早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿 一 淵に逃げこんだ鹿
[やぶちゃん注:上記画像は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像からトリミング・補正して示した。【2020年3月19日追記】T氏よりサイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページを紹介された。非常に驚くべき強力なページで、本「猪・鹿・狸」も全電子化(但し、新字新仮名で総てPDF)されてあり、他の早川氏の著作もPDFで読める。また、一部に簡単な注や現在の現地の写真が添えられてある。例えば本「一 淵に逃げこんだ鹿」はこちらである。向後、注に活用させて戴こう思う。T氏に深く感謝申し上げるものである。]
一 淵に逃げこんだ鹿
鹿を擊つた狩人はみなさう言うた。鹿はいかに驀進(まつしぐら)に逃げてゆく時でも、矢頃[やぶちゃん注:「やごろ」。ここは鉄砲の撃ち時。]を測つて、ホーツと一聲矢聲をかけると、フツと肢を緩めて、聲の方を振返ると、そこの呼吸で引金を引いたさうである。矢聲はなる可く短く齒切れのよいのを上乘とした。ポポツと、投げつけるやうに掛ける程、効力があつたと言ふ。習性とすれば哀れにもいぢらしかつたが、狩人の狙ひ處にされたのは情けなかつた。
も一ツ、これも鹿に限つての事で、狩人には都合の好い事だつた。一旦手負ひになると、だんだん山を出て、里近い明るみへ姿を現はして來る事である。えらい深山なら知らぬ事、自分等が聞く話は悉くさうだつた。もう三十年も前になるが、舊正月二日の事ださうである。伊那街道筋の追分で、或家で朝早く起きて蔀(しとみ)を明けると、其處へ上(かみ)の方からバタバタと街道を駈けて來た物があつた。女房がハツと思つて見返した時はもう五六間[やぶちゃん注:約九~十一メートル。]先へ驅拔けて居たが、それが鹿で後肢[やぶちゃん注:「うしろあし」。]を折て引摺つて居たさうである。直ぐ後から犬や狩人が追掛けて行つた、後には前夜降つたらしい薄霰[やぶちゃん注:「うすあられ」。]がほんのり置いた街道に、紅い血の滴が長く續いて居たと言ふ。
[やぶちゃん注:この語りの映像のリアリズムは紅の瘢痕鮮やかに何か非常に哀れにしみじみしていて、一読、忘れ難い。芥川龍之介が心打たれたのもこうした表現でもあったのではなかろうか?
「伊那街道筋の追分」「猪 十七 代々の猪擊」で考証した愛知県新城市玖老勢(くろぜ)この附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。【2020年3月19日削除・追記】T氏よりメールを頂き、この「追分」は現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると御指摘を戴いた。確かに「歴史的行政区域データセット」を見ると、この豊川添いの南北が迂遠な「伊那街道」で、この「追分」から北東に音為川(T氏によれば別名を「分垂川」で、事実、追分地区の東には「下分垂」地区がある)沿いを遡る分岐ルートは鳳来寺へ向かっているのでここである(但し、現在の「Yahoo!地図」(34.9711662,137.566130)を拡大して見ると、この豊川添いの道を「鳳来寺道」、鳳来寺の前を通って北西に走る道を「伊那街道」と呼称している。しかも実際にはこの二つの道は北へ進んでも直に交差はしておらず、ここ(35.0448773,137.527978)で国道257号によって繋がっている)。]
その鹿はそこから二丁程[やぶちゃん注:二百十八メートル。]下つた、村端れ[やぶちゃん注:「むらはづれ」。]のめくら淵に飛込んで殺されたさうである。その淵は街道から覗くと、すぐ目の下に蒼く澄んで見えた。淵の主は大きな牛だとも謂うて、晴れた日には日光の具合で、時折背中が見えると聞いた。めくら、かいくら、せとが淵などゝ言うた中の一ツで、界隈でも名高い傳說の淵だつた。龍宮へ續いて居るとも言うた。そして昔からよく鹿の追込まれる所だつたさうである。
