三州奇談卷之三 和歌の奇特
和歌の奇特
とつ國はさらにも云はず。しろしめすあめの久方明らかに、神路山(かみぢやま)の惠み深く、靑葉の林陰しげり、みもすそ川の流絕えず、いきとし生けるもの、皆敷島の道によらざるはなし。さらば此奇特は云ふもさらながら、金澤の士澤田彌左衞門家に享保いつの秋にや、不斗(ふと)礫(つぶて)を打つ事ありし後は、每夜になりて雨あられの如く打つ程に、家内の奴婢甚だ恐怖して此家に居兼ねければ、諸寺諸社に賴みて祕符巫祝(ふしゆく)の類を求めけれども、露許(ばかり)も其驗(しる)しなし。いか樣(さま)狐狸の業(わざ)にこそ。今川義元の、
夏はきつねになく蟬のから衣おのれおのれが身の上に着よ
と讀みて、妖を退(のぞ)くと聞(きこ)えければ、朋友の久津見源八郞常に神通をも崇め、又冷泉家の流を傳へて和歌の好士なればとて、賴み遣はしけるに一首を贈る。
生けるものよこしまならぬ心もて直(なほ)なる神のおしへ思はゞ
此短册を北面の柱に張置しに、其夜より彼(かの)怪事永くやみける。
[やぶちゃん注:「生けるもの……」の歌の「おしへ」はママ。
「神路山」伊勢神宮内宮の南方の天照(あまてる)山。歌枕。ここは固有名詞を神のしろしめす自然に言い換えた。
「みもすそ川」御裳濯川。伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川 (いすずがわ) の異称。倭姫命 (やまとひめのみこと) がこの清流で裳を洗い清めたという故事による名。歌枕。同前で自然の永遠の時の流れに言い換えた。
「澤田彌左衞門」「石川県立図書館」公式サイト内の検索により、「加賀藩史料」の「金沢大火事記」にこの名があることが判る。しかも、この「金沢大火」は他の諸資料から「宝暦の大火」と考えられ、宝暦九(一七五九)年四月十日出火、翌日までに場内殿閣及び民家一万五百八戸を焼き、死者二十六人。多量の備蓄米を失ったため、加賀藩は幕府から五万両を借り入れて急に当てたという記載が「加能郷土辞彙」の同項(国立国会図書館デジタルコレクション)にある。「三州奇談」の完成が宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されることとも、時制的に一致する。但し、以下「享保年中」(一七一六年~一七三六年)と言っているので、或いは当該人物でなければ、その親に当たる人物かも知れない。
「礫を打つ事ありし」怪奇現象としての「天狗の石礫(いしつぶて)」である。
「巫祝」民間の巫女(みこ)や男性のそれである巫覡(ふげき)の類い。
「今川義元」は北条氏康(永正一二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)の誤り。小田原の城郭内で秋に鳴くべきを夏に鳴いた狐を不吉とした氏康が、「きつね」の文字を句で断ち切った歌を詠むことで、その凶を狐に返したところ、その狐が翌朝になって死んだということがあったことを指す。但し、その翌年に氏康が死んだことから、それをその狐の祟りによるものだと考えた子の氏政は小田原城の山王口に北条稲荷と呼ばれた神社を作った(現存しない)ととあるサイトの旧記事にあった。しかし、歌人佐佐木幸綱氏のブログ「ほろ酔い日記」のこちらでは、本歌を挙げ、現代語訳・語注を附された後、『氏康が日ごろから、「自分が合戦で勝利してきたのは、武力のためばかりではない。神仏を信じ、そのご加護を祈ってきたからだ」と言っていたのを人々は思い出し、「この狐が死んだのも、氏康の歌の徳によって、起こるべき凶事を、狐がわが身に引き受けたせいだ」と言って、おどろき合ったということです』。『戦国時代のことです。この不思議な狐の死は、神のご加護によって、敵方の間者が未然に防がれたのだ、と人々は解釈したと伝えられます』ともある。なお、この一首は氏康の辞世ともされるようである。
