に於ては、心意性情と樣々に品替り、是に只念の妙用備りて、終に萬物の靈たり。始め母胎に宿る時の羯刺藍(かららん)は愛瞋(あいしん)の思念止む時なし。されば阿賴耶の識は、是に惱まさるゝを煩惱といへり。而して婬愛貪恚(いんあいどんい)の業(ごふ)盛んになる。阿賴耶已に骸(むくろ)を去る時、六欲に纏りて支體(したい)なけれども、執念暫く彷彿たり。魂と云ひ魄と云ふは、中有(ちゆうう)の健達博是なり。此魂魄緣に依りて、人に見ゆる物を幽靈と云へり。緣に因りて法事を修せば、惠力(ゑりき)に依りて解脫せんこと又疑ひなし」

と云(いは)れしに、孫太郞感服して、終に釋敎の門に入り、其後は儒講の折々にも、眞諦(しんたい)を說きて佛意を用ひられし。

 然して後(のち)彼(かの)女が跡も念頃に弔らはれしに、塚の火も自(おのづか)ら消えて、高崎の家にも何の障(さはり)もなかりしは、女が佛果疑ひなしとこそ覺えけれ。

[やぶちゃん注:「阿賴耶(あらや)の識(しき)」「阿頼耶」は「拠り所」の意で「蔵」とも訳される。仏教の唯識説に言う第八番目の識。識とは純粋の精神作用をいう。総ての存在は元来実体のないもので、「空」であるが、万有は「識」の顕現したものにほかならないとする唯識説では、思量の働きをする末那識 (まなしき) が、万有を生じる可能力から成る阿頼耶識を対象として我執を起こすとする。阿頼耶識は万有を成立せしめる可能力を備えているので、種子識 (しゅうじしき) とも称する。これが本来、清浄なものか不浄なものかは、いろいろ議論されていきた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ウィキの「阿頼耶識」には『大乗仏教の瑜伽行』(ゆがぎょう)『派独自の概念であ』るとある。神道の死生観ではこれを盗んで説明しているようなことを、昔、神道科の知人の説明で感じたことあある。

「羯刺藍(かららん)」「かつららん」「こんららん」などとも読む。サンスクリット語「カララ」の漢音写で「歌羅羅」「羯羅藍」とも書き、「凝滑」「雑穢(ぞうえ)」と漢訳する。受胎直後の七日間を謂う語。

「愛瞋(あいしん)」愛着することと、瞋(いか)ること。

「婬愛貪恚(いんあいどんい)」「婬愛」は性欲と愛執。「貪恚」は貪欲 (とんよく) と瞋恚 (しんに:怒り)。

「六欲」六根(眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意)によって生じる欲望の内、特に異性に対して持つ欲。色欲・形貌 (ぎょうみょう) 欲・威儀姿態欲・語言音声欲・細滑(肌のなめらかさ)欲・人相欲。

「支體(したい)」手足と体(からだ)。

「中有(ちゆうう)」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「健達博」「けんだつば」であるが、これは恐らく「健達縛」の誤字である。「乾闥婆」とも書く。前の中有と同義。

「眞諦(しんたい)」仏教に於ける絶対究極の第一原理。真理。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十一 猪狩の笑話

 

     十一 猪 狩 の 笑 話

 現に自分の知つてゐる一人だが、初めて猪狩の勢子になつた時、猪が恐ろしくて大縮尻[やぶちゃん注:「おほしくじり」。]をやつた話を、何遍となく語つた男がある。話の筋はかうであつた。狩場に着いて只一人になると、猪が吾が方へばかり來るやうに思へて、心配でならなんだ。軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]の事隣の窪でドンと一發筒音が響いて、ホーツと矢聲がした。それを聞くと急に恐ろしくなつて、夢中で傍の栗の木へ驅け上つて、來るか來るかと下ばかり覗いて居た。猪を擊つなどの氣持はとくに[やぶちゃん注:とっくに。]何處かへ飛んでしまつた。すると又もや近くで一發筒音がしたが、それと同時に直ぐ後ろのボロから、ドサドサとえらい地響を立てゝ何やら躍り出した者がある。それに驚いてビツクリ飛上がつた拍子に足を踏外して、根元へしたゝか突ツこけた、恰度[やぶちゃん注:「ちやうど」。]其處へ一方を追はれた猪が落延びて來て、男を尻目に掛けて、悠々ツルネへ向けて走り去つた。初め地響を立てゝ躍出したのは、實は其處に眠つてゐた子猪達が、筒音に驚いて遁げ出した處だつた。お蔭で腰骨を撲つた上、仲間には笑はれたり怒られたりして、猪追ひにはもう懲々したと言ふのである。

[やぶちゃん注:「勢子」「せこ」。狩猟をする際の補助者で、音や声を出して鳥獣を駆り出したり、また追い込んだそれが逃げ出すことを防いで、射手がその対象を撃ち捕るのを補助する役。猪・鹿などの大物の猟では、射手と勢子が多数で猟隊を組み、勢子が狩猟犬とともに山や森林の中から獲物を追い出し、射手が持ち場で待ち構えて撃つ。この猟法は古く、既に鎌倉時代の「吾妻鏡」「新撰六帖題和歌」などにその記述が見られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「矢聲」射手が放った際に大声を揚げること。ここはでは鉄砲の射手の声。

「ツルネ」既出既注。「蔓畝」で「蔓のように長く伸びて連なった小高いところ・峰続き・山の峰・尾根のこと。向後は注さないので覚えて戴きたい。

「懲々した」「こりごりした」。]

 自慢話などと異つて、當の本人の失敗談だけに、聽く者の興味は深かつたが、實は同じ類の話を、他でも聞いた事があつた。或は臆病者の猪狩に、附いて廻つた笑話の一つであつたかも知れぬ。自分が初めて聽いた時の記憶では、未だ年が行かなかつた爲か、充分可笑味がのみこめなくて、反つて傍にゐた大供達がゲラゲラ笑つて居たものである。

 男の名は鈴木戶作と言うて、本業は木挽[やぶちゃん注:「こびき」。]だつた。元來話好きの男で、又話の材料を不思議な程澤山持つて居た。自分の家で普請の時には、前後百日餘りも泊つて仕事をして居たが、その間、いくらでも新しい話があつた。此話なども、話の合間に、面白可笑しく聽かせた一ツであつた。

 男も好し腕も好し、その上愛想がよくてどうした因果だろなどゝ、自身でも言うて居た程で、その頃もう四十五六であつたが、女房も持たず、近間の村から村を渡り步いて居た。よくよくの呑氣者さなどゝ、陰で笑つて居た者もあつた。又戶作の噓話かなどゝ、頭からけなしてしまふ者もあつた。仕事を賴み度いにも、何處に居るか判らぬなどゝ言うた程で、定まつた家も無かつた。其頃自分の家に古い三世相の本があつて、身の上を判斷してやると喜んで聞いて居た。數年前鄕里へ歸つた時、何年振りかで途中で遇つたら、叮嚀な挨拶をして、貴方がいつぞや五十六になれば身が固まると言うて下すつたが、お蔭で家を持ちましたと言はれて、面喰つた事があつた。

[やぶちゃん注:「三世相」(さんぜさう(さんぜそう))は仏教の因縁説に陰陽家 (おんようけ) の五行相生・五行相剋の説を交えて、人の生年月日の干支 (えと) や人相などから、三世(前世・現世・後世(ござ))の因果・吉凶を判断するもの。]

 極く呑氣さうに見えたが、身の上を聞くとさうでもなかつた。何でも親がひどく年老つてから出來た子で、兄弟たちから邪魔者にされ通して育つたと言うた。父親も他の兄弟達の手前家に置く譯に行かないで、七ツか八ツの時分に親類へ預けられた、そこで子守をさせられながら育つたと言ふ。俺のやうに苦勞をした者は無かつたと、案外な話を聞かされた事があつた。

 餘計な話が長くなつたが、前言つたやうな滑稽は、何も戶作の噓話ばかりではなかつた。實は多くの狩人に、共通の經驗であつたかと思ふ。或村の物持の主人が、猪狩に興味を持つて、一遍やつて見たくて堪らず、わざわざ眞白い鹿皮のタツヽケを慥へて、凛々しい狩裝束に身を固めて見ても、いざとなると猪が恐ろしくなつて尻込みして、遂只の一回も現場を踏まずに終つたなどの話は、相手が素人で物持の主人だつたゞけ、臆病さも一段と濃厚だつたのである。

[やぶちゃん注:「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。

「慥へて」「こしらへて」。]

2020/03/12

毛利梅園「梅園介譜」 團扇蝦(ウチワエビ)


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          戌初夏十日倉滕尙子

          送覧眞寫

團扇蝦【ウチワヱビ 西国方言 タクマヱビ 相州小田原】 千人擘 千人揑【ヒツハタキ 栗本翁説 チカラヱビ】

園曰
典籍便覧ニ載千人擘一名千人揑

蟹譜ニ※1江(ホウコウ)則千人捏以テチカラ

[やぶちゃん注:「※1」=「虫」+「手」。]

蟹トス玄達曰此者蟹ニ似テ足

無ク殻甚タ固ク刀ヲ出セリ

壓スルニ破ル事ナシ又千人擘

千人捏ト云フ蝦ニモ同ㇾ名スル

者アリトス典籍便覧

形似ㇾ蟹大 如錢トアレハ格

別大ナル者ニモ非ラス兩名ニ物

アルヿ猶可考糺已

 達曰千人捏ノ頭骨

 ヲヲクリカンキリトスルハ譌

 也サリ蟹ノ頭ニアル石ヲ

 漢名蝲蛄石 (ラツコ)石ト云

 此則ヲクリカンキリ也爲ㇾ眞ト

 シツハタキ其活者ヲ濵

 邊ニ上ルトキハ其尾ニテ

 砂土石ヲハタキ飛スヿケワシ

 因テ此ノ名アリ

 

 

福州府志曰千人擘狀如蝦蛄 殻堅

硬人盡ㇾ刃擘ㇾ之不ㇾ能ㇾ開酉陽雜爼謂ㇾ之 

千人捏 ○松岡玄達曰千人擘俗ニシツ

バタキト云沖津大礒ノ間ニアリ形蝦蛄ニ

似テ扁ク大也長サ尺余頭僧ノ帽

ノ如两角如耳扁圓少シ稜アリ狹長

ノ二種アリ尾巻テ腹下ニアリ橫刻蛇

腹ノ如シ殻堅乄破難シ一種矮短(ヒクキ)ナル在

外科ニ用ルヲクリカンキリハ卽此頭骨也

 

 

○やぶちゃんの書き下し文

戌(いぬ)初夏十日、倉滕尙子、送れるを覧(み)て、眞寫す。

 

團扇蝦【「ウチワエビ」、西國方言。「タクマエビ」、相州小田原。】

千人擘 千人揑【「ヒツハタキ」栗本翁の説。「チカラヱビ」。】

園、曰はく、「典籍便覧」に『千人擘、一名、千人揑』を載す。「蟹譜(かいふ)」に、『※江(ホウコウ)、則ち、千人捏。以つて「チカラ蟹」』とす。玄達曰く、『此の者、蟹に似て、足無く、殻、甚だ固く、刀(やいば)を出せり。壓するに、破る事なし。又、「千人擘」「千人捏」と云ふ。蝦にも名を同じくする者あり。』とす。「典籍便覧」に曰く、『形、蟹に似て、大いさ、錢のごとし。』とあれば、格別、大なる者にも非らず。兩名に物あること、猶ほ、考へ糺すべきのみ。

[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「手」。]

 

達曰く、『「千人捏」の頭骨を「ヲクリカンキリ」とするは、譌(あやまり)なり。「ザリ蟹」の頭にある石を、漢名「蝲蛄(ラツコ)石」と云ふ。此れ、則ち、「ヲクリカンキリ」なり。眞(しん)たり。』と。「シツハタキ」は、其の活(い)きたる者を濵邊に上(あぐ)るときは、其の尾にて、砂・土・石を、はたき飛ばすこと、けわし。因りて、此の名あり。

 

「福州府志」に曰く、『千人擘、狀(かたち)、蝦蛄(しやこ)のごとし。殻、堅硬にして、人、刃(やいば)を盡して之れを擘(き)るに、開くこと能はず。「酉陽雜爼」に之れを謂ひて、「千人捏」』と。〇松岡玄達曰く、『千人擘、俗に「シツバタキ」とト云ふ。沖津の大礒(おほいそ)の間にあり。形、蝦蛄に似て、扁(ひらた)く、大なり。長さ尺余』と云々(うんぬん)。頭、僧の帽のごとく、两の角(つの)、耳のごとし。扁圓して、少し稜(かど)あり。狹長(せなが)の二種あり。尾、巻きて腹の下にあり。橫の刻(きざみ)、蛇腹のごとし。殻、堅くして破れ難し。一種、矮-短(ひく)きなるもの在り。外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、卽ち、此の頭骨なり。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの毛利梅園自筆の「介譜」のこの画像をそのまま示した。和漢混淆になっており、しかも比較的解説が長いので、今までのここで仕儀と異なり、原文をまず示し、後に私が訓点に従い、さらに推定で送り仮名・読みを追加して読み易く訓読したものを示した。向後も暫くはこれでゆくことにする。

 さても、

節足動物門軟甲綱十脚目イセエビ下目セミエビ科ウチワエビ亜科ウチワエビ属 Ibacus のウチワエビ類

である(今までの電子化を見て頂ければ判る通り、言うまでもないが、本書の表題の「介」は教義の「貝」ではなく、魚を除く広範な海産無脊椎動物を含んでいる)。梅園自身も述べている通り、本邦産のウチワエビは一種ではなく、二種いる。全長は孰れも十五~二十センチメートル前後である。

ウチワエビ(団扇海老)Ibacus ciliates(頭胸甲の縁に十一個或いは十二個の棘があり、全体的に棘が小さく、数が多い。山形県と房総半島以南の他、東シナ海沿岸からオーストラリア東岸までの西太平洋の熱帯・亜熱帯域に分布する)

オオバウチワエビ(大歯団扇海老)Ibacus novemdentatus(頭胸甲の縁に棘が八個しかないため、ウチワエビとの識別は容易で、他の部位の棘も大きく、同じく数が少ない。また、ウチワエビに比すと、扁平性がより強い。能登半島と駿河湾以南の太平洋岸の他、香港・アフリカ東岸まで広く分布する)

本図は頭胸甲の辺縁棘から前者である。ウィキの「ワチワエビ属」によれば、『体は上から押しつぶされたように平たい。体の前半分が円盤形で、上から見ると和名通りうちわのような形をしている』。『体表は堅い外骨格に覆われ、縁には鋸の歯のような棘が並ぶ。体の前方中央と頭胸甲の左右に大きな切れこみがある。前方中央の切れこみにひげ状の細い第1触角があり、そのつけ根に小さな複眼(目)がある。複眼より前の円盤部分は厳密には頭胸甲ではなく第2触角で、イセエビの太く長い触角に相当する。歩脚と腹脚は短く、いっぱいに伸ばしても背中側からは見えない』。『セミエビやゾウリエビ、ウチワエビモドキなど同じセミエビ科の類似種が多いが、セミエビは体の縁に大きな棘がなく大型になること、ゾウリエビは全体のシルエットがうちわ形ではなく楕円形であること、ウチワエビモドキは複眼が体の縁に左右に分かれてつくことなどで区別できる。また、セミエビやゾウリエビは岩礁・サンゴ礁に生息する』。『水深300mまでの浅い海の砂泥底に生息する。成体に泳ぐ能力はなく、海底を歩行して生活する。食性は肉食性で、貝類や多毛類などの小動物を捕食する。敵は沿岸性のサメやエイ、タコなどで、敵に出会うと尾を使って素早く後ろに飛び退く動作を行う』。『産卵期は秋で、卵はメスが腹脚に抱えて保護する。孵化した子供はフィロソーマ幼生』(Phyllosoma:イセエビやウチワエビなどのイセエビ下目 Achelata のエビのゾエア(zoea)段階の幼生。体は著しく扁平でクモのような外観でガラスのように透明。しばしば数か月に及ぶ長期の浮遊生活を送り数cmの大きさにまで成長してから、第三期のメガロパ((megalopa))段階の「ガラスエビ」とも呼ばれるプエルルス幼生(Puerulus)に変態する)『の形態で、外洋を漂いながら成長する。幼生は「ジェリーフィッシュ・ライダー」とも呼ばれ、クラゲ類に騎乗してそれを餌にすることで成長し、分布域を広げていくという特性を持つ』。『充分に成長した幼生は着底した後に変態し、エビの姿となる』とある。

「戌初夏十日」本自筆本一帖は天保一〇(一八三九)年序であるから、戊戌(つちのえいぬ)は天保九年でその旧暦初夏四月の十日はグレゴリオ暦で五月二十三日に当たる。

「倉滕尙子」これは先の「鸚鵡螺」に出た多くの物品を梅園に提供して呉れた同僚の幕臣倉橋尚勝のことであろう。

「タクマエビ」私の「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に、

   *

タクマエビ 相州小田原方言 シツパタキ 其活者ヲ濵ニ上ル時ハ其尾ニテ沙石ヲハタキ飛事數尺ナリ因テ此名得ルト云 西国方言 ウチワエビ

   *

とある。「宅間蝦」とは思われるが、恐らく人名であろうが、由来は確定出来ない。知られた人物では相模と縁の深い人物は、鎌倉時代に鎌倉に住んだ仏師として知られた宅間法眼がおり、南北朝期では関東管領上杉憲能が鎌倉宅間谷に住んで宅間姓を名乗っている。

「千人擘」「せんにんばく」か。「擘」は「裂く・つんざく」であるから、千人で掛からないと裂けないほど堅いという謂いであろう。

「千人揑」「せんにんでつ」か。「捏」は「こねる・作る・ひねる」で、前と同じで解体・調理の困難を謂うのであろう。

「ヒツハタキ」静岡県沼津市静浦で「ヒッパタキ」の地方名が現存することが、いつもお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のウチワエビの解説で確認出来る。

「栗本翁」医師にして本草家の博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)。朝鮮人参の普及で知られる医師にして本草学者であった田村藍水の次男。幕府医官栗本昌友の養子となり、寛政元(一七八九)年に奥医師となり、文政四(一八二一)年には法印に昇った。医学館で本草学を教授する傍ら、虫・魚・貝類などを精力的に研究した。通称、瑞見。私のサイトの「栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」の水族パートの原文+訓読+原画画像+オリジナル注)」四パートブログ・カテゴリ「栗本丹洲」をも見られたい。

「チカラヱビ」確認出来ないが、腑に落ちる異名ではある。

「典籍便覧」明代の范泓(はんおう)撰になる本草物産名の類纂書。

「蟹譜」南宋の傅肱(ふこう)撰の蟹の博物誌であるが、複数の原本を調べたが、本記載を確認出来なかった。従って「※江(ホウコウ)」(「※」=「虫」+「手」)も「チカラ蟹」(「力蟹」であろう)不明である。

「玄達」「松岡玄達」本書の筆者毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の前代の、儒者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達、通称は恕庵、字は成章、号は怡顔斎(いがんさい)、苟完居(こうかんきょ)など。門弟にかの小野蘭山がいる。一八歳で、浅井周伯の私塾養志堂に入り、東洋医学を学びながら、儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に学んだ。しかし中国の詩編「詩経」に出てくる動植物の名の理解に苦しみ、本草学者稲生若水の門に入り、本草学を学んだ。この時から本草学に傾倒し始め、後に自身も本草学を講じるようになった。享保元(一七一六)年に徳川吉宗が第八代目将軍就任し、「享保の改革」を敢行する中で、薬事に関する改革を始めた。この時はまだ、江戸幕府開幕後も日本の文化中心地は京都であり、本草学の中心地も、また、京都にあった。そのため、享保六(一七二一)年に、江戸の本草学発展を目して、恕庵ら、京都の本草学者が幕府からの招聘を受け、京から幕府の江戸医学館に招かれた。恕庵は、集められた本草の薬事検査をする「和薬改会所(わやくしゅあらためかいしょ)」に加わり、検査法を検討し、また、飢饉のための対策や殖産産業に寄与し、日本の本草学を発展させた。師稲生若水は中国の本草学を日本の本草学へと改良してゆく草分けとして、以後の本草学を発展させる人材を輩出したが、恕庵の本草学は、それまでの薬学に重きを置くに留まらず、積極的に、多種多様の動植物・鉱物を収集し、博物学的なものへと発展させていった。それは、門弟小野蘭山が築くところの本邦のオリジナルな本草学や、丹羽正伯の検査基準「和薬種六ヶ條」へと結実していくことになった(以上はウィキの「松岡恕庵」に拠った)。

「两名に物あること」よく意味が判らない。一種に対して二つの名があること、の意にしては、異名とすれば、それを「猶ほ、考へ糺すべきのみ」と問題にすること自身がよく判らない。或いは、松岡が、蟹だけではなく、蝦にも別なそれがいるというのは、ちょっと考証してみなくてはならない、安易に信じられない、と、ここで早くも(後述)松岡批判を始めているのかも知れない。

「ヲクリカンキリ」漢字当て字で「於久里加牟木里」。これは現在はザリガニ類(抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目 Astacidea)の胃石(胃の中にできる病変としての結石)であったとされ、炭酸カルシウム・リン酸カルシウム及びキチン質からなり、胃酸中和剤とされ、かのジーボルト(Philipp Franz von Siebold)がよく用いた薬とされている。これについては、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕姑(しやこ しやくなげ)」(エビ亜綱シャコ下綱シャコ目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria)で、迂遠にして詳細な考証をしてあるので是非、参照されたい。

「ザリ蟹」「ザリガニ」で、十脚目抱卵亜目ザリガニ下目 Astacidea のザリガニ類。寺島は「鰕姑(しやこ しやくなげ)」で、
   *
於久里加牟木里(おくりかんきり) 鰕姑頭中の小石【鮸(にべ)の頭の石のごときか。】。能く五淋を治す、小便を通ず、蠻人の秘藥なり。然れども、未だ石有る者を見ず。
   *
てなことを言っている。因みに「鮸の頭の石」は耳石(じせき)である(最終注参照)。

「蝲蛄(ラツコ)石」上記リンク先の私の注の考証を見られたいが、そこで示したように、これは「藥品應手錄」(ジーボルトが門人高良斎(こうりょうさい:ウィキの「高良斎」を参照されたい)に和訳させて印刷し、訪問した地での医師への手土産としたものと推測される書。ヨーロッパで常用されている薬草と、その代用品に多少の新薬を収載しているとされる)に掲載されている薬剤(生薬)名である。

「眞(しん)たり」それが本物の「ヲクリカンキリ」である、の意で訓じた。

「けわし」「嶮し」で、「激しい」の意であろうが、歴史的仮名遣では「けはし」である。

「福州府志」一五一九年に成立した明国福州府(現在の福建省福州市)一帯の地誌。

「酉陽雜爼」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。巻十七の「廣動植之二」に、

   *

千人捏。形似蟹、大如錢。殼甚固、壯夫極力捏之不死。俗言千人捏不死、因名焉。

(「千人捏(せんにんでつ)」。形、蟹に似て、大いさ錢(ぜに)のごとし。殼、甚だ固く、壯夫、力を極めて之れを捏(ひ)ねるも、死なず。俗に、「千人、捏ねるも、死なず」と言ひ、因りて名づく。)

   *

とある。

「沖津の大礒」沿岸からやや離れた岩礁性海底。

「僧の帽」臨済宗などで被る観音帽子(かんのんもうす)や燕尾帽子(えんびもうす)は、頭の部分が尖っているが、それを横から見ると、その部分が横に広く、しかも垂れ(左右にある)が下に延びて、本種の形に似ている。因みに、心臓の僧帽弁はローマ法王や枢機卿が被るミトラ mitre と呼ばれる帽子に似ていることに由来するもので、近代の訳語である。

「狹長(せなが)の二種あり」「矮-短(ひく)きなるもの在り」「狹長」は幅が広いものと狭いものと、短いものと長いものがあり、しかも小さくてより平たいものがいる、の意と思われるが、これは前掲二種の別と、個体差を言ったものと思われる。

『外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、即ち、此の頭骨なり』前に述べた通り、誤り。梅園は松岡が不詳の「サク蟹」の頭骨の誤りだと言っているのを引用しておいて、最後にそれを否定し、本種の頭骨がやっぱりそれなのだ、と敢えて断定して言っていることになる。江戸の本草学ではしばしば見られる先人の部分的な貶(けな)しである(せめても梅園には「サク蟹」の今に生きる和名の一つも言って否定して欲しかったものだ)。しかし、大体が、この「頭骨」という言い方自体、外骨格である蟹類では何やらん、怪しい感じがするのである。因みに、読者の中には耳石のことではないか? と思われた方もいるかと思うが、残念ながら甲殻類には耳石は発生しないのである。]

2020/03/11

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十 猪に遇つた話


     十 猪 に 遇 つ た 話

 猪が人の近づいたのも知らずに、大鼾[やぶちゃん注:「おほいびき」。]で寢てゐた話は、よく耳にする事である。七、八年前、アケビを採りに行つて、猪に遇つたと言ふ女から、當時の狀況を聽いた事があつた。山國とは言つても、狩人以外で、猪を目のあたり見た者は、至つて尠なかつたのである。村のヂベツトーの山は、深い窪で底に澤が一筋流れてゐた。その澤を跨いで茂つたボローの一ツに、アケビが鈴生りに下つて居たさうである。女は萱を押分けて近づいて、今一息で其下へ出られると思つて、ヒヨイと前を見ると、萱の葉がおそろしく寢たまん中に、眞つ黑い獸が寢て居た。ハツと思つた時ゴロゴロと猫のやうな鼾が聞こえたさうである。どんな恰好で、どんな風に寢て居たかも、一切夢中で遁げて來たと言うた。アケビの方へ目を奪られて[やぶちゃん注:「とられて」。]、傍へ行く迄氣がつかなんだゞけに、驚き方も激しかつたのである。それにしても、紫色に熟れたアケビと、枯萱の中に眠る猪の對照は、思ひがけぬ繪であつた。その上アケビの枝にいろいろの鳥の群を配したなら、一段美しい畫面が展けた[やぶちゃん注:「ひらけた」。]らうと思ふ。

[やぶちゃん注:ここは是非とも早川孝太郎氏にその絵を想像で描いて貰いたかった。残念。

「アケビ」キンポウゲ目アケビ科アケビ亜科アケビ連アケビ属アケビ Akebia quinata。漢字表記は「木通」「通草」。

「ヂベツトーの山」不詳。「地別当」(じべっとう)という地名が福岡県に現存する。或いは、江戸以前の神社の別当寺の領地であったか? 先行する「三州橫山話」の早川氏の手書きの「橫山略圖」を見ると、中央の「字」(あざ)「相知ノ入」の左に『(ヂベツトー)』も見出せるから、この中央附近のピークであろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。また、三河方言を見ると、「べっとう」は「別等」で「びり・最下位」の意があるから、この周辺地区で一番低い山の謂いかも知れない。

「ボロー」複数回既出既注。雑木の茂み・藪のこと。向後は注さないのでよく覚えておいて頂きたい。]

 繪にはならなんだが、つぎの話も數尺の距離から猪を觀察した、耳新しい實驗談である。

 村の某の男であつた。鳳來寺村分垂(ぶんだれ)の山中で、一人炭を燒いてゐると、午過ぎ頃とも思ふ時分、何やら近くの齒朶を押分けて山を降つて來る物があつた。木間からソツと透して見ると、今しも一頭の巨猪[やぶちゃん注:「おほじし」。]が、靜かに炭竈[やぶちゃん注:「すみがま」。]の方へ近づきつゝあつたと言ふ。突差[やぶちゃん注:「とつさ(とっさ)」。]の事で、逃げる間も隱れる隙も無い、飛び掛つたらそれ迄力の限り撲たうと肚を据ゑて、炭木をかたく握つて居たさうである。然し猪は男を見ても格別驚いた樣子もなく、靜かに炭竃の傍を通り拔けて、下へ向けて降つて行つたと言ふ。事實は只之だけであつたが、某の說明に據るとその猪が劫を經た恐ろしい古猪だつた。毛並みは灰ぼ色が殆ど白くなつて、背から胸へかけて、松脂でも塗つて居るらしく、觸つては見なんだが、カチカチと丸で岩を被つたやうであつたと言ふ。何だか講談に出て來る狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]のやうで、遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]信じ難い氣もされるが、實驗者はかたく信じて疑はなんだ。猪が松脂を塗る話は他にもある。而も此話には、その猪を只物でなくするに充分な傍證も絡んで居た。數日前から其方此方[やぶちゃん注:「そつちこつち」。]の山で、幾組もの狩人を惱まして、彈丸(たま)を三ツ四ツ喰つて[やぶちゃん注:「くらつて」。]居ながら、どうしても捕る事の出來ぬ出沒自在の古猪であつた。多くの點がそれに符合して居たのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村分垂(ぶんだれ)の山」現在、新城市門谷下分垂の地名があるから、この地区か(グーグル・マップ・データ航空写真)或いはその周辺のピークと思われる。

「灰ぼ色」広い地域で灰色の方言として使用される。

「松脂でも塗つて居るらしく」猪自身が自分の身に自発的に身動きが出来なくなるような粘着性の強い松脂(まつやに)を塗るなどということはあり得ないと思う。]

 その後、その猪は如何にしたか消息は遂に聞かなんだが、恐らく擊たれたにしても、只の殺され方はしなかつたであらう。一方話の方は、實驗者が平素無口な實直者だつたゞけ、そのまゝ信じられて、次第に松脂のやうな箔を附けて、永く語り傳へられるであらう。

 山深い土地に住んで、猪とは絕えず交涉を有つた人達でも、冷靜な態度で觀察して居た者は至つて尠なかつた。自然のまゝの存在には、舁がれてゆく骸などとは異つて、威嚴と言ふか、兎に角犯し難い或物を備へて居た事は事實である。その爲めか多くは見た目以上に、語らうとした點もあつたらうと思ふ。狩人の多くが已にさうであつた。

 

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 九 猪の跡

 

     九 猪  の  跡

 狩人の話では、猪は夏から秋の初めにかけて、カリに着くと謂ふ。カリは峯近い萱場(かやんば)ボローなどの、稍平坦な地を撰んで、猪が作つた寢床であつた。地面を長方形に穿つて、その中にはゴ(落ち葉)や枯れ草を敷ぎ、上には稍丈の長い萱の類を橋渡しに覆つてあつた。出入りは一方の端からするとも謂うた。カリは又山の中腹にもあつたが、窪中などの濕地は避けたのである。虻や蚊の襲來を防ぐ爲と謂うたが、子も又其處で育てたので、生れて間もない子猪が、カリの近くに斃れて居る事があるといふ。未だ肌に毛を生じない時、蚊に刺殺されるのだと謂ふ。

[やぶちゃん注:「カリ」漢字表記は不詳だが、出産・子育て用の巣と思われる。グーグル画像検索「イノシシ 巣」で、この「カリ」であるかどうかは判らぬが、そうした時期的営巣が見られることが判る。或いは、ずっと居続ける巣ではないことから、「假(仮)」かも知れぬ。

「萱場(かやんば)ボロー」既出既注。次段落でも説明されるが、「ボロー」は叢や藪のことである。改訂本では早川氏は『籔叢(ボロー)』と漢字を当てておられる。

「刺殺される」「さしころされる」。]

 萱場は文字どおり萱立場で、六尺以上にも伸びた萱が密生して、足を踏入れる事も出來ぬやうな處が、自分の村などにも未だあつた。栃の類が疎らに立つて居る位で、殆ど他の植物は生える餘地がなかつた。間々虎杖[やぶちゃん注:「いたどり」。]が混つて居た位のものである。ボローは山にはよくある人間の手の未だ及ばぬ一廓で、茱萸[やぶちゃん注:「ぐみ」。]、あけび、山葡萄、其他名も判らぬ蔓科の植物が、互ひに絡み合つて、欝然と塚のやうになつて居た。日光も中へは碌々通さぬ程であつた。秋になるとそれ等の實が一時に色づいて、鳥の群なども集まつた。自然の惠の豐かな處で、狸などの穴も、さうしたボローの中が多かつた。どちらも屈竟な猪の潜れ場所であつた。

[やぶちゃん注:「潜れ場所」は「かくればしよ」と読んでいるか。]

 ノタ(ぬた)を打つた跡にも、狩人はまた注意を怠なか中つた。猪がノタを打つのは窪合いなどの踏んでも直ぐ水の湧く濕地で、グシヤツタレと呼んだ程、水の多いジメジメした處であつた。地形から言ふと澤谷の奧の行詰りであつた。或時村のネブツブの山で跡を見た事がある。子供の時で、判然記憶せぬが、何でも一ヶ所ひどくこね返して、田植の植代[やぶちゃん注:「うゑしろ」。]を搔いたやうになつて、上に澄んだ水が溜つて居たと思ふ。その聽いた話だつたが、猪は體が熱(ほて)つて熱(ほて)つて仕方がないので、時折來ては體を漬けると謂ふ。

[やぶちゃん注:「ネブツブの山」サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」の「三州横山話」(早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集)の早川氏自筆の「橫山略圖」(JPG)を見ると、中央上部に『(ネブツフ)』とある。どうもその記載の横のピーク若しくはその背後(東北)の鞍部を指すらしい。この辺り(ピーク位置に地区名「北沢」がある。グーグル・マップ・データ航空写真)と推定される。]

 山の窪中には、猪がノタを打ちかけた跡と言ふのがあつた。兩方から谷が迫つた中の、纔かに徑を通じた所などで、一寸進む事も出來ぬ程に踏荒して、肢跡[やぶちゃん注:「あしあと」。]の一ツ一ツに水が溢れて居た。まだ昨夜出たばかりだに、其處いらに猪が居るなどと言うた。肢跡は、蹄の先が尖つた物程若猪で、圓みが深い程古猪と謂ふ。

 或は又山のツルネなどの、平坦な草刈り場を畑のやうに掘返した跡があつた。蚯蚓や地蟲を搜したのであるが、シヤベルでゞもやつたやうに、一塊りづゝ土が穿つてあつた。さうかと思ふと、木の根を掘り石を分けて、自然薯を掘つた。折角秋に目標の麥を播いて置いたに、猪の奴に先を越されたなどと、自然薯掘りが口惜しがつて居た。山の栗などもさうであつた。猪の荒した後には、殆ど一つとして殘つては居なかつた。悉く落葉を分けて搜し出してしまふ。時偶あつたと思へば、中の實だけが旨くゑぐり取つてあつた。

[やぶちゃん注:「ツルネ」小学館「日本国語大辞典」に「蔓畝」で「つるね」と見出し語し、『蔓のように長く伸びて連なった小高いところ。峰つづき』とあり、方言のとして『山の峰。尾根』として採集地を新潟・長野・山梨・静岡県磐田郡など広範囲に挙げてある。]

 昔は床下のゴツトウ(地蟲の類にて多くはセミの幼蟲)まで掘りに來たと言ふ。朝起きて見たら背戶口にえらい穴が明けてあつたなどと言ふた。山澤に出て蟹をあさり、又蛇も食つたと言ふから、何でもござれ食はぬ物なしの猪だつたのである。

[やぶちゃん注:「ゴツトウ」語源や漢字は不詳。改訂本では早川氏は『地蟲(ごつとう)』の漢字とひらがなルビを振って、しかし丸括弧注記をカットしておられる。地虫類の頭部が丸いことから、「兀頭」の字を私は夢想した。]

 

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 笛フキタイ (フエフキダイ)

 

笛フキタイ

 

Huehukidai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。画像が分断されているため(ここに体幹の殆どがあり、前のページに後部尾部)、合成したが、それぞれの画像の撮り方が均一ではないために、微妙にズレが生じている。口辺上部の鼻部の附近が膨らんでいるのはやや気になるものの、正直、前回のそれよりも遙かに条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus と同定し得る体形・体色である。]

土岐哀果 (遺稿歌文集「悲しき玩具」跋文) 附・同書奥附(画像) /「悲しき玩具」全電子化注~了

 

[やぶちゃん注:「悲しき玩具」の書誌については、「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。

 本遺稿歌文集「悲しき玩具」の出版に尽力し、それを主導した歌人で国語学者の土岐哀果(善麿)(明治一八(一八八五)年~昭和五五(一九八〇)年)は、ウィキの「土岐善麿」によれば、『東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院、等光寺に生まれる。等光寺は美濃国の守護大名土岐頼芸の遺児・大圓が創建した寺と伝えられる』。『東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ』。『卒業の後、読売新聞記者となった』明治四三(一九一〇)年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年』、『啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの』、明治四五(一九一二)年四月十三日に啄木が死去してしまう。しかし、『啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった』大正六(一九一七)年には『東京奠都』五十『年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し』、『予算オーバーながらも大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている』。翌大正七年には朝日新聞社に転じたが、『自由主義者として非難され』、昭和一五(一九四〇)年に『退社し、戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組』んだ。戦後、『再び歌作に励み』、昭和二一(一九四六)年には『新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い』。『第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている』とある。

 底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。

 跋文には表題はなく、署名のみが底本では下二字上げインデントで記されてあるだけである。跋文本文は謙虚な有意なポイント落ちで、署名さえも遺稿歌文集「悲しき玩具」本文活字より心持ち小さい。ここでは総て同ポイントで示した。行頭に一字空けを施さないのはママ。]

 

         土  岐  哀  果

石川は遂に死んだ。それは明治四十五年四月十三日の午前九時三十分であった。

その四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであった。で、すぐさま東雲堂へ行つて、やっと話がまとまつた。

石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。

しばらくして、「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいゝのだらうな、訂さなくちやならないところもある、癒つたらおれが整理する」と言つた。その聲は、かすれて聞きとりにくかつた。

「それでもいゝが、東雲堂へはすぐ渡すといつておいた」と言ふと、「さうか」と、しばらく目を閉ぢて、無言であつた。

やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとつてくれ、――その陰氣な、」とすこし上を向いた。ひどく瘦せたなアと、その時僕はおもつた。

「どのくらゐある?」と石川は節子さんに訊いた。一頁に四首つゝ五十頁あるから四五の二百首ばかりだと答へると、「どれ」と、石川は、灰色のラシヤ紙の表紙をつけた中版のノートをうけとつて、ところどころ披いたが、「さうか。では、萬事よろしくたのむ。」と言つて、それを僕に渡した。

それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし、笑ひながら語つた。

かへりがけに、石川は、襖を閉めかけた僕を「おい」と呼びとめた。立つたまま「何だい」と訊くと、「おい、これからも、たのむぞ」と言つた。

これが僕の石川に物をいはれた最後であつた。

石川は死ぬ、さうは思つてゐたが、いよいよ死んで、あとの事を僕がするとなると、實に變な氣がする。

石川について、言ふとなると、あれもこれも言はなければならない。しかし、まだあまり言ひたくない。もつと、じつとだまつて、かんがへてゐたい。實際、石川の、二十八年の一生をかんがへるには、僕の今までがあまりに貧弱に思はれてならないのである。

しかし、この歌集のことについては、も少し書いておく必要がある。

これに收めたのは、大てい雜誌や新聞に掲げたものである。しかし、こゝにはすべて「陰氣」なノートに依つた。順序、句讀、行の立て方、字を下げたところ、すべてノートのままである。たゞ最初に二首は、その後帋片[やぶちゃん注:「しへん」。紙片。]に書いてあつたのを發見したから、それを入れたのである。第九十頁に一首空けてあるが、ノートに、あすこで頁が更めてあるから、それもそのまゝにした。生きてゐたら、訂したいところもあるだらうが、今では、何とも仕やうがない。

それから、「一利己主義者と友人との對話」は創作の第九號(四十三年十一月發行)に揭げられたもの、「歌のいろいろ」は朝日歌壇を選んでゐた時、(四十三年十二月前後)東京朝日新聞に連載したものである。この二つを歌集の後へ附けることは、石川も承諾したことである。

表題は、ノートにの第一頁に「一握の砂以後明治四十三年十一月末より」と書いてあるから、それをそのまゝ表題としたいと思つたが、それだと「一握の砂」とまぎらわはしくて困ると東雲堂でいふから、これは止むをえず、感想の最後に「歌は私の悲しい玩具である」とあるのをとつてそれを表題にした。これは節子さんにも傳へておいた。あの時、何とするか訊いておけばよかつたのであるが、あの寢姿を前にして、全快後の計畫を話されてはもう、そんなことを訊けなかつた。(四十五年六月九日)

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附となるが、底本からトリミングして画像で示す。]

 

Okuduke_20200311142901

 

[やぶちゃん注:これを以って石川啄木遺稿歌文集「悲しき玩具」全電子化注を終わる。]

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 對話と感想 歌のいろいろ(感想) / 「悲し玩具」本文パート~了

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ。満二十六歳で没した)の遺構歌文集にして第二歌集である「悲しき玩具」の初版は、彼の逝去から二ヶ月後の明治四五(一九一二)年六月二十日に刊行された(発行は二年前の第一歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月一日発行。定価五十銭)と同じ東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店)。歌集パートは総歌数百九十四首で、その後に「對話と感想」というパートが設けられ、「一利己主義者と友人との對話」とこの「歌のいろいろ」(「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」。]目次では孰れにも後に『(感想)』と附す)の二篇が載る。

 本篇は明治四三(一九一〇)年十二月十日・十二日・十三日・十八日・二十日附『東京朝日新聞』に五回(底本では全四章から成るが、これは本書に所収するに際して編集過程で一部の結合が行われたためである。そこは注を附した)に亙って掲載された(署名は「石川生」)のを初出とする、「朝日歌壇」への投稿作についての感想を枕とした歌論である。筑摩版全集年譜(岩城之徳氏編)によれば、この年、啄木は九月十五日に『東京朝日新聞』に設けられた「朝日歌壇」の選者に抜擢され(社会部長渋川柳次郎の厚意に依る)、翌年二月二十八日まで八十二回に亙り、『投稿者百八十三名、総歌数は五百六十八首に及んだ』とある。連載に先立つ十二月一日には待望の自身の処女歌集「一握の砂」が刊行されている(但し、その間には「大逆事件」の発覚、長男真一の誕生と死(十月二十七日に生後僅か二十三日目にして亡くなった)といった啄木に激しい衝撃を与えた出来事が挟まる)。

 底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。一部の不審な箇所は筑摩版全集で校合した。なお、加工用データとして「青空文庫」のこちらのデータ(底本「啄木全集 第十卷」昭和三六(一九六一)年岩波書店刊。正字正仮名であるが、一部表記に誤りや問題がある)を使用させて戴いた(私の底本に比して遙かにルビが少なく、本文に複数個所、底本はもとより筑摩版全集(初出底本)とも異なる部分があった)。踊り字「く」「〲」は正字化した。底本の傍点「△」は太字下線で、傍点「ヽ」は太字で示した。

 初版本の書誌やその出版に係わる啄木を中心とした経緯等は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を見られたい。

 ルビがかなり五月蠅いので、底本通りに電子化した後に煩を厭わず「■読み除去版」を作成して附した(読みに係わる私の注の一部を除去した)。

 

 

   歌のいろいろ

        (一)

○日每(ひごと)に集つて來る投書の歌(うた)を讀(よ)んでゐて、ひよいと妙(めう)な事を考へさせられることがある。――此處(こゝ)に作者その人に差障(さしさは)りを及ぼさない範圍(はんゐ)に於て一二の例を擧げて見るならば、此頃(このごろ)になつて漸(やうや)く手を着けた十月中(ちう)到着(たうちやく)の分の中に、神田の某君(なにがしくん)といふ人(ひと)の半紙二(ふた)つ折(をり)へ橫に二十首の歌を書(か)いて、『我目下の境遇』と題を付けたのがあつた。

○讀(よ)んでゐて私は不思議(ふしぎ)に思つた。それは歌の上手(じやうず)な爲(ため)ではない。歌は字と共(とも)に寧(むし)ろ拙(まづ)かつた。又(また)その歌つてある事(こと)の特に珍(めづ)らしい爲でもなかつた。私を不思議(ふしぎ)に思はせたのは、脫字(だつじ)の多い事(こと)である。誤字(ごじ)や假名違(かなちが)ひは何百といふ投書家の中(うち)に隨分やる人(ひと)がある。寧(むし)ろ驚く位(くらゐ)ある、然し恁麼(こんな)に脫字(だつじ)の多(おほ)いのは滅多にない。要(い)らぬ事(こと)とは思ひながら數へてみると、二十首の中に七箇所の脫字(だつじ)があつた。三首に一箇所(かしよ)の割合である。

[やぶちゃん注:以上がひどく気になったのは、啄木の東京朝日新聞社に於ける正規職が校正係であったからである。]

○歌つてある歌には、母が病氣になつて秋風が吹(ふ)いて來(き)たといふのがあつた。僻心(ひがみごゝろ)を起すのは惡い惡いと思ひながら何時(いつ)しか夫(それ)が癖(くせ)になつたといふのがあつた。十八の歲(とし)から生活の苦しみを知(し)つたといふのがあつた。安(やす)らかに眠つてゐる母の寢顏を見れば淚(なみだ)が流れるといふのがあつた。弟(おとゝ)の無邪氣(むじやき)なのを見(み)て傷(いた)んでゐる歌もあつた。金(かね)といふものに數々(かずかず)の怨(うら)みを言つてゐるのもあつた。終日(しうじつ)の仕事の疲れといふことを歌つたのもあつた。

[やぶちゃん注:第一文の句点がないのは、行末で版組の関係上からと判断し、筑摩版全集で補った。]

○某君(なにがしくん)は一體(たい)に粗忽(そゝつか)しい人なのだらうか?小學校にゐた頃から脫字(だつじ)をしたり計數(けいすう)を間違つたり、忘れ物をする癖があつた人なのだらうか?――恁麼事(こんなこと)を問うてみるからが既に勝手(かつて)な、作者に對して失禮な推量で、隨(したが)つてその答へも亦(また)勝手(かつて)な推量に過ぎないのだが、私には何うもさうは思へなかつた。進むべき路を進みかねて境遇(きやうぐう)の犧牲(ぎせい)となつた人の、その心に消しがたき不平が有れば有る程、元氣(げんき)も顏色も人先(ひとさき)に衰(おとろ)へて、幸運な人がこれから初めて世の中に打つて出ようといふ歲頃(としごろ)に、早(はや)く既(すで)に醫(い)しがたき神經衰弱に陷(おちい)つてゐる例は、私の知つてゐる範圍にも二人(ふたり)や三人(にん)ではない。私は「十八の歲(とし)から生活の苦しみを知つた人」と「脫字(だつじ)を多くする人(ひと)」とを別々に離して考へることは出來なかつた。

[やぶちゃん注:「だらうか?」の後に字空けがないのはママ。

「醫(い)しがたき」「癒(いや)しがたき」に同じい。]

○某君(なにがしくん)のこの投書は、多分何か急がしい事のある日か、心の落付かぬ程嬉しい事でもある日に書いたので、斯う脫字(だつじ)が多かつたのだらう。さうだらうと私は思ふ。然し若し此處に私の勝手に想像(さうざう)したやうな人があつて、某君(なにがしくん)の歌つたやうな事を誰(たれ)かの前に訴へたとしたならば、その人は果して何と答へるだらうか。

○私は色々の場合(ばあひ)、色々の人のそれに對する答へを想像(さうざく)して見(み)た。それは皆如何にも尤(もつと)もな事ばかりであつた。然しそれらの叱咤(しつた)それらの激勵、それらの同情は果(はた)して何れだけ[やぶちゃん注:「どれだけ」。]その不幸なる靑年の境遇を變へてくれるだらうか。のみならず私は又次のやうな事も考へなければならなかつた。二十首(しゆ)の歌に七箇所(かしよ)の脫字(だつじ)をする程頭の惡くなつてゐる人(ひと)ならば、その平生の仕事にも「脫字」が有るに違ひない。その處世(しよせい)の術(じゆつ)にも「脫字(だつじ)」があるに違ひない。――私の心はいつか又、今の諸々(もろもろ)の美しい制度、美しい道德をその儘(まゝ)長(なが)く我々の子孫に傳へる爲には、何(ど)れだけの夥(おびただ)しい犧牲を作(つく)らねばならぬかといふ事に移つて行(い)つた。さうして沁々しみじみした心持になつて次の投書の封を切つた。

        (二)

大分(だいぶ)前の事である。茨城(いばらき)だつたか千葉(ちば)だつたか乃至(ないし)は又群馬(ぐんま)の方だつたか何しろ東京(とうきやう)から餘り遠くない縣の何とか(こほり)郡何とか村(むら)小學校内某(せうがくかうないなにがし)といふ人から歌が來た。何日か經つて其(そ)の歌の中の何首(なんしゆ)かが新聞に載(の)つた。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙を添(そ)へた二度目の投書を受け取つた。

