三州奇談卷之四 怪石生ㇾ雲
怪石生ㇾ雲
富田(とだ)越後入道日源は、實は山崎氏にして、江州佐々木承禎(じやうてい)の支族なり。故ありて當國の祖君利家公に仕へ、山崎六左衞門と名乘りて、「末森後卷(すゑもりごまき)」の時分も手柄を顯はし、夫より每度戰功ありて、其後富田治部左衞門の聟になり、姓名を改め次第に登用せられて越後守となり、一萬三千五百石を領し、七手の旗頭(はたがしら)の内なり。殊に中條流の奧儀を極め、其名世に轟き、術(じゆつ)萬人の上に出で、天下無双と呼ばれて、公方家光公の台覽(たいらん)に入りしとかや。
[やぶちゃん注:「富田越後入道日源」これは冨田重政(とだしげまさ 永禄七(一五六四)年~寛永二(一六二五)年)のこと。ウィキの「冨田重政」によれば(下線太字は私が附した)、『戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。富田景政の婿養子。子は冨田重家、冨田重康、冨田宗高。官位は越後守』。『通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊』(おおい)。『前田利家の家臣として仕え』、天正一一(一五八三)年の『能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから』、『利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした』。『小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から』、一万三千六百七十石の『所領を与えられた。その後』、『老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居している。しかし利常に従って』、慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」にも『参戦し』、十九人の『敵兵の首級を挙げるという武功を立てた』。『戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた』とある。ただ、「日源」は不審。「加能郷土辞彙」のこちらの彼の記載によれば、法号は「日惠」である。姻族に当たる戦国時代の中条流の剣豪冨田勢源(とだせいげん 生没年不詳)との混同しているものかも知れない。冨田勢源は後に出るが、ウィキの「富田勢源」によれば、戦国時代の剣豪で、名は五郎左衛門。剃髪してから「勢源」と号し、冨田五郎左衛門入道勢源とも呼ばれる。『大橋勘解由左衛門高能より中条流を学んだ、越前朝倉氏の家臣、冨田九郎左衛門長家(生没年不詳)の子、冨田治部左衛門景家の長子』で、『中条流(後に冨田流とも呼ばれる)の遣い手』。『義理の甥に「名人越後」と称された富田重政、弟子に一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師である鐘捲自斎(富田景政の弟子との説もある)、東軍流の流祖・川崎鑰之助等がいる』。『朝倉氏に仕えたが、眼病を患ったため剃髪し、家督を弟の冨田治部左衛門景政に譲った』。『美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓していたおり、神道流の達人、梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃で倒した話は有名である』とある。以下、ここに出る剣士連中は、皆、ただものではない。というわけで、最後にちょびっと出る剣豪らと何の関係もない、如何にも痩せたしょぼい怪異箇条のために、この長大な枕の剣豪を注するという労多くして益少なきことを、今日丸一日かけることとなってしまった。最後までお読みになれば、愚かな私のボヤきの意味がお判り戴けるものとは存ずる。
「佐々木承禎」戦国から安土桃山時代にかけての武将で守護大名(近江国守護)にして六角氏第十五代当主六角義賢(大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)のことであろう。六角氏は宇多源氏の佐々木氏流で、剃髪後は承禎(じょうてい)と号しているからである。また、六角氏の有力な家臣の一人に山崎賢家(かたいえ)がいるが、近江山崎氏は宇多源氏佐々木氏の支族の一つであり、源頼朝が佐々木憲家を近江国犬上郡山崎の地頭に任じたのが山崎を称した始まりとされ、彼は六角義賢より偏諱を受けて賢家を称しているので、この流れであると考えてよかろう。
