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2020/03/15

三州奇談卷之四 大乘垂ㇾ戒

 

三 州 奇 談 卷 

 

    大乘垂ㇾ戒

 東光山椙林舍(しやうじゆしや)大乘寺は、曹洞の法窟にて本朝第一の舊跡なり。代々の名師道德奇特あり。况や一夜の寫卷、白山の靈水、奇談一々かぞへ難し。此寺は眞言宗なりしを、富樫家の興立(こうりふ)にて禪寺となると云ふ。されば世々富樫一類の歸依渴仰にて大檀那なりしが、天正の一亂に終に跡絕(あとたえ)しと。今は本多家を此寺の檀那とす。されば中頃本多房州公家中何某の家に、或時ふと茶碗一つ飛廻りて步きしを、何れも不審して嚴しく箱に納めけるに、次の日より或は煙草盆忽ち空中を行き、茶釜煮えながら二尺許躍り上り、或は摺子木・摺鉢又は大根・冬瓜(とうがん)の類(たぐひ)迄踊り狂ひし程に、家内も興をさまし、一門あきれ果て、加持祈禱・陰陽・山伏を請じて、色々とすれども曾て止まず。

[やぶちゃん注:「大乘垂ㇾ戒」「大乘(だいじやう)、戒を垂(た)る」。「大乘」は通常は「大乗仏教」以外には大乗の経典、特に「法華経」を指すが、ここは大乗寺の高僧の謂いで用いているようである。

「東光山椙林舍大乘寺」現在の金沢市長坂町にある曹洞宗東香山(或いは椙樹林。古くは金獅峯)大乗寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。僧堂があり、江戸時代にはここで清規(僧侶の修行規則)が再構築され、「規矩大乗」と称された。ウィキの「大乗寺」によれば、『寺伝によれば』、弘長三(一二六三)年に『冨樫家尚』(いえひさ。こちらの富樫家系図で確認出来る。知られた政親の七代前の支系である)『が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。後、禅寺に転じ』、弘安六(一二八三)年、『曹洞宗の徹通義介を招聘して開山とした』という(開山年は別に二説がある)。乾元元(一三〇二)年、『瑩山紹瑾が』二『世住持となる』。応長元(一三一一)年、『臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継いだ。臨済僧が住持となったのは、十方住持制度(禅寺において、自派に限らず他派からも住持を選ぶ)に基づくものと考えられている』。『しかし、恭翁運良と大乗寺の間にはその後確執があったようで、彼の名は世代から除かれており』、暦応元(一三三八)年に『住持した明峰素哲が大乗寺第』三『世とされている』。『寺は』暦応三(一三四〇)年、『足利尊氏の祈願所となるが、室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり、現在の金沢市本多町に移転している』。寛文一一(一六七一)年には『中興の祖とされる月舟宗胡が住持となり、次代の』卍山道白(まんざんどうはく 寛永一三(一六三六)年~正徳五(一七一五)年)は延宝八(一六八〇)年に本大乗寺住持となっている)『とともに寺の復興に努めた。寺が現在地に移転したのは』元禄一〇(一六九七)年の『ことであり、当時の住持は、その前年に就任した明州珠心であった』とあるので、本篇執筆時は既に現在地にあった。]

 此家に尼ありしが、此大乘寺へ詣で此事を願ひ、其頃の山主卍山和尙取敢えず[やぶちゃん注:ママ。]一偈(いちげ)を書きて與へらる。

  爛冬瓜與破砂盆 一念動時跳且奔

  畢竟幻緣何足窺 但須囘頭照心源

是を壁に押けるに、此怪異長く止けるとぞ。

[やぶちゃん注:「偈」は底本では一行一字空けでベタだが、二段組とした。自然勝手流で訓読すると、

   *

 爛冬瓜(らんとうがん)と 破砂盆と

 一念 動く時 跳び且つ奔(はし)る

 畢竟 幻緣にして 何ぞ窺ふに足(た)るや

 但(ただ)須らく頭を囘らし心を照らして源(みなもと)をもとむべし

   *

か。起句は禅の公案集に認められる。]

