三州奇談卷之四 家狗の靈妙
家狗の靈妙
犬に三品有り。長喙(ちやうかい)にして能く獵するを「走狗(さうく)」と云ひ、短喙にして能く守るを「吠狗(はいく)」と云ひ、肥大にして膳に供するを「食狗」と云ふ。犬は孕みて三月(みつき)に生ず。上(じやう)婁宿(ろうしゆく)に應じ、下(げ)巽木(そんぼく)に屬す。良犬は神に通じ龍と化すと。其故もあるにや。
[やぶちゃん注:「家狗」「いへいぬ」と訓じておく。
「長喙」口先(上顎と下顎)が長いこと。
「食狗」ウィキの「犬食文化」によれば、「日本」の項より引く。『日本列島では、縄文時代早期から家畜化されたイヌが出現し、縄文犬と呼ばれる。縄文犬の主な用途は猟犬とされており、集落遺跡などの土坑底部から犬の全身骨格が出土する例があり、これを埋葬と解釈し』、『縄文犬は、猟犬として飼育され、死後は丁重に埋葬されたとする説が一般的になっていた』。『しかし、1990年代になって、縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚からは、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土し、特に1点の犬の上腕骨には、解体痕の可能性が高い切痕が確認された』。『岩手県の蛸ノ浦貝塚など全国各地の遺跡から、狸だけでなく犬・狼・狐なども食べられていた事が判明している』。『弥生時代は、稲作農耕の開始に伴い』、『大陸からブタやイノシシなど新たな家畜が伝来し、犬に関しても縄文犬と形質の異なる弥生犬がもたらされる。弥生時代は犬の解体遺棄された骨格の出土例の報告が多くなる。このため、日本に犬食文化が伝播したのは、縄文文化と別の特徴を持つ弥生時代からと見る意見もある。弥生時代に大陸からの渡来人(ここでは弥生人を指す)が日本に伝来し、これに伴い』、『大陸由来の犬食文化と食用の犬が伝来した可能性も考えられている』。『古代には『日本書紀』天武天皇5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食が禁止されたことから、犬を食べる習慣があったことはあきらかである。また、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子供を産んだ母犬の餌に米を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸跡では、貴重な米をイヌの餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米はイヌを太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表した。以後たびたび禁止令がだされ、表面上は犬食の風習を含め、仏教の影響とともに肉食全般が「穢れ」ることと考えられるようになった』。『15世紀に記された相国寺の『蔭涼軒日録』によると、犬追物の後、犬を「調斎」し、蔭涼軒に集まって喫したとある。武士の鍛錬法(場合によっては見せ物にもなった)である犬追物は、広場で放たれた犬を標的として鏑矢で射つものであるが、その後の処理についての記述である。また、犬追物のための犬は、専用に飼育されていたとは限らず、多くは町内や市内といった人間の生活空間の中にいた犬を捕獲することでまかなっていたらしく、それを生業とする専門集団や独自の道具まで存在していた』。『また『建内記』(大日本古記録)には「播磨・美作など山名氏領国で山名一党は狩猟を好んで田畑を踏み荒らし、犬を捕らえ終日犬追い物を射、あるいは犬を殺してその肉を食す」という記述もあり、犬を撃ち殺して食べる習慣があったことをうかがい知ることができる』。『宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』で「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」とあり、また 「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」という記述がある』。