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2020/03/31

三州奇談卷之四 大人の足跡

 

    大人の足跡

 木越(きごし)の道場は、天正の頃一向宗の動亂に三山の大坊と聞へし一ケ寺、光德寺の城跡なり。其砌は粟崎(あはがさき)の湖水を引きて要害を構へ、光林寺等の末寺を引並べて、信長の勢に敵戰せしに、追手は佐久間盛致攻(せめ)よせ、死生を知らず戰ふの間、搦手は能登より長氏の軍勢馳來り、湖水の堤を切つて落せしかば、此手(このて)一番に破れて城保ち難く、則ち九郞左衛門へ降參せしかば、光德寺は能州へ引取らるゝなり。今の所口光德寺是なり。其跡は今光德寺懸所となりて、蓮如上人の舊跡、種々の遺寶ありて、當時は金澤の一遊觀の地と成りぬ。光德寺の跡には古木の梅あり。花珍しく房の如しと云ふ。

[やぶちゃん注:表題の「大人」は「おほひと」と訓じておく。

「木越の道場」「光德寺」は現在の金沢市木越町のこの中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった(移って現存する、後注「所口光德寺」参照)。「平成27年度 金沢市埋蔵文化財調査年報」(平成28(2016)年4月。PDF)の「2.木越光徳寺跡(きごしこうとくじいあと)」に詳しい。その「遺跡の概要」に、

   《引用開始》

 木越光徳寺は、15世紀後半、北陸における真宗本願寺派の布教活動が活発化する中で中心的役割を担った。長享2 (1488)、本願寺派の坊主・門徒らが時の守護富樫政親を高尾城で自害させた、世に言う「長享の一揆」は、加賀に一向一揆の国を樹立させることとなるが、その主要構成員の中には木越光徳寺をはじめとした河北郡の坊主・門徒衆が多く含まれていた。

 木越光専寺、木越光琳寺を含め、のちに「木越三光」と呼ばれた三寺は、元亀3 (1572) に加賀の一向一揆勢力と越後の上杉謙信との合戦が開始されると、寺の周囲に堀を整備して河北潟の水を引き込み、要塞と化したといわれる。天正8 (1580) には加賀攻略を狙う織田信長軍との主戦場となり、激しい攻防を繰り広げたが、佐久間盛政、長連龍に攻め入られ、激戦の末同年3月に陥落した。現在、木越集落の西を流れる血の川の名称は、討ち死にした兵士の血で赤く染まったことに由来するとされ、往事の凄惨な光景を今に伝えている。

   《引用終了》

とある。

「粟崎の湖水」現在の金沢市粟崎町(あわがさきまち)は原型の河北潟の南西岸に当たる。この「湖」とは河北潟のことである。木越からこの粟崎の南東端の大野川(河北潟の日本海への南側の水路)との間は三キロ弱で、途中に浅野川もある。

「光林寺」思うに「光琳寺」が正しいものと思う。「加能郷土辞彙」に、『コウリンジ 光琳寺 鳳至』(ふげし)『郡劔地に在つて、眞宗東派に屬する。もと河北郡木越に草創せられ、光德寺・光專寺と共に木越三光と言はれたが、天正八年佐久間盛政に攻められて、今の地に遁れ來つたといふ』とあるからである。輪島市門前町剱地に現存

「佐久間盛致」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家を祖とする佐久間家の生まれ。織田信長の家臣の一人として活躍し、「本能寺の変」以降は叔父柴田勝家とともに三法師秀信を推し、秀吉軍と戦ったが、敗北、斬首された。

「長氏」長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)。織田家の家臣、後に前田家の家臣。主家畠山家の滅亡の後、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯四十一回もの合戦に参加して勇名を馳せた(ウィキの「長連龍」に拠った)。

「九郞左衛門」長連龍の通称。

「所口光德寺」現在の石川県七尾市馬出町に現存「加能郷土辞彙」のこちらに経緯が記されてあり(三番目の「光德寺」の項)、初め木越に創建されたが、佐久間に追われて鳳至郡黒島に移り、次いで鹿島郡七尾城下に移り、更に府中村、最後に『所口の今の位置に轉じた』とあり、現在地を『鹿島郡七尾』としている。

