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2020/03/03

三州奇談卷之三 老猿借ㇾ刀

    老猿借ㇾ刀

 猿には屬(ぞく)類(るゐ)すと云いへども、獼(おほざる)は性(しやう)さわがしうして、猿は其情靜かなり。風月の皎然(かうぜん)たるに嘯(うそぶ)き、其聲も亦哀然なり。久(しさし)うして後は、義氣勇武も出來たる物にや。

[やぶちゃん注:表題は「刀(かたな)を借(か)る」と読んでおく。なお、本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 猿の刀・狸の刀」の私の注で電子化してある。但し、今回は底本が異なり、注も零から附した。

「屬類す」「幾つかの種類がある」の意だが、本邦に分布する猿に関してなら、生物学的には誤りである。本邦本土に限るなら、当時は日本固有種である霊長目オナガザル科マカク属 Macaca ニホンザル Macaca fuscata の一種のみしか棲息しない(屋久島のみに棲息するヤクシマザルMacaca fuscata yakui は本種の亜種である。なお、現在は一九六〇年代に観光施設から逃げ出した外来種のマカク属アカゲザル Macaca mulatta が千葉県で有意に定着し、ニホンザルとの交配も進んでしまっている。因みに、ニホンザルはヒト以外で最も北に棲息する霊長類である)。ここで「獼(おほざる)」(読みは国書刊行会本に拠った)というのは、ニホンザルの大型老成個体を指している。本邦の猿の古名・雅語に「ましら」があるが、しばしば時代劇で悪党の頭目に「ましらの何某」というのを聴くから、この「ましら」はそんな狡猾にして小利口な大猿の雰囲気をも持つものと考えてよかろう。ヒトに最も類似することから、古代中国以来、猿類は幻獣の一つとして、多数の種類を持ち、本邦でも山中の怪人として中国由来のものの他に、本邦独自の妖怪。妖獣として発展してきた経緯がある。そうした博物誌は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の電子化注(サイト版一括)で詳しい注も行っているので参照されたい。

「皎然」「皓然」とも書く。白々として明るく輝くさま。]

 本藩の名家丹羽武兵衞と云ふ人は、若き頃より勤功(きんこう)を勵み、享保の末には馬廻(むままは)り頭役(かしらやく)に登りし。

[やぶちゃん注:「丹羽武兵衞」不詳。金沢市立玉川図書館近世史料館の『「諸頭系譜」にみる藩士と諸役』展のパンフレットを見たが、丹波姓は見当たらなかった。丹羽長秀・長重父子の支流末裔か。

「享保の末」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。

「馬廻(むままは)り頭役」加賀藩馬廻組の頭役。主将の乗った馬の周囲にあって警護を役目とする騎馬の騎馬隊。戦国時代末期に職制化され、特定の者が任命されるようになった。江戸時代には、組頭に統率され、一組の定員は四十~五十人が普通であったが、後には組数を減じ、組の員数を増す傾向があった。前の注のリンク先のそれは、かなり詳しい内容が書かれてあるので参照されたい。]

 彌生の頃痛みありて、石川郡湯桶(ゆわく)の溫泉に入湯せらる。

[やぶちゃん注:「痛み」「近世奇談全集」は『頭痛』とする。

「石川郡湯桶の溫泉」現在の金沢市湯涌町及び湯涌荒屋町にある金沢の奥座敷と称せられる湯涌温泉(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「湯涌温泉」によれば、養老二(七一八)年のこと、紙漉き職人が泉で一羽の『白鷺が身を浸しているのを見て近づいてみると、湯が涌き出ているのを発見した。これが当温泉の発見および当温泉名の由来とされている』とある。]

 此所(このところ)の地勢深山に隣りて幽陰閑寂の所なり。城下よりは僅か三里の行程なれども、其道嶮難にして步行(ありき)便(たより)惡しく、自ら病難の徒ならでは友もなし。丹羽氏徒然の餘り、從者と共に藥師堂の上の山に逍遙せられたりし。

[やぶちゃん注:「自ら病難の徒ならでは友もなし」意味不明。「彼自身は湯治を頼みとするしかない重病人というわけでもないので、そうした知れる病者の道連れの友とてもない」の謂いか?

