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2020/03/16

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 始動 / 序(上田敏)・沈める鐘⦅序詩⦆

[やぶちゃん注:石川啄木の処女詩集「あこがれ」は明治三八(一九〇五)年五月三日に東京の小田島(おだじま)書房から刊行された。収録詩篇七十七篇(學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の今井泰子氏の「石川啄木作品事典」によれば、『明治三十六年十一月から明治二十八年三月十八日までの間に作られた文語定型詩』で、『特に冒頭の五篇は、詩として最初の作品にして、かつ初めて啄木の号を使用したものとして記念される』ものという)。定価五十銭。序詩を上田敏が、跋を与謝野鉄幹がものしている。装幀は啄木の同郷の友人石掛(いしがかり)友造。

 当時、啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日)は満十九歳。刊行前後は、前年明治三十七十月三十一日に本詩集発行を目的として上京しており、発行日にも在京であったが、刊行直前の五月十二日に父一禎が啄木と堀合節子との婚姻届を盛岡市役所に提出している。しかし、この間の明治三十七年末の十二月二十六日、父一禎は宗費百三十円余の滞納のために曹洞宗宗務院より渋民村の宝徳寺の住職罷免処分を受けており、啄木はこれを知って六月四日に盛岡に帰り、父母と新妻と啄木の妹光子の五人の生活を渋民村の新居(宝徳寺からの退去は啄木のいなかった三月一日であった)で開始している。

 底本は早稲田大学図書館公式サイト内の「早稲田大学図書館古典籍総合データベースの本初版本の画像を視認した。なお、同サイトは画像のリンクは許可しているが、画像自体の使用は認めていないので、必要とした部分ではHTML版の当該パートのリンクを施して、初版をヴァーチャルに味わえるように配慮した。但し、加工用データとして、「あどけない詩」氏のブログ「あどけない詩〜詩と詩人の紹介〜」の三分割((1)(2)(3))の詩集「あこがれ」(新字旧仮名。底本は(ブログ主は『親本』と呼称しておられる)「石川啄木全集」昭和五四(一九七九)年筑摩書房刊と考えられる)を使用させて頂いた(但し、既に今回の私の電子化のこのページ内だけで残念ながら幾つかの誤字を発見した)。不審な箇所は所持する昭和五四(一九七九)年筑摩書房刊「石川啄木全集 第二巻 詩集」と校合した。傍点「ヽ」は太字に代え、踊り字「〱」「〲」は正字化した。各篇の本文は中央位置でかなり下げた位置に記されるが、それは再現せず、行頭まで引き上げてある。また、最後のクレジットはずっと下方にあるが、これも有意に引き上げた。

 なお、ルビが五月蠅いので、底本通りの読みを最初に振ったものを示した上で、煩を厭わず、後に「*」を挟んで大方の読みを排除したもの(一部の難訓を残した)を示した。

 ストイックに主に若い読者を想定して私のオリジナル注を附した。【2020316日始動:藪野直史】]

 

 

 文學士上田敏君序

          石川啄木著

  與謝野銕幹君跋

 

新體

   あ こ が れ

詩集

 

[やぶちゃん注:カバーと思われるものの表(表紙側。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。字はブルー。「あこかれ」の清音はママ。石掛友造(「友」の書名が左下にある)の若い婦人像(ブルーの地に白の版画)が右に縦に入っている。

 そのカバーの裏の側(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。中央に小さく丸いやはり若い婦人の像(同じくブルーの地に白の版画。一見、猫か犬のようにも見えるが、私は婦人ととる)。サインは見えない(印刷時に潰れてしまった可能性が大きい。次を参照)。カバー全体はこちら(同前)。

 

 

     石川啄木著

      あ こ か れ

 

[やぶちゃん注:本体表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。「あこかれ」はママ。石掛友造のデフォルマシオンされた図が配されてある。桔梗(ききょう)の図案化か。清音はママ。地はもとは暗い深い藍色か暗緑色か。]

 

 あ こ が れ  東京 小田島書房發行

 

[やぶちゃん注:(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。

 本体裏表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。カバー裏と同じ図案であるが(地色は前の本体表紙と同じ)、こちらは地の左手に「友」のサインがはっきり認められる。

 

 

 あ こ が れ   石川啄木著

 

[やぶちゃん注:扉表紙(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。]

 

此   書   を

尾 崎 行 雄 氏

に献じ併て遙に

故 鄕 の 山 河

に   捧   ぐ

 

