早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿
十三 淨瑠璃御前と鹿
鳳來寺の傳說では、光明皇后は鹿の胎内より生まれ給ふたとなつて居る。開祖利修仙人が、甞て西北方にある煙巖山の岩窟に籠つて修法中、一日山上に出でゝ四方を顧望する内、偶々尿を催して、傍の薄に放したる處、折柄一匹の雌鹿來つて其の薄を舐め、忽ち孕んだとある。月滿ちて玉の如き女子を產んだが、仙人修法中とて其處置に窮し、ひそかに其子を人に托して鄕里奈良に遣はし、一日あるやんごとなき邸の門前に捨てしむと言ふ。その女子成長して後に光明皇后となり給うたが、鹿の胎内に宿り給ひし故、生れながらにして足の指二ツに裂け、恰も鹿の爪の如くなりしと言ふ。皇后之を嘆き給ひ、宿業滅亡の爲め鳳來寺に祈願を籠め、兼て御染筆の扁額を納め給ふと言ふのである。これは鳳來寺々記の中に載せた事であつたが、別に元祿時代に書いた、同寺所藏の掃塵夜話と言ふ寫本には、その事を實際化して、利修無聊に依つて、夜々西方山麓の里に通ひ、賤[やぶちゃん注:「しづ」。]の女と契り遂に一女を設く云々などゝ、最もらしく說明してあつた。
[やぶちゃん注:本篇は前項「十二 鹿の玉」に出た「淨瑠璃姬」=「淨瑠璃御前」絡みで続きの形をとっている。
「光明皇后」(大宝元(七〇一)年~天平宝字四(七六〇)年)は聖武天皇の皇后。藤原不比等の娘。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。
「煙巖山」「えんごんさん」は鳳来寺の山号でもあるが、サイト「YAMAP」のこちらを読むと、利修仙人所縁の「仙人様コース」という登山ルートがあり、『仙人様コースは鳳来寺山が煙巌山と呼ばれていた頃のピークがあり、一部の資料では別々の地名として記載されている。元々護摩所から昇る煙から名付けられたらしく、利修仙人の護摩所はまさしく行場らしい神聖さがあった。途中の険しい岩場はやはり修験道、山岳信仰の道と実感。地図にある鳥居と建物を探したが、よく分からなかった』が、『利修仙人が現在登山道としているルート、護摩所―煙巌山―瑠璃山―鏡岩―行者返し(越え)』と、『元々遡行ルートと思われる表参道のなど』、『おなじみのコースを修行場として原初開拓したのだと実感できる』とあり、現地の案内板の地図のこの写真でこの煙巌山の位置が確認出来る。国土地理院図のこの中央のピークがそれである。
「指二ツに裂け」「裂足」と呼ばれる四肢の指の先天性奇形で、例えば親指は分離するが、人差し指以下の四指の縦方向への足の趾放射が欠損するものはそのように見える。
「鳳來寺々記」不詳。或いは「国文学研究資料館」内の「日本古典籍総合目録DB」のこちらにある「三河國鳳來寺略緣起」の異名か?
