三州奇談卷之三 犀橋の爪木
犀橋の爪木
犀川(さいがは)は金城の南に流れて、其源は倉谷山(くらたにやま)・見定(けんじやう)・日尾池(ひをいけ)の三方(さんはう)等(など)の谷々より出づ。爰に菊ケ潭あり。水上に「奧の九藏」と云ふ千尺の瀧ありて、近く内川(うちかは)の水を合して、凡(およそ)見る所十六里流れ下る。水淸く魚多し。時ありて洪水あり。人は云ふ、
「昔、鈴木氏の人、此流にて犀を切り得たり、故に名付く」
と云ふ。又
「犀今に住む」
とも云ふ。
[やぶちゃん注:表題の「爪木」は「つまぎ」と読み、木っ端・木切れのこと。
「倉谷山」犀川は源流を飛騨山脈北アルプス南部の槍ヶ岳(標高三千百八十メートル)を源とするが、ここは加賀での犀川の上流部に当たる、石川県金沢市倉谷町(くらたにまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の山塊を指していよう。同地区には倉谷鉱山跡があるが、ウィキの「倉谷鉱山」によれば(下線太字は私が附した)、『犀川上流の支流倉谷川西岸の山中にある。昭和中期まであった倉谷集落からは南方にあたり、成ヶ峰』(標高千五十五・八メートル)『の東斜面にあたる。ただし』、『これは明治時代の位置であり、藩政期にはさらに鉱区が拡がっていた可能性があ』り、また『藩政期には「倉谷山」または「倉谷かね山」と呼ばれていた。本鉱山は犀川最上流部に位置するため、今日では山間奥地の行き止まり感が強いが、かつては倉谷集落から、いわゆる塩硝街道』『沿いのブナオ峠や中河内(なかのこうち)集落等に通ずる道があり』、『鉄道・自動車発達前の明治期以前は、越中との交易ルートとして機能していたと考えられる』とある。
「見定」金沢市見定町(けんじょうまち)。倉谷町の北西。
「日尾池」サイト「ヤマレコ」のこのページで確認出来る。犀川ダムの北方にピーク上(吉次山の南東)にある。金沢市日尾町内か。
「菊ケ潭」不詳。思うに、以下の注の菊水町という地名から、現在内川ダムになっている辺りにあった可能性はないか?【2020年3月5日追記】いつものT氏より情報を戴いた。「菊ケ潭」は「石川県石川郡誌」の「第四十六章 犀川村」(国立国会図書館デジタルコレクション)の以下の「菊ケ谷」の条に引かれてある「加賀地誌略」の引用に出る「白菊潭」で、T氏は「やはり現在は犀川ダムに沈んだと思われる」とのことであった。
*
○菊ケ谷。二又にあり。是は倉谷鑛山跡の西谷といふ所へ行く道の小谷なり。この谷の菊花のこと、土屋義休の水源記には、花小さく黄色なり。金澤へ移し植置けば、翌年は生せずといへり。
〔加賀地誌略〕
二又川の上流に白菊潭と名つる處あり。潭上菊を生じ、其花白く單瓣にして甚美ならざれども、芳香常異なり。花露滴注するにより又菊水川と稱す。
*
しかし、そこで今一度、地図を確かめて見たところ、現在の倉岡鉱山跡の西方に、犀川ダムに流れ込む「二又川」が現存している。現在の航空写真を見ると、この二又川は東へ回り込んで「上流」がかなりある。犀川ダムはこの二又川が犀川上流と合流する附近であったと推定されるから、そこは「二又川の上流」ではなく、下流なのではないかと私は思った(但し、犀川上流が既に古くは二又川の異名を持っていた場合はこの淵はダムに沈んだでもよい)。しかし例えば、医王山県立自然公園の南にも現行の「二又川」はしっかり延びており、そこには「尾滝」という滝もある。滝があれば淵がある可能性がある。或いは、今も人知れず、「菊ケ潭」=「白菊潭」はどこかにあるのかも知れない……と思いたくもなった……
