早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 一 狸の怪
[やぶちゃん注:上記画像は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像からトリミング・補正して示した。]
狸
一 狸 の 怪
狸と云ふ奴は、たしかに變な奴だと、始終狸を捕つて居る男が話した事があつた。未だ五年とたたぬ新しい話である。村の池代[やぶちゃん注:「いけしろ」。]の山で穴を見付けて、仲間と二人で掘つたさうである。いよいよ奧まで掘つてしまつて、枯葉を敷きつめた寢床迄掘り詰めたが、狸の姿は薩張り見えぬ。こんな筈はない、たしかに居る筈だが、何處か拔穴でもあるのぢやないかと、掌で撫でるやうにして探したが、拔穴も無ければ狸も居らぬ。それにもう一面の岩が出てしまつて、これ以上掘つてゆく先もない。然し深い橫穴で、中が暗くて仕方がない、蠟燭でも點して見たらと、わざわざ一人が里へ出て取つて來て、中を隈なく探したが、どうしても居らなんだ。穴の口の樣子では、二疋や三疋は間違ない筈だが、それでは今日は穴の口に圍ひをして置いて、明日も一度來て見ようと圍ひの支度にかゝつた處へ、丁度見物に來た男があつた。そこで其迄の經過を話して見たところ、其男の言ふには、昔から狸は燻せば[やぶちゃん注:「いぶせば」。]出ると言ふから、試しに燻し立てゝ見たらどんな物かと言ふ。何だか當にならぬやうにも思つたが、他に好い方法も無いので、其に決めた。枯葉を搔集めて、上に杉の靑葉を載せて、煙をドンドン穴の奧へ煽り込んでやつた。一方、拔穴でもあつて、煙の出る道でもあるかと、一人が見張つて居た。すると物の二分間も經たぬのに、ヒヨツコリ煙の中から狸が飛出して來たさうである。直ぐ用意の刺股[やぶちゃん注:「さすまた」。]で押へつけて摑まえてしまつたが、只不思議でならぬのは、それ迄狸が果して何處に隱れて居たか、いくら考へても判らぬと言ふのである。
[やぶちゃん注:「池代の山」読みは改訂版に従った。サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」の先行する「三州橫山話」の早川氏の手書きの「橫山略圖」(PDF)を見ると、右中央に『字池代』とあり、現在も新城市横川池代(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。この域内のピークと考えてよかろう。早川氏の実家のあった位置の南東にも近く、「わざわざ一人が里へ出て取つて來」る範囲内と言える。]
同じ男の話であるが、その前、別の山で狸を掘つた時の事ださうである。凡そ六分通りも掘つたと思ふ時分、もう一疋飛出して來た。直ぐ持つて居る鍬で撲りつけると、コロリと死んださうである。そこで肢を縛つて、傍の木の枝に吊して置いた。未だ二疋や三疋はたしかに居ると、更に穴を掘りに掛つたさうである。其時穴を掘りながら傍に吊してある狸を見ると、何だか繩が切れさうで、危なつかしくて仕方がない。そこで相手の男を顧みて繩を代へてくれと言ふと、よしと答へて直ぐ狸を下して繩を解いたさうである。その時代りの繩を取つてくれと言ふので一人が鍬の手を休めて、脇に置いてあつた繩束を投げてやつた。それを相手が手を伸べて受止める、其瞬間だつたさうである。繩を受取る爲ヒヨイと手を伸した隙に、死んで居た筈の狸がムツクリ起上るが否や、手の下を搔潜つて飛び出した。ソレツと慌てて追掛けたが、もう間に合はなんだと言ふ。狸はもう何處ともなく逃げてしまつた。何にしてもホンのちよつとの隙で諦められなんだと言ふ。隨分ひどく撲つてたしかに死んだと思つたが、やはり噓死[やぶちゃん注:「うそじに」。]にだつた。それにしても吊してある繩が氣になつたのが、そもそも恠しかつたと不思議がつて居た。
死眞似か氣絕か、狸にはよくある事ださうである。
[やぶちゃん注:ここに出た「噓死」=「狸寝入り」を含めて狸(食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides。本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である。)の博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」を参照されたい。]
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