[やぶちゃん注:献辞。字配は初版の当該ページの画像(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)通りにした。

「尾崎行雄」(安政五(一八五八)年~昭和二九(一九五四)年)は政党政治家。号は学堂、後に咢堂。 相模生まれ。明治九(一八七六)年、慶應義塾中退後、福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆とある。後、大隈重信に招かれ、統計院権少書記官となったが、所謂、「明治十四年の政変」により下野、明治一六(一八八二)年、大隈系の『郵便報知新聞』に入社した。同年には大隈の立憲改進党に入党、明十七年には『報知新聞』特派員として中国に渡った。翌明治十八年、東京府議会議員となり、明治二三(一八九〇)年の第一回衆議院議員総選挙に三重県から立候補して当選した。明治二九(一八九六)年には外務省参事官、明治三十一年には隈板内閣(わいはんないかく:与党となった憲政党の内、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織した、日本史上初の政党内閣)の文部大臣となったが、帝国教育会での所謂「共和演説」(尾崎の舌禍事件。金権万能の現状を批判し、日本が共和制になったら、三井・三菱が大統領候補になるだろうという演説を行い、それが不敬とされて批判された事件)により、同年辞職。三次三三(一九〇〇)年、伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加した。明治三六(一九〇三)年東京市長となり、明治四四(一九一一)年、外債により私営電車を買収して東京市電の経営を始めた。翌大正元(一九一二)年に桜の苗木三千本をワシントンD.C.に贈呈したことはよく知られている。また、大正三(一九一四)年大隈内閣の司法大臣に就任、進歩党総務・憲政会筆頭総務をも務めた。衆議院議員当選回数二十五回。日本の軍国主義時代にあって軍と妥協せず、そのため太平洋戦争中,東条内閣により翼賛選挙で不敬罪として起訴されたが、無罪となった。第二次世界大戦後は平和運動家として世界連邦制の確立のために努力した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。実は啄木は尾崎と面識があったわけではないようである。尾崎は與謝野鉄幹(本書跋を執筆)・鳳晶子らと交際があり、文筆家としても知られ、当時は東京市長であったことから、詩集刊行の援助や売れ行きを考えて、突如、彼をこの献辞原稿を携えて尾崎を訪問したものらしい。その時にどういなされたか等はいろいろなネット記事に見出せるのでそちらを読まれたいが、啄木の無謀ぶりには呆れるものがある。

「併て」「あはせて」。

 以下、上田敏による序詩。開始は左ページから(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。当時(明治三八(一九〇五)年)の上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)は東京帝国大学講師在職中か。彼は本書刊行から五ヶ月後の同明治三八年十月、かの名訳詩集「海潮音」を刊行している。以下の序詩は上田敏が本詩集のために書き下ろしたもので、大正九(一九二〇)年刊の訳詩集「牧羊神」に、特異的に挿入された上田の数少ない創作詩篇五篇の内の一つとして入れられてある。

 

 

  啄 木

         上 田  敏

婆羅門(ばらもん)の作(つく)れる小田(をだ)を食(は)む鴉(からす)、

なく音(ね)の、耳(みゝ)に慣(な)れたるか、

おほをそ鳥(どり)の名(な)にし負(を)ふ

いつはり聲(ごゑ)のだみ聲(ごゑ)を

又(また)なき歌とほめそやす

木兎(づく)、梟(ふくろふ)や、椋鳥(むくどり)の

ともばやしこそ笑止(せうし)なれ。

聞(き)かずや、春(はる)の山行(やまぶみ)に

林(はやし)の奧(おく)ゆ、伐木(ばつぼく)の

丁々(たうたう)として、山(やま)更(さら)に

なほも幽(いう)なる山彥(やまびこ)を。

こはそも仙家(せんか)の斧(をの)の音(ね)か、

よし足引(あしびき)の山姥(やまうば)が

めぐりめぐれる山めぐり、

輪廻(りんゑ)の業(ごふ)の音(おと)づれか、

 

いなとよ、ただの鳥(とり)なれど、

赤染(あかぞめ)いろのはねばうし、

黑斑(くろふ)、白斑(しらふ)のあや模樣(もやう)、

紅梅(こうばい)、朽葉(くちば)の色(いろ)許(ゆ)りて、

なに思(おも)ふらむ、きつつきの

つくづくわたる歌(うた)の枝(えだ)。

 

