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2020/03/04

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その四)

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。初めは前に続きて暫くは入院中の吟詠が続く。]

 

   *

 

軍人(ぐんじん)になると言(い)ひ出(だ)して、

父母(ちちはは)に

苦勞(くろう)させたる昔(むかし)の我(われ)かな。

 

 軍人になると言ひ出して、

 父母に

 苦勞させたる昔の我かな。

 

   *

 

うつとりとなりて、

劒(けん)をさげ、馬(うま)にのれる己(おの)が姿(すがた)を

胸(むね)に描(ゑが)ける。

 

 うつとりとなりて、

 劒をさげ、馬にのれる己が姿を、

 胸に描ける。

 

   *

 

藤澤(ふじさは)といふ代議士(だいぎし)を

弟(おとうと)のごとく思(おも)ひて、

泣(な)いてやりしかな。

 

 藤澤といふ代議士を

 弟のごとく思ひて、

 泣いてやりしかな。

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『創作』明治四四(一九二一)年三月号。これは『南北朝正閏』(せいちゅう)『論争で、桂内閣の圧迫を受けて姿を隠した政友会の藤沢元造』衆議院議員『に同情を寄せた一首。この歌は二月十九日入院中の作であるが』、『その二日前の二月十七日の日記に、「南北朝事件で昨日質問演説をする筈だった藤沢元造といふ代議士が、突然辞表を出し、不得要領な告別演説をして行方不明になった。新聞の記事は政府の憎むべき迫害の殆ど何処まで及ぶかを想像するに難からしめた。予の精神は不愉快に昂奮した。」と書かれ』ており、『この一首の制作の動機と背景を物語っている』と評されておられる。藤沢元造は異様に個人の記載が少ない。生没年でさえも古いサイトのもう見られない過去記事から辛うじて、明治七(一八七四)年生まれで、大正一三(一九二四)年に没しているらしいことが判った。号は黄鵠で。儒学者藤沢南岳(天保一三(一八四二)年~大正九(一九二〇)年)の長男である。「南北朝正閏問題」は平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中世の南朝と北朝のどちらが正統であるかをめぐる論争で』明治四四(一九一一)年に『政治問題』として扱われた。『これについては古くから議論のあるところで、北畠親房の』「神皇正統記」は南朝説を、「梅松論」は北朝説に立っており、近世の水戸藩の「大日本史」などが名分論から、『南朝説を強く唱えたものの、一般には北朝説が優位であり、天皇の歴代も北朝によって数えられてきた。近代になると』、『両朝併立説が有力となり、最初の国定教科書』「小学日本歴史」(明治三六(一九〇三)年)では併立説をとり、明治四二(一九〇九)年の改訂版「尋常小学日本歴史」も『それを踏襲した。しかし大逆事件発生後の』明治四十三『年末から教育者間で問題視されはじめた。〈国体〉〈国民道徳〉との関連で併立は問題だというのである。翌年』一『月になると』、『新聞が盛んにとりあげ、大逆事件と結びつけて論難』し、同年二月にはこの藤沢元造代議士が『時の桂太郎内閣に質問書を提出し』、『処決を求めるにいたった。窮地に立った桂首相は藤沢代議士に教科書の改訂を約し』、『決着をはかった。これをうけて小松原英太郎文相は教科書の使用を禁止し、その改訂を指示するとともに、執筆者の喜田貞吉文部省編修官を休職にした。改訂教科書では〈南北朝〉の項が〈吉野朝〉に変えられ、天皇の歴代表から北朝が除かれた。以後、第』二『次大戦終結まで南朝正統説が支配する。これは国家権力による学問弾圧事件であり、皇国史観を国民に深くうえつける画期をなすものであった』とある。]

 

   *

 

何(なに)か一つ

大(おほ)いなる惡事(あくじ)しておいて、

知(し)らぬ顏(かほ)してゐたき氣持(きもち)かな。

 

 何か一つ

 大いなる惡事しておいて、

 知らぬ顏してゐたき氣持かな。

 

   *

 

ぢつとして寢(ね)ていらつしやいと

 子供(こども)にでもいふがごとくに

 醫者(いしや)のいふ日(ひ)かな。

 

 ぢつとして寢ていらつしやいと

  子供にでもいふがごとくに

  醫者のいふ日かな。

[やぶちゃん注:後ろ二行の一字下げはママ。以下、有意に表記形式にこの字下げが複雑に発生するが、以下の注ではそれは注さない。岩城氏前掲書に『以下七首』、明治四四(一九一一)『二月二十五日から三月五日ごろまでの高熱と肋膜炎の併発による病状の悪化を歌』ったものとする。同氏の編に成る筑摩版全集の年譜にも『二月二十六日 この日から月末にかけて三十八度ないし四十度の高熱が続き、病床に呻吟する』とあって、次の条に『三月六日 肋膜の水をとってから小康を得る』とある。]