「光德寺懸所」東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい。ただ気になるのは、現在の光徳寺は西(本願寺)派と「加能郷土辞彙」にはあることで、確認すると確かに西である。]

 光林寺跡は今は田の中なるに、爰に大人の足跡あり。

[やぶちゃん注:光琳寺と読み換えられたい。光琳寺跡は先の「平成27年度 金沢市埋蔵文化財調査年報」を見るに、光徳寺に近い位置にあるらしい。この巨人の足跡は現存しないようである。柳田國男は『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 五 一夜富士の物語』で、これ以下の巨人の足跡とする伝承を取り上げている。是非、参照されたい。なお、「だいだらぼっち」(大太法師・大太郎坊)等の巨人伝承はそちら(全九回)でさんざん注したので、ここでは語らない。なお、『北陸大学紀要』(第四十一号)の小林忠雄氏の二〇一六年一月二十九日の『文化人類学』の『最終講義』の記録「巨人伝説と一向一揆―伝承という歴史の記憶装置―」は本篇のこれらの例を冒頭に掲げ(途中で「光林寺の跡で大太法師の足跡を見物する人々」というキャプションで「三州奇談」の私の知らないまさにぶっとんだ巨大な足跡の挿絵を挙げておられるので必見!)、天馬空を翔けるが如く、キングコング・ゴジラ・ウルトラマンまで繰り出され、誠に面白く展開をなさっていて必見である。そこで小林氏は、最後に、

   《引用開始》

 一向一揆研究の第一人者、井上鋭夫によれば、蓮如ははじめ琵琶湖や若狭から日本海を北上する舟運を利用して教線を拡大したことから、はじめから綿布や絹布を扱う商人や金属・染色関係の職人、酒造などの醸造業といった当時の先端的化学技術を駆使した人々を門徒にした。しかも彼らは一揆のオルガナイザーとしての資質をいかんなく発揮したものとみられる。(井上鋭夫『一向一揆の研究』1968 吉川弘文館、同『山の民・川の民-日本中世の生活と信仰-』1981 平凡社)

 この真宗の拠点道場は人々からなぜか「大坊主」と呼ばれた。ちなみにこの「大坊主」という言葉にはある種の修行僧に見られるような、厳しい修行の場を潜り抜けてきた宗教者としての威厳が感じられる。多くの門徒はその威厳に満ちた指導者に尊敬の念を抱いてきたのだろう。

 またこの「大坊主」の表現の背景には、加賀を中心とした北陸の白山信仰とも関わっている。すなわち神仏混淆時代の白山山頂群の一つは阿弥陀如来に比定され、同時に阿弥陀仏は八幡神として尊ばれてきたことから、なぜか加賀地方には八幡神社が多く祀られている。

 このことは前述したように八幡神の家来に大人弥五郎がおり、この巨人弥五郎のイメージが、八幡信仰によって喧伝され信州門徒に浸透した可能性もある。

 日本海をわたってきた大坊主、ダイタ法師(ダイタボッチ)とは蓮如をはじめとする本願寺の指導者たちのことであり、多くの民衆救済を求めた宗教集団ではなかったか。その集団がその後一向一揆へと結実したのである。一向一揆とは時の権力者(為政者)の無謀な政治に対する反抗勢力であり、そこには民衆擁護の御旗、正義(=南無阿弥陀仏の六字名号)が貫かれていた。

 このような宗教思想は親鸞以来の基本的性格であり、建保2年(1214)に、特に越後の流罪から放免された親鸞は、その3年後家族や弟子たちとともに関東に赴き、笠間を中心に精力的に東国布教の活動を行った。したがって関東には真宗色の濃い伝承世界が展開され、本稿の冒頭に示したように、大坊主、ダイダラボッチの数多くの巨人伝説が残されたのではなかろうか。

