[やぶちゃん注:本篇は「錦木塚」と題した全文が丸括弧に入った、錦木伝承を扱った前書風文語散文詩のものと、それに続く「にしき木の卷」「のろひ矢の捲(長の子の歌)」「梭の音の卷(政子の歌)」(後の二篇は仮想相聞歌)の三篇、即ち四篇全体が組詩篇となっているので、特異的に四篇総てを纏めて電子化した(筑摩版全集もそのように編集されてある)。底本初版本(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML版の33から)を見られたい。
前者「錦木塚」は底本では通常位置よりも全体を三字下げ(初行のみ二字下げで丸括弧が突き出る)で有意なポイント落ちで示されているが、これはブラウザの不具合を考え、行頭から始めて二行目以降も字下げを施さなかった。ポイントも読み難くなるだけなので同ポイントで示し、それに後者「にしき木の卷」以下を続けて示した。前者の句点の後の字空けは底本の印象(句点の後が総て有意に空いて見える活字の組み方となっている)を再現するために敢えて入れてある。後者の詩篇中にもあるので、それも再現した。また、読み除去版は、「錦木塚」にはルビがないことと、「にしき木の卷」以下三篇は変わった読みが多いことから、ここでは作らないこととした。]
錦 木 塚
(昔みちのくの鹿角の郡に女ありけり。 よしある家の流れなればか、かかる邊つ國はもとより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。 日每に細布織る梭の音にもまさりて政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。 隣の村長が子いつしかみそめていといたう戀しにけるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人のいましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。 長の子ところの習はしのままに、女の門に錦木を立つる事千束に及びぬ。 ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いなかる女もさからひえずとなり。 やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ樣も見えず。 男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。 政子も今は思ひえたえずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。 村人共二人のむくろを引き上げて、つま戀ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのことのみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りて、にしき木塚となむ呼び傳へける。 花輪の里より毛馬内への路すがら、今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の栅など結ひたるを見るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりけり。 傳へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奧の細布と云ふもの、政子が織り出しけるを初めなりとかや。)
に し き 木 の 卷
槇原(まきばら)に夕草床(ゆふぐさどこ)布(し)きまろびて
淡日影(あはひかげ)旅の額(ぬか)にさしくる丘、
千秋古(ちあきふ)る吐息なしてい湧く風に
