土岐哀果 (遺稿歌文集「悲しき玩具」跋文) 附・同書奥附(画像) /「悲しき玩具」全電子化注~了
[やぶちゃん注:「悲しき玩具」の書誌については、「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。
本遺稿歌文集「悲しき玩具」の出版に尽力し、それを主導した歌人で国語学者の土岐哀果(善麿)(明治一八(一八八五)年~昭和五五(一九八〇)年)は、ウィキの「土岐善麿」によれば、『東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院、等光寺に生まれる。等光寺は美濃国の守護大名土岐頼芸の遺児・大圓が創建した寺と伝えられる』。『東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ』。『卒業の後、読売新聞記者となった』明治四三(一九一〇)年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年』、『啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの』、明治四五(一九一二)年四月十三日に啄木が死去してしまう。しかし、『啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった』大正六(一九一七)年には『東京奠都』五十『年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し』、『予算オーバーながらも大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている』。翌大正七年には朝日新聞社に転じたが、『自由主義者として非難され』、昭和一五(一九四〇)年に『退社し、戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組』んだ。戦後、『再び歌作に励み』、昭和二一(一九四六)年には『新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い』。『第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている』とある。
底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。
跋文には表題はなく、署名のみが底本では下二字上げインデントで記されてあるだけである。跋文本文は謙虚な有意なポイント落ちで、署名さえも遺稿歌文集「悲しき玩具」本文活字より心持ち小さい。ここでは総て同ポイントで示した。行頭に一字空けを施さないのはママ。]
土 岐 哀 果
石川は遂に死んだ。それは明治四十五年四月十三日の午前九時三十分であった。
その四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであった。で、すぐさま東雲堂へ行つて、やっと話がまとまつた。
石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。
しばらくして、「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいゝのだらうな、訂さなくちやならないところもある、癒つたらおれが整理する」と言つた。その聲は、かすれて聞きとりにくかつた。
「それでもいゝが、東雲堂へはすぐ渡すといつておいた」と言ふと、「さうか」と、しばらく目を閉ぢて、無言であつた。
やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとつてくれ、――その陰氣な、」とすこし上を向いた。ひどく瘦せたなアと、その時僕はおもつた。
「どのくらゐある?」と石川は節子さんに訊いた。一頁に四首つゝ五十頁あるから四五の二百首ばかりだと答へると、「どれ」と、石川は、灰色のラシヤ紙の表紙をつけた中版のノートをうけとつて、ところどころ披いたが、「さうか。では、萬事よろしくたのむ。」と言つて、それを僕に渡した。
それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし、笑ひながら語つた。
かへりがけに、石川は、襖を閉めかけた僕を「おい」と呼びとめた。立つたまま「何だい」と訊くと、「おい、これからも、たのむぞ」と言つた。
これが僕の石川に物をいはれた最後であつた。
石川は死ぬ、さうは思つてゐたが、いよいよ死んで、あとの事を僕がするとなると、實に變な氣がする。
石川について、言ふとなると、あれもこれも言はなければならない。しかし、まだあまり言ひたくない。もつと、じつとだまつて、かんがへてゐたい。實際、石川の、二十八年の一生をかんがへるには、僕の今までがあまりに貧弱に思はれてならないのである。
しかし、この歌集のことについては、も少し書いておく必要がある。
これに收めたのは、大てい雜誌や新聞に掲げたものである。しかし、こゝにはすべて「陰氣」なノートに依つた。順序、句讀、行の立て方、字を下げたところ、すべてノートのままである。たゞ最初に二首は、その後帋片[やぶちゃん注:「しへん」。紙片。]に書いてあつたのを發見したから、それを入れたのである。第九十頁に一首空けてあるが、ノートに、あすこで頁が更めてあるから、それもそのまゝにした。生きてゐたら、訂したいところもあるだらうが、今では、何とも仕やうがない。
それから、「一利己主義者と友人との對話」は創作の第九號(四十三年十一月發行)に揭げられたもの、「歌のいろいろ」は朝日歌壇を選んでゐた時、(四十三年十二月前後)東京朝日新聞に連載したものである。この二つを歌集の後へ附けることは、石川も承諾したことである。
表題は、ノートにの第一頁に「一握の砂以後明治四十三年十一月末より」と書いてあるから、それをそのまゝ表題としたいと思つたが、それだと「一握の砂」とまぎらわはしくて困ると東雲堂でいふから、これは止むをえず、感想の最後に「歌は私の悲しい玩具である」とあるのをとつてそれを表題にした。これは節子さんにも傳へておいた。あの時、何とするか訊いておけばよかつたのであるが、あの寢姿を前にして、全快後の計畫を話されてはもう、そんなことを訊けなかつた。(四十五年六月九日)
[やぶちゃん注:以下、奥附となるが、底本からトリミングして画像で示す。]
[やぶちゃん注:これを以って石川啄木遺稿歌文集「悲しき玩具」全電子化注を終わる。]
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