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2020/03/13

三州奇談卷之三 儒生逢ㇾ妖

 

    儒生逢ㇾ妖

 彥三郞高崎氏の妾(めかけ)は、柳町日住屋(ひすみや)五右衞門と云ふ魚を商ふ者の娘なり。賤しきも色によりて用ひられ、女子一人を生(しやう)ず。兼ては内室の約も有しかども、世は增花(ますはな)の咲かぬにも非ず。詞咎めを云立て、離別して出入も留められぬ。

[やぶちゃん注:「柳町」金沢市柳町(やなぎまち)か(グーグル・マップ・データ)。現在の金沢駅の南直近部分。

「增花の咲かぬにも非ず」不詳。「今にも咲こうとしている花が咲かぬということはない」、正室の妻の嫉妬心が生じないわけがない、の謂いか?

「詞咎めを云立て」妾の女のちょっとした言葉尻りを取り立てて批難して。]

 此女(をんな)主(あるじ)を恨む心甚しく、一室に取籠り、外の奉公も求めざりしが、寶曆三年[やぶちゃん注:一七五三年。]五月十八日頃よりして白山の神社へ參詣せしが、けふは人の多く詣で來るなれば、彼女も拜殿にぬかづき、何やらん祈誓久しくして、既に日もたけ各(おのおの)下向すれども、彼女は起(おき)も上らず打臥したり。

[やぶちゃん注:「白山の神社」国書刊行会本では『五月十六日、歩(かち)よりして』とあり、後で鶴来の地名が出ることから、石川県白山市三宮町にある加賀国一宮にして全国に二千社以上ある白山神社の総本社である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)(グーグル・マップ・データ)ではないかと推測する。公式サイトを見ると、現在の四月六日に鎮花祭(はなしずめのまつり)があり、『古くから花が咲く春先に疫病が流行すると信じられていたことに由来しています。神前に神饌(しんせん)と共に桜の花を供え、疫病の神を鎮めて無病息災を祈願します。「ちんかさい」ともいわれます』とあり、現在の五月六日には、一年の中で一番大きな例大祭があり、氏子・崇敬者の安寧を祈るという。これは『古くは国司も参列した由緒ある祭事で、菅原道真ゆかりの神饌(しんせん)「梅枝餅(うめがえもち)」が供えられ、舞女による「浦安の舞」が奉奏されます』とある。本篇は旧暦の記載で、日付もズレているので孰れとも限定し難い。]

 禰宜ども來りて、呼起せど答へず。

 氣絕の體(てい)なれば、皆々驚き抱き起すに、懷中より紙にきざめる人形と、三寸許りの針と鐡槌と

「ばらり」

と落ちたり。

 神主共、甚だ怒りて、

「此女、神木を穢さんとの惡心故、神罰疑ひなし」

と云ひて、拜殿より蹴落しけるが、忽(たちまち)正氣付きて

「すつく」

と立つに、其形容醜色うはなりの面に似たり。誠に神罰愚人をこらしめ給ふと聞きしもむべなり。

[やぶちゃん注:「うはなりの面」歌舞伎十八番の一つである「嫐」(うわなり)の鬼女の面のことであろう。本外題は「後妻打(うはなりう)ち」(本妻が後妻 (うわなり) を嫉妬して打ちたたくこと)を素材としたものである。内容はウィキの「嫐」を見られたい。但し、同外題の具体的展開と本篇は一致するものではない。]

 參詣の人々來り集り、是を指さし笑ふ。

 其中に安江町縫屋(ぬひや)五右衞門と云ふ者は、聊(いささか)見知りたる故不便(ふびん)に思ひ、先づ鶴來迄伴ひ來り、駕籠を雇ひ、女を乘せ連歸りけるに、家に歸り爾々(しかじか)の由云ひて駕籠より出(いだ)すに、女は早や駕の中にて舌を喰ひ切り死して居たりし。

[やぶちゃん注:「安江町」金沢市安江町(やすえちょう)(グーグル・マップ・データ)。]

 然共(しかれども)、此事沙汰なしにて、手次の御坊門徒宗光敎寺なれば、遺骸を送りて土中に埋む。

[やぶちゃん注:「此事沙汰なしにて」自死は変死であるから、本来は届け出て、藩の検分を受けるところだが、恐らくは肝煎などが相談の上、病死扱いにして旦那寺へ送ったのであろう。

「手次の御坊」「手次」は「手次ぎ寺(でら)」で、浄土真宗(=「門徒宗」)で信徒が檀家として所属している寺院をいう語。本山と檀家との中間にあって信仰に関する取り次ぎをする寺の謂い。

「光敎寺」石川県金沢市笠市町にある浄土真宗の寺(グーグル・マップ・データ)。]

 此光敎寺の後(うしろ)は佐々木何某の宅地なるが、光敎寺へ云ひ來りしは、

「此頃、貴寺の卵塔より、暮るれば狐火出で、我宅をよぎり、乾(いぬゐ)をさして飛行くこと每夜なり。試み給へ」

と告げ來(きた)る。

[やぶちゃん注:「卵塔」この場合は卵塔場で墓地のこと。

「乾」北西。彼女実家の柳町がまさにその方向に当たるが、ここは「彥三郞高崎氏」の家の方向でなくては話がおかしい。それを冒頭で出さなかったのは、筆者の不覚であった。取り敢えず、柳町近くであると仮定して問題はない。]