ましら雲遠(とほ)つ昔(かみ)の夢とうかび、
彩もなき細布(ほそぬの)ひく天(あめ)の極み、
ああ今か、浩蕩(おほはて)なる蒼扉(あをど)つぶれ
愁知る神立たすや、日もかくろひ、
その命令(よざ)の音なき聲ひびきわたり、
枯枝のむせび深く胸をゆれば
窈冥霧(かぐろぎり)わがひとみをうち塞(ふさ)ぎて、
身をめぐる幻(まぼろし)、──そは百代(もゝよ)遠き
邊(へ)つ國(くに)の古事(ふるごと)なれ。 ここ錦木塚。
立ちかこみ、秋にさぶる靑垣山(あをがきやま)、
生(い)くる世は朽葉なして沈みぬらし。……
吹鳴(ふきなら)せる小角(くだ)の音も今流れつ、
狩馬(かりうま)の蹄(ひづめ)も、はた弓弦(ゆづる)さわぐ
をたけびもいと新たに丘(をか)をすぎぬ。
天(あま)さかる鹿角(かづの)の國、遠(とほ)いにしへ、
茅葺(かやぶき)の軒並(な)めけむ深草路(ふかくさぢ)を、
ああその日麻絹(あさぎぬ)織るうまし姬の
柴の門行きはばかる長(をさ)の若子(わくご)、
とぢし目は胸戶(むなど)ふかき夢にか凝(こ)る、
うなたれて、千里(ちさと)走る勇みも消え、
影の如(ごと)たどる步みうき近づき來(く)る
和胸(やはむね)も愛の細緖(ほそを)繰(く)りつむぐか、
はた秋(あき)の小車(をぐるま)行く地(ち)のひびきか。
梭(をさ)の音せせらぎなす蔀(しとみ)の中
愁ひ曳(ひ)く歌しづかに漂ひくれ。
え堪(た)へでや、小笛とりて戶の外より
たどたどに節(ふし)あはせば、歌はやみぬ。
くろがねの柱(はしら)ぬかむ力(ちから)あるに
何しかもこの袖垣(そでがき)くぢきえざる。
戀ひつつも忍ぶ胸のしるしにとて
今日もまた錦木(にしきぎ)立て、夕暗路(ゆふやみぢ)を、
花草(はなぐさ)にうかがひよる霜(しも)の如く、
いと重き步みなして今かへり去るよ。
八千束(やちづか)のにしき木をばただ一夜(ひとよ)に
神しろす愛の門(かど)に立て果(は)つとも、
束縛(いましめ)の荒繩(あらなは)もて千捲(ちまき)まける
女(め)の胸は珠(たま)かくせる磐垣淵(いはがきぶち)、
永(なが)き世(よ)を沈み果てて、浮き來ぬらし。
眞黑木(まくろぎ)に小垣(をがき)結(ゆ)へる哭澤邊(なきさはべ)の
神社(もり)にして、三輪(みわ)据(す)え、祈(の)る奈良(なら)の子(こ)らが
なげきにも似(に)つらむ我がいたみはもと、
長(をさ)の子のうちかなしむ歌知らでか、
梭の音胸刻みて猶流るる。
男(を)のなげく怨(うら)みさはに目にうつれば、
涙なす夕草露(ゆふくさづゆ)身もはらひかねつ。
の ろ ひ 矢 の 卷 (長の子の歌)
わが戀は、波路(なみぢ)遠く丹曾保船(にそぼふね)の
みやこ路(ぢ)にかへり行くを送る旅人(たび)が
袖かみて荒磯浦(ありそうら)に泣(なげ)きまろぶ
夕ざれの深息(ふかいき)にしたぐへむかも。
夢の如(ごと)影消(かげき)えては胸しなえて、
あこがるゝ力(ちから)の、はた泡と失(う)せぬ。
遠々(とほどほ)き春の野邊(ぬべ)を、奇琴(くしごと)なる
やは風にさまされては、猶夢路(ゆめぢ)と
玉蜻(かぎろひ)と白う搖(ゆ)るゝおもかげをば
追(お)ふなべに、いづくよりか狹霧(さぎり)落ちて、
砂漠(すなはら)のみちことごと閉(と)ぢし如く、
小石(こいし)なす涙そでに包み難し。
しるしの木妹(いも)が門(かど)に立てなむとて
千代(ちよ)あまり聞きなれたる梭の音の
ああそれよ、生命(いのち)刻(きざ)む鋭(と)き氷斧(ひをの)か。
はなたれて行方(ゆくへ)知らぬ獵矢(さつや)のごと、
前後(まへしりへ)暗こめたる夜(よ)の虛(うつろ)に
あてもなく滅(ほろ)び去(い)なん我にかある。
新衣(にひごろも)映(はゆ)く被(かづ)き花束(はなたば)ふる
