早川孝太郎 猪・鹿・狸 正字正仮名版 全電子化注始動 / 凡例・ 猪 一 狩人を尋ねて
[やぶちゃん注:本書は東京市小石川区の郷土研究社から大正一五(一九二六)年十一月に『鄕土硏究社第二叢書』の一冊として刊行されたものである。内容は表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集である。
著者早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年:パブリック・ドメイン)は民俗学者・画家。画家を志して松岡映丘(本名は輝夫)に師事、映丘の兄柳田國男(彼は松岡家から柳田家の養嗣子となった)を知り、民俗学者となった。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、昭和五(一九三〇)年に同祭りを中心に三河地方の祭りを論じた大著「花祭」を刊行した。他にも精力的に農山村民俗の実地調査を行っている。
底本は初版の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。当初、全く零からやり始めるつもりであったが、本文パート(「跋」を除く)に関しては、網迫氏のサイト『網迫の「質より量」』で二〇一〇年十月に公開された未校正の本書の三分割版の新字新仮名版があるのを、本日、発見し(同サイトはずっと昔から知っていたが、早期退職後、自己のサイトに掛かりっきりになるにつれて、つい御無沙汰していた)、加工データとして利用させて戴くこととした。心より感謝申し上げる。
また、芥川龍之介は自死する凡そ八ヶ月前、大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に「猪・鹿・狸」と題して本書の極めて好意的な書評を掲載している。私はその電子化注を二〇一七年に行って以来、本書の電子化注も是非やりたいと考えて読み続けてきていたという経緯がある。【2020年3月20日追記】実は昨日夜になって、いつも情報や私の誤りの御指摘を頂くT氏より、本書の後の改訂本(筆者自身による)が昭和一七(一九四二)年に文一路社から同じく「猪・鹿・狸」のタイトルで出版されていることを知り、しかもそれも国立国会図書館デジタルコレクションで読めることを知らされた。と言っても私は初版電子化を既に「猪」パートを終わっており、底本を変える意志はないのだが、向後、注を附す際の参考には是非したいと考えている(既に電子化したものについてはこれからゆるゆると比較してみる予定である。縦覧したところ、挿絵は本初版のそれよりも、かなり大きく、しかも追加で加えられたものも多い。必見である)。ただ、その改訂本の「凡例・その他」のこちらに、芥川龍之介に係わる追記がなされてあったので、以下に掲げる。
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一 最後に本の標題であるが、之はこの本に續いて「鷹、猿、山犬」及び「鳥の話」を刊行し、二部作或は三部作としたい氣持もあつて撰んだものであつた。實は書名に就いて、當時健在であられた芥川龍之助さんから、自分は近く「梅、馬、鶯」といふ本を出す豫定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたといふ意味を申送られたものであつた。
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ここに出る芥川龍之介の書簡は少なくとも岩波旧全集には見当たらない。なお、「芥川龍之助」はママである。芥川龍之介が如何に自立的に早川孝太郎氏に著作物に非常な興味を持っていたかは、大正十二(一九二三)年十一月に雑誌『随筆』に分載した「澄江堂雜記」の中の終章「家」を読めば判る(リンク先は私の古いサイト版)。
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家
早川孝太郎氏は「三州橫山話」の卷末にまじなひの歌をいくつも掲げてゐる。
盜賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間に何ごとあらば起せ、桁梁」
火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁に雪の桁、雨のたる木に露の葺き草」
いづれも「家」に生命を感じた古へびとの面目を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後に生れるものは是等の歌を讀んだにしろ、何の感銘も受けないかも知れない。或は又鐵筋コンクリイトの借家住まひをするやうになつても、是等の歌は幻のやうに山かげに散在する茅葺屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
