早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十八 木地屋と鹿の頭
十八 木地屋と鹿の頭
甞て長篠驛から海老(えび)へゆく街道で、道連れになつた男があつた。いろいろ世間話をする内、北設樂郡段嶺村の者と知れた。その折聞いた事であるが、段嶺の奧の段戶山御料林中の、水晶山の木地屋部落へ入込んだ時に、其處の有力者らしい家に、見事な鹿の頭が二ツ、角づきのまゝ座敷に飾つてあつたさうである。何んとかして一ツ讓つて吳れぬかと、掛合つた末に、三十圓迄出すと言うたが、遂[やぶちゃん注:「つひ」。]肯わなんだと言ふ。何でも極く新しい木地屋部落で、最初は二三戶であつたのが、忽ち二三十戶に增へたと言うた。其處へ初めて木地屋が入込んだ頃には、附近の山中に、十五六づゝも群になつて、遊んで居る鹿を見る事は珍らしくなかつたさうである。段戶山の鹿は昔から有名であつた。次の話も同じ山中の話である。
[やぶちゃん注:「木地屋」山中の木を切り、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽とも呼ばれ、轆轤(ろくろ)を用いることから轆轤師ともいう。近江国小椋谷(おぐらだに)の蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑(きみがはた)を本貫地とし、惟喬(これたか)親王(承和一一(八四四)年~寛平九(八九七)年:平安前期の文徳天皇の第一皇子)を祖神とするという伝説を持つ。良材を求めて諸国の山から山へと漂泊を続け、江戸時代にも蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮)、君ヶ畑の金竜(きんりゅう)寺高松御所(大皇(おおきみ)大明神)が発行する偽作綸旨(りんじ)の写しや武家棟梁の免状の写しを権威とし、伐採や通行の自由を主張した。しかししだいに山間に土着して村生活を営むようになり、明治維新後、伝統的な木地屋社会は消滅していった。筒井公文所・高松御所は全国に散在する木地屋をおのおの筒井八幡宮・大皇大明神の氏子として組織し、綸旨や免状を発行する代りに、「氏子狩(氏子駆)」と称し、何がしかの奉加料・初穂料その他の儀式料を集めて各地を回った。これを記載したものを「氏子狩帳」「氏子駆帳」といい、筒井八幡宮に正保四(一六四七)年から明治二六(一八九三)年に至る三十五冊、金竜寺に元禄七(一六九四)年から明治にかけての五十三冊が伝わる(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。亡き澁澤龍彦の遺稿ノートによれば、彼の次回作は彼ら木地師と惟喬親王の関係を絡めた小説となるはずであったようである。
「長篠驛」現在の長篠城駅のある附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を中心とした旧宿場町ととる(長篠城駅、則ち、旧鳳来寺鉄道の長篠古城址駅は大正一三(一九二四)年四月開業で、本書刊行は大正一五(一九二六)年十一月である)。
「海老(えび)」新城市海老。
「北設樂郡段嶺」改訂版では『北設樂郡田峯(だみね)』とされてある。北設楽郡設楽町田峯。但し、これは誤りではない。スタンフォード大学の明治四一(一九〇八)年測図の「本郷」を見ると、東中央位置に「田峯」があるが、その左上の端に「段嶺村」と大きく書かれているからである。則ち、ここは「北設樂郡段嶺(だみね)村田峯(だみね)」であったのである。
「段戶山」複数回既出既注。「だんどざん」と読み、前の北設楽郡設楽町田峯にある鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称。
「御料林」先のスタンフォード大学の明治四一(一九〇八)年測図の「本郷」を今一度見てもらうと、「段嶺村」の左上に大きく広域で「段戶山御料林」とあるのが判る。
「水晶山」ここ(国土地理院図)。愛知県豊田市小田木町。段戸山からは直線でも七キロメートル近く北西に当たる。
「三十圓」現在の六十万円相当である。]
某の杣が山中の小屋に働いて居た時の事、一日ひどく雪が積つて、仕事が出來ぬ處からぼんやり小屋の前に立つて居ると、向ひの日陰山に鹿が二匹遊んで居た。そこで退屈凌ぎに仲間を誘ひ合つて、其鹿を遠卷きにして追立てた。すると鹿は一氣に峯を越して逃げてしまつたので、みんなして笑ひながら小屋へ引返して來ると、途中の一叢[やぶちゃん注:「ひとむら」。]伐殘した[やぶちゃん注:「きりのこした」。]茂みの中に、何やらムクムク動く物がある、よくよく見るとそれが鹿の群であつた。凡そ二十許りも居たと言ふが、尻と尻とを押合ふやうにして、木の影に塊り合つて居たさうである。直ぐ追散して[やぶちゃん注:「おひちらして」。]しまつたが、前の鹿を追つた時、どうして遁げなかつたか、不思議だと言うた。日露戰爭の濟んだ年あたりで、某は三十を少し出た年輩であつた。
[やぶちゃん注:「日露戰爭の濟んだ年」ポーツマス条約による講和は明治三八(一九〇五)年九月五日。]
又自分の村の山口某は、山中の杣小屋へ、村から飛脚に立つた時、途中の金床平(かなとこだいら)の高原で夥しい鹿を見たと言うた。途中の田峯村から日を暮して、金床平へ掛つた時は、八月十五夜の滿月が、晝のやうに明るかつたさうである。見渡す限り廣々とした草生へ掛つて、初めて鹿の群を見た時は、びつくりしたと言ふ。丸で放牧の馬のやうに、何十と數知れぬ鹿が、月の光を浴びて一面に散らかつて居たさうである。人間の行くのも知らぬ氣に、平氣で遊んで居たのは、恐ろしくもあつたが、見物でもあつた。中には道の中央に立塞つたり、脇から後を見送つて居るのもあつた。
夜遲く目的の山小屋へ着いたが、其處へ行くまでの間、高原を出離れてからも、五ツ六ツ位群になつたのには、數へ切れぬ程遇つたと言うた。明治二十年頃で、山口某はその頃二十五六の靑年であつた。
[やぶちゃん注:「金床平(かなとこだいら)」不詳。「田峯村から日を暮して」とあるから、この辺りのどこかの高原部となろうか。
「明治二十年」一八八七年。]
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