其の手紙は候文(さふらふぶん)と普通文(ふつうぶん)とを捏(こ)ね交ぜたやうな文體で先づ自分が「憐れなる片田舍の小學敎師」であるといふ事から書き起してあつた。さうして自分が自分の職務に對して兎角興味を有ち得ない事、誰一人趣味を解する者なき片田舍(かたゐなか)の味氣(あぢけ)ない事(こと)、さうしてる間(うち)に豫々(かねがね)愛讀してゐる朝日新聞の歌壇(かだん)の設けられたので空谷の跫音と思(おも)つたといふ事(こと)、近頃は新聞が着くと先づ第一に歌壇(かだん)を見るといふ事、就いては今後自分も全力を擧げて歌を硏究する積(つもり)だから宜しく賴む。今日から每日必ず一通づゝ投書するといふ事が書いてあつた。

[やぶちゃん注:「空谷の跫音」人気のない寂しい谷底に懐かしい人の足音を聴いたような気持ちを示す。]

○此の手紙が宛名人(あてなにん)たる私の心に惹起(ひきおこ)した結果は、蓋(けだ)し某君(なにがしくん)の夢にも想はなかつた所であらうと思(おも)ふ。何故なれば、私はこれを讀んでしまつた時、私の心に明(あきら)かに一種の反感(はんかん)の起つてゐる事を發見したからである。詩や歌や乃至(ないし)は其の外の文學にたづさはる事(こと)を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段(かくだん)に貴い事のやうに思ふ迷信(めいしん)――それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或反感(はんかん)を呼び起さずに濟(す)んだことはない。「歌を作ることを何か偉(えら)い事(こと)でもするやうに思つてる、莫迦(ばか)な奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程(なるほど)自(みづか)ら言ふ如く憐れなる小學敎師に違ひないと思つた。手紙には假名違(かなちが)ひも文法(ぶんはふ)の違ひもあつた。

[やぶちゃん注:「乃至(ないし)」底本ではルビは「ない」のみである。これは「乃」で改ページになっているためのルビ脱字と判断されるので、かく訂した。

「文法(ぶんはふ)」の読みはママ。正確には「ぶんぱふ」。全集を見ると、初出の「(二)」はここで終わっていて、以下は「(三)」となっている。]

○然しその反感(はんかん)も直ぐと引込まねばならなかつた。「羨(うらや)ましい人だ。」といふやうな感じが輕く橫合(よこあひ)から流れて來た爲めである。此の人は自分で自分を「憐(あは)れなる」と呼んでゐるが、如何に憐(あは)れで、如何にして憐(あは)れであるかに就いて眞面目に考へたことのない人、寧(むし)ろさういふ考へ方をしない質(たち)の人であることは、自分が不滿足(ふまんぞく)なる境遇(きやうぐう)に在りながら全力を擧げて歌を硏究しようなどと言(い)つてゐる事(こと)、しかも其歌の極(ごく)平凡(へいぼん)な叙事叙景の歌に過ぎない事(こと)、さうして他の營々(えいえい)として刻苦(こくく)してゐる村人(むらびと)を趣味を解せぬ者と嘲(あざけ)つて僅に喜んでゐるらしい事(こと)などに依つて解つた。己(おのれ)の爲(す)る事、言ふ事、考へる事に對して、それを爲(し)ながら、言ひながら、考へながら常に一々(いちいち)反省(はんせい)せずにゐられぬ心、何事にまれ正面(まこと)に其問題に立向つて底の底まで究(きは)めようとせずにゐられぬ心、日每々々自分自身からも世の中からも色々の不合理(ふがうり)と矛盾(むじゆん)とを發見して、さうして其(そ)の發見によつて却(かへつ)て益自分自身の生活に不合理と矛盾とを深(ふか)くして行(ゆ)く心――さういふ心を持たぬ人に對する羨みの感は私のよく經驗する所のものであつた。

[やぶちゃん注:「營々として」せっせと休みなく励んで。

「正面(まこと)」二字に対するルビ。但し、筑摩版全集を見ると、『まとも』というルビが振られてあり、その方がこの文脈ではよりよい読みという気はする。

「せずにゐられぬ心、」底本には最後の読点はないが、やはり「心」が行末にあることから版組上のカットと断じ、全集で補った。

「益」「ますます」。]

○私はとある田舍(ゐなか)の小學校の宿直室にごろごろしてゐる一人の年若(としわか)き准訓導(じゆんくんだう)を想像(さうざう)して見た。その人は眞の人を怒らせるやうな惡口を一つも胸に蓄(たくは)へてゐない人である。漫然として敎科書にある丈(だけ)の字句(じく)を生徒に敎へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認(ぜにん)し、漫然(まんぜん)として今後大に歌を作らうと思つてる人(ひと)である。未だ甞(かつ)て自分の心内乃至身邊(しんへん)に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日每に新聞を讀みながらも、我々の心を後から後からと急がせて、日每に新しく展開(てんかい)して來(く)る時代の眞相に對して何(なん)の切實(せつじつ)な興味(きやうみ)をも有(も)つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私(わたし)のそれよりも屹度多いだらうと思つた。

[やぶちゃん注:「見たことのない人である。」底本最後の句点なし。行末で、同前の推定から全集で補った。]

○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒(ふうとう)に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に每日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。或時は投凾の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緖(しよ)に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力(どりよく)に何時まで飽きずにゐられるかに興味を有つて、それとはなしに每日待つてゐた。

○それが確(たしか)七日か八日の間(あひだ)續(つゞ)いた。或日私は、「とうとう飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君(なにがしくん)の墨の薄(うす)い肩上(かたあが)りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂(いはゆる)歌になりそうな景物(けいぶつ)を漫然(まんぜん)と三十一字(じ)の形(かたち)に表(あらは)しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。

○私はこの事を書いて來(き)て、其後某君(ないがしくん)は何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばたゞ文藝欄や歌壇や小說許りに興味を有つて讀んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或(ある)動(うご)かすべからざる隱れたる事實を承認する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌になるであらうと。

[やぶちゃん注:「自からにして」「おのづからにして」。同前で全集では以下は初出では「(四)」である。]

        (三)

○うつかりしながら家の前まで步いて來た時、出し拔けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚(びつくり)した。こん畜生!」と思はず知らず口に出す――といふやうな例はよく有ることだ。下らない駄洒落(だじやれ)を言ふやうだが、人は吃驚(びつくり)すると惡口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチで可いではないか――若し必ず何とか言はなければならぬのならば。

○土岐哀果君が十一月の「創作(さうさく)」に發表した三十何首(なんしゆ)の歌は、この人がこれまで人の褒貶(ほうへん)を度外(どぐわい)に置いて一人で開拓(かいたく)して來た新しい畑に、漸く樂い[やぶちゃん注:「たのしい」。]秋(あき)の近づいて來(き)てゐることを思はせるものであつた。その中に、

    燒(やけ)あとの煉瓦の上に

    syôben をすればしみじみ

    秋の氣がする

といふ一首(しゆ)があつた。好い歌だと私は思つた。(小便といふ言葉だけを態々(わざわざ)羅馬字(ローマじ)で書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在來の漢字で書いた時に伴つて來る惡い連想を拒(こば)む爲であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。)

○さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雜誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風を罵(のゝ)しつてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた。勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度讀み返しても惡い歌にはならない。評者は何故この鋭い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度(きつと)歌といふものに就いて或(ある)狹(せま)い既成槪念を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な槪念を形成(かたちづく)つてさうしてそれに捉(とら)はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間(すきま)から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的(こうあんてき)な既成槪念の袖(そで)にむづと嚙み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとて何も吃驚するには當らないではないか。

[やぶちゃん注:「苟守的」この場合の「苟」は「濫(みだ)りに・闇雲に」の意であろう。頑ななまでに保守的であること。]

○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺(さ)めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤(もつとも)もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀(ごくま)れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言ひ換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌として存在の權利を有つてゐない事は自分でも知つてゐる。

[やぶちゃん注:掲げた一首は『創作』同年十月号に発表されたもので、後の歌集「一握の砂」の第一パート「我を愛する歌」の掉尾にも配された。その意味や背景については私の『石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)』の私の注を参照されたい。]

○故獨步は嘗(かつ)てその著名なる小說の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた。その意味に於ては私は今でも驚きたくない事はない。然しそれと全く別な意味に於て、私は今「驚きたくない」と思ふ。何事にも驚かずに、眼を大きくして正面にその問題に立向ひたいと思(おも)ふ。それは小便と桂首相に就いてのみではない。又歌の事に就いてのみではない。我々日本人は特殊なる歷史を過去に有してゐるだけに、今正に殆どすべての新しい出來事に對して驚かねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百回「こん畜生」を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつてくれるだらうか。

[やぶちゃん注:『故獨步は嘗(かつ)てその著名なる小說の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた』とは私の偏愛する國木田獨歩の短編小説「牛肉と馬鈴薯」のこと。小学館「日本大百科全書」の同作の解説が都合がよいので引く。明治三四(一九〇一)年十一月『小天地』に発表し、四年後の明治三十八年刊の「独歩集」に収録された。『独歩における思想小説、哲学小説の代表作である。東京・芝区桜田本郷町の明治倶楽部(くらぶ)に集まった友人たちが、現実主義を牛肉に、理想主義を馬鈴薯に例えて議論を交わしている。独歩とみなされる作中の岡本は牛肉にも馬鈴薯にも従えないとして、固有の驚異思想を述べる。宇宙の不思議を知りたいという願いではなく、古び果てた習慣(カスタム)の圧力から逃れて、不思議な宇宙を驚きたいという切実な願いである。それは独歩が生涯をかけて抱き続けていた驚異の哲学である。ここでは、「驚く」ことを欲しながらも得られぬ苦悩が示されている』とある。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。]

○歷史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に將來に向つてまで維持しようとして一切の「驚くべき事」に手を以て蓋(ふた)をする時、其保守的(ほしゆてき)な槪念を嚴密に究明(きうめい)して來たならば、日本が嘗(かつ)て議會を開いた事からが先づ國體に牴觸(ていしよく)する譯になりはしないだらうか。我々の歌の形式は萬葉(まんえふ)以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何處までも我々の今日の歌である。我々の明日の歌も矢つ張り何處までも我々の明日の歌でなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「牴觸」「抵觸」に同じい。以下、前に注した通り、初出では「(四)」ではなく、「(五)」である。]

        (四)

○机の上に片肘(かたひぢ)をついて煙草を吹かしながら、私は書き物に疲れた眼を置時計の針に遊ばせてゐた。さうしてこんな事を考へてゐた。――凡そすべての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて來た時、我々はその不便な點に對して遠慮なく改造を試みるが可い。またさう爲(す)るのが本當だ。我々は他(ひと)の爲に生きてゐるのではない、我々は自身の爲に生きてゐるのだ。

〇たとへば歌にしてもさうである。我々は既に一首(しゆ)の歌を一行に書き下すことに或不便、或不自然を感じて來た。其處でこれは歌それぞれの調子に依つて或歌は二行(ぎやう)に或歌は三行(ぎやう)に書くことにすれば可い。よしそれが歌の調子(てうし)そのものを破ると言はれるにしてからが、その在來の調子それ自身が我々の感情にしつくりそぐはなくなつて來たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十一文字(もじ)といふ制限が不便な場合にはどしどし字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束(こうそく)を罷めてしまつて、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々(せつなせつな)の感じを愛惜(あいせき)する心が人間にある限り、歌といふものは滅(ほろ)びない。假(かり)に現在の三十一文字(もじ)が四十一文字(もじ)になり、五十一文字(もじ)になるにしても、兎に角歌といふものは滅(ほろ)びない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々(せつなせつな)の生命(いのち)を愛惜(あいせき)する心を滿足させることが出來(でき)る。

○こんな事を考へて、恰度(ちやうど)秒針(べうしん)が一回轉する程の間、私は凝然(ぢつ)としてゐた。さうして自分の心が次第々々に暗くなつて行くことを感じた。――私の不便を感じてゐるのは歌を一行に書き下す事ばかりではないのである。しかも私自身が現在に於て意のまゝに改め得(う)るもの、改め得べきものは、僅にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺(つぼ)の位置と、それから歌ぐらゐなものである。謂はゞ何うでも可いやうな事ばかりである。さうして其他の眞に私に不便を感じさせ苦痛を感じさせるいろいろの事に對しては、一指(し)をも加へることが出來ないではないか。否、それに忍從(にんじゆう)し、それに屈伏(くつぷく)して、慘ましき[やぶちゃん注:「いたましき」。]二重の生活を續けて行く外に此の世に生きる方法を有たないではないか。自分でも色々自分に辯解しては見るものゝ、私の生活は矢張現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識賣買制度の犧牲である。

○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

 

 

  *   *

 

 

■読み除去版

 

   歌のいろいろ

        (一)

○日每に集つて來る投書の歌を讀んでゐて、ひよいと妙な事を考へさせられることがある。――此處に作者その人に差障りを及ぼさない範圍に於て一二の例を擧げて見るならば、此頃になつて漸く手を着けた十月中到着の分の中に、神田の某君といふ人の半紙二つ折へ橫に二十首の歌を書いて、『我目下の境遇』と題を付けたのがあつた。

○讀んでゐて私は不思議に思つた。それは歌の上手な爲ではない。歌は字と共に寧ろ拙かつた。又その歌つてある事の特に珍らしい爲でもなかつた。私を不思議に思はせたのは、脫字の多い事である。誤字や假名違ひは何百といふ投書家の中に隨分やる人がある。寧ろ驚く位ある、然し恁麼に脫字の多いのは滅多にない。要らぬ事とは思ひながら數へてみると、二十首の中に七箇所の脫字があつた。三首に一箇所の割合である。

[やぶちゃん注:以上がひどく気になったのは、啄木の東京朝日新聞社に於ける正規職が校正係であったからである。]

○歌つてある歌には、母が病氣になつて秋風が吹いて來たといふのがあつた。僻心を起すのは惡い惡いと思ひながら何時しか夫が癖になつたといふのがあつた。十八の歲から生活の苦しみを知つたといふのがあつた。安らかに眠つてゐる母の寢顏を見れば淚が流れるといふのがあつた。弟の無邪氣なのを見て傷んでゐる歌もあつた。金といふものに數々の怨みを言つてゐるのもあつた。終日の仕事の疲れといふことを歌つたのもあつた。

[やぶちゃん注:第一文の句点がないのは、行末で版組の関係上からと判断し、筑摩版全集で補った。]

○某君は一體に粗忽しい人なのだらうか?小學校にゐた頃から脫字をしたり計數を間違つたり、忘れ物をする癖があつた人なのだらうか?――恁麼事を問うてみるからが既に勝手な、作者に對して失禮な推量で、隨つてその答へも亦勝手な推量に過ぎないのだが、私には何うもさうは思へなかつた。進むべき路を進みかねて境遇の犧牲となつた人の、その心に消しがたき不平が有れば有る程、元氣も顏色も人先に衰へて、幸運な人がこれから初めて世の中に打つて出ようといふ歲頃に、早く既に醫しがたき神經衰弱に陷つてゐる例は、私の知つてゐる範圍にも二人や三人ではない。私は「十八の歲から生活の苦しみを知つた人」と「脫字を多くする人」とを別々に離して考へることは出來なかつた。

[やぶちゃん注:「だらうか?」の後に字空けがないのはママ。

「醫しがたき」「癒しがたき」に同じい。]

○某君のこの投書は、多分何か急がしい事のある日か、心の落付かぬ程嬉しい事でもある日に書いたので、斯う脫字が多かつたのだらう。さうだらうと私は思ふ。然し若し此處に私の勝手に想像したやうな人があつて、某君の歌つたやうな事を誰かの前に訴へたとしたならば、その人は果して何と答へるだらうか。

○私は色々の場合、色々の人のそれに對する答へを想像して見た。それは皆如何にも尤もな事ばかりであつた。然しそれらの叱咤それらの激勵、それらの同情は果して何れだけ[やぶちゃん注:「どれだけ」。]その不幸なる靑年の境遇を變へてくれるだらうか。のみならず私は又次のやうな事も考へなければならなかつた。二十首の歌に七箇所の脫字をする程頭の惡くなつてゐる人ならば、その平生の仕事にも「脫字」が有るに違ひない。その處世の術にも「脫字」があるに違ひない。――私の心はいつか又、今の諸々の美しい制度、美しい道德をその儘長く我々の子孫に傳へる爲には、何れだけの夥しい犧牲を作らねばならぬかといふ事に移つて行つた。さうして沁々しみじみした心持になつて次の投書の封を切つた。

        (二)

○大分前の事である。茨城だつたか千葉だつたか乃至は又群馬の方だつたか何しろ東京から餘り遠くない縣の何とか郡何とか村小學校内某といふ人から歌が來た。何日か經つて其の歌の中の何首かが新聞に載つた。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙を添へた二度目の投書を受け取つた。

○其の手紙は候文と普通文とを捏ね交ぜたやうな文體で先づ自分が「憐れなる片田舍の小學敎師」であるといふ事から書き起してあつた。さうして自分が自分の職務に對して兎角興味を有ち得ない事、誰一人趣味を解する者なき片田舍の味氣ない事、さうしてる間に豫々愛讀してゐる朝日新聞の歌壇の設けられたので空谷の跫音と思つたといふ事、近頃は新聞が着くと先づ第一に歌壇を見るといふ事、就いては今後自分も全力を擧げて歌を硏究する積だから宜しく賴む。今日から每日必ず一通づゝ投書するといふ事が書いてあつた。

[やぶちゃん注:「空谷の跫音」人気のない寂しい谷底に懐かしい人の足音を聴いたような気持ちを示す。]

○此の手紙が宛名人たる私の心に惹起した結果は、蓋し某君の夢にも想はなかつた所であらうと思ふ。何故なれば、私はこれを讀んでしまつた時、私の心に明かに一種の反感の起つてゐる事を發見したからである。詩や歌や乃至は其の外の文學にたづさはる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のやうに思ふ迷信――それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或反感を呼び起さずに濟んだことはない。「歌を作ることを何か偉い事でもするやうに思つてる、莫迦な奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程自ら言ふ如く憐れなる小學敎師に違ひないと思つた。手紙には假名違ひも文法の違ひもあつた。

○然しその反感も直ぐと引込まねばならなかつた。「羨ましい人だ。」といふやうな感じが輕く橫合から流れて來た爲めである。此の人は自分で自分を「憐れなる」と呼んでゐるが、如何に憐れで、如何にして憐れであるかに就いて眞面目に考へたことのない人、寧ろさういふ考へ方をしない質の人であることは、自分が不滿足なる境遇に在りながら全力を擧げて歌を硏究しようなどと言つてゐる事、しかも其歌の極平凡な叙事叙景の歌に過ぎない事、さうして他の營々として刻苦してゐる村人を趣味を解せぬ者と嘲つて僅に喜んでゐるらしい事などに依つて解つた。己の爲る事、言ふ事、考へる事に對して、それを爲ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面に其問題に立向つて底の底まで究めようとせずにゐられぬ心、日每々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾とを發見して、さうして其の發見によつて却て益自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に對する羨みの感は私のよく經驗する所のものであつた。

[やぶちゃん注:「營々として」せっせと休みなく励んで。

「正面」二字に対するルビ。但し、筑摩版全集を見ると、『まとも』というルビが振られてあり、その方がこの文脈ではよりよい読みという気はする。

「せずにゐられぬ心、」底本には最後の読点はないが、やはり「心」が行末にあることから版組上のカットと断じ、全集で補った。

「益」「ますます」。]

○私はとある田舍の小學校の宿直室にごろごろしてゐる一人の年若き准訓導を想像して見た。その人は眞の人を怒らせるやうな惡口を一つも胸に蓄へてゐない人である。漫然として敎科書にある丈の字句を生徒に敎へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認し、漫然として今後大に歌を作らうと思つてる人である。未だ甞て自分の心内乃至身邊に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日每に新聞を讀みながらも、我々の心を後から後からと急がせて、日每に新しく展開して來る時代の眞相に對して何の切實な興味をも有つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私のそれよりも屹度多いだらうと思つた。

[やぶちゃん注:「見たことのない人である。」底本最後の句点なし。行末で、同前の推定から全集で補った。]

○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に每日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。或時は投凾の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緖に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにゐられるかに興味を有つて、それとはなしに每日待つてゐた。

○それが確七日か八日の間續いた。或日私は、「とうとう飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君の墨の薄い肩上りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。

○私はこの事を書いて來て、其後某君は何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばたゞ文藝欄や歌壇や小說許りに興味を有つて讀んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或動かすべからざる隱れたる事實を承認する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌になるであらうと。

[やぶちゃん注:「自からにして」「おのづからにして」。同前で全集では以下は初出では「四」である。]

        (三)

○うつかりしながら家の前まで步いて來た時、出し拔けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚した。こん畜生!」と思はず知らず口に出す――といふやうな例はよく有ることだ。下らない駄洒落を言ふやうだが、人は吃驚すると惡口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチで可いではないか――若し必ず何とか言はなければならぬのならば。

○土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂い[やぶちゃん注:「たのしい」。]秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、

    燒あとの煉瓦の上に

    syôben をすればしみじみ

    秋の氣がする

といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。羅馬字で書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在來の漢字で書いた時に伴つて來る惡い連想を拒む爲であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。)

○さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雜誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風を罵しつてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた。勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度讀み返しても惡い歌にはならない。評者は何故この鋭い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度歌といふものに就いて或狹い既成槪念を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な槪念を形成つてさうしてそれに捉はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的な既成槪念の袖にむづと嚙み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとて何も吃驚するには當らないではないか。

[やぶちゃん注:「苟守的」この場合の「苟」は「濫りに・闇雲に」の意であろう。頑ななまでに保守的であること。]

○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言ひ換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌として存在の權利を有つてゐない事は自分でも知つてゐる。

[やぶちゃん注:掲げた一首は『創作』同年十月号に発表されたもので、後の歌集「一握の砂」の第一パート「我を愛する歌」の掉尾にも配された。その意味や背景については私の『石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)』の私の注を参照されたい。]

○故獨步は嘗てその著名なる小說の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた。その意味に於ては私は今でも驚きたくない事はない。然しそれと全く別な意味に於て、私は今「驚きたくない」と思ふ。何事にも驚かずに、眼を大きくして正面にその問題に立向ひたいと思ふ。それは小便と桂首相に就いてのみではない。又歌の事に就いてのみではない。我々日本人は特殊なる歷史を過去に有してゐるだけに、今正に殆どすべての新しい出來事に對して驚かねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百回「こん畜生」を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつてくれるだらうか。

[やぶちゃん注:『故獨步は嘗てその著名なる小說の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた』とは私の偏愛する國木田獨歩の短編小説「牛肉と馬鈴薯」のこと。小学館「日本大百科全書」の同作の解説が都合がよいので引く。明治三四年十一月『小天地』に発表し、四年後の明治三十八年刊の「独歩集」に収録された。『独歩における思想小説、哲学小説の代表作である。東京・芝区桜田本郷町の明治倶楽部に集まった友人たちが、現実主義を牛肉に、理想主義を馬鈴薯に例えて議論を交わしている。独歩とみなされる作中の岡本は牛肉にも馬鈴薯にも従えないとして、固有の驚異思想を述べる。宇宙の不思議を知りたいという願いではなく、古び果てた習慣の圧力から逃れて、不思議な宇宙を驚きたいという切実な願いである。それは独歩が生涯をかけて抱き続けていた驚異の哲学である。ここでは、「驚く」ことを欲しながらも得られぬ苦悩が示されている』とある。「青空文庫」のこちらで読める。]

○歷史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に將來に向つてまで維持しようとして一切の「驚くべき事」に手を以て蓋をする時、其保守的な槪念を嚴密に究明して來たならば、日本が嘗て議會を開いた事からが先づ國體に牴觸する譯になりはしないだらうか。我々の歌の形式は萬葉以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何處までも我々の今日の歌である。我々の明日の歌も矢つ張り何處までも我々の明日の歌でなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「牴觸」「抵觸」に同じい。以下、前に注した通り、初出では「(四)」ではなく、「(五)」である。]

        (四)

○机の上に片肘をついて煙草を吹かしながら、私は書き物に疲れた眼を置時計の針に遊ばせてゐた。さうしてこんな事を考へてゐた。――凡そすべての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて來た時、我々はその不便な點に對して遠慮なく改造を試みるが可い。またさう爲るのが本當だ。我々は他の爲に生きてゐるのではない、我々は自身の爲に生きてゐるのだ。

〇たとへば歌にしてもさうである。我々は既に一首の歌を一行に書き下すことに或不便、或不自然を感じて來た。其處でこれは歌それぞれの調子に依つて或歌は二行に或歌は三行に書くことにすれば可い。よしそれが歌の調子そのものを破ると言はれるにしてからが、その在來の調子それ自身が我々の感情にしつくりそぐはなくなつて來たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十一文字といふ制限が不便な場合にはどしどし字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束を罷めてしまつて、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。假に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々の生命を愛惜する心を滿足させることが出來る。

○こんな事を考へて、恰度秒針が一回轉する程の間、私は凝然としてゐた。さうして自分の心が次第々々に暗くなつて行くことを感じた。――私の不便を感じてゐるのは歌を一行に書き下す事ばかりではないのである。しかも私自身が現在に於て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置と、それから歌ぐらゐなものである。謂はゞ何うでも可いやうな事ばかりである。さうして其他の眞に私に不便を感じさせ苦痛を感じさせるいろいろの事に對しては、一指をも加へることが出來ないではないか。否、それに忍從し、それに屈伏して、慘ましき[やぶちゃん注:「いたましき」。]二重の生活を續けて行く外に此の世に生きる方法を有たないではないか。自分でも色々自分に辯解しては見るものゝ、私の生活は矢張現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識賣買制度の犧牲である。

○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

 

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 對話と感想 一利己主義者と友人との對話(感想)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ。満二十六歳で没した)の遺構歌文集にして第二歌集である「悲しき玩具」の初版は、彼の逝去から二ヶ月後の明治四五(一九一二)年六月二十日に刊行された(発行は二年前の第一歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月一日発行。定価五十銭)と同じ東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店)。歌集パートは総歌数百九十四首で、その後に「對話と感想」というパートが設けられ、この「一利己主義者と友人との對話」と「歌のいろいろ」(「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」。]目次では孰れにも後に『(感想)』と附す)の二篇が載る。

 本篇は明治四三(一九一〇)年十一月一日発行の『創作』第一巻第九号初出。体裁としては二人の人物による会話形式をとった、アイロニカルな自画像的カリカチャア風に作ったレーゼ・ドラマ、戯作(げさく)的な歌論のようなものである。当初は枕の啄木と思しいAの友人Bを相手にやらかす転居話や食い物の話が何か甚だ冗長に過ぎるように感じられるかも知れぬが、そこで語られるのは、そうした啄木が東京に来てからの事実としての日常体験の中にある内的な区別や、その識別、或いは、そこからのたまさかの離脱を通して、旧態の短歌形式や情緒から引き出すことが出来るところの、短歌の新たな表記法や内在律的変革による新境地の可能性の譬喩的なものを引き出すための、序詞的な役割を果たしているように私には思われるのである。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の今井泰子氏の「石川啄木作品事典」によれば、執筆は明治四十三年十月二十二日以前で、同雑誌の前号(第一巻第八号)に載った尾上柴舟(明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年:歌人・国文学者・書家。岡山生まれ。本名は八郎。和歌を落合直文に学び、歌誌『水甕(みずがめ)』を創刊。書家としても活躍し、平安時代の草仮名の研究に業績を挙げた。歌集に「静夜」「永日」など。当時は女子学習院(現在の学習院女子大学)教授)の「短歌滅亡私論」に触発されて執筆された、歌集「一握の砂」を『裏づける歌論の一つ』とする。『柴舟が、短歌はもはや現代人の情緒を託すには不充分な様式で滅亡の道を辿るだろうと観測したのに対して、同じく様式上の限界性による滅亡を遠い未来に予測しながらも、なお現代に存在する現実的意義と可能性とを力説』しているとある。また、何よりも参考になるのは、近藤典彦氏の「石川啄木著『一握の砂』を読む」の「へつらひを聞けば その2」以下の分析である。まず、そこでは本篇が歌集「一握の砂」の『原稿が完成して東雲堂書店に納められた直後の』明治四三(一九一〇)年十月十六日から十九日に『書かれた啄木最初の歌論』であると規定され、『「一利己主義者」とは自分が可愛くてたまらない男すなわち啄木を指します。歌論の中では人物「A」です。「友人」のモデルは並木武雄で人物「B」です』と名指す。『並木武雄は啄木が函館時代にもっとも親しくした』四『人の友人中の』一『人です。啄木が』明治四一(一九〇八)年四月に『上京した時、並木も東京外国語学校に受かって上京しました。その後』一年、『非常に親しくつきあいます。翌年はちょっとした事情があって前年ほどにはつきあいませんが』、翌明明治四十三年三月、『啄木が東京毎日新聞や東京朝日新聞に新調の短歌を発表し始めると、いち早く目を留め、遊びに来ます』。九月、『啄木が朝日歌壇の選者になった時も遊びに来ました。このとき並木は、多くの大家(与謝野寛・晶子、伊藤左千夫、佐佐木信綱ら)とめざましい新進歌人(北原白秋、土岐哀果、前田夕暮、吉井勇、若山牧水等々)を尻目に啄木が選者に抜擢されたことをよろこび、「歌人」啄木を讃えたようです』とある。これは本篇の内容ともよく一致する。以下、リンク先の「それもよしこれもよしとてある人の その2」でも本篇と並木武雄について言及されてあるので参照されたい。

 因みに、同年十月四日には長男真一が誕生しており、同日処女歌集出版の契約を東京京橋区南伝馬町の東東雲堂書店と結び、二十円の稿料の内、十円を受け取り、同九日には歌集の書名を「一握の砂」とし、残りの十円を受領している(第一歌集「一握の砂」初版は明治四三(一九一〇)年十二月一日に刊行された。また、この発行日の五日前の十月二十七日には真一が生後二十三日目にして亡くなってしまっている)。

 底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。一部の不審な箇所は筑摩版全集で校合した。なお、加工用データとして「青空文庫」のこちらのデータ(但し、新字新仮名)を使用させて戴いた。踊り字「く」(ルビにある)は正字化した。

 初版本の書誌やその出版に係わる啄木を中心とした経緯等は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を見られたい。

 ルビがかなり五月蠅いので、底本通りに電子化した後に煩を厭わず「■読み除去版」を作成して附した(読みに係わる私の注の一部を除去した)。但し、ルビ無しで全文が間違いなく読めるとは思わない方がよい。少しでも振れると判断されたものは読みを必ず確認されるように。全集版は初出が底本で、読みは極めて少ないことも言い添えておく。

 

 

       對 話 と 感 想

 

 

     一利己主義者と友人との對話

 B おい、おれは今度(こんど)また引越しをしたぜ。

 A さうか。君は來るたんび引越しの披露をして行くね。

 B それは僕(ぼく)には引越し位の外(ほか)に何もわざわざ披露するやうな事件が無いからだ。

 A 葉書(はがき)でも濟(す)むよ。

 B しかし今度のは葉書では濟まん。

 A どうしたんだ。何日(いつ)かの話の下宿の娘(むすめ)から緣談(えんだん)でも申込まれて逃げ出したのか。

 B 莫迦(ばか)なことを言へ。女の事(こと)なんか近頃もうちつとも僕(ぼく)の目にうつらなくなつた。女より食物(くひもの)だね。好(す)きな物を食つてさへ居れあ僕には不平はない。

[やぶちゃん注:「居れあ」(ゐれあ)は現在の「居(い)りゃあ」の意。以下、同様な言い回しが出るが、以下では注さない。]

 A 殊勝(しゆしやう)な事を言ふ。それでは今度の下宿(げしゆく)はうまい物を食(く)はせるのか。

 B 三度三度(ど)うまい物ばかり食(く)はせる下宿が何處(どこ)にあるもんか。

[やぶちゃん注:「三度三度(ど)」で前でなく後にのみルビが附されるのはママ。]

 A 安下宿(やすげしゆく)ばかりころがり步いた癖(くせ)に。

 B 皮肉(ひにく)るない。今度のは下宿ぢやないんだよ。僕(ぼく)はもう下宿生活には飽(あ)き飽きしちやつた。

 A よく自分に飽きないね。

 B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活(しんせいかつ)を始めたんだ。室(へや)だけ借りて置(お)いて、飯(めし)は三度とも外へ出て食(く)ふことにしたんだよ。

 A 君(きみ)のやりさうなこつたね。

 B さうかね。僕はまた君のやりさうなこつたと思つてゐた。

 A 何故(なぜ)。

 B 何故(なぜ)つてさうぢやないか。第一こんな自由(じいう)な生活はないね。居處(ゐどころ)つて奴は案外(あんぐわい)人間を束縛(そくばく)するもんだ。何處かへ出(で)てゐても、飯時になれあ直ぐ家のことを考(かんが)へる。あれだけでも僕(ぼく)みたいな者にや一種の重荷(おもに)だよ。それよりは何處でも構(かま)はず腹の空(す)いた時に飛(と)び込んで、自分の好(す)きな物を食つた方が可(い)いぢやないか。(間)何(なん)でも好(す)きなものが食へるんだからなあ。初(はじ)めの間(うち)は腹のへつて來(く)るのが樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]で、一日に五回づつ食(く)つてやつた。出掛(でか)けて行つて食つて來て、煙草(たばこ)でも喫(の)んでるとまた直(す)ぐ食ひたくなるんだ。

[やぶちゃん注:「構(かま)はず」は底本では「構(かま)はす」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。無論、筑摩版全集も『ず』となっている。]

 A 飯(めし)の事をさう言へや眠(ねむ)る場所だつてさうぢやないか。每晚每晚同じ夜具を着(き)て寢(ね)るつてのも餘り有難(ありがた)いことぢやないね。

 B それはさうさ。しかしそれは仕方(しかた)がない。身體(からだ)一つならどうでも可(よ)いが、机(つくえ)もあるし本(ほん)もある。あんな荷物(にもつ)をどつさり持つて、每日每日引越(ひつこ)して步(ある)かなくちやならないとなつたら、それこそ苦痛(くつう)ぢやないか。

[やぶちゃん注:「しかしそれは」は底本では「しかしろれは」。誤植と断じて特異的に訂した。無論、筑摩版全集も『そ』となっている。]

 A 飯(めし)のたんびに外に出(で)なくちやならないといふのと同(おな)じだ。

 B 飯を食ひに行くには荷物(にもつ)はない。身體だけで濟(す)むよ。食ひたいなあと思(おも)つた時、ひよいと立つて帽子(ばうし)を冠(かぶ)つて出掛けるだけだ。財布(さいふ)さへ忘れなけや可い。ひと足(あし)ひと足うまい物に近(ちか)づいて行くつて氣持は實(じつ)に可(い)いね。

 A ひと足ひと足新(あたら)しい眠りに近づいて行(ゆ)く氣持(きもち)はどうだね。ああ眠くなつたと思(おも)つた時、てくてく寢床(ねどこ)を探しに出かけるんだ。昨夜(ゆうべ)は隣の室で女の泣(な)くのを聞きながら眠(ねむ)つたつけが、今夜は何(なに)を聞(き)いて眠るんだらうと思(おも)ひながら行(ゆ)くんだ。初めての宿屋(やどや)ぢや此方(こつち)の誰だかをちつとも知(し)らない。知つた者の一人(ひとり)もゐない家の、行燈(あんどん)か何かついた奧(おく)まつた室に、やはらかな夜具(やぐ)の中に緩(ゆつ)くり身體を延(の)ばして安らかな眠りを待(ま)つてる氣持はどうだね。

 B それあ可(い)いさ。君もなかなか話(はな)せる。

 A 可(い)いだらう。每晚每晚(まいばんまいばん)さうして新しい寢床(ねどこ)で新しい夢を結(むす)ぶんだ。(間)本も机も棄(す)てつちまふさ。何(なに)もいらない。本を讀(よ)んだつてどうもならんぢやないか。

[やぶちゃん注:「結ぶんだ。(間)」の句点は底本にはない。全集で特異的に訂した。]

 B ますます話(はな)せる。しかしそれあ話だけだ。初(はじ)めのうちはそれで可(い)いかも知(し)れないが、しまひには屹度(きつと)おつくうになる。やつぱり何處かに落付(おちつ)いてしまふよ。

 A 飯を食(く)ひに出かけるのだつてさうだよ。見給(みたま)へ、二日經(た)つと君はまた何處(どこ)かの下宿(げしゆく)にころがり込(こ)むから。

 B ふむ。おれは細君(さいくん)を持つまでは今の通(とほ)りやるよ。屹度やつて見(み)せるよ。

[やぶちゃん注:組版の関係上、行末にきたため最後の句点はない。全集で補った。]

 A 細君(さいくん)を持つまでか。可哀想(かあいさう)に。(間)しかし羨(うらや)ましいね。君の今のやり方は、實はずつと前(まへ)からのおれの理想(りさう)だよ。もう三年からになる。

 B さうだらう。おれはどうも初(はじ)め思ひたつた時、君(きみ)のやりさうなこつたと思つた。

 A 今でもやりたいと思(おも)つてる。たつた一月でも可(い)い。

 B どうだ、おれん處(ところ)へ來て一緖(しよ)にやらないか。可(い)いぜ。そして飽きたら以前(もと)に歸るさ。

 A しかし厭(いや)だね。

 B 何故(なぜ)。おれと一緖(しよ)が厭なら一人(ひとり)でやつても可いぢやないか。

 A 一緖でも一緖(しよ)でなくても同じことだ。君は今(いま)それを始めたばかりで大(おほ)いに滿足(まんぞく)してるね。僕もさうに違(ちが)ひない。やつぱり初めのうちは日に五度(たび)も食事をするかも知(し)れない。しかし君はそのうちに飽(あ)きてしまつておつくうになるよ。さうしておれん處へ來て、また引越しの披露(ひろう)をするよ。その時(とき)おれは、「とうとう飽(あ)きたね」と君に言(い)ふね。

[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。全集もママ。次の次の台詞の「とうとう」も同前。]

 B 何(なん)だい。もうその時の挨拶(あいさつ)まで工夫(くふう)してるのか。

 A まあさ。「とうとう飽(あ)きたね」と君に言ふね。それは君に言ふのだから可(い)い。おれは其奴(そいつ)を自分には言(い)ひたくない。

 B 相不變(あひかはらず)厭(いや)な男だなあ、君(きみ)は。

 A 厭(いや)な男さ。おれもさう思(おも)つてる。

 B 君は何日(いつ)か――あれは去年(きよねん)かな――おれと一緖(しよ)に行つて淫賣屋(いんばいや)から逃げ出した時(とき)もそんなことを言(い)つた。

 A さうだつたかね。

 B 君は屹度(きつと)早く死ぬ。もう少(すこ)し氣を廣く持たなくちや可(い)かんよ。一體(たい)君は餘(あま)りアンビシヤスだから可(い)かん。何だつて眞の滿足(まんぞく)つてものは世の中(なか)に有りやしない。從(したが)つて何だつて飽きる時(とき)が來るに定(きま)つてらあ。飽きたり、不滿足(ふまんぞく)になつたりする時を豫想(よそう)して何にもせずにゐる位(くらゐ)なら、生れて來なかつた方が餘(よ)つ程(ぽど)可いや。生れた者は屹度(きつと)死(し)ぬんだから。

[やぶちゃん注:「アンビシヤス」“ambitious”。過剰に熱望的・野心的・身の丈に合わぬ意欲を持ち過ぎたといった謂い。]

 A 笑(わら)はせるない。

 B 笑(わら)つてもゐないぢやないか。

 A 可笑(をか)しくもない。

[やぶちゃん注:ルビ「をか」は底本では「を」のみ。脱字と断じて特異的に訂した。無論、筑摩版全集も『をか』と振ってある(但し、筑摩版全集は底本が『創作』初出で、ルビは遙かに少ないのだが、たまたまここには振ってある)。]

 B 笑ふさ。可笑しくなくつたつて些(ちつ)たあ笑はなくちや可(い)かん。はは。(間)しかし何だね。君は自分で飽(あ)きつぽい男だと言つてるが、案外(あんぐわい)さうでもないやうだね。

 A 何故(なぜ)。

 B 相不變(あひかはらず)歌を作(つく)つてるぢやないか。

 A 歌(うた)か。

 B 止(や)やめたかと思ふとまた作(つく)る。執念深(しゆうねんぶか)いところが有るよ。やつぱり君は一生(しやう)歌(うた)を作るだらうな。

 A どうだか。

 B 歌も可(い)いね。こなひだ友人(ゆうじん[やぶちゃん注:ママ。])とこへ行つたら、やつぱり歌を作るとか讀(よ)むとかいふ姉(ねえ)さんがいてね。君の事を話(はな)してやつたら、「あの歌人(かじん)はあなたのお友達(ともだち)なんですか」つて喫驚(びつくり)してゐたよ。おれはそんなに俗人(ぞくじん)に見えるのかな。

 A 「歌人(かじん)」は可(よ)かつたね。

 B 首(くび)をすくめることはないぢやないか。おれも實(じつ)は最初變だと思つたよ。Aは歌人だ! 何んだか變(へん)だものな。しかし歌を作つてる以上(いじやう)はやつぱり歌人にや違(ちが)ひないよ。おれもこれから一つ君を歌人扱(かじんあつか)ひにしてやらうと思つてるんだ。

[やぶちゃん注:「最初變だと思つたよ。」の句点は行末で組版上から打たれてない。全集で補った。]

 A 御馳走(ごちさう)でもしてくれるのか。

 B 莫迦(ばか)なことを言へ。一體(たい)歌人にしろ小說家(せうせつか)にしろ、すべて文學者(ぶんがくしや)といはれる階級(かいきふ)に屬する人間は無責任(むせきにん)なものだ。何を書(か)いても書いたことに責任は負(お)わない。待てよ、これは、何日(いつ)か君(きみ)から聞いた議論(ぎろん)だつたね。

 A どうだか。

 B どうだかつて、たしかに言(い)つたよ。文藝上(ぶんげいじやう)の作物は巧(うま)いにしろ拙(まづ)いにしろ、それがそれだけで完了してると云ふ點(てん)に於て、人生の交涉(かふせふ)は歷史上の事柄(ことがら)と同じく間接だ、とか何(なん)とか。(間)それはまあどうでも可いが、兎(と)に角(かく)おれは今後無責任(むせきにん)を君の特權として認(みと)めて置く。特待生(とくたいせい)だよ。

 A 許(ゆる)してくれ。おれは何よりもその特待生が嫌(きら)ひなんだ。何日だつけ北海道(ほくかいだう)へ行く時靑森から船(ふね)に乘つたら、船の事務長(じむちやう)が知つてる奴(やつ)だつたものだから、三等の切符(きつぷ)を持つてるおれを無理矢理(むりやり)に一等室に入れたんだ。室(しつ)だけならまだ可(い)いが、食事の時間(じかん)になつたらボーイを寄(よ)こしてとうとう食堂まで引張(ひつぱ)り出(だ)された。あんなに不愉快(ふゆくわい)な飯を食つたことはない。

[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。全集も同じ。]

 B それは三等(とう)の切符を持つていた所爲(せい)だ。一等の切符さへ有れあ當(あた)り前ぢやないか。

 A 莫迦(ばか)を言へ。人間は皆(みな)赤切符(あかきつぷ)だ。

[やぶちゃん注:「赤切符」旅客列車車両に主に日本国有鉄道が定めた三等級制時代(昭和三五(一九六〇)年以前)最下級の三等切符のこと。客車自体に等級ごとの帯色の塗り分けがあり、昭和一五(一九四〇)年までは三等は赤であった(一等は白、二等は青)。]

 B 人間は皆赤切符! やつぱり話(はな)せるな。おれが飯屋(めしや)へ飛び込んで空樽(あきだる)に腰掛けるのもそれだ。

 A 何だい、うまい物(もの)うまい物つて言(い)ふから何を食ふのかと思(おも)つたら、一膳飯屋(いちぜんめしや)へ行くのか。

 B 上(かみ)は靜養軒の洋食から下(しも)は一膳飯、牛飯、大道の燒鳥(やきとり)に至るさ。飯屋(めしや)にだつてうまい物は有(あ)るぜ。先刻(さつき)來る時はとろろ飯(めし)を食つて來(き)た。

[やぶちゃん注:「靜養軒」全集では『精養軒』とする。しかし筑摩版全集は底本が『創作』初出であるから、それを絶対的に正しいとは言い切れない(ここの場合は特に、校正係が勝手に正しい字に直してしまった可能性を排除出来ないのである)。しかも、この一見だらだらした枕部分が徹底した戯作である以上、啄木が確信犯で正しく「精養軒」とせずに「靜養軒」とズラした可能性を否定は出来ない。ここは私は底本のママとすることとした。]

 A 朝(あさ)には何を食ふ。

 B 近所(きんじよ)にミルクホールが有るから其處(そこ)へ行く。君の歌も其處(そこ)で讀んだんだ。何でも雜誌(ざつし)をとつてる家(うち)だからね。(間)さうさう、君は何日(いつ)か短歌が滅びるとおれに言(い)つたことがあるね。此頃その短歌滅亡論(たんかめつばうろん)といふ奴が流行つて來たぢやないか。

[やぶちゃん注:「ミルクホール」和製英語。ミルクを提供することを目的とした明治・大正期に流行した飲食店。ウィキの「ミルクホール」によれば、『時の政府が日本人の体質改善を目的としてミルクを飲むことを推奨していた明治時代に数多く出現した』。『日本初のミルクホールは明治五(一八七二)年に開店』しており、『学生街や駅の近辺などで、学生を主な客層とした手軽な軽食店として発展した』。その『内部はカステラなどの洋菓子、食パン、豆菓子類をショーケースに置き』、他にも『新聞、官報、雑誌を置』いて、『牛乳、コーヒーなどの飲み物を庶民的な価格で提供した』。『コーヒーの一般化とともにコーヒーを提供するミルクホールが大正期に全盛を迎えたが、関東大震災を期に喫茶店に取って代わられ』た、とある。]

 A 流行(はや)るかね。おれの讀(よ)んだのは尾上柴舟(をのへさいしう)といふ人の書いたのだけだ。

 B さうさ。おれの讀んだのもそれだ。然(しか)し一人が言ひ出す時分(じぶん)にや十人か五人は同(おな)じ事を考(かんが)へてるもんだよ。

 A あれは尾上といふ人(ひと)の歌そのものが行(ゆ)きづまつて來たといふ事實に立派(りつぱ)な裏書(うらがき)をしたものだ。

 B 何(なに)を言ふ。そんなら君があの議論(ぎろん)を唱(とな)へた時は、君の歌が行きづまつた時(とき)だつたのか。

 A さうさ。歌(うた)ばかりぢやない、何(なに)もかも行きづまつた時(とき)だつた。

 B しかしあれには色色理窟(りくつ)が書いてあつた。

 A 理窟は何(なん)にでも着(つ)くさ。ただ世の中のことは一つだつて理窟(りくつ)によつて推移(すゐい)してゐないだけだ。たとへば、近頃(ちかごろ)の歌は何首或は何十首を、一首一首引き拔(ぬ)いて見ないで全體として見るやうな傾向(かたむき)になつて來た。そんなら何故(なぜ)それらを初(はじ)めから一つとして現(あらは)さないか。一一分解(ぶんかい)して現す必要が何處にあるか、とあれに書(か)いてあつたね。一應(おう)尤(もつと)もに聞えるよ。しかしあの理窟(りくつ)に服從すると、人間(にんげん)は皆死ぬ間際まぎわまで待たなければ何も書(か)けなくなるよ。歌(うた)は――文學は作家(さくか)の個人性の表現(へうげん)だといふことを狹(せま)く解釋してるんだからね。假(かり)に今夜なら今夜(こんや)のおれの頭(あたま)の調子(てうし)を歌ふにしてもだね。なるほどひと晚(ばん)のことだから一つに纏(まと)めて現した方が都合(つがふ)は可いかも知れないが、一時間(じかん)は六十分で、一分は六十秒(べう)だよ。連續はしてゐるが初(はじ)めから全體になつてゐるのではない。きれぎれに頭(あたま)に浮んで來る感じを後(あと)から後からときれぎれに歌(うた)つたつて何も差支(さしつか)へがないぢやないか。一つに纏(まと)める必要が何處(どこ)にあると言ひたくなるね。

