早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 五 鹿皮のタツヽケ
五 鹿皮のタツヽケ
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿皮のタツヽケ」。]
鹿の角が忽ち家々から消えて了つたのも、實は角買が盛に入込んで、買つて行つたのが、最も大きな原因だつた。
[やぶちゃん注:「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。]
或家では、以前狩人だつたにも依るが、主人が昔風を改め得ない性分も手傳つて、もう何處の家にも無くなつてから、軒や土間の隅に幾本も吊してあつた。事實さうしてあれば、何彼[やぶちゃん注:「なにか」。]につけて都合もよかつたさうである。
それが近頃になつて、角買が目をつけ出した。賣れ賣れと執こく[やぶちゃん注:「しつこく」、]責めるのに、遂に斷り切れなくなつて、若主人が全部引外して、纏めて賣つてしまつた。家中を探し集めたら、十七八本もあつたさうである。その金で先祖代々の位牌を拵へたと言うた。鹿の角が無くなつても、格別不自由はせなんだが、只簔などの置場が無くなつて、埒もなく其處[やぶちゃん注:「そこいら」。]へ丸めたり載せて置いたりして、始末が惡くなつたさうである。
角と共に、鹿が村へ殘して行つたとも言へる物に、鹿の皮のタツヽケがあつた。秋から冬にかけて村々を步けば、白い皮のタツヽケを穿いた男を時折見た。麥畑に耕作して居たり、山から薪を負つて出て來たりした。多くはタツヽケと同じやうな、老人であつた。畑などに穿いて出ると、忽ち皮の色が汚れてしまつたが、一日山を步いて來れば、木の枝や茨で洗濯されて、眞白になつたさうである。
家々を尋ねて廻つたら、どの家も同じやうに、以前はあつたがもう無いと言ふ。老人が死んでから、久しく物置に投げ込んで奥内、いつか蟲が附いて居たのに、慌てゝ谷へ捨てたのもあつた。ボロと一緖に棒手振などに賣つたのもあつた。女達が少しづゝ剪つて、針止めや針山を作り作りする内、紐ばかりになつたのもあつた。よくよく丹念な心掛の善い家か、老人でもある家の外は、無くなつて居たのである。律義者で通つた或老人は、親類への年始廻りに、必ず著けて來たと言ふ。
[やぶちゃん注:「棒手振」「ぼてぶり」。商品を天秤棒で担いだりして売り歩いた商人。近距離で小規模の行商であるが、山村では何でも屋的な仲介者として民の売買に係わった。]
以前はタツヽケ屋と言ふ專門の職人が、時折回つ來たさうであるが、多くは大鹿を獲つた每に狩人自身が拵へたものである。何でも以前のタツヽケは、鹿が二頭なくては、作れぬとも言うた。前に言うた、鳳來寺三禰宜の一人だつた平澤某は、作るに妙を得て居て、方々から賴まれたものと言うた。そのタツヽケを、未だ大切に藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家もあつた。
[やぶちゃん注:「鳳來寺三禰宜猪」「十六 手負猪に追はれて」を参照。]
いろいろの話を總合すると、鹿皮のタツヽケを狩人が着けたのは、餘り古くは無かつた。以前は物持などでない限り、滅多に着けなんだ。狩人が、山で雨に遇つた時など、慌てゝ脫脫いで丸めたと言ふからは、よくよく大切な狩衣であつたのである。
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