『江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、庶民や武家の奉公人には食されていた。17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、「江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。」としている』。『明石城武家屋敷跡内のゴミの穴からは刃物による傷のある犬の骨が発見されている。また岡山城の発掘時には食肉獣の骨の中に混じって犬の骨も出土しており、体の一部分のみ多数出土したことから、埋葬ではなく食用であった可能性がある』。『鹿児島にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた』。『「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり、納置きたる米よくむして飯となり、其色黄赤なり、それをそは切料理にて、汁をかけて食す、甚美味なりとぞ。是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり」』と大田南畝の「一話一言補遺」の「薩摩にて狗を食する事」にある。『アイヌ社会ではイヌの飼育は農業の一部であり、明治政府による同化政策以前は食糧、被服の材料、労働力として利用されていた』とある。
「三月」実際には犬の妊娠期間はもっと短く、六十二日前後である。
「婁宿」インドの占星術を元にした本邦の占星術である宿曜(すくよう)占星術の星宿名。月の周期(白道)を二十七の星宿(本来は二十八宿あるが、牛宿を除いて占うという)と宿道十二宮(西洋占星術の黄道十二宮に似る)に分け、月の状態によって人の性質・吉凶及び吉凶となる日を占うもの。「婁宿」は「たたらぼし」で、西方白虎七宿の第二宿。距星(宿の西端の星)は「おひつじ座β星」に当たる。
「巽木」は陰陽五行説の概念。「巽」は八卦の一つで「☴」であり、「木」は五行のそれ。前とこれにつく「上」「下」は八卦の組み合わせである三本セットで上下に配する上卦・下卦と似たような謂いか。占いには全く興味がなく知りたいとは思わないので、ここまでとする。悪しからず。]
淺野川茶臼山の麓に、田原善兵衞と云ひて成瀨公の家士あり。此戶外に白狗(しろいぬ)子を產みしを愛(めで)し育しことあり。然るに或夜、白衣の人來りて云ふ、
「此後ろの山裂けて、此邊(このあたり)必ず泥水となるべき應(しるし)近日にあり。早く立退かるべし。吾は恩を蒙れる者故に告げ申す」
と、妻が夢に正しく見えたり。夙(つと)起きて怪(あやし)む所へ、夫喜兵衞屋敷より急ぎ歸りて先(まづ)犬をを尋ねける故、其故を問へば、
「此犬屋敷へ來る事はなかりしが、夜前(やぜん)來りて頻りに吠え、出向へば裾を引きて『外に移れ』と云ふが如し。それ故急に歸れり」
と云ふ。
妻驚き爾々(しかじか)の夢物語して、夫婦共に立退しは、元祿十二年臘月(らうげつ)二十二日なり。翌廿三日申の刻、茶臼山崩れて淺野川を埋(うづ)め、隣家塚本左内を初め八十五軒打潰し、厭死の男女三拾餘人也。此水材木町迄泥水と成りしを、茨木左太夫・生駒萬兵衞に仰せて是を修させ給ひて、日每に千人を催して、翌年春元のごとし。
[やぶちゃん注:「淺野川茶臼山」卯辰山(うたつやま:標高百四十一メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の別称。南と西の麓を浅野川が北流し、この川畔は金沢の武家屋敷や町人町の繁華なところであったが、近世の浅野川はしばしば氾濫した上、以下に記されるように卯辰山が脆弱な地質であったことから、たびたび山崩れが発生している。
「田原善兵衞」不詳。以下の人名は一部を除いて必要を感じないので注さない。
「成瀨公」恐らくは人持組の成瀬掃部家八千石であろう。徳川家家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)が十七歳で徳川家を出奔し、浅野幸長・小早川秀秋の家臣を経て、前田利常に仕えたのを始祖とする。
「元祿十二年臘月(らうげつ)二十二日」「臘月」は旧暦十二月。グレゴリオ暦一九七〇年二月八日。
