早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 九 鹿擊つ狩人
九 鹿 擊 つ 狩 人
もう五十年も前に死んだが、東鄕村出澤の鈴木小助と言ふ男は、名代の鐵砲上手であつたと謂ふ。屋敷の前の柿の木には、いつも鹿の二ツ三ツは吊してある程だつた。或時家の緣先に居て、二ツの鹿を一度に擊ちとめた事があつた。朝未だ床の中にうとうとして居ると、前に起きた女房が、早向ふの道を引鹿が通ると呼ぶ聲に、ムツクリ起上るか否や、枕元の鐵砲を取つて緣先へ出ると、如何にも見事な雄鹿が二ツ後になり先になりして、谷向ふを、谷下村へ越す道を登つて行つた。その鹿が二つ重なり合つた時を待つて、打放した彈が見事に手前から後ろの鹿を筒拔けに斃したと言ふのである。
[やぶちゃん注:「五十年も前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治九(一八七六)年頃。
「東鄕村出澤」複数回既出既注であるが、「出澤」は「いざは」と読み、現在の新城市出沢(いざわ)(グーグル・マップ・データ)。
「引鹿」「ひきじか」は夜間に山から里方へ下りて餌を漁った鹿が明け方に山へ戻ることを言う。
「谷下村」「やげむら」。スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、「出澤」の南に「谷下」の地名が見える。現在の出沢地区にも「根岸谷下」(グーグル・マップ・データ航空写真)の地名が残るが、山中であるから、恐らくは現在の新城市浅谷(あさや)「谷下新田」(グーグル・マップ・データ航空写真)の出沢以南の周辺広域であろう。スタンフォード版では「谷下」地区の南に「淺谷」の地名がある。]
小助は名の如く體は至つて小さかつたが、鐵砲は名人であつたと言うて、今に噂が殘つて居る。猪鹿買ひが獲物拂底の折は、必ず小助の家へやつて來て、上り端へ寢込んださうである。すると澁々支度をして出かけたが、出かけ端に、若し鐵砲が鳴つたら、その方へ迎ひにお出でと言ふのが癖だつた。曾て一度も其言葉に誤りは無かつたさうである。小助も鐵砲上手に違ひなかつたが、獲物も又餘計に居た事も事實だつた。
[やぶちゃん注:「上り端」「あがりは(ば)な」。家に上がってすぐの所。
「出かけ端」「でかけばな」。出かける時。]
小助が鐵砲上手の話は未だあつた。その頃村の梅の窪と言ふ所に、性惡る狐が棲んで居て、時々村の者を惱ましたさうである。その狐が、小助の鐵砲ならチツトモ恐しくないと嘲つたさうである。そして小助の老母に取憑いて、どうしても離れなんだ。これには遉がの小助も弱つてしまつた。そこで或時鐵砲に紙丸[やぶちゃん注:「かみだま」。]を詰めて、一發天井に向けて放して置いて、今度は眞丸[やぶちゃん注:「ほんだま」。]で擊つと嚇したさうである。それには狐が閉口して、明日の朝は間違ひなく出て行くからと、誓ひを立てたさうである。そんなら確かな證しを見せよと掛合つて、行掛けに屋敷向ふの谷下村へ越す途中で、片肢上げて相圖をする約束をさせた。その代り擊つてくれるなと狐が念を押したさうである。承知して朝になるのを待つて居た。翌朝早く起きて屋敷から見て居ると、如何にも谷下村へ越す坂を、狐が一匹ブラリブラリ登つて行つた、その内恰度屋敷の正面邊りへ來た處で、如何にも片肢上げて相圖をした。其處をドンと一發欺し擊ちに擊つてしまつたと言ふ。
此小助の兄弟であつたか、或は親類であるか判然記憶せぬが、長篠村淺畑(あさばた)に、某音五郞という狩人があつた。鹿狩には矢張り名代の剛の者であつたと言ふ。格別逸話としては聞かなんだが、或朝起きて戶を明けると、表の眞中に巨きな山犬が坐つて、口を開いて何やら嘆願する樣子であつた、傍へ寄つて口中を檢めて[やぶちゃん注:「あらためて」。]見ると太い骨が咽喉に立つて居る、それを除いてやると、嬉しさうに尾を振つて立ち去つた、そして翌朝になると見事な大鹿が、門口に持つて來てあつた。猪の話の中にも言うた山犬の報恩話の一ツである。
[やぶちゃん注:「梅の窪」不詳。前にも述べたが、出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名がある(航空写真)。
「長篠村淺畑(あさばた)」スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、旧「鳳來寺口驛」、現在の本長篠駅から少し東北へ行った宇連川右岸に「淺畑」の地名が見える。現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)である。
「猪の話の中にも言うた山犬の報恩話」「四 猪垣の事」参照。]