をとめらに立ちまじりて歌はむ身も、
かたくなと知らず、君が玉の腕(かひな)
この胸にまかせむとて、心たぎり、
いく百夜(もゝよ)ひとり來(き)ぬる長き路の
さてはただ終焉(をはり)に導(ひ)く綱(つな)なりしか。
呪(のろ)ひ矢(や)を暗(やみ)の鳥(とり)の黑羽(くろば)に矧(は)ぎ、
手(て)にとれど、瑠璃(るり)のひとみ我を射(ゐ)れば、
腕(うで)枯れて、强弓弦(つよゆづる)をひく手はなし。
三年(みとせ)凝(こ)るうらみの毒、羽(は)にぬれるも
かひなしや、己(おの)が魂(たま)に泌(し)みわたりて
時じくに膸(ずゐ)の水の涸(か)れうつろふ。
愛ならで、罪うかがふ女(め)の心を
きよむべき玉淸水の世にはなきを、
なにしかも、曉(あけ)の庭面(にはも)水錆(みさび)ふかき
古眞井(ふるまゐ)に身を淨(きよ)めて布(ぬの)を織(を)るか。
梭(をさ)の手をしばし代(か)へて、その白苧(しらを)に
丹雲(にぐき)なしもゆる胸の絲(いと)添へずや。
ああ願ひ、あだなりしか、錦木をば
早や千束立てつくしぬ。 あだなりしか。
朝霜の蓬(よもぎ)が葉に消え行く如、
野の水の茨(うばら)が根にかくるゝ如、
色あせし我が幻、いつの日まで
沈淪(ほろび)わく胸に住むにたへうべきぞ。
わが息(いき)は早や迫(せま)りぬ。 黑波(くろなみ)もて
魂(たま)誘(さそ)ふ大淵(おほふち)こそ、靈(れい)の海(うみ)に
みち通ふ常世(とこよ)の死(し)の平和(やはらぎ)なれ。
うらみなく、わづらひなく、今心は
さながらに大天(おほあめ)なる光と透(す)く。
さらば姬、君を待たむ天(あめ)の花路(はなぢ)。
梭の音の卷 (政子の歌)
さにずらひ機(はた)ながせる雲(くも)の影も
夕暗にかくれ行きぬ。 わがのぞみも
深黑(ふかくろ)み波しづまる淵(ふち)の底に
泥(ひぢ)の如また浮きこずほろび行きぬ。
涙川つきざる水澄(す)みわしれど、
往きにしは世のとこしへ手にかへらず。
人は云ふ、女(め)のうらみを重き石と
胸にして水底(みぞこ)踏(ふ)める男(を)の子(こ)ありと。
枯蘆(かれあし)のそよぐ歌に、葉のことごと、
我(あ)をうらみ、たえだえなす聲ぞこもれ。
見をろせば、暗這(は)ふ波ほのに透(す)きて
我(あ)をさそふ不知界(みしらぬよ)のさまも見ゆる。
眞袖(まそで)たち、身を淨めて長年月(ながとしつき)、
祈りぬる我(あ)が涙の猶足らでか、
狂ほしや、好(よ)きに導(ひ)けと賴(たの)みかけし
一條(ひとすぢ)の運命(さだめ)の糸(いと)、いま斷(た)たれつ。
來(こ)ずあれと待(ま)ちつる日ぞ早や來(きた)りぬ。
かねてより捧げし身、天(あめ)のみちに
美靈(うまだま)のあと追はむはやすかれども、
いと痛き世のおもひ出また泣かるる。
石戶(いはど)なす絆累(ほだし)かたき牢舍(ひとや)にして
とらはれの女(め)のいのち、そよ、古井(ふるゐ)に
あたたかき光知らず沈む黃金(こがね)、
かがやきも榮(さか)えも、とく錆(さび)の喰(は)みき。
鹿(しか)聞(き)くと人に供(ぐ)せし湯(ゆ)の澤路(さはみち)
秋摺(あきず)りの錦もゆるひと枝(えだ)をば
うち手折(たを)り我(あ)がかざしにさし添へつつ、
笑(ゑ)ませしも昨日(きのふ)ならず、ああ古事(ふるごと)。
半蔀(はじとみ)の明(あか)りひける狹庭(さには)の窓、
糸の目を行き交(か)ひする梭の音にも、
いひ知らず、幻湧き、胸せまりて、
うとき手は愁ひの影添ふに瘦(や)せぬ。
ほだし、(ああ魔が業(わざ)なれ。) 眼(め)を鋭(するど)く
みはり居て、我(あ)が小胸(をむね)は萎(しな)え果てき。
その響き、心を裂(さ)く梭をとりて
あてもなく泣き祈れる我(あ)は愚かや
心の目(め)内面(うちも)にのみひらける身は、
