早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 二 鹿の跡を尋ねて
二 鹿の跡を尋ねて
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「橫山にて」。]
猪と違つて鹿の方は、界隈ではもう何處にも居なくなつた。數年前迄は、鳳來寺山にたつた一ツ居たと聞いたが、それも捕つてしまつて、よくよく居なくなつたと、狩人も言うて居た。
その鹿がこゝ三四十年前迄は、今から思ふと噓のやうに居たのである。狩人に追はれて、人家の軒や畑を走る姿を見る事は珍しくなかつた。未だほんの子供の時分であつた。軒端に莚を敷いて、ボトウ(日向ぼつこ)をして居る處へ、狩人に追はれた鹿が、前の畑から屋敷へ上る坂路を驅けて來て、座つて居た莚の端を蹴散らして、背戶の山へ驅け拔けた事があつた。その時、傍に祖母が座つて居た。アツと言うて、自分を抱へる暇さへなかつたと、後で笑つた事を覺えて居る。
[やぶちゃん注:「こゝ三四十年前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年で、著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年生まれである。前記から三十年前で明治三〇(一八九七)年で、早川氏は八歳頃であるから、後半の映像からは氏は満三、四歳で明治二十五年前後のエピソードと思われる。
「ボトウ(日向ぼつこ)」小学館「日本国語大辞典」に「ぼとう」があって、『日当たりのよい暖かい所』の方言として愛知県宝飯(ほい)郡の採集とする。旧宝飯郡は三河湾の東湾奥で、現在の新城市は東北直近である。]
家の緣側から見ると、南の方遙かに舟著(ふなつけ)の連山が立塞がつて、雨上がりの後などは紫色に澄んだ山の腰に、白く水の落ちるのが見えた。彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]が舟著の百俵窪(ひやくたはらくぼ)で、一窪で米が百俵とれるげなゝどと言うた。その手前の、わずかばかりの盆地に、大海(あうみ)有海(あるみ)の二ツの部落が展けて[やぶちゃん注:「ひらけて」。]居た。西に低い山を負つて、晴れた日には人家の瓦屋根から陽炎が上るのが見えた。
[やぶちゃん注:「舟著(ふなつけ)の連山」早川氏の生家は現在の新城市横川字入リ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、それを引いてもらうと、直線で南西四キロほどのところに、豊川べりに新城市川路舟附(ふなつき)があり、対岸にも「舟着」を冠した施設が複数見える(小学校のそれを見ると「ふなつけ」と読んでいる)。その豊川左岸の平地の南に山塊があるので、ここ(同航空写真)がそれであろう。国土地理院のこちらでは「舟着山」(標高四百二十七メートル)が確認でき、この山は早川氏に実家のまさに真南に位置している。筆者の挿絵もそちらを向いて描いたものと読める。
「百俵窪(ひやくたはらくぼ)」不詳。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ても、有海・大海の南には田地が見えない。と言うより、その辺りの豊川左岸は即、山間になっている。
「大海(あうみ)」読みはママ。新城市大海(おおみ)。横川の南部では寒狹川の対岸に当たる。
「有海(あるみ)」新城市有海(航空写真に切り替えると、前の大海とともに盆地であることが判る。]
鐵道が通じて、大海の村へ長篠驛が出來てからもう三十年そこそこになる。それより數年前までは驛から數町離れた墓場續きの原に、未だ鹿の居た話がある。うつかり入つた狩人の目の前へ、三又の角を揃へた雄鹿ばかりが四ツ、驅けて來た時は、うつかりして居ただけに遂ひ泡食つて、遁して[やぶちゃん注:「にがして」。]しまつたと言うた。
[やぶちゃん注:「長篠驛」現在の新城市大海字南田にあるJR東海飯田線の大海駅の旧称。明治三三(一九〇〇)年開業。本書刊行時もまだ私鉄で、南へ向かう「豊川鉄道」と北へ向かう「鳳来寺鉄道」の境界駅であった。昭和一八(一九四三)年に国有化されるまで、この二つの私鉄時代には一部期間を除いて「長篠駅」と称した。参照したウィキの「大海駅」によれば、『豊川鉄道は』明治三〇(一八九七)年から『順次路線を豊橋駅から北へと延伸させていったが』、明治三三(一九〇〇)年九月、『新城からの最後の延伸区間が開通し、この大海駅へと到達した。開業当初は現在と同じく「大海駅」を駅名としていたが』、三年後の明治三六(一九〇三)年に、『駅東側を流れる豊川(寒狭川)の対岸にある地名をとって「長篠駅」と改称した。豊橋から伸びる路線の終着駅であったがゆえに、この頃の大海地区は奥三河や北遠、南信への玄関口となり、乗換客が利用する旅館・飲食店が立ち並び、運輸業者も多く集まって、人や物資の集積地として栄えた』。大正一二(一九二三)年二月には『豊川鉄道の傍系会社であった鳳来寺鉄道が、長篠駅を起点として』、『さらに奥地の三河川合駅まで路線を建設する。これにより長篠駅は』二『つの鉄道の境界駅となるが、両鉄道は直通運転を行っていたので』、『実質的には中間駅となっていた。また、北遠・南信の玄関口としての機能は新たな終着駅である』三河川合駅に『移っていった』とある。]
