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2020/03/06

三州奇談卷之三 空聲送ㇾ人

    空聲送ㇾ人

 篠原勘解由(かげゆ)の與力に安藤庄太夫と云ふ者ありき。常に殺生を好みしが、

「鵜飼・網・罠のうち釣の一筋こそ面白けれ。萬事無心一釣竿」

と「釣臺(てうだい)の吟」を唱へて、犀川の上、内川(うちかは)と云ふに竿を友として終日心を慰みけるに、日も西に傾く頃、後の山手より名をさして呼ぶ者あり。應答して邊りを見るに更に人なし。不審に思ひしかども、暮かゝる儘に、早く竿を揚げて立歸る。

[やぶちゃん注:表題は「空聲(くうせい)人を送る」。

「篠原勘解由」不詳。篠原姓は加賀藩士には複数認められる。

「安藤庄太夫」不詳。藩士に安藤姓は数名認められる。

「萬事無心一釣竿」「釣臺の吟」南宋の詩人戴(たい)復古(一一六七年~一二四八年:浙江省出身。若い頃に陸游の門に入り、生涯仕官せず、放浪して清廉な生涯を送った)の七絶「釣臺」の起句。個人ブログ「日々是好日」のこちらによれば、後漢の隠者厳子陵(本名・厳光 紀元前三九年~紀元後四一年)と光武帝劉文叔(紀元前六年~紀元後五七年:後漢王朝初代皇帝)との交わりに関して、『子陵が朝廷に仕官したことがまことに惜しいと』詠じたものとする。以下の同詩篇は中文サイトでの比較と諸論文から転句の頭を決定した。流布されているものは「當初」ではなく「平生」で、他に中文サイトでは「平山」っとするものも多くある。訓読の自然流で示した。

   *

   釣臺

 萬事無心一釣竿

 三公不換此江山

 當初誤識劉文叔

 惹起虛名滿世間

    釣臺

  萬事 無心なり 一釣の竿(かん)

  三公にも換へず 此の江山

  當初 誤る 劉文叔を識り

  虛名を惹起し 世間に滿たしむるを

   *

ウィキの「厳光」によれば、『会稽郡余姚県(浙江省余姚市)の出身。若くして才名あり、のちの光武帝となる劉秀と同門に学ぶ。劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を惜しみ行方を捜させたところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、長安に召し出された。宮中の作法に詳しい司徒の侯覇が厳光と親しかったが、厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけだった。それどころか』、『自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、光が帝の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日』、『大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、帝は「故旧とともに臥したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたが』、『これを断って』、『富春山(浙江省富陽県)で農耕をして暮らし、その地で没』した。『光武帝はその死を悲しみ、厳光が亡くなった郡県に詔して銭百万と穀千斛を賜った』という。『厳光が釣りをしていた場所(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。北宋の政治家・范仲淹は厳光の祠堂を修復し、「厳先生祠堂記」を撰写しその中で「雲山蒼蒼、江水泱泱。先生之風、山高水長」と厳光の高尚な気風を賞賛した』が、『一方、清代初期の王船山は『読通鑑論』で厳光を評し、「厳光が光武帝に仕えなかったのは、沮溺・丈人(『論語』に登場する隠者たち)に比べて度量が狭い。後者二人はその時代に道が行われないことを知り、やむを得ず君臣の義を廃したのである。光武帝は王莽の乱をおさめ漢の正統を継ぎ、礼楽を修め古典に則る人だった。帝の教化が十分でないとすれば、それこそ賢者が道を以て帝を助けるべきではないか。なぜ厳光は、はやばやと天下を見捨ててしまったのか」と怪しんでいる』とある。「沮溺」は長沮と桀溺で丈人(杖人とともに「論語」に出る孔子を暗に批判する道家的人物である。

「三公」は中国で天子を補佐する三人の最高官を指す。

「内川」金沢市の無住地区である菊水町(グーグル・マップ・データ)で東谷川と西ノ谷川が合流して内川となる。現在の内川ダムより下流域の中戸町・山川町境で犀川と合流する。

「後の山手」思うに倉ヶ嶽の山塊であろう。]

 やゝ灰塚の邊(あたり)に至りし頃は日は早暮れてそことも見えぬに、爰(ここ)は名にあふ怪異の所にて、無常の煙凄々(せいせい)とし、臭穢(しうゑ)云ふ許なく、狼犬(らうけん)常に墓を穿ち爭ふ聲かまびすし。殊に小雨も降出でしかば、燐火四方に燃えて、見るに凄く、毛孔寒かりしに、折節耳元にて大音に

「庄太夫」

と呼ばる故、

『扨は魔魅の業』

と思ひ、押だまりて行き過ぐるに、跡よりまた物呼懸け呼懸けしける。小立野篠原氏下屋敷迄、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『凡(およそ)三里』と入る。]、須臾(しゆゆ)も呼び止むことなし。

 既に居宅の戶に入らんとせし時、虛空よりしたゝかに水を懸けたり。驚き見るに、偏身一絞(ひとしぼり)に濡れぬ。家に入りて後には何の怪事もなし。

[やぶちゃん注:「灰塚」現在の金沢市小立野及び宝町附近。「灰塚」という呼称は江戸前期に藩主前田家の関係者を荼毘に付した場所であったことに由来する。措定した倉ヶ嶽の北東麓付近から現在の小立野までは国書刊行会本の通り、実測で十二キロメートルほどある。]