「申の刻」午後四時前後。
「材木町」金沢市材木町(まち)。卯辰山と浅野川を隔てた左岸。]
又享保の末、近江町に長兵衞と云ふ京通ひの者、夜中粟生川原を通るに、白狗一つ來(きたり)てすれまつはる。長兵衞振放し行くに猶支(ささ)へ隔てぬ。
『必ず是(これ)咽(のど)に物の立ちたるなるべし』
と思ひ、頭をひざにのせて、口に手を入れ、大きなる骨を拔きとらせ、懷中の「兼康(かねやす)みがき砂」をぬり付けて去りけるに、狗悅べる躰(てい)にて、寺井迄送
りて別るゝ。其後此長兵衞、晝夜共栗生さへ通れば、此狗でゝ川の間を送りける。
「幾年か斯(かく)の如くなりし」
と語る。
[やぶちゃん注:「享保の末」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。
「近江町」この中央一帯。近江町市場があり、金沢の台所として知られる。
「粟生川原」石川県能美(のみ)市粟生町(あおまち)であろう。手取川右岸の少しと左岸に当たる。「京通ひの」商人と思しいのだから、ここでも何ら問題ない。
「猶支(ささ)へ隔てぬ」なおも、咥えて離さず、去ろうとしない。
「兼康みがき砂」「日本審美歯科協会」公式サイト内のこちらに、「江戸時代の歯磨き」の2として、『文化・文政(1804~1829)の頃は江戸時代の全盛期であって、歯磨きはおしゃれで粋な「江戸っ子」の間に広く普及し、その数も100種に近かったと言うから驚きである。そのなかで知名度の高かった歯磨きは文化年代』(1804~1817)『には「おもだか屋歯磨」、伊勢屋兼康』製『「梅見散」、兼康』『製「松葉しほ」、式亭三馬製「箱入御はみがき、梅紅散、井口の歯磨」尾上菊五郎製「匂ひ薬歯磨」など、文政年代(1818~1829)には、為永春水製「丁字屋歯磨」美濃屋製「一生歯のぬけざる薬」小野玄入製「固歯丹」、萬屋製「含薬江戸香」、式亭小三馬製「助六歯磨」長井兵助製「清涼歯磨粉」百眼米吉「梅勢散」などがある』とある。「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されているから、ここに出る伊勢屋兼康製の歯磨き粉「梅見散」は五十~七十年も前から売られていたらしい。同じページには、『わが国の文献に歯磨という名称が現れたのは寛永20年(1643)に江戸の商人丁字屋喜左衛門が大陸から渡来してきた外人(韓国人)の伝を受けて製したという「丁字屋歯磨」あるいは「大明香薬砂」の商品名で売り出されたのが始まりとされていて、この袋には『歯を白くする、口中のあしきにほひをさる』とその効能が記されている』とあり、「享保の末」が引っ掛かっていたものの、さらに調べた結果、「江戸東京博物館」公式サイト内のQ&Aに(太字下線は私が附した)、『「かねやす」は地名と店名として知られる。地名としては本郷三丁目の兼康横町。『御府内備考』によると、兼康祐悦という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという』。『現在、店は移転し、洋品店となった店舗(文京区本郷2-40-11)脇に説明プレートがある』があるで一件落着した。洋品店「かねやす」(ストリートビュー)!
「寺井」能美市寺井町。粟生の少し南。]
亦寶永の頃田町に中村長太郞と云ふ人、一疋の黑狗を飼置きたり。力量勝れて、狐狸の類(たぐひ)を多く得て樂(たのし)みとす。且(かつ)朋友の所をよく覺えて、狀箱を首にゆはひつくるに、必ず返書を取來(とりきた)る事、彼(かの)陸郞が蒼狗の如し。或時狼來りて小兒を過(あやま)ち、家じりを掘り、家々大いに恐る。此田町へも町迄入りし事ありしに、此黑狗躍り出で大(おほき)に嚙合しが、終夜人の來り助くるものなかりし故にや、終に嚙殺されてありき。然共狼も頭と手足を喰折(くひを)られ、道に死し居たり。誠に能く戰ひしものと見えぬ。彼畑六郞右衞門が犬獅子と云ふとも能く及ばじ。【此間原本脫寫あるに似たり。】盜賊の折は密(ひそか)に主人を起して出でしが、狼には力の及ぶべしと思ひしや、町はづれに欺かれ出で、數十(すじう)の山犬に取卷かれて、終に死しける。主人憐みて骸(むくろ)を寺へ送り葬れりとぞ。
[やぶちゃん注:「寶永」一七〇四年~一七一一年。
