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2020/03/08

三州奇談卷之三 埋物顯ㇾ形

    埋物顯ㇾ形

 寺西霜臺(さうだい)の屋敷に一ツの塚あり。其謂(いはれ)を聞くに、今より四代前若狹入道宗寬の在世、不斗(ふと)寢所の間(ま)臭氣甚し。近習に命じて普(あまね)く探しけるに何もなく、天井を放ち見たりしに、一つの生首を得たり。いかにもみやびやかにして、年の程十四五と見えし若衆の首なり。生けるが如く笑みを含み、哀(あはれ)にも怪しく、其外何にも見えず。又謂れも知らず。終に屋敷のすみに埋みて首塚と云ひ、上に桐の木を植ゑ置きぬ。

 然るに寶曆の初めの頃、秋の半(なかば)にふと此塚より、白露を分ちて怪しきくさびら[やぶちゃん注:茸(きのこ)。]生ひ出たり。其形、藜芝(れいし)のごとく甚だ愛すべし。菌(くさびら)の莖二もとに分れ、是をさきてみる。内に少年の面をゑがき、彫付し如く眼・耳・鼻・口全く備りたる。普く尋(たづぬ)れども、何物たるを知る人なし。唐の文宗、蛤蜊(はまぐり)の中に菩薩の形像、眉(まゆ)面(おもて)理髮(かみがたち)全く具(そなは)りしを得給ふと「杜陽編」にも見えたり。人面の菌、目のあたりに最あやしかりき。

[やぶちゃん注:表題は「まいぶつ、かたちをあらはす」と訓じておく。

「寺西霜臺」(「霜台」は古代の官職弾正台・弾正尹(いん)の別称)不詳。但し、彼の四代前とする「若狹入道宗寬」は判明した。「加能郷土辞彙」のこちらに載る、「テラニシヒデカタ 寺西秀賢」である。彼は寛永一五(一六三八)年に十四歳で家禄七千石を継ぎ、次いで前田利常に従って小松に移り、家老となった。正保三(一六四六)年には江戸に使いして将軍家光に謁し、後江戸の留守居役となった。利常の薨去後、金沢に戻り、寛文中に火消役となり、出銀奉行を経て、宝永二(一七〇五)年六月に致仕し、「宗寬」と号し、本禄の内の七百石を隠居料とした。同六(一七〇九)年に没した。享年八十五、とある。

「寶曆の初めの頃」宝暦は十四年までで、一七五一年から一七六四年までなので、例えば、「宗寬」の没年からは四十二年のスパンがある。「宗寬」を含めて四代はまずまず齟齬は感じない。

「桐」国書刊行会本は『楓』とする。

「藜芝」所謂、「靈芝」と同じであろう。菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum

「唐の文宗」(在位:八二七年~八四〇年)は中唐末から晩唐の第十七代皇帝。八三五年に宦官に対する大量粛清計画が露見し、捕らえられて幽閉されたまま三十二歳で崩御した。

「蛤蜊(はまぐり)」中国語としての用法からかく私の判断で読みを附した。所謂、真珠形成と同じで、異物が侵入した結果、それから軟体部を保護するために、貝自体が真珠層を作って侵入物を覆うのである。中国では古くからこの現象が知られていたことから、菩薩などの金型(かながた)を種々の大型の斧足類(二枚貝類)に人為的に挿入し、そこに真珠層に包まれた菩薩像を顕現させて金儲けをしたものである。人によっては「ハマグリで真珠は出来ない」と思う人がいるだろうが、私は私の大好物である殻付きマガキを食している最中にマガキの生体個体の中に二度も発見している。但し、真珠層は殆どない白い小さな丸い珠ではあった。諸君が思っているよりも高い確率で真珠様物質は容易に貝類の中で生成されるのである。

「杜陽編」これは唐末の蘇鶚(そがく)が唐代後半期の珍宝について伝聞等によりながら記録した「杜陽雜編」が正しい。同中巻の以下であろう。但し、ここには主体者を文宗とは特に名指してはいない(但し、名指さない場合は当世の太上皇帝を指すから、特に齟齬しているとは私は思わない)。

   *

上好食蛤蜊、一日左右方盈盤而進中、有擘之不裂者。上疑其異。乃焚香祝之。俄頃自開中有二人形眉端秀體質、悉備螺髻瓔珞足履菡萏。謂之菩薩上遂置之於金粟檀香合以玉屑覆之。賜興善寺令致敬禮。至會昌中毁佛舍遂不知所在。

   *

なお、『「酉陽雑俎」の面白さ』の「蛤菩薩像」を見ると、南宋の僧志磐「佛祖統紀」卷四十二(一二六九年成立)が引かれ、そこに同じ話がはっきりと文宗の話として載っていることが判る。]

 又松雲相公(しやううんしやうこう)の御在世に、箕浦(みのうら)安左衞門と云ふ一士あり。此人常に樹を作り愛せられしに、別けて露路(ろぢ)に一つの造松(つくりまつ)あり。每朝夙(つと)に起て蜘(くも)の糸を拂ひ、枝なんどすかし慰みけるに、或朝、松のもとに彳(たたづみ)けるに、怪しい哉(かな)、芝の中に錢一文飛出(とびいで)舞ふこと頻りなり。暫くして芝の中に落ちけるが、忽ち失せぬ。頓(やが)て芝を分けて草を返して見るに、其跡もなし。

「扨はまぼろしにやありけん」

と、翌朝も起きて松の本(もと)に彳みけるに、前朝見たりし如く錢一文舞ふこと頻りなり。家内の者をも呼びて見せしむるに、錢暫くありて又草に落ちて消えぬ。主人云ふ、

「何(いか)さま此松の下にいはれあるべし、掘返して見よや」

とて、家僕に命じて俄に松を植ゑ替へ、其下を八尺許(ばかり)掘りけるに、切石の蓋(ふた)したる物に掘當りぬ。

「扨こそ」

とて掘出すに、貮尺七八寸許[やぶちゃん注:八十一から八十四センチほど。]の瓶(かめ)なり。急ぎふたを開き見るに、亂けたる錢八分(ぶ)許詰置きたり。文字替りしこともなく、寬永通寶にぞありける。誰の埋めたることを知らざれば、此錢を家僕にも與へ、僧社にも施し、其餘は遺ひ捨てけるとなん。寶貨は人中にあることを好むにこそ。

[やぶちゃん注:「松雲相公」加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)戒名「松雲院殿徳翁一斎大居士」。彼は元禄六(一六九三)年十二月に参議に補任されているが、「相公」は参議の唐名。とんだ勘違いをしていたのをT氏のご指摘を受けて、改稿した。

「箕浦安左衞門」「加能郷土辞彙」のこちらに、「ミノウラチカマサ 簑浦近政という元藩士(後に乱心同様の不行跡により知行召し上げ)の事蹟に『養父安左衞門の祿三の一を繼』いだとあり、この養父であろう。

「寬永通寶」寛永一三(一六三六)年創鋳。

「亂けたる」意味不詳。国書刊行会本と「加越能三州奇談」は『みたけ銭』、「近世奇談全集」は『みたけたる錢』であるが、孰れでも私には意味が判らない。識者の御教授を乞う。]

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