[やぶちゃん注:「めくら淵」不詳。叙述からは海老川の左岸が東へカーブする淵の出来やすいこの辺りか(グーグル・マップ・データ航空写真)。【2020年3月19日削除・追記】先の追分の分岐からだと、現在の追分地区の豊川の川幅が下流で狭まるこの附近となる。T氏曰く、「村端れ」も、早川氏の生まれ育った南設楽郡長篠村の内、「歴史的行政区域データセット」 を見ると、新城市横川追分は正しく村の北端ということになっているとのことで、謂いも自然であることが判った。
「かいくら淵」【2020年3月19日改稿】サイト「東三河を歩こう」のこちらに「海倉淵」とあり、場所も判る(T氏の御教授に拠る)。ここでの早川氏の解説は旧長篠村の広域を意味していることが判る。
「せとが淵」【2020年3月19日改稿】 「瀨戶が淵」か。位置は不明であるが、早川氏が謂わば大きな淵の代表のように述べておられることから、サイト「東三河を歩こう」のこちらにある新城市の淵リストの中の長篠村近辺の孰れかの別称と考えられる。 ]
その鹿は、間もなくもと來た道を舁がれて行つた。何でも朝未だ暗い内、鳳來寺道を五六町登つた所の、分垂(ぶんだれ)のヰノアテで肢を擊たれて、一氣に街道を走つて來たのださうである。その時の狩人の話では、三歲の雄鹿だつたと言ふ。
[やぶちゃん注:「鳳來寺道を五六町登つた所の、分垂(ぶんだれ)のヰノアテ」「五六町」は五百四十六から六百五十五メートル。「鳳來寺道」はここだが、後に出る「分垂(ぶんだれ)のヰノアテ」というのは猟師らの山中での地区呼称とも思われる(「アテ」は中部地方で日当たりのよい「山頂・ピーク」を意味する。「ヰ」は「猪」か)。この中央付近ではなかろうか? ここから先の玖老勢の追分までは、鹿が北に尾根を経て、西の尾根伝いに逃げたとするならば(直線では尾根・谷が障害となる)、凡そ二キロほどになる。【2020年3月19日削除・改稿・追記】先のT氏の御教授に従えば、この「鳳來寺道」は追分の分岐から鳳来寺に行くルートを指すことになり、先に言った「下分垂」地区のこの附近がそこになろうか。]
子供の頃、村の入りの山から追出された鹿が、畑を橫ぎつて街道へ出て、フナト(船着場)へ續く坂を降つて、最後に飛込んだ場所も矢張り淵だつた。 宮淵(みやぶち)と言うて、 大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た。高い岩に圍まれて、川幅五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]もある物凄い場所だつた。もう二十七八年も前で、その頃は、そこから川下の豐橋迄七里の間船が通つて居た。
[やぶちゃん注:「大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」神社不詳。但し、横山の南の豊川の対岸(右岸)の新城市大海(おおみ)字宮ノ前に瀧神社が存在する(NAVITIME)。ここと考えてよかろう。【2020年3月19日削除・追記】T氏より次のような比定考証を戴いた。まず、最初に掲げた「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページの大正一〇(一九二一)年六月刊の早川孝太郎氏の「三州横山話」の「橫山略圖」をご覧頂きたい。T氏は本段落冒頭の「村の入りの山」というのは、横川の「入リの山」と捉えられ、この「橫山略圖」の中央折線の右に見える「字」(あざ)「入リ」がその山であるとされ、鹿はそこから追い出されて、横川の「畑を橫ぎつて街道へ出て、フナト(船着場)へ續く坂を降つて」寒狭川(かんさがわ:豊川の宇連川合流地点より上流部の別称である)沿いに下流に走って行ったとされる。確かに、「橫山略圖」の右下方の寒狭川に「舟着川岸」の文字が見え、その少し下流の横川対岸に「大海村鎮守」がマークされ、そのさらに右の寒狭川対岸には「生砂神社」が認められる。上記サイトの「片目の生砂神」(思うに「生砂」は「うぶすな」(産土)と読むのであろう)には、「白鳥六社大名神」とあって(柳田國男が「一目小僧その他」で問題にした〈片目の神霊〉である)グーグル・マップでこれを探すと、「片目の生砂神」に記載された白鳥神社と同じ画像が出てくるとされ、この白鳥神社がこの「お宮」であるとされる。