「久津見源八郞」前田利家に仕えた久津見十兵衛がいるから、その末裔ででもあろうか。
「冷泉家」歌道の宗匠家の内の一つ。]
又長町三社(ながまちさんじや)の邊に三輪藤右衞門と聞えし士は、佐竹義直の内室成德院殿(じやうとくゐんでん)の御輿入(おこしいれ)の頃より仕へて、勤勞他事なく、終に病死しける。其婦人は吉田三太夫の娘にて、夫に別れてより愛執欝恨の病となり、次第に重く、醫藥鍼術樣々心を盡せども驗なく、浮腫脹滿(ちやうまん)して、芭蕉葉も空しく、初秋の風に戰(そよ)ぎて二便(にべん)[やぶちゃん注:大小便。]ともに通ぜず、今は玉の緖(を)も絕なんとするに、此婦人常に題目を崇め、殊には寺町妙立寺の祖像を深く信仰し、病中猶丹心を顯し、看病の奴婢なども悉く唱へ、題目の書寫をなさしめ、彼祖像の前に是を奉ることあまたゝびなり。然るに文月(ふづき)[やぶちゃん注:旧暦七月。]二十八日の晚方、一人の老僧夢に告げての給はく、
音こゝろよき瀧の白糸
と打吟じ、
「婦人此句を忘るゝ事なく、汝が舍弟山本惣助をして、此上の句をつがしめよ」
と三度(みたび)迄吟じ、敎へ玉ふと見て夢覺ける。
嬉しさ限なく、はやく弟の惣助を呼びて此事を語るに、
「兄弟も多きうち我名をさして示し給ふ事の有難さよ。偏(ひとへ)に妙立寺の祖像の御告げなるべし」
と丹誠を致して、
はらからのたまりし水をながす時
と取あえず[やぶちゃん注:ママ。]吟詠して、妙立寺祖像の前に奉納しける。
夫より病婦二便共に快通し、浮腫も引き本復して、渴仰する輩(ともがら)、流るゝ如し。
[やぶちゃん注:「長町三社」石川県金沢市三社町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「三輪藤右衞門」不詳。
「佐竹義直」不詳。その「内室成德院殿」も不詳。【2020年3月5日:削除・追記】T氏より情報を戴いた。正しくは「佐竹義眞」(よしまさ 享保一三(一七二八)年~宝暦三(一七五三)年)で、出羽国久保田藩第六代藩主。 正室は加賀藩第五代藩主前田吉徳三女揚(よう)で、彼女が嫁に行ったのは宝暦二(一七五二)年七月一日である。時期を示すためだけのものであるが、この佐竹義真はその翌年、体中に腫物が発生し、足が麻痺して死に至ったという。享年二十六の若さであった。二人の間に子はできなかった。江戸時代の講談では彼の死を毒殺としている旨の記載がウィキの「佐竹義真 」にあった。
「吉田三太夫」不詳。
「妙立寺」石川県金沢市野町にあり、忍者寺で知られる。三代藩主前田利常が創建した。
「山本惣助」不詳。
「浮腫も引き本復して、渴仰する輩(ともがら)、流るゝ如し。」の末尾部分は、国書刊行会本では、
『浮腫も引き本復して、忽ち平常に帰る。城下の貴賤聞伝(ききつた)ひ、此(この)日蓮堂に詣でゝ三嘆して渴仰する輩(ともがら)、流るゝがごとし。』
となっていて、そのコーダの方が遙かに親切で躓かない。]
又同長町武田判太夫は、當時正親町(おほぎまち)中納言實福(さねとみ)卿の子孫也。中納言の子は大納言實道卿の其四男信堅、加州利常公に仕へて祿千五百石を給はる。祖父實福卿の母儀は、甲州武田信玄の娘なりし故、信堅は武田を名乘りて、其子信康も佳名高く、殊に今の判太夫信知は、則當家六代の君邊に勤勞して、越中の令司を勤められし。然るに近年正親町家にいつとなく音信も遠ざかり居られしに、寶曆十一年の冬、大納言杯水卿の用人より紙面にて、