靈鳥(たまどり)の隱れ家(が)なる夢の國に
安き夜を眠りもせず、醒めつづけて、
氣の阻(はゞ)む重羽搏(おもはうち)に血(ち)は氷(こほ)りぬ。
錦木を戶にたたすと千夜(ちよ)運(はこ)びし
我(あ)が君の步(あゆ)ます音夜々(よゝ)にききつ。
その日數(ひかず)かさみ行くを此いのちの
極(きは)み知る曆(こよみ)ぞとは知らざりけれ。
戀ひつつも人のうらみ生矢(いくや)なして
雨とふる運命(さだめ)の路など崢(こゞ)しき。
なげかじとすれど、あはれ宿世(すぐせ)せまく
み年(とせ)をか辿(たど)り來しに早や涯(はて)なる。
瑞風(みづかぜ)の香り吹ける木蔭(こかげ)の夢、
黑霧(くろぎり)の夢と變(かは)り、そも滅びぬ。
絕えせざる思出にぞ解(と)き知るなる
終(つひ)の世の光、今か我(あ)がいのちよ。
玉鬘(たまかづら)かざりもせし綠(みどり)の髮
切(き)りほどき、祈(いの)り、淵(ふち)に投げ入るれば、
ひろごりて、黑綾(くろあや)なす波のおもて、
聲もなく、夜の大空風もきえぬ。
枯藻(かれも)なす我が髮いま沈み入りぬ。──
さては女(め)のうらみ生(い)きて、とはの床に
夫(せ)が胸をい捲(ま)かむとや、罪深くも。──
靑火する死の吐息ぞここに通ふ。
ひとつ星(ぼし)目もうるみて淡(あは)く照るは、
我(あ)を待つと浩蕩(おほはて)の旅さぶしむ夫(せ)か。
愛の宮天(あめ)の花の香りたえぬ
苑(その)ならで奇緣(くしゑにし)を祝(ほ)ぐ世(よ)はなし。
いざ行かむ、(君しなくば、何のいのち。)
悵(いた)み充(み)つ世の殼(から)をば高く脫(ぬ)けて、
安息(やすらぎ)に、天臺(あまうてな)に、さらばさらば、
我(あ)が夫(せ)在(ま)す花の床にしたひ行かむ。
(甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。
この詩もと前後六章、二人の死後政子の
父の述懷と、葬りの日の歌と、天上のめ
ぐり合ひの歌とを添ふべかりしが、筆を
措きしよりこゝ一歲、興會再び捉へ難き
がまゝに、乍遺憾前記三章のみをこの集
に輯む。)
[やぶちゃん注:「にしき木の卷」の第二連二行目の「生(い)くる世は朽葉なして沈みぬらし。……」の最後のリーダは薄いが明らかに打たれてあると視認出来るので入れた。但し、筑摩版全集では存在しない。「見をろせば」はママ。最後の後書は底本では全体が本文三字下げで下まで目一杯行って次行に続くが、ブラウザの不具合を考えて、早く行変えをしてある。
本詩篇群は現在の秋田県鹿角(かづの)市十和田錦木稲生田(いなおいだ)にある「錦木塚」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の「深草少将百夜(ももよ)通い」的な伝承(コンパクトにはウィキの「錦木塚」を見られたい。ただ小野小町の「百世通い」伝説は世阿弥などの能作家たちが創作したに過ぎない。本伝承も世阿弥の能「錦木」(同作については『宝生流謡曲 「錦木」』を参照されたい)によって全国区になったものであるが、先立つ能因法師の「錦木はたてなからこそ朽にけれけふの細布むねあはしとや」(「後拾遺和歌集」六五一番。前書「題不知(しらず)」)などの歌が先行しているから、元となった当該地方の民俗社会の求愛儀礼自体は遙かに古いと考えられる)に基づくものである。お勧めなのは、サイト「鹿角物語(秋田県鹿角市・小坂町)」の「錦木塚」(「けふのせばのゝ」より)、及び「錦木塚伝説」と「錦木塚物語」である。個人的にはこの置かれる錦木は男根のシンボライズであり陽物崇拝の名残のような気がする。