「田町」金沢市天神町(まち)の内と思われる。
「狐狸の類(たぐひ)を多く得て」猟犬として優れていたのである。
「陸郞が蒼狗」中国の故事らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。
「畑六郞右衞門が犬獅子」南北朝時代に新田義貞に仕えた畑六郎左衛門時能(ときよし 正安元(一二九九)年~興国二/暦応四(一三四一)年)。ウィキの「畑時能」によれば、『武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し』、延元三・建武五(一三三八)年、『義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党』十六『騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ』三『千の軍勢を差し向け』、『斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという』とある。引用元には歌川国芳の描いた「武勇見立十二支・畑六良左エ門」の愛犬を連れた絵があり、そのキャプションに、「太平記」には『時能が犬「犬獅子」と「所大夫房快舜」、「悪八郎」の二人の従者とともに足利氏の砦を陥とす物語がある』とある。
「【此間原本脫寫あるに似たり。】」というのは堀麦水の割注であろうから、この話は麦雀の原本にあるものなのであろう。さすればこそ先の時制が妙に古いのも合点が行く。]
又寬文の頃利常公遊獵の爲飼置きたまひける唐犬異常の剛力(こうりよく)あり。百獸皆恐れて避く。犬引(いぬひき)といへども、良(やや)もすれば手に餘り、人も過(あやま)ちせし事も多かりしに、或日大豆田川原にて、此犬綱を引切り驅出(かけいで)せしに、人々驚き近邊の男女迯迷(にげまど)ひしに、犬は血眼になり、物狂ひの如く猛つて、一文字に增泉の里へ逃げ込しに、二才許の小兒草の上に臥居たりしが、打笑ひ起立(おきたて)り、此唐犬に向ひしに、犬は尾を振りて繋ぐが如く此小兒に隨ひ居たり。犬引共大勢驅來り、悅んで捕へ歸りけり。小兒の父母は死したる者の蘇りたる心地なりき。
或人曰く、
「百日内の孩子(がいし)には、盜賊も家に入ること能はずと聞きしが、實(げ)に然り」
とて、此趣を大乘寺月舟和尙に尋ねけるに、
「有難き事なり。是(これ)禪機の第一義、盡有二佛性一如來心なり」
と敎化(きやうげ)ありけるとぞ。
[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年だが、これはおかしい(諸本総て寛文だが)。「利常」=加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年:慶長一〇(一六〇五)年藩主となる)の死後になるからである。恐らく寛永(一六二四年~一六四五年)の誤りであろう。
「唐犬」中国産或いは以前にオランダやポルトガルなどから齎された舶来犬。
「犬引」犬を飼育・調教・捕縛・屠殺するのを生業とする者のことであろう。
「人も過ちせし事」人が襲われること、咬まれることであろう。「も」は「を」がよい。国書刊行会本は『を』である。
「大豆田川原」「まめたがはら」と読んでおく。但し、現在、金沢市大豆田本町があり、それは「まめだほんまち」と濁音である。
「增泉の里」金沢市増泉。大豆田本町の南東一キロほどのところ。
「孩子」広義には「子供」であるが、ここは「幼児」の意。
「大乘寺月舟和尙」現在の金沢市長坂町にある曹洞宗東香山(或いは椙樹林。古くは金獅峯)大乗寺で寛文一一(一六七一)年に住持となった月舟宗胡(中興の祖とされる)。
「盡有二佛性一如來心」一般には「悉有佛性」で、そのまま「しつゆうぶっしょう」と音読みして訓読しないのが一般的。「涅槃経」の「師子吼菩薩品」に説く「悉有佛性 如來常住 無有變易」(悉(ことごと)く佛性(ぶつしやう)有り 如來は常住にして 變易(へんにやく)有ること無し)でよく知られる。私は道元の解釈を支持しており、彼は「総ての衆生の存在と彼らがいる存在世総てが、これ、仏性なのである。如来は永久に存在して、変化することは永遠にない」とする。]