「領知の百姓不熟にて惠み遣はすべき値なし。金百兩をかり用ひ度(たし)」
由申來りける。されど武田家にも、近年重き役に餘慶迚(とて)もなし。出入の町家にも逼迫の時節なれば、調ひ難き旨返事せられけるに、其明年(あけのとし)、越中の僧何某京に逗留のうち、由緣有て此大納言の前に出でられしに、
「金澤へ行かるゝ事あららば、文(ふみ)一つ言傳(いひつたは)すべし」
とありし程に、正親町家の事なれば、畏りて文箱(ふばこ)を受取り、此武田家に屆られしに、判太夫信知頓(やが)て披見ありしに、只短册に一首のみ有りし。
前大納言實連
越路にはこがねの澤のありと聞けばかりがねにこそ送る玉章(たまづさ)
とありし程に、大家の詞詮方なく、頓て奉禮の使者立ちて百金を調へ送れしとなり。和歌の德樣々なるべけれども、かゝる通用にだも事調ひし事、是又一奇談なるべし。
[やぶちゃん注:「武田判太夫」「加能郷土辞彙」のこちらの「タケダクランド 武田藏人」に、『正親町三條大納言の子。前田利常に仕へ千百五十石を受けた。子孫相繼いで藩に仕へる』とある人物の子孫であろう。
「正親町中納言實福卿」室町後期の公卿正親町三条実福(天文五(一五三六)年~永禄一一(一五六八)年)。従二位・権中納言。ウィキの「正親町三条実福」によれば、天文九(一五四〇)年に叙爵、『以降累進して、侍従・越前介・右近衛少将・尾張権介を経て』、弘治三(一五五七)年に』『参議となり、公卿に列する』。永禄元(一五五八)年に『甲斐国へ下向したが、翌年には帰京』、永禄五(一五六二)年に『権中納言に任じられる』。永禄八(一五六五)年)には『駿河国へ下向。その翌年には帰京したが』、永禄一〇(一五六七)年には『正親町天皇の勅勘を被り、蟄居を命じられ』、『その翌年に薨去。享年』三十三。母は『加賀介藤原某(富樫氏と言われる)の娘』とあり、接点がある。
「大納言實道卿」国書刊行会本では『大納言実有卿』とあり、正親町三条実福の子正親町三条公仲(きみなか)の子に正親町三条実有(さねよし 天正一六(一五八八)年~寛永一〇(一六三三)年)は権大納言であるから、この誤りであろう。則ち、「子」ではなく、「孫」である。
「信堅」不詳。国書刊行会本では『信賢』とするが、正親町三条公仲にも、正親町三条実有にも、「信堅」「信賢」という子はいない。先に示した「武田藏人」の事蹟とは「加州利常公に仕へて祿千五百石を給はる」と一致するが、事蹟を追いきれなかった。
「祖父實福卿の母儀は、甲州武田信玄の娘なりし」先のウィキの記載とは異なる。
「信康」不詳。
「判太夫信知」不詳。
「令司」不詳。朝廷との伝令役か。
「寶曆十一年」一七六一年。この二年前に先に注で示した「宝暦の大火」(宝暦九(一七五九)年四月)があり、加賀藩は大打撃を受けていて、加賀藩自体が幕府から実に五万両の借り入れをしてさえいるのだから、金が出せなかったのは腑に落ちる。
「大納言杯水卿」不詳。「近世奇談全集」のみ『林水』とする。この時期の正親町家の大納言は三条公積(きんつむ 享保六(一七二一)年~安永六(一七七七)年)がいるものの、彼はウィキの「正親町三条公積」によれば、宝暦八(一七五八)年に、『幕府による弾圧事件「宝暦事件」に連座して蟄居せざるを得なくなった。桃園天皇も公積を側近として重用していたが、この事件後、幕府の圧力で官職を止めざるを得なくな』り、さらに宝暦一〇(一七六〇)年には『出家させられており、薨去まで完全に朝廷から切り離された』とある。或いは彼が最早、こうした失脚によって首が回らない中、かく懇請したともとれなくはないが、「杯水」「林水」の通称は見られない。歌には「前大納言實連」とあるが、これも見当たらぬ名である。
「領知」領している知行地。]