ここまでのT氏の推理はまことに理にかなっていてなるほどと思わせるのであるが、一つだけ、「大海(あうみ)のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」という早川氏の謂いが喉に引っ掛かってしまうのである。しかし、この付近を国土地理院図で見ても、早川氏のポイントした辺りには「大海村鎮守」はなく、対岸の大海を見ても現在は「お宮」は見当たらないのである。また私が前に推定比定した瀧神社では少し上流になって、T氏の示された展開とはやや齟齬をきたすようにも思える(実はもっとずっと上流に横川宮ノ前の飛地があり、そこにも白鳥神社があるのだが、これは遙かに上流過ぎ、後背地も大海ではないから、もうお話はならない)。グーグル・マップの航空写真画像でここを再度見ると、白鳥神社の対岸部には有意な森は認められる。或いは、大海地区の人々も、この「生砂神」=「白鳥神社」を産土神として共有して信仰していたととれば(平地の「川向う」の民俗社会ではこうした信仰共有は難しいが、ここは谷間(たにあい)の山村であるから問題はないかも知れない)、この対岸の大海側の森も白鳥神社の鎮守の森として早川氏が認識してという可能性はある。また、同じ個所の「橫山略圖」を見ると、横川側の岸辺にかなり川に沿った箇所に「鎮守址」とあるのも何かありそうではある。或いは白鳥神社はかつてはこの場所にあったのではないか? 「片目の生砂神」にも移された感じでそうした記載もある。とすれば、川の両岸に白鳥神社の原鎮守の森があっても少しもおかしくはないと私は思うのである。【2020年3月19日夜・追記】只今、T氏より以上の私の追記に対して即急の以下のメールを戴いた。
《引用開始》
藪野様。
「大海のお宮の森が向こう岸に茂つて居た」は実は昭和一七(一九四二)年文一路社刊の「猪・鹿・狸」で修正がかかっていました。[やぶちゃん注:これは以下でT氏が述べておられる通り、本底本の後の改訂本である。]「郷土研究社」版の、
*
『宮淵と言うて、大海のお宮の森が向ふ岸に茂って居た。』
*
の部分が、その「文一路社」版では、
*
『宮淵(みやぶち)と言うて、大海(おおみ)村の鎭守の森が向ふ岸に繁つて居た。』
*
と書き変えられてあります。[やぶちゃん注:この改訂本は国立国会図書館デジタルコレクションで読めることが判明した。ここが改訂本の本篇の当該部である。「おおみ」は原著のママ。]又 、「 文一路社」版の凡例では、早川氏は、
*
一 この本は舊版本に對して、新に序を加へ挿繪を更めたばかりでなく、一部の字句や文章を改めた點も尠くない。しかし内容はそのままで、要するに理解を易からしめる爲に、表現に注意したに過ぎない。
*
とあるので、 表現は総て早川氏の手になるものとなります。
と云うことで、確実に「大海村」に在る鎮守様が当該お宮で、現在の新城市横川字宮ノ前46の白鳥神社は外れになります。「大海村」に在る鎮守様は、やはり薮野様の言われる新城市大海字宮ノ前1の瀧神社が正解になります。瀧神社については、サイト「東三河を歩こう」のここに記載があり、このサイト内の愛知県伝説集「ちんばの氏神」に、この瀧神社が大海の里では氏神に祀られたとする経緯が記されてあります。
あちこち、振り回してしまいましたが、「大海のお宮」=「大海村の鎭守」=瀧神社です。
申し訳ありません。
《引用終了》
とのことであった。T氏にはいろいろ御検討頂き、こちらこそ御迷惑をお掛けしたと思っている。しかし、これで以上も腑に落ちた。T氏に心より御礼申し上げるものである。
「川幅五十間」約九十一メートル。現在は最も広い場所でも四十五メートルほどである。
「二十七八年も前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治三一(一八九八)年前後となる。]
手負鹿が、淵に飛込んだ話は他にも聞いた事がある。出澤の村のフジウの峯から追出した時には、鹿が岩の上を走つて下の鵜(う)の頸(くび)の淵へ飛込んだと言うた。某の狩人が、八名(やな)郡舟著(ふなつけ)村小川(をがは)の、シユツケツの峯で肢を擊つた鹿は、峯續きのカマヅルを、ソンデ(ツル嶺を後ろに反つた[やぶちゃん注:「かへつた」。]處)に行くと思はれたのが、前の斫り[やぶちゃん注:「きり」。]立つたやうなタワを轉がるやうに降つて、一氣に黃楊(つげ)川の淵に飛込んだと言うた。