また、T氏は「加賀地誌略」(国立国会図書館デジタルコレクション)の犀川の記載を紹介して下さり、そこには、
*
犀川ハ、倉谷三峯ヨリ潑する倉谷川ト、千條平ヨリ出ヅル二又川ノ二水相會シテ、諸溪ヲ集メ、末村ニ至リテ、内川ヲ合セ金澤市街ノ西南ヲ貫キ、[やぶちゃん注:以下略。]
*
とあることが判った。スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)で見ると、やはり二又川の倉谷川合流地点は現在の犀川ダムの最上流部と合致する(現在の国土地理院図。ピーク「742.8」が一致)。されば、或いは幻の「菊ケ潭」「白菊潭」のロマンは残されているのかも知れない……
「奧の九藏」不詳。同前。
「内川」金沢市の無住地区である菊水町で東谷川と西ノ谷川が合流して内川となる。内川ダムより下流域の中戸町・山川町境で犀川と合流する。
「鈴木氏」不詳。
「此流にて犀を切り得たり、故に名付く」この妖獣捕獲伝承・棲息伝承はどうも現在では死に絶えているようである。ウィキの「犀川」には、『佐奇神社(さきじんじゃ)』(河口近くのここ)『の近くを流れる事から佐奇川となり訛って「さいがわ」になったとされている』とある。別に神話における「征川」由来ともする。]
寬文八年七月四日大雨して、所々ともに洪水なりし。
[やぶちゃん注:「寬文八年七月四日」一六六八年八月十一日。但し、どうも資料が錯雑している。「加能郷土辞彙」の「犀川」では、『寬永八年六月』に最大規模の洪水があり、『溺死八十餘人』とする。しかし、高木勇夫氏の論文「明治以前日本水害史年表」(『慶応義塾大学日吉紀要』・二〇〇四年発行・PDFでダウン・ロード可能)を見るに、やはり寛文八年である。但し、百二十三戸流出で七十人溺死とある。同年六月はグレゴリオ暦で七月初旬から八月初旬に相当する。]
其頃、岩田傳左衞門と云ふ人、常に神明宮を信じ、取分け宿願とて日頃は每日參籠せしが、此日も大雨を厭はず神明に詣で、神主多田河内の許(もと)に談話せしに、人々騷ぎて、
「洪水岸をひたし、大橋も危し」
と告げければ、
「橋落ちなば明日の役所を缺くなるべし」
と、取物(とるもの)も取りあへず、馬上にて橋に臨まれしに、川水岸に溢れ、逆浪すさまじく、暴風又雨を打て凌ぎ難し。行人も脚を留めて兩邊に群り集りたるを、剛氣の傳左衞門少しも擬儀せず、馬を橋の上へ乘懸けたれば、從者十人許り續いて登る。
是を見て、橋詰に留り居たりし者共、押續いて渡りけるが、悲むべし此時に河上より屛風を立てる如く大浪來(きたり)て、
「大橋に打當るよ」
と見へしが、さしもの大橋浮倒(うきたふ)れて、橋板散り碎けて押流せば、橋の上なる人々手を取合せ、板に取付きなどして叫びけれども終に甲斐なく、逆卷く浪に沈沒するぞむざんなる。
岩田傳左衞門は馬上ながら心中に大神宮を祈誓し、手綱を短く引よせて、
「板若(も)し覆らば馬を泳がせん」
と、頭を川下に引向けて待ちけるに、乘りたりける四五枚續きたる橋板に、往來の伊勢參り一人と、傳左衞門馬上ながらのせて遙かに流れ行きける。兩邊の人々
「あれよあれよ」
と云ふうちに、大豆田川原と云ふ平瀨に留まり、只据ゑたる如きぞ不審なる。
其中に近邊より救ひ舟を出(いだ)し、終に無ㇾ恙(つつがなく)助かりける。
伊勢參りは出羽國の者にて、笠に御祓を戴きしが、大勢のうち只一人助かりける。
「誠に神明の加護いちじるし」
と、見聞く人、感嘆せざるはなし。
此時、岩田が從者を初め、八十四人迄溺れ死しける。
