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2020/03/27

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十 十二歲の初狩

 

     十 十 二 歲 の 初 狩

 鳳來寺山行者越(ぎやうじやごえ)の一ツ家に、五十幾年の狩人生活を送つて、名代のがむしやら者などと言はれた丸山某は現に生きて居る。行者越は鳳來寺の裏道で、以前は鳳來寺から遠江の秋葉山への道者路に當つて居た。昔、役の小角が開いたと言ふ傳說の地で、或は小角が此處より登る事能はず、引返した跡とも言うて、別に行者返りの名もあつた。鳳來寺へ一里、麓の湯谷(ゆや)へ一里、文字通りの一ツ家であつた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村行者越」この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「秋葉山」(静岡県浜松市天竜区春野町宮川の秋葉山(あきはさん)(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。標高八百六十六メートル)。中世以降の修験道の霊場で天狗信仰の山でもある。山頂近くに火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉大権現の後身である秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称でもある。秋葉大権現は両部神道で秋葉社と秋葉寺の両方があったが、廃仏毀釈によって分離され、秋葉神社上社は秋葉山山頂に、曹洞宗秋葉寺は秋葉山中腹の杉平にある。鳳来寺の東約二十六キロ。

「役の小角」「えんのおづぬ」(「おづの」とも)は奈良時代の山岳呪術者。「役の優婆塞」(えんのうばそく)とも称される。ずっと下って江戸時代の寛政一一(一七九九) 年になって修験道開祖と仰がれるようになり、「神変大菩薩」の勅諡号を受けた。大和国南葛城郡茅原に生まれ、三十二歳の時、葛城山に登って孔雀明王の像を岩窟に安置して草衣木食(もくじき)し、持呪観法して不思議の験術を得たと伝える。また、諸山岳を踏破し、大和の金峯山・大峰山などを開いて修行したが、彼の呪術は世人を惑わすものであるとされ、伊豆に流された。後に許されて京に帰ったが、以後の消息は不明である。山岳信仰と密教とが合流するようになって修験者の理想像とされ、平安時代以降あった一般の信仰を受け、その足跡を伝える説話が全国の霊山幽谷の地に形成されたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「湯谷」現在の新城市能登瀬上谷平(かみやだいら)の湯谷温泉附近。]

 會つて話して居る間にも、昔の狩人はかうもあらうかと思はれる程、一本氣の氣儘さがあつた。而して何物の力をも信じない冷酷さが、言葉の端々に迄感じられた。話の中でも、てんで此方の言ふ事など耳に入れて居ない樣子で、言ひ度い放題を甲高い聲で喋舌つて[やぶちゃん注:「しやべつて」。]居た。生れたのは更に山奧の、北設樂郡黑川在で、今の家へは養子ださうである。

[やぶちゃん注:「北設樂郡黑川」北設楽郡豊根村上黒川・下黒川附近であろう。]

 生家も代々狩人だつたさうである。當人が狩の最初は、十二の年の秋、燒畑の傍で擊つた鹿だつた。初めの丸は尻に中つて惜しくも急所を外れたが、續いて逃げる鹿を追つてゆくと、遙かのタワで犬が止めて居た。そこで泡吹きの大木に身を凭せて、第二發を送ると、鹿は谷に向けて轉がり落ちたさうである。直ぐ後を搜し求めて、藤蔓を取つて橫に背負ひ上げたが、重いのと谷が嶮しくて、上る事が出來ない。仕方が無いので、鹿には上衣を脫いで掛け、自身は谷を上つて歸つて來た。そして遙かに我家を望む處迄來て、立木に上つて枝を叩いて合圖をしたと言ふ。其折家で下男同樣に使つて居た、乞食とも何ともつかぬ男があつて、それが迎ひに來てくれて運んだ。十六貫七百目[やぶちゃん注:六十二キロ六百二十五グラム。]あつたさうである。その鹿を、更に五里隔つた津具(つぐ)村の鹿買ひの處へ、一人で負つて出かけたが、折よく途中で鹿買ひに遇つて取引をした、二兩二分二朱に賣れたと言うて居た。

[やぶちゃん注:「タワ」既出既注。方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。向後は注さないので覚えて頂きたい。

「泡吹きの大木」落葉高木のヤマモガシ目アワブキ科アワブキ属アワブキ Meliosma myriantha。和名は枝を焚き木にすると切り口から泡を吹くからとか、白い花が泡を吹いているように見えることからという説もある。樹高は十~二十メートル。

「津具(つぐ)村」愛知県北設楽郡設楽町津具

「二兩二分二朱」本書刊行は大正一五(一九二六)年で、「五十幾年」を切り上げて六十として「十二」を足して引くと、この猟師丸山某の生まれは嘉永七(一八五四)年以降で、数え十二当時は元治二・慶応元(一八六五)年以降になるので、金単位は腑に落ちる。但し、幕末は激しいインフレが起きているから、一両は現在の約四千円から一万円ほどにまで価値が下落していた。一両=四分、一両=十六朱であるから、高く見積もっても、二万六千五百二十円ほどにしかならない。]

 未だいたいけな十二の年に、十六貫餘の鹿を負つて步く程の者だけに、子供の頃から不敵者で、十七の時には、早家を飛出した。そして山から山を渡り步く内、今の家へ見込まれて養子になつたさうである。若い頃から獲物を追つて、何處とも知らぬ山中に、夜を明した事は、幾度であつたか知れぬ、それで居て更に疲れる事は知らなんだと言ふ。鳳來寺山麓の門谷の人々は、此男が山中で、百貫に餘る巨大な朽木を負うて步くのを、時折見たと言うた。會つて見た感じでは、瘦形のもう六十幾つといふ年配で、異常な體力を備へて居るなどとは思へなかつた。

[やぶちゃん注:「門谷」新城市門谷は鳳来寺を含む広域であるが、「鳳來寺山麓の」とあるので、鳳来寺参道のこの付近(同航空写真)であろう。

「百貫」三百七十五キログラム。]

 一代の間に捕つた獲物は、鹿だけでも幾百を數へて、一冬に六十二の鹿を捕つた年もあつたと言ふ。もう三十年も前の事で、その頃は獵犬のよいのが居たさうである。タカにテジにフジだと、幾度か犬の名を繰り返して聽かせた。中でもテジと謂ふ犬は、一冬に九貫目[やぶちゃん注:三十三・七五キログラム。]以下ではあつたが七ツの鹿を捕つた事があると謂ふ。そして一度手負にすれば、後はそれ等の犬が追かけて肢を噛切つたさうである。熊も七ツ捕つたと語つた、或時大木の高い洞[やぶちゃん注:「ほら」。]に居るのを、一人で登つて行つて、山刀で前肢を叩き切つて斃したと言うた。その折の光景を旅の繪師に描かせたと言うて、粗末な掛軸を出して來て見せてくれた。惡いから默つて何も言はなんだが、功名談とは似もつかぬ、氣の毒な程貧弱な熊と狩人が描いてあつた。

 

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