[やぶちゃん注:「出澤」「すざわ」と読む。新城市出沢。横川の豊川対岸の山間部。
「フジウの峯」不詳。似た地名では愛知県新城市出沢の字地名に藤ケタワ(ふじけたわ)がある(ヤフー地図)。
「鵜(う)の頸(くび)の淵」【2020年3月19日改稿】T氏より。新城市出沢橋詰。サイト「東三河を歩こう」の「大淵」を参照されたい(地図あり)。その淵の説明の各個写真の⑾に「うの首」がある。
「八名(やな)郡舟著(ふなつけ)村小川(をがは)」サイト「歴史的行政区域データセット」のこちらで旧村域が確認出来、その地図を拡大すると、現在の本長篠駅の南西、宇連川対岸(左岸)に「小川」の地名を確認出来る。
「シユツケツの峯」不詳。孰れにせよ、前の小川の後背地の山間のピークと読んでよかろう。
「カマヅル」同前。
「ソンデ(ツル嶺を後ろに反つた[やぶちゃん注:「かへつた」。]處)」同前。
「タワ」方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。
「黃楊(つげ)川」前のサイト「歴史的行政区域データセット」のこちらの地図で小川の東方にある。]
手負鹿が最後に飛込んだのは、川沿ひの淵ばかりでは無かつた。山の中にある用水池を目がけた話もあつた。自分の家の近くにあつた、方(ほう)が窪の小さな池にも追込んだ事があつたと言うた。大海(おうみ)の奧の二ツ池は、山の窪に同じやうな池が二ツ並んで、遠くからその蒼い水が望まれた。矢張りその池へも追込んで殺した事があつたと聞いた。
[やぶちゃん注:「自分の家」早川孝太郎氏の生家はサイト「東三河を歩こう」のこちらで位置が確認出来る。この附近。北西に「早川工業」とあるのは縁者か?
「方(ほう)が窪」不詳。早川氏の謂からみて現存しないのかも知れない。
「大海(おうみ)の奧の二ツ池」現在の大海の奥(西端)に池が一つ見える。この池の東部分は工場になっているので、或いは一つは埋め立てたものかも知れない。しかし、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)測図大正六年修正の大日本帝国陸地測量部の地図でも一つであるが、南北に瓢簞型をしており、現在のそれとは形が異なる。これを見るに、或いは古くは二つあったものを繋げたもので、古名が残ったものかも知れない。]
よく耳にした事だつたが、鹿は手負になると、きまつて池や川へ入ると言うた。密林から里近い疎木立(むらこだち)へ出て、畑や街道を走つたのは未だしも、あの蒼く澄んだ池や淵を目がけたのは、單に偶然ばかりでは無いやうに思ふ。
[やぶちゃん注:何か文学的なコーダでしみじみする。なお、この「未だしも」は明らかに「まだしも」と訓じている。されば、今までの「未だ」も「いまだ」ではなく、「まだ」と訓じている可能性は高くはなる。
なお、鹿(本邦ではシカ属ニホンジカ Cervus nippon(亜種分類ではホンシュウジカ Cervus nippon aplodontus・キュウシュウジカCervus nippon(四国・九州など)・ケラマジカCervus nippon keramae(慶良間列島。江戸時代に九州から移入されたもの)マゲシカCervus nippon mageshimae(馬毛島。二個体を基に記載されたものの、種子島の個体群を含んだり、分類上の位置は明確ではない)・ツシマジカCervus nippon pulchellus(対馬)・ヤクシカCervus nippon yakushimae(屋久島)・エゾシカCervus nippon yesoensis(北海道)の七亜種となる。但し、ニホンジカは日本固有種ではなく、中華人民共和国・ロシアにも棲息する。朝鮮民主主義人民共和国・ベトナムでは絶滅したと考えられており、大韓民国では絶滅した)の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿(しか)(シカ・ニホンジカ他)」を見られたい。]
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