早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 三 引鹿の群
三 引 鹿 の 群
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「追分の向ひの山」。]
前に言うた追分は、二十年前迄は鹿の鳴音が聞かれた。もうその頃は、何處にも聞かれなくなつたあとであつた。街道筋でこそあつたが、どちらを向いても山の陰で家數も五六しか無かつた。前を寒峽川が流れて、流れに臨んで山が押被さるやうに聳えて居た。秋の日の暮々[やぶちゃん注:「くれぐれ」。毎夕。]には、その山の峯で盛に鳴いたのである。闇を透して[やぶちゃん注:「すかして」。]キヨーと鋭く響いた時は、馴れぬ客などは、飛上る程びつくりしたさうである。曾て段戶山の山小屋に居た杣が、付近で鳴いた鹿の聲を、山犬が吠えたと感違ひして、一晚慄へ通した話があつた。最もそれは鹿が遊牝の時に限つて、稀れに唸るやうな聲をあげる、それであつたと言ふから、無理もない話であつた。鹿の聲は普通に鳴くのでも、相當の距離を置かないと、カンヨーと、妙な音には聞こえなんださうである。
[やぶちゃん注:「前に言うた追分」「一 淵に逃げこんだ鹿」に既出。現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「二十年前」本書刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治三九(一九〇六)年以前。
「鳴音」「なきね」。
「寒峽川」豊川の上流部の呼称「寒狹川」(かんさがは)の別字か。改訂本でも『寒峽川』のママである。以下も同じ。同流域の一部を「寒狭峡」と呼ぶので(寒狭峡大橋が横川の旧早川氏の実家の真ん前に架かる)、誤字とも言い難い。
「暮々」「くれぐれ」。毎夕。
「透して」「すかして」。
「段戶山」「だんどざん」。既出既注。北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。
「遊牝」前に徴すると「うかれめす」と訓じていよう。さかりのついた雌鹿。車山高原のペンション「レア・メモリー」の「ニホンジカの生態(車山高原にて)」(信州)によれば、『交尾期は9~11月で、オスジカは7.8歳で壮年期になると男盛りを誇示する雄叫びをあげ、メスシカ達に自分の存在を誇示し縄張りを主張します。「ナワバリ・オス」の登場です。この年齢期以降、体格も最大級になります。枝角も長さ・質量ともに他の非ナワバリ・オスを圧倒します』。『メスの発情は2週間ほどの周期でめぐってきます。秋は交尾の季節です。発情したメスは外陰が膨潤し粘液を分泌します。嗅覚が発達しているシカは、それで確実に発情を知ることになります』とある。私はワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問をしていたので、丹沢で何度も夜の鹿の鳴き声を聴いたが、ここに出る「遊牝の時に限つて、稀れに唸るやうな聲」というのは判らない。]
今でこそ追分の向ひの山は、杉檜が植林されて、雜木なども從つて伸び放題であるが、以前は見渡す限りの山が、悉く近鄕の草刈場で、峯に處々形の面白い松があつた外、木と言うては殆ど無かつた。冬の夜はそこで盛に山犬が吠えたものと言ふ。
入梅が明けて山の色が一段と濃くなつた頃には、朝早く其處を幾組かの引鹿(ひきじか)が通つたさうである。引鹿とは、夜の間麓近く出て餌を漁つたのが、夜明と共に山奧へ引揚げるそれを謂うたのである。恰もその頃は鹿が毛替りして、赤毛の美しい盛りであつた。それが朝露の置いた綠の草生を行つたゞけに、殊に目を惹いたのである。五ツ六ツ或は十五六も一列になつて、山の彼方此方を引いて行つた光景は、例へやうもない見事だつたと言うた。中には子鹿を連れて居るのもあつた。其等の步き振りを見て居ると、丸でビツコ(子馬)を曳くやうだつたさうである。或時など、全體どれだけ居るかと言うて、目に入るだけを數へ立てると、四十幾ツ居たと言うた。每朝の事だつたが、門に立つて全部が引揚げる迄、眺め暮したもので、中には朝日が赤く峯に映つてから、悠々引いて行くものもあつた。それが未だ昨日の事のやうだと、老人の一人は語つて居た。
[やぶちゃん注:「ビツコ(子馬)」「跛(びっこ)」ではなく、「子馬(びっこ)」の方言である。小学館「日本国語大辞典」に子馬の方言として北設楽郡振草が採集地の一つに挙げられてある。]
寒中風のヒユーヒユー吹捲る日に、峯から三ツの獵犬に追はれて、崩れるやうにタワを降つて來て、川の中へ飛込んで、犬と鹿と四ツが眞黑になつて、互に縺れ合つて居るのに、後を追つて來た狩人達も、鐵砲を向けたまゝ放す事が出來なくて、ぼんやり立つて居た事もあつた。さうかと思ふと、まだ日のある内に、山犬に追はれて岩の上を走る鹿を、畑に耕作しながら、見た事もあつたと言ふ。
[やぶちゃん注:「タワ」既出既注。方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。]
もう五十年も前になるが、中根某が或日前の寒峽川の川原から、山犬が喰餘して砂原に埋めて置いた鹿を拾つてきた。近所隣へも振舞つて、自分も煮て喰つた處が、その晚遲くなつてから、門口ヘ山犬が來て、恐ろしく吠立てたさうである。某はそれに驚いて、家の中から散々佗びたさうであるが、その聲が軒を隔てた隣家迄聞えたと言ふ。翌朝起きる早々に鹽を 桝に入れて、 昨夜(ゆんべ)は辛い目に遇つたと言ひ言ひ、前の河原へ置きに行つたと言うた。山犬の獲物を取つて來る時は、引換に鹽を置くものとは、一般に言はれて居た事である。
その家は、街道筋の牛方相手の宿だつた。今でも牛宿と呼んで殘つてゐる。
[やぶちゃん注:「鹽」内陸の大型獣類が不足する塩を好むことは生態学的にも正しい。
「牛方」「うしかた」。牛を使って物を運ぶのを生業とする運送業者。
「牛宿」不詳。屋号であろうか。]
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