「大館市立図書館」公式サイト内のこちらの紀行家として知られた江戸後期の博物学者にして旅行家であった菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)が記した「錦木」(PDF:解説に『全五十九丁のうち、冒頭四分の一は、盛岡藩領鹿角郡毛馬内付近をめぐった文化四年夏の日記の断片、錦木塚に関する他人の詩歌六編、錦木塚周辺の図絵からなっている。また、後部四分の三は、主に津軽地方を描いた図絵からなっている』とある)原本が視認出来るが、その絵の中に明白な陽物崇拝のそれが見える。また、個人サイトらしい「菅江真澄と歩く旅のきろく」の「錦木塚の由来(鹿角)」には現代語訳で現地の当時の伝承が記されてあるので、是非、参照されたい。
諸記載によれば、啄木は、この伝承を友人金田一京助(当時は盛岡尋常中学校の三年先輩)から聞き、母カツ(南部藩士の娘であった)の祖先が、その北直近の鹿角市毛馬内(けまない)であった啄木が興味を持ち、ここを訪れたとする。全集年譜には記載がないが、個人ブログ「啄木の息」の「秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <7>」によれば、盛岡尋常中学校四年次の明治三四(一九〇一)年七月下旬に友人らと秋田県鹿角地方へ旅行し、その際に錦木塚を訪れたとある。リンク先にも書かれてあるが、啄木はこの伝承に激しく心打たれ、翌年明治三十五年三月二十四日発行の『盛岡中學校校友會雜誌』三月号(第三号)に、
にしき木
夕雲に丹摺(いずり)ははせぬ湖(うみ)ちかき草舍(くさや)くさはら人しづかなり
甍(いらか)射る春のひかりの立ちかへり市(いち)のみ寺(てら)に小鳩むれとぶ
を、『明星』明治三七(一九〇四)年二月号に本篇の「にしき木の卷」以降三篇の初出である詩「錦木塚」(「㈠」・「㈡ 長の子の歌」・「㈢ 政子の歌」)を発表している。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらからを読むことが出来る。その末尾には『⦅未完⦆』と記した上で後書きがあり、
*
(秋田縣鹿角郡、花輪より小坂に至る途上、毛馬内の南十町許にして路傍に錦木塚あり。悲愁銷魂の傳說今に傳はりて、心ある旅人の幾世かこゝに淚を濺ぎけん。我十六才の年友とこの古跡を探りて、故老の情けに古記を抄錄し歸りける者、今猶藏して筐底にあり。この吟をなしえたる、それ或は多少の緣あるか。
此詩、五六六を一句とする新調の試作なり。識者の高誨を待つ。)
*
とある。また、本詩集刊行後の翌年の明治三九(一九〇六)年一月号『明星』にも、詩「鹿角の國を憶ふ歌」(これは明治四〇(一九〇七)年二月号『紅苜蓿(べにまごやし)』にも再録されている)を発表している(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「啄木詩集」(大正一四(一九二五)年弘文社書店刊。但し、「憶ふ」は「懷ふ」となっている。筑摩版全集で「憶」とした)に載る当該詩篇の頭のページ)。これらに見られる本悲恋伝承への尋常ならざる啄木の偏愛的執着は特異である。しかも節子との婚約という至福の折りにこうした悲恋を詩篇として詠もうする啄木というのは、内面に、現実をも浸食するようなある激しいアンビバレントな対感情を宿命的に有していたと私には考えられる。そうして、それは私にはよく判る。何故なら、私もそうだからである。
前書風の第一篇「錦木塚」は原伝承を恐らくは「伊勢物語」の文体を意識した擬古文表現で非常に上手く簡潔に纏めたものである。
「涙川」「涙川の橋」叙述に従うなら、根市(ねいち)川のこの附近に架橋していた橋と思われる。
「梭」詩篇で判る通り「をさ」と読んでいる。織機のシャトルである。
「花輪の里」錦木塚の南方の旧鹿角郡鶴田村の内。鹿角市花輪鶴田辺りから現在の鹿角花輪附近か。
