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2020/03/01

三州奇談卷之三 關氏の心魔

    關氏の心魔

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]加陽英士[やぶちゃん注:「えいし/えいじ」。抜きん出て優れた人物。]關善右衞門は、代々中條流兵法の道に達し、其名四方に響きけり。傳へ聞く富田五郞左衞門入道勢源(せいげん)より奧祕(おくひ)を傳へ、連錦として絕えず。殊更此人は稽古積りて、甚だ精妙を得たり。剩(あまつさ)へ内外の敎典にも疎からず、質直にして門人も日々に增し、其傍(かたはら)に出づる者數十員、車馬門前に充滿せり。されば人情の習ひ、聊か僑慢の念慮ありけるにや。成年の冬、門弟子の許へ行き、古今英雄を論じ、戈劔(くわけん)の得失を談じ、稍(やや)深更に及びしが辭して歸られけるに、既に我家に入るに、妻女未だ縫物して寢ねず。婢女(はしため)も又傍にありて、例の如く灯を提げて迎へたるを見れば、忽ち屋中光明(くわうみやう)赫然(かくぜん)として、あたかも七寶をちりばめ色どり飾るが如し。妻女も婢女も衣裳皆悉く錦繡の袖を飜し、携へ出たる行燈に至る迄瑪瑙(めのう)瑠璃(るり)の類(たぐひ)にして、『しらず天上に生るゝか』と怪しまる。

[やぶちゃん注:「關善右衞門」不詳。「加能郷土辞彙」に載るのは本篇の内容に拠るものであるが、次の「中條流」の引用の太字傍線部に着目されたい。

「中條流」室町初期の中条長秀(?~弘和四/永徳四(一三八四)年)を開祖とする武術の流派で、短い太刀を使う剣術で有名であった。他に槍術なども伝えていた。ウィキの「中条長秀」によれば(太字傍線部は私が附した)、『中条長秀が中条家家伝の刀法と念流を合わせ自己の工夫を加えて創始したと伝えられる』。『室町期の京で創始されたことや、師である念阿弥慈恩が鞍馬山で修行した事などから、京八流の流れを汲む剣術とも言われる』。『中条家は長秀の孫・詮秀、曾孫・満秀の代で断絶したが、流儀は長秀から甲斐豊前守広景へ継承され、さらにその門人・大橋勘解由左衛門高能から山崎右京亮昌巖へと伝わった。昌巖が戦死したため、昌巖の弟子、冨田九郎左衛門長家が後見人として昌巖の子、山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆へと中条流を伝えた』。『その後、冨田家では長家から子の治部左衛門景家』及び『景家の嫡子』であった『冨田勢源』(大永三(一五二三)年~?)及びその次子冨田景政(?~文禄二(一五九三)年)と『代々』、『冨田家で中条流を継承、発展させたことから』、『一般的には冨田流と呼ばれるようになったが、山崎家や加賀藩で冨田家に次いで師範家となった関家などでは一貫して中条流として伝承された』。『なお、勢源の義理の甥にあたる重政が山崎家出身であったように、山崎家と冨田家は関係が深かった。山崎家の中条流は昭和初期』或いは『中頃までは存続していたが、現在は失伝したようである』。『後の一刀流、冨田流(戸田流、當田流、外他流)等、多くの有名流派の母体となった』。『山崎家や富山県や石川県に残る中条流の古文書によると、二尺ほど(約60センチメートル)の短い太刀で刃長が三尺(約1メートル)長い太刀と戦う太刀の形』(かた)『三十三本を中心に刀(短刀を使う小具足のような技)、槍や長刀などが伝えられていた』とある。

「玻璃」サンスクリット語「スパティカ」の漢音写。赤・白などの水晶を意味する。古代インドに於いてはこの世における最高の宝とする七宝(しっぽう:仏典中に列挙される七種の宝。必ずしも一定しないものの代表的なものとしては金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:後掲されるのでそこで注した)・珊瑚・瑪瑙である)の一つに数える。原語には「石英」の意味もあり、ギリシア語やラテン語の「ガラス」を意味する原語の系統の継承で、パーリ語の「パリカ」からサンスクリット語化したもので、一般には「ガラス」の古名とすることが多いが、ここは水晶でよかろう。]

 善右衞門暫く閉眼して案ずるに、

『我此(かく)の如くの奇事あること古今其例を聞かず。疑ふらくは我今狂亂の病(やまひ)にかゝれるや。さらずば魔魅(まみ)の欺く物ならん』

と、急ぎ婢に命じて湯を涌(わか)さしめ、沐浴せんとするに、浴室に入りて見れば、爰も又奇麗なること言語の及ぶ所にあらず。玉のいしだゝみ暖かにして、七寶の砂(いさご)を敷き、金銀の手洗及び硨磲(しやこ)の提子(ひさげ)に水を人たり。目を塞いで浴し終り、新しき衣に布衣(ほい)を着し、先づ灯明(とうみやう)を點(とも)し、本尊摩利支天(まりしてん)の像を拜し畢(をは)りて、祕印を結び九字を修し、光明眞言七返、多聞天の咒(じゆ)廿一返、般若心經・法華の陀羅尼要品(だらにえうぼん)を誦し、佩刀を拔きて當流の當流の祕密「沓返(くつがへし)」と云ふ妙手を遣ひければ、彼妖魅(えうみ)退(の)きしにや、漸々(やうやう)として光輝消え失せ、心地朗(ほがら)かになりて平常に復(かへ)りしと、門人藤井氏へ物語ありしなり。是(これ)心魔(しんま)の遮(さへぎ)るなるべし。强氣(つよき)も又形を退くるにや。