大海の南隣、有海の篠原(しのんばら)は、今でこそ見渡す限り桑園になつて、長篠戰記に勇名を殘した鳥居勝商が憤死の跡なども、その中に埋もれてしまつた程であるが、以前は西隣の川路(かはぢ)の原と共に、又とない鹿の狩場であつた。どんな不獵の時でも、そこへ行けば必ず一ツ二ツは獲物があつたと言うた。山は何れを見ても低い赤禿山の續きで、何處[やぶちゃん注:「どこ」。]に鹿が居たと思ふやうであるが、又一方の話では、そこの大窪の谷で、山犬が子を產んだ事があつたと言うた。而もその折赤飯を焚いて、近所の女房達と一緖に見舞に行つたと言ふ女が、九十幾つではあつたが、未だ達者で居た事を考へると、村の姿は吾々が想像も及ばぬ程、早く變化したのである。
[やぶちゃん注:「有海の篠原(しのんばら)」有海篠原(しのはら)。寒狭川と宇連川の合流地点のカーブした右岸部分。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」でも桑畑が確認できる。
「長篠戰記」「三州長篠戰記」江戸前期の幕臣で歴史家であった根岸直利編。天正三(一五七五)年の「三河長篠の合戦」の戦記物。漢字カナ交じり。長篠城を死守した奥平信昌(のぶまさ)や鳶巣山(とびがすやま)の砦を攻め落した酒井忠次の活躍、鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき:次注参照)の勇猛譚を臨場感をもって描写したもの。
「鳥居勝商」(?~天正三(一五七五)年)。三河の徳川家康方の部将奥平信昌の家臣で、信昌が長篠城に入ったのに従い、天正三(一五七五)年二月、長篠城に入った。長篠城は同年五月一日から武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになったが、その時、城中での軍評定で徳川家康のもとに援軍を要請する使者を送ることを提案し、自ら武田軍の包囲網を突破して家康のもとに赴くことになった。十四日、強右衛門は長篠城を脱出することに成功、岡崎城の家康に長篠城の窮状を訴え、それを聞いた家康は信長ともども、出陣する決意を固めた。強右衛門は、その返事をすぐ城中の兵たちに伝えたいとして長篠城に戻ろうとしたが、包囲の目をかいくぐって潜入することはむずかしく、結局、武田軍の兵に捕えられた。このとき武田方では捕らえた鳥居強右衛門を城近くに連行し、「『援軍はこない。降参した方がよい』と言えば、命を助ける」という約束で、強右衛門にその口上を言わせようとしたが、強右衛門は「援軍がすぐ到着する」と叫んだ。そのため、強右衛門は篠場野に於いて磔にかけられ殺された。しかし、結果的には、この行為が長篠城籠城を継続させ、それが長篠設楽ケ原の織田・徳川連合軍大勝の大きな要因となったとされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。JR東海飯田線鳥居駅は、この強右衛門の最期の地に因んだ命名であり、駅の東北の近い位置に「鳥居強右衛門墓碑」が今も建つ。
「川路(かはぢ)の原」新城市川路。有海と川路は航空写真を見ると、丘陵がある。豊川を渡っても鹿はやって来たであろう。
「大窪の谷」不詳。]
有海から東へ川を渡ると、舟著山の麓で、麓に沿うて展けた部落を七村(なゝむら)と言うた。大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)、市川(いちかは)、日吉(ひよし)、吉川(よしかは)、久間(ひさま)、乘本(のりもと)と、何れも小さな部落で、山と山との間に散らかつて居た。界隈の村から、何時も惡口の的にされた程の僻村だつただけに、鹿は至る處出た。中にも最も山奧の、大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)では、狩人が鐵砲舁いで通る度に、村の衆が出て來て、お狩人樣どうか鹿の奴を擊つて下されと、賴むげななどゝ言うた。勿論惡口ではあつたが、賴まれたのも事實だつた。狩人が鹿一ツ捕つて、お賴う申しますと舁ぎ込んで行けば、酒一升を出すのが普通であつたと言うた。何れもひどい山田を耕して居たが、畑の少ない米處で、しかも植え付けたばかりの稻を、鹿が出る度片つ端から拔取つて喰つてしまつたのだから、或はこんな不文の慣習があつたかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「大平(おほびら)、栗衣(くりぎの)、市川(いちかは)、日吉(ひよし)、吉川(よしかは)、久間(ひさま)、乘本(のりもと)」国土地理院図のこちらで、中央附近に「大平」・「栗衣」・「乗本」を、左中央やや下方に「市川」の現地名を見出せ、同じくそこから少し南西に動いた位置で左上中央に「日吉」、中央下左に「吉川」を見出せる。「久間」は不明。スタンフォード版も見たが、見当たらない。
「惡口」前も含めて「あくこう(あっこう)」と読んでおくが、後者は殺生をする狩人に対するものとしてかく言ったものであろう。]
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