「大きなる石三つ計り重ねて」現在は大きな石一つのようである。というより、先に示した菅江真澄の「錦木」でも一個の大岩であり、真澄自身が犬の伏せたような石と述べている。或いは、啄木が訪ねた折りには、誰かの手で石が重ねられていたものかも知れないが、ちょっと不審である。
「陸奧の細布」後で「細布(ほそぬの)」と普通に読んでいるが、本来は「細布」で「せばぬの」と読むべきであるようである。Takeo Wakatsuki 氏のサイト「蝦夷 陸奥 歌枕」のこちらに「希布の細布(けふのせばぬの)」として解説され、例歌も多数載る。それによれば、「狭布(せばぬの)」の『由来は陸奥の辺土の土人の庸調におこる物』で、『鹿角毛馬内の特産品』で、『けふの細布とは陸奥に出る幅狭き布也 せばければ狭布と書きてやがて声に「けふ」とよみて訓には「せばぬの」と読む也 其の声訓合わせて『けふの細(せば)布』と呼ぶ也(袖中抄)』とか、『此けふの細布と云は陸奥に鳥の毛にて織りける布也 多からぬ物にて織る布なればはたはりも狭くひろも短かければ上に着る事はなく小袖などのように下に着る也 されば背ばかり隠して胸まではかからぬ由を詠むなり(無名抄)』とあるように、『ここの布は高級品なので機織の規格より幅も狭く丈も短かめ』で、『都での人気商品だったのだろう』とされ、『平泉の藤原基衡が仏師雲慶に送った珍品のなかに』は「希婦細布二千反」とあるそうである。『希婦は狭布のことで鹿角一帯を意味して』おり、『特に毛馬内地方はその産地だったと言う』。『昔から此の辺りは横幅の狭い布を織り出して名産としていた』のであり、『鳥の羽とも兎の毛とも云われる物を織り込んでいて都で重宝された』が、『幅が短いので着物にしても両幅が胸まで届かない事から『男女の恋が成就し難い事を胸あわじとや』と詠んだので』あるとある。]
「槇原(まきばら)」杉檜の生えた草地。雨はしのげる。
「ましら雲」不詳。「ましら」は猿の異名であるから、孫悟空の觔斗雲のような孤雲のことか?
「浩蕩(おほはて)」音は「カウタウ(コウトウ)」で「広広として大きなさま」を言う。
「蒼扉(あをど)」蒼穹の換喩。
「命令(よざ)」読み不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。
「さぶる」「荒ぶ・寂ぶ」で「色が褪せる」の意。
「小角(くだ)」「おもひ出」で既出既注。
「うまし」「美(うま)し」。
「影の如(ごと)たどる步みうき近づき來(く)る」この一行は「影の如(ごと)」く――「たどる」・「步み」・「うき」・「近づき」・「來(く)る」という五つの動作の並列と読まないとおかしい。「うき」だけを形容詞「憂し」とするのは表現のリズムを壊すからである。となると、この「うき」は「浮き」で「落ち着かず」の謂いのように私は思う。大方の御叱正を俟つ。
「和胸(やはむね)」「愛の細緖(ほそを)」「繰(く)りつむぐ」「はた」「小車(をぐるま)」「陸奧の細布」の縁語や掛詞を並べて小気味よい。
「三輪(みわ)据(す)え」奈良県北部の奈良盆地南東部桜井市にある三輪山。本邦最古の神社とされる大神神社はこの三輪山を神体とするが、そうした荒ぶるあてにならぬ自然を神として崇め、祈る素朴な原始信仰形態の換喩。
「丹曾保船(にそぼふね)」万葉語を用いたが、であれば「にそほふね」と清音で読むべきであると私は思う。「そほ」は「丹(に)の土」の意で、船体を強い赤い色で塗った舟のことである。啄木は色彩の鮮やかさを狙っているだけで意識していないようだが、古代日本では丹塗りの小さな「赤ら小舟」は、しかし、死者の世界へ行く舟を意味するのである。
「野邊(ぬべ)」上代東国方言では「野」を「ぬ」と読む。
「奇琴(くしごと)なる」「やは風」で変わった琴の音のような柔らかな「風」の隠喩。
