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2020/03/24

三州奇談卷之四 妙慶の諍論

 

    妙慶の諍論

 寺町妙慶寺は淨土宗の内にて、博識の住侶おはせしが、江州在原の正法院より爰へ入院ありし愍譽(みんによ)和尙は、わけて道學名高き人なりしが、元文五年の春の頃より疾病次第に重り、終に四月四日圓寂ありし。後住の事は遺言に任せて、先住の弟子喬純長老關東に在しを迎へんとて、兩塔頭養壽院、寶珠院、此義を檀那中へふれ廻し、頓て關東へも申遣しける。

[やぶちゃん注:「諍論」(じやうろん(じょうろん))は論争。

「寺町妙慶寺」現在の金沢市野町にある安養山妙慶寺。サイト「日本伝承大鑑」の「妙慶寺」に詳しいので参照されたい。地図もある。

「江州在原の正法院」現在の滋賀県高島市マキノ町在原(ありはら)にある歌学山正法院。地図を見ると判る通り、近くに伝在原業平の墓があり、地名は彼由来である。

「愍譽和尙」この名の浄土僧には福岡の浄土宗大圓寺の大仏を発願した人物がいる。大圓寺公式サイトのこちらに、『江戸時代の中期、大圓寺に第9代愍誉(ミンニョ)上人という方が在住して居られました。まだ子供のころによく遊んだ藤崎にある千眼寺の大きな仏像に感銘を受けて、そのころから大仏様造立の志を立てられたと伝えられています。第8代清誉上人によって得度された愍誉上人は、僧侶の道を歩かれるようになりました。地元での修行、江戸での遊学修行中も各地を巡しゃくして、大きな仏像がまつってあると聞けば必ず参詣されたと伝えられています』。『愍誉上人は、各地の寺院の住職を経て、やがて大圓寺の住職になられました』(リンク先ではそれを宝暦一四(一七六四)年と記す)。『住職になられてからは、いよいよ大仏様造立の志が固まっていったようです』とあって、以下、詳しい経緯が語られてあるのだが、残念ながらこの僧ではない。何故なら、本文では「元文五年」一七四〇年に「圓寂」したと明記するからである。当初、同じ浄土宗内で同じ上人号を持つ別人がいるというのは不審なので、何か錯誤か、名前の表記に誤りがあるのかも知れないとも思ったが、「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教」の「第十節 佛教」に「妙慶寺後住問題」があり(「ADAEAC」のこちらより引用)、

   *

元文五年淨土宗妙慶寺の後住問題に關して爭議あり。妙慶寺は常に宏徳の住する所なりしが、特に江州正法院より入りたる愍譽は、道學の聲名頗る高かりき。然るにこの年四月愍譽圓寂せしを以て、塔頭養壽院と寶珠院とはその遺言に從ひ、愍譽の門下にして現に關東に在りし喬純長老を迎へて後住たらしめんとせしが、檀頭松平外記彼等の意に從はず、先々住の徒弟にして江戸の傳通院に在りし卓印長老に書を與へて之を招けり。既にして卓印金澤に至りしに、豈計らんや後住の喬純に決したる後に在りき。卓印因りて養壽・寶珠二院を恨み、曾て外記より得たる書を添へて之を觸頭たる如來寺に出訴せり。是より兩黨相軋轢せしが、翌年に及び國老の裁斷により、喬純を佳職[やぶちゃん注:「住職」の誤字であろう。]とし、兩塔頭の主僧を退隱せしめ、檀那中の一二に轉寺を命じたりき。因りて寶珠院は去りて洛に赴き、養壽院は白山比咩神社に近き手取川の安久濤淵に投じて死せり。

   *

と記すので同名異人である。以上は本篇の内容をフライングしてしまうが、事実として確認するために敢えて載せた

「喬純長老」「きょうじゅん」(現代仮名遣)と読んでおく。前の引用に出るが、詳細事蹟不詳。

「養壽院」「寶珠院」個人ブログ『植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」』の「◇寺町寺院群巡り―17(完)浄安寺、妙慶寺、成学寺、常徳寺」妙慶寺の項に、『宗良親王(佛眼上人明心法親王)が、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に一の字の草庵を結び、仏門に入り安養山極楽寺と号したことに始まる。開山は、寂蓮社城誉円阿であり、もと越中射水郡牧野村安養山極楽寺の僧であった。天正十三年(1585)前田利家が越中国(富山県)の佐々成政と戦った時、松平康定は牧野村極楽寺を本陣にした。当時前田利家の家臣であった康定は佐々の敗北後は後の二代藩主利長の家臣となり、極楽寺を康定の菩提所としていた。康定が越中から金沢に移ったのに伴って、金沢へと寺を移した。当初、極楽寺は康定の屋敷内にあったが、康定の母・妙慶尼の菩提寺に取り立てられ、寺号も妙慶寺と改めて、元和元年(1615)、三代藩主・利常から現在地に寺領を拝領し、移った。その当時、末寺として成学寺、三光寺、弘願院と搭司として養寿院、宝珠院、慈願院があったが、搭司の各院は廃滅し、残りの寺院は現在は独立し、現存している』と説明版にあるとあり、両塔頭は現存しない。先の「石川県史」の引用も参照。そこでは塔頭住職を指している。]