なほ次手に廣告すれば、早川氏の「三州橫山話」は柳田國男氏の「遠野物語」以來、最も興味のある傳說集であらう。發行所は小石川區茗荷谷町五十二番地鄕土硏究社、定價は僅かに七十錢である。但し僕は早川氏も知らず、勿論廣告も賴まれた譯ではない。
附記 なほ四五十年前の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁も聽け、明けの六つにほ起せ大びき」
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なお、昨日はもう一つ、そのT氏からサイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページを紹介された。非常に驚くべき強力なページで、本「猪・鹿・狸」も全電子化(但し、新字新仮名で総てPDF)されてあり、他の早川氏の著作もPDFで読める。また、一部に簡単な注や現在の現地の写真が添えられてある。そうして、ここで龍之介の指示する「三州橫山話」も、こちら(PDF)で読めるのである。
踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部で主に若い読者を仮想対象としてストイックに注を附した。挿絵も画家である筆者のものであるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして適切な位置に配する。
やっと私は誰にも繋がらない私の孤独に帰ることが出来た気がしている。【2020年3月6日始動 藪野直史】]
鄕土硏究社第二叢書 4
猪・鹿・狸 早川孝太郞著
[やぶちゃん注:扉の表題。全体が角の丸い枠で囲われており、「猪・鹿・狸」が角枠でやはり囲まれてある。]
凡 例
一 猪と鹿と狸と、それぞれに因緣や連絡があつたわけではない。
一 話に出てくる地名で、單に村の名だけを記して、郡名を省いたものは、南設樂郡内の事である。
[やぶちゃん注:「南設樂郡」(みなみしたらぐん)は現在の新城市(グーグル・マップ・データ)の大部分(豊川・宇連川以南及び作手中河内・川合・池場を除く)に相当する。]
一 村の名を言ふ場合に、例へば長篠村淺畑とか、鳳來寺村峯とある類は、多くの場合、その間へ、大字の文字がはいることである。然し中には、昔の話のまゝに、現在の行政區劃を無視したものもあつた。郡名と小字を言うた類のものである。
一 大字の名を省いて、村名と小字だけのものもあつた。又鳳來寺山東方にある何々の部落の如く、村名を省いたものもあつて、一定して居ない。多くは話の感じに重きをおいてやつた爲である。まるきし不明の點もあるまいと思ふが、反つて煩はしくなつたことは恐縮の他ない。
一 地名の讀方は、大抵一回だけ、振假名を附けて置いた。なかには重複したものもあるやうで目觸りである。或は又、當然必要がないと思ふもので、そのまゝ置いたものもある。
一 話の年次は今から何年前といふ風のものは、現在を基準としたのである。明治何年頃と言ふ類は、多く自分が推定したものである。
一 話の順序と標題は、内容に據つたものではない。多く感じの上の分類でなかには同じ標題の中に、異なつた幾つもの話を入れた處がある。
一 カツトは自分のスケツチに據つて描いたのであるが、中には全然想像で描いたものもある。
[やぶちゃん注:以下、六ページに亙って「目次」があるが、これは総ての電子化が終わったところで示すこととする。予め目を通されたい方はこちらから。次のパート表題「猪」の字体はママ(ここのみ正字の最終画の「ヽ」がない)。また、角枠で囲われてある。こちら。或いはこれは早川氏のデザインした絵文字なのかも知れないので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して添えることとする。]
猪
一 狩人を尋ねて
早三四年前にもなるかと思ふが、狩の話が聽きたくて、以前狩人だつた男を尋ねて行つたことがある。前から知らぬでもなかつたが、前身が狩人の事は、遂少し前に、初めて知つたのである。
[やぶちゃん注:「狩人」は以下総て「かりうど」と読んでおく。]
生憎だつたが、今日は山田へ田繕(たなほ)しにいつたと家人の言葉を聞いた時は、ちよつと落膽したが、更に其田を聞いて出掛けて行つた。街道から山道にかゝつて二三町進むと、窪を越した向ふに、柴山をひどく切崩した址が見えて、直ぐ判つた。新しく畔を築いて、幾段にも出來た新田の一ツに、腰が弓のようになつた白髮の男が、餘念なく土を篩つてゐる。そばには頑丈な手押車が置いてあつた。兼て耳の遠い事は聞いていたので、傍へ寄つてから大きな聲で來意を告げると、初めは何とも合點のゆかぬ顏付であつたが、段々話す内、得心が着いたか、ニヤニヤと相恰が崩れた。軈てビツクリするやうな聲で笑つてから、そんな事が何かの役に立つかと言うて、更に愉快さうに笑つて直ぐ話し出した。