[やぶちゃん注:「今夜なら今夜(こんや)の」ルビが前につかずに後に附されてあるのはママ。「感じ」は「感し」であるが、全集で訂した。]

 B 君(きみ)はさうすつと歌は永久(えいきう)に滅(ほろ)びないと云ふのか。

[やぶちゃん注:「さうすつと」そうすると。]

 A おれは永久といふ言葉(ことば)は嫌(きら)ひだ。

 B 永久(えいきう)でなくても可(い)い。兎に角まだまだ歌は長生(ながいき)すると思ふのか。

 A 長生(ながいき)はする。昔から人生(じんせい)五十といふが、それでも八十位まで生(い)きる人は澤山(たくさん)ある。それと同じ程度(ていど)の長生はする。しかし死(し)ぬ。

 B 何日(いつ)になつたら八十になるだらう。

 A 日本の國語(こくご)が統(とう)一される時さ。

 B もう大分統(とう)一されかかつてゐるぜ。小說(せうせつ)はみんな時代語になつた。小學校の敎科書(けうくわしよ)と詩も半分はなつて來た。新聞(しんぶん)にだつて三分の一は時代語(じだいご)で書いてある。先(せん)を越(こ)してローマ字を使(つか)ふ人さへある。

[やぶちゃん注:「時代語」の「じだいご」のルビが前になく、後に出るのはママ。その当時の現代語或いは口語的表現表記のこと。]

 A それだけ混亂(こんらん)していたら澤山(たくさん)ぢやないか。

 B ふむ。さうすつとまだまだか。

 A まだまだ。日本(にほん)は今三分の一まで來(き)たところだよ。何(なに)もかも三分の一だ。所謂(いはゆる)古い言葉と今の口語と比(くら)べてみても解(わか)る。正確に違つて來(き)たのは、「なり」「なりけり」と「だ」「である」だけだ。それもまだまだ文章(ぶんしやう)の上では併用(へいやう)されてゐる。音文字(おんもじ)が採用されて、それで現(あらは)すに不便な言葉がみんな淘汰(たうた)される時が來(こ)なくちや歌は死(し)なない。

 B 氣長(きなが)い事を言ふなあ。君は元來性急(せつかち)な男だつたがなあ。

 A あまり性急(せつかち)だつたお蔭(かげ)で氣長になつたのだ。

 B 悟(さと)つたね。

 A 絕望(ぜつばう)したのだ。

 B しかし兎(と)に角(かく)今の我我の言葉(ことば)が五とか七とかいふ調子(てうし)を失つてるのは事實(じじつ)ぢやないか。

 A 「いかにさびしき夜(よ)なるぞや」「なんてさびしい晚(ばん)だらう」どつちも七五調(てう)ぢやないか。

 B それは極(きは)めて稀な例(れい)だ。

 A 昔(むかし)の人は五七調や七五調でばかり物(もの)を言つてゐたと思ふのか。莫迦(ばか)。

 B これでも賢(かしこ)いぜ。

 A とはいふものの、五と七がだんだん亂(みだ)れて來てるのは事實(じじつ)だね。五が六に延(の)び、七が八に延(の)びてゐる。そんならそれで歌(うた)にも字あまりを使(つか)へば濟むことだ。自分(じぶん)が今まで勝手に古い言葉を使(つか)つて來てゐて、今になつて不便(ふべん)だもないぢやないか。成(な)るべく現代の言葉に近(ちか)い言葉を使つて、それで三十一字(じ)に纏(まとま)りかねたら字あまりにするさ。それで出來(でき)なけれあ言葉や形(かた)が古(ふる)いんでなくつて頭(あたま)が古いんだ。

 B それもさうだね。

 A のみならず、五も七も更(さら)に二とか三とか四とかにまだまだ分解(ぶんかい)することが出來(でき)る。歌の調子はまだまだ複雜(ふくざつ)になり得る餘地(よち)がある。昔は何日の間にか五七五、七七と二行に書(か)くことになつてゐたのを、明治になつてから一本に書(か)くことになつてゐた。今度はあれを壞(こわ)すんだね。歌には一首一首各(かく)異(ことな)つた調子(てうし)がある筈だから、一首一首別(べつ)なわけ方で何行(なんぎやう)かに書くことにするんだね。

[やぶちゃん注:この台詞は全集(筑摩版全集は底本が『創作』初出)と校合すると、二ヶ所に問題がある。まず「明治になつてから一本に書くことになつてゐた」の部分で、全集は『明治になつてから一本に書くことになつた』とし、「各」の読み「かく」を全集は『おのおの』とする点である。整序された読みとしては全集のがよいと言えるものの、ではこの表記がとんでもなくおかしい、誤字・誤植の類いだと断言出来るかと言えば、それは無理であると私は思う。さればこそ、ここは底本のママに電子化した。

 B さうすると歌の前途(ぜんと)はなかなか多望(たばう)なことになるなあ。

 A 人は歌(うた)の形は小さくて不便(ふべん)だといふが、おれは小さいから却(かへ)つて便利だと思(おも)つてゐる。さうぢやないか。人は誰(だれ)でも、その時が過(す)ぎてしまへば間もなく忘(わす)れるやうな、乃至(ないし)は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出(だ)すには餘り接穗(つぎほ)がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、内(うち)から外(そと)からの數限(かずかぎ)りなき感じを、後(あと)から後からと常に經驗(けいけん)してゐる。多くの人はそれを輕蔑(けいべつ)してゐる。輕蔑しないまでも殆(ほとん)ど無關心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛(あい)する者はそれを輕蔑(けいべつ)することが出來ない。

[やぶちゃん注:「人は誰(だれ)でも、その時が過(す)ぎてしまへば間もなく忘(わす)れるやうな、乃至(ないし)は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出(だ)すには餘り接穗(つぎほ)がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの數限りなき感じを、後(あと)から後からと常に經驗(けいけん)してゐる。」(「とうとう」ママ。全集も同じ)は全集では、『人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを言ひ出すには余り接穗(つぎほ)がなくてとうとう一生言ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの数限りなき感じを、後(あと)から後からと常に經驗してゐる。』と二ヶ所が「思ひ出す」ではなく、「言ひ出す」となっているのである。確かに歌を語る文脈では「言ひ出す」の方がしっくりはくるが、では「思ひ出す」はおかしいかといえば、少しもおかしくないし、私は躓かない。忘れていないが、思い出すことが出来難い記憶は脳生理学的にも心理学的にも存在する。従って底本のママとする。

 B 待(ま)てよ。ああさうか。一分は六十秒(べう)なりの論法(ろんぱふ)だね。

[やぶちゃん注:底本は「ああさうか」の後に句点はない。全集に従い、特異的に訂した。]

 A さうさ。一生に二度とは歸(かへ)つて來ないいのちの一秒(べう)だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃(に)がしてやりたくない。それを現(あらは)すには、形が小さくて、手間暇(てまひま)のいらない歌が一番(ばん)便利(べんり)なのだ。實際便利だからね。歌(うた)といふ詩形を持つてるといふことは、我我日本人(にほんじん)の少ししか持たない幸福(かうふく)のうちの一つだよ。(間)おれはいのちを愛(あい)するから歌を作る。おれ自身(じしん)が何よりも可愛(かあい)いから歌を作る。(間)しかしその歌(うた)も滅亡(めつぼう)する。理窟(りくつ)からでなく内部から滅亡する。しかしそれはまだまだだ、早(はや)く滅亡すれば可いと思(おも)ふがまだまだだ。(間)日本(にほん)はまだ三分の一だ。

[やぶちゃん注:太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。以下も同じ。

「しかしそれはまだまだ、」全集は「しかしそれはまだまだ早く滅亡すれば可いと思ふがまだまだだ。」であるが、こちらの方がいい。]

 B いのちを愛するつてのは可いね。君(きみ)は君のいのちを愛(あい)して歌を作り、おれはおれのいのちを愛(あい)してうまい物を食つてあるく。似(に)たね。

[やぶちゃん注:「愛」のルビが前になく、後にあるのはママ。]

 A (間)おれはしかし、本當(ほんたう)のところはおれに歌なんか作らせたくない。

 B どういふ意味(いみ)だ。君はやつぱり歌人(かじん)だよ。歌人だつて可(い)いぢやないか。しつかりやるさ。

 A おれはおれに歌(うた)を作らせるよりも、もつと深(ふか)くおれを愛(あい)してゐる。

 B 解(わか)らんな。

 A 解(わか)らんかな。(間)しかしこれは言葉(ことば)でいふと極(ご)くつまらんことになる。

 B 歌(うた)のやうな小さいものに全生命(ぜんせいめい)を託することが出來(でき)ないといふのか。

 A おれは初(はじ)めから歌に全生命を託(たく)さうと思つたことなんかない。(間)何(なん)にだつて全生命(ぜんせいめい)を託することが出來るもんか。(間)おれはおれを愛(あい)してはゐるが、其のおれ自身(じしん)だつてあまり信用(しんよう)してはゐない。

 B (やや突然(とつぜん)に)おい、飯食ひに行かんか。(間、獨語(どくご)するやうに。)おれも腹(はら)のへつた時はそんな氣持(きもち)のすることがあるなあ。

 

 

  •   *   *

 

 

■読み除去版

 

      一利己主義者と友人との對話

 B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。

 A さうか。君は來るたんび引越しの披露ひろうをして行くね。

 B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するやうな事件が無いからだ。

 A 葉書でも濟むよ。

 B しかし今度のは葉書では濟まん。

 A どうしたんだ。何日かの話の下宿の娘から緣談でも申込まれて逃げ出したのか。

 B 莫迦なことを言へ。女の事なんか近頃もうちつとも僕の目にうつらなくなつた。女より食物だね。好きな物を食つてさへ居れあ僕には不平はない。

[やぶちゃん注:「居れあ」(ゐれあ)は現在の「居りゃあ」の意。以下、同様な言い回しが出るが、以下では注さない。]

 A 殊勝な事を言ふ。それでは今度の下宿はうまい物を食はせるのか。

 B 三度三度うまい物ばかり食はせる下宿が何處にあるもんか。

 A 安下宿ばかりころがり步いた癖に。

 B 皮肉るない。今度のは下宿ぢやないんだよ。僕はもう下宿生活には飽き飽きしちやつた。

 A よく自分に飽きないね。

 B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活を始めたんだ。室だけ借りて置いて、飯は三度とも外へ出て食ふことにしたんだよ。

 A 君のやりさうなこつたね。

 B さうかね。僕はまた君のやりさうなこつたと思つてゐた。

 A 何故。

 B 何故つてさうぢやないか。第一こんな自由な生活はないね。居處つて奴は案外人間を束縛するもんだ。何處かへ出てゐても、飯時になれあ直ぐ家のことを考へる。あれだけでも僕みたいな者にや一種の重荷だよ。それよりは何處でも構はず腹の空いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食つた方が可いぢやないか。(間)何でも好きなものが食へるんだからなあ。初めの間は腹のへつて來るのが樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]で、一日に五回づつ食つてやつた。出掛けて行つて食つて來て、煙草でも喫んでるとまた直ぐ食ひたくなるんだ。

[やぶちゃん注:「構はず」は底本では「構はす」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。無論、筑摩版全集も『ず』となっている。]

 A 飯の事をさう言へや眠る場所だつてさうぢやないか。每晚每晚同じ夜具を着て寢るつてのも餘り有難いことぢやないね。

 B それはさうさ。しかしそれは仕方がない。身體一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどつさり持つて、每日每日引越して步かなくちやならないとなつたら、それこそ苦痛ぢやないか。

[やぶちゃん注:「しかしそれは」は底本では「しかしろれは」。誤植と断じて特異的に訂した。無論、筑摩版全集も『そ』となっている。]

 A 飯のたんびに外に出なくちやならないといふのと同じだ。

 B 飯を食ひに行くには荷物はない。身體だけで濟むよ。食ひたいなあと思つた時、ひよいと立つて帽子を冠つて出掛けるだけだ。財布さへ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くつて氣持は實に可いね。

 A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く氣持はどうだね。ああ眠くなつたと思つた時、てくてく寢床を探しに出かけるんだ。昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠つたつけが、今夜は何を聞いて眠るんだらうと思ひながら行くんだ。初めての宿屋ぢや此方の誰だかをちつとも知らない。知つた者の一人もゐない家の、行燈か何かついた奧まつた室に、やはらかな夜具の中に緩くり身體を延ばして安らかな眠りを待つてる氣持はどうだね。

 B それあ可いさ。君もなかなか話せる。

 A 可いだらう。每晚每晚さうして新しい寢床で新しい夢を結ぶんだ(間)。本も机も棄てつちまふさ。何もいらない。本を讀んだつてどうもならんぢやないか。

[やぶちゃん注:「結ぶんだ。(間)」の句点は底本にはない。全集で特異的に訂した。]

 B ますます話せる。しかしそれあ話だけだ。初めのうちはそれで可いかも知れないが、しまひには屹度おつくうになる。やつぱり何處かに落付いてしまふよ。

 A 飯を食ひに出かけるのだつてさうだよ。見給へ、二日經つと君はまた何處かの下宿にころがり込むから。

 B ふむ。おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。屹度やつて見せるよ。

[やぶちゃん注:組版の関係上、行末にきたため最後の句点はない。全集で補った。]

 A 細君を持つまでか。可哀想に。(間)しかし羨ましいね。君の今のやり方は、實はずつと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。

 B さうだらう。おれはどうも初め思ひたつた時、君のやりさうなこつたと思つた。

 A 今でもやりたいと思つてる。たつた一月でも可い。

 B どうだ、おれん處へ來て一緖にやらないか。可いぜ。そして飽きたら以前に歸るさ。

 A しかし厭だね。

 B 何故。おれと一緖が厭なら一人でやつても可いぢやないか。

 A 一緖でも一緖でなくても同じことだ。君は今それを始めたばかりで大いに滿足してるね。僕もさうに違ひない。やつぱり初めのうちは日に五度も食事をするかも知れない。しかし君はそのうちに飽きてしまつておつくうになるよ。さうしておれん處へ來て、また引越しの披露をするよ。その時おれは、「とうとう飽きたね」と君に言ふね。

[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。全集もママ。次の次の台詞の「とうとう」も同前。]

 B 何だい。もうその時の挨拶まで工夫してるのか。

 A まあさ。「とうとう飽きたね」と君に言ふね。それは君に言ふのだから可い。おれは其奴を自分には言ひたくない。

 B 相不變厭な男だなあ、君は。

 A 厭な男さ。おれもさう思つてる。

 B 君は何日か――あれは去年かな――おれと一緖に行つて淫賣屋から逃げ出した時もそんなことを言つた。

 A さうだつたかね。

 B 君は屹度早く死ぬ。もう少し氣を廣く持たなくちや可かんよ。一體君は餘りアンビシヤスだから可かん。何だつて眞の滿足つてものは世の中に有りやしない。從つて何だつて飽きる時が來るに定つてらあ。飽きたり、不滿足になつたりする時を豫想して何にもせずにゐる位なら、生れて來なかつた方が餘つ程可いや。生れた者は屹度死ぬんだから。

[やぶちゃん注:「アンビシヤス」“ambitious”。過剰に熱望的・野心的・身の丈に合わぬ意欲を持ち過ぎたといった謂い。]

 A 笑はせるない。

 B 笑つてもゐないぢやないか。

 A 可笑しくもない。

 B 笑ふさ。可笑しくなくつたつて些たあ笑はなくちや可かん。はは。(間)しかし何だね。君は自分で飽きつぽい男だと言つてるが、案外さうでもないやうだね。

 A 何故。

 B 相不變歌を作つてるぢやないか。

 A 歌か。

 B 止やめたかと思ふとまた作る。執念深いところが有るよ。やつぱり君は一生歌を作るだらうな。

 A どうだか。

 B 歌も可いね。こなひだ友人とこへ行つたら、やつぱり歌を作るとか讀むとかいふ姉さんがいてね。君の事を話してやつたら、「あの歌人はあなたのお友達なんですか」つて喫驚してゐたよ。おれはそんなに俗人に見えるのかな。

 A 「歌人」は可かつたね。

 B 首をすくめることはないぢやないか。おれも實は最初變だと思つたよ。Aは歌人だ! 何んだか變だものな。しかし歌を作つてる以上はやつぱり歌人にや違ひないよ。おれもこれから一つ君を歌人扱ひにしてやらうと思つてるんだ。

[やぶちゃん注:「最初變だと思つたよ。」の句点は行末で組版上から打たれてない。全集で補った。]

 A 御馳走でもしてくれるのか。

 B 莫迦なことを言へ。一體歌人にしろ小說家にしろ、すべて文學者といはれる階級に屬する人間は無責任なものだ。何を書いても書いたことに責任は負わない。待てよ、これは、何日か君から聞いた議論だつたね。

 A どうだか。

 B どうだかつて、たしかに言つたよ。文藝上の作物は巧いにしろ拙いにしろ、それがそれだけで完了してると云ふ點に於て、人生の交涉は歷史上の事柄と同じく間接だ、とか何とか。(間)それはまあどうでも可いが、兎に角おれは今後無責任を君の特權として認めて置く。特待生だよ。

 A 許してくれ。おれは何よりもその特待生が嫌ひなんだ。何日だつけ北海道へ行く時靑森から船に乘つたら、船の事務長が知つてる奴だつたものだから、三等の切符を持つてるおれを無理矢理に一等室に入れたんだ。室だけならまだ可いが、食事の時間になつたらボーイを寄こしてとうとう食堂まで引張り出された。あんなに不愉快な飯を食つたことはない。

[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。全集も同じ。]

 B それは三等の切符を持つていた所爲せいだ。一等の切符さへ有れあ當り前ぢやないか。

 A 莫迦を言へ。人間は皆赤切符だ。

[やぶちゃん注:「赤切符」旅客列車車両に主に日本国有鉄道が定めた三等級制時代年以前)最下級の三等切符のこと。客車自体に等級ごとの帯色の塗り分けがあり、昭和一五年までは三等は赤であった。]

 B 人間は皆赤切符! やつぱり話せるな。おれが飯屋へ飛び込んで空樽に腰掛けるのもそれだ。

 A 何だい、うまい物うまい物つて言ふから何を食ふのかと思つたら、一膳飯屋へ行くのか。

 B 上は靜養軒の洋食から下は一膳飯、牛飯、大道の燒鳥に至るさ。飯屋にだつてうまい物は有るぜ。先刻來る時はとろろ飯を食つて來た。

[やぶちゃん注:「靜養軒」全集では『精養軒』とする。しかし筑摩版全集は底本が『創作』初出であるから、それを絶対的に正しいとは言い切れない(ここの場合は特に、校正係が勝手に正しい字に直してしまった可能性を排除出来ないのである)。しかも、この一見だらだらした枕部分が徹底した戯作である以上、啄木が確信犯で正しく「精養軒」とせずに「靜養軒」とズラした可能性を否定は出来ない。ここは私は底本のママとすることとした。]

 A 朝には何を食ふ。

 B 近所にミルクホールが有るから其處へ行く。君の歌も其處で讀んだんだ。何でも雜誌をとつてる家だからね。(間)さうさう、君は何日か短歌が滅びるとおれに言つたことがあるね。此頃その短歌滅亡論といふ奴が流行つて來たぢやないか。

[やぶちゃん注:「ミルクホール」和製英語。ミルクを提供することを目的とした明治・大正期に流行した飲食店。ウィキの「ミルクホール」によれば、『時の政府が日本人の体質改善を目的としてミルクを飲むことを推奨していた明治時代に数多く出現した』。『日本初のミルクホールは明治五(一八七二)年に開店』しており、『学生街や駅の近辺などで、学生を主な客層とした手軽な軽食店として発展した』。その『内部はカステラなどの洋菓子、食パン、豆菓子類をショーケースに置き』、他にも『新聞、官報、雑誌を置』いて、『牛乳、コーヒーなどの飲み物を庶民的な価格で提供した』。『コーヒーの一般化とともにコーヒーを提供するミルクホールが大正期に全盛を迎えたが、関東大震災を期に喫茶店に取って代わられ』た、とある。]

 A 流行るかね。おれの讀んだのは尾上柴舟といふ人の書いたのだけだ。

 B さうさ。おれの讀んだのもそれだ。然し一人が言ひ出す時分にや十人か五人は同じ事を考へてるもんだよ。

 A あれは尾上といふ人の歌そのものが行きづまつて來たといふ事實に立派な裏書をしたものだ。

 B 何を言ふ。そんなら君があの議論を唱へた時は、君の歌が行きづまつた時だつたのか。

 A さうさ。歌ばかりぢやない、何もかも行きづまつた時だつた。

 B しかしあれには色色理窟が書いてあつた。

 A 理窟は何にでも着くさ。ただ世の中のことは一つだつて理窟によつて推移してゐないだけだ。たとへば、近頃の歌は何首或は何十首を、一首一首引き拔いて見ないで全體として見るやうな傾向になつて來た。そんなら何故それらを初めから一つとして現さないか。一一分解して現す必要が何處にあるか、とあれに書いてあつたね。一應尤もに聞えるよ。しかしあの理窟に服從すると、人間は皆死ぬ間際まぎわまで待たなければ何も書けなくなるよ。歌は――文學は作家の個人性の表現だといふことを狹く解釋してるんだからね。假に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌ふにしてもだね。なるほどひと晚のことだから一つに纏めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連續はしてゐるが初めから全體になつてゐるのではない。きれぎれに頭に浮んで來る感じを後あとから後からときれぎれに歌つたつて何も差支へがないぢやないか。一つに纏める必要が何處にあると言ひたくなるね。

[やぶちゃん注:「感じ」は「感し」であるが、全集で訂した。]

 B 君はさうすつと歌は永久に滅びないと云ふのか。

[やぶちゃん注:「さうすつと」そうすると。]

 A おれは永久といふ言葉は嫌ひだ。

 B 永久でなくても可い。兎に角まだまだ歌は長生すると思ふのか。

 A 長生はする。昔から人生五十といふが、それでも八十位まで生きる人は澤山ある。それと同じ程度の長生はする。しかし死ぬ。

 B 何日になつたら八十になるだらう。

 A 日本の國語が統一される時さ。

 B もう大分統一されかかつてゐるぜ。小說はみんな時代語になつた。小學校の敎科書と詩も半分はなつて來た。新聞にだつて三分の一は時代語で書いてある。先を越してローマ字を使ふ人さへある。

[やぶちゃん注:「時代語」その当時の現代語或いは口語的表現表記のこと。]

 A それだけ混亂していたら澤山ぢやないか。

 B ふむ。さうすつとまだまだか。

 A まだまだ。日本は今三分の一まで來たところだよ。何もかも三分の一だ。所謂古い言葉と今の口語と比べてみても解る。正確に違つて來たのは、「なり」「なりけり」と「だ」「である」だけだ。それもまだまだ文章の上では併用されてゐる。音文字が採用されて、それで現すに不便な言葉がみんな淘汰される時が來なくちや歌は死なない。

 B 氣長い事を言ふなあ。君は元來性急な男だつたがなあ。

 A あまり性急だつたお蔭で氣長になつたのだ。

 B 悟つたね。

 A 絕望したのだ。

 B しかし兎に角今の我我の言葉が五とか七とかいふ調子を失つてるのは事實ぢやないか。

 A 「いかにさびしき夜なるぞや」「なんてさびしい晚だらう」どつちも七五調ぢやないか。

 B それは極めて稀な例だ。

 A 昔の人は五七調や七五調でばかり物を言つてゐたと思ふのか。莫迦。

 B これでも賢いぜ。

 A とはいふものの、五と七がだんだん亂れて來てるのは事實だね。五が六に延び、七が八に延びてゐる。そんならそれで歌にも字あまりを使へば濟むことだ。自分が今まで勝手に古い言葉を使つて來てゐて、今になつて不便だもないぢやないか。成るべく現代の言葉に近い言葉を使つて、それで三十一字に纏りかねたら字あまりにするさ。それで出來なけれあ言葉や形が古いんでなくつて頭が古いんだ。

 B それもさうだね。

 A のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分解することが出來る。歌の調子はまだまだ複雜になり得る餘地がある。昔は何日の間にか五七五、七七と二行に書くことになつてゐたのを、明治になつてから一本に書くことになつてゐた。今度はあれを壞すんだね。歌には一首一首各異つた調子がある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。

[やぶちゃん注:この台詞は全集と校合すると、二ヶ所に問題がある。まず「明治になつてから一本に書くことになつてゐた」の部分で、全集は『明治になつてから一本に書くことになつた』とする点である。整序された読みとしては全集のがよいと言えるものの、ではこの表記がとんでもなくおかしい、誤字・誤植の類いだと断言出来るかと言えば、それは無理であると私は思う。さればこそ、ここは底本のママに電子化した。

 B さうすると歌の前途はなかなか多望なことになるなあ。

 A 人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却つて便利だと思つてゐる。さうぢやないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出すには餘り接穗がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの數限りなき感じを、後から後からと常に經驗してゐる。多くの人はそれを輕蔑してゐる。輕蔑しないまでも殆ど無關心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを輕蔑することが出來ない。

[やぶちゃん注:「人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出すには餘り接穗がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの數限りなき感じを、後から後からと常に經驗してゐる。」は全集では、『人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを言ひ出すには余り接穗がなくてとうとう一生言ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に經驗してゐる。』と二ヶ所が「思ひ出す」ではなく、「言ひ出す」となっているのである。確かに歌を語る文脈では「言ひ出す」の方がしっくりはくるが、では「思ひ出す」はおかしいかといえば、少しもおかしくないし、私は躓かない。忘れていないが、思い出すことが出来難い記憶は脳生理学的にも心理学的にも存在する。従って底本のママとする。

 B 待てよ。ああさうか。一分は六十秒なりの論法だね。

[やぶちゃん注:底本は「ああさうか」の後に句点はない。全集に従い、特異的に訂した。]

 A さうさ。一生に二度とは歸つて來ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。實際便利だからね。歌といふ詩形を持つてるといふことは、我我日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。(間)おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。しかしその歌も滅亡する。理窟からでなく内部から滅亡する。(間)しかしそれはまだまだ、早く滅亡すれば可いと思ふがまだまだだ。(間)日本はまだ三分の一だ。

[やぶちゃん注:太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。以下も同じ。

「しかしそれはまだまだ、」全集は「しかしそれはまだまだ早く滅亡すれば可いと思ふがまだまだだ。」であるが、こちらの方がいい。]

 B いのちを愛するつてのは可いね。君は君のいのちを愛して歌を作り、おれはおれのいのちを愛してうまい物を食つてあるく。似たね。

 A (間)おれはしかし、本當のところはおれに歌なんか作らせたくない。

 B どういふ意味だ。君はやつぱり歌人だよ。歌人だつて可いぢやないか。しつかりやるさ。

 A おれはおれに歌を作らせるよりも、もつと深くおれを愛してゐる。

 B 解らんな。

 A 解らんかな。(間)しかしこれは言葉でいふと極くつまらんことになる。

 B 歌のやうな小さいものに全生命を託することが出來ないといふのか。

 A おれは初めから歌に全生命を託さうと思つたことなんかない。(間)何にだつて全生命を託することが出來るもんか。(間)おれはおれを愛してはゐるが、其のおれ自身だつてあまり信用してはゐない。

 B (やや突然に)おい、飯食ひに行かんか。(間、獨語するやうに)おれも腹のへつた時はそんな氣持のすることがあるなあ。

 

2020/03/10

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その五) /歌集「悲しき玩具」歌集パート~了

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。以下、自宅療養中のもの。確実に様態は悪化していった。]

 

   *

 

かかる目(め)に

 すでに幾度(いくたび)會(あ)へることぞ!

成(な)るがままに成(な)れと今(いま)は思(おも)ふなり。

 

 かかる目に

  すでに幾度會へることぞ!

 成るがままに成れと今は思ふなり。

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『新日本』明治四四(一九二一)年七月号。評釈によれば、『当時』、『啄木と母の』肺結核『も始まっていた』とある。]

 

   *

 

月(つき)に三十圓(ゑん)もあれば、田舍(ゐなか)にては、

樂(らく)に暮(くら)せると――

 ひよつと思(おも)へる。

 

 月に三十圓もあれば、田舍にては、

 樂に暮せると――

  ひよつと思へる。

 

   *

 

今日(けふ)もまた胸(むね)に痛(いた)みあり。

 死(し)ぬならば、

 ふるさとに行(ゆ)きて死(し)なむと思(おも)ふ。

 

 今日もまた胸に痛みあり。

  死ぬならば、

  ふるさとに行きて死なむと思ふ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『新日本』明治四四(一九二一)年七月号。『乾性肋膜炎が起こったための痛みを歌ったもの』で、同年『七月一日』附の『加藤四郎宛書簡によると、啄木は六月の初めから胸が痛み出し、「少しでも身体を動かすと、叫びたい程痛みました。それで病院に行く訳に行かず、また医者に来て貰ふ金もなく、一人で悲観し寝てゐました」と』(前月初旬の最悪の状態を)書き記している、とある。]

 

   *

 

いつしかに夏(なつ)となれりけり。

 やみあがりの目(め)にこころよき

 雨(あめ)の明(あか)るさ!

 

 いつしかに夏となれりけり。

  やみあがりの目にこころよき

  雨の明るさ!

[やぶちゃん注:初出は前に同じ。岩城氏前掲書には、『啄木の胸の痛みも六月十二、三日ごろから次第に軽くなり、下旬には痛みも消え、熱も三十七度四分以上に』は『上がらなくなったので、「この湿潤な天候の去り次第出社いたします。」』(加藤四郎宛同年七月一日附書簡)『と考えるようになった』とある。結核によくある疑似的緩解期である。]

 

   *

 

病(や)みて四月(ぐわつ)――

 そのときどきに變(かは)りたる

 くすりの味(あぢ)もなつかしきかな。

 

 病みて四月――

  そのときどきに變りたる

  くすりの味もなつかしきかな。

[やぶちゃん注:初出同前。岩城氏前掲書に、東京大学附属『病院への入院は二月四日で、この歌の尽くされたのは六月であるから、「病みて四月――」とあるわけである。啄木は六月二十日』頃、『大学病院』で再診を受けた結果、そこでは『痛みのあったのは乾性肋膜炎のためで、それももうなおりかけているといわれ、薬も変わった』のであったと述べられ、『四か月になる長患いをしみじみ回顧しながら、病気が快方に向かっていると信じる安堵感がにじみ出ている』と評しておられる。ただ、私は単純に「四月」が「四ヶ月」を指す以上は、「よつき」と読みたくはなる。実は岩城氏の評釈本文では「四月」に『月(つき)』とルビが振られてあるのであるが、初版も筑摩版全集(岩城氏も編集委員の一人)も次の一首を含め、孰れも「ぐわつ」なのである。しかも評釈にルビを変更したという注はない。確信犯であるとしても不審である。

 

   *

 

病(や)みて四月(ぐわつ)――

 その間(ま)にも、猶(なほ)、目(め)に見(み)えて、

 わが子(こ)の脊丈(せたけ)のびしかなしみ。

 

 病みて四月――

  その間にも、猶、目に見えて、

  わが子の脊丈のびしかなしみ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『文章世界』明治四四(一九二一)年七月号(以下、「お菓子貰ふ時も忘れて、」までの九首総て同じ)。「わが子」は言わずもがな、長女京子。]

 

   *

 

すこやかに、

脊丈(せたけ)のびゆく子(こ)を見(み)つつ、

 われの日每(ひごと)にさびしきは何(な)ぞ。

 

 すこやかに、

 脊丈のびゆく子を見つつ、

  われの日每にさびしきは何ぞ。

 

   *

 

まくら邊(べ)に子(こ)を坐(すは)らせて、

まじまじとその顏(かほ)を見(み)れば、

 逃(に)げてゆきしかな。

 

 まくら邊に子を坐らせて、

 まじまじとその顏を見れば、

  逃げてゆきしかな。

 

   *

 

いつも、子(こ)を

 うるさきものに思(おも)ひゐし間(あひだ)に、

その子(こ)、五歲(さい)になれり。

 

 いつも、子を

  うるさきものに思ひゐし間に、

 その子、五歲になれり。

 

   *

 

その親(おや)にも、

 親(おや)の親(おや)にも似るなかれ――

かく汝(な)が父(ちち)は思(おも)へるぞ、子(こ)よ。

 

 その親にも、

  親の親にも似るなかれ――

 かく汝が父は思へるぞ、子よ。

[やぶちゃん注:啄木自身のみではなく、父一禎も全く同じ非社会的破綻者の存在であることの痛烈な認識がダイレクトに表出している。]

 

   *

 

かなしきは、

 (われもしかりき)

 叱(しか)れども、打(う)てども泣(な)かぬ兒(こ)の心(こころ)なる。

 

 かなしきは、

  (われもしかりき)

  叱れども、打てども泣かぬ兒の心なる。

[やぶちゃん注:感覚的挿入の前後ブレイクを示す丸括弧用法は特異点。非常に効果的。しかも、前歌と対呼応して或る何とも言えぬペーソスの余韻を残す。]

 

   *

 

「勞働者」「革命」などいふ言葉を

  聞きおぼえたる

  五歲の子かな。

 

「勞働者」「革命」などいふ言葉を

   聞きおぼえたる

   五歲の子かな。

[やぶちゃん注:これは筑摩版全集でも再現されていないが、初版は以上の後二行が二字下げ位置から始まっている。但し、これは前後の歌と比較すると、実際には本文組の一字下げ位置で、本首の一行目の頭の鍵括弧が特異的に通常開始位置の直上にはみ出して打たれていることが判る。また、二字下げというのは他に見られない特異点でもあるから、全集の校訂も正当とは思う。しかし、私は底本の単独の一首の見た目の字並びがはっきりと以上である以上、上のように電子化した。]

 

   *

 

時(とき)として、

 あらん限(かぎ)りの聲(こゑ)を出し、

唱歌(しやうか)をうたふ子(こ)をほめてみる。

 

 時として、

  あらん限りの聲を出し、

 唱歌をうたふ子をほめてみる。

 

   *

 

 何思(なにおも)ひけむ――

玩具(おもちや)をすてておとなしく、

わが側(そば)に來(き)て子(こ)の坐(すわ)りたる。

 

  何思ひけむ――

 玩具をすてておとなしく、

 わが側に來て子の坐りたる。

 

   *

 

お菓子(かし)貰(もら)ふ時(とき)も忘(わす)れて、

 二階(かい)より、

 町(まち)の往來(ゆきき)を眺(なが)むる子(こ)かな。

 

 お菓子貰ふ時も忘れて、

  二階より、

  町の往來を眺むる子かな。

 

   *

 

新(あた)しきインクの匂(にほ)ひ、

目(め)に沁(し)むもかなしや。

 いつか庭(には)の靑(あを)めり。

 

 新しきインクの匂ひ、

 目に沁むもかなしや。

  いつか庭の靑めり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は荻原井泉水主宰の自由律俳誌『層雲』明治四四(一九二一)年七月号(以下、「何か、かう、書いてみたくなりて、」までの六首も同じ)。岩城氏は今井泰子氏の評釈を引かれ、ここで啄木の手にある新刊書は北原白秋から贈呈された詩集「思ひ出」(明治四十四年六月に「一握の砂」や本「悲しき玩具」と同じ東雲堂書店から刊)であろうとする。因みに、私は中学時分から教員になった二十代初め頃までずっと『層雲』の誌友であった(私の句集「鬼火」参照)し、私の卒業論文は『層雲』の知られた俳人「尾崎放哉論」であり、私のサイトには「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版正字體版)」その他もある。]

 

   *

 

ひとところ、疊(たたみ)を見(み)つめてありし間(ま)の

 その思(おも)ひを、

妻(つま)よ、語(かた)れといふか。

 

 ひとところ、疊を見つめてありし間の

  その思ひを、

 妻よ、語れといふか。

 

   *

 

あの年(とし)のゆく春(はる)のころ、

眼(め)をやみてかけし黑眼鏡(くろめがね)、――

 こはしやしにけむ。

 

 あの年のゆく春のころ、

 眼をやみてかけし黑眼鏡、――

  こはしやしにけむ。

[やぶちゃん注:「こはしやしにけむ」あれはもう壊してしまったものだったろうか、の意。

「一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 一」に、

 

 眼を病みて黑き眼鏡をかけし頃

 その頃よ

 一人泣くをおぼえし

 

があり、そこで私は、「岩城氏前掲書によれば、友人『宮崎郁雨の思い出によると』、『中学校を退学した直後の啄木は「くろめもんつ」と呼ばれ』てい『たという。黒眼鏡の紋付姿の男の意』という。但し、この時期に彼が眼疾患を患っていたことは年譜などには見られない」と述べたが、同書の本歌の岩城氏の評釈には、『明治三十五年』(一九〇二年)、『盛岡中学校を退学してまもないころ、眼を病んで黒眼鏡をかけ、紋付姿で出歩いたので盛岡女学校の生徒たちから、「くろもんつ」というあだ名をつけられたという。この一首はそのころの思い出であろうか』とある。]

 

   *

 

藥(くすり)のむことを忘(わす)れて、

 ひさしぶりに、

母(はは)に叱(しか)られしをうれしと思(おも)へる。

 

 藥のむことを忘れて、

  ひさしぶりに、

 母に叱られしをうれしと思へる。

 

   *

 

枕邊(まくらべ)の障子(しやうじ)あけさせて、

空(そら)を見(み)る癖(くせ)もつけるかな、――

 長(なが)き病(やまひ)に。

 

 枕邊の障子あけさせて、

 空を見る癖もつけるかな、――

  長き病に。

 

   *

 

おとなしき家畜(かちく)のごとき

 心(こころ)となる、

熱(ねつ)やや高(たか)き日(ひ)のたよりなさ。

 

 おとなしき家畜のごとき

  心となる、

 熱やや高き日のたよりなさ。

 

   *

 

何(なに)か、かう、書(か)いてみたくなりて、

 ペンを取(と)りぬ――

花活(はないけ)の花(はな)あたらしき朝(あさ)。

 

 何か、かう、書いてみたくなりて、

  ペンを取りぬ――

 花活の花あたらしき朝。

 

   *

 

放(はな)たれし女(をんな)のごとく、

わが妻(つま)の振舞(ふるま)ふ日(ひ)なり。

 ダリヤを見入(みい)る。

 

 放たれし女のごとく、

 わが妻の振舞ふ日なり。

  ダリヤを見入る。

[やぶちゃん注:「放たれし女」「追放された女」の意。啄木の妻節子は、病態の重くなる中で疑心暗鬼となった啄木とさまざまな確執があり(既に述べた通り、親友郁雨(啄木の妻節子の妹の夫でもあった)とさえ、啄木の死の前年の明治四四(一九一一)年九月、郁雨が節子に送った無記名の手紙の中に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを、啄木が読んで、これを妻の不貞とかんぐり、啄木は節子に離縁を申し渡すとともに、郁雨と絶交している。但し、亡くなるまで節子との離婚は成立していない)、彼女は啄木の死の一ヶ月前に亡くなる母カツとの折り合いも始終悪かった。]

 

   *

 

あてもなき金(かね)などを待(ま)つ思(おも)ひかな。

 寢(ね)つ、起(お)きつして、

 今日(けふ)も暮(くら)したり。

 

 あてもなき金などを待つ思ひかな。

  寢つ、起きつして、

  今日も暮したり。

 

   *

 

何(なに)もかもいやになりゆく

この氣持(きもち)よ。

 思(おも)ひ出(だ)しては煙草(たばこ)を吸(す)ふなり。

 

 何もかもいやになりゆく

 この氣持よ。

  思ひ出しては煙草を吸ふなり。

 

   *

 

或(あ)る市(まち)にゐし頃(ころ)の事(こと)として、

 友(とも)の語(かた)る

戀(こひ)がたりに噓(うそ)の交(まじ)るかなしさ。

 

 或る市にゐし頃の事として、

  友の語る

 戀がたりに噓の交るかなしさ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『層雲』明治四四(一九二一)年七月号。その評釈で、『宮崎郁雨はこの歌について、これは友の嘘のまじる恋物語を「咎めようとしたのではなく、大方の恋物語と嘘や粉飾などとの宿命的な繋がりに深く思入りながら、きっとその友と同じようにそこばく嘘を交えた彼自身の函館時代の恋物語などを、悲しく懐しく迫想して居たのではなかろうか。とすれば、その彼自身こそがこの友のモデルだと言えるかも解らない」と述べている。とすると』、『この一首は「宮崎のように『友』を啄木自身と思って読むほうがわかりやすい歌である。」(今井泰子氏)ということになろう』と述べておられる。同感である。]

 

   *

 

ひさしぶりに、

 ふと聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)ひてみぬ――

蠅(はひ)の兩手(りやうて)を揉(も)むが可笑(をか)しさに。

 

 ひさしぶりに、

  ふと聲を出して笑ひてみぬ――

 蠅の兩手を揉むが可笑しさに。

 

   *

 

胸(むね)いたむ日(ひ)のかなしみも、

 かをりよき煙草(たばこ)の如(ごと)く、

 棄(す)てがたきかな。

 

 胸いたむ日のかなしみも、

  かをりよき煙草の如く、

  棄てがたきかな。

 

   *

 

何(なに)か一(ひと)つ騷(さは)ぎを起(おこ)してみたかりし、

 先刻(さつき)の我(われ)を

 いとしと思(おも)へる。

 

 何か一つ騷ぎを起してみたかりし、

  先刻の我を

  いとしと思へる。

 

   *

 

五歲になる子に、何故ともなく、

 ソニヤといふ露西亞名をつけて、

 呼びてはよろこぶ。

 

 五歲になる子に、何故ともなく、

  ソニヤといふ露西亞名をつけて、

  呼びてはよろこぶ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『層雲』明治四四(一九二一)年七月号。その評釈で、『啄木が京子につけた「ソニヤ」は彼がクロポトキンの自伝「一革命家の思い出」で学んだ、ロシアの女性革命家ソフィア・ペロフスカヤ』(ソフィア・リヴォーヴナ・ペロフスカヤ(Со́фья Льво́вна Перо́вская/ラテン文字転写:Sophia Lvovna Perovskaya 一八五三年~一八八一年:ペテルブルク出身。父親は州知事を務めた名門貴族の家庭に生まれ、アラルチンスキー女子大学入学後、一八七一年から一八七二年にかけて三名の女友達とともにナロードニキ運動の復興を目指す秘密結社「チャイコフスキー団」に参加、学生時代から革命運動に加わり、投獄と脱獄を繰り返した。その後、テロリズム集団「人民の意志」に加わり、皇帝暗殺を主導し成功した)『のことであろう。彼女は虚無党員として一八八一年三月一日ロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺に成功したが』、『捕えられ』、『四月三日』、絞首刑に処せられた。『ペロフスカヤが三月二十二日獄中からクリミヤの母』『に送った手紙の末尾に「Your Sonya」とあり、彼女の愛称がソニヤであったことを示している』とある。サイト「RUSSIA BEYOND」(日本語版)のこちらによれば、処刑前に彼女が母親に送った手紙には、「愛するママ、私を信じて……。私は自分の信念が命じるままに生きてきました。そうしないわけにはいかなかったのです」とあったという。ロシア語のソニアは「Соня」。

 なお、本歌は特異点で、見開き「90」「91」ページの「90」ページ冒頭に配されてあるが、その後は「*」を入れて、一首分(右ページ後半分)が空白となっている。本書刊行に尽力し、主導した土岐哀果の本書の跋(後に電子化する)によれば、『第九十頁に一首空けてあるが、ノートに、あすこで頁が更めてあるから、それもそのまゝにした』とある。これは、ここでここまでの初出の概ね明治四四(一九二一)年七月分までのものが終わり、残りの歌群の最後までが『詩歌』の同年九月号初出に転じるのに対応しているインターミッションととれる。空白も再現した。

 

   *

 

 

 

 

 

解(と)けがたき

不和(ふわ)のあひだに身(み)を處(しよ)して、

 ひとりかなしく今日(けふ)も怒(いか)れり。

 

 解けがたき

 不和のあひだに身を處して、

  ひとりかなしく今日も怒れり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『詩歌』明治四四(一九二一)年九月号(以下最終歌まで同じ)で、『「猫を飼はば」と題する十七首中の一首。この年八月二十一日の啄木日記に「歌十七首を作つて夜『詩歌』の前田夕暮に送る。」とあるので、この日の作歌であることがわかるが、この十七首は活字となった啄木の最後の作品である。この一首は啄木の母親カツと妻節子の解決しがたい不和と、そこから生じる作者自身の苦悩を歌ったもの』とある。]

 

   *

 

猫(ねこ)を飼(か)はば、

その猫(ねこ)がまた爭(あらそ)ひの種(たね)となるらむ。

 かなしきわが家(いへ)。

 

 猫を飼はば、

 その猫がまた爭ひの種となるらむ。

  かなしきわが家。

 

   *

 

俺(おれ)ひとり下宿屋(げしゆくや)にやりてくれぬかと、

 今日(けふ)も、あやふく、

 いひ出(い)でしかな。

 

 俺ひとり下宿屋にやりてくれぬかと、

  今日も、あやふく、

  いひ出でしかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書では、措辞を問題にされ、『「あやふく」は「すんでのことで、もう少しで」の意。したがってこれに対応する言い方としては「いひ出でんとす。」とあるべきところ。しかしこの歌は「いひ出でし」とあり、この「し」は過去の助動詞であるから、すでに言い出したことになる。そうすると』、『上の「あやふく」は「すんでのこと」でなく、「思はずに」とか「つい」とかの意味の語でなければならない』と述べておられる。「あやふく」にはそのような意味はないので、確かに表現としては齟齬がある。]

 

   *

 

ある日(ひ)、ふと、やまひを忘(わす)れ、

牛(うし)の啼な)く眞似(まね)をしてみぬ、――

 妻子(さいし)の留守(るす)に。

 

 ある日、ふと、やまひを忘れ、

 牛の啼く眞似をしてみぬ、――

  妻子の留守に。

 

   *

 

かなしきは我(わ)が父(ちち)!

 今日(けふ)も新聞(しんぶん)を讀(よ)みあきて、

 庭(には)に小蟻(こあり)と遊(あそ)べり。

 

 かなしきは我が父!

  今日も新聞を讀みあきて、

  庭に小蟻と遊べり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『宝徳寺の住職を罷免されて以来、ろくろくとしてなすところのなかった父一禎のわびしい境遇を歌ったもの。父親はこの歌の作られた二週間後の九月三日に再び家出して、北海道に次女の山本トラを頼った』とある。]

 

   *

 

ただ一人(ひとり)の

をとこの子(こ)なる我(われ)はかく育(そだ)てり。

 父母(ふぼ)もかなしかるらむ。

 

 ただ一人の

 をとこの子なる我はかく育てり。

  父母もかなしかるらむ。

[やぶちゃん注:啄木は長姉サダ・次姉トラ・妹ミツで、男子は彼一人であった。]

 

   *

 

茶(ちや)まで斷(た)ちて、

わが平復(へいふく)を祈(いの)りたまふ

 母(はは)の今日(けふ)また何(なに)か怒(いか)れる。

 

 茶まで斷ちて、

 わが平復を祈りたまふ

  母の今日また何か怒れる。

 

   *

 

今日ひよつと近所の子等と遊びたくなり、

呼べど來らず。

 こころむづかし。

 

 今日ひよつと近所の子等と遊びたくなり、

 呼べど來らず。

  こころむづかし。

 

   *

 

やまひ癒(い)えず、

死(し)なず、

 日每(ひごと)に心(こころ)のみ險(けは)しくなれる七八月(ななやつき)かな。

 

 やまひ癒えず、

 死なず、

  日每に心のみ險しくなれる七八月かな。

[やぶちゃん注:「七八月(ななやつき)」とするが、これは「七、八箇月」という謂いではなく、この明治四四(一九二一)年の七月から八月にかけての謂いである。全集年譜(岩城氏編)によれば、同年七月四日に発熱が三十八度九分に達し、以後、一週間に亙って高熱が続き、病床に呻吟しており、同月二十八日には、東京大学病院にて妻節子が「肺尖加答兒(カタル)」(肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変)で伝染の危険性を指摘されている。また、母カツも八月(或いは九月上旬)に喀血している。]

 

   *

 

買(か)ひおきし

藥(くすり)つきたる朝(あさ)に來(き)し

 友とも)のなさけの爲替(かはせ)のかなしさ。

 

 買ひおきし

 藥つきたる朝に來し

  友のなさけの爲替のかなしさ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、この「友」は宮崎郁雨である。]

 

   *

 

兒(こ)を叱(しか)れば、

泣(な)いて、寢(ね)いりぬ。

 口(くち)少(すこ)しあけし寢顏(ねがほ)にさはりてみるかな。

 

 兒を叱れば、

 泣いて、寢いりぬ。

  口少しあけし寢顏にさはりてみるかな。

 

   *

 

何(なに)がなしに

肺(はい)が小(ちい)さくなれる如(ごと)く思(おも)ひて起(お)きぬ――

 秋近(あきちか)き朝(あさ)。

 

 何がなしに

 肺が小さくなれる如く思ひて起きぬ――

  秋近き朝。

 

   *

 

秋近(あきちか)し!