 爰に又、松平外記は、先祖伯耆守以來此寺の檀頭(だんがしら)にて、殊に懇意なれば、其頃東部の傳通院(でんづうゐん)に卓印長老とて、先々住の弟子一人あり。事の序に書簡を送りて、

「和尙の病氣甚だ重く、殊に後住も貴僧なるべきに、御登りありて看病も候へかし」

と云遣はされけるにより、急ぎ走り歸りけれども、はや愍譽上人遷化ありて、

「後任は喬純」

と兩塔頭及び旦那中も評定あるよしを聞き、案に相違の色を顯はし、又關東へ越されしが、頭寺(かしらでら)如來寺・役僧攝取院などに此事を語り、

「我今度後住を望には非ず。唯末弟に越されん事の殘念なり。偏(ひとへ)に是は兩塔頭の仕業とこそは覺ゆれ」

とて、先に松平氏よりの書狀などみせて、以て外是ふくみ歸りける。

[やぶちゃん注:「松平外記」不詳。

「先祖伯耆守」戦国武将で後に加賀藩前田家家臣。松平大弐家の祖で三河国伊保城主松平康元の次男松平康定(?~元和六(一六二〇)年)。事蹟は「加能郷土辞彙」のこちらを見られたい。

「傳通院」東京都文京区小石川にある浄土宗無量山傳通院寿経寺

「卓印長老」事蹟不詳。

「如來寺」石川県金沢市小立野にある浄土宗竜宝山如来寺。加越能三国の触頭(ふれがしら)として栄えた。

「攝取院」如来寺の塔頭であったが、今は廃絶した。

「以て外是ふくみ歸りける」「以て外」と「是」れを「ふくみ」(=憤(ふつく)み)て「歸りける」。「憤む」は「恚む」とも書き、上代以来の古語で「腹を立てる・怒る」の意。]

 其後妙慶寺の住職彌々(いよいよ)

「喬純を願ふべし」

と一決しに、總錄如来寺より卓印長老の事以てさへぎられしかば、旦那中にも又夫(それ)に加担して事決せず。先住遺言にも、兩塔頭の私意交りたる由、風聞し、私欲の事に云ひなせし人もありし。終には公場(こうじやう)の詮議となり、奉行中(うち)評定決せず。翌年に至りて國老の捌(さばき)として、終に喬純に後住は定まるといへども、兩塔頭は退院仰渡され、旦那中にも野々市屋五右衞門初め誰彼寺替して事落着に及びけり。喬純は其頃關東に於いて博識の名あり。殊に戒行をこらし、聊(いささか)も世務を知らぬ道心とて、別して今度の入院心うく、再三辭退に及びぬれども、公評決定(こうひやうけつじやう)の上なれば、今更外(ほか)へは讓り難く、終に五月十七日住職の式を執行ひける。二人の塔頭はいつしか住馴し寺を出て、寶珠院は花洛へ赴き、養壽院は此程の風說、取捌きける人々にも無念の詞に逢けるを欝忿(うつふん)にや思ひけん、白山の神社へ詣でゝ法施奉り、神主に近附き、

「我願望あれば、當社に一七日(ひとなぬか)參籠致し度し」

と云ひけるに、

「此社は在俗の參詣は格別、僧尼の類(たぐひ)は古來より制禁なり」

とすげなく云けるにより、養壽院いかが思ひけん、終日社邊を立廻りしが、一念の忿怒を起して、終に麓なる「あくたが淵」と荒に身を投じ死しける。是元文五年五月二十五日なり。