 又、越後上杉謙信在世の頃、濃州[やぶちゃん注:国書刊行会本では『摂州』とする。]の浪人平野甚右衞門と云士、何れの時にか軍(いくさ)に出(いづ)る前日、妻に向ひて、

「我明日討死と極めたる間、汝には暇(いとま)遣はすべし」

と云ひければ、妻曰く、

「妻子に心置かれておくれもあるべきや」

と、

「武を磨き給ふは理(ことわり)ながら、今子を二人持ちて主に別れ、此世に何國(いづく)にか立忍(たちしの)ばるべきや。必定討死を思ひ給ふならば、先づ我を殺して出陣し給ふべし」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「上杉謙信在世の頃」享禄三(一五三〇)年生まれで天正六(一五七八)年没。但し、これは彼の晩年、永禄一一(一五六八)年、新将軍足利義昭から関東管領に任命され、次第に越中国へ出兵することが多くなった頃のことであろう。

 夫(をつと)嬉しく、

「さあらば二人の幼子は、越中勝興寺に師檀の由緣あれば、賴み遣すべし」

と、終に妻を刺殺(さしころ)し、偖(さて)翌日戰場へ出でけるに、其軍(いくさ)和談になりしかば、討死もならず空しく歸りけるが、其夜より妻の幽靈夢に來り、恨み云ひけるに、甚右衞門迷惑して越後を退(しりぞ)き、越中勝興寺の家中に居けるが、妻の幽靈猶來りて止まず。加州尾山の城主を賴みて居けるが、幽魂來りて惱ましける。誰彼(たれかれ)に咄しけれども、いかんともすること事なし。

[やぶちゃん注:「勝興寺」富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派雲龍山勝興寺ウィキの「勝興寺」によれば、『本尊は阿弥陀如来』。『勝興寺の起こりは』文明三(一四七一)年、『蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。その後』、明応三(一四九四)年に『蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転。火災による焼失後』、永正一四(一五一七)年、『佐渡にあった順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興、寺号を相続して「勝興寺」と称した』。永正一六(一五一九)年には『安養寺村(小矢部市末友)に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた』。『勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが』、天正九(一五八一)年、『第五代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされ』てしまった。天正一二(一五八四)年、『佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移ったこの地が現在の勝興寺である』。『佐々成政が富山の役で敗退した後も、加賀藩前田氏の庇護を受けて境内が整備された。第』十『代加賀藩主の前田治脩』(はるなが)『は、藩主を継ぐ以前の若年期に一時出家しており、ここで得度している』。『かつては報恩講の際に御示談(僧侶と門徒が教義や信心について議論・質疑応答を行うこと)が熱心に行われていたが、布教使の質の低下に伴い廃止されると、参詣者も減少の一途を辿った』とある。私は中学時代、この近くに住み、また、親友の家がここの門前にあったので、中高時代、よく遊んだ懐かしい寺である。

「尾山の城」金沢城の別称。古くは尾山御坊(金沢御堂)と言う浄土真宗の寺院があった場所であることに因む。]