げに虛(うつろ)なる朽木(きうぼく)の

幹(みき)にひそめるけら虫(むし)は

風雅(ふうが)の森(もり)のそこなひぞ、

鉤(か)けて食(くら)ひね、てらつつき。

また人(ひと)の世(よ)の道(みち)なかば

闇路(やみぢ)の林(はやし)ゆきまよふ

誠(まこと)の人(ひと)を導(みちび)きて

歡樂山(くわんらくざん)にしるべせよ。

噫(あゝ)、あこがれの其歌(そのうた)よ、

そぞろぎわたり、胸(むね)に泌(し)み、

さもこそ似(に)たれ、陸奧(みちのく)の

卒都(そと)の濱邊(はまべ)の呼子(よぶこ)どり

なくなる聲(こゑ)は、善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)。

 

   *

 

  啄 木

         上 田  敏

婆羅門の作れる小田を食む鴉、

なく音の、耳に慣れたるか、

おほをそ鳥の名にし負ふ

いつはり聲のだみ聲を

又なき歌とほめそやす

木兎(づく)、梟や、椋鳥の

ともばやしこそ笑止なれ。

聞かずや、春の山行(やまぶみ)に

林の奧ゆ、伐木の

丁々として、山更に

なほも幽なる山彥を。

こはそも仙家の斧の音か、

よし足引の山姥が

めぐりめぐれる山めぐり、

輪廻の業の音づれか、

 

いなとよ、ただの鳥なれど、

赤染いろのはねばうし、

黑斑(くろふ)、白斑(しらふ)のあや模樣、

紅梅、朽葉(くちば)の色許(ゆ)りて、

なに思ふらむ、きつつきの

つくづくわたる歌の枝。

 

げに虛(うつろ)なる朽木(きうぼく)の

幹にひそめるけら虫は

風雅の森のそこなひぞ、

鉤(か)けて食(くら)ひね、てらつつき。

また人の世の道なかば

闇路の林ゆきまよふ

誠の人を導きて

歡樂山(くわんらくざん)にしるべせよ。

噫、あこがれの其よ、

そぞろぎわたり、胸に泌み、

さもこそ似たれ、陸奧の

卒都(そと)の濱邊の呼子どり

なくなる聲は、善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)。

 

   *

[やぶちゃん注:「輪廻(りんゑ)」はママ。

「色許(ゆ)りて」そうした多様な、ある意味、ゴテゴテした色を許してまで、の謂いであろう。

「卒都(そと)の濱邊」青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の、陸奥湾沿岸を指す古来の広域地名で、北辺の絶境の地としての広義の認識であり、上田がこの漢字「卒都」を選んでいるのもそれを意識してのことと考えられる。

「善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)」「外ヶ浜」の陸奥湾最深部に位置する、青森市安方善知鳥(やすかたうとう)神社(グーグル・マップ・データ)のウィキの記載によれば、ここの縁起は『允恭天皇の時代、善知鳥中納言安方という者が勅勘を受けて外ヶ浜に蟄居していた時、高倉明神の霊夢に感じて干潟に小さな祠を建設し、宗像三神を祀ったのが神社の起こりと伝わ』り、『安方が亡くなると、見慣れない一番の鳥が小祠のほとりに飛んできて雄はウトウと鳴き、雌はヤスカタと鳴くので、人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬ったが、ある日』、『猟師が誤ってこの雄鳥を狙撃してしまい、以後』、『雄鳥によって田畑が荒らされた。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた同郷の人々は雄鳥を丁重に弔った』とあり、またウィキの謡曲「善知鳥」も本意を解釈する縁(よすが)となる。同曲は『ウトウという鳥を殺して生計を立てていた猟師が死後亡霊となり、生前の殺生を悔い、そうしなくては生きていけなかったわが身の悲しさを嘆く話』で、『人生の悲哀と地獄の苦しみを描き出す哀しく激しい作品となっている』。『旅の僧侶が立山にさしかかったとき、猟師の亡霊が現れ、現世に残した妻と子のところに蓑笠を届けて、仏壇にあげるように頼む。僧侶は承諾するが、この話を妻子に信用させるために何か証拠の品を渡すように言い、猟師は生前着ていた着物の片袖を渡す。僧侶が陸奥国の外の浜にある猟師の家を訪ね、妻子に片袖を見せると二人はただ泣くばかり。僧侶が蓑笠を仏壇にあげて経を唱えると、猟師の亡霊が現れ、地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆く。ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用して声真似をして雛鳥を捕獲していたため、地獄で鬼と化したウトウに苦しめられ続けていると話し、僧侶に助けを求める』という展開で、『また、ウトウという海鳥は、親鳥が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子の鳥が「やすかた」と鳴いて居場所を知らせると言われ、それを利用して猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわるという言い伝えがあり、そのために捕獲の際には蓑笠が必要とされた』とある。啄木鳥の声の虚ろな響きに、海鵜の伝承の持つ多層的な哀感を利かせてコーダとしたものである。

