フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十一 一ツ家の末路 | トップページ | 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿 »

2020/03/27

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十二 鹿の玉

 

     十二 鹿  の  玉

 

Sikanotama

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿の玉」。]

 

 行者越の一ツ家が潰れたのも、實は鳳來寺の衰運が大いに關係したのである。山内に藥師と東照宮を祀り、天台眞言の兩學頭が並び立つて、千三百五十石の寺封を與へられて全盛を極めた鳳來寺も、明治の改廢と數度の出火に遇つて、昔の面影はもう無かつたのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺」の沿革は注していなかったので、ここでウィキの「鳳来寺」から引く。『愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来』。『参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮』『及び仁王門は国の重要文化財に指定されている』。『また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である』。『寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという』。『鎌倉時代には源頼朝によって再興されたと伝え』、『参道の石段も頼朝寄進と』される。『当時、寺内に在った多くの僧坊の1つ、医王院において、平治の乱で落ち延びてきた頼朝が匿われたのが一因という。ただし、3年も匿われたという点で疑問も残る。なお、近世に記された地誌『三河刪補松』では、鎌倉幕府の有力御家人で三河守護でもあった安達盛長が建立した「三河七御堂」の一つとして鳳来寺弥陀堂を挙げている』。『鳳来寺境内の鏡岩下遺跡からは、灰釉陶器の碗1点、渥美窯産44点、瀬戸窯産23点、常滑窯産11点など計194点の土器が出土している。これによって、鳳来寺では12世紀後半~13世紀初頭に経塚が造営されたのち、13世紀以降は渥美窯産や古瀬戸、常滑窯産の蔵骨器を用いた納骨やそれを伴わない骨片を埋葬する中世墓となり、室町時代から岩壁に鏡の埋納が始まり、江戸時代には納鏡が最盛期を迎えたことが判明する。本堂をはじめ寺内でたびたび火災が発生して文書史料の多くが焼失している鳳来寺において、これら考古資料は中世から近世にかけて、鳳来寺がある特定の高貴な階層の人々による信仰の対象としての聖地(霊山)から本尊薬師如来を対象とする民間信仰の霊場に変容した様子を明らかにする貴重な資料である』。『戦国時代には、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けた。だが、豊臣秀吉の治世では300石のみを許されただけで、他は悉く没収された』。『江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄えた。徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、慶安4年(1651年)に完成をみたのである(東照宮などに限る)。最終的には、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となった』。『なお、家綱将軍の治世になっても諸僧坊の増築は続』き、多数の僧坊が建てられた。『東海道御油宿から延びる街道は鳳来寺道と呼ばれるなど、秋葉山本宮秋葉神社と並んで、この地方では数多くの参詣者を集めた』。「東海道名所図会」には、『煙厳山鳳来寺勝岳院(神祖宮 鎮守三社権現 六所護法神 開基利修仙人堂 常行堂三層塔 鏡堂 八幡宮 伊勢両太神宮 弁才天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 名号題目石 八王子祠 妙法滝 奥院 六本杉 煙厳山 勝岳院 瑠璃山 隠水 高座石 巫女石 尼行堂 行者帰 猿橋篠谷山伏堂 馬背 牛鼻)と、詳細な記載がある』。『明治に入るまで、東照宮の祭事を社僧や別当が行っていたため、新たに祠官が派遣された。ここに寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、東照宮が命脈を保つ一方で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかった』。『困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)112日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。他にも賢成住職の奔走による旧寺領の復権活動が実り、有償ながら国有林の譲渡が実現された』。『窮乏に喘いでいながらも譲渡資金は何とか捻出され、余剰金を残すことができた。この時、傷みの激しい堂宇の改築費用に充てることも考えられたが、賢成住職は地域住民に還元することを決断。鳳来寺鉄道、田口鉄道の敷設資金、鳳来寺女子学園の設立資金に使われた』。『大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建された。なお、明治初期まで存在した諸僧坊も度重なる火災と明治以降の窮乏で廃絶となり、今では松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。廃絶の諸僧坊跡地には石碑が立てられている』とある。なお、神仏分離されたる鳳来山東照宮の方については「十六 手負猪に追はれて」の「鳳來寺山三禰宜」の私の注を参照されたい。]

 明治維新前、鳳來寺が未だ全盛の頃の事である。山内十二坊中の岩本院で正月十四日の田樂祭りに、七種(なゝいろ)の開帳と言ふのがあつた。開祖利修仙人が百濟から將來した瑠璃の壺、龍の玉、熊の角、鹿の玉、一寸八分の籾、淨瑠璃姬姿見の鏡、東照公佩用の鎧兜の七種で、一人十二文づゝの料金を取つて拜觀させたと謂ふ。

[やぶちゃん注:「岩本院」「新編鎌倉志卷之一」で非常にお世話になった s_minaga氏のサイトの三河鳳来寺三重塔」のページの絵図その他で旧鳳来寺の全僧坊の位置が判る。同氏は著作権主張をされていないので、その中の追記のある一図「鳳来寺境内及寺有林図」を添えて参考に供し、これを以って旧鳳来寺寺域内の解説に代える。

Horaiji97

 

「田樂祭り」「田樂」は、初め、民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。田植えの際に、「田の神」を祭って歌い舞ったのが原形で、鎌倉時代から室町時代に流行し、専業の田楽法師も出た。能楽のもとである猿楽との関係が深い。鼓・腰鼓・笛・銅鈸子(どびょうし)・ささらなどを奏しながら舞う田楽踊りと、高足などの散楽系の曲芸のほか、物真似芸や能なども演じた。現在では民俗芸能として各地に残る(ここまでは小学館「大辞泉」に拠る)。ここはそれを集合した修験道・仏教・神道が取り入れた祭事である。