 

   *

 

氷囊(へうなう)の下(した)より

まなこ光(ひか)らせて、

 寢(ね)られぬ夜(よる)は人(ひと)をにくめる。

 

 氷囊の下より

 まなこ光らせて、

  寢られぬ夜は人をにくめる。

[やぶちゃん注:「へうのう」はママ。歴史的仮名遣は「ひようなう」でよい。]

 

   *

 

春(はる)の雪(ゆき)みだれて降(ふ)るを

 熱(ねつ)のある目(め)に

 かなしくも眺(なが)め入(い)りたる。

 

 春の雪みだれて降るを

  熱のある目に

  かなしくも眺め入りたる。

 

   *

 

人間(にんげん)のその最大(さいだい)のかなしみが

 これかと

ふつと目(め)をばつぶれる。

 

 人間のその最大のかなしみが

  これかと

 ふつと目をばつぶれる。

 

   *

 

廻診(くわいしん)の醫者(いしや)の遲(おそ)さよ!

痛(いた)みある胸(むね)に手(て)をおきて

 かたく眼(め)をとづ。

 

 廻診の醫者の遲さよ!

 痛みある胸に手をおきて

  かたく眼をとづ。

 

   *

 

醫者(いしや)の顏色(かほいろ)をぢつと見(み)し外(ほか)に

何(なに)も見(み)ざりき――

 胸(むね)の痛(いた)み募(つの)る日(ひ)。

 

 醫者の顏色をぢつと見し外に

 何も見ざりき――

  胸の痛み募る日。

 

   *

 

 病(や)みてあれば心(こころ)も弱(よは)るらむ!

さまざまの

泣(な)きたきことが胸(むね)にあつまる。

 

  病みてあれば心も弱るらむ!

 さまざまの

 泣きたきことが胸にあつまる。

 

   *

 

寢(ね)つつ讀(よ)む本(ほん)の重(おも)さに

 つかれたる

手(て)を休(やす)めては物(もの)を思(おも)へり。

 

 寢つつ讀む本の重さに

  つかれたる

 手を休めては物を思へり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号で、この初出からと、以降の詠吟の対象やロケーションから、明治四十四年三月十五日の大学病院退院以降の自宅療養中の詠と考えて取り敢えずはよいと思われる。退院後も、『朝日新聞社に』は『出社できず、家庭で病床にあって一進一退の病状をくりかえしていた』とある。]

 

   *

 

今日(けふ)はなぜか、

 二度(ど)も、三度(ど)も、

 金側(きんがわ)の時計(とけい)を一つ欲(ほ)しと思(おも)へり。

 

 今日はなぜか、

  二度も、三度も、

  金側の時計を一つ欲しと思へり。

[やぶちゃん注:「きんがわ」はママ。]

 

   *

 

いつか、是非(ぜひ)、出(だ)さんと思(おも)ふ本(ほん)のこと、

表紙(へうし)のことなど、

 妻(つま)に語(かた)れる。

 

 いつか、是非、出さんと思ふ本のこと、

 表紙のことなど、

  妻に語れる。

[やぶちゃん注:「へうし」はママ。正しくは「ひやうし」。岩城氏前掲書には、一つ、『啄木が「いつか、是非、出さんと思ふ」と考えた本は、彼がかねて出版したいと思っていた処女詩集「あこがれ」に次ぐ第二詩集のことであろうか。当時啄木の手許にはすでに「黄草集」』(きくさしゅう)『と題する詩稿ノートができていた』と述べておられる。]

 

   *

 

胸(むね)いたみ、

春(はる)の霙(みぞれ)の降(ふ)る日(ひ)なり。

 藥(くすり)に噎(む)せて伏(ふ)して眼(め)をとづ。

 

 胸いたみ、

 春の霙の降る日なり。

  藥に噎せて伏して眼をとづ。

 

   *

 

あたらしきサラドの色(いろ)の

 うれしさに

箸(はし)とりあげて見(み)は見(み)つれども――

 

 あたらしきサラドの色の

  うれしさに

 箸とりあげて見は見つれども――

[やぶちゃん注:「サラド」サラダ(salad)。無論、食欲が減衰して食べられないのである。]

 

   *

 

子(こ)を叱(しか)る、あはれ、この心(こころ)よ。

 熱高(ねつたか)き日(ひ)の癖(くせ)とのみ

 妻(つま)よ、思(おも)ふな。

 