「末森後卷」「末森の戦い」の異名。天正一二(一五八四)年九月、越中の佐々成政が軍勢を率いて能登の末森城を攻め、末森城は守勢となり、一報を受けた前田利家が金沢を急発、海岸線を進んで末森城に入り、成政軍を撃退した戦い。利家が援軍として、末森城を攻める佐々軍の背後から参戦して勝利した戦いで「末森後詰」(ごづめ)とも称される。この戦いは、翌天正十三年にまで続く二年に亙った利家と成政との争いの一部であった。詳しくは参照した玉川図書館近世史料館のパンフ「末森の戦いと加賀の山城」(PDF)を読まれたい。
「富田治部左衞門」富田景政(とだかげまさ 大永四(一五二四)年~文禄二(一五九三)年)は戦国武将。治部左衛門は通称。ウィキの「富田景政」によれば、『富田景家の三男で、眼病を患っ』て『剃髪した兄・富田勢源より家督を譲られた。はじめ越前朝倉氏に仕えていたが、その没落後は前田利家に仕え、後に七尾城の守将となる。賤ヶ岳の戦いで子の景勝が戦死すると、同じく朝倉氏に仕えていた山崎景邦より養子を迎えた。この養子が後に「名人越後」と称される富田重政である』。『弟子には一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師となる鐘捲自斎(富田勢源の弟子との説もある)がいる。また豊臣秀吉の甥である秀次に剣術を指南した』とある。
「中條流」「關氏の心魔」で既出既注。
「台覽」皇族や高貴な人が対面すること。]
又、其門人に山崎左近・長谷川宗喜(むねのぶ)・印牧月齋(いんまきぐわつさい)とて、世に勝れたる妙手あり。是を「富田の三家」と云ふ。關白秀次公の時、宗喜と疋田文五郞と兵法の勝負ありて、世に名高き人なり。
[やぶちゃん注:「山崎左近」(生没年未詳)は織豊時代の剣術家。富田重政の兄(弟とも)。父山崎景邦に中条流を学び、富田流三家の一つ山崎流(中条山崎流)の祖となった。朝倉氏、後に前田利家に仕えた。名は景成。通称は五郎右衛門。
「長谷川宗喜」(生没年未詳)織豊時代の剣術家。富田九郎左衛門に学び、富田流を究める。後に長谷川流を起こし、関白豊臣秀次に指南した。一説に富田景政の門下とする。通称は宗右衛門。
「印牧月齋」「月齋」は「自齋」の誤り(筆写者による判読の誤りと思われる)。織豊時代の剣術家鐘捲自斎(かねまきじざい 生没年未詳)。ウィキの「鐘捲自斎」によれば、『鐘捲流剣術の開祖』で、『一刀流剣術の伊東一刀斎の師とされる。出身地は不明だが、越前(福井県)の名家』であった印牧氏の出ではないかとされている。『鐘捲自斎通家は外他(とだ)姓を持ち、越前朝倉氏の剣術指南で、富田流の名人富田治部左衛門(富田景政)の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。この頃、外田(戸田)一刀斎と名乗ったこともあるという』。『自斎の弟子には、前原弥五郎がおり』、『「一刀斎」の名跡を譲り受け、以後、伊東一刀斎と名乗』って『「一刀流剣術」を興したとされる。自斎は伊東一刀斎に奥義「高上極意五点」を伝えた。また伊東は、外田一刀斎を名乗っており、両者は同一人とする説もある。これは、伊東一刀斎の高弟といわれる古藤田』(ことうだ)『勘解由左衛門(古藤田俊直)が、自流を外他一刀流と名乗っていることと、自斎も一時自流を鐘捲外他流と名乗ったことが根拠とされる。他の弟子に、佐々木小次郎がいるとされる』。『道統は米沢の中村氏家が継承し、仙台藩の藩主護衛の役を負った』とある。
「疋田文五郞」兵法家疋田景兼(ひきたかげとも 天文六(一五三七)年?~慶長一〇(一六〇五)年?)。姓は「侏田」「引田」「挽田」とも表記。ウィキの「疋田景兼」によれば、『上泉信綱(上泉伊勢守)の直弟子で新陰流の兵法家。後世、疋田陰流剣術や新陰疋田流槍術の祖とされた。信綱の甥とも伝えられる。通称は豊五郎(ぶんごろう、文五郎、分五郎とも書く)。号は小伯(虎伯とも書く)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)と号した』。『加賀国石川郡に、上泉信綱の姉を母に生まれたと伝えられている。信綱に剣術を学ぶ傍ら、赤城山で剣術の修行に打ち込む信綱の生活の世話をしたと伝えられる。