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2020/03/25

三州奇談卷之四 異類守ㇾ信

 

     異類守ㇾ信

 長(ちやう)氏長谷部家は、信連(のぶつら)より連綿として、連龍の武名北國に高く、今、加州公の家臣として三萬三千石所領也なり。此家の事、別書に委しければ略す。但此家、別家に變りし事多し。第一放鷹を禁ず。是又故ありとぞ。其上(そのかみ)信連戰場(いくさば)にて途(みち)に迷ひ粮(らう)盡たりし時、野狐來て路を敎へ、終に食を求めて功を立られし謂れとて、今も長の家には狐を養ひ、五口の扶持を當て日每に喰はしむ。故に是を勤(つとむ)る奴僕もあり。

[やぶちゃん注:「長氏長谷部家」「信連」既出既注。能登の地頭であった長谷部信連(?~建保六(一二一八)年)。ウィキの「長谷部信連」によれば、右馬允長谷部為連の子で長氏の祖。『人となりは胆勇あり、滝口』の武士として『常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年に『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」に拠る)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』。間違ってはいけないのは長谷部氏が本来の姓で、長氏はその後裔が名乗ったものであることである。

「連龍」長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった。ウィキの「長連龍」によれば、『主家・畠山家の滅亡の後に、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯』四十一『回の合戦に参加して勇名を馳せた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 延享[やぶちゃん注:一七四四年~一七四八年。徳川吉宗・家重の治世。]の頃、祕藏の鶉(うづら)を喰殺せし事あり。

「定めて狐の所爲ならん」

と、殊更に主人腹立して、五口の食を取揚げられしに、翌日狐の老(おい)たる者一疋出て、一つの若狐を嚙殺して是を捧げ、庭にうづくまりで罪を待つ者の如し。

 主人此躰(てい)を見て、

「今は赦すべし」

とありしに、首をさげながら退き去(さり)しとかや。狐は靈獸なり。和漢に其ためしを聞くことも多し。さもあるべきことなり。

[やぶちゃん注:「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウィキの「ウズラ」によれば、『家禽化は日本発祥のもので家禽ウズラの飼養は』六百『年前にまでさかのぼ』り、古くは食用(焼き鳥や卵の利用)としたが、『日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされ』、「言継卿記」に『記述があ』り、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されたとされる』。『その吉兆の声で士気を高めるため、籠に入れた飼育状態のまま、戦場に持ち込まれたこともあった』。また、『中世には武士階級の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が盛んにおこなわれた』。『おおむね桃山時代にはじまり』、『特に江戸時代には都市部では飼育がブームとなり』、『大正時代まで行われた』。最盛期は慶長から寛永年間(一五九六年~一六四五年)或いは明和から安永年間(一七六四年~一七八一年)とされる。『江戸時代には財産のある武士や商人は』、『良き鶉を高値で売買し、飼育の籠に金銀螺鈿の蒔絵細工を施し、高価な木材と高度な技術を追求したような贅沢な逸品を競い求めた。鶉合わせには多数の庶民も見物に集まり、関脇・大関などいわゆる『番付表』によるランキングも発表された。これにより飼育ブームはますます過熱し贅沢も追及され、幕府による取締りも行われた』。『明治時代にも各地で鳴き声を競う催しが頻繁に開かれたが、この起源となったナキウズラ』(学名不詳)『は絶滅してしまった』とある。]

 彥三町(ひこそまち)に大野仁兵衞と云ふ人あり。寶曆巳六月半(なかば)炎暑を苦しみて、宵の程は端居して冷風を待ちけるが、深更になりければ、寢所に入りて休みけるに、若黨あはただしく次の間へ參り、

「伺ふべき事あり」

といふ。呼入れて子細を尋ぬれば、

「私只今怪しき夢を見侍る。今日の暮私部屋の梱(かうり)[やぶちゃん注:「行李」に同じい。]の上に蜈蚣(むかで)あり。大(おほい)さ尺にも過ぎぬべし。是を捕へてかたく紙に包み、庭に捨たり。然るに只今夢中に衣冠の人來り告(つげ)て曰く、

『我は多聞天の眷屬也。今日天王の勅を蒙り、諸方に使(つかひ)する所、ふと君が爲に縛られたり。若(もし)爰(ここ)にせずとも、數刻延引に及ばゝ、公命罪遁るべからず。されば使命を速にするを以て譽れとす。何卒今日のとらはれを解いて放ち給へ。明日は必(かならず)爰に來(きたつ)て罪を請(こひ)けん』