[やぶちゃん注:「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。
「畔」「くろ」と読んでいるか。畦(あぜ)のこと。
「篩つてゐる」「ふるつてゐる」。
「相恰」「さうがう(そうごう)」。相好。顔つき。
「軈て」「やがて」。]
十六の年から猪追(しゝぼ)ひをやつたさうである。そして 近間の山と云ふ山は悉くあるき盡くして、時には遠く伊勢路迄入りこんだ事もある。或年 奧郡(おくこほり)(渥美郡伊良胡崎)に猪が澤山居る話を聞いて、朋輩と二人で出かけた時の事、赤羽根の海邊を鐵砲舁いで[やぶちゃん注:「かついで」。]步いて行くと、岸から僅か離れた岩の上に、鵜が零れる程止まつてゐたさうである。そこで慰み半分に一發放して見ると、鳥は驚いて一時に飛立つたが、その内一羽は海の中へ轉げ落ちた。そして波にブカブカ浮かんでゐるのだが、二人共山猿の悲しさにどうすることも出來なんだ。その儘見捨てゝ行かうとすると、近くの畑で樣子を見てゐた男が飛んで來て、デシ殿あれは不用ぬかい[やぶちゃん注:「いらぬかい」。]と云うて、ザンブリ海へ飛込んで拾つたそうである。デシとは此附近で專ら狩人を呼ぶ言葉であつた。
[やぶちゃん注:「猪追(しゝぼ)ひ」矢ヶ﨑孝雄氏の論文「岐阜県下白山東・南麓における猪害防除」(『石川県白山自然保護センター研究報告』第二十四集・PDF)を読むに、少なくとも中部地方では「猪」或いは「猪狩り」を「ししぼい」と呼んでいることが判る。サイト「横手/方言散歩」のこちらに拠れば、「広辞苑」には「ぼう」で「追ふ」として「追(お)う」に同じとし、「ぼいだす」(追ひ出す)で「追い出す」・「たたき出す」、「ぼいまくる」(追ひまくる)とある。しかも、角川書店版「古語辞典」には「ぼいだす」を「たたきだす」、「ぼいまくる」(ぼい捲くる)で「追いまくる・追い払う」として、「ぼふ」「ぼひ」は方言ではなく、ちゃんとした古語であること認定している。秋田県でも「ぼう」は全県で「おふ(追ふ)」の意であるという。
「近間」「ちかま」。
「渥美郡伊良胡崎」渥美半島先端部(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の田原市の一部に山岳部がある。
「赤羽根」愛知県田原市赤羽根町(同前)。
「舁いで」「かついで」。
「不用ぬかい」「いらぬかい」。]
此話を聞いてゐると、春さき日のポカポカ當つた海邊を、呑気さうに步いてゆく狩人の姿が見えるやうである。狩人の中には、居廻りの山谷ばかり守る事をせず、獲物を索めては[やぶちゃん注:「もとめては」。]山から山を渡り步いて、ホンの僅かの間しか家に歸らぬ者もあつたのである。
今年七十七だと言うたが、十數年前四十幾年の狩人生活をフツヽリと斷つて、たゞの農夫に還つて老先を田地の改良などやつて居たのである。實は狩ほど面白い仕事は無かつたと言ふ。いくら八釜しく言はれても、耕作などとても辛棒が出來なんださうである。さう言うて居るだけ、ひどく謙遜した回顧談であつたが、愉快な事はその老人が、諦めたなどゝ言ひながら、話の間の手[やぶちゃん注:「あひのて」。]に此方が語る他國の狩の事を、珍らしがつて聽こうとする態度であつた。その晚更に家へ訪ねると、一人で茶を汲んだり菓子を出したりして、歡待してくれた。そして若い頃獲た[やぶちゃん注:「とつた」。]大鹿の皮で、自分が縫つたと云ふタツヽケの、ボロボロに綻びた[やぶちゃん注:「ほころびた」。]のを納戶の隅から搜し出して見せてくれた。鐵砲も早賣つてしまつて、殘る物はもうこれだけだと言うた。
[やぶちゃん注:「獲た」「えた」とも読めるが、それでは「大鹿」に相応しくない。「獲つた」の脱字か誤植を私は疑う。
「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。
「納戶」(なんど)は衣服・調度品などを収納する部屋。中世以降の屋内の物置部屋を指し、同時に寝室や産室としても用いた。]
斯うして[やぶちゃん注:「かうして(こうして)」。]猪狩の話も、納戶の隅に置き忘れたタツヽケの如く、既に過去の物語に成りつゝあつたのであるが、一方對手[やぶちゃん注:「あひて」。]の猪は、未だ盛んに出沒して居たのである。現にこの老人の耕しつゝあつた田の稻も、年每に荒らされつゝあつたのは、矛盾だか皮肉だか判らなんだ。
[やぶちゃん注:因みに、猪(本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax。他に亜種リュウキュウイノシシ Sus scrofa riukiuanus が南西諸島(奄美大島及び琉球諸島の一部(沖縄島・石垣島・西表島等)に分布する。但し、八重山諸島の個体群を別亜種として三亜種とする主張や、これらは亜種ではない同属のタイプ種とは別種とする説もある )の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし)(イノシシ)」を参照されたい。]