信綱に従って長野氏に属し、武田氏や北条氏との戦で活躍する。長野業盛が自害して長野氏が滅亡すると、武者修行に出た信綱に同行し』、永禄六(一五六三)年には、当時、『畿内随一との評判が高かった柳生宗厳』(むねとし/むねよし)『と信綱の代わりに立ち会い』、三『度とも全て勝ったと伝えられているが、これが記されているのは江戸時代の文献であり、尾張柳生家の伝承では信綱自身が立ち会ったとされ、また、鈴木意伯(神後伊豆守)が立ち会ったと記す文献もある』。『いずれにせよ、この敗北で宗厳は己の未熟さを悟り』、『即座に信綱に弟子入りしたという』。『柳生の里で信綱と別れ、単身』、『諸国を巡り』、『修行を続け、その間、織田信忠、豊臣秀次、黒田長政などに兵法を指南した。景兼は立会いの際「その構えは悪しうござる」と声をかけてから打ち込んでいた逸話を遺す。また』、『徳川家康の前でも演武したが、家康はその剣技を「匹夫の剣」と評して入門せず、柳生宗厳に入門したという逸話もあるが、これは柳生家を持ち上げるために後世創作されたものとも言われている。なぜならば』、『徳川家康は奥山休賀斎(奥平久賀斎とも)に新陰流の流れをくむ神影流を師事していたことがあるため、新陰四天王に数えられる景兼を酷評する必要はなく、景兼が織田信忠や豊臣秀次へ指南していたことから遠ざけられたことを含めて』、『柳生流を持ち上げたものとおもわれる』とする。また、『上泉信綱以外の兵法家にも師事したことが知られ、新当流雲林院松軒宛ての起請文が残っているほか、景兼が発行したと伝わる伝書によると、念流を学んでいたことがわかる』。『のち、丹後の細川氏に仕えたが』、文禄四(一五九五)年に『禄を返上し』、『剃髪、栖雲斎と号して再び』六『年間の廻国修行を行った。その際、柳生家を訪れ、柳生宗厳の嫡男、新次郎厳勝あてに口伝を遺していることから、晩年に至るも柳生家との関係は深いものであったことが伺える』。『廻国の後は小倉で細川氏に再び仕え、その後は肥前国唐津藩に一時仕官したとも言われ、最期は大坂城で客死したとも伝えられるが、史実は不明である』とある。]
此山崎左近に三子あり。小右衞門・内匠(たくみ)・次郞兵衞と云ふ。次郞兵衞は慶長五年大聖寺陣の節に、一騎當千の勇を顯しけり。
[やぶちゃん注:「慶長五年大聖寺陣」慶長五(一六〇〇)年八月三日、「北陸の関ヶ原」と言われた「大聖寺城の戦い」。「砥藏の靈風」の私の注を参照。]
抑(そもそも)中條流の濫觴は、昔相州山田地福寺に僧慈恩と云ふ者、摩利支天に通夜せるを、檀越(だんをつ)中條兵庫之助受傳へて、甲斐豐前守に傳へ、大橋勘解由左太夫より、富田九郞右衞門・治部左衞門に至る。是に二子あり。兄五郞右衞門は眼病に依りて、江州一乘寺村に閑居し、薙髮(ちはつ)して勢源と云、諸國武者修行し、世に名高き人なり。其弟治郞左衞門、家督を繼いで、甚だ妙手なり。秀吉公の師範となる。是に女子二人ありて男子なし。依りて門弟山崎六左衞門を以て嫡女に嫁し、家を繼がしむ。是則(これすなはち)越後守なり。此人加州に仕へて、大守の寵恩淺からず。本城大手の城戶際に居所を下されたり。今云ふ「越後屋敷」は是なり。
[やぶちゃん注:「相州山田地福寺」不詳。或いは神奈川県足柄上郡大井町篠窪の臨済宗地福寺(グーグル・マップ・データ)か。ここの南方部は嘗ては相州小田原山田村であった。但し、次注も参照。
「慈恩」中条流開祖とされる中条長秀の師である、南北朝から室町にかけての禅僧にして剣客であった念阿弥慈恩(ねんあみ/ねんなみ 正平五/観応元(一三五〇)年~?)のことであろう。ウィキの「念阿弥慈恩」によれば、『剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。俗名、相馬四郎、諱は義元。法名、奥山慈恩または念阿上人』。『奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉忠重の子。弟に赤松三首座がいる。父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が』五『歳の時に殺され、乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した』。七『歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積み』、十『歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったとい』。十六『歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。さらに』正平二三/応安元(一三六八)年五月、『筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得した。このとき』十八『歳。京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう』。『念阿弥は還俗して相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと』、『再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。この』後、『諸国を巡って剣法を教え、晩年の』応永一五(一四〇八)年、『信州波合村(後の浪合村、現阿智村浪合)に長福寺を建立、念大和尚と称した』。『長福寺のあった麻利支天山(現念流山)の中腹には、江戸時代に樋口定雄』(馬庭念流十六世。十郎右衛門)『が建てた念大和尚の石碑が残る』とある。前の「相州山田地福寺」と、奥州相馬の生まれで俗名も相馬であること、相州藤沢の遊行寺で修行したこと、相州鎌倉の寿福寺の僧から「秘伝を授かった」とすること、信州であるが、そこの長福寺や「麻利支天山」の悉く一致は偶然ではないわけであって、どうも前の「相州山田地福寺」というのが正確なのかどうか、甚だ疑問な気がしてきた。そこで調べてみると、太田尚充氏の「津軽弘前藩の武芸(5)――資料紹介――」(PDFでダウン・ロード可能)に載る「富田(とだ)流劔術濫觴拾書」(写本)の冒頭に(原文のまま引用。漢字の誤りは写本原本自身の誤りである)、
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富田流擊劔濫觴
夫レ本朝撃銅ノ術ハ、京八流関七流ノ餘派諸家ノ京師各一銅劔ヲ称ス中ニ於テ、中條ノ一流アリ。後世當田[やぶちゃん注:富田(とだ)の誤り。]流ト称ス。
其ノ始源ヲ尋ヌルニ、文亀年間、相州鎌倉地福寺ノ住僧玆音ナルモノアリ。身浮屠[やぶちゃん注:「ふと」。僧侶。]タリトイへドモ、其ノ性擊劔ヲ好ミ、日向州鵜戸[やぶちゃん注:「うど」。]ノ神社ニ詣り、左側ノ洞中ニ在リテ百日ヲ限リ剣術ノ精妙ヲ得ン事ヲ祈ル。限日ノ夜、其ノ神夢中ニ托シテ妙術ノ口決[やぶちゃん注:「くけつ」。]ヲ得ルコトヲ感得ス。是レヨリ万術ノ士ト数々其ノ伎ヲ試ミルニ、靡然トシテ下風ニ立ツ。然レドモ身浮屠タルヲ以テ謾リニ[やぶちゃん注:「みだりに」。]説カズ、其ノ器ヲ得テ授ケント欲スル事多年ナリ。
玆ニ同府ノ士、中條兵庫ノ助ト云ヒル[やぶちゃん注:ママ。]アリ。即チ同寺ノ檀越タリ。一時玆音和尚、中條ニ謂テ曰ク、小僧浮屠タリト雖モ、性甚ダ剣鎗ノ術ヲ好ミ、前年ノ神に祈リテ靈感ヲ得テヨリ、竊カニ武人ノ此ノ術長ゼル者ト鬪試ヲナス事数回、未ダ曽テ一次モ敗ヲ取ラズ。実ニ神妙ノ奇術ナリ。小僧此ノ伎ヲ以テ武人ニ授ケント欲スル事多年、未ダ其ノ器ヲ得ズ。徒ラニ是レヲ秘スルノミ。今君ヲ見ルニ、篤実ノ君子ニシテ真ニ英雄ノ器タリ。願ワクハ吾ガ術ヲ授ケント欲ス。何如(イカ)ント云。
中條此ノ事ヲ聞キ深ク喜ンデ拝謝シ、弟子ノ礼ヲ取リテ学ビ、遂ニ其ノ奥旨ヲ得テ精妙ニ至ル。玆音命ジテ武伎場ヲ建造シ、生徒ヲ集メテ其ノ術ヲ授ケシメ、中保流ト号ス。
門生ノ中、甲斐豊後守直則、傑出シテ其ノ精妙ヲ得タリ。
直則ガ門下、大橋勘解由左衛門某、端的ヲ得テ四世トナル。
時ニ越前浅倉侯ノ部下、同國宇坂ノ荘一乗浄寺邑[やぶちゃん注:「むら」。]ノ人民富田九郎左詠衛門某、大橋ニ随テ学ブコト多年、其ノ術ノ妙ヲ尽シテ神ニ入リ、竟ニ其ノ宗ヲ得テ中條五世ノ師タリ。[やぶちゃん注:以下略。]
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以上の内、僧の名を「玆音」(「しおん」或いは「じおん」であろう)とするが、太田氏は以上の本文に続く後注⑷で、『本書の最後の伝系では「慈音和尚」とある、『武藝小傳』にも慈音とある。前記『増補武芸小傳』で「念仏阿弥慈恩の疑問」という項で、この人物について検討している』とあり、本篇の表記「慈恩」も出る。さても以上を見る限りでは、本篇の「相州山田地福寺」というのは「相州鎌倉寿福寺」の誤りである可能性が高いことが判った。なお、以上の「拾書」は、ここに記された以下の伝授者とも、よく一致する。