[やぶちゃん注:「總錄」先の「頭寺」と同じであろう。触頭。

「あくたが淵」「加能郷土辞彙」に「アヲトノフチ 安久濤淵」とあり、『石川郡白山比咩神社はもと手取州安久濤の淵の上なる安久濤の森に鎭座した。その所を今古宮(フルミヤ)といふ。蓋し白山比咩神社は、創立の初からこゝに在つたので、神主家の傳說に、舟岡山から安久濤淵の上に遷り給うた如く言ふものは、何等の據がない。文明十二年十月社殿燒亡の後、三宮に遷座し、遂にそのまゝとなつた。元祿十三年[やぶちゃん注:一七〇〇年。]版行の草庵集に『神主や鱒わきばさむ岩の上 枝束』とあるは、安久濤淵あたりのことであらう』とある。ここ。]

 ふしぎや其夜川上[やぶちゃん注:国書刊行会本は『山川』とあり、その方がいい。]震動し、電光暴雨夥しかりしが、人皆云ふ、

「深淵より猛火の丸(まろ)かせなるものをどり上り、東方を指して飛行きし」

とぞ。此邊の取沙汰なり。

 卓印長老は東武傳通院にありて、妙慶寺の公事(くじ)相濟に付けても、二人の塔頭追院の事を聞き、

「我入院叶はず殘念ながら、塔頭兩人追院こそは、日頃の所爲顯れて斯(かく)こそありしものなれ」と、少しの念をはらしぬ」

と獨言してゐらるゝ所に、或夕暮方養壽院月代一寸許りも延して來りける。

「扨は行方なくて賴み來りぬならん」

と哀れに覺へければ、

「長途能こそ入來あれ、急ぎ是へ」

と招き、

「さてさてぬれたる姿かな」

と云ひしに、物をも云はず、

「きつ」

と卓印を白眼(にら)むかと見えしが、かき消すやうに失せにけり。

 夫より長老忽ち煩ひ付きて、七日の内に果られける。

 此旨同寮衆よりこまごまと書越(かきこ)されければ、金澤にも

「扨は養壽院が怨靈の業にこそ」

と、人々恐れける。

 其頃ふしぎなるは、寺社奉行伊藤氏急病にて死せしなり。斯くて此一事に懸れる人は、大かた同病の急死なりき。

[やぶちゃん注:この箇所、国書刊行会本では、『寺社奉行伊藤氏・山崎氏、又は如末寺和尙、程なく病死有(あり)し。又役僧摂取院も急病にて死せし也(なり)。都而(すべて)此一事にかゝれる人は、大方同病の急死成(なり)し』と詳述する。]

 伊藤氏などは、病中多く祈禱ありしに、檀上に異僧顯れ、供物・獨鈷(とつこ)の類(たぐひ)みぢんに投散らせりと聞ゆ。其外、妙慶寺の寺中にも此異僧あらはれ、障碍(しやうがい)度々なりし。門前珠數(じゆず)屋與兵衞など、

「度々此異僧に逢ひし」

と聞へたり。一朝寺へ見廻けるに、本堂と眠藏(めんざう)の間、一面に火起りて、一足も進み難し。然共、障子などへ燃え付くことなく、只炭火のごとし。二時(ふたとき)[やぶちゃん注:四時間。]許にて消えて本の如しとにや。されば喬純和尙は四五年にして隱居して、善導寺より後住招待ありしが、是又四五年にして隱居ありぬ。今宮腰海禪寺に居られぬ。或人海禪寺に詣で、因みに問ふ、

「妙慶寺在住の内、折々方丈より長(たけ)高き法師顯れ障(さはり)なすのよし家々に風聞せり。誠に候や」

と尋しに、和尙笑ひて、

「曾て其事なし」

と答へられし。されど事實に依りてにや、皆々早く隱居はありし。殊に此怪異は憚ること多くて書もらしぬ。

[やぶちゃん注:「寺社奉行伊藤氏」伊藤姓の寺社奉行は複数いるが、時代が合わないので、不詳。人持組に伊藤主馬家二千八百石がありはする。国書刊行会本の「山崎氏」も同じく不詳。寺社奉行就任のまま亡くなった山崎姓の人物は見当たらなかった。人持組に山崎庄兵衛家五千五百石がありはする。

「眠藏」「みんざう」と読んでもよい。本来は禅宗の用語で、 寺の中で寝所としたり、家具をしまっておいたりする部屋。寝室・納戸の類。眠堂(めんどう)とも呼ぶ。

「善導寺」加賀ならば、現在の石川県金沢市山の上町に浄土宗妙音山善導寺がある。

「宮腰海禪寺」金沢市金石北(かないわきた)にある浄土宗海禅寺

「殊に此怪異は憚ること多くて書もらしぬ」仏僧は怪異を本質的には実体としては認めないし、興味本位は勿論、寺院絡みの怪異譚を忌避する傾向が実は強い。そもそもが霊現象を好む仏者というのは真の僧とは言えないと私は思う。]

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