早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十二 昔の狩人
十二 昔 の 狩 人
猪の話に直接關係は無かつたが、狩人の話の次手に、珍しくもない昔話を一ツ附加へる。
或時、或所で一人者の狩人が、夜業に爐邊で翌日使う鐵砲丸[やぶちゃん注:「てつぱうだま」。]を、茶釜の蓋でせつせと丸めて居た。すると向ひの爐緣に飼猫がチヤンと座つて、昵と[やぶちゃん注:「ぢつと」。]手附を見て居る。丸(たま)が一ツ出來上がつて脇に置く度、前肢を上げて耳の後から前へ一回越させた。翌朝は早く起きて、狩に行かうとして爐の茶釜の下を焚きつけたが、不思議な事に前夜使つた筈の茶釜の蓋がどうしても見付からない。しかもその朝にかぎつて飼猫の姿が見え中つた。狩人はそのまゝ支度して未だ暗い内に家を出た。段々山へは入つて行くと、行手の岩の上にある松の大木から、何やら怪しい光がする。早速丸(たま)込めして一發狙つて放したが、一向手應へが無い。次から次へいくら擊つても手應へがなくて、たうとう有りつたけの丸を使つて、最後の一發を放してしまふと、其時、初めて何やらチヤリンと金物の落ちた音がした。怪しい光物は未だあるので、今度は別に取つて置の丸を取出して擊つと、初めて手應があつた。そこで岩の下へ行つて見ると、猫が頭を擊拔かれて斃れてゐた。よくよく見ると朝方見えなかつた飼猫であつた。而も傍には茶釜の蓋が轉がつて居た。猫が茶釜の蓋を持出したのである。そして前夜作つた丸だけは防いで、もう用はないと、蓋を捨てた處を一方狩人は別の彈で擊つたのである。別に黃金の丸で擊つた話もある。實は何でもない化猫の話であるが、只自分が此話に興味があるのは、話にもある通り、自分等の記憶にある頃にも、狩人の中には、茶釜の蓋で、鐵砲丸を慥へて[やぶちゃん注:「こしらへて」。]ゐた者が未だあつた。型に流しこんだ鉛を短く切つて、それを木の根株などで慥へた頑固な臺の上で、茶釜の蓋で壓へながら、ゴロゴロ丸藥でも造るやうにやつて居た。遂ひ[やぶちゃん注:「つひ」。]近所の家の主人が、それをよくやつて居た。元込の舊式な火繩銃を持つて居た。先代からの狩人で、若い頃には背戶の山で猪を擊つた事もあつたと言うた。滅多に狩りに出かけるやうな事は無かつたが、只鑑札だけは每年受けて置くとも言うた。平素は農業熱心で、遊ぶ事が何より嫌ひだと言うた程の男であつた。それがどうかすると、ブラリと鐵砲を舁いで山へ出掛けたのである。さうして一日山を步いて來れば氣が濟んださうである。
[やぶちゃん注:「背戶の山」「せどのやま」。一般名詞。家の裏手の山。]
此男などのやつて居た服裝が、矢張昔の狩人そのまゝであつた。鹿皮のタツヽケ[やぶちゃん注:既出既注。]を穿き、背に木綿のイヂコ袋を負つて、腰に昔風の山刀を帶んで居た。遉がにもう藁の舟底などは被らなんだが、火繩は持つて居た。他の專門の狩人は服裝なども段々新しくなつて行つたが、年に一度か二度しか出ぬ爲めに、昔のまゝの物が、そつくり無事で居たのである。その爲めに、そんな大時代の風をして狩りにも出たのである。實は狩りとは言ひ條氣晴らしに行つたのだから、道具など何でも構はなかつた點もある。
自分の家などにも、火繩銃が一挺あつて、別に粗末な鞘に納めた山刀も一振あつた。矢張祖父の代迄は、時として氣晴しに山へ行く事もあつたさうである。
[やぶちゃん注:「タツヽケ」複数回既出既注。「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。これを以って注さないので覚えて頂きたい。
「イヂコ袋」狩人の狩の用具や割子(わりご:弁当箱)などを入れて背に負う袋の三河地方での呼称。古くは藤布製であったが、後に木綿で製するものが多くなったと、「参遠山村手記」(PDF)の「ニンダラ」にあった。小学館「日本国語大辞典」の「いちこ」を方言として『物を入れて背負うかごの一種』とあり、採集地を長野県松本とする一方、「いじこ」を見ると方言で『わらで編んだもっこ』として採集地を静岡県阿部郡・愛知県東加茂郡・滋賀県神崎郡とする。また語源説として『イヅメ(飯詰)の転イヂメに籠の意のコが付いて「イヂメコとなり、略されてイヂコとなった』(楳垣実「嫁が君 語源随筆」一九六一年東京堂刊)とするものを載せる。
「山刀」「やまがたな」。
「帶んで」「はさんで」或いは「たばさんで」と読んでおく。
「遉がに」「さすがに」。複数回既出既注。これもこれを以って注さないので覚えて頂きたい。
「藁の舟底」先の尖った藁製の帽子というか顔面を除く頭部を覆うもの。実際、外したものを逆にして横から見ると舟形をしている。現在は「マタギ帽子」の名でオークション・サイトで見掛ける。
「言ひ條」(いひでふ)は「言いながらも」の意。この場合の「条」は名詞の逆接の接続詞的な用法で「~であるものの、……。~であっても、……」の意となる。この言い方は通常は「~とは言い条(じょう)……」の形で使用される。]