 以下、目次が続くが、必要を感じないので省略する。]

 

 

 

あ こ が れ

        詩 石川啄木

  沈める鐘⦅序詩⦆

 

   

 

渾沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、

光を天(あめ)にも劃(わか)ちしその曙、

五天の大御座(おおみざ)高うもかへらすとて、

七寶(しちほう)花咲く紫雲の『時』の輦(くるま)

瓔珞(えうらく)さゆらぐ軒より、生(せい)と法(のり)の

進みを宣(の)りたる無間(むげん)の巨鐘(おほがね)をぞ、

永遠(とは)なる生命(いのち)の證(あかし)と、海に投げて、

蒼穹(あをぞら)はるかに大神(おほかみ)知ろし立ちぬ。

 

時世(ときよ)は流れて、八百千(やほち)の春はめぐり、

榮光いく度さかえつ、また滅びつ、

さて猶老(おい)なく、理想の極まりなき

日と夜の大地(おほぢ)に不斷(ふだん)の聲をあげて、

(何等の靈異ぞ)劫初(ごふしよ)の海底(うなぞこ)より

『祕密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。

 

    

 

朝(あした)に、夕(ゆふべ)に、はた夜の深き息(いき)に、

白晝(まひる)の嵐に、擣(つ)く手もなきに鳴りて、

絕えざる巨鐘、──自然の胸の聲か、

永遠(とは)なる『眠(ねむり)』か、無窮(むきう)の生(せい)の『覺醒(さめ)』か、──

幽(かす)かに、朗(ほが)らに、或は雲にどよむ

高潮(たかじほ)みなぎり、悲戀(ひれん)の咽び誘ひ、

小貝(をがひ)の色にも、枯葉のさゝやきにも

ゆたかにこもれる無聲の愛の響。

 

悵(いた)める心に、渴(かは)ける靈の唇(くち)に、

滴(したゞ)り玉なす光の淸水(しみづ)めぐみ、

香りの雲吹く聖土(せいど)の靑き花を

あこがれ戀ふ子(こ)に天(あめ)なる樂(がく)を傳ふ

救濟(すくひ)の主(あるじ)よ、沈める鐘の聲よ。

ああ汝(なれ)、尊とき『祕密』の旨(むね)と鳴るか。

 

    

 

ひとたび汝(な)が聲心の弦(いと)に添ふや、

地の人百(もゝ)たり人爲(じんゐ)の埒(らち)を超(こ)えて、

天馬(てんば)のたかぶり、血を吐く愛の叫び、

自由の精氣を、耀(かゞや)く靈の影を

あつめし瞳(ひとみ)に涯(はて)なき涯を望み、

黃金(こがね)の光を歷史に染めて行ける。

彫(ゑ)る名はさびたれ、かしこに、ここの丘(をか)に、

墓碑(はかいし)、──をしへのかたみを我は仰(あふ)ぐ。

 

暗這(は)ふ大野(おほの)に裂(さ)けたる裾(すそ)を曳(ひ)きて、

ああ今聞くかな、天與(てんよ)の命(めい)を告ぐる

劫初の深淵(ふかみ)ゆたゞよふ光の聲。──

光に溢れて我はた神に似るか。

大空(おほぞら)地と斷(た)て、さらずば天(あめ)よ降(お)りて

この世に蓮(はし)滿(み)つ詩人の王座作れ。

            (甲辰三月十九日)

 

   *

 

  沈める鐘⦅序詩⦆

 

   

 

渾沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、

光を天(あめ)にも劃(わか)ちしその曙、

五天の大御座(おおみざ)高うもかへらすとて、

七寶花咲く紫雲の『時』の輦(くるま)

瓔珞さゆらぐ軒より、生と法(のり)の

進みを宣りたる無間(むげん)の巨鐘(おほがね)をぞ、

永遠(とは)なる生命(いのち)の證(あかし)と、海に投げて、

蒼穹(あをぞら)はるかに大神(おほかみ)知ろし立ちぬ。

 

時世(ときよ)は流れて、八百千(やほち)の春はめぐり、

榮光いく度さかえつ、また滅びつ、

さて猶老なく、理想の極まりなき

日と夜の大地(おほぢ)に不斷の聲をあげて、

(何等の靈異ぞ)劫初の海底(うなぞこ)より

『祕密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。

 