 電燈(でんとう)の球(たま)のぬくもりの

 さはれば指(ゆび)の皮膚(ひふ)に親(した)しき。

 

 秋近し!

  電燈の球のぬくもりの

  さはれば指の皮膚に親しき。

 [やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『啄木は八月七日宮崎郁雨の援助で小石川区久堅町』(ひさかたちょう)『七十四番地の借家に転居した』(それまでの喜之床(きのとこ)からは既に立ち退きを迫られていた)。『この一首にはこの新居で秋を迎えようとする気持が歌われており、秋の訪れをいち早く電球のぬくもりに感じとっている』とある。現在の文京区小石川五丁目のここ(グーグル・マップ・データ)で、ここで啄木は亡くなった。]

 

   *

 

ひる寢(ね)せし兒(こ)の枕邊(まくらべ)に

人形(にんげう)を買(か)ひ來(き)てかざり、

 ひとり樂(たの)しむ。

 

 ひる寢せし兒の枕邊に

 人形を買ひ來てかざり、

  ひとり樂しむ。

[やぶちゃん注:「にんげう」はママ。]

 

   *

 

クリストを人(ひと)なりといへば、

 妹(いもうと)の眼(め)が、かなしくも、

 われをあはれむ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書評釈に(太字部は底本では傍点「ヽ」)、『啄木の妹光子は、日本聖公会の婦人教役者(伝導師)をめざして名古屋の聖使女学院に在学していたが、夏休みの八月十日から九月十四日まで啄木のもとに滞在した。啄木はこの年一月九日瀬川深宛の書簡で、「妹は今名古屋の耶蘇の学校にゐる。ハイブルウーマンになるんださうだ、妹は天国の存在を信じてゐる。悲しくも信じてゐる――」と書いているが、この一首は神の存在を信じる妹を悲しむ「兄」と、神の存在を信ぜず』に『人間本位論者の兄を悲しむ「妹」の、悲しい行き違いを歌ったもの』とある。]

 

   *

 

緣先(えんさき)にまくら出(だ)させて、

 ひさしぶりに、

 ゆふべの空(そら)にしたしめるかな。

 

 緣先にまくら出させて、

  ひさしぶりに、

  ゆふべの空にしたしめるかな。

 

   *

 

庭(には)のそとを白(しろ)き犬(いぬ)ゆけり。

 ふりむきて、

 犬(いぬ)を飼(か)はむと妻(つま)にはかれる。

 

 庭のそとを白き犬ゆけり。

  ふりむきて、

  犬を飼はむと妻にはかれる。

[やぶちゃん注:歌集「悲しき玩具」の歌集パートはこれを以って終わっている。本注釈で多大にお世話になった學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『詩歌』明治四四(一九二一)年九月号(「猫を飼はば、」からここまで総て同じ)で、『歌稿ノートはこの歌の次に「大跨に椽側を歩けば、」という書きかけの歌があって終わっている。「悲しき玩具」は本郷弓町時代から小石川久堅町時代への病状の推移を背景として詠まれたもので、不安と焦燥と憤怒を交錯させながら、絶望を媒介とする諦念の世界に向かっている。しかしそうした闘病の生活の間にも、刹那の生命を愛惜する心が、それにふさわしい表現形式で珠玉のような作品を生み、彼の歌風の見事な結実を示している。しかしそれは同時に啄木短歌の終焉でもあった』と擱筆しておられる。]

2020/03/09

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 八 空想の猪


     八 空 想 の 猪

 

Gensounosisi

 [やぶちゃん注:無題の本篇の挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。]

 嘗て或る若い女房が、朝未だ仄暗い内に、村の、アイチの入の山へ、刈干の草を背負ひに行くと、路の行手へ灰色した小豚程の獸が現はれて、前に立つてコロコロ步いて行つたと言ふ。其時獸の方では、後から人間の來る事などは、一向感付かぬらしかつた。女房も氣丈者で、平氣で後を隨いて、ものゝ三丁も行つたが、その内獸は脇の草叢へ外れてしまつた。家へ歸つてその話をすると、老人からそれこそ猪だと聞かされたが、實はビツクリするかと思ひの外、アンナ物が猪だつたかと、案外な顏付をしたさうである。

[やぶちゃん注:「アイチの入」(いり)「の山」入会地(いりあいち)である山のことであろう(正字なら「會地」で歴史的仮名遣は「あひち」)。中世以降の特定のメンバーによる共有地のことで、一定地域の住民(荘園の領民或いは部落や村)が山林・原野・池・沼・海などを共同で管理し、共同で収益を得て分配することが許された土地を指す。

「三丁」三町。三百二十七メートルほど。]

 話に聞いた許りでなく、現に田圃の稻を踏みにぢつたり、ノタを打ち、蚯蚓を掘つた跡を見て、實際の姿を想像して居た者が、一度び[やぶちゃん注:「ひとたび」。]自然その儘を見た場合には、此女房と同じ物足りなさを感じたのである。誠にアンナ物が猪だつたのである。

[やぶちゃん注:「ノタを打ち」「ノタ」でイノシシやシカなどが、泥や泥水を浴びることを指す。そうした場所・痕跡を「沼田場」(ぬたば)「のたば」等とも呼ぶ。一般には体表に付着しているダニなどの寄生虫や汚れを落とすための行動とされる。]

 自分等の經驗でも、猪は恐ろしい物、强い獸と、物心つく時から聽いてゐた。それが或時屋敷の奧の窪から、狩人に舁がれてゆく姿を、初めて見た時は、同じ幻滅を感じたものであつた。それで又一方には、丸で別の猪の世界を想像してゐたのだから不思議である。どうしても實感の方が壓へられ勝であつた。

 幼少の頃八名郡宇里の山里から來た杣が、家に泊まつてゐた事がある。五十五六の極く實直らしい、話好きの男だつた。妙な事にその男の話が、いつも狩りや獸の事ばかりであつた。日數が經つて初めて判つたのだが、前身が狩人だつたのである。どうしてヨキ(斧)を持つやうに成つたか聞きもせなんだが、凡そ一ヶ月程の間に、數限りなく狩の話や獸の話をしてくれた。その内今だに忘れられぬほどの感動を與へられたのは、猪と鹿の比較談であつた。山のタワなど遁げてゆく鹿を狙つて擊つた時、旨く急所に當ると、文字通り屛風を倒す如く轉がつて、何とも、言はれぬ快哉であるが、猪の方だとさうは參らなかつた。如何に急所を擊たれても、決して鹿のやうな倒れ方はせなんだ。彈丸を受けてからも尙二三步肢を運んで、靜かに前屈みに、ツクバイ込むと言ふのである。その話を聽いて居ると、如何にも剛勇の士の最後を見るやうで、猪の猪らしい態度が、名實共に適つた如く感じられたものである。

[やぶちゃん注:「八名郡宇里」現在、愛知県新城市八名井の名が残るが、実際にはそこから豊川の左岸(東岸)の広域(静岡県境まで)を指していた。

「杣」「そま」。木樵(きこり)。

「ツクバイ込む」四肢を伸ばして這いつくばるように最期を迎えることを謂う。

「適つた」「かなつた」。]

 或は又恐ろしい手負猪の話であつた。これに掛つたが最後命は無いと聽かされて、牙を剝いた物凄い姿を胸に描いて見た。その恐ろしい手負猪を、傍へ引寄せてから旨く引外して、後の谷へ眞逆樣に突こかしたと云ふ村の某の逸話を、何時迄も信じてゐて、幾度か人にも話したものであつた。

[やぶちゃん注:「引外して」向かってくるのをさっと避(よ)けて。]

 さうかと思ふと劇しい追狩[やぶちゃん注:「おひがり」。]の最中に、遁げながらも幾度か引返して獵犬を追捲るといふ話を、恍惚として聽入つたものである。幾度聞いても厭ぬ[やぶちゃん注:「あかぬ」。]興味を覺えたが、その度に空想の世界が、段々根を張つて伸びてしまつたのである。

 

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 フエフキダイ

 

棘鬣一種

フエフキダイ

又 クチメ

 

Huehukidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。体色に難があるが、取り敢えず条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus としておく。但し、フエフキダイ科 Lethrinidae の同属種である可能性もある。異名が多いが、「クチメ」は同種の「クチビ」「クチブ」「クチミ」辺りの地方名と酷似する。]

三州奇談卷之三 亡生有ㇾ因

    亡生有ㇾ因

 四夢は所謂虛實思端といへ共、多くは病(やまひ)より出て氣虛による。別に四夢あり。無明習氣(むみやうじつけ)・四大偏僧・巡遊舊識・善惡先徴、是華嚴の說とかや。然共定難き浮世も又一夢ならん。

[やぶちゃん注:表題は「亡生(ばう/しやう)因有り」と訓読しておく。死と生にはしっかりのとしたそうなるべき因縁がある、という意でとっておく。

「四夢」仏教用語にはこれと「五夢」というのがあることが仏教論文の目次では判るが、その内容に就いてはネットで検索出来ない。但し、如来は夢は見ないとされているから、これらは筆者の謂いからも迷妄に発する悪しき様態を指すことは間違いあるまい。筆者が言う前者は多分に現在の精神病・神経症の類いを指しており、後者は生活や生涯の因果応報に依るところの数奇変容を指しているようには感じられはする。

「虛實思端」不詳。虚と実の想いの接点に生ずるということか。

「氣虛」漢方医学で生命活動の根源的なエネルギーである「気」の量が不足を生じた病態を広く指す。

「無明習氣」「じつけ(じっけ)」の読みは信頼出来る複数の仏教サイトに拠った。煩悩の主体である肉体と離れたり、真如を覚ってもなお、習慣となって残っている煩悩の働きを指す語のようである。恩田彰氏の論文「井上円了の心理学の業績」(PDFこちらからダウン・ロード可能)によれば、井上円了が「仏教夢説一班」(明治三五(一九〇二)年)で、『仏教の中に見られる夢の事例をあげ、その種類、説明、夢の仏教的意義について考察し』ているが、『夢の生起の理由として、たとえば無明習気(煩悩)・善悪先徴(善悪・吉凶の夢告)・四大偏増(心身の不安定)・巡遊旧識(見聞したことへの思い)などを引用し』、『これは心理的説明であり、いずれも納得できるとしている。しかし仏教では、無我無常であり、世界の現象は虚仮無実であることを証明するのに、夢をあげて、夢、幻のごとしと説いているとまとめている』とあるのが参考になる。

「四大偏僧」「四大」は本来は万物の構成要素とされる地・水・火・風の四元素を言うが、それから形成されている人の肉体をも指し、ここはそれで、人が最悪の憎悪に代表される病的様態に偏頗することであろう。

「巡遊舊識」この熟語そのものがフラットな意味で、自身が以前に各地で実体験した知識や感想の意がある。しかしそれが、正常に論理的に現在の思考と意味深く結びつくことなしに、脳内に突然生起する様態を病的な「夢」と捉えているように私には思われる。

「善惡先徴」これも私の個人的印象であるが、後づけによる、本来は意味のない夢に、牽強付会的な解釈をして予兆とする夢告の神秘性を逆に退けていると言えるのではあるまいか? 但し、筆者は少なくともこの夢の予言を積極的に肯定していることが後の展開で判る。]

 金澤家中奧田十兵衞は、男女の子多くありし。惣領の娘を高橋甚五郞に嫁す。是又男女二子あり。此婦人元文元年に產せしに、胎死して產後大病にて、其頃の大醫手を盡せ共、定業にや、翌四月朔日に廿三歲にして死去、末期に遺言して、

「只我娘他人の手に育てんは不便なれば、我妹を再嫁してたべ、只娘の事のみ心にかゝる間、宜しく介抱賴む」

の詞のみ有て終りぬ。則(すなはち)菩提所卯辰山(うだつやま)眞成寺(しんじやうじ)に葬る。

[やぶちゃん注:「奧田十兵衞」藩士に奥田姓は複数いる。なお、一般藩士や町人の場合、人物特定することが殆んど意味を成さないケースがあるので、以降、特にその職掌が話柄と密接に絡む場合や、著名人と思しい人名のみに注を附すこととする。悪しからず。

「元文元年」一七三六年。

「介抱」養育。

「眞成寺」金沢市東山の卯辰山の東山麓の寺院群の中にある日蓮宗妙運山真成寺(グーグル・マップ・データ)。]

 其後甚五郞方には遺言のごとく妹を迎へ、姊娘は愛子(まなこ)なればとて、十兵衞方へ引取り育しに、十五歲の頃松坂右衞門妻と成りて岩五郞と云ふを生む。

[やぶちゃん注:この最後の箇所は国書刊行会本では『前田兵部妻と成(なり)て梅五郞と云(いふ)をうむ』と名前が異様に異なる。加越能三州奇談『前田兵部妾』(めかけ)。「近世奇談全集」は底本と同じである。これは判読以前に何らかの恣意的な操作の可能性が疑われる。「前田」姓であることを藩主主家に遠慮したものかも知れない。]

 其後此女不快の事ありしが、頃は三月下旬なりしが、ふしぎの夢を見たり。

 其身死すと覺えて、何國(いづく)ともなく曠々(くわうくわう)たる野に至るに、先へ人行く。是に隨ふと覺えて步み行くに、慥に卵辰山眞成寺の卵塔に至りしと思ふ。向ひに大川一筋ありて、其川岸に彳(たたず)むに、折節川の向ひに容顏美麗の女性、綾羅(あやぎぬ)をまとひて立給ひ、我を招き給ふに、いつしか川を越えて彼女性の前にひざまづく。其時、女性手を取りて、

「そも汝何故爰に來るや。誠に親なき者は不便のこと、先(まづ)汝が姿何故斯く淺ましきや」

と宜ふ時、我身を顧みるに、うるさき綴(つづれ)のひとへを着たり。彼(かの)女性手づから其つゞれをぬがせ、我が着(ちやく)せし織物に數多(あまた)縫(ぬひ)ある小袖を打かづけて、猶愁淚あり。

[やぶちゃん注:「うるさき綴」いかにも見っともない破れを接ぎ合わせた衣服。襤褸(ぼろ)の着物。]

 其時女問ひて云ふ、

「そも御身何人(なんぴと)なれば、斯く迄我をいたはり給ふ」

といへば、女性答へて、

「扨々汝は愚かなり者かな、我こそ汝が母なれ」

といふ。

 女は淚を流し、

「扨は母にてましますか、四歲の時別れ奉りしとは聞きしに、あらなつかしや嬉しや」

と膝元に臥(ふし)まろび泣きければ、母は手を取りて引起し、

「汝重ねて來(きた)ることなかれ、早く歸るべし」

と衝(つ)きはなし玉ひながら、

「去(さる)にても我(われ)善所にありといへども、只ひたすら汝が慕(したは)しき程に、若(も)しや汝が此因により、又爰に來ることもあるべきかと、心うきことにこそ」

とありしと覺えしが夢は覺めたり。

 枕に淚流れてやる方なかりき。

[やぶちゃん注:国書刊行会本は亡き母の台詞を「とありし」の部分までとするが、「と」が台詞してはかしく、「こそ」の結びも流れていることになり、私は甚だおかしいと思う。

「卵塔」狭義には僧侶の墓を指すが、ここは「墓」或いは「卵塔場」で「墓場」の意。

「綾羅」「りようら(りょうら)」と読んで、「綾絹(あやぎぬ)」と「薄絹」の意であるが、美しい衣服の謂いでもあり、私の独断でかく読んだ。]

 其後是も廿三歲の年懷孕(くわいよう)にてありしが、正月より破血(はけつ)して、二月朔日(ついたち)に臨產(りんざん)といへども、產み得ずして寶曆五年二月六日の早旦に、母と同じ齡ひに死去せられぬ。

[やぶちゃん注:「懷孕」妊娠。]

 一業(ごふ)感ずる所にや。

 卯辰山眞成寺に葬るに、此寺元より境内狹く、卵塔を築くべき明地(あきち)なかりしかば、先年葬りし母が古墳の向ひ合せにて築きける。其間(そのあひだ)纔(わづか)に水流れて、是も川を隔たる夢中の物語り今ありありと符合す。

 是や善惡先徵とは云はめ。

 是は幽冥に因ありて、此世の永きこと能はず。

 爰に又此の世に因ありて冥路(よみぢ)に障りしことを聞きたり。

 寬延[やぶちゃん注:一七四八年~一七五一年。]の頃とかや、金澤木倉町(きぐらまち)[やぶちゃん注:現在の金沢市木倉町附近(グーグル・マップ・データ)。]と云ふに、越中屋六右衞門とて正直の者ありき。庄吉とて男子あり。能く父母に仕へ孝行なり。魚問屋何某の許(もと)に仕へて廿七歲の頃迄能く奉公し、

「器用物」

とて主人も朋友も念頃に云ひしに、寬延午の年[やぶちゃん注:寛延三年庚午(かのうえうま)。一七五〇年。]

「風のこゝち」

と云ひしが、是も定業限りありしにや、忽ち空しくなりしかば、父母の歎き喩ふるに物なし。闇路の杖を失ひし心地なりしが、是非なく夜半(よは)の煙(けぶり)となし[やぶちゃん注:「夜半の煙」で成句で「火葬の煙」を指す平安以来の古語。]、ひたなきに泣きて、此身も何となら柴の、しばしも忘るゝ間もなく、三年が程をたちしに、或夜の夢に、年の頃三歲許の男子(をのこ)、賤しからざる武家の子と見えて、花色に七寶を散らしたる小袖を着し、

「するする」

と走り寄り、夫婦の前に手をつかへ、世になつかしげなる風情にて、

「我は庄吉が後身なり。父母(ぶも)平安にあること二世(にせ)の悅(よろこび)なり。我(われ)平生の心願により、今斯く武家へ生れ、父母の寵愛深しといへども、御身達我を忘れ給はず、朝暮(あけくれ)したひ給ふにより、輪廻のきづな終に盡きず、忽ち人世(じんせい)の壽算(じゆさん)を減ぜられ、只今冥府へ又歸るなり。然れども我(わが)願力(かんりき)切(せつ)なれば、又此土(このど)に參るべし。我を哀れみ給はゞ、相構へて愛執の歎きを止(とど)めおはしまさば、自他共に願心成就すべし。必(かならず)此事忘れ給ふまじ」

と、吳々(くれぐれ)告げて夢覺めし。

 老父ふしぎに思ひて、妻に語れば、

「等しく左樣の夢見たり」

と、手を打ちて夫婦驚き、夫より一向に愛執の思ひを止め、持佛に參詣して、淚と共に此事を人に語りぬ。

 此庄吉、生前近江町[やぶちゃん注:現在の金沢市の上近江町及び袋町附近(グーグル・マップ・データ)。]問屋に奉公の頃、其邊りの劍術の師に色々習ひ受けて、

「今生(こんじやう)こそ叶はずとも、未來は武門に生れん」

と、朝暮(あけくれ)其事のみ願ひしが、誠に一念五百生(しやう)とや、今やいづちの若殿にてやあらん。

[やぶちゃん注:お洒落なコーダで好ましい。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 七 猪除けのお守


     七 猪除けのお守

 

Sisiyoke

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション「猪よけの守札を立てる處」。]

 

 或る雨のそぼ降る晚だつたと言うた。猪の番小屋のすぐ傍で、なにやらボソリと變な音を聞いてふしぎに思つた男が、ソツと垂莚の中から覗くと、畔に沿つた井溝の傍に、何だか眞黑いものが昵と[やぶちゃん注:「じつと」。]してゐる。初めは狩人でもあるかと思つたが、よくよく透して見ると、それが大きな猪だつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「井溝」二字で「みぞ」と読んでおく。音読みで「セイコウ」と読み、「田の畝の間にある通水路又は村落の間にある通水路」の意の不動産規則の法律用語があるが、硬過ぎる。]

 如何に番をしてゐても、ちよつと油斷をすれば、猪が出たのである。或家では人手が無い爲に、夜通しカンテラを田の中に點して置いてそれでも喰はれたが、その隣りの田では、作主[やぶちゃん注:「つくりぬし」。]が忙しいまゝに、どうでもなれと覺悟を決めて、幾日もほつて置いたが、一向寄付もせなんだと謂ふ。或は不運の者に限つて荒らされるなどゝ信じられた。さうかと思ふと、たゞの一晚、風邪氣[やぶちゃん注:「かぜつけ(かぜっけ)」。風邪気味。]で番小屋行きを休んだばつかりに、ひどく稻を喰はれたりした。かうなると、屋敷にゐる鼠かなぞのやうに、そつと其處いらから此方の内證話を聞いてゐるやうにも思へたのである。あの人も運が惡いのんなどゝ、猪に出られた作主を女同志が陰で囁いて居るのを、現に耳にしたものであつた。

[やぶちゃん注:「のん」は近世古語の感動の終助詞「のう」(「なう」の転訛)の音変化であろう。]

 早昔話になつた山住(やまずみ)さんの猪除けの御守りを、一人が思ひ出して迎へて來ると、初めは嘲つて見ても、何だか不安になつて、吾も吾もと迎へに行つて、畔每に立てた。山住さんは山犬を祀ると謂ふ神であつた。つい三四年前の事で、刈取を終つた後迄も、畔から畔へ、矢串に挿した白い紙札が、夥しく立つてゐた。中には迎へに行つた時、果して猪が出ぬかなどゝ駄目を押して、お札で心許なくば[やぶちゃん注:「こころもとなくば」。]お姿をお伴れ申すかと、取次の男に嚇されて、いやそれには及びませぬと、早々還つたなどの話もあつた。然し奇妙に其年一年だけは、猪が出なんださうである。さうは言つても、翌年は一人も迎へに行つた者は無かつたと言ふから、村の人々の心持も、猪以上判らなんだ。

[やぶちゃん注:「山住さん」ロケーションから見て、静岡県浜松市天竜区水窪町(みずくぼちょう)山住山の山住神社と思われる。同神社の主祭神は大山積命などであるが、この地域にあった山犬(=狼)信仰の神社であり、狛犬も山犬(狼)となっている。遁走した家康を狼が吠えて守った伝承でも知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該の御札は堀田研究室のブログ「フィールドノート(民俗野帖)」の「山住神社」の、こちらで、鮮明にして大きな画像で見られる。

 山住さんのお姿を借りて來れば、猪でも鹿でも田へ近づくものは片端から喰殺して、其場へ轉がしてあると謂ふ。又その期間中は、田圃近くの草の葉蔭や石の上に、見えるともなく凄いお姿が顯はれるとも謂うた。現に村の空寺[やぶちゃん注:「あきでら」。]へ住持になつて來た山住一派の坊さんは、疑ふなら、食ひ殺してお目にかけやうかと、恐ろしい事を言うたさうである。

[やぶちゃん注:「山住一派の坊さん」神仏習合時代の社僧の末裔であろう。]

 自分も一度その坊さんを訪ねて見たが、生憎不在で會へなんだ。留守の婆さんにいろいろ訊ねて歸つたが、須彌壇[やぶちゃん注:「しゆみだん」。]の本尊と並んで、 榊[やぶちゃん注:「さかき」。]を立て注連繩[やぶちゃん注:「しめなは」。]を張り、白い幕が下つて山住さんが祀つてあつた。中に方五寸ばかりの眞黑い箱があつて、お姿が納まつてゐると謂うた。たしか箱の表に右の字が一字記してあつた。中が拜見したいと圖々しく賴んで見たら、雜作は無いが後で納めるのが六かしい[やぶちゃん注:「むつかしい」。]から、何なら住持の居る節にしてくれと、尤もらしい言譯であつた。箱から出すと一緖に荒ばれて[やぶちゃん注:「あばれて」。]困るのださうである。さう言ふ間にも、婆さんの陰慘な顏付と右の字を書いた箱の神祕に魅せられるやうに思つたが、後で聞いた話では、村でも心ある者は、住持の遣方に困つてゐるとの事だつた。一方坊さんには、山住さんがどうしても離れぬのださうである。その後寺の後の山へ、新しく祠[やぶちゃん注:「ほこら」。]を立てゝ祠つたと聞いたが、手近に山住の一派が來られても、猪は未だ盛に出るので、番小屋泊りも休まれぬさうである。

[やぶちゃん注:「右の字」大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「右」の字の解字は、「口」は「祈りの言葉」の意、又は「右手」の意で、「祐」の字の初体字で、「神の助け」を意味するとあった。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 六 村の變遷と猪


     六 村の變遷と猪

 誰しもさう言うた事であるが、近頃の猪は以前のワチ[やぶちゃん注:既出既注。]オトシアナ時代から較べると、悧巧になつたばかりでなく、性質も惡くなつたと言ふ。惡くなつたと言ふのは、畢竟性質が單純でなく成つた事である。僅かな物の響にも、變つた物の香にも、恐れて近づかなかつた筈の猪が、忽ちそれ等に馴れて平氣になる事であつた。さうかと思ふと、次第に出沒が巧妙になつて、一夜の間に十里十五里の山の奧國から、峯傳ひ窪傳ひに風のやうに渡つて來て、その夜の中に再び元の棲家へ還つてしまふと信じられた。猪が出たと聞いて、附近の山を搜したのでは、もう遲いとは、現に狩人が言うてゐた。

 軒端に積んだ稻束を襲ひ、屋敷廻りの甘藷[やぶちゃん注:「いも」。]穴を掘返すなどは、五十年前を考へれば何の珍しい事でも無かつたが、當時と比べると、猪の本據であつた筈の山がひどく明るくなつた後だつたゞけに、猪が猜るく[やぶちゃん注:「ずるく」。]なつたやうに考へられたのである。今一ツの理由は、一頃盛に木が伐られた時に、殆ど跡を絕つた事實もあつたので、その後出る猪は、別物のやうにも考へられたのである。

 山の姿が以前と較べてひどく變つた事は、自分などの記憶から判斷しても、著しいものがあつた。屋敷の裏手の杉木立へ入れば、一丈もある齒朶[やぶちゃん注:「しだ」。]の茂みが續いて、 筧[やぶちゃん注:「かけひ」。]の徑[やぶちゃん注:「こみち」。]に覆さつた奇怪な恰好の杉の古木には(これをヂヤンカと呼んでゐた)、每年木鼠が巢喰つたのでも想像される。前の畑のクロには、夕方になると畑中を影にするやうな榎の大木があつた。屋敷内にあつた榧[やぶちゃん注:「かや」。]の大木の根元は、近づく事も出來ないほど、蔓草類が絡み合つてゐた。表の端に迄枝がカブさりかゝつた處は、その木一ツでも、充分山村の風趣があつた。これ等は自分の家だけについてゞあるが、村全體を見渡しても、山を分けて家が在つた感があつたのである。

[やぶちゃん注:「ヂヤンカ」小学館「日本国語大辞典」の「じゃんこ」に、第一に方言として『曲がりくねった老木や切り株』として採集地を新潟県中頸城郡妙高高原とする。語源は不詳であるが、この方言は「醜い天然痘の痘痕(あばた)」をも意味するので、それに由来するものかも知れない。改訂本では早川氏は『古木(じやんか)』と漢字を当ててひらがな表記にしておられる(なお、そこでは本篇の標題を「猪と文化」に変更してある)。

「木鼠」リスの異名。]

 猪が好んで出た山田の畔續きの草場(くさんば)柴山には、きまつて合歓木[やぶちゃん注:「ねむのき」。]が遺してあつて、それが相當古木になつてゐた。夏分[やぶちゃん注:「なつぶん」。夏時分。]など濃い綠の草生の中から、白い木肌が立並んで、あの紅色の美しい花の咲く時などは、山の美しさ以上、果しない山の深さがあつた。草場ヘ合歓木を立てる事は、草のために宜い[やぶちゃん注:「よい」。]と言傳へてゐたのであつたが、今ではそんな事を信じる者は無かつた。何でも日蔭が惡いとして、片端から伐つてしまつた。齒朶の茂みは下苅の度に淺くなり、萱場ボローは切開いて、猪の立寄る影は殆ど無かつた筈である。況して[やぶちゃん注:「まして」。]昔は同じやうに出沒した鹿や山犬は、とくに姿を匿してしまつて、夜でも汽車の笛を聞くやうな處へ、出て來る猪の氣が知れなかつたのである。

[やぶちゃん注:「萱場ボロー」前部は「草場」に合わせて「かやんば」と読んでおく。「ボロー」は小学館「日本国語大辞典」の「ぼろ」に方言として『雑木の茂み。やぶ』(静岡県・愛知県宝飯(ほい)郡)及び『草むら』(大分市)とある。語源は未詳だが、或いは「襤褸(ぼろ)」とか物が散る「ほろほろ」辺りからの成語か。長音は「ろ」の母音の変化としてよかろう。]

 猪除けの案山子にしても、追ふ方法でも、雜然とした如何にも心無い遣方であつたが、實はもう居なくなる筈だに、未だか未だかで、一日延ばしに日を送つてゐたせいもあつた。

 別に說を爲す者は、深山の御料林等が伐採される度に、其處を追はれた猪が、迷ひ出るとも謂うた。或はその邊の消息は事實であつたかも知れぬ。現に鳳來寺御料林が拂下げになつた年には、夥しい猪が出たさうである。

[やぶちゃん注:「未だか未だか」「まだかまだか」。この「未だ」を「まだ」と訓ずる用法から察すると、これ以外の「未だ」も「いまだ」ではなく「まだ」と読んでいる可能性が出てきはするが、早川氏がここ以外のそれを明確に「まだ」とルビを振っていない以上、断定は出来ないことを謂い添えておく。]

2020/03/08

三州奇談卷之三 埋物顯ㇾ形

    埋物顯ㇾ形

 寺西霜臺(さうだい)の屋敷に一ツの塚あり。其謂(いはれ)を聞くに、今より四代前若狹入道宗寬の在世、不斗(ふと)寢所の間(ま)臭氣甚し。近習に命じて普(あまね)く探しけるに何もなく、天井を放ち見たりしに、一つの生首を得たり。いかにもみやびやかにして、年の程十四五と見えし若衆の首なり。生けるが如く笑みを含み、哀(あはれ)にも怪しく、其外何にも見えず。又謂れも知らず。終に屋敷のすみに埋みて首塚と云ひ、上に桐の木を植ゑ置きぬ。

 然るに寶曆の初めの頃、秋の半(なかば)にふと此塚より、白露を分ちて怪しきくさびら[やぶちゃん注:茸(きのこ)。]生ひ出たり。其形、藜芝(れいし)のごとく甚だ愛すべし。菌(くさびら)の莖二もとに分れ、是をさきてみる。内に少年の面をゑがき、彫付し如く眼・耳・鼻・口全く備りたる。普く尋(たづぬ)れども、何物たるを知る人なし。唐の文宗、蛤蜊(はまぐり)の中に菩薩の形像、眉(まゆ)面(おもて)理髮(かみがたち)全く具(そなは)りしを得給ふと「杜陽編」にも見えたり。人面の菌、目のあたりに最あやしかりき。

[やぶちゃん注:表題は「まいぶつ、かたちをあらはす」と訓じておく。

「寺西霜臺」(「霜台」は古代の官職弾正台・弾正尹(いん)の別称)不詳。但し、彼の四代前とする「若狹入道宗寬」は判明した。「加能郷土辞彙」のこちらに載る、「テラニシヒデカタ 寺西秀賢」である。彼は寛永一五(一六三八)年に十四歳で家禄七千石を継ぎ、次いで前田利常に従って小松に移り、家老となった。正保三(一六四六)年には江戸に使いして将軍家光に謁し、後江戸の留守居役となった。利常の薨去後、金沢に戻り、寛文中に火消役となり、出銀奉行を経て、宝永二(一七〇五)年六月に致仕し、「宗寬」と号し、本禄の内の七百石を隠居料とした。同六(一七〇九)年に没した。享年八十五、とある。

「寶曆の初めの頃」宝暦は十四年までで、一七五一年から一七六四年までなので、例えば、「宗寬」の没年からは四十二年のスパンがある。「宗寬」を含めて四代はまずまず齟齬は感じない。

「桐」国書刊行会本は『楓』とする。

「藜芝」所謂、「靈芝」と同じであろう。菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum

「唐の文宗」(在位:八二七年~八四〇年)は中唐末から晩唐の第十七代皇帝。八三五年に宦官に対する大量粛清計画が露見し、捕らえられて幽閉されたまま三十二歳で崩御した。

「蛤蜊(はまぐり)」中国語としての用法からかく私の判断で読みを附した。所謂、真珠形成と同じで、異物が侵入した結果、それから軟体部を保護するために、貝自体が真珠層を作って侵入物を覆うのである。中国では古くからこの現象が知られていたことから、菩薩などの金型(かながた)を種々の大型の斧足類(二枚貝類)に人為的に挿入し、そこに真珠層に包まれた菩薩像を顕現させて金儲けをしたものである。人によっては「ハマグリで真珠は出来ない」と思う人がいるだろうが、私は私の大好物である殻付きマガキを食している最中にマガキの生体個体の中に二度も発見している。但し、真珠層は殆どない白い小さな丸い珠ではあった。諸君が思っているよりも高い確率で真珠様物質は容易に貝類の中で生成されるのである。

「杜陽編」これは唐末の蘇鶚(そがく)が唐代後半期の珍宝について伝聞等によりながら記録した「杜陽雜編」が正しい。同中巻の以下であろう。但し、ここには主体者を文宗とは特に名指してはいない(但し、名指さない場合は当世の太上皇帝を指すから、特に齟齬しているとは私は思わない)。

   *

上好食蛤蜊、一日左右方盈盤而進中、有擘之不裂者。上疑其異。乃焚香祝之。俄頃自開中有二人形眉端秀體質、悉備螺髻瓔珞足履菡萏。謂之菩薩上遂置之於金粟檀香合以玉屑覆之。賜興善寺令致敬禮。至會昌中毁佛舍遂不知所在。

   *

なお、『「酉陽雑俎」の面白さ』の「蛤菩薩像」を見ると、南宋の僧志磐「佛祖統紀」卷四十二(一二六九年成立)が引かれ、そこに同じ話がはっきりと文宗の話として載っていることが判る。]

 又松雲相公(しやううんしやうこう)の御在世に、箕浦(みのうら)安左衞門と云ふ一士あり。此人常に樹を作り愛せられしに、別けて露路(ろぢ)に一つの造松(つくりまつ)あり。每朝夙(つと)に起て蜘(くも)の糸を拂ひ、枝なんどすかし慰みけるに、或朝、松のもとに彳(たたづみ)けるに、怪しい哉(かな)、芝の中に錢一文飛出(とびいで)舞ふこと頻りなり。暫くして芝の中に落ちけるが、忽ち失せぬ。頓(やが)て芝を分けて草を返して見るに、其跡もなし。

「扨はまぼろしにやありけん」

と、翌朝も起きて松の本(もと)に彳みけるに、前朝見たりし如く錢一文舞ふこと頻りなり。家内の者をも呼びて見せしむるに、錢暫くありて又草に落ちて消えぬ。主人云ふ、

「何(いか)さま此松の下にいはれあるべし、掘返して見よや」

とて、家僕に命じて俄に松を植ゑ替へ、其下を八尺許(ばかり)掘りけるに、切石の蓋(ふた)したる物に掘當りぬ。

「扨こそ」

とて掘出すに、貮尺七八寸許[やぶちゃん注:八十一から八十四センチほど。]の瓶(かめ)なり。急ぎふたを開き見るに、亂けたる錢八分(ぶ)許詰置きたり。文字替りしこともなく、寬永通寶にぞありける。誰の埋めたることを知らざれば、此錢を家僕にも與へ、僧社にも施し、其餘は遺ひ捨てけるとなん。寶貨は人中にあることを好むにこそ。

[やぶちゃん注:「松雲相公」加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)戒名「松雲院殿徳翁一斎大居士」。彼は元禄六(一六九三)年十二月に参議に補任されているが、「相公」は参議の唐名。とんだ勘違いをしていたのをT氏のご指摘を受けて、改稿した。

「箕浦安左衞門」「加能郷土辞彙」のこちらに、「ミノウラチカマサ 簑浦近政という元藩士(後に乱心同様の不行跡により知行召し上げ)の事蹟に『養父安左衞門の祿三の一を繼』いだとあり、この養父であろう。

「寬永通寶」寛永一三(一六三六)年創鋳。

「亂けたる」意味不詳。国書刊行会本と「加越能三州奇談」は『みたけ銭』、「近世奇談全集」は『みたけたる錢』であるが、孰れでも私には意味が判らない。識者の御教授を乞う。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 五 猪の案山子


     五 猪の案山子

 

Kakasi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション右「猪の案山子」、同左「同」。]

 

 猪のソメ(案山子)の事は、既に三州橫山話にも書いた如く、一ツ一ツ觀察すると、隨分變つたものがあつた。氏神の祭禮に曳出した一丈もある藁人形を、後に着物だけ剝いで山田へ持込んで立てたのがあつた。たしか日露戰爭の凱旋の年で人形はロシヤ兵だつたと思ふ。顏を胡粉で彩色した念入り物だつただけに、遠くから眺めても氣味が惡いなどゝ言うた。又北設樂郡の田峯で實見した物は、藁で馬を慥へて人形を乘せたのがあつた。鳥嚇しの案山子などもさうであつたが、以前のやうに簑笠姿の物などは殆ど見なくなつて、メリヤスのシヤツを着せたり、經木細工の帽子を被らせたりした。さうかと思ふと或家では、昔からある 裃のボロボロに成つたのを、こんな物は用は無いと言うて、案山子に着せてしまつたと謂ふ。

[やぶちゃん注:表題は素直に「ししのかかし」と読んでおく。

「ソメ(案山子)」小学館「日本国語大辞典」に見出し語「そめ」として案山子の方言として載せ、採集地として長野県南部・飛驒・岐阜県・静岡県磐田郡・愛知県を挙げる。

「三州橫山話」早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。大藤(おおとう)時彦氏の「早川孝太郎の人と作品(三州横山話解説)」PDF。なお、そこで早川氏の生地を『三州横山(よこやま)(いまの愛知県新城市横山にあたる)』とされておられるのは新城市横川の誤りである)参照されたい。

「日露戰爭の凱旋の年」日露戦争の勝利と終戦は明治三八(一九〇五)年九月であるが、東京青山練兵場での日露戦争を戦った陸軍凱旋観兵式が行われたのは翌明治三九(一九〇六)年四月三十日である。但し、案山子としてアップ・トゥ・デイトなのは明治三十八年の秋、事実上の従軍兵の凱旋帰国が行われた直後であろう。

「經木」(きやうぎ(きょうぎ))」非常に薄く削った木の板片。材質は主に杉・檜が用いられる。]

 現に自分等が聞いた唄の中に、

  女郞(おやま)買ひして家の嚊見れば三里やまをく猪のそめ

とか、あるいは下の句だけ、布里(ふり)や一色(いつしき)の猪のそめなどゝ言ふのがあつた。何れにしても唄の作者などには、思ひも及ばぬ恰好であつた。

[やぶちゃん注:「をやま」上方で遊女を指す語。

「嚊」「かかあ」。「嬶」に同じい。

「やまをく」ママ。「山奥」に「山置く」を掛けているとしても「おく」でよい。

「布里」は古代中国の税の名称である「夫布」と「里布」の意があるが(「夫布」は無職の者に課させられた税で、「里布」は麻や桑を家の敷地内に植えぬ者に課せられた税。「布」は金銭のこと)、それでは意味が通じぬので、ここは「万葉集」の上代特殊仮名遣のそれで、終止形「ふる」、「年月が経過して古びる・古くなる」の意であって、すっかり年増になっちまった! 面白くもなんともない単色の装いの案山子と同じじゃ、と揶揄したものかと思う。とすれば、この作者は謂いは下賤ながら、それなりの見識を持つ者であったのであろう。]

 女の髮の毛を燒いて串に挾んで立てたり、カンテラを棒の先に吊して置いたのと、同趣向の物で、古くからあつた物に、カベと謂ふ物があつた。ボロを心[やぶちゃん注:「しん」。芯。]にして、上を藁で包んだ、長い苞[やぶちゃん注:「つと」。]のやうな格好だつた。一方の端に火を附けて、竹竿の先に吊して畔每に立てゝ置いた。それの極く小さい物を、夏分ブヨを除ける爲めに、草刈女などが腰に下げた位だから、ボロのキナ臭い煙で、猪を厭がらせる爲であつた。或は又太いホダ[やぶちゃん注:「榾」。薪。]の端に十分火を廻らせて、畔に轉がしたのがあつた。二ツ共少し位の雨にも平氣で、二日三日位續けて燃えてゐたのである。

 

Sisiyokenokabe

 

[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション「猪よけのカベ」。「カベ」の語源は不詳。猪を寄せぬように邪魔するから「壁」では安直に過ぎる。孰れも相応の時間燃焼して煙やキナ臭い臭いを出すのであるから「カ」は「火」で、それで「遮る」ことから、前に出た「ヤトオ」「ヤト」と同じく「戸」、「火戸」か、などと夢想はした。]

 案山子では無いが、猪除けのワチの變形と思われる物に、山續きの畔から畔へ鐵條網を張廻した[やぶちゃん注:「はりめぐらした」。]物があつた。新趣向の一ツで、間接には戰爭などの影響であつた。然し結局昔通りの番小屋に、刈入れ迄番をするのが、確實でもあり、割合手輕でもあつた。それで吾も吾もと新に[やぶちゃん注:「あらたに」。]小屋を設けて、果は[やぶちゃん注:「はては」。]一目に見通される程の窪中に、思ひ思ひの藁小屋が、五ツ六ツも建つた事もあつた。只昔と違つて來た事は、鳴子の綱を引く代りに、石油の空罐を叩き、マセ木を打つ代用に、屋根葺用の亞鉛板を持込んで叩いたりする事だつた。さうかと言うて老人のある家では、昔ながらのマセ木を打つて居たのもあつた。

[やぶちゃん注:「マセ木」漢字不詳。次の段落で説明される。]

 マセ木は小屋を中央から仕切て、橫に渡した丸太であつた。爐にあたりながら、手頃の棒を持つて、時折タンタンと叩いては、眠い眠い夜を送つたのである。そして合間々々に、ホーホーと呼ばつたのである。尻取り文句の中に、ホイは山家の猪追(ぼ)ひさと言ふのがあつたが、正にそれであつた。マセの代りに、板を打つのもあつたが、何れにしても寂とした秋の夜の山谷に、その音が谺するときは、猪を嚇すに充分だつたのである。思へば猪追ふ術も昔が尙なつかしかつた。況して[やぶちゃん注:「まして」。]吾打つマセ木の音に聞惚れたなどの心持は、懷かしい限であつた。

 自分が親しくした老人に、八十幾つ迄番小屋泊りをやつた男があつた。息子達が近所の思惑を案じて、何度やめてくれと賴んでも諾かなんだ[やぶちゃん注:「きかなんだ」。]。遂々[やぶちゃん注:「たうとう」と当て訓しておく。]死ぬ年迄マセ木を叩き通したと言ふ。實は猪番が何より樂しみだつたさうである。その老人の手すさびに打つマセ木の音が、未だどこか耳の底に響くやうな氣がする。

[やぶちゃん注:この最後の老人のマセ木の谺の音はすこぶる印象的ではないか……私はこの老人の気持ちがよく判るのだ……私もそんな風にして……真夜中の山中で……独りマセ木を叩いて……そうして――タン!――と一打ちしてそのまま死を迎えたいとさえ思う……今日この頃なのである…………

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 四 猪垣の事


     四 猪垣の事

 猪の出る路をウツと謂うた。猪は田や畑へ出るにも、必ずウツを通つたので、オトシアナはウツを目がけて設けたのである。自分が子どもの頃には、畑續きの木立の中に、半ば崩れかけたのが、未だ幾ヶ所も殘つてゐた。多く畑から數間もしくは十數間ぐらい入込んだ所で、穴の直徑六尺ぐらいで、深さは二間もあつた。朋輩の一人が過つて落ちて弱つた事がある。

[やぶちゃん注:「猪垣」「ししがき」。ウィキの「しし垣」によれば、『害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に築かれた垣根や石垣、土塁のこと。漢字では「猪垣」「鹿垣」「猪鹿垣」などと表記する。北関東から沖縄県に多く見られ、沖縄ではサンゴを材料とした。害獣のうちイノシシ(猪)は積雪地を苦手とするため、東北地方や北陸地方、山陰地方には少ない』。『北海道のものは知られていない』。『鎌倉時代から文献に記され、現存するのは主に江戸時代に築かれた。高さは平均12メートル。長さ10キロメートルを超えるしし垣もあり、小豆島では総延長120キロメートルにも及んだ』。『他にも九州の長崎、中国地方、近畿地方、瀬戸内地方の島々で多く作られた。ただし熊本県、鹿児島県、高知県にはほとんどない。これは、鉄砲を扱う郷士が農村に住み、狩猟を行っていたためと推測される』。『あたかも万里の長城のように土を焼いて作ったものを並べて築いたものもある。囲いで土地を全く塞いでしまうのではなく、人が通るための木戸をつけたりもした。木戸以外から侵入する動物をとらえるための落とし穴も付けられていた』とある。

「ウツ」現在もこの呼称は広義の「けものみち」の呼称として生きている。「民教協」(テレビ朝日内・公益財団法人民間放送教育協会)公式サイト内の「日本のチカラ」の「ジビエの極意 ~マルチハンター片桐邦雄の世界~」を参照されたい。小学館「日本大百科全書」の「獣道」にも(下線太字は私が附した)、『野生獣の休息地と採食地などの間にできた通路をいう。野生の獣類では、休息場や隠れ場と採食地との間など、その行動圏内の通路が定まっていて、同じコースを移動することが多い。森林中や草原ではこの通路がかき分けられ、地面が踏み固められているし、ドブネズミやクマネズミでは足跡で汚れている。これらはいずれも獣道とよばれ、猟師、とくにわな猟師はこの通路を読み取って猟場を定めるし、ネズミの駆除でもこの通路に毒餌(どくじ)を置くのが効果的である。狩猟用語や古語では、ウジ、ウツ、ワリ、カヨイなどともよばれる。イノシシやシカのよく使う通路には、ハイカーが登山路と間違って入り込み、迷うことがある。こういう道はシシ道、シカ道ともいわれる』とある。また、本篇のみをPDFで電子化され、注釈や画像が加えられた方のこちらに、『猪の通り道(ウツ)』に注されて、『猪は必ずボロ』(後に出る「ボロー」と同じで叢や藪のこと)『から田圃への最短距離を通る。ボロの中を覗くと、下草が分れていて、猪の体の大きさのトンネルになっている』。『私の子供の頃にも、畑の奥の裏山にオトシアナが掘ってあった。ただ子供が落ちると危ないと言って、穴の中にヤトの類いはなかったと思う』とあった。

「數間もしくは十數間」十一メートル若しくは二十九メートル。

「六尺」一メートル八十一センチ。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「過つて」「あやまつて」。]

 オトシアナは猪を防ぐ爲に設けたのであつたが、一方それで猪を捕る狩人もあつた。上に細い橫木を渡して、萱薄[やぶちゃん注:「かや」・「すすき」。]などを敷いて置き、底にはヤトを一面に立てゝ置いた。老人の話に據ると、同じ狩人の中でも腕に自慢の者がやる事では無かつた。捕れた獲物も多くは子猪[やぶちゃん注:「こじし」。]ばかりで、親猪は滅多に掛からなんだと言ふ。子猪のことを別にウリンボウと云うたが、ウリンボウがヤトに旨く掛つた處は、盆の精靈送りに、瓜に麻稈[やぶちゃん注:「あさわら」或いは「あさから」。]を通した其儘であつたと言ふ。之は祖母から聞いた話であつた。或時隣家のオトシアナへ、巨猪[やぶちゃん注:「おほじし」と訓じておく。]が落ちてヤトを三本も負ひながら、旺んに[やぶちゃん注:「さかんに」。]荒れて居て困つた事があつた。近所の者が集まつて石撲にしてやつと斃したと謂ふ。どこの家でも屋敷の後には、きまつてオトシアナが設けてあつたのである。

[やぶちゃん注:「萱薄」「かや」・「すすき」。

「ヤト」既出既注

「子猪」「こじし」。

「ウリンボウ」ご存じの通り、イノシシの子は体形や毛色がギンセンマクワウリ(スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の品種の一つ)に似ているところからの呼称。