「玉蜻(かぎろひ)」陽炎(かげろう)に同じい。
「狹霧(さぎり)」霧の美称。
「時じくに」連語。時節にかかわらず。いつでも。
「膸(ずゐ)」表現上は、羽に塗ったはずの毒が沁みて潤っているはずの羽茎の膸がすっかり「涸(か)れうつろふ」てしまったの意であるが、同時に彼の「魂」にその毒が逆に沁みてしまい、魂の潤いがその毒によって変容し「涸れ」てしまったの意も重層させている。
「白苧(しらを)」「苧(からむし)」の別名。イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea。ウィキの「カラムシ」によれば、本種の『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく非常に丈夫である。績(う)ん取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで』、『網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』、六千年も前から『ヒトの手により栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部(はとりべ、はとり、服部)を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木』を列挙しているが、その『一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧』(あおそ)『座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』とある。
「丹雲(にぐき)なし」「朝日の反映する赤い東の雲を生み」の謂いであろうが、「くき」という読みは小学館「日本国語大辞典」にもない。山の洞穴を「岫(くき)」と呼び、古来、中国以来、高山のそこから雲が涌くと考えられたから、その読みを当てたか。
「沈淪(ほろび)わく」「沈淪」は「沈」も「淪」も「しずむ」の意で、「深く沈むこと」或いは「ひどく落魄(おちぶ)れること・零落」の意。そうした状態が心に充ちてしまうことを「わく」(涌く)と表現しているか。
「さにずらひ」連語で「赤く照り輝いて美しい」の意。「万葉集」に九例あり、「色」「君」「我が大君」「妹」「紐」「紅葉(もみじ)」を形容する言葉として用いられている。「つらふ」は、一説に、「移らふ」の意とする。しかし、そこでは総てが連体修飾語として用いられており、枕詞とする説もある。中古・中世には用例が殆んど見られない。しかし、近世に至って国学者達によって再び用いられるようになった。「機」られた錦のように流れている「雲」は「紐」「紅葉」の形容使用と類似はする。
「澄(す)みわしれど」「わしれど」意味不明。「走(わし)る」で、「素早く澄んだままに走り流れてはゆくけれども」の意か。
「眞袖(まそで)」左右の袖。両袖。
「たち」は「截ち」か。禊(みそぎ)のために穢れの付着しやすい袖を切ったものか。
「石戶(いはど)なす」厳重に封鎖されていることの形容。
「絆累(ほだし)」「綱」・「手枷(かせ)足枷・身動き出来ないようにするもの」・「妨げ・束縛するもの」の意。政子が機織り小屋を出られぬ呪縛を指す。
「うとき手」「愁ひ」のために利かなくなって動きが緩慢になってしまったのである。
「崢(こゞ)しき」岩がごつごつと重なって険しく。自由の身となれない政子の置かれた状況の比喩。
「い捲(ま)かむ」「い」上代の強意の接頭語。
「さぶしむ」「寂しむ」心が楽しまず物足りずいる男の霊の状態を指す。
「興會」詩篇を続いて詠ずる興趣。
「乍遺憾」「遺憾乍(なが)ら」。
「輯む」「あつむ」或いは「あむ」。]