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2020/03/02

三州奇談卷之三 社地の蔓實

    社地の蔓實

 石川郡は東南白根の山々引並び、北西は荒海響きて、「越の高濱」とは此邊り成るべし。人皇十代四道將軍を定め、大彥命(おほひこのみこと)北陸道へ下向とは聞きしが、其跡は知らず。社記多くは長信連(ちやうののぶつら)を云ひ、木曾義仲の上洛を語る。顯然たる所は記するに及ばず。笠間村の八幡には義仲手取川を渡す鞭を納め、宮保村の八幡には、義仲の鐙(あぶみ)を寄付せりとなり。桃井鹿景が事は聞かず、只富樫が事跡のみなり。其外鞍が嶽の城は林六郞、倉光村は次郞成澄、同村「殿の内」と云ふは若林長門守が舊地とかや。又行町村(あるきまちむら)には鹽谷安藝守(ゑんやあきのかみ)等ありし。額乙丸(ぬかおとまる)村に「矢ふだの明神」とてあり。富樫氏崇敬の神なり。富樫政親高雄山に籠城の時、此神及び筑紫の宮と云を勸請す。是は富樫、京都將軍の命を蒙りて筑紫に出陣せし折から、宇佐八幡へ立願(りふぐわん)し密(ひそか)に約して立歸るに、翌年四月十七日に百姓の地主に夢想ありて、田の中に一夜に「あかめ」の木三本と紫竹三本生へ出たり。政親聞て大(おほき)に悅び、爰に宮殿を造立し、筑紫の宮と號し、石に書して百部の法華經を埋むと云ひて、今「經塚」とて經石數多(あまた)あり。

[やぶちゃん注:表題の「蔓實」は内容から見て「つる」と「み」で、「つる・み」と訓じておく。

「石川郡」旧郡。現在の金沢市の中心部が当郡に含まれる。江戸時代は総て加賀藩領。手取川以北で浅野川以南(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「人皇十代」崇神天皇。

「四道將軍」ウィキの「四道将軍」(古訓は「よつのみちのいくさのきみ」)によれば、「日本書紀」に『登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の』四『人を指』し、「日本書紀」によると、崇神天皇一〇(紀元前八八?)年に『それぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つように』、『と将軍の印綬を授けられ』翌年には『地方の敵を帰順させて凱旋したとされている』。但し、実在した最初の天皇と目される崇神天皇は、現在は三世紀から四世紀の『人物とされている』。「古事記」には、この四人を『それぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない』とある。

「大彥命」ウィキの「大彦命」によれば、第八代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)との間に生まれた第一皇子で、第十一代垂仁天皇の外祖父とする。『また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖』であるとある。「日本書紀」の崇神天皇十年九月九日の条に、『大彦命を北陸に派遣するとあり』、『その後、四道将軍らは』同年十月二十二日に出発、翌年四月二十八日に『平定を報告したという』。「古事記」では、『建波邇安王』(たけはにやすひこのみこと:武埴安彦命)『の鎮圧においては同様の説話を記す。一方、四道将軍としての』四『人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道』(こしどう:現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する広域名)『に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える』。なお、「新撰姓氏録」には、『崇神天皇の時に大彦命が蝦夷平定に向かった』という記載のあるとある。

「長信連」平安末から鎌倉前期にかけての武将で長(ちょう)氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。

「笠間村の八幡」石川県白山市笠間町にある笠間神社「石川県神社庁」公式サイトの同社の解説に主祭神の一柱に八幡大神を挙げ、『一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保』(みやぼ)『八幡神社』(笠間町の東北に接する宮保町(みやぼまち)のここ)『と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の云うべきを略して宮保村と云う。その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん』。『其昔寿永』二(一一八三)年、『木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う』とある。鞭はなさそうだが、井戸は現存するようである。

「宮ノ保村の八幡」前注参照。鐙は現存しないか。

「桃井鹿景」不詳。「加能郷土辞彙」に載る「モモノヰタダツネ 桃井直常」か、その親族の「モノノヰヨシツナ 桃井義綱」辺りか。

「富樫」富樫政親。既出既注

「鞍が嶽の城」倉ヶ岳城。既出既注

「林六郞」サイト「城郭放浪記」の「加賀・鞍ヶ嶽城」に、『木曽義仲に従って平氏と戦った林六郎光明が在城していたとも伝えられる』とある。また「白山市文化財探訪MAP」に「六郎塚(六郎杉)」があり(地図はクリックで表示)、『源平の戦いで木曽義仲に加勢し』、『活躍した林六郎光明の墳墓と伝えられ、塚にある老杉は「六郎杉」と呼ばれています。林光明は』十二『世紀末頃、北加賀で最も勢力を有した武士団の棟梁で、横江荘の所領を白山本宮へ寄進したとされ、白山比咩神社には伝林光明寄進の黒漆螺鈿鞍(重要文化財)が残されています。また白山市知気寺町や野々市市中林等に林氏の館跡伝承地があります』とある。

「倉光村」「加能郷土辞彙」の「倉光」を見ると、『石川郡中村鄕に屬する部所。寳永誌に、この村領に殿之内と稱して、若林長門の居跡がある記す』とあり、白山市倉光がそれか。

「次郞成澄」「平家物語」にも登場する、加賀の住人で木曽義仲の家臣であった倉光三郎成澄(?~寿永二(一一八三)年)。倉敷の「水島の戦い」で瀬尾兼康に騙し討ちにされた。

『同村「殿の内」』現在は確認出来ない。

「若林長門守」加賀一向一揆方の武将で小松城の造営(天正四(一五七六)年)者。

「行町村」白山市行町(あるきまち)附近。

「鹽谷安藝守」「石川県神社庁」の行町にある高田神社の解説に『創立は明らかではないが、行町に塩谷安芸守というものが住み、当社を尊信して社殿を造営したと言われる』とある。

「額乙丸村」金沢市額乙丸町。石川県石川郡には額谷・大額・額新保などの「額」の字を付した地名が多く、中世からあった。

「矢ふだの明神」同地区に限ると現在、額西神社しかない。「石川県石川郡誌」の額西神社の解説には「藪田明神」という別称が載るから、「やぶた」或いは「やぶだ」であろう。

「富樫政親高雄山に籠城の時」既出既注

「富樫、京都將軍の命を蒙りて筑紫に出陣せし折」「翌年四月十七日」年不詳。

「あかめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra。。若葉は紅色を帯びて美しい。「かなめがし」「かなめのき」「あかめもち」「あかめのき」「そばのき」などの異名が多い。

「紫竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連マダケ属クロチク Phyllostachys nigra。]

 久安(ひさやす)村には富樫の稻荷あり。富樫と云ふも此邊(このあたり)の一在所にして、今は野々市・今村と云ふ。泉村に續いて藏地となる。然るに元文年中、此泉野の領の中出町有松と云ふ所に、爰(ここ)の氏神とて八幡宮を勸請す。彼筑紫の宮なり。此境内尤も廣く、諸樹枝を交へ、誠に神さびて、人も上古の淳朴に歸るかと心澄みわたれり。いつの年の秋よりか、前々曾てなかりし山のいものつる多く生ひ出で、宮地の木每にまとひ渡りて、恰も碧蘿藤蘿(へきらとうら)の千尋の松に懸るが如し。而してぬかご[やぶちゃん注:「むかご」(零余子)のこと。]の多き事いくばくと云ふ事を知らず。近村の賤民爰にこぞり是を求(もとむ)るに、少き者は三斗五斗、多き者は二石三石を取得たり。後には町よりも聞傳へた程に、殆んど數十石に及ぶといへども、終に取盡すことなし。誠に前代未聞の珍事なり。

