早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十四 猪買と狩人
十四 猪 買 と 狩 人
擊つた猪はその場で臟腑を拔く事も無いではなかつたが、一旦池や澤のほとりへ舁ぎ出したのである。今でもはつきり目に殘つて居るが、日の暮れがたにガヤガヤ話聲を前觸にして、泥まみれになつた狩人達が、屋敷の奧の窪から出て來た事がある。中には體の前半分が泥になつて、ビツコを引いた者もあつた。その中に肢[やぶちゃん注:「あし」と当て訓しておく。]をしつかり棒に結へ着けられて、逆さに吊るされた猪が、二人の狩人に舁がれて行つた。その傍を犬が元氣よく走つて居た。一ツの赤犬は、橫腹が破れて腸がすこしはみ出して居た。そら猪が通るなどゝ言うて、吾勝に驅出して見たものである。
猪の臟腑を拔いて、猪買ひの來る迄水に浸けておく場所をシヽフテと謂うた。村の籔下と言ふ家が、代々狩人で、谷底の日も碌々射さぬやうな屋敷であつた。表の端に太い柿の木が幾株もあつて、その下が澤になつてシヽフテがあつた。自分が子供の頃は、もう名稱だけだつたが、二方石垣で圍んだチヨツとした淵で、蒼く澄んだ水の底に、鰭の紅くなつたハヤが、幾つか泳いで居た。以前は日が暮れてから、 松明を點して狩人がガヤガヤやつてゐた物だと言ふ。もう五十年も前であるが、大勢の狩人がいつものやうに臟腑を拔いて居ると、犬が向ふ岸に居て、頻りに鼻を鳴らして居た。それを見た狩人の一人が、ホラと言うて、臟腑の一片を投げてやると、何時の間に來て居たのか傍の柿の枝に鷹がいて、アツという間にその一片を宙にさらつて行つた事があつた。
[やぶちゃん注:「シヽフテ」改訂本では『猪漬(ししふ)て』とある。元は「臥て・伏て」か。冷水による保存と蠅がたかって蛆が発生するのを避けるためであろう。
「鰭の紅くなつたハヤ」「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、
コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis
ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri
アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi
コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus
Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii
Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii
の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤとカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたいが、ここで早川氏は特に「鰭の紅くなつた」と言っている点を考えると、春(三月上旬から五月中旬)になると、雌雄ともに鮮やかな三本の朱色の条線を持つ独特の婚姻色を発し、婚姻色の朱色の条線から「アカウオ」「サクラウグイ」と呼ばれることもあるウグイを最有力候補に挙げたい(私は「サクラウグイ」の塩焼きが大好きだ)。実際には鰭だけではなく、側体部であるが、胸鰭・腹鰭・尻鰭も広く部分発色する部位に当たっているから問題ない。また、関東地方を始めとして、本種を指す特定地方呼称として「ハヤ」の異名が非常に広く普及しており、標準和名を凌ぐ地域さえもあるからである。
「犬」ここに出るのは山犬(オオカミ)ではなく猟師仲間の犬か野犬(のいぬ)であろう。]
その頃は冬になると、何時行つても猪の二ツ三ツは浸けてあつた。或時村の某の狩人が、珍しい巨猪を擊つて、臟腑拔き三十五貫[やぶちゃん注:百三十一・二五キログラム。]もあるのを其處に浸けて置いた。それを新城(しんしろ)の町から來た猪買ひが、えらい事をやつたのうと言ひながら、岸に踞んで、指頭で突ついて居たさうである。その内後肢を摑んだと思つたら、片手でズルズルと譯も無く提出した[やぶちゃん注:「さげだした」。]には、見て居た狩人達が孰れも魂消た[やぶちゃん注:「たまげた」。]と言うた。金槌と言ふ力士上りの男で、江戶の本場所で三段目迄取上げた、力持で評判者であつたさうだ。
その頃は、捕つた猪は其まゝ賣つてしまつて、肉を食つたり、狩人が切賣[やぶちゃん注:「きりうり」。]するやうな事は無かつた。而して獲物のあつた晚は、日待をやつて、臟腑だけ煮て食つたのである。食ふ時には、矢張諏訪明神から迎へて來た箸を使つた。前言うたシヽフテの傍の屋敷は、狩人達がよく集まる場所だつた。そこで日待ちをやつて、臟腑を煮たのである。そんな譯かして、何彼と[やぶちゃん注:「なにかと」。]人出入[やぶちゃん注:「ひとでいり」。]が多くて、何時行つても、一人や二人は屹度遊んで居たと言ふ。
[やぶちゃん注:「日待」(ひまち)は一夜を眠らずに籠り明かし、日の出を待って太陽を拝むことを指す。猪や鹿はそれ自体が種々の神の使者でもあり、その生命を自身に取り込み、その上で朝日を礼拝することで殺生した行為の血の穢れの潔斎ともなるのである。]
狩人が猪の臟腑を拔く時、第一に目ざしたのは、その膽[やぶちゃん注:「きも」。獣類の胆嚢を指す。]であつた。シヽノヰと言うて、萬病に靈能あると謂うたのである。村でも物持と言はれる程の家では、必ず購つて[やぶちゃん注:「あがなつて」或いは「かつて」。]貯へてあつた。狩人自身も持つて居た。糸で結わえて陰乾しにして置いて、小刻みに刻んで賣つたのである。然し多くは肉と一緖に、猪買ひの手に購はれて行つた。何處に需要があつたか知らぬが、時とすると肉全部よりも一個の膽の方が高く賣れたさうである。明治になつて後でも、膽が一ツ七十五錢で、肝心の猪の骸[やぶちゃん注:「むくろ」と訓じておく。]は二十五錢位にしかならぬ事もあつたと言ふ。
これは珍らしいと言はれるやうな大猪の膽であれば、物持へでも持込んで、米の三俵や五俵に代へるのは譯は無かつたと、狩人の一人は言うてゐた。今考へると、噓のやうな話である。