と云ふと見て夢覺めたり。餘り怪しく存じ告げ申すなり」

といへば、大野氏もをかしく思ひながら、

「左樣の覺もあらば、急ぎ其蜈蚣を尋ねて放ち遣すべし」

と云ひて、又休みける。

[やぶちゃん注:「彥三町」金沢市彦三町(ひこそまち。グーグル・マップ・データ)。

「大野仁兵衞」不詳。加賀藩士に大野姓は複数いる。

「寶曆巳六月半(なかば)」宝暦十一年辛巳(かのとみ)は一七六一年。この年の旧暦六月中旬はグレゴリオ暦の七月中旬に一致する。

「多聞天」天部の武神毘沙門天。持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数える際には多聞天として表わされる。毘沙門天の使者としては虎が知られるが、本来は百足ともされる。サイト「神使像めぐり」の福田博通氏の「毘沙門天の百足(むかで)」を見られたい。多数のムカデを描いたケースが画像で見られる。]

 翌日、主從共に事に取紛るゝにより思ひも出(いだ)さず過ぎぬ。夕暮方彼(かの)若黨、又あはたゞしく來り、

「放ちしむかで又來(きた)れり。急ぎ見給へ」

と云ふに、誠しからざれども[やぶちゃん注:本当のこととは信じようもなかったが。]、立出で是を見るに、何樣(いかさま)普通に越えたる蜈蚣の、棚の上に蟠(わだかま)り居て、實(げ)にも刑を待つけしきにて、少しも動かず。

 主人初めて驚嘆し、

「纔(わづか)に小蟲といへども、能く信を守り再び來るこそ怪しけれ。誠に靈妙なり。放と遣すべし」

と捨てさせしとなり。

 又香林坊(かうりんばう)の下に矢田(やた)養安と云ふ醫師ありしに、此庭に見事なる楓の大木ありて、春は所々より寄接(よせつ)ぎとて、鉢植などを賴來(たのみきた)り、樹上にゆはへて接木(つぎき)にして遣はしけり。此所(このところ)は惣構(さうかまへ)の藪の邊(ほと)りにして、蝙蝠の殊の外多き所なり。

[やぶちゃん注:「香林坊」金沢市香林坊(グーグル・マップ・データ)。江戸時代より商人町として栄えた。

「矢田養安」「加賀藩史料」の「泰雲公年譜」に名が載る。また、「加能郷土辞彙」に矢田(やた)良桂という加賀藩外科医(百五十石)が載り(享保元(一七一六)年没)、『子孫周傳・養安・周伯』・『恒之等相繼いだ』とある。]

 或日大名方より接木を賴まれし程に、殊更に念を入れ、枝の上六尺許高(たかき)に接(つぎ)置きしに、一二日の内に大きなる蝙蝠飛來りて、此枝に

「ぶらり」

と下りしに、枝痛みて接目ゆるみ見えければ、大きに驚き、几(つくえ)を立て、夕暮の闇紛(やみまぎ)れながら、竹箒(たけばうき)を以て

「はた」

と打ちければ、蝙蝠は庭に落ちけるを、重(かさね)て打殺さんと振上げしが、

『思へば是のみにも限らず』

[やぶちゃん注:『緩んだのは、この蝙蝠だけのせいとは限るまい』。]

と思ひ、落したる蝙蝠の羽を持ちて引提げ、

「汝よく聞べし。接木は大名家より預りたれば、我(われ)命にかへて守る所なり。汝他の枝に下(さが)る時は、何の害かあらん。此鉢木の枝は接目甚だ危し。汝が徒(と)是に下る時は、幾度にても命を取り、遂には殘らず網して取り盡すべし。かまへて能く辨(わきま)へよ」

と宣命して放ち返しける。

 我ながら一笑して臥しけるに、其翌日より多くの蝙蝠來(きた)るとも、接木に留(と)まる事なし。初の程は

『何條(なんでふ)さはあるまじ』

[やぶちゃん注:『いくら何でも先の命令を守っているわけはあるまい』。]

と思ひしに、後々數萬の蝙蝠來(きた)る時も、他の枝に下りて終に寄接(よせつぎ)の枝に下(さがる)ことはなかりしと。

 自ら放されし螻蟻(ろうぎ)が、牢の土を掘りて恩を報ぜしことも諸書に見えたり。然らば微物(びぶつ)といへども、信有ること疑ひなし。今の人心是にしも恥ざるべけんや。

[やぶちゃん注:「螻蟻」ケラとアリ。彼らが「牢の土を掘りて恩を報ぜしことも諸書に見えたり」とはあり得そうな話ではあるが、私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

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