[やぶちゃん注:「久安村」金沢市久安。西直近は既に野々市市である。

「富樫の稻荷」久安にあって稲荷に関わり、富樫絡みであるのは、一社ある御馬(みうま)神社である。「石川県神社庁」の同社の解説に、『当社は延喜式内の古社にあてられ、歴朝の崇敬篤く、長享』二(一四八八)年、『富樫泰高は久安に下屋敷を営み』、『御馬稲荷を勧請す。社僧天道院代々奉仕し、天正年間』(一五七三年~一五九三年)『尾山に移る時、同形の神体を作り分霊の上、浅野川稲荷神社を創立』(金沢市並木町のここ)したとある。

「富樫と云ふも此邊(このあたり)の一在所」金沢市側に富樫の地名が残る

「今村」不詳。現在の金沢市・野々市市にはこの地名はない。但し、前後の地区名からして、現在の金沢市の以下の泉を含む地域に連なる地名と考えざるを得ない。本文は「野々市・今村」と言っているのであるが、この前後部分の地名はその殆どが現在の野々市ではなく、東に接する金沢市内のそれだからである。

「泉村」富樫の北に金沢市泉が丘、その北西に弥生を挟んで泉が、そこから西へ向かって泉本町・西泉、さらに伏見川を挟んで米泉町の地名を認める(後に出すスタンフォード大学の「國土地理院圖」も参照されたい)。

「藏地」「蔵入り地」のことであろう。領主の直轄地で、年貢米・諸役 ・産物を直接領主の蔵に納めたことによる。

「元文年中」一七三六年~一七四一年。

「泉野の領の中」の「出町有松」というのは、スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)を見ると、現在の富樫の東にある金沢市泉野出町が大きく「泉野出町」として大きな集落を中心に示されてあって、富樫附近を挟んで北西に「有松」地区を認める。現在の有松も広いが、旧「國土地理院圖」で「有松」とある位置は現在の有松地区の東北端に当たる有松交差点であることが読み取れる。

「爰(ここ)の氏神とて八幡宮を勸請す。彼筑紫の宮なり」不詳。現在の有松には貴船神社しかない。「石川県神社庁」の解説によれば、『社の祭神はあらたかな水の神様で昔から有松の地に火災が無かったと言い伝えられています。古書によれば「富樫氏の一族有松氏が当地に居住し、有松教景の代に邸内に貴船明神を祀り、尊信す、これ今の有松貴船神社なり」とある』とするので、富樫氏支族絡みではある。そこには八幡神を並祀するとは書かれていなかったのだが、話の展開から、どれほどの大きさかと、試しに貴船神社をグーグル・ストリートビューで見たところが、「合祀 八幡神社」の石柱を確認出来た。

「碧蘿藤蘿」緑なす蔦(つた)や藤蔓(ふじづる)。

「ぬかご」「むかご」(零余子・珠芽)のこと。ウィキの「むかご」によれば、植物の栄養繁殖器官の一つで、養分を貯えて肥大化した脇芽(わきめ)部分のこと。主として地上部に生じるものを指し、葉腋や花序に形成され、離脱後、『新たな植物体となる。葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)『など、後者はヤマノイモ科』(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)『などに見られる。両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる。いずれにせよ根茎の形になる』。『ヤマノイモなどで栽培に利用される』が、『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般にはヤマノイモ』(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica。所謂「じねんじょ(自然薯)」「山芋」のこと)『・ナガイモ』(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya)『など』の食用の『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。

「三斗五斗」一斗=十升=十八リットル=ポリ・タンク一杯分相当。

「二石三石」一石=十斗=百八十リットル=家庭用浴槽一杯分相当。]

 或時、大勢競ひ來り、ぬかごを爭ひ取けるに、忽ち社壇の中鳴動して暴風暴雨刹那に起り、雲は鍋墨の如くあたまの上に覆ひ懸り、雨は石礫(いしづぶて)の如く吹付しかば、里民大(おほき)に畏怖して、逃散る人々辛うじて家に歸る。

 明日(あくるひ)申の刻[やぶちゃん注:午後四時頃。]に至りて、漸々(やうやう)風納(をさま)り雨やみて、天日初(はじめ)て麗はしかりき。是何の故ぞと云ふ事を知らず。