「元祿」一六八八年~一七〇四年。
「掃塵夜話」前々注のリンク先で注で出した縁起と一緒に書名のみは確認出来る。]
然し自分らが耳で聞いた傳說では、之とは稍趣を異にして、淨瑠璃御前の話になつて居た。矢作(やはぎ)の兼高長者が、子のない事を憂いて、藥師堂に十七日の參籠をして、子種を一ツ授け給へと祈つた處、恰も滿願の夜の夢に、藥師は大なる白鹿となつて顯れ、汝の願ひ切なるものあれ共、遂に汝に授くべき子種は無ければとて、一個の丸[やぶちゃん注:「たま」。]を授けらると見て、胎むと言ふのである。又別の話では、藥師が白髮の翁となつて現はれ、鹿の子を授くと告げて消え失せ給うたとも謂うた。軈て月滿ちて生れた子が淨瑠璃御前で、輝く如く美しかつたが、足の指が二ツに裂けて居る事を、長者が悲しんで、それを隱す爲め布を以てその足を纏うて置いたが、これが足袋の濫觴であると言ふ。
[やぶちゃん注:「矢作」愛知県岡崎市矢作町(やはぎちょう)(グーグル・マップ・データ)。
「兼高長者」個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」が非常に詳しくてよいので読まれたい。それによれば(岩波書店の「浄瑠璃御前物語」(新日本古典文学大系90「古浄瑠璃説経集」をもととするとある)、『浄瑠璃姫の父は三河の国司源中納言兼高といい、母は矢矧宿の長者でいくつもの蔵を持つ海道一の遊女である』とあって以下、「浄瑠璃御前物語」のシノプシスが載るので、是非、読まれたい。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。ここの横川(よこがわ:旧横山)に伝わる伝承や信仰は先行する早川孝太郎氏の「三州横山話」の「夢枕に立った浄瑠璃姫」(PDF・サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」内)も読まれたい。そこに出る祠は「三州横山話」にある早川氏手書きの「橫山略圖」で左上方中央に「淨ルリ姫ノ祠」とあるのを確認出来る。今は整備されているようだ(PDFに写真あり)。]
今から三四十年前迄は、淨瑠璃御前一代の譚として、その事を謠つた文句を歌つて居た者もあつたさうであるが、今日では、如何にしてもそれを聽く事は出來なかつた。又村の處々に、御前の姿を描いた小さな掛物を、藏つてある家もあつたと言ふ。
[やぶちゃん注:「淨瑠璃御前一代の譚」「譚」は「はなし」と読んでおく。先の個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」の「浄瑠璃御前物語」に濫觴を同じくする浄瑠璃節。]
一方鹿の話は、それからそれと糸を引いて、妹背山の入鹿の話に迄持て[やぶちゃん注:「もつて」。]行つた。鳳來寺の東方山麓に、東門谷と言ふ山に圍まれた小さな部落があるが、村としては古かつた。そこの彌右衞門某の屋敷の背戶に、いるかが池とて形ばかりの赤錆の浮いた池があつたと謂ふ。鹿が入鹿大臣を產んだ處故に斯く言うたとは恠しかつた。その池の水を笛に濕して吹けば、如何なる鹿でも捕れるなどと言うたが、果して今も跡があるかどうか知らぬ。或は鹿が子を產んだと言ふ傳說と、いるかが子を產んだ話と、何れかを誤り傳へたかとも考へられる。
[やぶちゃん注:「妹背山」(いもせやま)「の入鹿」(いるか)「の話」人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん:近松半二他の合作。全五段。明和八(一七七一)年大坂竹本座初演)。私は何度も見ているので、ここで言っている意味が判るが、ご存じない方はウィキの「妹背山婦女庭訓」を見られたいが、ざっくり言えば、同作では悪玉蘇我入鹿は父蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたことから、尋常ならざる力を持っており、それを以って自ら本邦の支配者たらんと宣言して王権を奪おうとし、その魔力を無力化させる方法のアイテムの中に「爪黒(つまぐろ)の鹿の血」や「鹿笛」が配されてあるのである。
「東門谷」「ひがしかどや」。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、現在の新城市門谷前畑附近に、「東門谷」の地名が認められる。ここを下っている川の名は「東門谷川」である。ただ、この辺りだと、「山麓」というよりは「山腹」である。現在の国土地理院図に「東門谷」で出る。
「いるかが池」現行それらしいものは見当たらない。なお、名前としての「入鹿池」なら、七十キロメートルも北西に離れた愛知県犬山市に入鹿池はある。]
東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)は、前に言うた鹿が皇后を產んだ跡と言うて居る。
[やぶちゃん注:「東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)」国土地理院図のここに「峰」がある。「峯一ツ越えた」東に「東門谷」があるから、ここで間違いない。「產田」は流石に判らない。]