「藥師堂の上の山」湯涌温泉には薬師堂がある。個人サイトと思われる「石川県:歴史・観光・見所」のこの薬師堂の解説に、『創建等は不詳ですが、本堂内部には湯涌温泉の源泉を発見した(開湯伝説には諸説あり)泰澄大師が自ら彫り込んだと伝わる薬師如来像を本尊に日天子像(観世音菩薩像)や月天子像(勢至菩薩像)、八幡明神などが安置されています。薬師如来は医療や法薬を司る仏として病苦から人々を救い長寿をもたらすとして信仰されてきた事から温泉街などに多く祀られ、八幡明神が安置されている事から往時は八幡神社と神仏習合していたと思われます』とある。「NAVITIME」地図でやっと発見した。この薬師堂の南東のピークが「後の山」であろう。]

 春の老たりといへども、深山の殘雪地冷かにして、小草漸(やうや)く萠え出で、是を摘みて小竹筒(ささづつ)をかたぶけ、醉(ゑひ)に乘じ佩刀を解きて、しばらく絕壁の岸によぢ登り眺望すれば、西山鐘聲を傳へ、斷猿遙かにさけび、斬樹暮雲に接して、返照(へんしやう)山(やま)の洞(ほら)にさし入りて、立居らるゝ所もはや暗(くら)みければ、頓(やが)て下りて先の所に歸り、置きたる腰刀を尋ぬるに見えず。

[やぶちゃん注:「斷猿」白楽天の「長恨歌」の一節である「夜雨聞猿斷腸聲」(夜雨に猿を聞けば斷腸の聲)辺りを洒落て用いた表現であろう。

「斬樹」「斬」には「抜きん出る」の意があるから、有意に高々と生えた針葉樹に高木を指すのであろう。]

 所々探し求(もとむ)るに、所在を知らず。從者も爰(ここ)かしこより來り、打おどろき、是を求るに更になし。

「いかさまにも湯治の者のうち奸徒ありて盜みかくせるにや。一刀といへども、我家の重代なれば、其儘にも通し難し」

と、入湯の旅人を改めさせ、宿主(やどぬし)或は肝煎(きもいり)をして穿索すれども知れず。

 爰に湯入(ゆいり)の中に、能州石動山(いするぎやま)の僧ありて、是を占ひて曰く、

[やぶちゃん注:「能州石動山」(読みは高岡で私の親しんだそれを選んだ)は能登国石動山(グーグル・マップ・データ)。現在の石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市に跨る(標高五百六十四メートル)。ウィキの「石動山」によれば、『加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の』『勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊』三百六十『余り、衆徒約』三千『人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと』、『明治の廃仏毀釈によって衰亡した』とある。]

「此刀は人間の手に非ず、正敷(まさ)しく獸の手にあり。尋ぬれば得つべし」

と云ひければ、丹羽氏是を聞きて、

「さらば明日多くの人夫を以て、山谷を探し求ん」

と其用意してしばらく眠り居られしに、夢ともなく緣の上に案内を乞ふものあり。

 障子を隔てゝ云ひけるは、

「我は此山中に久しくすむ者なり。一人の愛子ありしが、此頃惡鳥(あくてう)の爲に是をとられ、悲歎腸をたつ。然(しか)るに貴客此山に光臨の幸を得て、暫らく寶劍を借りて、速かに仇(あだ)を討取りたり。依りて禮謝に來れり」

と云ふに、丹羽氏目を覺(さま)して障子をあけ見れば、大きなる獼猴(びこう)、忽ちに迯去りぬ。緣の上には、件(くだん)の刀のさやもなくて中身許(ばかり)を、鷲の片身より討落したると共に殘せり。丹羽氏大に悅び、則(すなはち)從者を初め亭主に示す。湯治の旅客皆聞き傳へて一見を乞ひ、驚嘆せずと云ふことなし。能登の旅僧の占ひかたを謝し、彼(かの)刀を「鷲切(わしきり)」と名づけて彌々(いよいよ)祕藏せられし。銘は備前の兼光なりとぞ。

[やぶちゃん注:「獼猴」「みこう」とも読む。ここは普通の「猿」のこと。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の電子化注(サイト版一括)の冒頭が「獼猴 さる ましら」であるので、是非、参照されたい。