[やぶちゃん注:「硨磲」斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae のシャコガイ類の貝殻。やはり七宝の一つ。

「提子」弦(つる)と注ぎ口のある小鍋形の湯を入れて持ち運ぶ銚子(ちょうし)。

「布衣」本邦の江戸時代までの男性用着物の一種で、江戸幕府の制定した服制の一つ。幕府の典礼や儀式にあっては、旗本下位の者が着用する狩衣の一種で、特に無紋(紋様・地紋のない生地)のものを指す。

「摩利支天」仏教の守護神である天部の一柱。日天の眷属。サンスクリット語の「太陽や月の光り」を意味する語の漢音写。「陽炎(かげろう)」を神格化したものとされ、元は古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」に登場する「ウシャス」という「暁の女神」であると考えられている。陽炎は実体がないので、捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有するとされることから、本邦では特に武士の間にこの摩利支天信仰が強くあった。参照したウィキの「摩利支天」によれば、『元来』は『二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようにな』り、『三面六臂または三面八臂で』、『月と猪に乗る姿などもある』。本邦では『護身や蓄財などの神として』概ね『中世以降』に『信仰を集めた。楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている』とある。

「祕印を結び九字を修し」九字護身法。「九字」は「臨」・「兵」・「鬪」・「者」・「皆」・「陳」・「列」・「在」・「前」で、それぞれの印やその切り方は『忍者の神様「摩利支天」と「九字護身法」で何でも勝てる気がしてきた』で画像・動画で見られる。解説も判り易い。

「光明眞言」正式には「不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)」と言う密教の真言。密教経典である「不空羂索(けんさく)神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれている。二十三の梵字から成り、最後の休止符「ウン」を加えて、合計二十四の梵字を連ねたものがワン・セットとなる。音写は参照したウィキの「光明真言」を見られたい。

「多聞天の咒」多聞天は毘沙門天に同じ。天部の仏神の一柱で持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神。ウィキの「毘沙門天」によれば、『庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺で』、『福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようにな』り、『室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められ』たという。その咒=真言はリンク先を参照されたい。

「法華の陀羅尼要品」「法華経」の「陀羅尼品第二十六」。但し「要品」は不審で、「法華経」一部の肝要とされる四品を指す語であるが、それは「方便品」・「安楽行品」・「寿量品」・「普門品」を指す語だからである。

「沓返(くつがへし)」不詳。

「藤井氏」不詳。

「是(これ)心魔(しんま)の遮(さへぎ)るなるべし。强氣(つよき)も又形を退くるにや」よく意味が判らない。「心魔」は仏教で「心の内部の障害」の意がある。そう理解すると冒頭で「聊か僑慢の念慮ありけるにや」と応じて判りがいい。その場合の「の遮る」は「正心(今風に言うなら正常にして健全な精神状態)を遮って(この場合は自分の武芸や才覚に聊か増上慢 となった結果)、邪な内なる邪気が妖しい幻像を見させた」ということになろう。「まことの鬼は人の心」という謂いに近いものと言える。また、国書刊行会本や「加越能三州奇談」(国立国会図書館デジタルコレクション当該話)は二文の「形」を「邪」とする。これは確かにその方が腑に落ちる気はする。但し、幻像を「形」(形相(けいそう)・有様)という意で採るならば問題はあるまい。

 古寺町福藏院には菅神の傍に稻荷の社もあり。此社内廣ければ、片町石浦屋吉兵衞借屋原屋久右衞門と云ふ足駄を作る男ありき。彼(かの)下駄(あしだ)の下地桐・朴(ほほ)などの割木を多く爰(ここ)に乾し置きしに、或夕暮に此(この)割木をかたづけけるに、狐一疋飛出せしを、したゝかに割木を以て打撲(うちたた)き、追散して家に歸り、二階に上り伏しけるに、其夜何とやらんいね難く、二階の障子をあけて見けるに、爰は石浦屋の土藏に對すべき所なるに、此土藏忽ち福藏院の向ひ安部氏の居宅に見え、式臺の手燭かゞやき、金屛あまた引つらねたる如くに覺えし程に、我居る所も我家にあらず、福藏院の社地に替(かは)り、寢所の上に奉納の繪馬出來(いでき)たり。松梅の樹木多く吹渡りて、心茫然とせしかば、