「麻稈」「あさわら」或いは「あさから」。

「巨猪」「おほじし」と訓じておく。

「旺んに」「さかんに」。

「石撲」「いしうち」。]

 オトシアナへは猪の他に、勿論他の獸も掛つたが、とくに山犬の陷ちた話が殘つて居る。もう四十五六年も前であるが、鳳來寺山麓の吉田屋某の裏手の穴へ陷ちた事があつた。村の者が多數集まつて藤蔓の畚(もつこ)を作つて、其四隅に長い綱を附けて穴の中へ下げてやると、山犬がそれに乘つたと謂ふ。それで早速引揚げて遁がしてやつた。翌日その穴へ大鹿が落し込んであつたのは、言ふ迄もなくお禮心であつた。山犬がオトシアナへ陷ちた時は、中で盛んに吠えたと謂ふ。自分の家の地類である某の男は、豪膽で聞えた狩人だつた。或時屋敷裏のオトシアナヘ山犬が掛つた時、中へ梯子を下して降りて行つて、山犬を片手に抱いて上がつて來た。そのまま放してやると、犬は嬉しさうに尾を振つて其場を去つたが、並居る村の者も某の豪膽には魂消げたという。山犬が少しも抵抗せなんだのは、最初ムズを含めた爲だと言ふが、ムズの事は判然と知らぬ。或は抵抗せぬ爲の呪ともい謂うた。明治になる少し前の事で、翌日大鹿が投込んであつた事は、前の話と同じである。

[やぶちゃん注:「山犬」野犬の可能性もないとは言えぬが、以上の話柄は総て民俗社会上は「狼信仰」で霊験を持つとも考えられたニホンオオカミ(食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。本書の刊行は大正一五(一九二六)年である)であると考えてよい。

「鳳來寺山」ここ

「畚(もつこ)」竹や藁などを編んで作った容れ物。

「魂消げた」「たまげた」。

「ムズ」不詳だが、以下の早川氏の聴き記した通り、「抵抗せぬ爲の呪」(まじなひ)であろう。]

 話の枝が餘計な方向へ伸びてしまつたが、オトシアナとは別に、田や畑を繞つて、深い堀が穿つてあつた。猪除けが目的であつた事は言ふ迄もない。段々埋められて、今に殘つてゐるのは極く稀であつた。たゞホリンボーなどゝ呼んだが、或は別の名稱があつたかと思ふ。其外側には、髙い垣根が築いてあつた。多く石で積上げたもので、猪除けの垣根と言ふが、或は又ワチとも謂うた。然し一般にワチと呼んでゐたのは、燒畑に繞らした垣の謂であつた。二本宛杭を打つて、それを骨組として、橫木を互ひちがひに組んで行つたものである。又燒畑でなく共、山村の畑には、多くワチが繞らしてあつた。この方は燒畑とは異つて、頑丈な杭を隙間なく打つた半永久的な栅で、材料は栗の木を割つた角であつた。破れた處から杭を補つてゆくので、所々色が變つてゐたりした。多くは山のサガ畑で、街道などから望むと、遙かな山の半面に、年をへて眞白に晒らされたワチの中に、靑い麥の畝が段々に續いてゐたりして、一種なつかしい物であつた。

[やぶちゃん注:「ホリンボー」現行では死語のようである。

「ワチ」先にも掲げた本篇のみをPDFで電子化され、注釈や画像が加えられた方のこちらに、「ワチ」の図が載るので是非見られたい。

「燒畑」「やけばた」「やきばた」。原野を伐採後に焼き払って、その灰を鋤(す)き込んで、数年間、無肥料で耕作を続け、地力が消耗すると、放棄して地力の自然回復を待ち、再び焼き払って耕地とする農法。粗放で生産力は低い。嘗ては本邦でも行われていた。

「サガ畑」「険畑」か。傾斜のきついところを切り開いた畑。]

三州奇談卷之三 夜行逢ㇾ怪

    夜行逢ㇾ怪

 奧村家の士山下平太が僕(しもべ)に孫兵衞と云ふ者あり。力量人に越え、心飽く迄剛强にて、爭論を好み、市中祭禮のちまたなどにて傍若無人を働けども、人多く渠(かれ)が無賴を知りて避け遁るゝ故に、無法の事共多し。主人常々是を制すれども、更に用ひざりき。

[やぶちゃん注:表題は「夜行して怪に逢ふ」と訓じておく。

「奥村家」人持組頭(加賀八家)の中には、尾張前田家代々の譜代の臣の家系で奥村永福(ながとみ)を祖とする奥村河内守家(奥村宗家・末森城代一万七千石)と、その永福の次男易英(やすひで)を祖とする奥村内膳家(奥村分家・留守居役・一万二千石)がある。ここでは単に「奥村家」と言っているから前者であろう。そうだとすると、「元文年中」(一七三六年~一七四一年)とあるので、同宗家第八代当主で加賀藩年寄であった奥村修古(しゅうこ 享保八(一七二三)年~寛延三(一七五〇)年)となる。奥村宗家直系内での養子で、数え十五で当主となるが、享年二十八で若死にしている。自分の家士山下の下僕の巷間での傍若無人の振舞の激しきを、山下厳命して律しきれなかったのは若いせいと考えると腑には落ちる。

「山下平太」不詳。]

 或時、深更に小立野(こだつの)天神坂を通りしに、一陣の腥さき風起り、黑衣の法師長七尺許なるが忽然と出來(いできた)る。

[やぶちゃん注:「七尺」二メートル越え。]

 孫兵衞不敵者なれば、有合ふ礫(つぶて)を取りて打付けゝるに、彼(かの)法師走り寄りて

「むづ」

と組み、上になり下になり、組合ひしが、法師力勝れて總身(そうみ)鐵石の如し。

 孫兵衞次第に身魂困れ、

『いかゞせん』

と思へども、腰刀も帶せず既に危かりしが、咽(のど)と覺しき所少し和らか成るにぞ、したゝかに喰付(くひつ)きける。

 妖怪喰はれて少しひるむ所を捕(とらへ)て押(おさ)へ、「曲者(くせもの)を組留めたり」と呼ばんとすれども、更に聲出ず。

 とかくする内に、法師は刎返(はねかへ)して逃失せぬ。

 孫兵衞も絕氣せしが、やうやう起出で、水など吞みて主家には歸りぬ。よく働しと見えて、偏身血に染(そ)み、毛髮一筋もなし。其後一生あたまの毛生ざりし故、奉公もやめ、惡行も堅く愼み、鉢卷して門渡(かどわた)りせしが、今も猶存命なり。彼法師に出合ひしは元文年中の事なり。

[やぶちゃん注:「小立野天神坂」現在の金沢市小立野地区の北西南端に通ずる坂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「腥さき風起り」底本は「腥」が「醒」であるが、これは流石に誤植と断じ、国書刊行会本で特異的に訂した。

「門渡り」何らかの門付け芸の大道芸のようにも見えるが、単に「鉢卷して」としか言っていないのは、一種の「何でも屋」のような、藩内の巷間を渡り歩いて、力仕事・雑用諸事一切請負のような仕事のように私には読めるし、その方が腑に落ちる。]

 又寶曆二年九月十四日夜、猪口平藏といふ人、長町今枝氏の下屋敷の外にて、大きなる女の首に逢ひたり。

「にこにこ」

と笑ひて行過ぬとなり。

[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七五二年十月二十日。

「猪口平藏」不詳。

「長町」金沢市長町。地図で判る通り、往時の武家屋敷町であった。

「今枝氏」加賀藩では人持組に家老で今枝内記(民部)家一万四千石がある。]

 雨後の月輝き、木のは露きらめきし中より、雷光震動して首の大(おほい)さ六七尺許[やぶちゃん注:一・八~二メートル余り。]、

 又矢島主馬と云ふ人、岡田氏の前を通るに、堀の上に六尺許なる女の首ありし。重(かさね)て提灯をともして立戾りけるに、消えてなしと云ふ。

[やぶちゃん注:「矢島主馬」不詳。藩士には矢島姓は複数いる。

「岡田氏」不詳。単に姓だけを突然示しており、これ以前にも出ない。相応な格上の藩士のように思われる。岡田姓はかなり多い。]

 或士堂形前(だうがたまへ)にて、夜中女の首六尺許なると行逢ひしに、是は雷光もなく寂として聲なし。行違ひざまに息をはき懸けしが、其跡黃ばみて心地なやみけるに、不破玄澄(ふはげんちよう)と云ふ醫者に療治を乞ひしが、益氣湯(えききたう)を用ひて直りしと云ふ。

[やぶちゃん注:「堂形前」金沢市広坂のこの付近「金沢市」公式サイトのこちらに、「堂形前」『加賀藩初期、京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場があり、これを堂形と呼んだ。のち、そこに米倉が建てられた』とある。また、観光発信ブログ「いいじ金沢」のこちらによると、ここの『「シイノキ迎賓館」の前にある』二『本の「堂形のシイノキ」は、樹齢約』三百『年で、国の天然記念物に指定されています』。『昔、このシイノキに妖怪が出るという噂があったそうです。それは、加賀藩のお家騒動で失脚し、自害に追い込まれた大槻伝蔵(おおつきでんぞう)の屋敷にこの木があったため、大槻の怨念がこもっているからといわれています』とある。この妖異も或いは?……

「不破玄澄」「加能郷土辞彙」に載る。『フワゲンチヨウ 不破元澄 父は瑞元。享保年』(一七一六年~一七三六年)『御醫師として六百五十石を受け、十九年』(一七三四年)『七十石を加へ、延享元年』(一七四四年)『五十七歳を以て歿した』とある。この事実から、必ずしもこれらの話は同時制の怪談でないことが判明する

「益氣湯」補中益気湯(ほちゅうえっきとう)という病院でもよく用いられる代表的漢方調剤薬。「おくすり110番」のこちらに詳しい。]

 又或士、火光(くわくくわう)の首の足元に來りしを、足にて蹴りたりしに、其足燒けたゞれて痛みけるを、或人

「伽羅(きやら)を燃(た)きてふすべし」

と云ひしが、二三日如ㇾ此(かくのごとく)せしかば、毒氣去りて直りしと云ふ。

 徃々如ㇾ斯(かくのごとき)事諸國にも多し。怪物一つか又別物か、分ち難し。古狸妖怪の外、古物の精(せい)化して如ㇾ此成なるべし。或人云ふ、

「別に夜中如ㇾ此變ずる鳥あり」

と云ふ。實(げ)にも造物の理(こちわり)極むべきにあらず。

[やぶちゃん注:「火光」その首自体が妖しい炎と光を発しているのである。

「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。

「ふすべし」思うに、これは薬用素材が伽羅である以上、それを「貼(ふ)す」のではなく、それをもって患部を「燻(ふす)ぶ」のでなくてはなるまい。されば、ここは「ふすぶべし」が正しいのではないかと思う(但し、諸本は総て「ふすべし」である)。

「古物の精(せい)化して如ㇾ此成なる」所謂、「付喪神(つくもがみ)」。一般には百年を経た器物や生物ではない物体に宿って、化けたり、人に害をなしたりするとされる精霊或いはその変化妖怪の自体のことを指す。

「別に夜中如ㇾ此變ずる鳥あり」所謂、「姑獲鳥(うぶめ)」辺りを半可通で言っているような気が強くする。「産女」とも書くが、本邦のそれは元来は妖怪ではなく、難産のために死んだ女性の幽霊である。それとは別に想像上の怪鳥としても認識される。通常の前者は赤子を抱いて現われ、通行人に抱かせようとしたり、幼児の泣き声に似た声で夜間に飛び来たって人の子に害を加えたりするとされる。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を読まれたい。]

2020/03/07

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ


     三 猪 の 禍 ひ

 

Sisigoya

 

[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。今回は細部を見易くするために大判でダウン・ロードした。「猪小屋」というキャプションは前に徴するならば、「いのししごや」ではなく「ししごや」であろう。]

 

 秋になつて稻が色づく頃には、山田を耕してゐる者は一晚でも安閑としては居られなんだ。僅か許りの冷田の作代であるが、文字通り猪の襲來が激しくて、絕えず脅かされて居たのである。收穫間近の煽られるやうな忙しい中を、日が落ちてからヤトオを幾十本となく矧いで、なんでも今夜が危ないなどゝ、暗がりを辿つて、猪の路へ立てに行つた。或時父の後から、隨いて行つた事がある。彼の峯から來ると敎へられて、眞黑に茂つた雜木山を、不安な目で仰いだものだつた。柴山から田のクロへ續く崖の下へ、矢來のやうに隙間なくヤトオを立てたものである。

[やぶちゃん注:「冷田」「ひえだ」。山間部の猫の額のような貧しい田のことか。或いは山からの流水で水温が低く、ずぶずぶの条件の悪い汁田(しるた)のような田のことかも知れない。

「作代」「さくしろ」。稲を作る田。

「ヤトオ」次の段落で詳しく解説される。そちらの私の注も参照されたい。

「矧いで」「はいで」。本来この「矧ぐ」は「鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢につくる」ことを言う語であるが、ここは「竹を切り削(そ)いで鋭い矢のように作る」の謂いである。

「猪の路」イノシシの獣道。

「クロ」畔。田の畦(あぜ)道。

「矢來」「やらい」。竹や丸太で造った仮囲い。竹矢来は長さ二~三メートルの竹を斜めに組合せ、交差部を棕櫚(しゅろ)縄などで結んだもの。]

 ヤトオはヤトとも謂うて、矢竹の稍太い物を三尺程の長さに切揃へ、穗先を鋭く尖らせた物だつた。表の端で麥稈など焚いて、一本一本尖を炮つて、竹の脂肪氣を去つて鋭くしたのも、古くから續けて來た事らしかつた。ヤトオは本來オトシアナの中に立てゝ、陷ちた猪を突刺すための物の具であつたが、別に崖の下垣根の内等にも置いて、獲物を捕る事にも使つた。單に猪を嚇す爲めの、防禦の具に用ひたのは、せつない時の思付であつたかも知れぬ。それをつくる矢竹の茂りが、山の處々に、未だ忘れたやうに殘つてゐた。

[やぶちゃん注:「ヤトオ」漢字が想起出来ない。また、現在、この名も生き残っていないようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない(「やと」(後述される)「やとう」も調べたが、ない)し、ネット検索でも全く掛かってこない。以上の解説からは一見、「や」は「矢」のように思われがちであるが、「野」の可能性もあるかも知れない。「ヤトオ」がもし「ヤト」が元だとするなら(「と」の母音が長音化したもの)、本来の落とし罠の呼称で、「矢」状に鋭く尖らした竹を穴の「戸」(両壁が狭まった底部分)の部分に多数刺したもので「矢戸」かも知れないなどと夢想した。その罠を「野盜」などと呼称した可能性も考えたが、歴史的仮名遣ならば「ヤタウ」になるので分が悪い(「野刀」「矢刀」なども考えたが、同じである。但し、俗で口語発音として変化したとすれば問題はない)。識者の御教授を乞うものである。なお、「猪小屋」の上の斜面に組まれた十三基の奇妙な形をした人工物も、そうした猪に警戒させるために嚇(おど)しのための「ヤトオ」の一種と思われる。但し、挿絵の下方の田の畔に立っている七本のそれはその単純な形状から見て、後の「七 猪除けのお守り」に出るお守りであると思われる。

「表の端」家の表の敷地の端の謂いであろう。

「麥稈」「むぎわら」と訓じておく。

「焚いて」「たいて」。焼いて。

「尖」「さき」。

「炮つて」「あぶつて(あぶって)」。

「脂肪氣」「あぶらけ」。

「陷ちた」「おちた」。

「せつない時」貧しい時代、猪の害を激しく受けた時、の謂いであろう。

「別に崖の下垣根の内等にも置いて」挿絵の左手の山の大木の下辺りと、麓部分の黒い線がそれを描いたものと推定される。

「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は515mm。茎上部の節から各1本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。]

 猪に荒らされた後の稻は、誠に情け容赦も無い事だつた。わけて子持猪にでも出られたが最後、目も當てられぬ狼籍であつた。喰ふ以上に泥の中へ踏みにぢつて、偶々免がれた物は、稻扱(いなこき)にでも掛けたやうに、粒が悉く毟つてあつた。猪は穗の幾ツかを、一口に咥へて引たぐるらしかつた。空穗がヒヨロヒヨロ風に吹かれて居るのを見て、思はず淚を零したとは、現に度々聞かされた事である。其上にも後の始末が、並大抵の面倒で無かつた。それと見た隣の田では、未だ靑い穗並を、ムザムザ刈取るさへあつた。燒米にしても、猪に喰はれるより增しだと言うた。思へば憎い憎い猪だつた。晚方仕事の隙をみて、そつと狩人の家へ走つたのも、よくよく遣瀨なくての事である。

[やぶちゃん注:「踏みにぢつて」ママ。歴史的仮名遣は「踏み躙(にじ)る」で「ぢ」ではない。

「稻扱(いなこき)」「いねこき」とも読む。稲の籾(もみ)を稲穂から扱(こ)き落とす農具。単純な巨大な櫛状のものやドラム型で回転させるものなど、複数のタイプがある。グーグル画像検索「稲扱」をリンクさせておく。

「毟つて」「むしつて(むしって)」。

「咥へて」「くわへて(くわえて)」。

「引たぐる」「ひつたぐる(ひったぐる)」。「引き千切る」の広範な方言。

「空穗」「うつほ」と読みたい。

「燒米」「やきごめ」。

「遣瀨なくて」「やるせなくて」。]

 猪一ツ捕つてくれたら、酒の一升位出しても反つて有りがたいと、遂約束もしたのである。鳳來寺村長良(ながら)の一ツ家の話だつた。それからは狩人が猪を舁いで來て表に休む度、酒一升分の價を拂ひ拂ひしたが、屋敷廻りの猪はちつとも減らないで、狩人達が飛でもない遠方から、わざわざ廻り道をして舁いで來る事が判つて、慌てゝ約束を取り消したと言ふ。

[やぶちゃん注:「反つて」「かへつて(かえって)」。

「遂」これだと「つひ」であるが、「うっかり」の意の副詞「つい」(歴史的仮名遣も同じ)に当て字したもの。

「鳳來寺村長良(ながら)」現在の愛知県の旧南設楽郡鳳来町内。現在、新城市の一部となった。しかし、この字名を現在、確認出来ない。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、図の北西部の「鳳來村」の中に「長樂(ナガラ)」を見出すことが出来る。この附近だろうか?

「飛でもない」「とんでもない」。]

 村の某の男だつた。屋敷脇の 甘藷畑へ、每晚のやうに猪が出て片つ端から甘藷を掘る。終ひには宵の口から來て居る。それで或晚鐵砲を用意して待つて居て、中りもすまいと思つて放したのが遂擊ち殺してしまつた。夜が明けて見て遉がに當惑した。狐や兎などと異つて、三十貫もある物を、三人や四人の家内で、喰つて片附ける事も出來なんだ、ちよつと動かすにも男の手には餘る程で、賣る事は勿論、隣近所へ分けて與る事も、狩人達の思惑が案じられた。萬一警察へでも密告されたら、辛い目に遇ふに極つてゐる。現在さうした話を彼方此方で聞いて居た。散々頭痛にした果に、女房の緣故を辿つて、近間の狩人に情を明して引取つて貰つたが、それ迄二日二晚の間、猪の骸に莚を掛けて、畑の隅に匿して置いたと言ふ。でもその狩人から、幾干かの分前を貰つたが、えらい氣苦勞を考へると、滅多に猪も擊たれぬと零してゐた。

 何れにしても厄介千萬な猪だつたのである。

[やぶちゃん注:「甘藷畑」「いもばたけ」。サツマイモ畑。

「終ひ」「しまひ」。

「中り」「あたり」。

「遂」前段の注と同じ。

「遉がに」既出。「さすがに」。

「三十貫」百十二・五キログラム。大袈裟ではない。ニホンイノシシ(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax)は成獣で体重八十~百九十キログラムで、岐阜市では嘗て約二百二十キログラムもの雄個体が捕獲されたこともあるという。

「狩人達の思惑が案じられた。萬一警察へでも密告されたら、辛い目に遇ふに極つてゐる」この人物は猟銃や狩猟許可を所持していなかったということであろう。

「果」「はて」。

「骸」「むくろ」。

「幾干」「いくばく」。

「零して」「こぼして」。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 二 子猪を負んだ狩人


     二 子猪を負んだ狩人

Inosisigoya

 

[やぶちゃん注:筆者の本篇の挿絵「猪小屋」。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。

 これは自分が七ツ八ツ時分の事だつたと思ふ。その日は何かの用事で父が遠出した留守で、母と幼い同胞達と一間へ塊り合つて寢た。山村の事で早薄ら寒い程の秋であつた。丁度一眠りしたと思ふ時分、門の戶口をコトコトと叩く音に目を醒ました。先に目を醒ましてゐた母が先づ聲を掛けたが、外には聞へぬらしかつた。二三度續けて問返す内、漸く隣村の狩人と判つてホツとした。用向きを訊くと、今しがた奧の窪でコボウ(子猪)を一つ擊つたのだが、家迄運ぶ間、シヨイタを借り度いと言ふのである。母が土間の隅から取出して、戶口を開けて渡してやると、其儘急いで立去つたが、自分は思い懸けぬ經驗に昂奮して容易に眠られなかつた。その内又もや戶口を叩く音がして狩人が歸つて來た。今度は直ぐ起出して母を促して一緖に外へ出た。遉がに[やぶちゃん注:「さすがに」]、物珍しく心を惹かれたのである。夜目に瞭然と見えないが、暗がりにシヨイタを負つて立つてゐる男の肩に、何やら突立つてゐるのが、猪の肢でもあるのか、倒さ[やぶちゃん注:「さかさ」。]にして結へ着けてあるらしかつた。

[やぶちゃん注:表題の「負んだ」は「おんだ」で「背負った」の意。

「シヨイタ」「背負い板」で所謂「背負子(しょいこ)」のことであろう。長方形の板に直角の底板を配して背負い紐が附いた背負い具と思われる。]

 何でも宵待ちに行つて、田の畔(くろ)のボタに踞んでゐたと言ふ。すると上の柴山からボソリボソリ降りて來るのが、星空に透かして見ると、大小二ツの紛れも無い猪だつた。大凡[やぶちゃん注:「おほよそ」。]狙ひを附けて擊つと、つい目の前へ草を分けて轉がつて來たさうで、親猪の方は遂に取遁した[やぶちゃん注:「とりにがした」。]という。其處は自分の家の田圃の傍で、判然記憶にある場所だつた。田の脇を道が通つてゐて、傍に三ツ又の杉の古木が立つてゐた。田植の折には、定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]その蔭で晝飯を喰べた所である。狩人は一通り話し了ると、新しく煙草を喫ひつけて[やぶちゃん注:「すひつけて」。]、幾度かシヨイタの禮を述べて、前の坂道を降りて行つた。今考へると夢のやうな光景である。

[やぶちゃん注:「田の畔(くろ)のボタ」田圃の畦道の斜面部分を指す方言と思われる。サイト「昔の茨城弁集」に(表題は以上だが、全国的な方言集となっている)、「ぼた」を「土手」とし、採集地を静岡としている。

「踞んで」「しやがんで」。]

 其男は龜さとか言ふ名前で、狩人仲間でも豪膽者だとは聞いてゐた。いつも相棒になる同じ村の若い狩人が、ひどい臆病者で、猪を見かけて遁げてばかりゐるのに、此男のお蔭で趣旨い目[やぶちゃん注:「うまいめ」。]に遇ふとも言うた。曾て村の某の老爺が、山田の猪小屋で鳴子の綱を引いてゐると、入口の垂筵を默つて持上げて、オツトウ今夜は俺が番をせるぞへと言うて、ひどくビツクリさせたさうである。以前からの强い狩人は悉く死んでしまつて、夜の夜中に一人山の中を步き得るのは、もう彼の[やぶちゃん注:「かの」。]男一人だとも言うた。

[やぶちゃん注:「龜さ」「龜」が通称で「さ」は接尾語で人の名などについて敬意を表わすもの。

「ぞへ」はママ。]

 それほどの男でも、大切にしてゐた犬が、山で何物かに喰ひ殺されたときは、三日三晚も泣き通したさうである。赤毛の極く賢い犬で、主人が狩に出ぬ日でも、一日に一度は必ず山へ入つて、兎か狸かを捕つて來た。或時三日も續けて姿を見せなんだ。そこで近所の者を賴んで彼方此方[やぶちゃん注:「あちこち」と訓じておく。]搜すと、岩山の大きな石の蔭に、咽喉を喰破られて死んでゐたさうである。大方狸かなんぞの、劫を經た物の仕業であろう。餘り澤山の獲物を捕つた報いだらうとも言うた。その事以來遉がの[やぶちゃん注:「さすがの」。]豪膽者も急に老込んだと聞いたが、今でも多分生きてゐるだらう、もう七十幾つの年配の筈である。

[やぶちゃん注:猟犬の殺害者を狸とするのは不審。喉笛を噛み切ってそのまま放置しているところはちょっと気になる(獲物として摂餌していない点で)が、野犬或いは絶滅近かったニホンオオカミ(食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年の生まれである)などの可能性が高いように思われる。

「餘り澤山の獲物を捕つた報いだらうとも言うた」は「龜さ」の知人が特に意識しないで思いつきで言ったものであろうが、それはそのまま「龜さ」自身の「報い」の暗示となり、それ「以來遉がの豪膽者も急に老込んだ」という結果に繋がるのは言うまでもない。]

2020/03/06

早川孝太郎 猪・鹿・狸 正字正仮名版 全電子化注始動 / 凡例・ 猪 一 狩人を尋ねて

 

[やぶちゃん注:本書は東京市小石川区の郷土研究社から大正一五(一九二六)年十一月に『鄕土硏究社第二叢書』の一冊として刊行されたものである。内容は表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集である。

 著者早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年:パブリック・ドメイン)は民俗学者・画家。画家を志して松岡映丘(本名は輝夫)に師事、映丘の兄柳田國男(彼は松岡家から柳田家の養嗣子となった)を知り、民俗学者となった。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、昭和五(一九三〇)年に同祭りを中心に三河地方の祭りを論じた大著「花祭」を刊行した。他にも精力的に農山村民俗の実地調査を行っている。

 底本は初版の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。当初、全く零からやり始めるつもりであったが、本文パート(「跋」を除く)に関しては、網迫氏のサイト『網迫の「質より量」』で二〇一〇年十月に公開された未校正の本書の三分割版の新字新仮名版があるのを、本日、発見し(同サイトはずっと昔から知っていたが、早期退職後、自己のサイトに掛かりっきりになるにつれて、つい御無沙汰していた)、加工データとして利用させて戴くこととした。心より感謝申し上げる。

 また、芥川龍之介は自死する凡そ八ヶ月前、大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に「猪・鹿・狸」と題して本書の極めて好意的な書評を掲載している。私はその電子化注を二〇一七年に行って以来、本書の電子化注も是非やりたいと考えて読み続けてきていたという経緯がある。2020320日追記】実は昨日夜になって、いつも情報や私の誤りの御指摘を頂くT氏より、本書の後の改訂本(筆者自身による)が昭和一七(一九四二)年に文一路社から同じく「猪・鹿・狸」のタイトルで出版されていることを知り、しかもそれも国立国会図書館デジタルコレクションで読めることを知らされた。と言っても私は初版電子化を既に「猪」パートを終わっており、底本を変える意志はないのだが、向後、注を附す際の参考には是非したいと考えている(既に電子化したものについてはこれからゆるゆると比較してみる予定である。縦覧したところ、挿絵は本初版のそれよりも、かなり大きく、しかも追加で加えられたものも多い。必見である)。ただ、その改訂本の「凡例・その他」のこちらに、芥川龍之介に係わる追記がなされてあったので、以下に掲げる。

   *

一 最後に本の標題であるが、之はこの本に續いて「鷹、猿、山犬」及び「鳥の話」を刊行し、二部作或は三部作としたい氣持もあつて撰んだものであつた。實は書名に就いて、當時健在であられた芥川龍之助さんから、自分は近く「梅、馬、鶯」といふ本を出す豫定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたといふ意味を申送られたものであつた。

   *

ここに出る芥川龍之介の書簡は少なくとも岩波旧全集には見当たらない。なお、「芥川龍之助」はママである。芥川龍之介が如何に自立的に早川孝太郎氏に著作物に非常な興味を持っていたかは、大正十二(一九二三)年十一月に雑誌『随筆』に分載した「澄江堂雜記」の中の終章「家」を読めば判る(リンク先は私の古いサイト版)。

   *

      家

 早川孝太郎氏は「三州橫山話」の卷末にまじなひの歌をいくつも掲げてゐる。

 盜賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間に何ごとあらば起せ、桁梁」

 火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁に雪の桁、雨のたる木に露の葺き草」

 いづれも「家」に生命を感じた古へびとの面目を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後に生れるものは是等の歌を讀んだにしろ、何の感銘も受けないかも知れない。或は又鐵筋コンクリイトの借家住まひをするやうになつても、是等の歌は幻のやうに山かげに散在する茅葺屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。

 なほ次手に廣告すれば、早川氏の「三州橫山話」は柳田國男氏の「遠野物語」以來、最も興味のある傳說集であらう。發行所は小石川區茗荷谷町五十二番地鄕土硏究社、定價は僅かに七十錢である。但し僕は早川氏も知らず、勿論廣告も賴まれた譯ではない。

 附記 なほ四五十年前の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁も聽け、明けの六つにほ起せ大びき」

   *

なお、昨日はもう一つ、そのT氏からサイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページを紹介された。非常に驚くべき強力なページで、本「猪・鹿・狸」も全電子化(但し、新字新仮名で総てPDF)されてあり、他の早川氏の著作もPDFで読める。また、一部に簡単な注や現在の現地の写真が添えられてある。そうして、ここで龍之介の指示する「三州橫山話」も、こちらPDF)で読めるのである。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部で主に若い読者を仮想対象としてストイックに注を附した。挿絵も画家である筆者のものであるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして適切な位置に配する。

 やっと私は誰にも繋がらない私の孤独に帰ることが出来た気がしている。202036日始動 藪野直史】]

 

 

 鄕土硏究社第二叢書 4

 

 猪・鹿・狸  早川孝太郞著

 

[やぶちゃん注:扉の表題。全体が角の丸い枠で囲われており、「猪・鹿・狸」が角枠でやはり囲まれてある。]

 

 

       凡  例

 

一 猪と鹿と狸と、それぞれに因緣や連絡があつたわけではない。

一 話に出てくる地名で、單に村の名だけを記して、郡名を省いたものは、南設樂郡内の事である。

[やぶちゃん注:「南設樂郡」(みなみしたらぐん)は現在の新城市(グーグル・マップ・データ)の大部分(豊川・宇連川以南及び作手中河内・川合・池場を除く)に相当する。]

一 村の名を言ふ場合に、例へば長篠村淺畑とか、鳳來寺村峯とある類は、多くの場合、その間へ、大字の文字がはいることである。然し中には、昔の話のまゝに、現在の行政區劃を無視したものもあつた。郡名と小字を言うた類のものである。

一 大字の名を省いて、村名と小字だけのものもあつた。又鳳來寺山東方にある何々の部落の如く、村名を省いたものもあつて、一定して居ない。多くは話の感じに重きをおいてやつた爲である。まるきし不明の點もあるまいと思ふが、反つて煩はしくなつたことは恐縮の他ない。

一 地名の讀方は、大抵一回だけ、振假名を附けて置いた。なかには重複したものもあるやうで目觸りである。或は又、當然必要がないと思ふもので、そのまゝ置いたものもある。

一 話の年次は今から何年前といふ風のものは、現在を基準としたのである。明治何年頃と言ふ類は、多く自分が推定したものである。

一 話の順序と標題は、内容に據つたものではない。多く感じの上の分類でなかには同じ標題の中に、異なつた幾つもの話を入れた處がある。

一 カツトは自分のスケツチに據つて描いたのであるが、中には全然想像で描いたものもある。

 

 

[やぶちゃん注:以下、六ページに亙って「目次」があるが、これは総ての電子化が終わったところで示すこととする。予め目を通されたい方はこちらから。次のパート表題「猪」の字体はママ(ここのみ正字の最終画の「ヽ」がない)。また、角枠で囲われてある。こちら或いはこれは早川氏のデザインした絵文字なのかも知れないので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して添えることとする。

 

   Inosisi_20200306154701

 

   

 

 

     一 狩人を尋ねて

 早三四年前にもなるかと思ふが、狩の話が聽きたくて、以前狩人だつた男を尋ねて行つたことがある。前から知らぬでもなかつたが、前身が狩人の事は、遂少し前に、初めて知つたのである。

[やぶちゃん注:「狩人」は以下総て「かりうど」と読んでおく。]

 生憎だつたが、今日は山田へ田繕(たなほ)しにいつたと家人の言葉を聞いた時は、ちよつと落膽したが、更に其田を聞いて出掛けて行つた。街道から山道にかゝつて二三町進むと、窪を越した向ふに、柴山をひどく切崩した址が見えて、直ぐ判つた。新しく畔を築いて、幾段にも出來た新田の一ツに、腰が弓のようになつた白髮の男が、餘念なく土を篩つてゐる。そばには頑丈な手押車が置いてあつた。兼て耳の遠い事は聞いていたので、傍へ寄つてから大きな聲で來意を告げると、初めは何とも合點のゆかぬ顏付であつたが、段々話す内、得心が着いたか、ニヤニヤと相恰が崩れた。軈てビツクリするやうな聲で笑つてから、そんな事が何かの役に立つかと言うて、更に愉快さうに笑つて直ぐ話し出した。

[やぶちゃん注:「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。

「畔」「くろ」と読んでいるか。畦(あぜ)のこと。

「篩つてゐる」「ふるつてゐる」。

「相恰」「さうがう(そうごう)」。相好。顔つき。

「軈て」「やがて」。]

 十六の年から猪追(しゝぼ)ひをやつたさうである。そして 近間の山と云ふ山は悉くあるき盡くして、時には遠く伊勢路迄入りこんだ事もある。或年 奧郡(おくこほり)(渥美郡伊良胡崎)に猪が澤山居る話を聞いて、朋輩と二人で出かけた時の事、赤羽根の海邊を鐵砲舁いで[やぶちゃん注:「かついで」。]步いて行くと、岸から僅か離れた岩の上に、鵜が零れる程止まつてゐたさうである。そこで慰み半分に一發放して見ると、鳥は驚いて一時に飛立つたが、その内一羽は海の中へ轉げ落ちた。そして波にブカブカ浮かんでゐるのだが、二人共山猿の悲しさにどうすることも出來なんだ。その儘見捨てゝ行かうとすると、近くの畑で樣子を見てゐた男が飛んで來て、デシ殿あれは不用ぬかい[やぶちゃん注:「いらぬかい」。]と云うて、ザンブリ海へ飛込んで拾つたそうである。デシとは此附近で專ら狩人を呼ぶ言葉であつた。

[やぶちゃん注:「猪追(しゝぼ)ひ」矢ヶ﨑孝雄氏の論文「岐阜県下白山東・南麓における猪害防除」(『石川県白山自然保護センター研究報告』第二十四集・PDF)を読むに、少なくとも中部地方では「猪」或いは「猪狩り」を「ししぼい」と呼んでいることが判る。サイト「横手/方言散歩」のこちらに拠れば、「広辞苑」には「ぼう」で「追ふ」として「追(お)う」に同じとし、「ぼいだす」(追ひ出す)で「追い出す」・「たたき出す」、「ぼいまくる」(追ひまくる)とある。しかも、角川書店版「古語辞典」には「ぼいだす」を「たたきだす」、「ぼいまくる」(ぼい捲くる)で「追いまくる・追い払う」として、「ぼふ」「ぼひ」は方言ではなく、ちゃんとした古語であること認定している。秋田県でも「ぼう」は全県で「おふ(追ふ)」の意であるという。

「近間」「ちかま」。

「渥美郡伊良胡崎」渥美半島先端部(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の田原市の一部に山岳部がある。

「赤羽根」愛知県田原市赤羽根町(同前)。

「舁いで」「かついで」。

「不用ぬかい」「いらぬかい」。]

 此話を聞いてゐると、春さき日のポカポカ當つた海邊を、呑気さうに步いてゆく狩人の姿が見えるやうである。狩人の中には、居廻りの山谷ばかり守る事をせず、獲物を索めては[やぶちゃん注:「もとめては」。]山から山を渡り步いて、ホンの僅かの間しか家に歸らぬ者もあつたのである。

 今年七十七だと言うたが、十數年前四十幾年の狩人生活をフツヽリと斷つて、たゞの農夫に還つて老先を田地の改良などやつて居たのである。實は狩ほど面白い仕事は無かつたと言ふ。いくら八釜しく言はれても、耕作などとても辛棒が出來なんださうである。さう言うて居るだけ、ひどく謙遜した回顧談であつたが、愉快な事はその老人が、諦めたなどゝ言ひながら、話の間の手[やぶちゃん注:「あひのて」。]に此方が語る他國の狩の事を、珍らしがつて聽こうとする態度であつた。その晚更に家へ訪ねると、一人で茶を汲んだり菓子を出したりして、歡待してくれた。そして若い頃獲た[やぶちゃん注:「とつた」。]大鹿の皮で、自分が縫つたと云ふタツヽケの、ボロボロに綻びた[やぶちゃん注:「ほころびた」。]のを納戶の隅から搜し出して見せてくれた。鐵砲も早賣つてしまつて、殘る物はもうこれだけだと言うた。

[やぶちゃん注:「獲た」「えた」とも読めるが、それでは「大鹿」に相応しくない。「獲つた」の脱字か誤植を私は疑う。

「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。

「納戶」(なんど)は衣服・調度品などを収納する部屋。中世以降の屋内の物置部屋を指し、同時に寝室や産室としても用いた。]

 斯うして[やぶちゃん注:「かうして(こうして)」。]猪狩の話も、納戶の隅に置き忘れたタツヽケの如く、既に過去の物語に成りつゝあつたのであるが、一方對手[やぶちゃん注:「あひて」。]の猪は、未だ盛んに出沒して居たのである。現にこの老人の耕しつゝあつた田の稻も、年每に荒らされつゝあつたのは、矛盾だか皮肉だか判らなんだ。

[やぶちゃん注:因みに、猪(本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax。他に亜種リュウキュウイノシシ Sus scrofa riukiuanus が南西諸島(奄美大島及び琉球諸島の一部(沖縄島・石垣島・西表島等)に分布する。但し、八重山諸島の個体群を別亜種として三亜種とする主張や、これらは亜種ではない同属のタイプ種とは別種とする説もある )の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし)(イノシシ)」を参照されたい。]

 

三州奇談卷之三 空聲送ㇾ人

    空聲送ㇾ人

 篠原勘解由(かげゆ)の與力に安藤庄太夫と云ふ者ありき。常に殺生を好みしが、

「鵜飼・網・罠のうち釣の一筋こそ面白けれ。萬事無心一釣竿」

と「釣臺(てうだい)の吟」を唱へて、犀川の上、内川(うちかは)と云ふに竿を友として終日心を慰みけるに、日も西に傾く頃、後の山手より名をさして呼ぶ者あり。應答して邊りを見るに更に人なし。不審に思ひしかども、暮かゝる儘に、早く竿を揚げて立歸る。

[やぶちゃん注:表題は「空聲(くうせい)人を送る」。

「篠原勘解由」不詳。篠原姓は加賀藩士には複数認められる。

「安藤庄太夫」不詳。藩士に安藤姓は数名認められる。

「萬事無心一釣竿」「釣臺の吟」南宋の詩人戴(たい)復古(一一六七年~一二四八年:浙江省出身。若い頃に陸游の門に入り、生涯仕官せず、放浪して清廉な生涯を送った)の七絶「釣臺」の起句。個人ブログ「日々是好日」のこちらによれば、後漢の隠者厳子陵(本名・厳光 紀元前三九年~紀元後四一年)と光武帝劉文叔(紀元前六年~紀元後五七年:後漢王朝初代皇帝)との交わりに関して、『子陵が朝廷に仕官したことがまことに惜しいと』詠じたものとする。以下の同詩篇は中文サイトでの比較と諸論文から転句の頭を決定した。流布されているものは「當初」ではなく「平生」で、他に中文サイトでは「平山」っとするものも多くある。訓読の自然流で示した。

   *

   釣臺

 萬事無心一釣竿

 三公不換此江山

 當初誤識劉文叔

 惹起虛名滿世間

    釣臺

  萬事 無心なり 一釣の竿(かん)

  三公にも換へず 此の江山

  當初 誤る 劉文叔を識り

  虛名を惹起し 世間に滿たしむるを

   *

ウィキの「厳光」によれば、『会稽郡余姚県(浙江省余姚市)の出身。若くして才名あり、のちの光武帝となる劉秀と同門に学ぶ。劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を惜しみ行方を捜させたところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、長安に召し出された。宮中の作法に詳しい司徒の侯覇が厳光と親しかったが、厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけだった。それどころか』、『自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、光が帝の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日』、『大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、帝は「故旧とともに臥したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたが』、『これを断って』、『富春山(浙江省富陽県)で農耕をして暮らし、その地で没』した。『光武帝はその死を悲しみ、厳光が亡くなった郡県に詔して銭百万と穀千斛を賜った』という。『厳光が釣りをしていた場所(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。北宋の政治家・范仲淹は厳光の祠堂を修復し、「厳先生祠堂記」を撰写しその中で「雲山蒼蒼、江水泱泱。先生之風、山高水長」と厳光の高尚な気風を賞賛した』が、『一方、清代初期の王船山は『読通鑑論』で厳光を評し、「厳光が光武帝に仕えなかったのは、沮溺・丈人(『論語』に登場する隠者たち)に比べて度量が狭い。後者二人はその時代に道が行われないことを知り、やむを得ず君臣の義を廃したのである。光武帝は王莽の乱をおさめ漢の正統を継ぎ、礼楽を修め古典に則る人だった。帝の教化が十分でないとすれば、それこそ賢者が道を以て帝を助けるべきではないか。なぜ厳光は、はやばやと天下を見捨ててしまったのか」と怪しんでいる』とある。「沮溺」は長沮と桀溺で丈人(杖人とともに「論語」に出る孔子を暗に批判する道家的人物である。

「三公」は中国で天子を補佐する三人の最高官を指す。

「内川」金沢市の無住地区である菊水町(グーグル・マップ・データ)で東谷川と西ノ谷川が合流して内川となる。現在の内川ダムより下流域の中戸町・山川町境で犀川と合流する。

「後の山手」思うに倉ヶ嶽の山塊であろう。]

 やゝ灰塚の邊(あたり)に至りし頃は日は早暮れてそことも見えぬに、爰(ここ)は名にあふ怪異の所にて、無常の煙凄々(せいせい)とし、臭穢(しうゑ)云ふ許なく、狼犬(らうけん)常に墓を穿ち爭ふ聲かまびすし。殊に小雨も降出でしかば、燐火四方に燃えて、見るに凄く、毛孔寒かりしに、折節耳元にて大音に

「庄太夫」

と呼ばる故、

『扨は魔魅の業』

と思ひ、押だまりて行き過ぐるに、跡よりまた物呼懸け呼懸けしける。小立野篠原氏下屋敷迄、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『凡(およそ)三里』と入る。]、須臾(しゆゆ)も呼び止むことなし。

 既に居宅の戶に入らんとせし時、虛空よりしたゝかに水を懸けたり。驚き見るに、偏身一絞(ひとしぼり)に濡れぬ。家に入りて後には何の怪事もなし。

[やぶちゃん注:「灰塚」現在の金沢市小立野及び宝町附近。「灰塚」という呼称は江戸前期に藩主前田家の関係者を荼毘に付した場所であったことに由来する。措定した倉ヶ嶽の北東麓付近から現在の小立野までは国書刊行会本の通り、実測で十二キロメートルほどある。]

 是を「妖籟(えうらい)」と云ふにや。又「應籟」あり。

[やぶちゃん注:「籟」は普通は「風が物にあたって発する音」或いは「響き・声」の意。]

 生駒内膳の家士三島半左衞門と云ふ者あり。性質偏屈にて癖多し。夫(それ)が中に謠(うたひ)を好み、是には寢食をも忘れ、又怪談奇談を嫌ふこと、我(われ)云はざるのみならず、他に若(も)し語る者あれば打破ること甚し。元來辨才矯舌(けうぜつ)にて、理(ことわり)を非(ひ)に論ずるなり。左(さ)あれば云ひ出す者、終に閉口して過ぎぬ。

 或夜更けて長町坂井甚右衞門が邊りを通りしに、例の好(このむ)事なれば、心にうかび出づるまゝに、「三井寺」の曲舞(くせまひ)を謠(うたひ)出(いだ)すに、言外に壁の中より助言して付けて謠ふ。

 怪しく思ひて「松風」に替ふるに、又々同じ。

 色々試むるに先きの如し。とかく思ひなしには非ず。

 長途如ㇾ此(かくのごとく)にして、謠來(うたひきた)ること先の如し。終に生駒家の門内に入りて止む。

 其後半左衞門も共に怪異を語る者とは成(なり)ぬ。是(これ)『妖怪もよく謠を覺えたる』と感じてやありけん。

[やぶちゃん注:「生駒内膳」「加能郷土辞彙」に生駒氏が複数載るが、そのうち、「内膳」を称した本諸篇の多くの時期に合致すると思われる人物としては生駒直武がいる。

「三島半左衞門」不詳。藩士に三島姓は複数いる。

「打破る」激しく反論して打ち負かす。怪奇を十把一絡げにして無理矢理、全否定する(「理を非に論ずる」=一貫して論理的に正当であるものをさえ巧妙な反論をして否定する)のであろう。

「辨才」「能弁」に同じい。議論で人を巧みに説き伏せる才能。また、口先で誤魔化す才能の意もある。

「矯舌」「矯」には「曲がったものを正しく直す」以外に「無理に曲げる・偽る」の他、「強い・激しい」の意があるから、後の二者の意であろう。

「長町」金沢市長町。地図で判る通り、往時の武家屋敷町であった。

「坂井甚右衞門」「石川県立図書館」公式サイト内のこちらで、「加賀藩史料」の「護国公年譜」に同名の人物を確認出来る。

「三井寺」作者不詳(世阿弥の作とも伝えられる)の狂女物の名作。作者未詳。我が子千満を人買いにさらわれた母が清水の観音に参ると、「三井寺へ行け」という夢のお告げを受ける。夢占(ゆめうら)の男の判断も吉と出たため、喜んで近江に向う。三井寺では住僧たちが稚児を連れて十五夜の月見をしている。そこへ物狂いとなった母が現われ、僧たちの制止もきかずに鐘を撞いて戯れた後、清澄な琵琶湖の夜景を眺めて時を過ごす。やがて母は月見の席の稚児が我が子と知り、母子は連れ立って故郷へ帰っていくという構成。「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のこちらが章詞も総て載っていてよい。その「曲舞」部分は(リンク先には誤字があるので、所持する「新潮日本古典集成」本を参考に、恣意的に正字化して示す)、

   *

〔クセ〕〽山寺の 春の夕暮れ來てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける げに惜めども など夢の春と暮れぬらん そのほか曉の 妹背(いもせ)を惜しむきぬぎぬの 恨みを添ふる行くへにも 枕の鐘や響くらん また待つ宵に 更け行く鐘の聲聞けば あかぬ別かれの鳥(とり)は 物かはと詠ぜしも 戀路の便りの音信(おとづれ)の聲と聞くものを 又は老いらくの 寢覺程經(ほどふ)ふるいにしへを 今思ひ寢の夢だにも 淚心(なみだごころ)のさびしさに 此鐘のつくづくと 思ひを盡す曉をいつの時にか比べまし シテ〽 月落ち鳥(とり)鳴いて 〽霜(しも)天に滿ちてすさましく 江村の漁火もほのかに 半夜の鐘の響は 客(かく)の船にや通ふらん 蓬窓(はうさう)雨滴(しただ)りて なれし汐路の楫枕(かぢまくら) うきねぞ變はるこの海は 波風も靜かにて 秋の夜すがら 月澄む 三井寺の鐘ぞさやけき

   *

である。

「松風」世阿弥作(但し、観阿弥の古作能「汐汲(しおくみ)」の翻案物)の謡曲でも知られた名品。旅僧が須磨の浦で在原行平の愛人であった松風・村雨という二人の海女の亡霊に逢い、特に松風の霊が恋慕のあまり、狂おしくなって、形見の衣装を着けて舞うと思うと、夢がさめ、ただ松籟ばかりがしていたという構成。世阿弥自身が会心の作としていた曲である。同じく「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のそれをリンクさせておく。