 是を「妖籟(えうらい)」と云ふにや。又「應籟」あり。

[やぶちゃん注:「籟」は普通は「風が物にあたって発する音」或いは「響き・声」の意。]

 生駒内膳の家士三島半左衞門と云ふ者あり。性質偏屈にて癖多し。夫(それ)が中に謠(うたひ)を好み、是には寢食をも忘れ、又怪談奇談を嫌ふこと、我(われ)云はざるのみならず、他に若(も)し語る者あれば打破ること甚し。元來辨才矯舌(けうぜつ)にて、理(ことわり)を非(ひ)に論ずるなり。左(さ)あれば云ひ出す者、終に閉口して過ぎぬ。

 或夜更けて長町坂井甚右衞門が邊りを通りしに、例の好(このむ)事なれば、心にうかび出づるまゝに、「三井寺」の曲舞(くせまひ)を謠(うたひ)出(いだ)すに、言外に壁の中より助言して付けて謠ふ。

 怪しく思ひて「松風」に替ふるに、又々同じ。

 色々試むるに先きの如し。とかく思ひなしには非ず。

 長途如ㇾ此(かくのごとく)にして、謠來(うたひきた)ること先の如し。終に生駒家の門内に入りて止む。

 其後半左衞門も共に怪異を語る者とは成(なり)ぬ。是(これ)『妖怪もよく謠を覺えたる』と感じてやありけん。

[やぶちゃん注:「生駒内膳」「加能郷土辞彙」に生駒氏が複数載るが、そのうち、「内膳」を称した本諸篇の多くの時期に合致すると思われる人物としては生駒直武がいる。

「三島半左衞門」不詳。藩士に三島姓は複数いる。

「打破る」激しく反論して打ち負かす。怪奇を十把一絡げにして無理矢理、全否定する(「理を非に論ずる」=一貫して論理的に正当であるものをさえ巧妙な反論をして否定する)のであろう。

「辨才」「能弁」に同じい。議論で人を巧みに説き伏せる才能。また、口先で誤魔化す才能の意もある。

「矯舌」「矯」には「曲がったものを正しく直す」以外に「無理に曲げる・偽る」の他、「強い・激しい」の意があるから、後の二者の意であろう。

「長町」金沢市長町。地図で判る通り、往時の武家屋敷町であった。

「坂井甚右衞門」「石川県立図書館」公式サイト内のこちらで、「加賀藩史料」の「護国公年譜」に同名の人物を確認出来る。

「三井寺」作者不詳(世阿弥の作とも伝えられる)の狂女物の名作。作者未詳。我が子千満を人買いにさらわれた母が清水の観音に参ると、「三井寺へ行け」という夢のお告げを受ける。夢占(ゆめうら)の男の判断も吉と出たため、喜んで近江に向う。三井寺では住僧たちが稚児を連れて十五夜の月見をしている。そこへ物狂いとなった母が現われ、僧たちの制止もきかずに鐘を撞いて戯れた後、清澄な琵琶湖の夜景を眺めて時を過ごす。やがて母は月見の席の稚児が我が子と知り、母子は連れ立って故郷へ帰っていくという構成。「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のこちらが章詞も総て載っていてよい。その「曲舞」部分は(リンク先には誤字があるので、所持する「新潮日本古典集成」本を参考に、恣意的に正字化して示す)、

   *

〔クセ〕〽山寺の 春の夕暮れ來てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける げに惜めども など夢の春と暮れぬらん そのほか曉の 妹背(いもせ)を惜しむきぬぎぬの 恨みを添ふる行くへにも 枕の鐘や響くらん また待つ宵に 更け行く鐘の聲聞けば あかぬ別かれの鳥(とり)は 物かはと詠ぜしも 戀路の便りの音信(おとづれ)の聲と聞くものを 又は老いらくの 寢覺程經(ほどふ)ふるいにしへを 今思ひ寢の夢だにも 淚心(なみだごころ)のさびしさに 此鐘のつくづくと 思ひを盡す曉をいつの時にか比べまし シテ〽 月落ち鳥(とり)鳴いて 〽霜(しも)天に滿ちてすさましく 江村の漁火もほのかに 半夜の鐘の響は 客(かく)の船にや通ふらん 蓬窓(はうさう)雨滴(しただ)りて なれし汐路の楫枕(かぢまくら) うきねぞ變はるこの海は 波風も靜かにて 秋の夜すがら 月澄む 三井寺の鐘ぞさやけき

   *

である。

「松風」世阿弥作(但し、観阿弥の古作能「汐汲(しおくみ)」の翻案物)の謡曲でも知られた名品。旅僧が須磨の浦で在原行平の愛人であった松風・村雨という二人の海女の亡霊に逢い、特に松風の霊が恋慕のあまり、狂おしくなって、形見の衣装を着けて舞うと思うと、夢がさめ、ただ松籟ばかりがしていたという構成。世阿弥自身が会心の作としていた曲である。同じく「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のそれをリンクさせておく。

「『妖怪もよく謠を覺えたる』と感じてやありけん」「『頭ごなしに非在としてきた妖怪の中にも、いろいろな謡いを、よくもまあ、ちゃんと覚えているものが実在したものだわい』と半左衛門が感心した結果ででもあろうか」の意。]

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