石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 人に捧ぐ
[やぶちゃん注:本篇については前の「杜に立ちて」の注を参照されたい。]
人 に 捧 ぐ
君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の
ねむれる曇りを射(ゐ)しより、醒(さ)め出でたる、
瑠璃羽(るりば)や、我が魂(たま)、日を夜を羽搏(はう)ちやまで、
雲渦(くもうづ)ながるる天路(てんろ)の光をこそ
導(ひ)きたる幻(まぼろし)眩(まばゆ)き愛の宮居(みやゐ)。
あこがれ淨(きよ)きを花靄(はなもや)匂(にほ)ふと見て、
二人(ふたり)し抱(いだ)けば、地(ち)の事(こと)破壞(はゑ)のあとも
追(お)ひ來(こ)し理想の影ぞとほゝゑまるる。
こし方、運命(さだめ)の氷雨(ひさめ)を凌(しの)ぎかねて、
詩歌(しいか)の小笠(をがさ)に紅(あけ)の緖(を)むすびあへず、
愁(うれ)ひの谷(たに)をしたどりて足(あ)惱(なゆ)みつれ、
峻(こゞ)しき生命(いのち)の坂路(さかぢ)も、君が愛の
炬火(たいまつ)心にたよれば、暗(くら)き空に
雲間(くもま)も星行く如くぞ安らかなる。
(癸卯十一月十八日)
*
人 に 捧 ぐ
君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の
ねむれる曇りを射しより、醒め出でたる、
瑠璃羽(るりば)や、我が魂(たま)、日を夜を羽搏(はう)ちやまで、
雲渦ながるる天路の光をこそ
導(ひ)きたる幻眩き愛の宮居。
あこがれ淨きを花靄匂ふと見て、
二人し抱(いだ)けば、地の事壞(はゑ)のあとも
追ひ來(こ)し理想の影ぞとほゝゑまるる。
こし方、運命(さだめ)の氷雨を凌ぎかねて、
詩歌の小笠(をがさ)に紅(あけ)の緖むすびあへず、
愁ひの谷をしたどりて足(あ)惱(なゆ)みつれ、
峻(こゞ)しき生命(いのち)の坂路も、君が愛の
炬火心にたよれば、暗き空に
雲間も星行く如くぞ安らかなる。
(癸卯十一月十八日)
[やぶちゃん注:本篇のみ「癸卯十一月十八日」と創作日時(「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年)がしっかりと書かれてあり、原初出形は五篇中で最後に書かれたものと推定してよい。
本篇本文は初出形(『明星』明治三七(一九〇四)年一月号(辰歳第一号))とは表題を含め、一部に大きく有意な異同がある(特に第二連は大きく書き変えられてある)ので、最後に初出形を示す。底本は筑摩版全集を参考に、初版の表記を参照して漢字を恣意的に正字化した。
*
五――人に送る
君が瞳(め)ひとたび胸なる秘鏡(ひめかゞみ)の
眠れる曇りを射しより覺(さ)め出でたる
瑠璃羽(るりば)の靈鳥(れいてう)、日を夜を羽搏ち止まで、
雲渦(くもうづ)流るゝ天路(てんろ)の光をこそ
導(ひ)きたる幻(まぼろし)映(まばゆ)き愛の宮居、
憧憬(あこがれ)淨(きよ)きを花靄(はなもや)匂ふと見て、
二人(ふたり)し抱けば、地の事(こと)破壞(はゑ)の跡(あと)も、
追ひ來し理想の影ぞとほほゑまるゝ。
詩の笠(かさ)小さく生命(いのち)の嶮(けは)しき坂、
たどすに運命(さだめ)の氷雨(ひさめ)を凌ぎかねて、
ふと我れ冷たき病の谷に落ちし。――
さはあれ、現世(このよ)の行方(ゆくかた)せまき路も
愛の火もえたる胸には、黯(くら)みし空
雲間を星行く如くに安らかなる。
*]
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