「『妖怪もよく謠を覺えたる』と感じてやありけん」「『頭ごなしに非在としてきた妖怪の中にも、いろいろな謡いを、よくもまあ、ちゃんと覚えているものが実在したものだわい』と半左衛門が感心した結果ででもあろうか」の意。]

2020/03/05

三州奇談卷之三 邪淫の業報

    邪淫の業報

 歎きにはいかなる花の咲やらん身になりてこそ思ひ知らめ、

とは最も賢き御すさび、賤(しづ)のけふの身の上に思ひ取るにはあらねども、愛執こそ物の哀(あはれ)も深し。

[やぶちゃん注:冒頭の和歌は、「平治物語」の巻之一の「院の御所仁和寺に御幸の事」の頭の部分に出る、後白河上皇の一首、私の所持する刊本は底本伝本が異なり、この歌が載らないので、国立国会図書館デジタルコレクションの「日本文学大系 校註」の第十四巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)を視認して以下に電子化する。会話部は改行した。〔 〕は私の付した読み。

   *

 さる程に同じき二十三日、大内〔おほうち〕の兵共〔つはものども〕六波羅より寄するとて騷ぎけれども、その儀もなし。總て十日より日々夜々に、六波羅には内裏より寄するとてひしめき、大内には六波羅より寄するとて、兵共右往左往(うわうさわう)に馳せ違ひ、源平兩家の軍兵等、京白河に往還す。年は既に暮れなんとすれども、歲末年始の營(いとな)みにも及ばず、只合戰の評定ばかりなり。

 二十六日の夜更けて、藏人右少辨成賴〔なりより〕、一本御書所〔ごしよどころ〕へ參つて、

「君は如何(いかゞ)思し召され候。世の中は今夜の明けぬ前に亂るべきにて候。經宗・惟方は申し入るゝ旨候はずや。行幸〔ぎやうかう〕も他所へ成らせ給ひぬ。又急ぎ何方へも御幸〔ごかう〕ならせおはしませ。」

と奏せられければ、上皇驚かせ給ひて、

「仁和寺の方へこそ思し召し立ため。」

とて、殿上人の體(てい)に御姿をやつさせ給ひて、紛(まぎ)れ出でさせおはします。上西門〔しやうさいもん〕の前にて、北野の方を伏し拜ませ給ひて、それより御馬に召されけり。供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)一人なければ、御馬に任(まか)せて御幸なる。未だ夜半(やはん)の事なれば、臥待(ふしまち)の月もさし出でず、北山おろしの音さえて、空かき曇り降る雪に、御幸の道も見え分かず。木草の風にそよぐを聞召しても、逆徒の追ひ奉るかと、御膽(きも)をぞ消させ給ひける。さてこそ一年、讚岐院の如意山〔によいさん〕に御幸成りける事までも、思し召し出でさせ給ひけれ。それは敗軍なれども、家弘・光弘以下候ひて、賴(たの)もしくぞ思召しける。これは然るべき武士一人も候はねば、御心細さのあまりに、一首はかくぞ思召し續けける。

  なげきにはいかなる花の咲くやらんみに成りてこそ思ひ知らるれ

   *

禁欲的に語注を附す。「二十三日」は平治元年十二月二十三日(グレゴリオ暦換算一一六〇年一月三十一日。「平治の乱」の勃発から十四日後)。「大内」は内裏。「一本の御書所」宮中の書物を管理した役所であるが、ここに後白河上皇は幽閉されていた。

 さて、この歌は、「なげき」に「嘆き」と「投げ木」(=薪(たきぎ))を掛けてあり、

――木片となった「投げ木」には一体、どんな花が咲くのだろうかと思うていたが、私自身の身が「嘆き」となって、何の花も咲きはしないのだということを思い知ることになろうとは――

の謂いであろう。]

 金澤家中玉置彥左衞門は、扶持二百石を領し、牧野小右衞門が女(むすめ)を娶りて女子三人を生(うま)し、妹背(いもせ)の中も睦じかりしが、夫彥左衞門が多藝にして、朋友多く、每夜外に遊びぬれば、物ねたみは女の習ひ、

「斯く夜每に外へ出て、引手數多(ひくてあまた)の色狂ひにや」

と打かこち、獨り袂の海と成りしが、

「我もし外に心を移す者も者もあるやと夫の心疑ふならば、宵々每(ごと)の外通ひも止りなん」

と思ひ、怪しくも去年(こぞ)の春迄召仕ひし若黨何の藤次とかや云ふ者、其頃は村氏に勤しが折々出入(いでいり)けるを幸ひに、氣色(けしき)許(ばかり)をほのめかして、心あるさまに見せけれども、夫聊(いささか)心も付(つけ)ず。猶其頃は小鳥狩(ことりがり)・謠講(うたひこかう)などゝ、内にも居ざりし。

 結句若黨の藤次は、深く心に思ひ染(そ)み、彼もわりなくいひよりけるに、道ならぬは猶忍ばるゝ習ひ、重きが上にと思へども、さすが岩木の强からで、頓(やが)て打なびき初めしが業因なる。

 初の程こそあれ、後はいつしか思ひ堅めて、

「いか成うきめも君ならば」

と、折を伺ひ連立ち退きて、虎ふす野邊とは定めける。

[やぶちゃん注:「玉置彥左衞門」不詳。

「牧野小右衞門」不詳。藩士に牧野姓は一人確認出来る。

「小鳥狩」秋になって渡ってくる小鳥を網や鷹などを用いて捕える猟。

「謠講」好事の者たちの謡(うたい)の集まり。]

 然るに延享三年の冬、彥左衞門は朋友の前波義兵衞を伴ひ、小鳥構ふるとて、夜深く立出で、落葉の山中に諷(うた)ひ興じ居(をり)けるが、午(うま)の刻許に頻(しきり)に胸騷ぎして、心中朦々たり。

「こはいかに」

と同道の人に語るに、前波義兵衞は曰く、

「か樣のことまゝあることゝ聞く。何樣(いかさま)宿に事あるにもや」

と云ひしに心付き、取る物も取敢へず家に歸る。申の刻許なり。

 はらからの娘は、父にすがり、

「母上今朝より見え給はず。是はいかなる事にや」

と泣悲むにぞ。夫も初めて徃事(わうじ)を悔めども返らず。捨置くべき事ならねば、先(まづ)密(ひそか)に師弟の好(よし)みあれば、前田對州(たいしう)の家人栗田久之進を招き、占はしむるに、全く凶事成りしかば、速(すみやか)に足止(あしどめ)の術をなさしむ。此久之進は周易にも委しく、且つ漢の武帝に奉りし道家天帝鎭宅靈符の祕法を修し得たり。

[やぶちゃん注:まず、夜っぴいて「鳥猟」と称してうち興じ、翌日の正午頃になって胸騒ぎがしたから、午後四時頃になってやっと家に帰るというのは、とんでもない放蕩者と私はまず呆れるのだが。

「延享三年」一七四六年。

「前波義兵衞」不詳。藩士に前波姓は二人いる。

「はらからの娘」姉の方。

「徃事」(放蕩三昧の)過去のこと。

「前田對州」藩主一門の前田対馬守家(越中守山城代一万八千石)。当時は加賀藩年寄で加賀八家前田対馬守家第九代当主であった前田駿河守孝昌(享保八(一七二三)年~安永六(一七七七)年)。

「栗田久之進」不詳。藩士に栗田姓は三人いる。

「道家天帝鎭宅靈符」大阪府交野(かたの)市星田にある「星田妙見宮」の公式サイト(正式名称は小松神社であるが、神社公式サイトとは別に設けてあって非常に珍しく面白い。因みに、「大阪府神社庁」の解説ページには「星田妙見宮」のことは一切書かれていない)内の「太上神仙鎮宅七十二霊符」に、『七十二種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられています。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容されました。この霊符を司る神を鎮宅霊符神と言いますが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられています。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体でありました。それ故、日本へ伝来すると』、『妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えています。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われます』(中略)。『この神様は安倍晴明ゆかりの神でもあります。明治初期には伝空海作の鎮宅霊符神をここに安置したと言われています』とある。]

 偖(さて)又あるべきことならねば、頭(かしら)に達し、公場の沙汰となりて、方々へ追手を懸(かけ)ける。是亦嚴命なり。

[やぶちゃん注:国書刊行会本で最後の部分は『追手を懸(かけ)ける。尤(もつとも)自身にも覺(おぼへ[やぶちゃん注:ママ。])の重代、ねた刃を合(あは)して、尋(たづね)に出られける。是又(これまた)嚴命也(なり)。』となっている。この「ねた刃を合(あは)して」は「寝刃を合はす」で本来は「刀剣の刃を研(と)ぐ」ことから、転じて「ひそかに事をくわだてる」の意があるが、「嚴命」の中には既に可能性としての不義密通の場合の当然のそれが公に含まれるわけであり、彼が無礼討ちするのは公然たる事実であるからには、後者の意味は最早無効であるのでリアルな前者である。]

 然るに第九日目に、大衆免(たいじゆめ)石屋が小路(しやうじ)と云ふ所にて、久之進是を尋付(たづねつけ)ける。十三四許の女童(めのわらは)が、二才許の小兒を負うて、風呂敷を着せて打はおりたれども、風のあげる隙(ひま)には艷(あでや)かしき小袖見えけるが、賤しき小家へ入けるを、

「必ず是ならん」

と跡より續いて入りければ、隱れ方なきわら屋なれば、袖覆ひながらも彥左衞門が妻と彼(かの)若黨もあり合ひし、兩人はあきれて物も云はざりしに、久之進笑ひを含み、

「此程の事ほのかに承りぬ。先づは小兒を携へ給へ。此嚴冬に堪へなんこと見るも中々痛はしく候。爰はあまりに淺間なれば、人の見る目も苦しきに、先々(まづまづ)我方へ來り給へ。我(われ)斯くて御かくまひ申す上は、別事あらじ」

と云ひしに、妻は泪にくれ、

「夫には少し恨(うらみ)ありて立出(たちいで)候ひしに、此藤次の身に懸けて世話ありしも、此程藤次は足の筋違ひて一足も引難く、是には居侍る」

とありしを、

「神妙に候。藤次も此一大事は、先度(せんど)見屆られんにこそ。一所に御かくまひ申さめ」

と色々すかし、言葉を巧にし我宅へ伴ひ、此旨を彥左衞門に告(つげ)ければ、頓(やが)て馳來(はせきた)り、兩人を駕籠に乘せ引連來(ひきつれきた)り、偖(さて)一門不ㇾ殘(のこらず)集め、色々詮義に及ぶ所、頭(かしら)原九右衞門より

「急ぎ殺害すべし」

とのことにて、妻女に覺悟を勸めければ、流石(さすが)武門の娘、小兒を婢(はしため)に渡し、身拵(みごしら)へして題目十邊許唱へて心よく討れけり。

 彥左衞門、夫より表へ出で、藤次を呼出し、爾々(しかじか)の意趣を云ひ聞かせて、只一打に切(きつ)て捨て、則(すなはち)此旨江府(がうふ)[やぶちゃん注:江戸。江戸加賀藩藩邸。]言上ありしかば、

「平生家内の始末宜しからず、不心得」

とありて禁足仰付けられ、其後赦免ありし。

[やぶちゃん注:「大衆免石屋が小路」現在の金沢市武蔵町(グーグル・マップ・データ)。「大衆免」とは神宮寺の大衆(だいしゅ:僧侶)の田地であって税が免除されていたことに由来するもの、金沢の旧地名にはこれを冠するところが多くあった。

「十三四許の女童」そうした年齢の少女の着る粗末な変装を妻はしていたのである。

「淺間」見るもひどいところ。

「先度」先頃。既に。或いは「とっくに」という副詞的用法かも知れぬ。

「見屆られんにこそ」「二人のことは人に見られておられたのであろうぞ」の謂いか。事実はそうではなかった。久之進だけが道術を以って見抜いていたのである。しかし、既に藩にも知られて追手も出されており、彼らを動揺させてここで逃がすわけにも行かぬから、かく懐柔したのであろう。

「原九右衞門」「頭」であるから玉置彦左衛門の属した役職の上司。原姓は藩士に複数いるが、頭役になれる人持組に一人いる。]

 彥左衞門は日蓮宗本光寺の檀那なり。亡妻の追福念頃に弔らはれしが、法會の節、兩人の者いかにも靑ざめたるうれい[やぶちゃん注:ママ。]顏して、壇上に顯れける。一周忌・三年・七年・十三年、忌度每に此二人の姿顯れしとぞ。誠に邪婬の罪業、未來永々の惡趣となり、生死(しやうじ)の苦海に漂泊して、永劫も浮ぶことあらじと淺まし。

[やぶちゃん注:「兩人の者」言わずもがな、玉置彦左衛門の妻と藤次の亡霊である。しかし、何か、この二人はどうにもやり切れず哀れである。]

 是はさもなし。只一通りの事ながら、同じ家中成田何某は祿四百石なり。一年(ひととせ)、是も所は大衆免(たいじゆめ)にて、いさゝ河竹の色を媚び、多くの人に情を懸けし小妻と云ひし者、故ありて所を拂はれ、小松と云ふに立退きしが、うたかたのよるべさそふ水のよすがありて、此成田氏の妾(めかけ)となりしが、年重なり寵にほこり、本妻に情なく當りぬ。奴婢(ぬひ)をもあらく遣ひしが、因果忽ち𢌞(めぐ)り、膈(かく)といふ病を受けて、數月苦痛して終に寶曆寅の秋空しくなり、頓(やが)て郊外一片の烟となせしが、其夜より此者の部屋の内何となく物騷がしく、襖戶の明立(あけた)てし、或は日頃手馴し櫛・鏡臺など取ちらす音して、終夜髮けづる如き時もありし。此家の下部(しもべ)などは、怖れて晝も彼(かの)一間には近付ざりしが、種々弔ひをなしければ、日を重ねて其妖は止みぬ。

 只々恐るべきは執着の道、

「劍の枝のたはむ迄いかに此の身のなれる果ぞや」

とは、邪淫の罪を怖れたる式部が戒(いましめ)。

「男女淫樂は互に臭骸を抱く」

とは、東坡が金言。婬聲美色は斷生(だんしやう)の斧なり。早く世人靈燭をかゞやかして迷悟を照し、慧劍(えけん)を磨(ま)して愛慾をたつべき事なり。

[やぶちゃん注:「成田何某」五百石の成田姓の藩士が一人いる。

「いさゝ河竹の色を媚び」「いささかはたけ」(「万葉集」の大伴家持の名歌「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかもいささ村竹」(四二九一番)のそれに、細い小川の意の歌語「いささがは」を掛けて)をパロって「いささか」「たけ」(長け)た「色」気と洒落ものであろう。ちょっとばかり人より色気があるのを得意としてモーションをかけては。

「膈」は食物が少し胸の辺りでつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされ、ここはそれらしい感じが強くする。

「寶曆寅」宝暦八年戊寅(つちのえとら)。一七五八年。

「劍の枝のたはむ迄いかに此の身のなれる果ぞや」和泉式部の一首だが一部が異なる。「金葉和歌集」には(六四四番)、

   *

   地獄繪に劍(つるぎ)の枝に

   人の貫かれたるを見てよめる

 あさましや劔の枝のたわむまでこは何(なに)の身のなれるなるらん

   *

と載る。彼女が見た地獄絵は衆合(しゅごう)地獄の中の刀葉林(とうようりん)である。「身の成れる」と「実の生(な)れる」が掛けてある。

「男女淫樂は互に臭骸を抱く」かの蘇東坡(署名は「東坡居士」)が「九相図絵巻」に寄せて作ったとされる「九相詩並序」(但し、これは偽作であろう)の序の冒頭に基づくもの。序は以下。

   *

紅粉翠黛、唯綵白皮。男女婬樂、互抱臭骸。身冷魂去、棄之荒原、雨灌日曝、須臾爛壞。卽爲灰焉、見昔質理亦爲土、誰知汩交、爲之惜名、其名冷於谷響、爲之求利、其利空於春夢。順我以爲恩愛、逆己忽作雔敵、順逆二門、豈不忘緣,皆是執無我之我、計無常之常。四種顛倒、眼前迷亂、世人猶可恥、況於釋氏乎。

   *

詩篇は中国の鄭阿財氏の論文『敦煌寫本「九想觀」詩歌新探』(中国語・『普門學報』第十二 期・二〇〇二年十一月発行・PDF)で読まれるのがよかろう。「紅粉翠黛、唯綵白皮。男女婬樂、互抱臭骸。」(紅粉の翠黛は、唯だ白き皮を綵る。男女の婬樂は、互ひに臭き骸(むくろ)を抱くのみ。)である。ただ、言っておくと、この一篇、私は激しく嫌悪する。クソのような雅文趣味の下手飾りがまるで効かずに、筆者の傍観者としての最下劣姓な蔑視観が垣間見えるからである。

2020/03/04

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その四)

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。初めは前に続きて暫くは入院中の吟詠が続く。]

 

   *

 

軍人(ぐんじん)になると言(い)ひ出(だ)して、

父母(ちちはは)に

苦勞(くろう)させたる昔(むかし)の我(われ)かな。

 

 軍人になると言ひ出して、

 父母に

 苦勞させたる昔の我かな。

 

   *

 

うつとりとなりて、

劒(けん)をさげ、馬(うま)にのれる己(おの)が姿(すがた)を

胸(むね)に描(ゑが)ける。

 

 うつとりとなりて、

 劒をさげ、馬にのれる己が姿を、

 胸に描ける。

 

   *

 

藤澤(ふじさは)といふ代議士(だいぎし)を

弟(おとうと)のごとく思(おも)ひて、

泣(な)いてやりしかな。

 

 藤澤といふ代議士を

 弟のごとく思ひて、

 泣いてやりしかな。

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『創作』明治四四(一九二一)年三月号。これは『南北朝正閏』(せいちゅう)『論争で、桂内閣の圧迫を受けて姿を隠した政友会の藤沢元造』衆議院議員『に同情を寄せた一首。この歌は二月十九日入院中の作であるが』、『その二日前の二月十七日の日記に、「南北朝事件で昨日質問演説をする筈だった藤沢元造といふ代議士が、突然辞表を出し、不得要領な告別演説をして行方不明になった。新聞の記事は政府の憎むべき迫害の殆ど何処まで及ぶかを想像するに難からしめた。予の精神は不愉快に昂奮した。」と書かれ』ており、『この一首の制作の動機と背景を物語っている』と評されておられる。藤沢元造は異様に個人の記載が少ない。生没年でさえも古いサイトのもう見られない過去記事から辛うじて、明治七(一八七四)年生まれで、大正一三(一九二四)年に没しているらしいことが判った。号は黄鵠で。儒学者藤沢南岳(天保一三(一八四二)年~大正九(一九二〇)年)の長男である。「南北朝正閏問題」は平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中世の南朝と北朝のどちらが正統であるかをめぐる論争で』明治四四(一九一一)年に『政治問題』として扱われた。『これについては古くから議論のあるところで、北畠親房の』「神皇正統記」は南朝説を、「梅松論」は北朝説に立っており、近世の水戸藩の「大日本史」などが名分論から、『南朝説を強く唱えたものの、一般には北朝説が優位であり、天皇の歴代も北朝によって数えられてきた。近代になると』、『両朝併立説が有力となり、最初の国定教科書』「小学日本歴史」(明治三六(一九〇三)年)では併立説をとり、明治四二(一九〇九)年の改訂版「尋常小学日本歴史」も『それを踏襲した。しかし大逆事件発生後の』明治四十三『年末から教育者間で問題視されはじめた。〈国体〉〈国民道徳〉との関連で併立は問題だというのである。翌年』一『月になると』、『新聞が盛んにとりあげ、大逆事件と結びつけて論難』し、同年二月にはこの藤沢元造代議士が『時の桂太郎内閣に質問書を提出し』、『処決を求めるにいたった。窮地に立った桂首相は藤沢代議士に教科書の改訂を約し』、『決着をはかった。これをうけて小松原英太郎文相は教科書の使用を禁止し、その改訂を指示するとともに、執筆者の喜田貞吉文部省編修官を休職にした。改訂教科書では〈南北朝〉の項が〈吉野朝〉に変えられ、天皇の歴代表から北朝が除かれた。以後、第』二『次大戦終結まで南朝正統説が支配する。これは国家権力による学問弾圧事件であり、皇国史観を国民に深くうえつける画期をなすものであった』とある。]

 

   *

 

何(なに)か一つ

大(おほ)いなる惡事(あくじ)しておいて、

知(し)らぬ顏(かほ)してゐたき氣持(きもち)かな。

 

 何か一つ

 大いなる惡事しておいて、

 知らぬ顏してゐたき氣持かな。

 

   *

 

ぢつとして寢(ね)ていらつしやいと

 子供(こども)にでもいふがごとくに

 醫者(いしや)のいふ日(ひ)かな。

 

 ぢつとして寢ていらつしやいと

  子供にでもいふがごとくに

  醫者のいふ日かな。

[やぶちゃん注:後ろ二行の一字下げはママ。以下、有意に表記形式にこの字下げが複雑に発生するが、以下の注ではそれは注さない。岩城氏前掲書に『以下七首』、明治四四(一九一一)『二月二十五日から三月五日ごろまでの高熱と肋膜炎の併発による病状の悪化を歌』ったものとする。同氏の編に成る筑摩版全集の年譜にも『二月二十六日 この日から月末にかけて三十八度ないし四十度の高熱が続き、病床に呻吟する』とあって、次の条に『三月六日 肋膜の水をとってから小康を得る』とある。]

 

   *

 

氷囊(へうなう)の下(した)より

まなこ光(ひか)らせて、

 寢(ね)られぬ夜(よる)は人(ひと)をにくめる。

 

 氷囊の下より

 まなこ光らせて、

  寢られぬ夜は人をにくめる。

[やぶちゃん注:「へうのう」はママ。歴史的仮名遣は「ひようなう」でよい。]

 

   *

 

春(はる)の雪(ゆき)みだれて降(ふ)るを

 熱(ねつ)のある目(め)に

 かなしくも眺(なが)め入(い)りたる。

 

 春の雪みだれて降るを

  熱のある目に

  かなしくも眺め入りたる。

 

   *

 

人間(にんげん)のその最大(さいだい)のかなしみが

 これかと

ふつと目(め)をばつぶれる。

 

 人間のその最大のかなしみが

  これかと

 ふつと目をばつぶれる。

 

   *

 

廻診(くわいしん)の醫者(いしや)の遲(おそ)さよ!

痛(いた)みある胸(むね)に手(て)をおきて

 かたく眼(め)をとづ。

 

 廻診の醫者の遲さよ!

 痛みある胸に手をおきて

  かたく眼をとづ。

 

   *

 

醫者(いしや)の顏色(かほいろ)をぢつと見(み)し外(ほか)に

何(なに)も見(み)ざりき――

 胸(むね)の痛(いた)み募(つの)る日(ひ)。

 

 醫者の顏色をぢつと見し外に

 何も見ざりき――

  胸の痛み募る日。

 

   *

 

 病(や)みてあれば心(こころ)も弱(よは)るらむ!

さまざまの

泣(な)きたきことが胸(むね)にあつまる。

 

  病みてあれば心も弱るらむ!

 さまざまの

 泣きたきことが胸にあつまる。

 

   *

 

寢(ね)つつ讀(よ)む本(ほん)の重(おも)さに

 つかれたる

手(て)を休(やす)めては物(もの)を思(おも)へり。

 

 寢つつ讀む本の重さに

  つかれたる

 手を休めては物を思へり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号で、この初出からと、以降の詠吟の対象やロケーションから、明治四十四年三月十五日の大学病院退院以降の自宅療養中の詠と考えて取り敢えずはよいと思われる。退院後も、『朝日新聞社に』は『出社できず、家庭で病床にあって一進一退の病状をくりかえしていた』とある。]

 

   *

 

今日(けふ)はなぜか、

 二度(ど)も、三度(ど)も、

 金側(きんがわ)の時計(とけい)を一つ欲(ほ)しと思(おも)へり。

 

 今日はなぜか、

  二度も、三度も、

  金側の時計を一つ欲しと思へり。

[やぶちゃん注:「きんがわ」はママ。]

 

   *

 

いつか、是非(ぜひ)、出(だ)さんと思(おも)ふ本(ほん)のこと、

表紙(へうし)のことなど、

 妻(つま)に語(かた)れる。

 

 いつか、是非、出さんと思ふ本のこと、

 表紙のことなど、

  妻に語れる。

[やぶちゃん注:「へうし」はママ。正しくは「ひやうし」。岩城氏前掲書には、一つ、『啄木が「いつか、是非、出さんと思ふ」と考えた本は、彼がかねて出版したいと思っていた処女詩集「あこがれ」に次ぐ第二詩集のことであろうか。当時啄木の手許にはすでに「黄草集」』(きくさしゅう)『と題する詩稿ノートができていた』と述べておられる。]

 

   *

 

胸(むね)いたみ、

春(はる)の霙(みぞれ)の降(ふ)る日(ひ)なり。

 藥(くすり)に噎(む)せて伏(ふ)して眼(め)をとづ。

 

 胸いたみ、

 春の霙の降る日なり。

  藥に噎せて伏して眼をとづ。

 

   *

 

あたらしきサラドの色(いろ)の

 うれしさに

箸(はし)とりあげて見(み)は見(み)つれども――

 

 あたらしきサラドの色の

  うれしさに

 箸とりあげて見は見つれども――

[やぶちゃん注:「サラド」サラダ(salad)。無論、食欲が減衰して食べられないのである。]

 

   *

 

子(こ)を叱(しか)る、あはれ、この心(こころ)よ。

 熱高(ねつたか)き日(ひ)の癖(くせ)とのみ

 妻(つま)よ、思(おも)ふな。

 

 子を叱る、あはれ、この心よ。

  熱高き日の癖とのみ

  妻よ、思ふな。

 

   *

 

運命(うんめい)の來(き)て乘(の)れるかと

 うたがひぬ――

蒲團(ふとん)の重(おも)き夜半(よは)の寢覺(ねざ)めに。

 

 運命の來て乘れるかと

  うたがひぬ――

 蒲團の重き夜半の寢覺めに。

 

   *

 

たへがたき渴(かは)き覺(おぼ)ゆれど、

 手(て)をのべて

 林檎(りんご)とるだにものうき日(ひ)かな。

 

 たへがたき渴き覺ゆれど、

  手をのべて

  林檎とるだにものうき日かな。

 

   *

 

氷嚢(へうのう)のとけて温(ぬく)めば、

おのづから目(め)がさめ來(北)り、

 からだ痛(いた)める。

 

 氷嚢のとけて温めば、

 おのづから目がさめ來り、

  からだ痛める。

[やぶちゃん注:既注であるが、「へうのう」はママ。]

 

   *

 

いま、夢(ゆめ)に閑古鳥(かんこどり)を聞(き)けり。

 閑古鳥(かんこどり)を忘(わす)れざりしが

 かなしくあるかな。

 

 いま、夢に閑古鳥を聞けり。

  閑古鳥を忘れざりしが

  かなしくあるかな。

[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus の別名。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照されたい。岩城氏は既に前掲書で(「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 二」の「閑古鳥/鳴く日となれば起るてふ/友のやまひのいかになりけむ」の評釈で、『雑木林に囲まれた万年山宝徳寺で育った啄木にとって、閑古鳥の声は故郷の象徴であ』ったと述べておられる。また、本歌の評釈で岩城氏は、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号とされつつ、『歌稿ノートによると』、『この歌以下四十七首が六月の作歌で、七月は一首も作られておらず、八月に雑誌「詩歌」のために十七首作られているのみである。したがって六月作歌の四十七首は「啄木の文学的生命力の最後の燃焼期といえるだろう。」(今井泰子氏)ということになる』と述べておられる。]

 

   *

 

ふるさとを出(い)でて五年(いつとせ)、

 病(やまひ)をえて、

かの閑古鳥(かんこどり)を夢(ゆめ)にきけるかな。

 

 ふるさとを出でて五年、

  病をえて、

 かの閑古鳥を夢にきけるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木が一家』『離散し』、『「石をもて追はるるごとく」故郷の渋民村を出て北海道に渡ったのは、明治四十』(一九〇七)『年五月四日のことである』とある。]

 

   *

 

閑古鳥(かんこどり)――

 澁民村(しぶたみむら)の山莊(さんさう)をめぐる林(はやし)の

 あかつきなつかし。

 

 閑古鳥!

  澁民村の山莊をめぐる林の

  あかつきなつかし。

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書には、『「渋民村の山荘」は啄木の育った万年山宝徳寺。「寺で『あかつき』に聞いた閑古鳥の声を回顧しつつ、そこで迎え過した人生の『あかつき』ともいえる少年時代を追慕する。」(今井泰子氏)歌である』とある。]

 

   *

 

ふるさとの寺(てら)の畔(ほとり)の

 ひばの木(き)の

いただきに來(き)て啼(な)きし閑古鳥(かんこどり)!

 

 ふるさとの寺の畔の

  ひばの木の

 いただきに來て啼きし閑古鳥!

[やぶちゃん注:「ひばの木」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae のヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa やヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera の別名であり、またマツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata の異名でもある。]

 

   *

 

脈(みやく)をとる手(て)のふるひこそ

かなしけれ――

 醫者(いしや)に叱(しか)られし若(わか)き看護婦(かんごふ)!

 

 脈をとる手のふるひこそ

 かなしけれ――

  醫者に叱られし若き看護婦!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号とあるから、入院時の回想に基づくものである。後の二首も同様である。]

 

   *

 

いつとなく、記憶(きおく)に殘(のこ)りぬ――

 Fといふ看護婦(かんごふ)の手(て)の

 つめたさなども。

 

 いつとなく、記憶に殘りぬ――

  Fといふ看護婦の手の

  つめたさなども。

 

   *

 

はづれまで一度(いちど)ゆきたしと

 思(おも)ひゐし

かの病院(びやうゐん)の長廊下(ながらうか)かな。

 

 はづれまで一度ゆきたしと

  思ひゐし

 かの病院の長廊下かな。

 

   *

 

起(お)きてみて、

また直(す)ぐ寢(ね)たくなる時(とき)の

 力(ちから)なき眼(め)に愛(め)でしチユリツプ!

 

 起きてみて、

 また直ぐ寢たくなる時の

  力なき眼に愛でしチユリツプ!

[やぶちゃん注:これは入院時の回想ではなく、自宅療養中の実景と読みたい。]

 

   *

 

堅(かた)く握(にぎ)るだけの力(ちから)も無(な)くなりし

やせし我(わ)が手(て)の

 いとほしさかな。

 

 堅く握るだけの力も無くなりし

 やせし我が手の

  いとほしさかな。

 

   *

 

わが病(やまひ)の

 その因(よ)るところ深(ふか)く且(か)つ遠(とほ)きを思(おも)ふ。

 目(め)をとぢて思(おも)ふ。

 

 わが病の

  その因るところ深く且つ遠きを思ふ。

  目をとぢて思ふ。

 

   *

 

かなしくも、

 病(やまひ)いゆるを願(ねが)はざる心(こころ)我(われ)に在(あ)り。

何(なん)の心(こころ)ぞ。

 

 かなしくも、

  病いゆるを願はざる心我に在り。

 何の心ぞ。

 

   *

 

新(あたら)しきからだを欲(ほ)しと思(おも)ひけり、

 手術(しゆじゆつ)の傷(きづ)の

痕(あと)を撫(な)でつつ。

 

 新しきからだを欲しと思ひけり、

  手術の傷の

 痕を撫でつつ。

[やぶちゃん注:「新」のルビは底本初版では「あた」であるが、流石にこれは誤植であるからして、筑摩版全集で訂した。]

 

   *

 

藥(くすり)のむことを忘(わす)るるを、

 それとなく、

たのしみと思(おも)ふ長病(ながやまひ)かな。

 

 藥のむことを忘るるを、

  それとなく、

 たのしみと思ふ長病かな。

 

   *

 

ボロオヂンといふ露西亞名(ろしあな)が、

 何故(なぜ)ともなく、

幾度(いくど)も思(おも)ひ出(だ)さるる日(ひ)なり。

 

 ボロオヂンといふ露西亞名が、

  何故ともなく、

 幾度も思ひ出さるる日なり。

[やぶちゃん注:「ろしあな」の全ひらがなはママ。岩城氏前掲書に『ロシアの思想家で、無政府主義者として革命運動に参加した』ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン (Пётр Алексе́евич Кропо́ткин/ラテン文字転写:Pjotr Aljeksjejevich ropotkin 1842‐1921)『の著書を愛読して、その思想に傾倒した晩年の啄木が、クロポトキンの潜行活動中の変名であるボロオジンという名を想起したある日の感慨を歌ったものである。再起不能の病床でクロポトキンの「一革命家の思い出」を愛読した啄木は、ロシアの官憲の弾圧を巧みにくぐり抜けながら、ボロオジンの変名で、労働者の思想的啓蒙に乗り出したクロポトキンの勇気に深い感銘を受け、その名を幾度か想起することによって、その英雄的行動を讃えていたのである』とある。]

 

   *

 

いつとなく我(われ)にあゆみ寄(よ)り、

 手(て)を握(にぎ)り、

またいつとなく去(さ)りゆく人人(ひとびと)!

 

 いつとなく我にあゆみ寄り、

  手を握り、

 またいつとなく去りゆく人人!

 

   *

 

友(とも)も、妻(つま)も、かなしと思(おも)ふらし、――

 病(や)みても猶(なほ)、

 革命(かくめい)のこと口(くち)に絕(た)たねば。

 

 友も、妻も、かなしと思ふらし、――

  病みても猶、

  革命のこと口に絕たねば。

 

   *

 

やや遠(とほ)きものに思(おも)ひし

テロリストの悲(かな)しき心(こころ)も――

 近(ちか)づく日(ひ)のあり。

 

 やや遠きものに思ひし

 テロリストの悲しき心も――

  近づく日のあり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号で、『啄木が愛読した「一革命家の思い出」の中で、クロポトキンは平和を愛好する無政府主義者になぜテロリズムが発生するのかという質問に対して、革命を志す勇敢な人士は必ず言語を行為に代えようとする、特に暴政、抑圧をもって人民に臨む者に対しては、行為をもって言語に代えようとする、つまりテロリズムが出るのは真にやむをえないのであると述べ、そのやむにやまれぬ心情について語っているが、この一首もそうしたテロリストの悲しき心情を歌ったのである。「近づく日のあり。」というのは、管野すが、宮下太古らの』、「大逆事件」の発生と処刑を受けたものである。同年一月十八日、秋水に宮下・菅野らは大逆罪で有罪となって死刑判決を受け、同年一月二十四日午後十二時に処刑されていた。]

三州奇談卷之三 犀橋の爪木

    犀橋の爪木

 犀川(さいがは)は金城の南に流れて、其源は倉谷山(くらたにやま)・見定(けんじやう)・日尾池(ひをいけ)の三方(さんはう)等(など)の谷々より出づ。爰に菊ケ潭あり。水上に「奧の九藏」と云ふ千尺の瀧ありて、近く内川(うちかは)の水を合して、凡(およそ)見る所十六里流れ下る。水淸く魚多し。時ありて洪水あり。人は云ふ、

「昔、鈴木氏の人、此流にて犀を切り得たり、故に名付く」

と云ふ。又

「犀今に住む」

とも云ふ。

[やぶちゃん注:表題の「爪木」は「つまぎ」と読み、木っ端・木切れのこと。

「倉谷山」犀川は源流を飛騨山脈北アルプス南部の槍ヶ岳(標高三千百八十メートル)を源とするが、ここは加賀での犀川の上流部に当たる、石川県金沢市倉谷町(くらたにまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の山塊を指していよう。同地区には倉谷鉱山跡があるが、ウィキの「倉谷鉱山」によれば(下線太字は私が附した)、『犀川上流の支流倉谷川西岸の山中にある。昭和中期まであった倉谷集落からは南方にあたり、成ヶ峰』(標高千五十五・八メートル)『の東斜面にあたる。ただし』、『これは明治時代の位置であり、藩政期にはさらに鉱区が拡がっていた可能性があ』り、また『藩政期には「倉谷山」または「倉谷かね山」と呼ばれていた。本鉱山は犀川最上流部に位置するため、今日では山間奥地の行き止まり感が強いが、かつては倉谷集落から、いわゆる塩硝街道』『沿いのブナオ峠や中河内(なかのこうち)集落等に通ずる道があり』、『鉄道・自動車発達前の明治期以前は、越中との交易ルートとして機能していたと考えられる』とある。

「見定」金沢市見定町(けんじょうまち)。倉谷町の北西。

「日尾池」サイト「ヤマレコ」のこのページで確認出来る。犀川ダムの北方にピーク上(吉次山の南東)にある。金沢市日尾町内か。

「菊ケ潭」不詳。思うに、以下の注の菊水町という地名から、現在内川ダムになっている辺りにあった可能性はないか?【202035日追記】いつものT氏より情報を戴いた。「菊ケ潭」は「石川県石川郡誌」の「第四十六章 犀川村」(国立国会図書館デジタルコレクション)の以下の「菊ケ谷」の条に引かれてある「加賀地誌略」の引用に出る「白菊潭」で、T氏は「やはり現在は犀川ダムに沈んだと思われる」とのことであった。

   *

○菊ケ谷。二又にあり。是は倉谷鑛山跡の西谷といふ所へ行く道の小谷なり。この谷の菊花のこと、土屋義休の水源記には、花小さく黄色なり。金澤へ移し植置けば、翌年は生せずといへり。

 〔加賀地誌略〕

 二又川の上流に白菊潭と名つる處あり。潭上菊を生じ、其花白く單瓣にして甚美ならざれども、芳香常異なり。花露滴注するにより又菊水川と稱す。

   *

しかし、そこで今一度、地図を確かめて見たところ、現在の倉岡鉱山跡の西方に、犀川ダムに流れ込む「二又川」が現存している。現在の航空写真を見ると、この二又川は東へ回り込んで「上流」がかなりある。犀川ダムはこの二又川が犀川上流と合流する附近であったと推定されるから、そこは「二又川の上流」ではなく、下流なのではないかと私は思った(但し、犀川上流が既に古くは二又川の異名を持っていた場合はこの淵はダムに沈んだでもよい)。しかし例えば、医王山県立自然公園の南にも現行の「二又川」はしっかり延びており、そこには「尾滝」という滝もある。滝があれば淵がある可能性がある。或いは、今も人知れず、「菊ケ潭」=「白菊潭」はどこかにあるのかも知れない……と思いたくもなった……

 また、T氏は「加賀地誌略」(国立国会図書館デジタルコレクション)の犀川の記載を紹介して下さり、そこには、

   *

犀川ハ、倉谷三峯ヨリ潑する倉谷川ト、千條平ヨリ出ヅル二又川ノ二水相會シテ、諸溪ヲ集メ、末村ニ至リテ、内川ヲ合セ金澤市街ノ西南ヲ貫キ、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあることが判った。スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)で見ると、やはり二又川の倉谷川合流地点は現在の犀川ダムの最上流部と合致する(現在の国土地理院図。ピーク「742.8」が一致)。されば、或いは幻の「菊ケ潭」「白菊潭」のロマンは残されているのかも知れない……

「奧の九藏」不詳。同前。

「内川」金沢市の無住地区である菊水町で東谷川と西ノ谷川が合流して内川となる。内川ダムより下流域の中戸町・山川町境で犀川と合流する。

「鈴木氏」不詳。

「此流にて犀を切り得たり、故に名付く」この妖獣捕獲伝承・棲息伝承はどうも現在では死に絶えているようである。ウィキの「犀川」には、『佐奇神社(さきじんじゃ)』(河口近くのここ)『の近くを流れる事から佐奇川となり訛って「さいがわ」になったとされている』とある。別に神話における「征川」由来ともする。]

 寬文八年七月四日大雨して、所々ともに洪水なりし。

[やぶちゃん注:「寬文八年七月四日」一六六八年八月十一日。但し、どうも資料が錯雑している。「加能郷土辞彙」の「犀川」では、『寬永八年六月』に最大規模の洪水があり、『溺死八十餘人』とする。しかし、高木勇夫氏の論文「明治以前日本水害史年表」(『慶応義塾大学日吉紀要』・二〇〇四年発行・PDFでダウン・ロード可能)を見るに、やはり寛文八年である。但し、百二十三戸流出で七十人溺死とある。同年六月はグレゴリオ暦で七月初旬から八月初旬に相当する。]

 其頃、岩田傳左衞門と云ふ人、常に神明宮を信じ、取分け宿願とて日頃は每日參籠せしが、此日も大雨を厭はず神明に詣で、神主多田河内の許(もと)に談話せしに、人々騷ぎて、

「洪水岸をひたし、大橋も危し」

と告げければ、

「橋落ちなば明日の役所を缺くなるべし」

と、取物(とるもの)も取りあへず、馬上にて橋に臨まれしに、川水岸に溢れ、逆浪すさまじく、暴風又雨を打て凌ぎ難し。行人も脚を留めて兩邊に群り集りたるを、剛氣の傳左衞門少しも擬儀せず、馬を橋の上へ乘懸けたれば、從者十人許り續いて登る。

 是を見て、橋詰に留り居たりし者共、押續いて渡りけるが、悲むべし此時に河上より屛風を立てる如く大浪來(きたり)て、

「大橋に打當るよ」

と見へしが、さしもの大橋浮倒(うきたふ)れて、橋板散り碎けて押流せば、橋の上なる人々手を取合せ、板に取付きなどして叫びけれども終に甲斐なく、逆卷く浪に沈沒するぞむざんなる。

 岩田傳左衞門は馬上ながら心中に大神宮を祈誓し、手綱を短く引よせて、

「板若(も)し覆らば馬を泳がせん」

と、頭を川下に引向けて待ちけるに、乘りたりける四五枚續きたる橋板に、往來の伊勢參り一人と、傳左衞門馬上ながらのせて遙かに流れ行きける。兩邊の人々

「あれよあれよ」

と云ふうちに、大豆田川原と云ふ平瀨に留まり、只据ゑたる如きぞ不審なる。

 其中に近邊より救ひ舟を出(いだ)し、終に無ㇾ恙(つつがなく)助かりける。

 伊勢參りは出羽國の者にて、笠に御祓を戴きしが、大勢のうち只一人助かりける。

「誠に神明の加護いちじるし」

と、見聞く人、感嘆せざるはなし。

 此時、岩田が從者を初め、八十四人迄溺れ死しける。

[やぶちゃん注:「岩田傳左衞門」「加能郷土辞彙」のこちらに出る「岩田盛弘」の後裔であろう。『通稱傳左衞門』とあり、これが本文の後に出る「祖父傳左衞門盛弘」である。その前の岩田盛照は同じ通称だが、隠居年から彼ではない。その記載からは彼の父『岩田傳左衞門盛裕』がこの人物であろうと踏んだのだが、最後のこの岩田伝衛門には子が「二人あり。兄の安信に千石、弟四郞兵衞に五百石分けて相續なり。兄の安信又加增して、其子安賴相續しけり。今度橋の上の難を遁れしは、此傳左衞門安賴なり」とあるので、合わない。しかしこの岩田家の一人であることはまず間違いはない。

「神明宮」金沢市野町の犀川左岸(現在の犀川大橋の南詰の直近)にある。「石川県神社庁」の解説に、『金沢旧五社の一で、古来』、『神明宮と称し、全国七神明、又は三神明の一と云われ、通称は、お神明(しんめい)さん。加賀の大社として、歴代藩主、庶民の信仰厚く、祓宮(はらいのみや)として知られ』るとある。

「神主多田河内」不詳。現在の宮司は多田姓ではない。

「擬儀せず」ことさらに事大主義になって恰好をつけて威儀を正したりはせずに自然体で、の謂いか。

「頭を川下に引向けて待ちけるに、乘りたりける四五枚續きたる橋板に、往來の伊勢參り一人と、傳左衞門馬上ながらのせて遙かに流れ行きける」凄い!!! 岩田はサーフボードのように橋板の切れ端に騎馬で悠々と乗っているのだ!!