[やぶちゃん注:「岩田傳左衞門」「加能郷土辞彙」のこちらに出る「岩田盛弘」の後裔であろう。『通稱傳左衞門』とあり、これが本文の後に出る「祖父傳左衞門盛弘」である。その前の岩田盛照は同じ通称だが、隠居年から彼ではない。その記載からは彼の父『岩田傳左衞門盛裕』がこの人物であろうと踏んだのだが、最後のこの岩田伝衛門には子が「二人あり。兄の安信に千石、弟四郞兵衞に五百石分けて相續なり。兄の安信又加增して、其子安賴相續しけり。今度橋の上の難を遁れしは、此傳左衞門安賴なり」とあるので、合わない。しかしこの岩田家の一人であることはまず間違いはない。
「神明宮」金沢市野町の犀川左岸(現在の犀川大橋の南詰の直近)にある。「石川県神社庁」の解説に、『金沢旧五社の一で、古来』、『神明宮と称し、全国七神明、又は三神明の一と云われ、通称は、お神明(しんめい)さん。加賀の大社として、歴代藩主、庶民の信仰厚く、祓宮(はらいのみや)として知られ』るとある。
「神主多田河内」不詳。現在の宮司は多田姓ではない。
「擬儀せず」ことさらに事大主義になって恰好をつけて威儀を正したりはせずに自然体で、の謂いか。
「頭を川下に引向けて待ちけるに、乘りたりける四五枚續きたる橋板に、往來の伊勢參り一人と、傳左衞門馬上ながらのせて遙かに流れ行きける」凄い!!! 岩田はサーフボードのように橋板の切れ端に騎馬で悠々と乗っているのだ!!
「大豆田川原」(おほまめたがはら)と読んでおく。現存しないが、シチュエーションからこの辺りではなかろうか。【2020年3月5日追記】T氏より情報を戴いた。「大日本地誌大系」の第二十八巻の「三州地理志稿卷之四 加賀國第四」の「石川郡」の「十三村屬富樫庄」に、『大豆田』と出、『マメタ』(「タ」は字にカスレがあるが、前後から判断出来る)とルビする。従ってここは「まめたがはら」と読んでおくこととする。但し、現在、金沢市大豆田本町があり、それは「まめだほんまち」と濁音である。]
扨此岩田が祖父傳左衞門盛弘は、慶長五年「淺井啜手の役」に、岩田は太田但馬が手にありて、松平久兵衞・水越縫殿之助(ぬひどのすけ)と名を等うし、手柄あり。大納言利長卿より則(すなはち)千石を給はり、其後、同十九年「大坂の役」に旗奉行を勤め、
「進退節(せつ)に當れり」
とて、中納言利常公より五百石の加增を給はり、名を内藏之助と改め、宅地を金澤惣構(そうがまへ)の藪のうちに給はりしが、此屋敷、往古よりの化物屋敷と云ふ傳ふ。されば每夜大入道出で、内藏之助と組合ふとぞ聞えし。
國主利常公、聞し召して、山田半右衞門といへる射術の達者に命じて窺はせらるゝに、中々手に合ひ兼しかば、
「岩田と云ふさしもの者どもなるに、若(もし)怪我(けが)ありてはいかゞ」
と思召し、岩田が屋敷を御用のある由にて取上給ひ、替地を下されけるに、岩田腹を立て、
「我を臆病者と思召すやらん、此上は奉公しても詮なし」
とて、頓(やが)て立退きげれば、利常公殊に惜(をし)ませ給ひ、大勢追手をかけ給ひけれども、早く路をくらまして江戶に行き、松平下野守へ五千石に有付きけれども、當國へ御聞合(おききあはせ)有りしに、「御構(おかまひ)」候て是非なく、越後堀丹後守にかこはれ居けるが、丹後病死の後、内藏助又江戶へ出で、歸參の義を願ひ、先知にて正保二年の春、本國へ戾り住む。其子二人あり。兄の安信に千石、弟四郞兵衞に五百石分けて相續なり。兄の安信又加增して、其子安賴相續しけり。今度(このたび)橋の上の難を遁れしは、此傳左衞門安賴なり。
[やぶちゃん注:「慶長五年」一六〇〇年。
「淺井啜手の役」北陸地方に於ける前田利長(東軍・後の加賀藩初代藩主)と丹羽長重(西軍)の戦い。「三湖の秋月で既出既注。その「淺井畷手」の私の注を参照されたい。