 そして一向一揆が滅ぼされた後も、一向宗徒はこのときの事件をいわば歴史事象の記憶装置として伝えたのがこの巨人伝説、すなわちダイダラボッチの話ではなかったか。それは文字を持たない民衆にとって書き残すことさえ許されなかった時代に、きわめて慎重に工夫された民衆の知恵であったに違いない。

   《引用終了》

と述べておられる。本篇がどうして一向一揆の事実を枕として巨人の足跡という奇談を語り出しているのかが、目から鱗で私には納得出来た。本書の諸怪談は今までの部分はかなり前に異様に実録的史実を語って、それが余りに長過ぎて怪談のパッションが萎みがちになるものがやや多い気がしているのであるが、今回は小林氏の指摘で、そうした事実と巨人譚が強靭にジョイントされてよく理解し得た。くどいが、是非、読まれたい。

 土落くぼみ、草一筋も生ぜず。足の指々迄、慥に足跡とは見ゆるなり。下は石にてやあらん、一奇怪なり。

 然るに能美郡の山入(やまいり)波佐谷(はさだに)にも、山の斜めなる所にかくのごとき足跡あり。指々の跡迄くぼみありて草出來(いでこ)ず。此傍らに長氏の兵士討死の塚あり。

 今一足は越中栗殻山(くりからやま)の打越しに足跡あり。

 皆替らずと云ふ。長さ九尺餘、幅四尺許なり。今先づ顯然たるは、此三足跡なり。何れも一股(ひとまた)七八里を隔て、いかなる大人の歩きしにや。能美郡にては、里俗「たんたん法師の足跡」と云ふ。いつの頃より云ひ傳へたるを知らず。

[やぶちゃん注:「能美郡の山入波佐谷」小松市波佐谷町(はさだにまち:グーグル・マップ・データ航空写真)。この足跡も現存しない模様である。

「栗殻山(くりからやま)」倶利伽羅峠のある倶梨伽羅山のこと。

「打越」は峠の意であろう。

「長さ九尺餘、幅四尺許」長さ約二メートル七十三センチメートル、幅一メートル二十一センチメートル。

『能美郡にては、里俗「たんたん法師の足跡」と云ふ』地図を見ていたら、波佐谷町に「タンタン生水」という古跡(グーグル・マップ・データ航空写真)を見つけた。恐らくはこの近くの斜面に足跡があったものと考えられる。こちらのページに同所の石彫りの説明版の写真があるのを見つけたので、電子化する。

   *

 いつの時代の事か一歩の巾が二百米を超えると云うとてつもない巨きな白山の修験僧がこの谷に足を踏み入れたところ足元の岩が裂けそこから水が湧き出しそれからは、どんな日照りでも又、雨続きでもその湧き出す量は、少しも変らずこの付近の人達は、この湧き水をタンタン生水と呼び、野良仕事の合い間にも又、ここを通る人達もここに来て喉をうる□□[やぶちゃん注:碑面に下から伸びた草葉の蔭になってしまっていて見えないが、恐らくは「おし」かと思われる。]そして安らぎを覚えたものでした。

ちなみにタンタン法師の次の足跡は、奥谷の峯道であり、その次は布橋境のタン谷と云う事ですが、そこには今でも草も木も生えて居ないと云う事です。

 波佐谷公民館

   *

「奥谷の峯道」不詳。次の同定が正しいなら、波佐谷の南北の外か?

「布橋境のタン谷」波佐谷町の東に接して小松市布橋町があるが、ここのどこかか?]