「利修仙人」ブログ「法螺貝の会 白山龍鳴会」のこちらによれば、利修は飛鳥時代の欽明天皇三一(五七〇)年に『山城の国(京都と奈良の間)に生まれたと』伝えられ、一説に『修験道の開祖である役行者の血縁だったという伝説もあ』るという。斉明天皇元(六五五)年、八十五歳の老齢で、『百済へ渡り、学問や仏教を修め、徳高い修験者として、広く知られて』いた。『利修仙人は、鳳来寺山の木の祠の中に住み、仙術を使って鳳凰に乗り、空を自由に駆け巡り、竜と仲良くしながら修行を続け』、『さらに』は三匹の『鬼を自在に使っ』たという。『仙人は、この山にあった霊木、七本杉の一本を切って、薬師如来を始め、幾つかの尊い像を彫刻し』たが、『これを岩上に祭ったのが鳳来寺の始まりで』、現在、『利修仙人の護摩場』と呼ばれるものは『鳳来寺の境内地より離れた岩場にあるため、鳳来寺開山の前に修行していたと思われ、日本でも最古級の護摩場であると推察でき』るとある。

「瑠璃の壺」古代のガラス製であろう。但し、鳳来寺の本尊は利修作と伝える薬師如来で、その像は普通、左手に瑠璃製の薬を入れる壺を持っているから、それを模したものである可能性が高い。

「龍の玉」お定まりのそれなら水晶の玉か。

「熊の角」無論、熊に角はないので、大型のツキノワグマの牙か爪であろう。或いは、熊に生じた硬質の角状の奇形腫瘍かも知れない。

「鹿の玉」後述される。

「一寸八分の籾」巨大な五・四五センチメートルもある籾(もみ)。

「淨瑠璃姬」次の「十三 淨瑠璃御前と鹿」に語られるが、この地の長者の娘で、後に義経の愛人となり、奥州へ去った彼の跡を慕って、ここに庵を結んで亡くなったという伝説上の女性である。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」が詳しく、そこに彼女の「鏡」も出る。

「東照公」徳川家康。]

 名前を聞くと何れも珍寶揃いであつた。その後如何になつたか消息を知らぬが、その中の鹿の玉だけは、岩本院沒落の後、不思議な譯で取殘されて、附近の家に祕藏して居る。ふとした動機から一度見た事があつた。鷄卵大の稍淡紅色を帶んだ玉で、肌の如何にも滑らかな紛れも無い鹿の玉であつた。此類のものは、未だ他にも竊かに藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家があつて、昵は前にも見た事があつたのである。祕藏者は前から岩本院に緣故のある者であつた。いよいよ沒落の折、方丈がその者を前に呼んで、これだけは此土地に殘して置くとあつて、讓られたものと言ふ。其一方には、ドサクサ紛れに盜み出したなどゝ、惡口を言ふ者もあつた。何れにしても傳へ殘して居たのは目出度かつた。

 かゝる物が、如何にして鹿の肉體中に生じたかは別問題として、土地の言傳へに依ると、澤山の鹿が群れ集つて、その玉を角に戴き、角から角に渡しかけて興ずるので、これを鹿の玉遊びと謂うて、鹿が無上の法樂であると謂ふ。あんな玉を角から角へ渡すのは、容易であるまいなどの事は一切言はぬ事にして、扨て[やぶちゃん注:「さて」。]其玉を家に祕藏すれば、金銀財寶が自づから集り來ると謂ふ。自分などが聞いた話でも、舊家で物持だなどゝ言えば、彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]には鹿の玉があるげなゝどと言うた。

 狩りを渡世にした者でも、滅多には手に入らぬ、よくよくの老鹿でない獲られ無いと言うた。それで一度び[やぶちゃん注:「ひとたび」。]手に入れゝば、物持などに隨分高く賣れたさうである。前に言うた行者越の狩人なども、曾て手に入れた事があると聞いた。

 或はそれに生玉(いきだま)死玉(しにだま)の區別があつて、如何に見事でも、鹿を殺して獲た物では何の効きめも無いと謂ふ。群鹿が玉遊びに興じて居る、それでなくば駄目だと言うのである。鳳來寺の岩本院にあつたのがそれだと、祕藏して居た老人は改めて掌に取つて見せた。そしてかう握りつめて居ると、自づと溫り[やぶちゃん注:「ぬくもり」。]があつて、幽かに脉[やぶちゃん注:「みやく」。脈。]が打つて來るなどゝ言うて昵と[やぶちゃん注:「じつと」。]目を瞑り[やぶちゃん注:「つむり」。]ながら、不思議なる脉を聞かうとするやうな風であつた。最後に叮嚀に紫の袱紗に包んで、元の箱に納めると、奧まつた部屋へ藏ひに立つて行つた。

 通例玉を祕藏して居る者は、金かなどのやうに[やぶちゃん注:金(かね)か何か等のように。]、祕密にして、玉があるなどとは、更におくびにも出さなんだのである。さうしてコツソリ祕藏して居る者が、案外其方此方[やぶちゃん注:「そちこち」。]の村にあるらしいのである。

[やぶちゃん注:「鹿の玉」は所謂、「鮓荅(サトウ/へいさらばさら)」のことである。これは真正のものは所謂、「結石」であって、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと推測される体内異物である。漢方では現在でも高価な薬用とされているらしい。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。他に「犬の玉」(「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」)や「牛の玉」(私の「耳囊 卷之四 牛の玉の事」を参照)などもある。但し、ただの石や人造物などの偽物も非常に多く出回っていたものと思う。

« 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十一 一ツ家の末路 | トップページ | 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿 »