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2020/03/16

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十六 手負猪に追はれて

 

     十六 手負猪に追はれて

 何というても猪の話では、猪狩の逸話が華やかであつた。舊幕時代から鳳來寺山三禰宜の一人で、山麓門谷(かどや)の舊家であつた平澤利右衞門と言ふ男は、六十年も前に故人であつたが、いまに噂に殘る狩好で兼て猪狩の名人であつた。體格も勝れて居て人柄も備はつて、若い頃は二十四孝の勝賴を見るやうであつたと謂ふから其武者振も想像された。而も剛膽此上もなかつたと言ふから、狩人には申分ない男であつた。いつも下男を供に伴れて狩に出掛けたさうである。そして少しも猪を怖れなんだ。如何な猛猪に遇つても必ず擊止めて、曾て後ろを見せた事は無かつた。これに反して伴の下男はお定りの腰拔男であつた。何時も狩りの供と云ふと、又今日もかと言うては泣いたさうである。か程の剛膽者が生涯にたつた一度手負猪に追かけられて遁げた事があつた。而も田圃へ續く柴山を轉がるやうにして遁げたと言うた。門谷の高德の山で、巨猪を擊損じた時であつた。下男は逸早く逃げてしまつて無事だつたが、一方主は柴山から田の脇の路を走つて遁げた。それを猪は何處迄もと追かゝつて來た、はや背中へ掛りさうに迫つた時、折柄目の前に、馬頭觀音を祀つたシデの大木が立つて居た。それに身を交して、やつと根元を廻つて遁げた。さうして人と猪と、その根元をクルクル獨樂のやうに七廻り迄廻つたとは、隨分激しい働[やぶちゃん注:「はたらき」。]であつた。その内どこでどう火繩の手捌[やぶちゃん注:「てさばき」。]をやつたか、物の見事に後から一發、遉がの巨猪を斃したと言ふ。後[やぶちゃん注:「うしろ」。]から一發はちと可怪が[やぶちゃん注:「をかしいが」。]、實は劇しく廻る内、猪を追かけるやうな形勢になつたと言ふのである。どうやら壯快の域を通り越して、話になつてしまつたのは惜しかつた。實はその激しい働きを、下男が遠くから見物して居たのださうである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺山三禰宜」日光・久能山と並ぶ三大東照宮の一社を称する鳳来山東照宮(グーグル・マップ・データ航空写真(以下同じ)。正式名称は単に「東照宮」)を司った三人の祢宜か。同神社はウィキの「鳳来山東照宮」によれば、『徳川家康(東照大権現)を主祭神に、「鎮守三社」と称される山王権現、熊野権現、白山権現を合祀している』。慶安元(一六四八)年四月、『日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受けた江戸幕府』三『代将軍家光が、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、阿部忠秋や太田資宗に命じて造営事業を進めたが、志半ばで薨じたため、跡を継いだ』四『代将軍家綱が太田資宗や本多利長、小笠原忠知等に命じて』、三年後の慶安四年に社殿が竣工し、同年九月十七日には『江戸城内の紅葉山御殿に祭られていた「御宮殿」(厨子)と神体である「御神像」(神像)を遷祀したのが創まりである。遷祀に際しては盛大な遷座祭が斎行され、将軍家綱から、家康が』「関ヶ原の戦い」で『帯刀したという太刀が神刀として奉納されたほか、諸大名からも太刀や灯篭などの奉納があったという。以後、鳳来寺を別当寺と定め』、明暦二(一六五六)年には『幕府から社領』四百七十『石の寄進があり、江戸時代を通して』十『回に及ぶ修理が幕府により行われている』とある。神仏習合期ではあるが、祢宜は仏教の殺生戒を受けなかったのであろう。