 子を叱る、あはれ、この心よ。

  熱高き日の癖とのみ

  妻よ、思ふな。

 

   *

 

運命(うんめい)の來(き)て乘(の)れるかと

 うたがひぬ――

蒲團(ふとん)の重(おも)き夜半(よは)の寢覺(ねざ)めに。

 

 運命の來て乘れるかと

  うたがひぬ――

 蒲團の重き夜半の寢覺めに。

 

   *

 

たへがたき渴(かは)き覺(おぼ)ゆれど、

 手(て)をのべて

 林檎(りんご)とるだにものうき日(ひ)かな。

 

 たへがたき渴き覺ゆれど、

  手をのべて

  林檎とるだにものうき日かな。

 

   *

 

氷嚢(へうのう)のとけて温(ぬく)めば、

おのづから目(め)がさめ來(北)り、

 からだ痛(いた)める。

 

 氷嚢のとけて温めば、

 おのづから目がさめ來り、

  からだ痛める。

[やぶちゃん注:既注であるが、「へうのう」はママ。]

 

   *

 

いま、夢(ゆめ)に閑古鳥(かんこどり)を聞(き)けり。

 閑古鳥(かんこどり)を忘(わす)れざりしが

 かなしくあるかな。

 

 いま、夢に閑古鳥を聞けり。

  閑古鳥を忘れざりしが

  かなしくあるかな。

[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus の別名。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照されたい。岩城氏は既に前掲書で(「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 二」の「閑古鳥/鳴く日となれば起るてふ/友のやまひのいかになりけむ」の評釈で、『雑木林に囲まれた万年山宝徳寺で育った啄木にとって、閑古鳥の声は故郷の象徴であ』ったと述べておられる。また、本歌の評釈で岩城氏は、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号とされつつ、『歌稿ノートによると』、『この歌以下四十七首が六月の作歌で、七月は一首も作られておらず、八月に雑誌「詩歌」のために十七首作られているのみである。したがって六月作歌の四十七首は「啄木の文学的生命力の最後の燃焼期といえるだろう。」(今井泰子氏)ということになる』と述べておられる。]

 

   *

 

ふるさとを出(い)でて五年(いつとせ)、

 病(やまひ)をえて、

かの閑古鳥(かんこどり)を夢(ゆめ)にきけるかな。

 

 ふるさとを出でて五年、

  病をえて、

 かの閑古鳥を夢にきけるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木が一家』『離散し』、『「石をもて追はるるごとく」故郷の渋民村を出て北海道に渡ったのは、明治四十』(一九〇七)『年五月四日のことである』とある。]

 

   *

 

閑古鳥(かんこどり)――

 澁民村(しぶたみむら)の山莊(さんさう)をめぐる林(はやし)の

 あかつきなつかし。

 

 閑古鳥!

  澁民村の山莊をめぐる林の

  あかつきなつかし。

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書には、『「渋民村の山荘」は啄木の育った万年山宝徳寺。「寺で『あかつき』に聞いた閑古鳥の声を回顧しつつ、そこで迎え過した人生の『あかつき』ともいえる少年時代を追慕する。」(今井泰子氏)歌である』とある。]

 

   *

 

ふるさとの寺(てら)の畔(ほとり)の

 ひばの木(き)の

いただきに來(き)て啼(な)きし閑古鳥(かんこどり)!

 

 ふるさとの寺の畔の

  ひばの木の

 いただきに來て啼きし閑古鳥!

[やぶちゃん注:「ひばの木」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae のヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa やヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera の別名であり、またマツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata の異名でもある。]

 

   *

 

脈(みやく)をとる手(て)のふるひこそ

かなしけれ――

 醫者(いしや)に叱(しか)られし若(わか)き看護婦(かんごふ)!

 

 脈をとる手のふるひこそ

 かなしけれ――

  醫者に叱られし若き看護婦!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号とあるから、入院時の回想に基づくものである。後の二首も同様である。]

 

   *

 

いつとなく、記憶(きおく)に殘(のこ)りぬ――

 Fといふ看護婦(かんごふ)の手(て)の

 つめたさなども。

 

 いつとなく、記憶に殘りぬ――

  Fといふ看護婦の手の

  つめたさなども。

 

   *

 

はづれまで一度(いちど)ゆきたしと

 思(おも)ひゐし

かの病院(びやうゐん)の長廊下(ながらうか)かな。

 

 はづれまで一度ゆきたしと

  思ひゐし

 かの病院の長廊下かな。

 

   *

 

起(お)きてみて、

また直(す)ぐ寢(ね)たくなる時(とき)の

 力(ちから)なき眼(め)に愛(め)でしチユリツプ!