「備前の兼光」備前国に住した刀工備前長船(おさふね)兼光は、長船派を作り、備前長船兼光を称する刀工は四工が存在する。但し、一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多く、また室町時代の兼光の作刀はほとんど見られないとウィキの「備前長船兼光」にある。以下、リンク先を参照されたい。サイト「名刀幻想辞典」の「鷲切り」に、本篇の以上の一部が記され、その後に『江戸時代には加賀藩の藩主一族が』この湯涌温泉を『常用し、その効能をとくに賞賛され』て、『湯宿の主人には名字帯刀が許された』とある。]

 又今枝氏の家士鈴木唯右衞門は、先祖は源九郞義經の家臣にして、天正の頃は手取川の邊(あたり)に一城を構へし鈴木出羽守が後なり。此家に「四つ替り」と云ふ靈刀あり。燒刄(やきば)四段に替る故に名付く。一度見れば狂亂の類(たぐひ)、狐狸のくるはせる者、忽ち治せしなり。延寶の頃、大夫奧村丹波守、甚だ刀劔を愛し、伊豫大掾(だいじやう)橘勝國に命じて一刀を造らしむ。此者、陀羅尼(だらに)の神咒(しんじゆ)を誦して口を留めず。終に一の靈刀を造り出(いだ)す。是を「陀羅尼勝國」と云ふ。其後故ありて今枝家の家珍とす。或時、狐の母子を切ることありしに、母狐振返りて此刀を嚙みしとて、其齒の跡針を以て穿(うが)てる如し。猶々靈妙にして陰鬼密(ひそか)に退(の)きしとなり。彼(かの)上杉家の小豆長光(あづきながみつ)の類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:「今枝氏」加賀藩の直臣は順に人持組頭(ひともちぐみかしら:加賀八家(かがはっか)に同じ)・人持組・平士・足軽に大別されるが、その人持組に今枝内記(民部)家(一万四千石・家老)があり、今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出したとウィキの「加賀藩」にある。

「鈴木唯右衞門」「源九郞義經の家臣」であったというから知りたかったのだが、不詳。「唯」は「ただ」か。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五から行用された)。

「手取川の邊(あたり)に一城を構へ」現在の石川県白山市三坂町にある鳥越城跡

「鈴木出羽守」鈴木重泰(?~天正八(一五八〇)年)は戦国武将で雑賀党鈴木氏の出身にして石山本願寺の重臣。出羽守。ウィキの「鈴木重泰」によれば、『顕如の命で加賀に赴き、鳥越城』(前注参照)『を築いて同地の一向一揆を指導した。しかし本願寺が降伏した後、柴田勝家率いる織田軍に攻められ、子らと共に戦死した』。サイト「城郭放浪記」の「加賀・鳥越城」によれば、『築城年代は定かではないが鈴木出羽守によって築かれた。鈴木出羽守は加賀一向一揆白山麓山内衆の総大将として築城し、織田信長による加賀侵攻に対抗した』。天正八(一五八〇)年に『柴田勝家によって攻められ』、『二曲城とともに落城、鈴木一族は滅亡した』とある。

「四つ替り」と「陀羅尼勝國」は同一の刀ととった。

「延寶」江戸前期。一六七三年~一六八一年。

「大夫奧村丹波守」加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第三代当主奥村悳輝(やすてる 承応二(一六五三)年~宝永二(一七〇五)年)。ウィキの「奥村悳輝」によれば、『加賀藩年寄奥村庸礼』(やすひろ)『の次男として金沢に生まれる。兄多宮が夭折したため』、『父の嫡男となる』。万治四(一六六一)年、九歳で第四代『藩主前田綱紀に御目見』し、五年後の寛文六(一六六六)年には『綱紀に仕え』、延宝三(一六七五)年、『近習取次となり、翌年知行』千五百『石を与えられる』。延宝七(一六七九)年』、『若年寄とな』って八百石の加増、後に千七百石の加増を受け、貞享三(一六八六)年に『家老となり、さらに』千『の加増を受け禄高』五千となり、貞享四(一六八七)年に『父庸礼の死去により家督と』一万二千四百五十石を『相続し、合わせて禄高』一万七千四百五十『石の人持組頭とな』った。宝永元年十二月には従五位下の丹波守に任官したが、翌年閏四月二十日に五十三歳で死去した。『父庸礼と同じく、藩主綱紀の命で儒学者朱舜水の弟子となった』とある。