「太田但馬」前田家の古参家臣で家中に於ける元は反徳川派の中心人物であった大聖寺城主太田長知。慶長五(一六〇〇)年に利長の「大聖寺攻め」に従い、帰途、この浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍(しんがり)を勤めて奮戦したが、同七(一六〇二)年、利長の命を受けた横山長知に殺害された。なお、この謀殺はその真相が今もよく判らないらしい。個人サイト「歴史の迷い道」のこちらに、実に興味深い伝承と考察が示されてある。脱線だが、是非、読まれんことをお勧めする。
「松平久兵衞」松平康定。戦国武将で後に加賀藩前田家家臣となった。松平大弐家の祖。三河国伊保城主松平康元の次男。
「水越縫殿之助」やはり「三湖の秋月で既出既注。「水越縫殿」の私の注及びその前の注等を見られたい。
「山田半右衞門」寛永四(一六二七)年の加賀藩「侍帳」に百石取りで名が出る。
『同十九年「大坂の役」』「大坂冬の陣」。一六一四年。
「進退節に當れり」戦場に於ける攻めと退き際を心得ていることを褒めたのであろう。
「中納言利常」加賀藩二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)。「大坂夏の陣」では家康から岡山口(四條畷市)の先鋒を命ぜられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍の秀忠の軍勢が置かれた。
「惣構」城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、堀の城側に土を盛り上げて造った土居(どい)などの防御施設のこと。
「松平下野守」不詳。以下の岩田の帰藩年と齟齬するか、しっくりくる「松平下野守」がいない。
「越後堀丹後守」【2020年3月5日改稿】越後安田藩(村松藩)初代藩主で直寄系支流堀家初代の堀直時(元和二(一六一六)年~寛永二〇(一六四三)年)であろう。ウィキの「堀直時」によれば、『信濃飯山藩主・堀直寄の次男として生まれ』、寛永一六(一六三九)年、『父の死去に際し』、三『万石を分与されて大名となり、安田藩を立藩した』。寛永一九(一六四二年)、『甥の直定が早世して本家の村上藩が断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎに擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年』十二『月、従五位下、丹後守に叙任する』も、翌年、享年二十八の若さで亡くなったとある。彼ならば、「丹後守」で、岩田の規歸藩年との齟齬が小さい。【同日追加】T氏より直時の父堀直寄(天正五(一五七七)年~寛永一六(一六三九)年)とする見解を戴いた。私も当初、同じ丹後守である彼を考えたのだが、直寄の没年と岩田の帰藩との六年のタイム・ラグが気になってかくしたのであったが、T氏からは、『堀直時を小生が外したのは、大阪の陣の後の誕生で』あることで、『武辺がウリの「岩田」が頼り、「越後堀丹後守にかこはれ居ける」という「堀丹後守」は同じ戦場に臨んだ「堀直寄」と思ってい』るからで、『「堀直寄」 没後、「堀直時」に厄介になったであろうことは否定しません。(居心地は段々悪くなったでしょう。)』とメールを戴き、「なるほど!」と膝を打ったものである。
「先知」以前の知行地・知行高のことであろう。
「正保二年」一六四五年。]