「大豆田川原」(おほまめたがはら)と読んでおく。現存しないが、シチュエーションからこの辺りではなかろうか。【202035日追記】T氏より情報を戴いた。「大日本地誌大系」の第二十八巻の「三州地理志稿卷之四 加賀國第四」の「石川郡」の「十三村屬富樫庄」に、『大豆田』と出、『マメタ』(「タ」は字にカスレがあるが、前後から判断出来る)とルビする。従ってここは「まめたがはら」と読んでおくこととする。但し、現在、金沢市大豆田本町があり、それは「まめだほんまち」と濁音である。]

 扨此岩田が祖父傳左衞門盛弘は、慶長五年「淺井啜手の役」に、岩田は太田但馬が手にありて、松平久兵衞・水越縫殿之助(ぬひどのすけ)と名を等うし、手柄あり。大納言利長卿より則(すなはち)千石を給はり、其後、同十九年「大坂の役」に旗奉行を勤め、

「進退節(せつ)に當れり」

とて、中納言利常公より五百石の加增を給はり、名を内藏之助と改め、宅地を金澤惣構(そうがまへ)の藪のうちに給はりしが、此屋敷、往古よりの化物屋敷と云ふ傳ふ。されば每夜大入道出で、内藏之助と組合ふとぞ聞えし。

 國主利常公、聞し召して、山田半右衞門といへる射術の達者に命じて窺はせらるゝに、中々手に合ひ兼しかば、

「岩田と云ふさしもの者どもなるに、若(もし)怪我(けが)ありてはいかゞ」

と思召し、岩田が屋敷を御用のある由にて取上給ひ、替地を下されけるに、岩田腹を立て、

「我を臆病者と思召すやらん、此上は奉公しても詮なし」

とて、頓(やが)て立退きげれば、利常公殊に惜(をし)ませ給ひ、大勢追手をかけ給ひけれども、早く路をくらまして江戶に行き、松平下野守へ五千石に有付きけれども、當國へ御聞合(おききあはせ)有りしに、「御構(おかまひ)」候て是非なく、越後堀丹後守にかこはれ居けるが、丹後病死の後、内藏助又江戶へ出で、歸參の義を願ひ、先知にて正保二年の春、本國へ戾り住む。其子二人あり。兄の安信に千石、弟四郞兵衞に五百石分けて相續なり。兄の安信又加增して、其子安賴相續しけり。今度(このたび)橋の上の難を遁れしは、此傳左衞門安賴なり。

[やぶちゃん注:「慶長五年」一六〇〇年。

「淺井啜手の役」北陸地方に於ける前田利長(東軍・後の加賀藩初代藩主)と丹羽長重(西軍)の戦い。「三湖の秋月で既出既注。その「淺井畷手」の私の注を参照されたい。

「太田但馬」前田家の古参家臣で家中に於ける元は反徳川派の中心人物であった大聖寺城主太田長知。慶長五(一六〇〇)年に利長の「大聖寺攻め」に従い、帰途、この浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍(しんがり)を勤めて奮戦したが、同七(一六〇二)年、利長の命を受けた横山長知に殺害された。なお、この謀殺はその真相が今もよく判らないらしい。個人サイト「歴史の迷い道」のこちらに、実に興味深い伝承と考察が示されてある。脱線だが、是非、読まれんことをお勧めする。

「松平久兵衞」松平康定。戦国武将で後に加賀藩前田家家臣となった。松平大弐家の祖。三河国伊保城主松平康元の次男。

「水越縫殿之助」やはり「三湖の秋月で既出既注。「水越縫殿」の私の注及びその前の注等を見られたい。

「山田半右衞門」寛永四(一六二七)年の加賀藩「侍帳」に百石取りで名が出る。

『同十九年「大坂の役」』「大坂冬の陣」。一六一四年。

「進退節に當れり」戦場に於ける攻めと退き際を心得ていることを褒めたのであろう。

「中納言利常」加賀藩二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)。「大坂夏の陣」では家康から岡山口(四條畷市)の先鋒を命ぜられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍の秀忠の軍勢が置かれた。

「惣構」城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、堀の城側に土を盛り上げて造った土居(どい)などの防御施設のこと。

「松平下野守」不詳。以下の岩田の帰藩年と齟齬するか、しっくりくる「松平下野守」がいない。

「越後堀丹後守」【202035日改稿】越後安田藩(村松藩)初代藩主で直寄系支流堀家初代の堀直時(元和二(一六一六)年~寛永二〇(一六四三)年)であろう。ウィキの「堀直時」によれば、『信濃飯山藩主・堀直寄の次男として生まれ』、寛永一六(一六三九)年、『父の死去に際し』、三『万石を分与されて大名となり、安田藩を立藩した』。寛永一九(一六四二年)、『甥の直定が早世して本家の村上藩が断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎに擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年』十二『月、従五位下、丹後守に叙任する』も、翌年、享年二十八の若さで亡くなったとある。彼ならば、「丹後守」で、岩田の規歸藩年との齟齬が小さい。【同日追加】T氏より直時の父堀直寄(天正五(一五七七)年~寛永一六(一六三九)年)とする見解を戴いた。私も当初、同じ丹後守である彼を考えたのだが、直寄の没年と岩田の帰藩との六年のタイム・ラグが気になってかくしたのであったが、T氏からは、『堀直時を小生が外したのは、大阪の陣の後の誕生で』あることで、『武辺がウリの「岩田」が頼り、「越後堀丹後守にかこはれ居ける」という「堀丹後守」は同じ戦場に臨んだ「堀直寄」と思ってい』るからで、『「堀直寄」 没後、「堀直時」に厄介になったであろうことは否定しません。(居心地は段々悪くなったでしょう。)』とメールを戴き、「なるほど!」と膝を打ったものである。

「先知」以前の知行地・知行高のことであろう。

「正保二年」一六四五年。]

三州奇談卷之三 和歌の奇特

    和歌の奇特

 とつ國はさらにも云はず。しろしめすあめの久方明らかに、神路山(かみぢやま)の惠み深く、靑葉の林陰しげり、みもすそ川の流絕えず、いきとし生けるもの、皆敷島の道によらざるはなし。さらば此奇特は云ふもさらながら、金澤の士澤田彌左衞門家に享保いつの秋にや、不斗(ふと)礫(つぶて)を打つ事ありし後は、每夜になりて雨あられの如く打つ程に、家内の奴婢甚だ恐怖して此家に居兼ねければ、諸寺諸社に賴みて祕符巫祝(ふしゆく)の類を求めけれども、露許(ばかり)も其驗(しる)しなし。いか樣(さま)狐狸の業(わざ)にこそ。今川義元の、

 夏はきつねになく蟬のから衣おのれおのれが身の上に着よ

と讀みて、妖を退(のぞ)くと聞(きこ)えければ、朋友の久津見源八郞常に神通をも崇め、又冷泉家の流を傳へて和歌の好士なればとて、賴み遣はしけるに一首を贈る。

 生けるものよこしまならぬ心もて直(なほ)なる神のおしへ思はゞ

此短册を北面の柱に張置しに、其夜より彼(かの)怪事永くやみける。

[やぶちゃん注:「生けるもの……」の歌の「おしへ」はママ。

「神路山」伊勢神宮内宮の南方の天照(あまてる)山。歌枕。ここは固有名詞を神のしろしめす自然に言い換えた。

「みもすそ川」御裳濯川。伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川 (いすずがわ) の異称。倭姫命 (やまとひめのみこと) がこの清流で裳を洗い清めたという故事による名。歌枕。同前で自然の永遠の時の流れに言い換えた。

「澤田彌左衞門」「石川県立図書館」公式サイト内の検索により、「加賀藩史料」の「金沢大火事記」にこの名があることが判る。しかも、この「金沢大火」は他の諸資料から「宝暦の大火」と考えられ、宝暦九(一七五九)年四月十日出火、翌日までに場内殿閣及び民家一万五百八戸を焼き、死者二十六人。多量の備蓄米を失ったため、加賀藩は幕府から五万両を借り入れて急に当てたという記載が「加能郷土辞彙」の同項(国立国会図書館デジタルコレクション)にある。「三州奇談」の完成が宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されることとも、時制的に一致する。但し、以下「享保年中」(一七一六年~一七三六年)と言っているので、或いは当該人物でなければ、その親に当たる人物かも知れない。

「礫を打つ事ありし」怪奇現象としての「天狗の石礫(いしつぶて)」である。

「巫祝」民間の巫女(みこ)や男性のそれである巫覡(ふげき)の類い。

「今川義元」は北条氏康(永正一二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)の誤り。小田原の城郭内で秋に鳴くべきを夏に鳴いた狐を不吉とした氏康が、「きつね」の文字を句で断ち切った歌を詠むことで、その凶を狐に返したところ、その狐が翌朝になって死んだということがあったことを指す。但し、その翌年に氏康が死んだことから、それをその狐の祟りによるものだと考えた子の氏政は小田原城の山王口に北条稲荷と呼ばれた神社を作った(現存しない)ととあるサイトの旧記事にあった。しかし、歌人佐佐木幸綱氏のブログ「ほろ酔い日記」のこちらでは、本歌を挙げ、現代語訳・語注を附された後、『氏康が日ごろから、「自分が合戦で勝利してきたのは、武力のためばかりではない。神仏を信じ、そのご加護を祈ってきたからだ」と言っていたのを人々は思い出し、「この狐が死んだのも、氏康の歌の徳によって、起こるべき凶事を、狐がわが身に引き受けたせいだ」と言って、おどろき合ったということです』。『戦国時代のことです。この不思議な狐の死は、神のご加護によって、敵方の間者が未然に防がれたのだ、と人々は解釈したと伝えられます』ともある。なお、この一首は氏康の辞世ともされるようである。

「久津見源八郞」前田利家に仕えた久津見十兵衛がいるから、その末裔ででもあろうか。

「冷泉家」歌道の宗匠家の内の一つ。]

 又長町三社(ながまちさんじや)の邊に三輪藤右衞門と聞えし士は、佐竹義直の内室成德院殿(じやうとくゐんでん)の御輿入(おこしいれ)の頃より仕へて、勤勞他事なく、終に病死しける。其婦人は吉田三太夫の娘にて、夫に別れてより愛執欝恨の病となり、次第に重く、醫藥鍼術樣々心を盡せども驗なく、浮腫脹滿(ちやうまん)して、芭蕉葉も空しく、初秋の風に戰(そよ)ぎて二便(にべん)[やぶちゃん注:大小便。]ともに通ぜず、今は玉の緖(を)も絕なんとするに、此婦人常に題目を崇め、殊には寺町妙立寺の祖像を深く信仰し、病中猶丹心を顯し、看病の奴婢なども悉く唱へ、題目の書寫をなさしめ、彼祖像の前に是を奉ることあまたゝびなり。然るに文月(ふづき)[やぶちゃん注:旧暦七月。]二十八日の晚方、一人の老僧夢に告げての給はく、

  音こゝろよき瀧の白糸

と打吟じ、

「婦人此句を忘るゝ事なく、汝が舍弟山本惣助をして、此上の句をつがしめよ」

と三度(みたび)迄吟じ、敎へ玉ふと見て夢覺ける。

 嬉しさ限なく、はやく弟の惣助を呼びて此事を語るに、

「兄弟も多きうち我名をさして示し給ふ事の有難さよ。偏(ひとへ)に妙立寺の祖像の御告げなるべし」

と丹誠を致して、

  はらからのたまりし水をながす時

と取あえず[やぶちゃん注:ママ。]吟詠して、妙立寺祖像の前に奉納しける。

 夫より病婦二便共に快通し、浮腫も引き本復して、渴仰する輩(ともがら)、流るゝ如し。

[やぶちゃん注:「長町三社」石川県金沢市三社町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三輪藤右衞門」不詳。

「佐竹義直」不詳。その「内室成德院殿」も不詳。【2020年3月5日:削除・追記】T氏より情報を戴いた。正しくは「佐竹義眞」(よしまさ 享保一三(一七二八)年~宝暦三(一七五三)年)で、出羽国久保田藩第六代藩主 正室は加賀藩第五代藩主前田吉徳三女揚(よう)で、彼女が嫁に行ったのは宝暦二(一七五二)年七月一日である。時期を示すためだけのものであるが、この佐竹義真はその翌年、体中に腫物が発生し、足が麻痺して死に至ったという。享年二十六の若さであった。二人の間に子はできなかった。江戸時代の講談では彼の死を毒殺としている旨の記載がウィキの「佐竹義真 」にあった。

「吉田三太夫」不詳。

「妙立寺」石川県金沢市野町にあり、忍者寺で知られる。三代藩主前田利常が創建した。

「山本惣助」不詳。

「浮腫も引き本復して、渴仰する輩(ともがら)、流るゝ如し。」の末尾部分は、国書刊行会本では、

『浮腫も引き本復して、忽ち平常に帰る。城下の貴賤聞伝(ききつた)ひ、此(この)日蓮堂に詣でゝ三嘆して渴仰する輩(ともがら)、流るゝがごとし。』

となっていて、そのコーダの方が遙かに親切で躓かない。]

 又同長町武田判太夫は、當時正親町(おほぎまち)中納言實福(さねとみ)卿の子孫也。中納言の子は大納言實道卿の其四男信堅、加州利常公に仕へて祿千五百石を給はる。祖父實福卿の母儀は、甲州武田信玄の娘なりし故、信堅は武田を名乘りて、其子信康も佳名高く、殊に今の判太夫信知は、則當家六代の君邊に勤勞して、越中の令司を勤められし。然るに近年正親町家にいつとなく音信も遠ざかり居られしに、寶曆十一年の冬、大納言杯水卿の用人より紙面にて、

「領知の百姓不熟にて惠み遣はすべき値なし。金百兩をかり用ひ度(たし)」

由申來りける。されど武田家にも、近年重き役に餘慶迚(とて)もなし。出入の町家にも逼迫の時節なれば、調ひ難き旨返事せられけるに、其明年(あけのとし)、越中の僧何某京に逗留のうち、由緣有て此大納言の前に出でられしに、

「金澤へ行かるゝ事あららば、文(ふみ)一つ言傳(いひつたは)すべし」

とありし程に、正親町家の事なれば、畏りて文箱(ふばこ)を受取り、此武田家に屆られしに、判太夫信知頓(やが)て披見ありしに、只短册に一首のみ有りし。

 前大納言實連

  越路にはこがねの澤のありと聞けばかりがねにこそ送る玉章(たまづさ)

とありし程に、大家の詞詮方なく、頓て奉禮の使者立ちて百金を調へ送れしとなり。和歌の德樣々なるべけれども、かゝる通用にだも事調ひし事、是又一奇談なるべし。

[やぶちゃん注:「武田判太夫」「加能郷土辞彙」のこちらの「タケダクランド 武田藏人」に、『正親町三條大納言の子。前田利常に仕へ千百五十石を受けた。子孫相繼いで藩に仕へる』とある人物の子孫であろう。

「正親町中納言實福卿」室町後期の公卿正親町三条実福(天文五(一五三六)年~永禄一一(一五六八)年)。従二位・権中納言。ウィキの「正親町三条実福」によれば、天文九(一五四〇)年に叙爵、『以降累進して、侍従・越前介・右近衛少将・尾張権介を経て』、弘治三(一五五七)年に』『参議となり、公卿に列する』。永禄元(一五五八)年に『甲斐国へ下向したが、翌年には帰京』、永禄五(一五六二)年に『権中納言に任じられる』。永禄八(一五六五)年)には『駿河国へ下向。その翌年には帰京したが』、永禄一〇(一五六七)年には『正親町天皇の勅勘を被り、蟄居を命じられ』、『その翌年に薨去。享年』三十三。母は『加賀介藤原某(富樫氏と言われる)の娘』とあり、接点がある。

「大納言實道卿」国書刊行会本では『大納言実有卿』とあり、正親町三条実福の子正親町三条公仲(きみなか)の子に正親町三条実有(さねよし 天正一六(一五八八)年~寛永一〇(一六三三)年)は権大納言であるから、この誤りであろう。則ち、「子」ではなく、「孫」である。

「信堅」不詳。国書刊行会本では『信賢』とするが、正親町三条公仲にも、正親町三条実有にも、「信堅」「信賢」という子はいない。先に示した「武田藏人」の事蹟とは「加州利常公に仕へて祿千五百石を給はる」と一致するが、事蹟を追いきれなかった。

「祖父實福卿の母儀は、甲州武田信玄の娘なりし」先のウィキの記載とは異なる。

「信康」不詳。

「判太夫信知」不詳。

「令司」不詳。朝廷との伝令役か。

「寶曆十一年」一七六一年。この二年前に先に注で示した「宝暦の大火」(宝暦九(一七五九)年四月)があり、加賀藩は大打撃を受けていて、加賀藩自体が幕府から実に五万両の借り入れをしてさえいるのだから、金が出せなかったのは腑に落ちる。

「大納言杯水卿」不詳。「近世奇談全集」のみ『林水』とする。この時期の正親町家の大納言は三条公積(きんつむ 享保六(一七二一)年~安永六(一七七七)年)がいるものの、彼はウィキの「正親町三条公積」によれば、宝暦八(一七五八)年に、『幕府による弾圧事件「宝暦事件」に連座して蟄居せざるを得なくなった。桃園天皇も公積を側近として重用していたが、この事件後、幕府の圧力で官職を止めざるを得なくな』り、さらに宝暦一〇(一七六〇)年には『出家させられており、薨去まで完全に朝廷から切り離された』とある。或いは彼が最早、こうした失脚によって首が回らない中、かく懇請したともとれなくはないが、「杯水」「林水」の通称は見られない。歌には「前大納言實連」とあるが、これも見当たらぬ名である。

「領知」領している知行地。]

2020/03/03

三州奇談卷之三 老猿借ㇾ刀

    老猿借ㇾ刀

 猿には屬(ぞく)類(るゐ)すと云いへども、獼(おほざる)は性(しやう)さわがしうして、猿は其情靜かなり。風月の皎然(かうぜん)たるに嘯(うそぶ)き、其聲も亦哀然なり。久(しさし)うして後は、義氣勇武も出來たる物にや。

[やぶちゃん注:表題は「刀(かたな)を借(か)る」と読んでおく。なお、本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 猿の刀・狸の刀」の私の注で電子化してある。但し、今回は底本が異なり、注も零から附した。

「屬類す」「幾つかの種類がある」の意だが、本邦に分布する猿に関してなら、生物学的には誤りである。本邦本土に限るなら、当時は日本固有種である霊長目オナガザル科マカク属 Macaca ニホンザル Macaca fuscata の一種のみしか棲息しない(屋久島のみに棲息するヤクシマザルMacaca fuscata yakui は本種の亜種である。なお、現在は一九六〇年代に観光施設から逃げ出した外来種のマカク属アカゲザル Macaca mulatta が千葉県で有意に定着し、ニホンザルとの交配も進んでしまっている。因みに、ニホンザルはヒト以外で最も北に棲息する霊長類である)。ここで「獼(おほざる)」(読みは国書刊行会本に拠った)というのは、ニホンザルの大型老成個体を指している。本邦の猿の古名・雅語に「ましら」があるが、しばしば時代劇で悪党の頭目に「ましらの何某」というのを聴くから、この「ましら」はそんな狡猾にして小利口な大猿の雰囲気をも持つものと考えてよかろう。ヒトに最も類似することから、古代中国以来、猿類は幻獣の一つとして、多数の種類を持ち、本邦でも山中の怪人として中国由来のものの他に、本邦独自の妖怪。妖獣として発展してきた経緯がある。そうした博物誌は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の電子化注(サイト版一括)で詳しい注も行っているので参照されたい。

「皎然」「皓然」とも書く。白々として明るく輝くさま。]

 本藩の名家丹羽武兵衞と云ふ人は、若き頃より勤功(きんこう)を勵み、享保の末には馬廻(むままは)り頭役(かしらやく)に登りし。

[やぶちゃん注:「丹羽武兵衞」不詳。金沢市立玉川図書館近世史料館の『「諸頭系譜」にみる藩士と諸役』展のパンフレットを見たが、丹波姓は見当たらなかった。丹羽長秀・長重父子の支流末裔か。

「享保の末」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。

「馬廻(むままは)り頭役」加賀藩馬廻組の頭役。主将の乗った馬の周囲にあって警護を役目とする騎馬の騎馬隊。戦国時代末期に職制化され、特定の者が任命されるようになった。江戸時代には、組頭に統率され、一組の定員は四十~五十人が普通であったが、後には組数を減じ、組の員数を増す傾向があった。前の注のリンク先のそれは、かなり詳しい内容が書かれてあるので参照されたい。]

 彌生の頃痛みありて、石川郡湯桶(ゆわく)の溫泉に入湯せらる。

[やぶちゃん注:「痛み」「近世奇談全集」は『頭痛』とする。

「石川郡湯桶の溫泉」現在の金沢市湯涌町及び湯涌荒屋町にある金沢の奥座敷と称せられる湯涌温泉(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「湯涌温泉」によれば、養老二(七一八)年のこと、紙漉き職人が泉で一羽の『白鷺が身を浸しているのを見て近づいてみると、湯が涌き出ているのを発見した。これが当温泉の発見および当温泉名の由来とされている』とある。]

 此所(このところ)の地勢深山に隣りて幽陰閑寂の所なり。城下よりは僅か三里の行程なれども、其道嶮難にして步行(ありき)便(たより)惡しく、自ら病難の徒ならでは友もなし。丹羽氏徒然の餘り、從者と共に藥師堂の上の山に逍遙せられたりし。

[やぶちゃん注:「自ら病難の徒ならでは友もなし」意味不明。「彼自身は湯治を頼みとするしかない重病人というわけでもないので、そうした知れる病者の道連れの友とてもない」の謂いか?

「藥師堂の上の山」湯涌温泉には薬師堂がある。個人サイトと思われる「石川県:歴史・観光・見所」のこの薬師堂の解説に、『創建等は不詳ですが、本堂内部には湯涌温泉の源泉を発見した(開湯伝説には諸説あり)泰澄大師が自ら彫り込んだと伝わる薬師如来像を本尊に日天子像(観世音菩薩像)や月天子像(勢至菩薩像)、八幡明神などが安置されています。薬師如来は医療や法薬を司る仏として病苦から人々を救い長寿をもたらすとして信仰されてきた事から温泉街などに多く祀られ、八幡明神が安置されている事から往時は八幡神社と神仏習合していたと思われます』とある。「NAVITIME」地図でやっと発見した。この薬師堂の南東のピークが「後の山」であろう。]

 春の老たりといへども、深山の殘雪地冷かにして、小草漸(やうや)く萠え出で、是を摘みて小竹筒(ささづつ)をかたぶけ、醉(ゑひ)に乘じ佩刀を解きて、しばらく絕壁の岸によぢ登り眺望すれば、西山鐘聲を傳へ、斷猿遙かにさけび、斬樹暮雲に接して、返照(へんしやう)山(やま)の洞(ほら)にさし入りて、立居らるゝ所もはや暗(くら)みければ、頓(やが)て下りて先の所に歸り、置きたる腰刀を尋ぬるに見えず。

[やぶちゃん注:「斷猿」白楽天の「長恨歌」の一節である「夜雨聞猿斷腸聲」(夜雨に猿を聞けば斷腸の聲)辺りを洒落て用いた表現であろう。

「斬樹」「斬」には「抜きん出る」の意があるから、有意に高々と生えた針葉樹に高木を指すのであろう。]

 所々探し求(もとむ)るに、所在を知らず。從者も爰(ここ)かしこより來り、打おどろき、是を求るに更になし。

「いかさまにも湯治の者のうち奸徒ありて盜みかくせるにや。一刀といへども、我家の重代なれば、其儘にも通し難し」

と、入湯の旅人を改めさせ、宿主(やどぬし)或は肝煎(きもいり)をして穿索すれども知れず。

 爰に湯入(ゆいり)の中に、能州石動山(いするぎやま)の僧ありて、是を占ひて曰く、

[やぶちゃん注:「能州石動山」(読みは高岡で私の親しんだそれを選んだ)は能登国石動山(グーグル・マップ・データ)。現在の石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市に跨る(標高五百六十四メートル)。ウィキの「石動山」によれば、『加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の』『勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊』三百六十『余り、衆徒約』三千『人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと』、『明治の廃仏毀釈によって衰亡した』とある。]

「此刀は人間の手に非ず、正敷(まさ)しく獸の手にあり。尋ぬれば得つべし」

と云ひければ、丹羽氏是を聞きて、

「さらば明日多くの人夫を以て、山谷を探し求ん」

と其用意してしばらく眠り居られしに、夢ともなく緣の上に案内を乞ふものあり。

 障子を隔てゝ云ひけるは、

「我は此山中に久しくすむ者なり。一人の愛子ありしが、此頃惡鳥(あくてう)の爲に是をとられ、悲歎腸をたつ。然(しか)るに貴客此山に光臨の幸を得て、暫らく寶劍を借りて、速かに仇(あだ)を討取りたり。依りて禮謝に來れり」

と云ふに、丹羽氏目を覺(さま)して障子をあけ見れば、大きなる獼猴(びこう)、忽ちに迯去りぬ。緣の上には、件(くだん)の刀のさやもなくて中身許(ばかり)を、鷲の片身より討落したると共に殘せり。丹羽氏大に悅び、則(すなはち)從者を初め亭主に示す。湯治の旅客皆聞き傳へて一見を乞ひ、驚嘆せずと云ふことなし。能登の旅僧の占ひかたを謝し、彼(かの)刀を「鷲切(わしきり)」と名づけて彌々(いよいよ)祕藏せられし。銘は備前の兼光なりとぞ。

[やぶちゃん注:「獼猴」「みこう」とも読む。ここは普通の「猿」のこと。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の電子化注(サイト版一括)の冒頭が「獼猴 さる ましら」であるので、是非、参照されたい。

「備前の兼光」備前国に住した刀工備前長船(おさふね)兼光は、長船派を作り、備前長船兼光を称する刀工は四工が存在する。但し、一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多く、また室町時代の兼光の作刀はほとんど見られないとウィキの「備前長船兼光」にある。以下、リンク先を参照されたい。サイト「名刀幻想辞典」の「鷲切り」に、本篇の以上の一部が記され、その後に『江戸時代には加賀藩の藩主一族が』この湯涌温泉を『常用し、その効能をとくに賞賛され』て、『湯宿の主人には名字帯刀が許された』とある。]

 又今枝氏の家士鈴木唯右衞門は、先祖は源九郞義經の家臣にして、天正の頃は手取川の邊(あたり)に一城を構へし鈴木出羽守が後なり。此家に「四つ替り」と云ふ靈刀あり。燒刄(やきば)四段に替る故に名付く。一度見れば狂亂の類(たぐひ)、狐狸のくるはせる者、忽ち治せしなり。延寶の頃、大夫奧村丹波守、甚だ刀劔を愛し、伊豫大掾(だいじやう)橘勝國に命じて一刀を造らしむ。此者、陀羅尼(だらに)の神咒(しんじゆ)を誦して口を留めず。終に一の靈刀を造り出(いだ)す。是を「陀羅尼勝國」と云ふ。其後故ありて今枝家の家珍とす。或時、狐の母子を切ることありしに、母狐振返りて此刀を嚙みしとて、其齒の跡針を以て穿(うが)てる如し。猶々靈妙にして陰鬼密(ひそか)に退(の)きしとなり。彼(かの)上杉家の小豆長光(あづきながみつ)の類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:「今枝氏」加賀藩の直臣は順に人持組頭(ひともちぐみかしら:加賀八家(かがはっか)に同じ)・人持組・平士・足軽に大別されるが、その人持組に今枝内記(民部)家(一万四千石・家老)があり、今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出したとウィキの「加賀藩」にある。

「鈴木唯右衞門」「源九郞義經の家臣」であったというから知りたかったのだが、不詳。「唯」は「ただ」か。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五から行用された)。

「手取川の邊(あたり)に一城を構へ」現在の石川県白山市三坂町にある鳥越城跡

「鈴木出羽守」鈴木重泰(?~天正八(一五八〇)年)は戦国武将で雑賀党鈴木氏の出身にして石山本願寺の重臣。出羽守。ウィキの「鈴木重泰」によれば、『顕如の命で加賀に赴き、鳥越城』(前注参照)『を築いて同地の一向一揆を指導した。しかし本願寺が降伏した後、柴田勝家率いる織田軍に攻められ、子らと共に戦死した』。サイト「城郭放浪記」の「加賀・鳥越城」によれば、『築城年代は定かではないが鈴木出羽守によって築かれた。鈴木出羽守は加賀一向一揆白山麓山内衆の総大将として築城し、織田信長による加賀侵攻に対抗した』。天正八(一五八〇)年に『柴田勝家によって攻められ』、『二曲城とともに落城、鈴木一族は滅亡した』とある。

「四つ替り」と「陀羅尼勝國」は同一の刀ととった。

「延寶」江戸前期。一六七三年~一六八一年。

「大夫奧村丹波守」加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第三代当主奥村悳輝(やすてる 承応二(一六五三)年~宝永二(一七〇五)年)。ウィキの「奥村悳輝」によれば、『加賀藩年寄奥村庸礼』(やすひろ)『の次男として金沢に生まれる。兄多宮が夭折したため』、『父の嫡男となる』。万治四(一六六一)年、九歳で第四代『藩主前田綱紀に御目見』し、五年後の寛文六(一六六六)年には『綱紀に仕え』、延宝三(一六七五)年、『近習取次となり、翌年知行』千五百『石を与えられる』。延宝七(一六七九)年』、『若年寄とな』って八百石の加増、後に千七百石の加増を受け、貞享三(一六八六)年に『家老となり、さらに』千『の加増を受け禄高』五千となり、貞享四(一六八七)年に『父庸礼の死去により家督と』一万二千四百五十石を『相続し、合わせて禄高』一万七千四百五十『石の人持組頭とな』った。宝永元年十二月には従五位下の丹波守に任官したが、翌年閏四月二十日に五十三歳で死去した。『父庸礼と同じく、藩主綱紀の命で儒学者朱舜水の弟子となった』とある。

「伊豫大掾橘勝國」この勝国派は姓を「松戸」と称し、前田公に仕えて、初代が伊予大掾を受領して「藤原」の姓を「橘」に改めて、同時に初銘の「家重」を「勝国」とし、「陀羅尼勝国」と銘した。この一門(陀羅尼系)は明治初頭の八代まで繁栄し、加賀を代表する刀鍛冶として非常に知られた、とこちらの刀剣サイトにあった。

「陀羅尼(だらに)」仏教に於いて用いられる呪文の一種で、特に比較的長いものをいう。通常はしたものを唱える。「ダーラニー」とは「記憶して忘れない」という意味で、本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指し、「陀羅尼」はそのサンスクリット語を漢字で音写したもの。意訳して「総持」「能持」「能遮」などとも言う。やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈されるようになり、一定の形式を満たす呪文を特に「陀羅尼」と呼ぶ様になった(以上はウィキの「陀羅尼」に拠る)。

「小豆長光」サイト「刀剣幻想辞典」の「小豆長光」によれば、古来、上杉謙信の『愛刀であったとされる刀』で、『元は、ある男が小豆袋を背負って歩いていたところ、袋から小豆がこぼれ落ち、それが鞘の割れた本刀にあたって真っ二つに割れていたという。それを見た謙信の家臣(竹俣三河守)が買上げ、やがて謙信の愛刀になったという』。後、「川中島の戦い」に『おいて、白手拭で頭を包み』、『放生月毛に跨がった謙信が、自ら本刀を奮って床几に腰掛けた武田信玄に数度斬りつけ、信玄はそれを軍扇で払い除けたという』。『特に後者の「三太刀七太刀(みたちななたち)」は、戦国時代屈指の名場面として数々の創作物に描かれてきた。「小豆長光」は、これらの特徴的な逸話から謙信の愛刀中でも代表的なものとして登場することが多い』が、『その実態はよくわからないところが多く、調べれば調べるほど闇の中に消えてしまう。その為、実際には別の刀のことを指しているのではないかと思われる』とある。]

 又白山の下(した)中宮(ちうぐう)と云ふ所に、一(ひとつ)の靈刀を所持する者あり。彼も鈴木重泰が孫の由にて次助と云ふ。手取川に釣して大蛇を切る。其血紅(くれなゐ)を流せしこと三日なり。河水只(ただ)秋の木(こ)の葉の陰の如し。故に此刀を「紅葉(もみぢ)の賀(が)」と云ふ。希代の業物なり。銘は鎌倉山内(やまのうち)住(ぢゆう)藤源次郞助眞(とうげんじらうすけざね)なり。

 此外、諸家靈刀を聞くといへども、刀劔の靈妙は和國の一祕事なれば、奇談ありといへども爰にはもらしぬ。

[やぶちゃん注:「中宮」石川県白山市中宮(グーグル・マップ・データ)。白山連峰の北とその西麓部に当たる。

「鈴木重泰」前で注した「鈴木出羽守」と同一人物。「孫」とあるが、一応、一族は滅亡したことになってはいる。

「鎌倉山内住藤源次郞助眞」「加越能三州奇談」は同じで、国書刊行会本では、

 鎌倉山内任藤源次郞助真

であり、「近世奇談全集」では、

 鎌倉山内伊藤源次助直

である。私は鎌倉史の研究も行っているが、その「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鍜冶藤源次助實の舊地」に、

   *

 鍛冶(かぢ)藤源次助實(とうげんじすけざね)の舊地は東慶寺の山を隔てゝ北鄰に在り。

   *

とある。場所はこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)となろうが、この名前はどうだろう? 以上を校合するなら「鎌倉」の「山内」「住」の「藤源次郞助眞」が正しい印象が強い(「ざね」は「實」以外に「眞」も漢字としては当て得る)。そこで調べてみると、サイト「名刀幻想辞典」の「福岡一文字派」「藤源次助眞」が実在することが判った。『藤源次助眞』の項に、『助真。助房(助成とも)の子という』。「承久の乱」(承久三(一二二一)年)に後に、『福岡庄は幕府方の頓宮(はやみ)氏の支配下とな』ったが、『助真は幕府方の頓宮氏に仕えることを好まず、京都に移り住むが、後』、『北条時頼の召し出しにより』、『移住する。このため』、『鎌倉に下ることは本意ではなかったとの説がある』。『子、助貞と助綱とともに鎌倉に移り住み、鎌倉一文字派の祖となる』とあるからである。]

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その三)

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

   *

 

眠(ねむ)られぬ癖(くせ)のかなしさよ!

すこしでも

眠氣(ねむけ)がさせば、うろたへて寢(ね)る。

 

 眠られぬ癖のかなしさよ!

 すこしでも

 眠氣がさせば、うろたへて寢る。

 

   *

 

笑ふにも笑はれざりき、――

長いこと搜したナイフの

手の中にありしに。

 

 笑ふにも笑はれざりき、――

 長いこと搜したナイフの

 手の中にありしに。

 

   *

 

この四五年(ねん)、

空(そら)を仰ぐといふことが一度(ど)もなかりき。

かうもなるものか?

 

 この四五年、

 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。

 かうもなるものか?

 

   *

 

原稿紙(げんかうし)にでなくては

字(じ)を書(か)かぬものと、

かたく信(しん)ずる我(わ)が兒(こ)のあどけなさ!

 

 原稿紙にでなくては

 字を書かぬものと、

 かたく信ずる我が兒のあどけなさ!

[やぶちゃん注:スケッチ対象は明治三九(一九〇六)年十二月二十九日生まれの啄木の長女京子。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『早稻田文學』明治四四(一九一一)年三月号。啄木満二十六歳、京子は満四歳。]

 

   *

 

どうか、かうか、今月(こんげつ)も無事(ぶじ)に暮(く)らしたりと、

外(ほか)に欲(よく)もなき

晦日(みそか)の晚(ばん)かな。

 

 どうか、かうか、今月も無事に暮らしたりと、

 外に欲もなき

 晦日の晚かな。

 

   *

 

あの頃(ころ)はよく 噓(うそ)を言(い)ひき、

平氣(へいき)にてよく 噓(うそ)を言(い)ひき、

汗(あせ)が出(い)づるかな。

 

 あの頃はよく 噓を言ひき、

 平氣にてよく 噓を言ひき、

 汗が出づるかな。

 

   *

 

古手紙(ふるてがみ)よ!

あの男(をとこ)とも、五年前(ねんまへ)は、

かほど親(した)しく交(まじ)はりしかな。

 

 古手紙よ!

 あの男とも、五年前は、

 かほど親しく交はりしかな。

 

   *

 

名(な)は何(なん)と言(い)ひけむ。

姓(せい)は鈴木(すずき)なりき。

今(いま)はどうして何處(どこ)にゐるらむ。

 

 名は何と言ひけむ。

 姓は鈴木なりき。

 今はどうして何處にゐるらむ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『この歌は啄木が「小樽日報」の三面主任として活躍していたころ、短い期間であったが彼の下で三面を担当していた鈴木志郎』(明治一八(一八八〇)年~昭和二七(一九五七)年)『を歌ったもの』で、『鈴木は青森県の出身で北海道に渡ったあと』、『社会主義思想に共鳴、明治四十』(一九〇七)『年十月小樽日報社に入社するまで、平民社の有志が北海道虻田(あぶた)郡真狩(まかり)村に開拓した北海道の「新しき村」である平民農場にいた。その後』、『彼は小樽日報社から札幌の北門新報社に移り、この歌の詠まれたとき』には『再び真狩村に入植していた』とある。「芳野星司 はじめはgoo!」(ブログ主は小説家であられるらしい)の「掌説うためいろ 流浪の人々」には、驚天動地のこの鈴木志郎の波乱万丈の一瞬が語られてある。啄木はこうした事実や彼の舐めた辛酸を知っていたのかどうかは判らぬ。しかし、敢えて固有名詞を出して追懐したそれは確信犯であろう。啄木にとっても彼は忘れ難い印象を残した人物であったのである。

 

   *

 

生(うま)れたといふ葉書(はがき)みて、

ひとしきり、

顏(かほ)をはれやかにしてゐたるかな。

 

 生れたといふ葉書みて、

 ひとしきり、

 顏をはれやかにしてゐたるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四四(一九一一)年『一月二十九日付の金田一京助、静江宛の安産を祝う葉書に書かれている。金田一夫人は一月二十七日長女郁子を出産し』ていたとある。]

 

   *

 

そうれみろ、

あの人(ひと)も子(こ)をこしらへたと、

何(なに)か氣(き)の濟(す)む心地(ここち)にて寢(ね)る。

 

 そうれみろ、

 あの人も子をこしらへたと、

 何か氣の濟む心地にて寢る。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前の歌と同じ葉書にやはり認(したた)められた一首である。ウィキの「金田一京助」によれば、当時の金田一は三省堂勤める一方で國學院大学非常勤講師をしていたようである。この二年前の明治四十二年、二十七歳の『京助は』二十『歳の林静江と結婚』したが、まさに彼女を彼に『紹介したのは啄木で、「文学士で大学講師で、くにではおじさんが盛岡の銀行頭取」と宣伝して縁談を進めた。京助は、結婚するなら、くにの女ではなく標準語の本郷あたりの娘をもらいたいと考えており、本郷出身の静江に心動かされた』。十二月二十八日に『結婚式をあげ、箱根に新婚旅行、その後』、『盛岡の』『金田一家の当主で伯父の』『勝定の家で披露宴を行ったが、東京育ちの静江は盛岡になじめず、田舎嫌いになった。その上、啄木がたびたび金を無心にくるため、静江はやりくりに頭を悩ませたが、京助は頓着しなかった』とある。また、この歌の面白い安堵感には、岩城氏によると、『金田一が長い間童貞でいて』、『啄木がこれに負い目のようなものを感じていたという事情がある』と評釈を結んでおられる。]

 

   *

 

『石川(いしかは)はふびんな奴(やつ)だ。』

ときにかう自分(じぶん)で言(い)ひて、

かなしみてみる。

 

 『石川はふびんな奴だ。』

 ときにかう自分で言ひて、

 かなしみてみる。

 

   *

 

ドア推(お)してひと足(あし)出(で)れば、

病人(びやうにん)の目(め)にはてもなき

長廊下(ながらうか)かな。

 

 ドア推してひと足出れば、

 病人の目にはてもなき

 長廊下かな。

[やぶちゃん注:既に啄木の病歴経過は注したが、岩城氏前掲書などによれば、初出は『文章世界』明治四四(一九一一)年三月号。これは同年一月月末頃、体調不調に気づいて、同年二月一日に東京帝大医科大学付属医院の内科で検診して貰ったところ、「慢性腹膜炎」の診断を受けて入院した際に詠まれたものとされる。その後、「余病無し」と診察されて結核病室から一般病室に移っており、三月十五日には退院して以後は自宅療養となった。]

 

   *

 

重(おも)い荷(に)を下(おろ)したやうな、

氣持(きもち)なりき、

この寢臺(しんだい)の上(うへ)に來(き)ていねしとき。

 

 重い荷を下したやうな、

 氣持なりき、

 この寢臺の上に來ていねしとき。

[やぶちゃん注:同前のシチュエーション。以下、私の分割の本パート最後まで入院中の歌が続き、その後も暫くそれが続く。

 

   *

 

そんならば生命(いのち)が欲(ほ)しくないのかと、

醫者(いしや)に言(い)はれて、

だまりし心(こころ)!

 

 そんならば生命が欲しくないのかと、

 醫者に言はれて、

 だまりし心!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、この医師は最初に彼を『診察した三浦内科の青柳医学士である』とされ、『「そんなノンキなことをいっていたら、あなたの姓名はたった一年です」といったこの医師の言葉は、その後の』啄木の『運命と思い合わせてきわめて重大なものが含まれているようである』(中略)とされ、『この医師の診断が一年後事実となって現れるとはさすがの啄木も夢想だにしなかったことであろう』と評釈しておられる。]

 

   *

 

眞夜中(まよなか)にふと目(め)がさめて、

わけもなく泣(な)きたくなりて、

蒲團(ふとん)をかぶれる。

 

 眞夜中にふと目がさめて

 わけもなく泣きたくなりて

 蒲團をかぶれる。

 

   *

 

話(はな)しかけて返事(へんじ)のなきに

よく見(み)れば、

泣(な)いてゐたりき、隣(とな)りの患者(くわんじや)。

 

 話しかけて返事のなきに

 よく見れば、

 泣いてゐたりき、隣りの患者。

 

   *

 

病室(びやうしつ)の窓(まど)にもたれて、

久(ひさ)しぶりに巡査(じゆんさ)を見(み)たりと、

よろこべるかな。

 

 病室の窓にもたれて、

 久しぶりに巡査を見たりと、

 よろこべるかな。

 

   *

 

晴(は)れし日(ひ)のかなしみの一つ!

病室(びやうしつ)の窓(まど)にもたれて

煙草(たばこ)を味(あじは)はふ。

 

 晴れし日のかなしみの一つ!

 病室の窓にもたれて

 煙草を味はふ。

 

   *

 

夜(よる)おそく何處(どこ)やらの室(へや)の騷(さは)がしきは

人(ひと)や死(し)にたらむと、

息(いき)をひそむる。

 

 夜おそく何處やらの室の騷がしきは

 人や死にたらむと、

 息をひそむる。

 

   *

 

脈(みやく)をとる看護婦(かんごふ)の手(て)の、

あたたかき日(ひ)あり、

つめたく堅(かた)き日(ひ)もあり。

 

 脈をとる看護婦の手の、

 あたたかき日あり、

 つめたく堅き日もあり。

 

   *

 

病院(びやうゐん)に入(い)りて初(はじ)めての夜(よ)といふに、

すぐ寢入(ねい)りしが、

物足(ものた)らぬかな。

 

 病院に入りて初めての夜といふに、

 すぐ寢入りしが、

 物足らぬかな。

 

   *

 

何(なん)となく自分(じぶん)をえらい人(ひと)のやうに

思(おも)ひてゐたりき。

子供(こども)なりしかな。

 

 何となく自分をえらい人のやうに

 思ひてゐたりき。

 子供なりしかな。

[やぶちゃん注:これも入院中の自己の見当識をした感慨歌。]

 

   *

 

ふくれたる腹(はら)を撫(な)でつつ、

病院(びやういん)の寢臺(ねだい)に、ひとり、

かなしみてあり。

 

 ふくれたる腹を撫でつつ、

 病院の寢臺に、ひとり、

 かなしみてあり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、同年二月四日附の入院直後の小樽の友人らの宛てた書簡に自分の『腹が「ラムプの光で見ると皮がピカピカする位膨れ」ていたと書いている』とある。]

 

   *

 

目(め)さませば、からだ痛(いた)くて

動(うご)かれず。

泣(な)きたくなりて夜(よ)明(あ)くるを待(ま)つ。

 

 目さませば、からだ痛くて

 動かれず。

 泣きたくなりて夜明くるを待つ。

 

   *

 

びつしよりと盜汗(ねあせ)出(で)てゐる

あけがたの

まだ覺(さめ)めやらぬ重(おも)きかなしみ。

 

 びつしよりと盜汗出てゐる

 あけがたの

 まだ覺めやらぬ重きかなしみ。

 

   *

 

ぼんやりとした悲(かな)しみが、

夜(よ)となれば、

寢臺(ねだい)の上(うへ)にそつと來(き)て乘(の)る。

 

 ぼんやりとした悲しみが、

 夜となれば、

 寢臺の上にそつと來て乘る。

[やぶちゃん注:病床歌の絶唱の一つとして忘れ難い。]

 

   *

 

病院(びやうゐん)の窓(まど)によりつつ、

いろいろの人(ひと)の

元氣(げんき)に步(ある)くを眺(なが)む。

 

 病院の窓によりつつ、

 いろいろの人の

 元氣に步くを眺む。

 

   *

 

もうお前(おま)の心底(しんてい)をよく見屆(みとど)けたと、

夢(ゆめ)に母(はは)來(き)て

泣(な)いてゆきしかな。

 

 もうお前の心底をよく見屆けたと、

 夢に母來て

 泣いてゆきしかな。

 

   *

 

思(おも)ふこと盜(ぬす)みきかるる如(ごと)くにて、

つと胸(むね)を引(ひ)きぬ――

聽診器(ちやうしんき)より。

 

 思ふこと盜みきかるる如くにて、

 つと胸を引きぬ――

 聽診器より。

[やぶちゃん注:聴診器診断を詠じた世の詩歌群の内の白眉と言うてよい。]

 

   *

 

看護婦(かんごふ)の徹夜(てつや)するまで、

わが病(やまひ)、

わるくなれともひそかに願(ねが)へる。

 

 看護婦の徹夜するまで、

 わが病、

 わるくなれともひそかに願へる。

 

   *

 

病院(びやうゐん)に來(き)て、

妻(つま)や子(こ)をいつくしむ

まことの我(われ)にかへりけるかな。

 

 病院に來て、

 妻や子をいつくしむ

 まことの我にかへりけるかな。

 

   *

 

もう 噓(うそ)をいはじと思(おも)ひき――

それは今朝(けさ)――

今また一つ噓(うそ)をいへるかな。

 

 もう 噓をいはじと思ひき――

 それは今朝――

 今また一つ噓をいへるかな。

 

   *

 

何(なん)となく、

自分(じぶん)を噓(うそ)のかたまりの如(ごと)く思(おも)ひて、

目(め)をばつぶれる。

 

 何となく、

 自分を噓のかたまりの如く思ひて、

 目をばつぶれる。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、抄出は明治四四(一九一一)年三月号(退院は三月十五日)。岩城氏は渡辺順三氏の評を引用された上で、この頃、『土岐哀果(善麿)と計画した文芸雑誌「樹木と果実」の失敗』があり(渡辺氏がそれを深刻な外的事態として挙げておられるという)、『事実』、『当時の啄木はこの計画の挫折感と前金購読者とに対する返金不能の事態に苦慮していたので、自己を「嘘のかたまり」のように考えたのかも知れない』と注しておられる。]

 

   *

 

今(いま)までのことを

みな譃(うそ)にしてみれど、

心(こころ)すこしも慰(なぐさ)まざりき。

 

 今までのことを

 みな噓にしてみれど、

 心すこしも慰まざりき。

 

 

2020/03/02

三州奇談卷之三 社地の蔓實

    社地の蔓實

 石川郡は東南白根の山々引並び、北西は荒海響きて、「越の高濱」とは此邊り成るべし。人皇十代四道將軍を定め、大彥命(おほひこのみこと)北陸道へ下向とは聞きしが、其跡は知らず。社記多くは長信連(ちやうののぶつら)を云ひ、木曾義仲の上洛を語る。顯然たる所は記するに及ばず。笠間村の八幡には義仲手取川を渡す鞭を納め、宮保村の八幡には、義仲の鐙(あぶみ)を寄付せりとなり。桃井鹿景が事は聞かず、只富樫が事跡のみなり。其外鞍が嶽の城は林六郞、倉光村は次郞成澄、同村「殿の内」と云ふは若林長門守が舊地とかや。又行町村(あるきまちむら)には鹽谷安藝守(ゑんやあきのかみ)等ありし。額乙丸(ぬかおとまる)村に「矢ふだの明神」とてあり。富樫氏崇敬の神なり。富樫政親高雄山に籠城の時、此神及び筑紫の宮と云を勸請す。是は富樫、京都將軍の命を蒙りて筑紫に出陣せし折から、宇佐八幡へ立願(りふぐわん)し密(ひそか)に約して立歸るに、翌年四月十七日に百姓の地主に夢想ありて、田の中に一夜に「あかめ」の木三本と紫竹三本生へ出たり。政親聞て大(おほき)に悅び、爰に宮殿を造立し、筑紫の宮と號し、石に書して百部の法華經を埋むと云ひて、今「經塚」とて經石數多(あまた)あり。

[やぶちゃん注:表題の「蔓實」は内容から見て「つる」と「み」で、「つる・み」と訓じておく。

「石川郡」旧郡。現在の金沢市の中心部が当郡に含まれる。江戸時代は総て加賀藩領。手取川以北で浅野川以南(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「人皇十代」崇神天皇。

「四道將軍」ウィキの「四道将軍」(古訓は「よつのみちのいくさのきみ」)によれば、「日本書紀」に『登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の』四『人を指』し、「日本書紀」によると、崇神天皇一〇(紀元前八八?)年に『それぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つように』、『と将軍の印綬を授けられ』翌年には『地方の敵を帰順させて凱旋したとされている』。但し、実在した最初の天皇と目される崇神天皇は、現在は三世紀から四世紀の『人物とされている』。「古事記」には、この四人を『それぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない』とある。

「大彥命」ウィキの「大彦命」によれば、第八代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)との間に生まれた第一皇子で、第十一代垂仁天皇の外祖父とする。『また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖』であるとある。「日本書紀」の崇神天皇十年九月九日の条に、『大彦命を北陸に派遣するとあり』、『その後、四道将軍らは』同年十月二十二日に出発、翌年四月二十八日に『平定を報告したという』。「古事記」では、『建波邇安王』(たけはにやすひこのみこと:武埴安彦命)『の鎮圧においては同様の説話を記す。一方、四道将軍としての』四『人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道』(こしどう:現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する広域名)『に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える』。なお、「新撰姓氏録」には、『崇神天皇の時に大彦命が蝦夷平定に向かった』という記載のあるとある。

「長信連」平安末から鎌倉前期にかけての武将で長(ちょう)氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。

「笠間村の八幡」石川県白山市笠間町にある笠間神社「石川県神社庁」公式サイトの同社の解説に主祭神の一柱に八幡大神を挙げ、『一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保』(みやぼ)『八幡神社』(笠間町の東北に接する宮保町(みやぼまち)のここ)『と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の云うべきを略して宮保村と云う。その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん』。『其昔寿永』二(一一八三)年、『木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う』とある。鞭はなさそうだが、井戸は現存するようである。

「宮ノ保村の八幡」前注参照。鐙は現存しないか。

「桃井鹿景」不詳。「加能郷土辞彙」に載る「モモノヰタダツネ 桃井直常」か、その親族の「モノノヰヨシツナ 桃井義綱」辺りか。

「富樫」富樫政親。既出既注

「鞍が嶽の城」倉ヶ岳城。既出既注

「林六郞」サイト「城郭放浪記」の「加賀・鞍ヶ嶽城」に、『木曽義仲に従って平氏と戦った林六郎光明が在城していたとも伝えられる』とある。また「白山市文化財探訪MAP」に「六郎塚(六郎杉)」があり(地図はクリックで表示)、『源平の戦いで木曽義仲に加勢し』、『活躍した林六郎光明の墳墓と伝えられ、塚にある老杉は「六郎杉」と呼ばれています。林光明は』十二『世紀末頃、北加賀で最も勢力を有した武士団の棟梁で、横江荘の所領を白山本宮へ寄進したとされ、白山比咩神社には伝林光明寄進の黒漆螺鈿鞍(重要文化財)が残されています。また白山市知気寺町や野々市市中林等に林氏の館跡伝承地があります』とある。

「倉光村」「加能郷土辞彙」の「倉光」を見ると、『石川郡中村鄕に屬する部所。寳永誌に、この村領に殿之内と稱して、若林長門の居跡がある記す』とあり、白山市倉光がそれか。