「伊豫大掾橘勝國」この勝国派は姓を「松戸」と称し、前田公に仕えて、初代が伊予大掾を受領して「藤原」の姓を「橘」に改めて、同時に初銘の「家重」を「勝国」とし、「陀羅尼勝国」と銘した。この一門(陀羅尼系)は明治初頭の八代まで繁栄し、加賀を代表する刀鍛冶として非常に知られた、とこちらの刀剣サイトにあった。

「陀羅尼(だらに)」仏教に於いて用いられる呪文の一種で、特に比較的長いものをいう。通常はしたものを唱える。「ダーラニー」とは「記憶して忘れない」という意味で、本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指し、「陀羅尼」はそのサンスクリット語を漢字で音写したもの。意訳して「総持」「能持」「能遮」などとも言う。やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈されるようになり、一定の形式を満たす呪文を特に「陀羅尼」と呼ぶ様になった(以上はウィキの「陀羅尼」に拠る)。

「小豆長光」サイト「刀剣幻想辞典」の「小豆長光」によれば、古来、上杉謙信の『愛刀であったとされる刀』で、『元は、ある男が小豆袋を背負って歩いていたところ、袋から小豆がこぼれ落ち、それが鞘の割れた本刀にあたって真っ二つに割れていたという。それを見た謙信の家臣(竹俣三河守)が買上げ、やがて謙信の愛刀になったという』。後、「川中島の戦い」に『おいて、白手拭で頭を包み』、『放生月毛に跨がった謙信が、自ら本刀を奮って床几に腰掛けた武田信玄に数度斬りつけ、信玄はそれを軍扇で払い除けたという』。『特に後者の「三太刀七太刀(みたちななたち)」は、戦国時代屈指の名場面として数々の創作物に描かれてきた。「小豆長光」は、これらの特徴的な逸話から謙信の愛刀中でも代表的なものとして登場することが多い』が、『その実態はよくわからないところが多く、調べれば調べるほど闇の中に消えてしまう。その為、実際には別の刀のことを指しているのではないかと思われる』とある。]

 又白山の下(した)中宮(ちうぐう)と云ふ所に、一(ひとつ)の靈刀を所持する者あり。彼も鈴木重泰が孫の由にて次助と云ふ。手取川に釣して大蛇を切る。其血紅(くれなゐ)を流せしこと三日なり。河水只(ただ)秋の木(こ)の葉の陰の如し。故に此刀を「紅葉(もみぢ)の賀(が)」と云ふ。希代の業物なり。銘は鎌倉山内(やまのうち)住(ぢゆう)藤源次郞助眞(とうげんじらうすけざね)なり。

 此外、諸家靈刀を聞くといへども、刀劔の靈妙は和國の一祕事なれば、奇談ありといへども爰にはもらしぬ。

[やぶちゃん注:「中宮」石川県白山市中宮(グーグル・マップ・データ)。白山連峰の北とその西麓部に当たる。

「鈴木重泰」前で注した「鈴木出羽守」と同一人物。「孫」とあるが、一応、一族は滅亡したことになってはいる。

「鎌倉山内住藤源次郞助眞」「加越能三州奇談」は同じで、国書刊行会本では、

 鎌倉山内任藤源次郞助真

であり、「近世奇談全集」では、

 鎌倉山内伊藤源次助直

である。私は鎌倉史の研究も行っているが、その「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鍜冶藤源次助實の舊地」に、

   *

 鍛冶(かぢ)藤源次助實(とうげんじすけざね)の舊地は東慶寺の山を隔てゝ北鄰に在り。

   *

とある。場所はこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)となろうが、この名前はどうだろう? 以上を校合するなら「鎌倉」の「山内」「住」の「藤源次郞助眞」が正しい印象が強い(「ざね」は「實」以外に「眞」も漢字としては当て得る)。そこで調べてみると、サイト「名刀幻想辞典」の「福岡一文字派」「藤源次助眞」が実在することが判った。『藤源次助眞』の項に、『助真。助房(助成とも)の子という』。「承久の乱」(承久三(一二二一)年)に後に、『福岡庄は幕府方の頓宮(はやみ)氏の支配下とな』ったが、『助真は幕府方の頓宮氏に仕えることを好まず、京都に移り住むが、後』、『北条時頼の召し出しにより』、『移住する。このため』、『鎌倉に下ることは本意ではなかったとの説がある』。『子、助貞と助綱とともに鎌倉に移り住み、鎌倉一文字派の祖となる』とあるからである。]

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