早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 六 村の變遷と猪
六 村の變遷と猪
誰しもさう言うた事であるが、近頃の猪は以前のワチ[やぶちゃん注:既出既注。]オトシアナ時代から較べると、悧巧になつたばかりでなく、性質も惡くなつたと言ふ。惡くなつたと言ふのは、畢竟性質が單純でなく成つた事である。僅かな物の響にも、變つた物の香にも、恐れて近づかなかつた筈の猪が、忽ちそれ等に馴れて平氣になる事であつた。さうかと思ふと、次第に出沒が巧妙になつて、一夜の間に十里十五里の山の奧國から、峯傳ひ窪傳ひに風のやうに渡つて來て、その夜の中に再び元の棲家へ還つてしまふと信じられた。猪が出たと聞いて、附近の山を搜したのでは、もう遲いとは、現に狩人が言うてゐた。
軒端に積んだ稻束を襲ひ、屋敷廻りの甘藷[やぶちゃん注:「いも」。]穴を掘返すなどは、五十年前を考へれば何の珍しい事でも無かつたが、當時と比べると、猪の本據であつた筈の山がひどく明るくなつた後だつたゞけに、猪が猜るく[やぶちゃん注:「ずるく」。]なつたやうに考へられたのである。今一ツの理由は、一頃盛に木が伐られた時に、殆ど跡を絕つた事實もあつたので、その後出る猪は、別物のやうにも考へられたのである。
山の姿が以前と較べてひどく變つた事は、自分などの記憶から判斷しても、著しいものがあつた。屋敷の裏手の杉木立へ入れば、一丈もある齒朶[やぶちゃん注:「しだ」。]の茂みが續いて、 筧[やぶちゃん注:「かけひ」。]の徑[やぶちゃん注:「こみち」。]に覆さつた奇怪な恰好の杉の古木には(これをヂヤンカと呼んでゐた)、每年木鼠が巢喰つたのでも想像される。前の畑のクロには、夕方になると畑中を影にするやうな榎の大木があつた。屋敷内にあつた榧[やぶちゃん注:「かや」。]の大木の根元は、近づく事も出來ないほど、蔓草類が絡み合つてゐた。表の端に迄枝がカブさりかゝつた處は、その木一ツでも、充分山村の風趣があつた。これ等は自分の家だけについてゞあるが、村全體を見渡しても、山を分けて家が在つた感があつたのである。
[やぶちゃん注:「ヂヤンカ」小学館「日本国語大辞典」の「じゃんこ」に、第一に方言として『曲がりくねった老木や切り株』として採集地を新潟県中頸城郡妙高高原とする。語源は不詳であるが、この方言は「醜い天然痘の痘痕(あばた)」をも意味するので、それに由来するものかも知れない。改訂本では早川氏は『古木(じやんか)』と漢字を当ててひらがな表記にしておられる(なお、そこでは本篇の標題を「猪と文化」に変更してある)。
「木鼠」リスの異名。]
猪が好んで出た山田の畔續きの草場(くさんば)柴山には、きまつて合歓木[やぶちゃん注:「ねむのき」。]が遺してあつて、それが相當古木になつてゐた。夏分[やぶちゃん注:「なつぶん」。夏時分。]など濃い綠の草生の中から、白い木肌が立並んで、あの紅色の美しい花の咲く時などは、山の美しさ以上、果しない山の深さがあつた。草場ヘ合歓木を立てる事は、草のために宜い[やぶちゃん注:「よい」。]と言傳へてゐたのであつたが、今ではそんな事を信じる者は無かつた。何でも日蔭が惡いとして、片端から伐つてしまつた。齒朶の茂みは下苅の度に淺くなり、萱場ボローは切開いて、猪の立寄る影は殆ど無かつた筈である。況して[やぶちゃん注:「まして」。]昔は同じやうに出沒した鹿や山犬は、とくに姿を匿してしまつて、夜でも汽車の笛を聞くやうな處へ、出て來る猪の氣が知れなかつたのである。
[やぶちゃん注:「萱場ボロー」前部は「草場」に合わせて「かやんば」と読んでおく。「ボロー」は小学館「日本国語大辞典」の「ぼろ」に方言として『雑木の茂み。やぶ』(静岡県・愛知県宝飯(ほい)郡)及び『草むら』(大分市)とある。語源は未詳だが、或いは「襤褸(ぼろ)」とか物が散る「ほろほろ」辺りからの成語か。長音は「ろ」の母音の変化としてよかろう。]
猪除けの案山子にしても、追ふ方法でも、雜然とした如何にも心無い遣方であつたが、實はもう居なくなる筈だに、未だか未だかで、一日延ばしに日を送つてゐたせいもあつた。
別に說を爲す者は、深山の御料林等が伐採される度に、其處を追はれた猪が、迷ひ出るとも謂うた。或はその邊の消息は事實であつたかも知れぬ。現に鳳來寺御料林が拂下げになつた年には、夥しい猪が出たさうである。
[やぶちゃん注:「未だか未だか」「まだかまだか」。この「未だ」を「まだ」と訓ずる用法から察すると、これ以外の「未だ」も「いまだ」ではなく「まだ」と読んでいる可能性が出てきはするが、早川氏がここ以外のそれを明確に「まだ」とルビを振っていない以上、断定は出来ないことを謂い添えておく。]