 木越にては田の中故、草の生ずる頃は遠きよりも明らかに見ゆ。誠に一壯觀なり。

[やぶちゃん注:以上を独立段落としたのは、次の頭の「此地」が最初の「木越」の地を指すことをはっきりさせるためである。]

 此地に續きて、八田村領に、鈴木三郎重家が塚と云ふあり。今俗に「三薄(みすすき)の宮」と云ふ。重家五代の末新九郞と云ふ者、爰に來つて百姓となり、湖邊に釣して鱸(すずき)を得たり。此鱸忽ち美女と化して、新九郎と夫婦となり、久うして[やぶちゃん注:「ひさしうして」。]龍宮より召ありて歸り消え失ぬ[やぶちゃん注:「うせぬ」。]。只一つの死鱸を殘す。新九郞、其鱸を地に埋めて塚を築く。其後新九郞富樫氏に仕へて此邊を領す。八月十六日に死す。又是を爰に埋む。是に依て「みすゝき」と云ふ。其後すゝき生ひ出(いで)たり。村の人是を一社に祭りて、「三薄の宮」と云ふ。八月十六日餅酒を備へて祭る。或時祭禮を怠りしに、村中疫(えやみ)を煩ひ惱みければ、此社に詫言(わびごと)して十一月十六日に祭禮を執り行ふ。是より皆々本復したりと云ふ。其後すゝき大(おほき)に廣がれり。是を切れば血流る。土人甚だ恐れて、今猶祭禮を缺かさず。

[やぶちゃん注:『八田村領に、鈴木三郎重家が塚と云ふあり。今俗に「三薄(みすすき)の宮」と云ふ』金沢市八田町(木越地区から東北に近い)にある須々幾(すすき)神社。まず、「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説によれば(太字下線は私が附した)、『養老2年(718)八田に魚取部がおかれ、味秬高彦根神を開墾、農業の神として祀り、「治田の宮」と称す。天安元年(857)従五位下昇叙。仁和2年(886)雷火のため社殿全焼。永延元年(987)再営。建久年間(11901199)井上荘の地頭職鈴木三郎重家が荒廃していたお宮を立派に建てなおし、これより「須々幾の宮」と呼び、後「須々幾神社」となる。天正14年(1586)造営。天正15年(1587)小浜神社境内の「多賀神社」を移築、伊弉諾・伊弉冊神を祀る。5代藩主前田綱紀、河北湖畔に新田を作り奉幣され』、『以後代々藩主の奉幣が行われる』とある。個人ブログ「ちとちのなとちのブログ」の『加賀の國「三州奇談 三薄の宮」と須々幾神社、「鬼平犯科帳 兇賊」と波自加彌神社』に本段落を現代語訳された上、この「三薄の宮」について、『鈴木三郎重家とその五代目・鈴木新九郎の塚。竜宮伝説の一つ。鈴木・鱸(スズキ)・薄(ススキ)の三題噺(ばなし)であり』、『鈴木姓の起源を語る物。この鈴木一族(鈴木党)は出自が熊野水軍で、そこから各地に移住し、熊野の分社を核として布教したのである』とある。この話、面白いのだが、あまり記載がない。何か見つけたら、追記する。「其後新九郞富樫氏に仕へて此邊を領す」というのが、龍宮伝説の変形譚なのに、中世以降(富樫氏は室町時代に加賀国守護となった)という時代の若さが妙に気になっているのである。

「鱸(すずき)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、本スズキを海水魚と思っている方が多いが、海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)。博物誌は最近の私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸(スズキ)」を見られたい。

 さて。底本はここで終わっているのであるが、国書刊行会本のみに、この後に短い真逆の「小人足跡」と表題する話が載っている。これは編者注によれば、『(金沢大学附属図書館蔵本により補う)』とあるものである。恣意的に漢字を正字化して参考に供する。

   *

     小人足跡

 同國河北郡長澤といふ所に、一奇談有(あり)。往古より小人の足跡とて有。長さ一寸五步、幅七步有て、此(この)村の草中に有。其(その)所今に草生る[やぶちゃん注:「おふる」。]事なし。「でらでら法師の足跡」と古よりいふ習(ならは)しなり。いか成(なる)人の足跡にや。不思議の奇談也(なり)。

   *

「だいだらぼっち」に酷似する発音なのに、こっちは長さ四センチ五ミリで、幅二センチという小人(こびと)の足跡だ。「河北郡長澤」は不詳。まあ、残ってないよなぁ。]

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