 

 起きてみて、

 また直ぐ寢たくなる時の

  力なき眼に愛でしチユリツプ!

[やぶちゃん注:これは入院時の回想ではなく、自宅療養中の実景と読みたい。]

 

   *

 

堅(かた)く握(にぎ)るだけの力(ちから)も無(な)くなりし

やせし我(わ)が手(て)の

 いとほしさかな。

 

 堅く握るだけの力も無くなりし

 やせし我が手の

  いとほしさかな。

 

   *

 

わが病(やまひ)の

 その因(よ)るところ深(ふか)く且(か)つ遠(とほ)きを思(おも)ふ。

 目(め)をとぢて思(おも)ふ。

 

 わが病の

  その因るところ深く且つ遠きを思ふ。

  目をとぢて思ふ。

 

   *

 

かなしくも、

 病(やまひ)いゆるを願(ねが)はざる心(こころ)我(われ)に在(あ)り。

何(なん)の心(こころ)ぞ。

 

 かなしくも、

  病いゆるを願はざる心我に在り。

 何の心ぞ。

 

   *

 

新(あたら)しきからだを欲(ほ)しと思(おも)ひけり、

 手術(しゆじゆつ)の傷(きづ)の

痕(あと)を撫(な)でつつ。

 

 新しきからだを欲しと思ひけり、

  手術の傷の

 痕を撫でつつ。

[やぶちゃん注:「新」のルビは底本初版では「あた」であるが、流石にこれは誤植であるからして、筑摩版全集で訂した。]

 

   *

 

藥(くすり)のむことを忘(わす)るるを、

 それとなく、

たのしみと思(おも)ふ長病(ながやまひ)かな。

 

 藥のむことを忘るるを、

  それとなく、

 たのしみと思ふ長病かな。

 

   *

 

ボロオヂンといふ露西亞名(ろしあな)が、

 何故(なぜ)ともなく、

幾度(いくど)も思(おも)ひ出(だ)さるる日(ひ)なり。

 

 ボロオヂンといふ露西亞名が、

  何故ともなく、

 幾度も思ひ出さるる日なり。

[やぶちゃん注:「ろしあな」の全ひらがなはママ。岩城氏前掲書に『ロシアの思想家で、無政府主義者として革命運動に参加した』ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン (Пётр Алексе́евич Кропо́ткин/ラテン文字転写:Pjotr Aljeksjejevich ropotkin 1842‐1921)『の著書を愛読して、その思想に傾倒した晩年の啄木が、クロポトキンの潜行活動中の変名であるボロオジンという名を想起したある日の感慨を歌ったものである。再起不能の病床でクロポトキンの「一革命家の思い出」を愛読した啄木は、ロシアの官憲の弾圧を巧みにくぐり抜けながら、ボロオジンの変名で、労働者の思想的啓蒙に乗り出したクロポトキンの勇気に深い感銘を受け、その名を幾度か想起することによって、その英雄的行動を讃えていたのである』とある。]

 

   *

 

いつとなく我(われ)にあゆみ寄(よ)り、

 手(て)を握(にぎ)り、

またいつとなく去(さ)りゆく人人(ひとびと)!

 

 いつとなく我にあゆみ寄り、

  手を握り、

 またいつとなく去りゆく人人!

 

   *

 

友(とも)も、妻(つま)も、かなしと思(おも)ふらし、――

 病(や)みても猶(なほ)、

 革命(かくめい)のこと口(くち)に絕(た)たねば。

 

 友も、妻も、かなしと思ふらし、――

  病みても猶、

  革命のこと口に絕たねば。

 

   *

 

やや遠(とほ)きものに思(おも)ひし

テロリストの悲(かな)しき心(こころ)も――

 近(ちか)づく日(ひ)のあり。

 

 やや遠きものに思ひし

 テロリストの悲しき心も――

  近づく日のあり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『新日本』明治四四(一九一一)年七月号で、『啄木が愛読した「一革命家の思い出」の中で、クロポトキンは平和を愛好する無政府主義者になぜテロリズムが発生するのかという質問に対して、革命を志す勇敢な人士は必ず言語を行為に代えようとする、特に暴政、抑圧をもって人民に臨む者に対しては、行為をもって言語に代えようとする、つまりテロリズムが出るのは真にやむをえないのであると述べ、そのやむにやまれぬ心情について語っているが、この一首もそうしたテロリストの悲しき心情を歌ったのである。「近づく日のあり。」というのは、管野すが、宮下太古らの』、「大逆事件」の発生と処刑を受けたものである。同年一月十八日、秋水に宮下・菅野らは大逆罪で有罪となって死刑判決を受け、同年一月二十四日午後十二時に処刑されていた。]

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