早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十九 鹿の大群 / 鹿パート~了
十九 鹿 の 大 群
[やぶちゃん注:挿絵。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミング・補正した。キャプションは「鹿笛」。但し、本文とは絡まない。]
今から五十年許り前、段戶山中の、菅原(すがひら)の奧の中(なか)の川原で、川狩りの人夫達が材木を運んで居ると、傍の深い萱立[やぶちゃん注:「かやだち」。]の中から、木の枝を振翳した[やぶちゃん注:「ふりがざした」。]裸形の山男が、大鹿を追いかけて來たと言ふ。その連中が段々材木を流して來て、自分の村へ宿をとつた時、その事を語つたさうである。
[やぶちゃん注:「今から五十年許り前」本書刊行は大正一五(一九二六)年十一月であるから、明治九(一八七六)年頃となる。
「段戶山」複数回既出既注。「だんどざん」と読み、前の北設楽郡設楽町田峯にある鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。
「菅原(すがひら)」不詳。
「中(なか)の川原」不詳。但し、「段戶山中」とあるので、鷹ノ巣山の渓谷ではあろう。
「裸形の山男」なかなかに伝承の山男っぽい。]
此話は、その中の川原附近が、もう噓のやうに木を伐り盡くしてしまつた後の事で、更に三里程奧へ入つた所の事だつた。
明治三十年の冬ださうである。何時になく寒い年で、此模樣では、もう長く山には居られぬなどゝ言ふ程だつた。某の杣の居た小屋には、仲間が八人居たさうである。前の日迄に豫定の仕事が終つたので、其朝は早く起きて、新しく持場を決めるために、山割の相談をしたさうである。みんな小屋の前に並んで、下の窪を見ながら話をして居た。山の朝は未だ暗かつた。而も其朝に限つて、窪の底一面に霧が立罩めて居る。某の男は他の連中とは一人離れた處から見て居た。昵と見て居る内、霧がモコモコ動くやうで、上へ上へと擴がつて來る。そして段々近づくに從つて、色が薄紅いやうに變つて來る。昵と見て居る内、アツと聲を揚げんばかりに驚いたさうである。今迄霧とばかり思つて居たのが、何千何百と、數限りなく續いた鹿の群だつた。次から次へ湧いてゞも來るやうに、先登[やぶちゃん注:「せんとう」。先頭。]が脇の峯へ向けて、走つて居たさうである。その時はもうみんな氣がついて居た。さうして誰一人聲を立てる者もなかつた。凝と立つたまゝ、その群が全部通り過ぎる迄、見て居たさうである。さうして誰一人聲を立てる者もなかつた。凝と立つたまゝ、その群が全部通り過ぎる迄、見て居たさうである。
それから急に山が怖しくなつて、後一日働いて、全部小屋を引き拂つて歸つてしまつたと言うた。某はその時、二十一か二だつたさうである。
斷片的な、とりとめのない話の續きが遂長くなつた。極めて狹い、東三河の一小部分、僅か五方里に足りない間でも、其處に棲息した鹿は自から區別があつた。北から南へ、鍵形に線を引いた寒峽川豐川の右岸地方に繁殖した鹿は、川の左岸遠江へかけて居た物より遙かに長大であつた。前に言うた本宮鹿がそれである。これに反して遠江の山地に近づくに從つて、だんだん小さくなつて、俗に遠州鹿と稱した物は、雄鹿の三ツ又でも七八貫が止りであつた。山に岩石多く食物が十分でない爲めとも言うた。鹿の生活にも又地の利が影響したのである。
[やぶちゃん注:「寒峽川豐川」既に述べた通り、豊川の宇連川合流点より上流を寒狭川(かんさがわ)と呼ぶ。「峽」は既に早川氏の用字法にあった。
「本宮鹿」「ほんぐうじか」。「八 鹿に見えた砥石」を参照。
「七八貫」二十六・二五~三十キログラム。]
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