 其頃、大乘寺の隱居にて大智禪師は道心の人なりし。是を賴み參じて、件(くだん)の事ども語りしに、和尙一偈を示して曰く、

  昨夜茄子踏飜去  無數蝦蟇來乞命

此語を念頃に訓戒ありしかば、甚右衞門得解して、其夜より妻の亡魂曾て出(いづ)る事なかりしとなり。

[やぶちゃん注:「大智禪師」(正応三(一二九〇)年~正平二一/貞治五(一三六七)年)は鎌倉後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧で肥後国の出身。大智祖継とも称せられるが、一般には「大智禅師」と呼ばれる。ウィキの「大智」によれば、『肥後国宇土郡長崎(現・熊本県宇城市不知火町)生まれ』で、七『歳の時』、『大慈寺の寒巌義尹に師事し、義尹の没後は鎌倉建長寺・京都法観寺・』加賀大乗寺などを『訪れている』。正和三(一三一四)年、に元に『渡り、古林清茂、雲外雲岫(うんがいうんしゅう)らに学び』、正中元(一三二四)年、『日本に帰国した後は、瑩山紹瑾の指示により明峰素哲のもとで参禅した。その後加賀国に祇陀寺を開創し、さらに肥後国に聖護寺を開創、また肥後菊池氏の帰依を受けて廣福寺を創建し、菊地氏一族に大きな精神的影響を与えた』。正平八/文和二(一三五三)年には『有馬澄世』(「すみよ」か)『の招きにより肥前国加津佐(現長崎県南島原市加津佐町)に赴き、水月山円通寺を創建』し、『同地で没した』。『大智という法名に関して、以下のような伝説が伝わっている。齢七つの萬仲』(大智の幼名)『は、肥後大慈寺の寒巌義尹に弟子に入ることとなった。相見の時に寒巌が年齢を問うた「名前はなんと申す」「萬仲と申します」「幾つになる」「齢七つになります」そこで寒巌は手元の饅頭を勧めた。饅頭を食す姿を見て寒巌は問うた。「萬仲が饅頭を食べるとは、いかなる心地か」すると萬仲は澄まして答える。「大蛇が小蛇を食らうようなものです」その答えに甚く感心した寒巌は、川(大慈寺の傍を流れる緑川)を指差して言った。「この川は川舟の往来が激しく騒がしい、この場で舟の往来をとめて見せよ」萬仲』、『座を立ち川を望む側の障子を閉』じ『て座に戻ると言った。「これで舟はとまりました」「ならば、その場を動かずにとめて見せよ」萬仲は黙って目を閉じた。七歳の智慧に甚く感心した寒巌は「なかなか知恵の回る小僧だ、出家したら小智と名乗るがよかろう」「いやでございます」「何故じゃ」「小智は菩提の障りとなります」寒巌は笑い、大智と名付けたという』とある。但し、問題がある。本話柄の時制(謙信生前)と全く合わないからである。さすれば、この話自体が後世に作られた怪談であることを自ずから確信犯でバラしているものと言える。

「昨夜茄子踏飜去  無數蝦蟇來乞命」同じく自然流で訓読すると、

   *

 昨夜の茄子(なす) 踏めば 飜へつて去り

 無數の蝦蟇(ひき) 來たつて 命を乞ふ

   *

か。禅の公案にありそうな文句ではある。

「得解」「とくかい」。「解得」に同じい。理解すると同時に体得すること。]

 其後、佐久間玄蕃(げんば)盛政此尾山城を攻めし時、廣濟寺・本源寺に下知して防ぎ戰ひしに、此平野甚右衞門殊更に勇武を振ひ、盛政が先手を三度迄追下し、花々しく戰ひて討死せしとなり。今金澤西の手御城の下り坂を甚右衞門坂と云ふは、此者戰死の場所なる故とぞ。

[やぶちゃん注:「佐久間玄蕃盛政」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は織田信長及びその嫡孫秀信の家臣。官途及び通称は玄蕃允。勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。ウィキの「佐久間盛政」によれば、『尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれ』、『「身長六尺」』(約一メートル八十二センチメートル)『とあり(『佐久間軍記』)、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える』。永禄一一(一五六八)年の「観音寺城の戦い」『(対六角承禎)で初陣』し、いろいろな戦闘に参加して『戦功を挙げた』。天正三(一五七五)年、『叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた』。『以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った』。天正四年には『加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功』し、翌五年に『越後の上杉謙信が南下してきた際には』、『信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した』。天正八(一五八〇)年、『加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた』とあり、ここに記されているのはその時のことである。