「摩利支天」「關氏の心魔」で既出既注。
「檀越(だんをつ)」檀家。もとはサンスクリット語「ダナ・パティ」(施主)の漢音写で「寺や僧に布施をする信者」の意。
「中條兵庫之助」南北朝時代の兵法家で三河挙母(ころも)城主中条長秀(?~至徳元(一三八四)年?)。ウィキの「中条長秀」によれば、中条流平法(誤字ではない)の『創始者であり、室町幕府で伊賀守護職、恩賞方、寺社造営奉行、評定衆などを歴任した』。『足利義満の剣術指南役を務めた剣豪としても知られる』。『足利尊氏に従って鎌倉幕府を滅ぼし、武功を立てた中条景長の次男』。建武元(一三三四)年に『兄の時長が奥州に所領を得て移住したため』、文和三(一三五四)年、『父の跡を継いで挙母城主となった』。『念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人とな』り、『後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている』。『中条流では』、
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「平法とは平の字たひらか又はひとしと讀んで夢想劍に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以つて第一とする也。戰を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此手(このて)にほこらば命を捨(すつ)る本(もと)たるべし。」(「中条流平法口決」より)
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として、「兵法」と言わず、「平法」と呼ぶのだそうである。『歌人、頓阿の高弟としても知られており、長秀の歌は新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集などの勅撰和歌集に撰ばれている』。『中条流流祖として知られているが、武芸者らしい逸話は伝わっていない。室町幕府の評定衆などをつとめ、また、歌人として生涯を過ごした』とある。
「甲斐豐前守」越前守護で斯波氏の老臣筆頭であった甲斐豊前守直則。詳細事蹟不詳。
「大橋勘解由左太夫」大橋勘解由左衛門高能(惟房)。詳細事蹟不詳。
「富田九郞右衞門」先の太田尚充氏の「津軽弘前藩の武芸(5)――資料紹介――」の前文電子化の後注⒂で、
《引用開始》
⒂ 富田九郎左衛門。『本朝武芸小傳』『新撰武術流祖録』『日本中興武術系譜略』『撃剣叢談』(何れも『新編武街叢書』所収。既出)では富田九郎右詣門としている。しかし『増補武藝小伝』では「『中条流流系図』の九郎左衛門長家とあるのが正しい」としている。
本書では富田九郎左衛門を「中条五世ノ師」としているが、『新撰武術流祖録』では富田家祖、『撃剣叢談』では「初めて富田流を唱ふ」としている。
《引用終了》
とある。
「江州一乘寺村」前と同じく、の太田氏の注⒁に、『越前国宇坂ノ荘一乗教寺。福井県足羽郡足羽町一乗谷字浄教寺』と訂正注をされておられる。則ち、本篇の「江州」は誤りなのである。そして、ここは現在、福井県福井市浄教寺町(グーグル・マップ・データ)である。
「越後屋敷」現在の新丸広場g(グーグル・マップ・データ)にあった。後、藩主が江戸に出向いている際にはここで加賀八家などの重臣たちが寄り集って政務を進めた場所でもあったという。]
庭中に怪しき石あり、其形三尺許なり。色黑くして、いかなる炎夏の晴天にも、人ありて此石に觸るゝ時は、晴天須臾(しゆゆ)に曇るといへり。何故といふ事を知らず。今は此石城内に續きたれば、試る事能はず。誠に雲根(うんこん)なるものか。漢宮(かんぐう)の石鯨(せきげい)、風雨に鱗甲(りんかう)を動かしけん。皆石の妙にこそ。
[やぶちゃん注:「雲根」古代中国より雲は高山の岩石の吐く息であると考えた。