    

 

朝(あした)に、夕(ゆふべ)に、はた夜の深き息に、

白晝(まひる)の嵐に、擣(つ)く手もなきに鳴りて、

絕えざる巨鐘、──自然の胸の聲か、

永遠なる『眠(ねむり)』か、無窮の生の『覺醒(さめ)』か、──

幽かに、朗(ほが)らに、或は雲にどよむ

高潮(たかじほ)みなぎり、悲戀の咽び誘ひ、

小貝(をがひ)の色にも、枯葉のさゝやきにも

ゆたかにこもれる無聲の愛の響。

 

悵(いた)める心に、渴ける靈の唇(くち)に、

滴(したゞ)り玉なす光の淸水めぐみ、

香りの雲吹く聖土の靑き花を

あこがれ戀ふ子に天(あめ)なる樂を傳ふ

救濟(すくひ)の主(あるじ)よ、沈める鐘の聲よ。

ああ汝(なれ)、尊とき『祕密』の旨(むね)と鳴るか。

 

    

 

ひとたび汝(な)が聲心の弦(いと)に添ふや、

地の人百(もゝ)たり人爲の埒(らち)を超えて、

天馬(てんば)のたかぶり、血を吐く愛の叫び、

自由の精氣を、耀く靈の影を

あつめし瞳に涯なき涯を望み、

黃金(こがね)の光を歷史に染めて行ける。

彫る名はさびたれ、かしこに、ここの丘に、

墓碑(はかいし)、──をしへのかたみを我は仰ぐ。

 

暗這ふ大野に裂けたる裾を曳きて、

ああ今聞くかな、天與の命(めい)を告ぐる

劫初の深淵(ふかみ)ゆたゞよふ光の聲。──

光に溢れて我はた神に似るか。

大空地と斷て、さらずば天(あめ)よ降(お)りて

この世に蓮(はし)滿つ詩人の王座作れ。

            (甲辰三月十九日)

[やぶちゃん注:底本の各詩篇の表題の文字は独特の丸みを帯びた特徴的なフォントである。例えば本「沈める鐘」を見られたい(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。個人的には非常に心地よい柔らかさを与えるいい字体である。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の今井泰子氏の「石川啄木作品事典」によれば、この詩集の『書名は最初』まさに本篇の表題と同じ「沈める鐘」と『称される予定で』、この『序詩に使用された同題の詩も早くから用意されていた。海底の鐘の音を心中に聞くというその着想は、ヴィネータ伝説を歌う英詩から得られたらしいが、十世紀頃のその都市伝説を開闢時の物語に作り変え、自らを創造主の意を体した詩人にみたてるほど、当時の』文学面に於ける『啄木は疑いを知らぬ至福の状態にいた。文学史的に見れば、泣菫。有明調の驥尾』(きび:駿馬の尾。「驥尾に付く」で「先達を見習って行動する」ことを遜って言う)『つく詩集に過ぎないとしても、啄木個人にとっては、まずは内的必然性を充分に伴い、詩壇の嘱望も受けた幸福な出発であった』。『しかし書名が『沈める鐘』から『あこがれ』に改められる頃には、すでに熱狂は薄れ始め、その立場も地上からする天上への憧憬に移行しつつあり、ついで詩集刊行時に起こ』った『環境の激変が、やがて、この出発時の世界に対する疑惑を促していくことにな』ったと評されておられる。「ヴィネータ」は十世紀より以前にポーランド西部のバルト海沿岸にあったとされる港湾都市であったが、不道徳と放埓の限りを尽くした結果、ソドムとゴモラのように神によって罰せられて沈んだとされるものである。なお、本篇には初出があり、『時代思潮』明治三七(一九〇四)年四月号である。以下の詩篇も多殆んどは初出があり(全七十七篇中、七十四篇)、詩集収録に際してかなりの推敲による変化があるが、特に私が詩想上で大きな異同と認めないものは、それを示さない。

「渾沌(こんどん)」濁音はママ。

「無間(むげん)」絶え間がないこと。

「尊とき」「たつとき(たっとき)」と訓じておく。

「蓮(はし)滿(み)つ」不審。「蓮」に「はし」という読みや「ハス」の異名はない。或いは東方弁の訛りだろうか? 識者の御教授を乞う。

「甲辰三月十九日」「甲辰」(きのえたつ)は明治三十七年で、一九〇四年。]

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