「廣濟寺」石川県金沢市扇町にある武佐山広済寺公式サイトの記載によれば、長享二(一四八八)年、』『加賀の一向一揆で冨樫政親が自刃して後、加賀門徒は本願寺に善知識(門主)下向を願い出ました』。『 これを受け、八代蓮如上人の命により、九代実如上人の弟子、祐乗坊(江州武佐廣濟寺十一代厳誓坊祐念の次男)が、文亀元』(一五〇一)年三月に『両上人の名代として加賀に派遣されたのが本寺の始めです』。『 加賀下向にあたり、祐乗坊は実如上人御真筆の「従親鸞聖人至実如上人の銘」「十七箇条制禁の御書」「御俗姓御文」と、実如上人裏書の「方便法身尊影」を授けられました』。『 加賀の本願寺門徒は、延徳』三(一四九一)年、『仏徳讃嘆のため山崎山(今の金沢城二の丸跡地)に草庵を建立し、これを「御山の御坊」と尊称しました』。『御坊には下向した祐乗が看坊(御坊を統轄する役職)として滞在し、次第に寺としての体裁が整っていきます。 金沢廣濟寺はこの祐乗を初代とします』。『それから御山御坊は相次ぐ争乱により廃絶の危機に追い込まれましたが』、天文一五(一五四六)年に『加賀における本願寺の中枢統制機関として再建されます。その際、十代証如上人より木仏本尊等を下付されました』。『祐乗坊は、法宝物を護持しつつ』、『日常の仏事と教化を取り仕切りました。そしてその法灯は、二世祐念、三世祐盛へと受け継がれました』。『「石山合戦」の最中、織田信長は柴田勝家に加賀を攻めさせました。勝家は越前から軍を進め、先陣は佐久間玄播盛政でありました』。『その時、御山の城代本多正信らと門徒数万の仲間が、身命を惜しまずに戦いました。如来より賜りたる行、南無阿弥陀仏の喚び声に順っていく心一つをたのみとし、鉄の結束を示したのです。しかし』天正八(一五八〇)年三月、『ついに御坊は陥落しました』。『御山御坊を退去した三代看坊祐盛、四代祐玄は内川郷の山中に小庵を営み、山川・別所・小原・平栗・新保等の門徒と共に本願寺の法灯を守りました』。『御坊陥落後、御坊跡には佐久間盛政が入城して「金沢城」とこれを名付けますが、わずか三年で城主が前田利家にかわります。信長亡きあと、後継問題で柴田勝家と羽柴秀吉とが激しく対立し、賤ヶ岳で両軍が激突しました。結果、柴田勝家側が敗れ、その際に甥である佐久間盛政は捕らえられ、その後』、『処刑されました。そして秀吉から加賀二郡が与えられた前田利家は金沢城へ入城し、これを「尾山城」と改名します』とある。

「本源寺」現在の、金沢市笠市町にある「本願寺金沢別院」の旧称。「金沢市」公式サイト内の同寺の山門の解説に、『本願寺金沢別院の創立には諸説ありますが、「金沢別院沿革史」によれば』、延元四(一三三九)年に第三代『覚如が加賀の国に巡錫の際、現在の金沢城本丸の位置に草庵を建立して本源寺と号し、第』二『代如信の』十三『回忌を勤めたことに始まるとされます。本源寺は加能越三州の浄土真宗根本道場として、別名「御山」と尊称され、後に本願寺の別坊(御山御坊)とされ、浄土真宗の拠点となりました』。天正八年、『佐久間盛政に攻め滅ぼされましたが、前田利家の金沢入城後の』天正一一(一五八三)年、『寺地を袋町』(現在の尾張町二丁目及び安江町)『に賜り』、『再建しました』。慶長一六(一六一一)年、第三代『藩主利常から現在の寺領を拝領して伽藍再建に着手』し、元和元(一六一五)年、本堂が完成しました』とある。

「今金澤西の手御城の下り坂を甚右衞門坂と云ふ」個人サイト「金沢の坂道」のこちらで画像と地図が見られるが、そこにも坂の標示板よりとして、『天正八年』、『佐久間盛政の攻撃をうけたとき、本願寺方の浪士、平野甚右衛門が奮戦、討死した坂なのでこの名がついた』とある。「加能郷土辞彙」の「平野甚右衞門」及び「甚右衞門坂」(ここには由来異説が並置されてある)も見られたい。]

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