「漢宮の石鯨」唐の長安城西数キロメートルのこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に前漢の武帝が紀元前百二十年に雲南昆明の滇池(てんち)を模して造成させた約十平方キロメートルに及ぶ人工池昆明池があった。水軍の西南諸国討伐の際の訓練用とされるが、実際には皇帝の贅沢な園遊用のものだったようだ。牽牛と織女の石像が特に知られ、鯨を模した石像もあった。杜甫の詩などにも詠まれてあるが、唐末期になると廃池となり、田圃化が進んで、現存はしない。]
越中の川普請の時、神通川の間に夜な夜な鳴きし石あり。
[やぶちゃん注:「神通川」ここ。後に公害病イタイイタイ病で知られるようになったあの川である。]
又石立(いしだて)村の石は、此根(このね)能州の寺口ヘ出て猪の牙の如くわだかまれりと云ふ。
[やぶちゃん注:加賀石川郡石立村は現在の石川県白山市石立町で、「石の木塚」として石柱が残る。奇体な人工物であり、鎌倉時代には既にそこにあったとされる(リンクのサイド・パネルの説明板の画像を読まれたい)。藤島秀隆氏の論文「浦島伝説異聞――近世加賀の石の木由来の伝承をめぐって――」(PDFでダウン・ロード可能)が非常に面白い本伝承を伝えている。そこには加賀藩第二代藩主前田利常が人夫に命じて掘らせたてみたが、石の根を掘り起こすことが出来ず、伝承ではその石の根は遠く能登半島の南部の鹿島郡の石動山(いするぎやま)或いは竜宮城にまで続いていると伝えるのである。そこでも引かれている「石川県石川郡誌」の「第二十四章 笠間村」の「名蹟」の「石の木」を読まれたいが、ここの竜宮伝承では、驚くべきことに、ここの太郎に相当する男は乙姫との間に五人の子までもうけたというのだ! その後この世に戻って亡くなったが、その父を慕った五人の子が太郎を弔うために建てたのがこの五本の石の柱だというのだ! ああっ! なんだか無性に行って見たくなってしまった!!!!! なお、この「石の木塚」は本「三州奇談」の後編巻二の「藤塚の獺祭」にもより詳しく登場するので、これくらいにしておく。
「寺口」現在の石動山附近(石川県七尾市)を探ってみたが、見当たらない。]
下相野領の内に笠石あり。
[やぶちゃん注:「下相野領」加賀藩の飛び地も調べたが、不明。]
宮腰道(みやこしだう)に龜石あり。世人「大石」と云ふ。年々米一粒だけ海へよると云ふ。今は碎けたり。
[やぶちゃん注:「宮腰道」の「宮腰」は現在の金沢市金石(かないわ)地区(グーグル・マップ・データで示したのは現在金石本町であるが、旧宮腰(金石)地区は図上の特に北部分をも広汎に広く含んでいることが地名で判る)。金沢市北西部に位置しており、犀川河口右岸一帯に当たり、日本海に面した加賀藩の外港として非常に重要な地位を占めていたから、ここと金沢城を結ぶルートを指す。]
五ケ山根の尾村領の内に立石あり。廻り十四五丈にして、高さ二三十丈、人上る事能はず。雪溪を突くが如し。奇石の天下第一とせる物なり。
[やぶちゃん注:「五ケ山根の尾村領」五箇山(現在の富山県の南西端の南砺市の旧の平村・上平村・利賀村を合わせた地域)は元禄三(一六九〇)年から加賀藩の正式な流刑地となっているが、この村名は不詳。但し、これはその石の特徴から現在の南砺市上松尾にある天柱石のことと推定出来る。風景写真家高橋智裕氏のブログ「H i Bi no A T O」の「富山県五箇山エリアの不思議な巨石」の写真がよい。現在の信頼出来そうなデータによれば、高さは三十二メートル、周囲七十五メートルとされる。
「十四五丈」四十二~四十五・四四メートル。
「二三十丈」六十・五~九十一メートル弱。高さは誇張も甚だしい。]
一日、金澤の古金店に石臺(いしだい)に載せたる石、雲氣立(たち)し事あり。好事(かうず)の者高價に買得(かひえ)たりしに、石の下に守宮(やもり)一疋出でたり。石再び雲氣なし。雲氣是によりたるか。
[やぶちゃん注:「古金店」古物商であろうが、読み不詳。
「守宮(やもり)」中国の本草学ではヤモリ(爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科Gekkonidaeのヤモリ類)は龍蛇類として捉えられ、さすれば、雲や雨を自在に操る能力があると考えられていた節があるから、これは腑に落ちる。でもね、そのヤモリはもともと古金店のヤモリだと思うけどね。私の家にだって二十年以上、何世代にも亙ってイモリ一族が反映しているもの。]
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