 其後(そののち)彼(かの)宮居に行きて見るに、いまだ多かりしと見えし「ぬかご」一ツもなく、只つるのみいたづらに色付きて、松の常磐(ときは)もさながらに三室(みむろ)の山の紅葉と見かはすばかり枯果(かれはて)ぬ。

[やぶちゃん注:最後の部分は知られた「百人一首」六十九番で知られる能因法師の、

   永承四年内裏歌合によめる

 あらし吹くみ室の山の紅葉(もみぢ)ばは

    龍田(たつた)の川の錦なりけり

(「後拾遺和歌集」の「巻第五 秋下」。三六六番)に洒落たもの。永承四年は一〇四九年。「み室」「山」は現在の奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)の紅葉や時雨の名所とされる「神奈備山(かむなびやま)」(「かむなび」は「神のまします」の意)。「龍田」「川」はその東麓を南流する。]

 怪しかりし。其後は再びつるも生ひ出ず。最(もつとも)不審晴やらず。

「彼(かの)草鞋大王(とひがみだいわう)の取肴(しゆかう)にてや有けん」

と、一笑する事にぞありし。

[やぶちゃん注:「草鞋大王」「敷地の馬塚」に既出既注。そこでの国書刊行会本と「近世奇談全集」のルビから読みは推定して示した。そのまま「わらぢだいわう(わらじだいおう)」と読んでよく、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。

「取肴」総てがこうなっている。「酒肴」に「取って」酒の「肴(さかな)」にしたという諧謔を洒落たものであろう。]

 一日(いちじつ)木滑(きなめり)と云ふ所の人來り、是を聞きて云ひけるは、

「我里の社地にもかゝる事侍りし。或年不斗(ふと)大きなる蔓(つる)出來(いでき)て花開く。先(まづ)凌霄(のうぜん)とは見えけれども、紫色なる所多く、花の色(いろ)油(あぶら)ありて、日に向ひて光る。中々見事なることにてありし程に、金澤より詰めらるゝ關守の役人にも告げて、

『不思議の事』

と云ふうちに、古老の山人(さんじん)【風嵐(かざらし)と云ふに五里計(ばかり)奧の人なり】來合せて、此花を見て曰く、

『必ず是にさはるべからず。是は蟒蛇(うはばみ)の化したる物なり』

と云ひし。或日風雲暴雨一兩日も續きしに、此蔓草枯れ、根もなくなりて見えざりし」

と云ふ。かゝる事もあるにこそ。いかなる變化(へんげ)の物ならんや。古社の地は數間のせばきなりとも、猥(みだ)りにあなどるべからず事にこそ。

[やぶちゃん注:「木滑」白山市木滑(きなめり)がある。

「五里」現在途中に手取川ダムによって、長い手取湖が出来ているが、ここが渓谷だったころを想定して実測してみたところ、有に二十キロメートルは確かにある。

「凌霄」落葉性蔓性木本ノシソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora。夏から秋にかけ橙色或いは赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出し、樹木や壁などの他物に付着して蔓を伸ばす。中国原であるが、平安時代には既に日本に渡来していたと考えられている。漢名「凌霄花」は「霄(そら)を凌(しの)ぐ花」の意で、高いところに攀じ登ることに由来する。ここでは紫を呈するのを異常としているが、現在の品種の中には紫色のものもある。

「風嵐」国書刊行会本は『カサラシ』とカタカナで記す。石川県白山市白峰の奥である。スタンフォード大学の「國土地理院圖」の「經ヶ岳」「白峯」では南でぎりぎりで切れており見れない)の北(上部中央)端に「風嵐」とあり、これは「かざらし」と読む。優れたサイト「村影弥太郎の集落紀行」のこちらをご覧あれ(それによれば昭和五四(一九七九)年度から集団移住が決定されて集落自体は消えている)。グーグル・マップ・データ(航空写真)ではここに「風嵐谷川」が流れ、渓流釣りが行われていることで名が残っていることが判る。

「數間」一間は一・八二メートル。これが正しく現在の貴船神社だとするなら、現在の同神社の間口は二十三メートル以上はある。]

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