早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 五 猪の案山子
五 猪の案山子
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション右「猪の案山子」、同左「同」。]
猪のソメ(案山子)の事は、既に三州橫山話にも書いた如く、一ツ一ツ觀察すると、隨分變つたものがあつた。氏神の祭禮に曳出した一丈もある藁人形を、後に着物だけ剝いで山田へ持込んで立てたのがあつた。たしか日露戰爭の凱旋の年で人形はロシヤ兵だつたと思ふ。顏を胡粉で彩色した念入り物だつただけに、遠くから眺めても氣味が惡いなどゝ言うた。又北設樂郡の田峯で實見した物は、藁で馬を慥へて人形を乘せたのがあつた。鳥嚇しの案山子などもさうであつたが、以前のやうに簑笠姿の物などは殆ど見なくなつて、メリヤスのシヤツを着せたり、經木細工の帽子を被らせたりした。さうかと思ふと或家では、昔からある 裃のボロボロに成つたのを、こんな物は用は無いと言うて、案山子に着せてしまつたと謂ふ。
[やぶちゃん注:表題は素直に「ししのかかし」と読んでおく。
「ソメ(案山子)」小学館「日本国語大辞典」に見出し語「そめ」として案山子の方言として載せ、採集地として長野県南部・飛驒・岐阜県・静岡県磐田郡・愛知県を挙げる。
「三州橫山話」早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。大藤(おおとう)時彦氏の「早川孝太郎の人と作品(三州横山話解説)」(PDF。なお、そこで早川氏の生地を『三州横山(よこやま)(いまの愛知県新城市横山にあたる)』とされておられるのは新城市横川の誤りである)参照されたい。
「日露戰爭の凱旋の年」日露戦争の勝利と終戦は明治三八(一九〇五)年九月であるが、東京青山練兵場での日露戦争を戦った陸軍凱旋観兵式が行われたのは翌明治三九(一九〇六)年四月三十日である。但し、案山子としてアップ・トゥ・デイトなのは明治三十八年の秋、事実上の従軍兵の凱旋帰国が行われた直後であろう。
「經木」(きやうぎ(きょうぎ))」非常に薄く削った木の板片。材質は主に杉・檜が用いられる。]
現に自分等が聞いた唄の中に、
女郞(おやま)買ひして家の嚊見れば三里やまをく猪のそめ
とか、あるいは下の句だけ、布里(ふり)や一色(いつしき)の猪のそめなどゝ言ふのがあつた。何れにしても唄の作者などには、思ひも及ばぬ恰好であつた。
[やぶちゃん注:「をやま」上方で遊女を指す語。
「嚊」「かかあ」。「嬶」に同じい。
「やまをく」ママ。「山奥」に「山置く」を掛けているとしても「おく」でよい。
「布里」は古代中国の税の名称である「夫布」と「里布」の意があるが(「夫布」は無職の者に課させられた税で、「里布」は麻や桑を家の敷地内に植えぬ者に課せられた税。「布」は金銭のこと)、それでは意味が通じぬので、ここは「万葉集」の上代特殊仮名遣のそれで、終止形「ふる」、「年月が経過して古びる・古くなる」の意であって、すっかり年増になっちまった! 面白くもなんともない単色の装いの案山子と同じじゃ、と揶揄したものかと思う。とすれば、この作者は謂いは下賤ながら、それなりの見識を持つ者であったのであろう。]
女の髮の毛を燒いて串に挾んで立てたり、カンテラを棒の先に吊して置いたのと、同趣向の物で、古くからあつた物に、カベと謂ふ物があつた。ボロを心[やぶちゃん注:「しん」。芯。]にして、上を藁で包んだ、長い苞[やぶちゃん注:「つと」。]のやうな格好だつた。一方の端に火を附けて、竹竿の先に吊して畔每に立てゝ置いた。それの極く小さい物を、夏分ブヨを除ける爲めに、草刈女などが腰に下げた位だから、ボロのキナ臭い煙で、猪を厭がらせる爲であつた。或は又太いホダ[やぶちゃん注:「榾」。薪。]の端に十分火を廻らせて、畔に轉がしたのがあつた。二ツ共少し位の雨にも平氣で、二日三日位續けて燃えてゐたのである。
[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション「猪よけのカベ」。「カベ」の語源は不詳。猪を寄せぬように邪魔するから「壁」では安直に過ぎる。孰れも相応の時間燃焼して煙やキナ臭い臭いを出すのであるから「カ」は「火」で、それで「遮る」ことから、前に出た「ヤトオ」「ヤト」と同じく「戸」、「火戸」か、などと夢想はした。]
案山子では無いが、猪除けのワチの變形と思われる物に、山續きの畔から畔へ鐵條網を張廻した[やぶちゃん注:「はりめぐらした」。]物があつた。新趣向の一ツで、間接には戰爭などの影響であつた。然し結局昔通りの番小屋に、刈入れ迄番をするのが、確實でもあり、割合手輕でもあつた。それで吾も吾もと新に[やぶちゃん注:「あらたに」。]小屋を設けて、果は[やぶちゃん注:「はては」。]一目に見通される程の窪中に、思ひ思ひの藁小屋が、五ツ六ツも建つた事もあつた。只昔と違つて來た事は、鳴子の綱を引く代りに、石油の空罐を叩き、マセ木を打つ代用に、屋根葺用の亞鉛板を持込んで叩いたりする事だつた。さうかと言うて老人のある家では、昔ながらのマセ木を打つて居たのもあつた。
[やぶちゃん注:「マセ木」漢字不詳。次の段落で説明される。]
マセ木は小屋を中央から仕切て、橫に渡した丸太であつた。爐にあたりながら、手頃の棒を持つて、時折タンタンと叩いては、眠い眠い夜を送つたのである。そして合間々々に、ホーホーと呼ばつたのである。尻取り文句の中に、ホイは山家の猪追(ぼ)ひさと言ふのがあつたが、正にそれであつた。マセの代りに、板を打つのもあつたが、何れにしても寂とした秋の夜の山谷に、その音が谺するときは、猪を嚇すに充分だつたのである。思へば猪追ふ術も昔が尙なつかしかつた。況して[やぶちゃん注:「まして」。]吾打つマセ木の音に聞惚れたなどの心持は、懷かしい限であつた。
自分が親しくした老人に、八十幾つ迄番小屋泊りをやつた男があつた。息子達が近所の思惑を案じて、何度やめてくれと賴んでも諾かなんだ[やぶちゃん注:「きかなんだ」。]。遂々[やぶちゃん注:「たうとう」と当て訓しておく。]死ぬ年迄マセ木を叩き通したと言ふ。實は猪番が何より樂しみだつたさうである。その老人の手すさびに打つマセ木の音が、未だどこか耳の底に響くやうな氣がする。
[やぶちゃん注:この最後の老人のマセ木の谺の音はすこぶる印象的ではないか……私はこの老人の気持ちがよく判るのだ……私もそんな風にして……真夜中の山中で……独りマセ木を叩いて……そうして――タン!――と一打ちしてそのまま死を迎えたいとさえ思う……今日この頃なのである…………]