「門谷(かどや)」前の鳳来寺東照宮は愛知県新城市門谷鳳来寺である。現在の門谷地区は上記リンク先を見られたい。

「六十年も前」本書は大正一五(一九二六)年刊であるから、その五十年前は明治九(一八七六)年となるから、シチュエーションの時制は江戸末期ととるのが妥当である。

「二十四孝の勝賴」「二十四孝」は浄瑠璃・歌舞伎の外題で全五段の時代物「本朝廿四孝」のこと。ウィキの「本朝廿四孝」によれば、明和三(一七六六)年一月に大坂竹本座にて初演。近松半二・三好松洛らの合作。角書(つのがき)は「武田信玄長尾謙信」。通称「廿四孝」。『「甲陽軍鑑」の長尾家・武田家の争いに取材し、長尾家の八重垣姫と武田家の勝頼』(天文一五(一五四六)年~天正一〇(一五八二)年:武田氏最後の士。信玄の次男。天正元年家督を相続、西進を計ったが、同三年「長篠の戦い」で織田・徳川軍に敗れ、宿将多数を失い衰退、天正十年に天目山で三十六才で討死した)『を許嫁にし、斎藤道三の陰謀や山本勘助の活躍をからめ、諏訪湖を渡る霊狐伝説や中国の二十四孝故事なども織り交ぜた複雑な筋書を』持つ。先行する近松門左衛門の「信州川中島合戦」(享保六(一七二一)年八月竹本座初演)『などを参考にしている』。三段「勘助住家」や四段「謙信館 (十種香・奥庭) 」が知られる。『勝頼の恋人として創作された八重垣姫は、「祇園祭礼信仰記」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫と並んで「三姫」としてつとに知られ』、『八重垣姫が勝頼に危険を知らせようと祈りを捧げる「法性の兜」は現存しており、諏訪湖博物館に複製品が展示されている』とある。全段のシノプシスは「ふじちょうのヨモ」氏のブログ「TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹」の「文楽 『本朝廿四孝』全段のあらすじと整理」をお勧めする。

「門谷の高德の山」新城市門谷高徳地区の尾根か。

「シデ」マンサク亜綱ブナ目カバノキ科クマシデ属 Carpinus の類。ウィキの「シデ」によれば、『広葉樹で何れも落葉性』で『比較的小型の物が多く、10m未満の種もしばしば見られ樹高は最大でも20m程度。樹形は比較的低い位置から幹を分岐させ、しばしば株立ち状になる。樹皮は比較的滑らかで色は灰色系のものが多い』とあり、『日本にはサワシバ、クマシデ、アカシデ、イヌシデ、イワシデの5種が分布する』とある。五種の学名はリンク先を参照されたい。

「話になつてしまつたのは惜しかつた」如何にも作り話のような信じ難い滑稽な展開となってしまったことを言う。]

 家がらもよく身分も禰宜であつたが、生來の殺生好きで、夏分は每晚のやうに、下男を伴れて川へ網打ちに行くのが仕事だつたと言ふ。吾村には網を入れる程廣い川が無かつた、それで山路一里半を越えて、寒峽川(かんさがは)へ出かけたのである。或晚橫山の寄木の瀨にかゝつた時、岩の間に川流れ(土左衞門)が引掛かつて居るのを知らずに踏付けたが、格別驚いた樣子なかつた。何だ川流れかと言ひながら、二度胴中を踏んで見て、更に川を降つて網を入れた剛膽さには、遉に下男も呆れはてたと謂ふ。

[やぶちゃん注:「吾村」「平澤利右衞門」の住んでいた門谷地区。筆者早川氏の郷里は愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城市横川ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、長篠村には門谷(横川の南西)は含まれていないのでそうとっておく。]

 今に生殘つて居る老人達の話に據ると、年をとるに從つて、餘りに狩に對する自信が强すぎて困つたと言ふ。他人が折角擊つた物迄、獲物を見れば何でも俺が擊つたなどゝ、頑張つて仕樣がなかつたさうである。時とすると筒音を聞いてからヨチヨチ出かけて來て、俺が擊つて置いたが、よく運んでくれたなどと、とぼけるのか、さう思ひ込んで居るのか、無態な事を言出して弱つたと言ふ。對手が對手だけに、泣き出しさうになつた狩人もあつた。そしてもうその頃は、髯も髮も眞白い凄いやうな老人だつたさうである。

 剛勇比類ない狩人のあつた一方には、又笑話の種になる程の弱い狩人の話もあつたのである。

 鳳來寺村玖老勢(くろぜ)の、遠山某と言ふ代官上りの男は、大達(おほだて)の山で手負猪に掛かつて、臀[やぶちゃん注:「しり」。]の肉をひどく喰はれて、半死半生になつて、それが因で[やぶちゃん注:「もとで」。]遂に命まで縮めたと言うた。猪が人間を喰つた話は信じられぬから、畢竟嚙まれたとか、牙にかけられた類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]の話を誤り傳へた事とも思はれる。明治初年の事で、平素から餘り好感を持たれない、代官上りの武士だつたゞけに、殊更興味深く笑話にされたのは氣の毒でもあつた。

[やぶちゃん注:「玖老勢(くろぜ)」新城市玖老勢。門谷の西に接する地域。

「大達(おほだて)の山」不詳。但し、現在、殆どが山林の新城市玖老勢大立(おおだて)があり、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の可能性がある。

「臀の肉をひどく喰はれて」猪を家畜化した豚でさえも狂暴な一面がある。私は二十年ほど前に養豚場の老婦人が大型の豚に臀部に噛みつかれてショック死した実話を知っている。]

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