「次郞成澄」「平家物語」にも登場する、加賀の住人で木曽義仲の家臣であった倉光三郎成澄(?~寿永二(一一八三)年)。倉敷の「水島の戦い」で瀬尾兼康に騙し討ちにされた。

『同村「殿の内」』現在は確認出来ない。

「若林長門守」加賀一向一揆方の武将で小松城の造営(天正四(一五七六)年)者。

「行町村」白山市行町(あるきまち)附近。

「鹽谷安藝守」「石川県神社庁」の行町にある高田神社の解説に『創立は明らかではないが、行町に塩谷安芸守というものが住み、当社を尊信して社殿を造営したと言われる』とある。

「額乙丸村」金沢市額乙丸町。石川県石川郡には額谷・大額・額新保などの「額」の字を付した地名が多く、中世からあった。

「矢ふだの明神」同地区に限ると現在、額西神社しかない。「石川県石川郡誌」の額西神社の解説には「藪田明神」という別称が載るから、「やぶた」或いは「やぶだ」であろう。

「富樫政親高雄山に籠城の時」既出既注

「富樫、京都將軍の命を蒙りて筑紫に出陣せし折」「翌年四月十七日」年不詳。

「あかめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra。。若葉は紅色を帯びて美しい。「かなめがし」「かなめのき」「あかめもち」「あかめのき」「そばのき」などの異名が多い。

「紫竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連マダケ属クロチク Phyllostachys nigra。]

 久安(ひさやす)村には富樫の稻荷あり。富樫と云ふも此邊(このあたり)の一在所にして、今は野々市・今村と云ふ。泉村に續いて藏地となる。然るに元文年中、此泉野の領の中出町有松と云ふ所に、爰(ここ)の氏神とて八幡宮を勸請す。彼筑紫の宮なり。此境内尤も廣く、諸樹枝を交へ、誠に神さびて、人も上古の淳朴に歸るかと心澄みわたれり。いつの年の秋よりか、前々曾てなかりし山のいものつる多く生ひ出で、宮地の木每にまとひ渡りて、恰も碧蘿藤蘿(へきらとうら)の千尋の松に懸るが如し。而してぬかご[やぶちゃん注:「むかご」(零余子)のこと。]の多き事いくばくと云ふ事を知らず。近村の賤民爰にこぞり是を求(もとむ)るに、少き者は三斗五斗、多き者は二石三石を取得たり。後には町よりも聞傳へた程に、殆んど數十石に及ぶといへども、終に取盡すことなし。誠に前代未聞の珍事なり。

[やぶちゃん注:「久安村」金沢市久安。西直近は既に野々市市である。

「富樫の稻荷」久安にあって稲荷に関わり、富樫絡みであるのは、一社ある御馬(みうま)神社である。「石川県神社庁」の同社の解説に、『当社は延喜式内の古社にあてられ、歴朝の崇敬篤く、長享』二(一四八八)年、『富樫泰高は久安に下屋敷を営み』、『御馬稲荷を勧請す。社僧天道院代々奉仕し、天正年間』(一五七三年~一五九三年)『尾山に移る時、同形の神体を作り分霊の上、浅野川稲荷神社を創立』(金沢市並木町のここ)したとある。

「富樫と云ふも此邊(このあたり)の一在所」金沢市側に富樫の地名が残る

「今村」不詳。現在の金沢市・野々市市にはこの地名はない。但し、前後の地区名からして、現在の金沢市の以下の泉を含む地域に連なる地名と考えざるを得ない。本文は「野々市・今村」と言っているのであるが、この前後部分の地名はその殆どが現在の野々市ではなく、東に接する金沢市内のそれだからである。

「泉村」富樫の北に金沢市泉が丘、その北西に弥生を挟んで泉が、そこから西へ向かって泉本町・西泉、さらに伏見川を挟んで米泉町の地名を認める(後に出すスタンフォード大学の「國土地理院圖」も参照されたい)。

「藏地」「蔵入り地」のことであろう。領主の直轄地で、年貢米・諸役 ・産物を直接領主の蔵に納めたことによる。

「元文年中」一七三六年~一七四一年。

「泉野の領の中」の「出町有松」というのは、スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)を見ると、現在の富樫の東にある金沢市泉野出町が大きく「泉野出町」として大きな集落を中心に示されてあって、富樫附近を挟んで北西に「有松」地区を認める。現在の有松も広いが、旧「國土地理院圖」で「有松」とある位置は現在の有松地区の東北端に当たる有松交差点であることが読み取れる。

「爰(ここ)の氏神とて八幡宮を勸請す。彼筑紫の宮なり」不詳。現在の有松には貴船神社しかない。「石川県神社庁」の解説によれば、『社の祭神はあらたかな水の神様で昔から有松の地に火災が無かったと言い伝えられています。古書によれば「富樫氏の一族有松氏が当地に居住し、有松教景の代に邸内に貴船明神を祀り、尊信す、これ今の有松貴船神社なり」とある』とするので、富樫氏支族絡みではある。そこには八幡神を並祀するとは書かれていなかったのだが、話の展開から、どれほどの大きさかと、試しに貴船神社をグーグル・ストリートビューで見たところが、「合祀 八幡神社」の石柱を確認出来た。

「碧蘿藤蘿」緑なす蔦(つた)や藤蔓(ふじづる)。

「ぬかご」「むかご」(零余子・珠芽)のこと。ウィキの「むかご」によれば、植物の栄養繁殖器官の一つで、養分を貯えて肥大化した脇芽(わきめ)部分のこと。主として地上部に生じるものを指し、葉腋や花序に形成され、離脱後、『新たな植物体となる。葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)『など、後者はヤマノイモ科』(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)『などに見られる。両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる。いずれにせよ根茎の形になる』。『ヤマノイモなどで栽培に利用される』が、『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般にはヤマノイモ』(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica。所謂「じねんじょ(自然薯)」「山芋」のこと)『・ナガイモ』(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya)『など』の食用の『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。

「三斗五斗」一斗=十升=十八リットル=ポリ・タンク一杯分相当。

「二石三石」一石=十斗=百八十リットル=家庭用浴槽一杯分相当。]

 或時、大勢競ひ來り、ぬかごを爭ひ取けるに、忽ち社壇の中鳴動して暴風暴雨刹那に起り、雲は鍋墨の如くあたまの上に覆ひ懸り、雨は石礫(いしづぶて)の如く吹付しかば、里民大(おほき)に畏怖して、逃散る人々辛うじて家に歸る。

 明日(あくるひ)申の刻[やぶちゃん注:午後四時頃。]に至りて、漸々(やうやう)風納(をさま)り雨やみて、天日初(はじめ)て麗はしかりき。是何の故ぞと云ふ事を知らず。

 其後(そののち)彼(かの)宮居に行きて見るに、いまだ多かりしと見えし「ぬかご」一ツもなく、只つるのみいたづらに色付きて、松の常磐(ときは)もさながらに三室(みむろ)の山の紅葉と見かはすばかり枯果(かれはて)ぬ。

[やぶちゃん注:最後の部分は知られた「百人一首」六十九番で知られる能因法師の、

   永承四年内裏歌合によめる

 あらし吹くみ室の山の紅葉(もみぢ)ばは

    龍田(たつた)の川の錦なりけり

(「後拾遺和歌集」の「巻第五 秋下」。三六六番)に洒落たもの。永承四年は一〇四九年。「み室」「山」は現在の奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)の紅葉や時雨の名所とされる「神奈備山(かむなびやま)」(「かむなび」は「神のまします」の意)。「龍田」「川」はその東麓を南流する。]

 怪しかりし。其後は再びつるも生ひ出ず。最(もつとも)不審晴やらず。

「彼(かの)草鞋大王(とひがみだいわう)の取肴(しゆかう)にてや有けん」

と、一笑する事にぞありし。

[やぶちゃん注:「草鞋大王」「敷地の馬塚」に既出既注。そこでの国書刊行会本と「近世奇談全集」のルビから読みは推定して示した。そのまま「わらぢだいわう(わらじだいおう)」と読んでよく、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。

「取肴」総てがこうなっている。「酒肴」に「取って」酒の「肴(さかな)」にしたという諧謔を洒落たものであろう。]

 一日(いちじつ)木滑(きなめり)と云ふ所の人來り、是を聞きて云ひけるは、

「我里の社地にもかゝる事侍りし。或年不斗(ふと)大きなる蔓(つる)出來(いでき)て花開く。先(まづ)凌霄(のうぜん)とは見えけれども、紫色なる所多く、花の色(いろ)油(あぶら)ありて、日に向ひて光る。中々見事なることにてありし程に、金澤より詰めらるゝ關守の役人にも告げて、

『不思議の事』

と云ふうちに、古老の山人(さんじん)【風嵐(かざらし)と云ふに五里計(ばかり)奧の人なり】來合せて、此花を見て曰く、

『必ず是にさはるべからず。是は蟒蛇(うはばみ)の化したる物なり』

と云ひし。或日風雲暴雨一兩日も續きしに、此蔓草枯れ、根もなくなりて見えざりし」

と云ふ。かゝる事もあるにこそ。いかなる變化(へんげ)の物ならんや。古社の地は數間のせばきなりとも、猥(みだ)りにあなどるべからず事にこそ。

[やぶちゃん注:「木滑」白山市木滑(きなめり)がある。

「五里」現在途中に手取川ダムによって、長い手取湖が出来ているが、ここが渓谷だったころを想定して実測してみたところ、有に二十キロメートルは確かにある。

「凌霄」落葉性蔓性木本ノシソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora。夏から秋にかけ橙色或いは赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出し、樹木や壁などの他物に付着して蔓を伸ばす。中国原であるが、平安時代には既に日本に渡来していたと考えられている。漢名「凌霄花」は「霄(そら)を凌(しの)ぐ花」の意で、高いところに攀じ登ることに由来する。ここでは紫を呈するのを異常としているが、現在の品種の中には紫色のものもある。

「風嵐」国書刊行会本は『カサラシ』とカタカナで記す。石川県白山市白峰の奥である。スタンフォード大学の「國土地理院圖」の「經ヶ岳」「白峯」では南でぎりぎりで切れており見れない)の北(上部中央)端に「風嵐」とあり、これは「かざらし」と読む。優れたサイト「村影弥太郎の集落紀行」のこちらをご覧あれ(それによれば昭和五四(一九七九)年度から集団移住が決定されて集落自体は消えている)。グーグル・マップ・データ(航空写真)ではここに「風嵐谷川」が流れ、渓流釣りが行われていることで名が残っていることが判る。

「數間」一間は一・八二メートル。これが正しく現在の貴船神社だとするなら、現在の同神社の間口は二十三メートル以上はある。]

2020/03/01

三州奇談卷之三 關氏の心魔

    關氏の心魔

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]加陽英士[やぶちゃん注:「えいし/えいじ」。抜きん出て優れた人物。]關善右衞門は、代々中條流兵法の道に達し、其名四方に響きけり。傳へ聞く富田五郞左衞門入道勢源(せいげん)より奧祕(おくひ)を傳へ、連錦として絕えず。殊更此人は稽古積りて、甚だ精妙を得たり。剩(あまつさ)へ内外の敎典にも疎からず、質直にして門人も日々に增し、其傍(かたはら)に出づる者數十員、車馬門前に充滿せり。されば人情の習ひ、聊か僑慢の念慮ありけるにや。成年の冬、門弟子の許へ行き、古今英雄を論じ、戈劔(くわけん)の得失を談じ、稍(やや)深更に及びしが辭して歸られけるに、既に我家に入るに、妻女未だ縫物して寢ねず。婢女(はしため)も又傍にありて、例の如く灯を提げて迎へたるを見れば、忽ち屋中光明(くわうみやう)赫然(かくぜん)として、あたかも七寶をちりばめ色どり飾るが如し。妻女も婢女も衣裳皆悉く錦繡の袖を飜し、携へ出たる行燈に至る迄瑪瑙(めのう)瑠璃(るり)の類(たぐひ)にして、『しらず天上に生るゝか』と怪しまる。

[やぶちゃん注:「關善右衞門」不詳。「加能郷土辞彙」に載るのは本篇の内容に拠るものであるが、次の「中條流」の引用の太字傍線部に着目されたい。

「中條流」室町初期の中条長秀(?~弘和四/永徳四(一三八四)年)を開祖とする武術の流派で、短い太刀を使う剣術で有名であった。他に槍術なども伝えていた。ウィキの「中条長秀」によれば(太字傍線部は私が附した)、『中条長秀が中条家家伝の刀法と念流を合わせ自己の工夫を加えて創始したと伝えられる』。『室町期の京で創始されたことや、師である念阿弥慈恩が鞍馬山で修行した事などから、京八流の流れを汲む剣術とも言われる』。『中条家は長秀の孫・詮秀、曾孫・満秀の代で断絶したが、流儀は長秀から甲斐豊前守広景へ継承され、さらにその門人・大橋勘解由左衛門高能から山崎右京亮昌巖へと伝わった。昌巖が戦死したため、昌巖の弟子、冨田九郎左衛門長家が後見人として昌巖の子、山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆へと中条流を伝えた』。『その後、冨田家では長家から子の治部左衛門景家』及び『景家の嫡子』であった『冨田勢源』(大永三(一五二三)年~?)及びその次子冨田景政(?~文禄二(一五九三)年)と『代々』、『冨田家で中条流を継承、発展させたことから』、『一般的には冨田流と呼ばれるようになったが、山崎家や加賀藩で冨田家に次いで師範家となった関家などでは一貫して中条流として伝承された』。『なお、勢源の義理の甥にあたる重政が山崎家出身であったように、山崎家と冨田家は関係が深かった。山崎家の中条流は昭和初期』或いは『中頃までは存続していたが、現在は失伝したようである』。『後の一刀流、冨田流(戸田流、當田流、外他流)等、多くの有名流派の母体となった』。『山崎家や富山県や石川県に残る中条流の古文書によると、二尺ほど(約60センチメートル)の短い太刀で刃長が三尺(約1メートル)長い太刀と戦う太刀の形』(かた)『三十三本を中心に刀(短刀を使う小具足のような技)、槍や長刀などが伝えられていた』とある。

「玻璃」サンスクリット語「スパティカ」の漢音写。赤・白などの水晶を意味する。古代インドに於いてはこの世における最高の宝とする七宝(しっぽう:仏典中に列挙される七種の宝。必ずしも一定しないものの代表的なものとしては金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:後掲されるのでそこで注した)・珊瑚・瑪瑙である)の一つに数える。原語には「石英」の意味もあり、ギリシア語やラテン語の「ガラス」を意味する原語の系統の継承で、パーリ語の「パリカ」からサンスクリット語化したもので、一般には「ガラス」の古名とすることが多いが、ここは水晶でよかろう。]

 善右衞門暫く閉眼して案ずるに、

『我此(かく)の如くの奇事あること古今其例を聞かず。疑ふらくは我今狂亂の病(やまひ)にかゝれるや。さらずば魔魅(まみ)の欺く物ならん』

と、急ぎ婢に命じて湯を涌(わか)さしめ、沐浴せんとするに、浴室に入りて見れば、爰も又奇麗なること言語の及ぶ所にあらず。玉のいしだゝみ暖かにして、七寶の砂(いさご)を敷き、金銀の手洗及び硨磲(しやこ)の提子(ひさげ)に水を人たり。目を塞いで浴し終り、新しき衣に布衣(ほい)を着し、先づ灯明(とうみやう)を點(とも)し、本尊摩利支天(まりしてん)の像を拜し畢(をは)りて、祕印を結び九字を修し、光明眞言七返、多聞天の咒(じゆ)廿一返、般若心經・法華の陀羅尼要品(だらにえうぼん)を誦し、佩刀を拔きて當流の當流の祕密「沓返(くつがへし)」と云ふ妙手を遣ひければ、彼妖魅(えうみ)退(の)きしにや、漸々(やうやう)として光輝消え失せ、心地朗(ほがら)かになりて平常に復(かへ)りしと、門人藤井氏へ物語ありしなり。是(これ)心魔(しんま)の遮(さへぎ)るなるべし。强氣(つよき)も又形を退くるにや。

[やぶちゃん注:「硨磲」斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae のシャコガイ類の貝殻。やはり七宝の一つ。

「提子」弦(つる)と注ぎ口のある小鍋形の湯を入れて持ち運ぶ銚子(ちょうし)。

「布衣」本邦の江戸時代までの男性用着物の一種で、江戸幕府の制定した服制の一つ。幕府の典礼や儀式にあっては、旗本下位の者が着用する狩衣の一種で、特に無紋(紋様・地紋のない生地)のものを指す。

「摩利支天」仏教の守護神である天部の一柱。日天の眷属。サンスクリット語の「太陽や月の光り」を意味する語の漢音写。「陽炎(かげろう)」を神格化したものとされ、元は古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」に登場する「ウシャス」という「暁の女神」であると考えられている。陽炎は実体がないので、捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有するとされることから、本邦では特に武士の間にこの摩利支天信仰が強くあった。参照したウィキの「摩利支天」によれば、『元来』は『二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようにな』り、『三面六臂または三面八臂で』、『月と猪に乗る姿などもある』。本邦では『護身や蓄財などの神として』概ね『中世以降』に『信仰を集めた。楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている』とある。

「祕印を結び九字を修し」九字護身法。「九字」は「臨」・「兵」・「鬪」・「者」・「皆」・「陳」・「列」・「在」・「前」で、それぞれの印やその切り方は『忍者の神様「摩利支天」と「九字護身法」で何でも勝てる気がしてきた』で画像・動画で見られる。解説も判り易い。

「光明眞言」正式には「不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)」と言う密教の真言。密教経典である「不空羂索(けんさく)神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれている。二十三の梵字から成り、最後の休止符「ウン」を加えて、合計二十四の梵字を連ねたものがワン・セットとなる。音写は参照したウィキの「光明真言」を見られたい。

「多聞天の咒」多聞天は毘沙門天に同じ。天部の仏神の一柱で持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神。ウィキの「毘沙門天」によれば、『庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺で』、『福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようにな』り、『室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められ』たという。その咒=真言はリンク先を参照されたい。

「法華の陀羅尼要品」「法華経」の「陀羅尼品第二十六」。但し「要品」は不審で、「法華経」一部の肝要とされる四品を指す語であるが、それは「方便品」・「安楽行品」・「寿量品」・「普門品」を指す語だからである。

「沓返(くつがへし)」不詳。

「藤井氏」不詳。

「是(これ)心魔(しんま)の遮(さへぎ)るなるべし。强氣(つよき)も又形を退くるにや」よく意味が判らない。「心魔」は仏教で「心の内部の障害」の意がある。そう理解すると冒頭で「聊か僑慢の念慮ありけるにや」と応じて判りがいい。その場合の「の遮る」は「正心(今風に言うなら正常にして健全な精神状態)を遮って(この場合は自分の武芸や才覚に聊か増上慢 となった結果)、邪な内なる邪気が妖しい幻像を見させた」ということになろう。「まことの鬼は人の心」という謂いに近いものと言える。また、国書刊行会本や「加越能三州奇談」(国立国会図書館デジタルコレクション当該話)は二文の「形」を「邪」とする。これは確かにその方が腑に落ちる気はする。但し、幻像を「形」(形相(けいそう)・有様)という意で採るならば問題はあるまい。

 古寺町福藏院には菅神の傍に稻荷の社もあり。此社内廣ければ、片町石浦屋吉兵衞借屋原屋久右衞門と云ふ足駄を作る男ありき。彼(かの)下駄(あしだ)の下地桐・朴(ほほ)などの割木を多く爰(ここ)に乾し置きしに、或夕暮に此(この)割木をかたづけけるに、狐一疋飛出せしを、したゝかに割木を以て打撲(うちたた)き、追散して家に歸り、二階に上り伏しけるに、其夜何とやらんいね難く、二階の障子をあけて見けるに、爰は石浦屋の土藏に對すべき所なるに、此土藏忽ち福藏院の向ひ安部氏の居宅に見え、式臺の手燭かゞやき、金屛あまた引つらねたる如くに覺えし程に、我居る所も我家にあらず、福藏院の社地に替(かは)り、寢所の上に奉納の繪馬出來(いでき)たり。松梅の樹木多く吹渡りて、心茫然とせしかば、

『扨は未だ歸らず、福藏院の庭にゐるにや。去(さる)にても家に歸るべし』

と思ひ、立ち出(いで)んとせしが、

『慥に我は家に歸り二階に臥したる物を』

と思ひ定め、

「是は必定、物のたぶらかすなるべし。何條(なんでう)鬼魅に負(ま)くべきや」

と、寢處の上敷(うはじき)の片端を力(ちからに)につかんで急度(きつと)心を靜めたりしが、少しは燈明もうすく、彩光も減ぜし樣なれども、目を明くるに、又宮殿・金屛風あたりに立ちて思ひわき難く、一夜遂に眠らず、寢ぶすまを引きちぎり引きちぎりしてこらへたりしに、曉の鐘鳴りても猶消えず、日出づる迄は石浦屋の土藏式臺前の躰(てい)有りしが、人通りも多く、日明らかに出ければ、消えて元の如しと語りぬ。

 是も又怪の類(たぐひ)にや。術(すべ)なきが爲に久しく消ざりしか。

[やぶちゃん注:現代ならば、以上の二例は映画を見るように非常に強い視覚的幻覚を伴う統合失調症やアルコール性精神病などが疑われるところであろう。但し、後者は妖狐の因縁性を頭に設けてあり、幻覚というよりも、そちらの幻術を匂わせるようには構成されている。

「古寺町」現在の片町二丁目(グーグル・マップ・データ)。「金沢市」公式サイトのこちらに、『藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地をこの名で呼ぶようになった』とある。

「福藏院」サイト「市民が見つける金沢再発見」のこちらに『山伏本山派』とし、『香林坊橋(犀川小橋)近くあり、宝来寺福蔵院と号し』、『妻帯と成り』、『子孫相続し』たとある。『今は』ないとある。他に、福蔵院は『俗に小橋天神』と呼ばれ、『藩政期修験派山伏の旧宝来寺で』、元禄三(一六九〇)年の『略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転し』、慶長一九(一六一四)年に「大阪夏の陣」が『おこり、藩主前田利常公出陣に際し』、『利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。藩政期には今の片町きららの後にあった宝来寺が明治の神仏分離で小橋菅原神社になります。一時、ホテルエコノ金沢片町裏に移りますが』、平成二七(二〇一五)年九月に『取り壊され』て『月極駐車場になり、今は飲食街になりました』とある。但し、『数年前まで片町のビル下のトンネルが参道だった小橋菅原神社』という記載もあるので、それが本文の「菅神」(天神)であることが判る。『片町きらら後』(うしろ)に、『宝来寺(小橋菅原神社)があ』ったともあることから、この附近(グーグル・マップ・データ)である。他にも『中河原之郷・福蔵院(俗に小橋天神)』という項があり、同じく元禄三年の『古寺町の福蔵院窓膳が筆記した小橋天神由来書に、当社は天満天神、往古河北郡吉倉村に御鎮座のところ』、四『代以前』の『別当道安が霊夢をこうむり、香林坊小橋の爪河原に奉還のところ、近郷河原はわずかに家居』十『軒ばかりがあるところでしたが、追々家が建ち、春秋に祭礼の儀式も出来るようになったと云います。元来』、『当社氏子地は、香林坊の小橋より犀川大橋、古寺町近郷は、往古河原にて、五ヶ之庄・富樫之庄・石浦之庄の』三『ヶ所の出合の河原で有るところから、当院(福蔵院)は中河原之郷と唱へ、産子繁栄之祈祷札を配り、氏子繁昌の祈念を仕』(つかさど)『ったとあ』るとし、『中河原というは、今の片町・河南町の地法にて、その上、この地辺犀川二瀬に流れたる中嶋なりしところから、世の人は中河原と呼び、その後、この地が町地になり、町名を立て中河原町と呼んだと』あるともあるから、本篇の「石浦屋」というのは旧地名の「石浦之庄」に由来するものと推定出来る。

「稻荷の社」同様に現存しないようである。

「足駄」狭義には雨天用の高い二枚歯の附いた下駄のことであるが、ここは下駄と同義で用いている。

「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。キリは本邦でとれる木材としては最も軽いもので、しかも湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴を持つ。

「朴」モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata。材質が堅いことから、下駄の歯(朴歯下駄)などの細工物に使う。水に強く肌触りもよい。さらに、脂(やに)が少なく加工しやすいという特徴もある。

「阿部氏」同じくサイト「市民が見つける金沢再発見」のこちらに、「古寺町古伝話」として、『この町は、大昔、寺跡の先に古墳等の遺跡だと云われています。古伝話には、山伏福蔵院(小橋天神)の向かいに阿部氏の邸地門脇下の厩下(うまやした)に、古墳の石棺式石室あったと云われていますが、実否については詳らかではないという』ことで、『明治の廃藩置県後、阿部氏はこの邸地を売却し、この地の主が退去して家屋は取り壊され、厩の後は商店になった』とある。

「何條」の「條」は当て字(従って歴史的仮名遣の誤りではない)。反語の副詞。]

ブログ・アクセス1330000突破

しかし、今日は波状的に厭なことしかなかった。愚劣な何かが私を襲っているのがよく判る。それは一種の私をこの数ヶ月纏わりついて離れぬ鬱状態にも係わってはいる。しかし、そこにはある他者たちに対する私の根の深い失望感が関係している。だから今回は記念テクストは作らない。ルーティンのテクストは痙攣的な一日の中で、何とか、先程、仕上げたのでこれから公開する。

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その二)

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

   *

 

年明(としあ)けてゆるめる心(こころ)!

うつとりと

來(こ)し方(かた)をすべて忘(わす)れしごとし。

 

 年明けてゆるめる心!

 うつとりと

 來し方をすべて忘れしごとし。

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、実際には初出が『創作』明治四四(一九一一)年一月号であることから、明治四十三年『年内の作』とある。ここから十首目まで総ての初出が同じであるので、七首目までの新年を詠んだそれらは、総て実は年内作となる。但し、これらは、この年以前の年初の感懐に基づくものとすればよく、普遍的な新年の想いとして殆んどの読者に共有共感されるものが殆んどであるから、それを虚構だの創作だのと言うとしたら、詩の何たるかを理解しない検討違いの批判となることは言うまでもない。]

 

   *

 

昨日(きのふ)まで朝(あさ)から晚(ばん)まで張(は)りつめし

あのこころもち

忘(わす)れじと思(おも)へど。

 

 昨日まで朝から晚まで張りつめし

 あのこころもち

 忘れじと思へど。

 

   *

 

戶(と)の面(も)には羽子(はね)突(つ)く音(をと)す。

笑(わら)ふ聲(こゑ)す。

去年(きよねん)の正月(しやうがつ)にかへれるごとし。

 

 戶の面には羽子突く音す。

 笑ふ聲す。

 去年の正月にかへれるごとし。

 

   *

 

何(なん)となく、

今年(ことし)はよい事(こと)あるごとし。

元日(がんじつ)の朝(あさ)、晴(は)れて風(かぜ)無(な)し。

 

 何となく、

 今年はよい事あるごとし。

 元日の朝、晴れて風無し。

 

   *

 

腹(はら)の底(そこ)より欠伸(あくび)もよほし

ながながと欠伸(あくび)してみぬ、

今年(ことし)の元日(ぐわんじつ)。

 

 腹の底より欠伸もよほし

 ながながと欠伸してみぬ、

 今年の元日。

 

   *

 

いつの年(とし)も、

似(に)たよな歌(うた)を二つ三つ

年賀(ねんが)の文(ふみ)に書(か)いてよこす友(とも)。

 

 いつの年も、

 似たよな歌を二つ三つ

 年賀の文に書いてよこす友。

 

   *

 

正月(しやうぐわつ)の四日(か)になりて、

あの人(ひと)の

年(ねん)に一度(ど)の葉書(はがき)も來(き)にけり。

 

 正月の四日になりて、

 あの人の

 年に一度の葉書も來にけり。

 

   *

 

世(よ)におこなひがたき事(こと)のみ考(かんが)へる

われの頭(あたま)よ!

今年(ことし)もしかるか。

 

 世におこなひがたき事のみ考へる

 われの頭よ!

 今年もしかるか。

 

   *

 

人(ひと)がみな

同(おな)じ方角(はうがく)に向(む)いて行(ゆ)く。

それを橫(よ)より見(み)てゐる心(こころ)。

 

 人がみな

 同じ方角に向いて行く。

 それを橫より見てゐる心。

[やぶちゃん注:「はうがく」のルビは次の歌の「か」「が」のルビと比較対照しても明らかに「が」ではなく『はうかく』であるが、おかしいので特異的に筑摩版全集によって濁点を補って示した。

 

   *

 

いつまでか、

この見飽(みあ)きたる懸額(かけがく)を

このまま懸(か)けておくことやらむ。

 

 いつまでか、

 この見飽きたる懸額を

 このまま懸けておくことやらむ。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここまでが『創作』四四(一九一一)年一月号初出分。]

 

   *

 

ぢりぢりと、

蠟燭の燃えつくるごとく、

夜となりたる大晦日かな。

 

 ぢりぢりと、

 蠟燭の燃えつくるごとく、

 夜となりたる大晦日かな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は四四(一九一一)年一月八日附『東京朝日新聞』。]

 

   *

 

靑塗(あをぬり)の瀨戶(せと)の火鉢(ひばち)によりかかり、

眼(め)閉(と)ぢ、眼(め)を開(あ)け、

時(とき)を惜(をし)めり。

 

 靑塗の瀨戶の火鉢によりかかり、

 眼閉ぢ、眼を開け、

 時を惜めり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は四四(一九一一)年一月八日附『東京朝日新聞』で、初出形は、

 新しき瀨戶の火鉢に凭(よ)りかゝり眼閉ぢ眼を開け時を惜めり

であるとする。]

 

   *

 

何(なん)となく明日(あす)はよき事(こと)あるごとく

思(おも)ふ心(こころ)を

叱(しか)りて眠(ねむ)る。

 

 何となく明日はよき事あるごとく

 思ふ心を

 叱りて眠る。

 

   *

 

過(す)ぎゆける一年(ねん)のつかれ出(で)しものか、

元日(ぐわんじつ)といふに

うとうと眠(ねむ)し。

 

 過ぎゆける一年のつかれ出しものか、

 元日といふに

 うとうと眠し。

 

   *

 

それとなく

その由(よ)るところ悲(かな)しまる、

元日(ぐわんじつ)の午後(ごご)の眠(ねむ)たき心(こころ)。

 

 それとなく

 その由るところ悲しまる、

 元日の午後の眠たき心。

[やぶちゃん注:――年頭のハレの日たる「元日の午後」というのに、私が、何やらん、ぼんやりとした「眠た」いような憂鬱の影が射した「心」の状態にあるというのは、「それとなく」「その由るところ」のもの(原因)が、はっきりと自分には判っているということが、救い難いまでに「悲しまる」るのである。――というのである。前歌やこの次の次の一首の現実的即物的な眠気を詠じた吟に比して、朧化されている分、遙かに致命的に暗い憂愁が伝わってくる。]

 

   *

 

ぢつとして、

蜜柑(みかん)のつゆに染(そ)まりたる爪(つめ)を見(み)つむる

心(こころ)もとなさ!

 

 ぢつとして、

 蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる

 心もとなさ!

 

   *

 

手(て)を打(う)ちて

眠氣(ねむけ)の返事(へんじ)きくまでの

そのもどかしさに似(に)たるもどかしさ!

 

 手を打ちて

 眠氣の返事きくまでの

 そのもどかしさに似たるもどかしさ!

 

   *

 

やみがたき用(よう)を忘(わす)れ來(き)ぬ――

途中(とちう)にて口(くち)に入(い)れたる

ゼムのためなりし。

 

 やみがたき用を忘れ來ぬ――

 途中にて口に入れたる

 ゼムのためなりし。

[やぶちゃん注:「やみがたき用」ここは「大事な用事」の意。

「ゼム」当時、市販されていた粒状の清涼剤「Gem」。東京都日本橋区馬喰の「愛國堂」及び同支店で大阪市高麗橋の「山崎兄弟商会會」から販売されていた。ブログ「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)」の「漱石とジェム(ゼム)」に当時の広告写真と、そこに書かれた効能書きが電子化されているので参照されたい。表題にあるように、夏目漱石の「行人」(大正元(一九一二)年十二月六日から翌年十一月五日まで『朝日新聞』連載。但し、大正二年四月から九月までは漱石の三度目の胃潰瘍罹患のために中断している)で、主人公長野二郎の友人で胃を悪くしている三沢が愛用しており、漱石自身も繁用していた。個人ブログ「まちこの香箱(かおりばこ)」の「暑くなると」によれば、孫引きながら、明治四三(一九一〇)年五月二十日附『東京朝日新聞』では『ハレー彗星衝突の恐怖から逃れたいなら靈藥ゼムを飮め』という広告があったという(ハレー彗星(1P/Halley)は一九一〇年四月二十日に比較的地球に接近したが、それ以前から彗星の尾に含まれる猛毒成分によって地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まっていた。因みに本歌の初出は『創作』明治四十四年二月号である)。因みに「愛國堂」は大正一一(一九二二)年に「山崎帝國堂」と社名を改称、現在も同社が発売しているのが、かの「毒掃丸」である。]

 

   *

 

すつぽりと薄團(ふとん)をかぶり、

足(あし)をちゞめ、

舌(した)を出してみぬ、誰(たれ)にともなしに。

 

 すつぽりと薄團をかぶり、

 足をちぢめ、

 舌を出してみぬ、誰にともなしに。

 

   *

 

いつしかに正月(しやうぐわつ)も過(す)ぎて、

わが生活(くらし)が

またもとの道(みち)にはまり來(きた)れり。

 

 いつしかに正月も過ぎて、

 わが生活が

 またもとの道にはまり來れり。

 

   *

 

神樣(かみさま)と議論(ぎろん)して泣(な)きし――

あの夢(ゆめ)よ!

四日(か)ばかりも前(まへ)の朝(あさ)なりし。

 

 神樣と議論して泣きし――

 あの夢よ!

 四日ばかりも前の朝なりし。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『創作』明治四四(一九一一)年二月号で、『この夢については、「函館日日新聞」明治四十四年二月二十六日号に掲げた「郁雨に与ふ㈥」』『というエッセイに詳細な説明がある』とあったので、筑摩版全集を参考に漢字を概ね恣意的に正字化して以下に示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

 

     ㈥

 

 郁雨君足下。

 

  神樣(かみさま)と議論して泣きし

  夢を見ぬ――

  四日ばかりも前(まへ)の朝なりし。

 

 この歌は予がまだ入院しない前に作った歌の一つであつた。さうしてその夢は、予の腹の漸く膨(ふく)れ出して以來、その壓迫を蒙る内臟の不平が夜每々々に釀した無數の不思議な夢の一つであった。――何でも、大勢の巡査が突然予の家を取圍んだ。さうして予を引き立てゝ神樣の前へ伴れて行った。神樣は年とつたアイヌのやうな顏をして眞白な髯を膝のあたりまで垂れ、一段高い處に立つて、ピカピカ光る杖を揮(と)りながら、何事か予に命じた。何事を命ぜられたのかは解らない。その時誰だか側(かたは)らにゐて、「もう斯うなつたからには仕方がない。おとなしくお受けしたら可いだらう。」と言った。それは何でも予の平生親しくしてゐる友人の一人だったやうだが、誰であつたかは解らない。予はそれに答へなかつた。さうして熱い熱い淚を流しながら神樣と議論した。長い間議論した。その時神樣は、ぢつと腕組みをして予の言葉を聞いてゐたが、しまひには立つて來て、恰度小學校の時の先生のやうに、しやくり上げて理窟を揑(こ)ねる予の頭を撫でながら、「もうよしよし。」と言つてくれた。目のさめた時はグツシヨリと汗が出てゐた。さうして予が神樣に向つて何度も何度も繰返して言つた、「私の求むるものは合理的生活であります。ただ理性のみひとり命令權を有する所の生活であります。」といふ言葉だけがハツキリと心に殘つてゐた。予は不思議な夢を見たものだと思ひながら、その言葉を胸の中に復習してみて、可笑しくもあり、悲しくもあつた。

 入院以來、殊に下腹に穴をあけて水をとつて以來、夢を見ることがさう多くはなくなつた。手術をうけた日の晚とその翌晚とは確かに一つも見なかつたやうだ。長い間無理矢理に片隅に推しつけられて苦しがつてゐた内臟も、その二晚だけは多少以前の領分を囘復して、手足を投げ出してグツスリと寢込んだものと見える。その後はまたチヨイチヨイ見るやうになつた。とある木深(こぶか)い山の上の寺で、背が三丈もあらうといふ灰色の大男共が、何人も何人も代る代る[やぶちゃん注:「かはるがはる」。]出て來て鐘を撞(つ)いた夢も見た。去年の秋に生れて間もなく死んだ子供の死骸を、鄕里の寺の傍の凹地(くぼち)で見付けた夢も見た。見付けてさうして抱いて見ると、バツチリ目をあけて笑ひ出した。不思議な事には、男であつた筈の子供がその時女になつてゐた。「區役所には男と屆けた筈だし、何うしたら可いだらうか。」「さうですね。屆け直したら屹度(きつと)罰金をとられるでせうね。」「仕方がないから今度また別に女が生れた事にして屆けようか。」予と妻とは凹地の底でかういふ相談をしてゐた。

   *]

 

   *

 

家(いへ)にかへる時間(じかん)となるを、

ただ一つの待(ま)つことにして、

今日(けふ)も働(はたら)けり。

 

 家にかへる時間となるを、

 ただ一つの待つことにして、

 今日も働けり。

 

   *

 

いろいろの人(ひと)の思(おも)はく

はかりかねて、

今日(けふ)もおとなしく暮(く)らしたるかな。

 

 いろいろの人の思はく

 はかりかねて、

 今日もおとなしく暮らしたるかな。

 

   *

 

おれが若(も)しこの新聞(しんぶん)の主筆(しゆひつ)ならば、

やらむ――と思(おも)ひし

いろいろの事(こと)!

 

 おれが若しこの新聞の主筆ならば、

 やらむ――と思ひし

 いろいろの事!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、当時の朝日新聞社主筆は池辺三山(文久四(一八六四)年~明治四五(一九一二)であったとある。ウィキの「池辺三山」によれば、『肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ』で、『父吉十郎は熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた』長男であった『吉太郎が』十四『歳の時であり、これからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。慶應義塾に学んだが、中退して佐賀県の役人となる』。『大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり』で、『公明正大で高い識見の言論は、政治や思想、文芸など多方面に影響を与えた。陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した』。心臓発作で亡くなったが、これは死の直前に母が亡くなり、その『喪に服すために肉食を断ったことで、持病の脚気を悪化させたことが原因と言われ』ている。彼は『温かい人柄で知られ、漱石をはじめ』、『多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受け』た。「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」であるとか、「文章は平明で達意であるべし」といった『彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした』とある。本歌が発表された(『創作』明治四十四年二月号)当時は満四十七歳であった(啄木は二十五歳。三山は啄木の死に先立って同年二月に亡くなっている)。]

 

   *

 

石狩(いしかり)の空知郡(そらちごほり)の

牧場(ぼくじやう)のお嫁(よめ)さんより送(おく)り來(き)し

バタかな。

 

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り來し

 バタかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『北海道石見市郊外の牧場主北村謹に嫁いだ橘智恵子』(啄木の函館区立弥生尋常小学校に勤務していた時の同僚女教師)『を歌ったもの。啄木は人の妻にならぬ前に会いたいと、四十三』(一九一〇)『年の暮、歌集「一握の砂」を札幌村に送ったが、すでに彼女は結婚していたのである。しかし歌集のお礼に北村牧場でとれたバターを送ってきた』のであったとある。橘智恵子については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二」の私の冒頭注及びその歌群を見られたい。リンク先パートの全二十二首は総てが恋歌であり、この橘智恵子を詠んだものであるからである。啄木の日記によれば、バターが届いたのは明治四四(一九一一)年一月十六日であった。]

 

   *

 

外套(がいとう)の襟(えり)に頤(あご)を埋(づ)め、

夜(よ)ふけに立(たち)どまりて聞(き)く。

よく似(に)た聲(こゑ)かな。

 

 外套の襟に頤を埋め、

 夜ふけに立どまりて聞く。

 よく似た聲かな。

[やぶちゃん注:これは前の歌との組写真と考えるなら、橘智恵子の「聲」に「よく似た」それと読める。]

 

 

Yといふ符牒(ふてふ)、

古日記(ふるにつき)の處處(しよしよ)にあり――

Yとはあの人(ひと)の事(こと)なりしかな。

 

 Yといふ符牒、

 古日記の處處にあり――

 Yとはあの人の事なりしかな。

 

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『この歌は橘智恵子を詠める二首に続いているので「あの人」は橘智恵子を歌ったものであろう。この場合「Y」は「弥生(弥生小学校)の橘智恵君」つまり「YAYOIの君」の符号であると考えられる』とされつつ、橘智恵子ではないとするなら、『釧路の芸者小奴が有力である』とされ、『彼女は釧路時代小奴の「ヤッコ」の頭字をとって「ヤッチャン」と呼ばれていた』とあり、さらに『啄木が上京後』、『文通のあった筑紫の菅原芳子(よしこ)も候補の一人』とされる。]

 

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百姓(ひやくしやう)の多(おほ)くは酒(さけ)をやめしといふ。

もつと困(こま)らば、

何(なに)をやめるらむ。

 

 百姓の多くは酒をやめしといふ。

 もつと困らば、

 何をやめるらむ。

 

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目(め)さまして直(す)ぐの心(こころ)よ!

年(とし)よりの家出(いへで)の記事(きじ)にも

淚(なみだ)出(い)でたり。

 

 目さまして直ぐの心よ!

 年よりの家出の記事にも

 淚出でたり。

[やぶちゃん注:啄木の父一禎は、まず、渋民での住職罷免後、啄木も一緒になって行った復帰運動が上手くゆかずに家出をしている(明治四〇(一九〇七)年三月五日)。本歌の初出は明治四四(一九一一)年二月号『創作』であるが、この年の後の九月三日にも『一家の窮状と感情的不和』(筑摩版全集岩城之徳氏年譜)から家出している。]

 

   *

 

人(ひと)とともに事(こと)をはかるに

適(てき)せざる、

わが性格(せいかく)を思(おも)ふ寢覺(ねざめ)かな。

 

 人とともに事をはかるに

 適せざる、

 わが性格を思ふ寢覺かな。

 

   *

 

何(なん)となく、

案外(あんぐわい)に多(おほ)き氣(き)もせらる、

自分(じぶん)と同(おな)じこと思(おも)ふ人(ひと)。

 

 何となく、

 案外に多き氣もせらる、

 自分と同じこと思ふ人。

 

   *

 

自分(じぶん)より年若(としわか)き人(ひと)に、

半日(はんにち)も氣焰(きえん)を吐(は)きて、

つかれし心(こころ)!

 

 自分より年若き人に、

 半日も氣焰を吐きて、

 つかれし心!

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『創作』明治四四(一九一一)年二月号で、『同年一月十七日の作』とある。啄木は明治一九(一八八六)年二月二十日生まれであるから(但し、一説では前年の十月二十七日ともされる)、作歌時は満二十四歳であった。『啄木はこの日の午後』、『友人の白田が連れてきた、九州生まれで』東京『市内』の『芝公園に住む高橋光蔵という代議士の書生をしている文学青年の花田百太郎と、「明日」という話題について遅くまで気焔をあげた。そして二人が帰ってしまうと急に疲労を感じ九時ごろまで行火(あんか)に寝ていたが』、『起き出して歌を作った、そのうちの一首』であるとされる。次の歌の注も参照されたい。]

 

   *

 

珍(めづ)らしく、今日(けふ)は、

議會(ぎかい)を罵(ののし)りつつ淚出(なみだい)でたり。

うれしと思(おも)ふ。

 

 珍らしく、今日は、

 議會を罵りつつ淚出でたり。

 うれしと思ふ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四四(一九一一)年二月号『創作』で、前年末の『十二月二十日に召集された第二十七』回『議会で大逆事件』(実は前の歌が作られたその翌日一月十八日に幸徳秋水らに対する特別裁判の判決が下され(死刑二十四名・有期刑二名の判決)、処刑は一月中に即時執行された)、『南北正閏(せいじゅん)論』(昔からあった南朝と北朝の対立についてどちらを正統とするかに就いての論争。この年、国定教科書の両朝並立の記述が批判され、右翼と政府の圧力により、教科書編纂官喜田貞吉が休職処分となり、南朝を正統とする教科書に改訂される事件が起こっていた)『などの重要問題に対する政府問責案、野党である国民党』からの、『塩専売法、通行税法、砂糖消費税法の三税法配し建議案などをめぐって、当然』、『大波瀾が予想されたにもかかわらず、無力な議会は桂太郎内閣によって押し切られた』。『啄木は』そうしたことを『不満に思ってこのように歌ったのである』と評されておられる。。]

 

   *

 

ひと晚(ばん)に咲(さ)かせてみむと、

梅(うめ)の鉢(はち)を火(ひ)に焙(あぶ)りしが、

咲(さ)かざりしかな。

 

 ひと晚に咲かせてみむと、

 梅の鉢を火に焙りしが、

 咲かざりしかな。

 

   *

 

あやまちて茶碗(ちやわん)をこはし、

物(もの)をこはす氣持(きもち)のよさを

今朝(けさ)も思(おも)へる。

 

 あやまちて茶碗をこはし、

 物をこはす氣持のよさを

 今朝も思へる。

 

   *

 

猫(ねこ)の耳(みみ)を引(ひ)つぱりてみて、

にやと啼(な)けば、

びつくりして喜(よろこ)ぶ子供(こども)の顏(かほ)かな。

 

 猫の耳を引つぱりてみて、

 にやと啼けば、

 びつくりして喜ぶ子供の顏かな。

 

   *

 

何故(なぜ)かうかとなさけなくなり、

弱(よわ)い心(こころ)を何度(なんど)も叱(しか)り、

金(かね)かりに行(ゆ)く。

 

 何故かうかとなさけなくなり、

 弱い心を何度も叱り、

 金かりに行く。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、親友宮崎郁雨の「函館の砂―啄木の歌と私と」(昭和三五(一九六〇)年東峰書院刊)に借金のメモ帳が現存し、それは明治四二(一九〇九)年六月十六日、『啄木が函館より家族を迎えて本郷区弓町二丁目に移る直前に書かれたもので、その総計は千三百七十二円五十銭である』とある。当時の一円を現在の二万円ほどとするこちらの見解(「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営しているサイト「man@bow」内)に従えば、凡そ二千七百四十四万円に相当する。]

 

   *

 

待(ま)てど待(ま)てど、

來(く)る筈()はず)の人(ひと)の來(こ)ぬ日(ひ)なりき、

机(つくえ)の位置(いち)を此處(ここ)に變(か)へしは。

 

 待てど待てど、

 來る筈の人の來ぬ日なりき、

 机の位置を此處に變へしは。

 

   *

 

古新聞(ふるしんぶん)!

おやここにおれの歌(うた)の事(こと)を賞(ほ)めて書(か)いてあり、

二三行なれど。

 

 古新聞!

 おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、

 二三行(ぎやう)なれど。

 

   *

 

引越(ひつこ)しの朝(あさ)の足(あし)もとに落(お)ちてゐぬ、

女(をんな)の寫眞(しやしん)!

忘(わす)れゐし寫眞(しやしん)!

 

 引越しの朝の足もとに落ちてゐぬ、

 女の寫眞!

 忘れゐし寫眞!

[やぶちゃん注:私は高校時代に好きな詩文の断片を小さなノートに何冊も書き写していたが、啄木の歌で最初に記したのはこの一首であったことを鮮明に覚えている。]

 

   *

 

その頃(ころ)は氣(き)もつかざりし

假名(かな)ちがひの多(おほ)きことかな、

昔(むかし)の戀文(こひぶみ)!

 

 その頃は氣もつかざりし

 假名ちがひの多きことかな、

 昔の戀文!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、同年の妻節子と十四の時に交わしたラヴ・レターとされる(啄木の「渋民日記」の明治三九(一九〇六)年十二月二十六日の条によれば、その量(節子からの来信)は『百幾十通』と記している)。しかし『現在は一通も残っていない』そうである。]

 

   *

 

八年前(ねんぜん)の

今(いま)のわが妻(つま)の手紙(てがみ)の束(たば)!

何處(どこ)に藏(しま)ひしかと氣にかかるかな。

 

 八年前の

 今のわが妻の手紙の束!

 何處に藏ひしかと氣にかかるかな。

[やぶちゃん注:前歌注を参照。]

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