 光敎寺にも下々のひそひそと云ふに、兼て心得ず、

『今宵は試し見ん』

と思はれしに、其頃儒學に名ある浪人の林孫太郞と云ふ人來り、光敎寺に向ひて云けるは、

「我昨日内藤氏へ招かれて、講席終りて夜半の頃宅へ歸る道の傍なる明屋敷に[やぶちゃん注:国書刊行会本は『やなぎに』。]、白き物を着したる女彳(たたず)み居たり。深夜にいぶかしく、

『何者ぞ』

と頻りに問ひければ、やゝ幽(かすか)に答へて、

『我は此邊りに恨みある武家ありて、每夜來りて窺へども、我愛する所の小兒ありて其懷にいねたり。是をいかんともすることなくて、斯くは彳み侍るなり。赦し給へ』

と云ふ。怪しく思ふて跡をつきしたへば、彼者呻吟の聲して、

『我を弔ふ者なし』

と云ふが如し。終に貴寺の門に入りて失せぬ。必(かならず)幽魂と云ふべきものなり。我儒門に遊びて浮圖(ふと)[やぶちゃん注:仏教。]を信ぜず。然かもまのあたりかゝる事あり。我、頻りに追福の志あり」

とて、金一封を出(いだ)し布施とす。

 住持も佐々木氏の告(つげ)を語り、

「今宵試みん」

とてためさるゝに、新しき塚より丸(まろ)き火の光り物出で、乾に飛急ぎ、其塚を改むるに、木新保(しんぼ)五右衞門が塚なり。則ち呼寄せて、先頃葬りし死人(しびと)の事を尋ねらるゝに、靈火のふしぎ抔(など)を聞きて、五右衞門は淚を流し、此娘が始終を語り、懺悔(さんげ)せしに、林孫太郞大に驚嘆し、住寺に向ひて、

「我學ぶ所の儒門は、人死して大虛[やぶちゃん注:虚空。宇宙。]に歸すといへども、目前迷魂にあふこと、かの釋氏[やぶちゃん注:釈迦。]の說所謂(いはれ)あるに似たり。抑(そもそも)幽靈とはいかなる物ぞ。」

僧曰く、

「其歸すべき物の理(ことわり)を名付けて、阿賴耶(あらや)の識(しき)と云ふ。然共、身躰具足の上に於ては、心意性情と樣々に品替り、是に只念の妙用備りて、終に萬物の靈たり。始め母胎に宿る時の羯刺藍(かららん)は愛瞋(あいしん)の思念止む時なし。されば阿賴耶の識は、是に惱まさるゝを煩惱といへり。而して婬愛貪恚(いんあいどんい)の業(ごふ)盛んになる。阿賴耶已に骸(むくろ)を去る時、六欲に纏りて支體(したい)なけれども、執念暫く彷彿たり。魂と云ひ魄と云ふは、中有(ちゆうう)の健達博是なり。此魂魄緣に依りて、人に見ゆる物を幽靈と云へり。緣に因りて法事を修せば、惠力(ゑりき)に依りて解脫せんこと又疑ひなし」

と云(いは)れしに、孫太郞感服して、終に釋敎の門に入り、其後は儒講の折々にも、眞諦(しんたい)を說きて佛意を用ひられし。

 然して後(のち)彼(かの)女が跡も念頃に弔らはれしに、塚の火も自(おのづか)ら消えて、高崎の家にも何の障(さはり)もなかりしは、女が佛果疑ひなしとこそ覺えけれ。

[やぶちゃん注:「阿賴耶(あらや)の識(しき)」「阿頼耶」は「拠り所」の意で「蔵」とも訳される。仏教の唯識説に言う第八番目の識。識とは純粋の精神作用をいう。総ての存在は元来実体のないもので、「空」であるが、万有は「識」の顕現したものにほかならないとする唯識説では、思量の働きをする末那識 (まなしき) が、万有を生じる可能力から成る阿頼耶識を対象として我執を起こすとする。阿頼耶識は万有を成立せしめる可能力を備えているので、種子識 (しゅうじしき) とも称する。これが本来、清浄なものか不浄なものかは、いろいろ議論されていきた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ウィキの「阿頼耶識」には『大乗仏教の瑜伽行』(ゆがぎょう)『派独自の概念であ』るとある。神道の死生観ではこれを盗んで説明しているようなことを、昔、神道科の知人の説明で感じたことあある。

「羯刺藍(かららん)」「かつららん」「こんららん」などとも読む。サンスクリット語「カララ」の漢音写で「歌羅羅」「羯羅藍」とも書き、「凝滑」「雑穢(ぞうえ)」と漢訳する。受胎直後の七日間を謂う語。

「愛瞋(あいしん)」愛着することと、瞋(いか)ること。

「婬愛貪恚(いんあいどんい)」「婬愛」は性欲と愛執。「貪恚」は貪欲 (とんよく) と瞋恚 (しんに:怒り)。

「六欲」六根(眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意)によって生じる欲望の内、特に異性に対して持つ欲。色欲・形貌 (ぎょうみょう) 欲・威儀姿態欲・語言音声欲・細滑(肌のなめらかさ)欲・人相欲。

「支體(したい)」手足と体(からだ)。

「中有(ちゆうう)」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「健達博」「けんだつば」であるが、これは恐らく「健達縛」の誤字である。「乾闥婆」とも書く。前の中有と同義。

「眞諦(しんたい)」仏教に於ける絶対究極の第一原理。真理。]

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