『扨は未だ歸らず、福藏院の庭にゐるにや。去(さる)にても家に歸るべし』

と思ひ、立ち出(いで)んとせしが、

『慥に我は家に歸り二階に臥したる物を』

と思ひ定め、

「是は必定、物のたぶらかすなるべし。何條(なんでう)鬼魅に負(ま)くべきや」

と、寢處の上敷(うはじき)の片端を力(ちからに)につかんで急度(きつと)心を靜めたりしが、少しは燈明もうすく、彩光も減ぜし樣なれども、目を明くるに、又宮殿・金屛風あたりに立ちて思ひわき難く、一夜遂に眠らず、寢ぶすまを引きちぎり引きちぎりしてこらへたりしに、曉の鐘鳴りても猶消えず、日出づる迄は石浦屋の土藏式臺前の躰(てい)有りしが、人通りも多く、日明らかに出ければ、消えて元の如しと語りぬ。

 是も又怪の類(たぐひ)にや。術(すべ)なきが爲に久しく消ざりしか。

[やぶちゃん注:現代ならば、以上の二例は映画を見るように非常に強い視覚的幻覚を伴う統合失調症やアルコール性精神病などが疑われるところであろう。但し、後者は妖狐の因縁性を頭に設けてあり、幻覚というよりも、そちらの幻術を匂わせるようには構成されている。

「古寺町」現在の片町二丁目(グーグル・マップ・データ)。「金沢市」公式サイトのこちらに、『藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地をこの名で呼ぶようになった』とある。

「福藏院」サイト「市民が見つける金沢再発見」のこちらに『山伏本山派』とし、『香林坊橋(犀川小橋)近くあり、宝来寺福蔵院と号し』、『妻帯と成り』、『子孫相続し』たとある。『今は』ないとある。他に、福蔵院は『俗に小橋天神』と呼ばれ、『藩政期修験派山伏の旧宝来寺で』、元禄三(一六九〇)年の『略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転し』、慶長一九(一六一四)年に「大阪夏の陣」が『おこり、藩主前田利常公出陣に際し』、『利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。藩政期には今の片町きららの後にあった宝来寺が明治の神仏分離で小橋菅原神社になります。一時、ホテルエコノ金沢片町裏に移りますが』、平成二七(二〇一五)年九月に『取り壊され』て『月極駐車場になり、今は飲食街になりました』とある。但し、『数年前まで片町のビル下のトンネルが参道だった小橋菅原神社』という記載もあるので、それが本文の「菅神」(天神)であることが判る。『片町きらら後』(うしろ)に、『宝来寺(小橋菅原神社)があ』ったともあることから、この附近(グーグル・マップ・データ)である。他にも『中河原之郷・福蔵院(俗に小橋天神)』という項があり、同じく元禄三年の『古寺町の福蔵院窓膳が筆記した小橋天神由来書に、当社は天満天神、往古河北郡吉倉村に御鎮座のところ』、四『代以前』の『別当道安が霊夢をこうむり、香林坊小橋の爪河原に奉還のところ、近郷河原はわずかに家居』十『軒ばかりがあるところでしたが、追々家が建ち、春秋に祭礼の儀式も出来るようになったと云います。元来』、『当社氏子地は、香林坊の小橋より犀川大橋、古寺町近郷は、往古河原にて、五ヶ之庄・富樫之庄・石浦之庄の』三『ヶ所の出合の河原で有るところから、当院(福蔵院)は中河原之郷と唱へ、産子繁栄之祈祷札を配り、氏子繁昌の祈念を仕』(つかさど)『ったとあ』るとし、『中河原というは、今の片町・河南町の地法にて、その上、この地辺犀川二瀬に流れたる中嶋なりしところから、世の人は中河原と呼び、その後、この地が町地になり、町名を立て中河原町と呼んだと』あるともあるから、本篇の「石浦屋」というのは旧地名の「石浦之庄」に由来するものと推定出来る。

「稻荷の社」同様に現存しないようである。

「足駄」狭義には雨天用の高い二枚歯の附いた下駄のことであるが、ここは下駄と同義で用いている。

「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。キリは本邦でとれる木材としては最も軽いもので、しかも湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴を持つ。

「朴」モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata。材質が堅いことから、下駄の歯(朴歯下駄)などの細工物に使う。水に強く肌触りもよい。さらに、脂(やに)が少なく加工しやすいという特徴もある。

「阿部氏」同じくサイト「市民が見つける金沢再発見」のこちらに、「古寺町古伝話」として、『この町は、大昔、寺跡の先に古墳等の遺跡だと云われています。古伝話には、山伏福蔵院(小橋天神)の向かいに阿部氏の邸地門脇下の厩下(うまやした)に、古墳の石棺式石室あったと云われていますが、実否については詳らかではないという』ことで、『明治の廃藩置県後、阿部氏はこの邸地を売却し、この地の主が退去して家屋は取り壊され、厩の後は商店になった』とある。

「何條」の「條」は当て字(従って歴史的仮名遣の誤りではない)。反語の副詞。]

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